音を愛す君へ   作:tanuu

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第四十五音 小夜曲 Viewpoint from 希美

 大盛り上がりだった文化祭が終わる。学年の最優秀賞となったので、クラスは盛り上がっていた。友達と話していたら遅くなってしまったのを少しだけ後悔するくらい、雨が強い。

 

 戻って以来最初の演奏は、文化祭の演奏だった。合格基準は他の部員と全然変わらない。ブランクなんて許さないと言わんばかりに平気で指導の時は指摘が飛んでくる。他の子は全く気にすることないまま、その指示を受け入れていた。先輩も「はい!」と大きく返事をしていて、少し驚く。でもそれは嫌な感情なんかではなく。むしろ、吹奏楽部の一員として、戦力の一人としてしっかり指導対象に入れてくれたという証に思えて、嬉しかった。

 

 ちょっと予期せぬライバルがいたり、お化け屋敷で恥ずかしい姿を見せてしまったりと物凄い数の思い出メモリーの更新を経て、長かった一日は終わろうとしている。あんなに頑張って準備した文化祭も、終わってしまえばあっという間。それが少しだけ寂しい。またいつもの日常に戻っていくのは、昔からちょっと残念だった。

 

 彼と暗い廊下を話しながら歩いていると、お母さんからメッセージが来る。お父さんもお母さんも今日は家に戻れないらしい。そうなんだと思い、ふと気になる。私は鍵を持っていただろうか。

 

 慌てて色々探したけれど、無い。蘇るのは今朝の記憶。部屋に置きっぱなしにして出てきてしまった。

 

「なに、傘でも忘れた?」

「ち、違うけど……」

「それじゃあ、どうしたの?」

「鍵、忘れた。家に」

「え、どうやって出てきたの」

「家出る時はまだお母さんいたから、完全にド忘れしてた。普段家にいるからさ。入れない。どうしよう……」

「誰かの家に泊めて貰うしか無いんじゃない? みぞれとか中川とかの」

「今から急に押し掛けたら迷惑だよ……。それに相手の親にも悪いしさ。最悪どっかのホテルとか無いかな。料金後払いの」

「今日はどこも埋まってるんじゃない? こんな感じだし」

 

 風がドンドン強くなってる。移動するなら早くしないと、きっと飛ばされてしまうかもしれない。その時、彼は何かを思いついたような顔で私に提案してくれた。

 

「親の許可もいらない上に迷惑じゃない家、一軒だけ知ってるけど」

「え、どこ!?」

「私の家」

 

 その言葉に色々な想像が頭の中を駆け巡る。でももしかしたら、これは千載一遇のチャンスなのかもしれない。私のこの、初恋に毛が生えた程度の恋愛感情を加速させて、そして多分何も意識してくれてないだろう相手に少しでも存在を植え付ける。でも、それでも恥ずかしい。

 

「それで、どうする?」

 

 何でもないかのように言う声は、私の心を見透かしているようで。顔が赤くなるのを感じながら、私は小さい声で言った。

 

「よろしく、お願いします……」

 

 

 

 

 

 

 その後はお迎えに来てくれた車に乗った。乗り込むときに何も言わずに私が濡れないようにしてくれる。そういう仕草は果たして誰にでもやってることなんだろうか。自分は、一体彼の中で何番目の人間なんだろう。

 

 友達に優先順位があるのは当たり前。そう彼は優子に言ったらしい。じゃあ、自分はどうなのか。そんな少し意地悪な事を考えてしまう。きっと他の人よりは上の方にいるんだろうという、優越感にも似た何か。私は彼が思ってるほどきれいな存在じゃないだろう。

 

 そんな事を思っていたせいか、車内での会話はあんまり覚えていなかった。いつの間にか車窓は見たことある景色になって、そして相変わらず広い家に到着する。何回か訪れたことはあるけれど、目的が宿泊だったことは一度もない。この先どういう展開が待っているのか、自分でもよく分からないことに緊張していた。

 

「ただいま」

「今戻りました」

「お、お邪魔しま~す」

「はいはいお帰り。凄い雨で、ちょっと参っちゃう。月曜日はお休みってメール来たし。練習できない……先輩? え、何で先輩がここに?」

 

 トテトテと走ってきた涼音ちゃんが驚いてる。いきなり自分の兄が女の子を連れて嵐の日に家に帰ってきたらそうなるとしか思えない。今事情を説明してくれているけれど、他人の口から聞くとただのアホにしか聞こえなくて、恥ずかしい気分になって来る。

 

「家に鍵を忘れて、親は帰ってこないから入れないんだそうで。放ってはおけないでしょ?」

「そ、そうなんだ。雨宿り的な……?」

「ご宿泊です」

「よろしくね、涼音ちゃん」

「え、え、え……」

 

 私の顔と彼の顔を交互に見比べた後、嬉しそうな顔をしてくれる。自分がこんなに後輩に慕われていい人間なのかは分からない。けれど、その好意はとても嬉しいものだった。

 

「悪いけど、客間の用意しておいて」

「ごめんね、涼音ちゃん。急に押し掛けて仕事させちゃって」

「いえいえ、気にしないで下さい! むしろ放置して帰ってきたら二度と口きかないです! 大したおもてなしも出来ませんけど、ゆっくりしていって下さい」

「本当にありがとう。何か手伝うことがあったら遠慮なく言ってね。ちゃんと働くから」

「そんなそんな、お客さんですし。悪いですよ」

 

 涼音ちゃんはニコニコとしながら家の中に戻っていく。何回来てもあんまり部屋の位置をしっかり覚えられないままだった。この前は優子が迷っていたのを思い出す。ゲームの中に出てくるんじゃないかと思えるくらいには、この家の構造はよく分からない。

 

 テレビを見てて、と言われたけれど、何もしないまま泊まるのは気が引けた。何かできることがあるならしたい。部活を辞めてから、市民楽団には所属していたけれど、決して昔の部活のように忙しかったわけじゃない。だから暇な時間はお母さんの手伝いをしていた。おかげで料理も人並みには出来るようになったとは思ってる。あの時間がこんなところで活かされるなんて、今まで思ってもみなかった。

 

 そうだ、と思いついたような顔をしながら彼は冷蔵庫を開けた。そして袋に入った何かを取り出す。

 

「そ、それは……!」

「たまたま買ってあった。好きでしょ? おくら」

「あぁ、神様仏様凛音様。最近あんまり食べれなかったの……!」

「そんなに好きだったの? ではここではんぺんを出すと……」

「止めて」

「分かってるよ。冗談冗談」

 

 笑いながらはんぺんを閉まっている。分かってるってことは私の好き嫌いを知っていたって事なのだろう。相手が自分の事を理解してくれているというのは、どんな小さなことでもいい気分になる。心は嬉しい気持ちで満たされていた。

 

 私だって他の人よりは知っていると思う。相手が好きなものが自分と同じだと嬉しいと思うのは、私だけなんだろうか。

 

「お部屋の準備できました。あと先輩、寝るときの服は私ので良いですか?」

「うん、ありがとう」

 

 綺麗な柄かつピシッと畳まれたパジャマが、涼音ちゃんの手の中にある。彼女の方が年下だけど、私の方が身長が小さいしスタイルも貧相だ。中三に負けている高二だということに、ちょっと気分が落ち込んだ。ガックリきたので休憩がてらお茶を飲んでいたところに、涼音ちゃんはとんでもない爆弾発言をしてくる。

 

「先輩、新婚さんみたいですね」

「ゲホッ!」

 

 変なところにお茶が入って咳き込んでしまう。その背中をさすりながら彼が涼音ちゃんに抗議していた。

 

「ちょ、変な事言わないで。手元が狂うし、希美もこんなになっちゃったじゃないか。希美も何か言ったら?」

「新婚……結婚……いやいや付き合ってもないのにそれは早すぎ……」

「おーい、戻ってきてー」

 

 少し落ち着いて顔が真っ赤になる。新婚? そう見えるのだろうか。いつかそうなれたら……。付き合ってもいないのに、そんな妄想をしてしまう。ちょっとヤバいんじゃないと心の中の天使が言い、しょうがないじゃん好きなんだしと心の中の悪魔が言う。横で何か言ってるのが聞こえたが、上の空で殆ど聞こえない。私の頭の中には鳴り響く鐘とドレスを着た自分の姿が描かれていた。

 

 

 

 

 

 

 

「希美先輩とお風呂入れてよかったです」

 

 ご飯の後、涼音ちゃんに引っ張られる形で私はお風呂場に連れていかれた。この家の大きさに見合った大き目のお風呂。湯気が室内を満たしている。私を確実に上回っているスタイルに白い肌。染み一つ無さそうなその色と形に同じ女の子なのにちょっと変な気分になってくる。

 

 自分の家の湯舟は一人で入ってちょうどいい感じなのに、この家のそれは二人で入っても少し余るくらいには大きい。外では洗濯機が回っている。私の制服は洗って夜中の間に乾かして、明日の朝に渡してくれるらしい。至れり尽くせりで少し申し訳なかった。

 

「希美先輩」

 

 急に真面目な口調と声音で話しかけられる。

 

「この前の合同練習、嬉しかったです。希美先輩とお話しできたのもそうですけど、私の音を聞いてくれて」

「私の方こそ、ごめんね。私たちが、涼音ちゃんの代にまで呪いを残しちゃった」

「呪いだなんて、そんな。確かに、私の行動目標も理由もそれでした。でも、人から貰った夢だって自分のモノに出来るって、そう教えてくれた人がいたので。それに、私は一人じゃないですから」

「そっか。涼音ちゃんは今、幸せなんだね」

「そう、かもしれませんね。優しい先輩、得難い部員、温かい家族。そういうものがあるのは、きっと幸せなんだと思います」

 

 ザバーとお湯が流れる。彼女の白い肌はお湯で温められて少し紅くなっていた。彼女は少し言うか言わないか迷ったような顔をして、そして私の目をじっと見る。そして小さく頷くと、湯船の中にあった私の手を取った。

 

「兄さんのことをよろしくお願いします」

「どうしたの急に」

「希美先輩は兄さんのこと好きですか?」

「好き、だよ」

「それはLike? それとも、Love?」

「……Loveの方で」

「なら良かったです。なんとなくそうなんじゃないかと思ってました。でも先輩なら、安心して任せられます」

「でも、どうしてそんな急に聞いてきたの?」

「兄さんはいつでも私の味方でいてくれるって言いました。でも、その時思ったんです。兄さんの味方をしてくれる人はいるんだろうかって。私がそうなれればいいですけど、でも私が味方になることを兄さんは望まないと思います。私はきっと、守る対象ですから。だから、兄さんの味方になってくれる人が欲しかったんです」

「……でも、私はそんなに綺麗な人じゃないし、強い人じゃないよ。実際、喧嘩した時は傷つけちゃったし」

「なら、きっともう大丈夫ですよ。傷つける苦しさも、傷つく痛みも先輩は知ってるじゃないですか。ならきっと、大丈夫です」

 

 私へのゆるぎない信頼。それはありがたいものでもあったけれど、同時に少しだけプレッシャーだった。自分はそんな風に言ってもらえる存在なんだろうか。確かに関係性は元通りに、もっと言えば元通り以上になっていると思えている。でも、私にのうのうと彼に恋をする資格はあるのか、考えなかったわけじゃない。

 

「私も、間違えたりすることあるよ? そんなに強くないし」

「どんな希美先輩でも、私は好きですし尊敬してます。本当は弱くても、自分勝手だとしても。それでも先輩は私をあの暗い部屋の中から日の当たる場所に連れて行ってくれた、最初の人だから。仮に先輩がどんなにどん底にいたとしても、私はずっとあの日の事を忘れません」

 

 その顔は湯気が立ち上る中でもはっきりと見えた。そこには確かな一つの思いやりと献身がある。そして、私をどこまでも見つめるその瞳。彼女の期待に応えられるのか、それは分からない。けれど、そこで悩んでいたらきっとダメなんだと思う。私がやるべきなのは悩むことじゃなくて、そんな人間になれるように、努力することなんだ。

 

「私は希美先輩を信じてます。だから、勝手なお願いですが、兄さんをよろしくお願いします。優しいくせにそれを隠して、悲しみを見せないで、苦しみを抱え込む女の子の気持ちに鈍感などうしようもない兄さんですが、もし本当に好きになってくれたなら、側にいてあげて下さい」

 

 その言葉に過去の事が甦る。私に果たしてそこにいる資格は、この言葉に頷く権利はあるのだろうか。でもその目に見つめられて、覚悟を決める。いつまでも逃げられない。なぁなぁではいられない。私の中の私がそう叫んだ。

 

「私、頑張るよ」

 

 その言葉に、彼女はにっこりと笑う。

 

「頑張って下さいね。兄さんは自分の恋愛はヘタレなので引いてはダメです。アタックあるのみです。楽しみにしてますね。未来の義姉さん?」

 

 そう言う彼女の顔は凛音と良く似ていた。

 

 

 

 

 

 

お風呂から出ると部屋に案内される。

 

「ここだ。大体の位置関係は把握できた?」

「大丈夫だと思う。多分」

「まぁ迷ったら教えて。本とかはあそこ曲がった先に蔵に繋がる廊下があって、その先に沢山あるから何か暇なら好きに読んで。コンセントはそこで、電気のスイッチはそこね。エアコンのリモコンはこれ。私はあそこの部屋にいるし、涼音もあっちの部屋にいる。雫さんは離れだから少し違うけど。何かあったら遠慮なく声かけてくれ。叩き起こしてくれて構わないから。涼音と遊んでるのは構わないけど、なるべくきちんと寝るように」

「はーい」

「それじゃ私はこれから仕事だから。おやすみ。」

「うん。頑張ってね」

 

 仕事をするという彼を見送り部屋に入る。客間だという部屋でベットに横になった。スマホを充電器にさして、ボーっと空を見上げる。頭の中にはお風呂での会話が渦巻いていた。どれくらい経ったのだろうか。そのせいで眠れなくて、話がしたくなり、部屋を出る。仕事中だったらとっとと撤退しようと思い、扉を遠慮がちにノックした。

 

「はい」

「お仕事終わってる? なんか寝れなくて……」

「入ってどうぞ。丁度休憩しようとしてた所だし」

「お邪魔します」

 

 部屋には沢山の本や資料のようなもの。そして机の上にはパソコンや教科書、ヘッドホンなんかが存在していた。他の男子高校生の部屋を知らないので、比較が出来ない。私の部屋もそんなに綺麗じゃないので、同じくらいなのかもと思う。と言うより、今まで家に来たことはあったけれど部屋に来たことは無かった。少しだけ漂う、他の部屋とは違う匂い。それはこの部屋で生活している人の匂いなんだろう。

 

 そんな考えを頭から振り払うように、目線の位置にあった本棚の本を見てみる。英語だと思われる文字が羅列してあって、ちょっと眩暈がしてくる。

 

「なにか、珍しいものでもあった?」

「うーん。私の部屋とは全然違うから」

「そう? 普通だと思うけどな」

「この本、外国の?」

「あぁ、それは洋書。元々は私の本じゃなくて、母親のだけど」

「凛音のお母さん……。トランペットやってたんだよね?」

「そうそう。でもそれは学生時代の話ね。仕事は全然違うモノだった」

「何してたの?」

「翻訳」

「凄いなぁ」

「そこに写真あるでしょ、昔のだけど」

 

 指差された場所にあったのは、沢山の写真。その中に確かに、小さい彼と涼音ちゃんがお母さんと思われる人と一緒に写っている写真があった。綺麗な人だ。ちょっと勝気な目、自信ありげな口元、スタイルもいいし、女子校出身だということなので、多分人気だったんだろうなぁという想像が出来る人だった。

 

「カッコいい感じの人だね」

「自己肯定感が凄く強い人だった。何かあった時もこの私が言うんだから間違いない、って言ってたし。結構気も強かったと思う。部内だと……ちょっと吉川に似てるかも。勢いとか押しの強さは」

「確かに、そんな感じの見た目だね。パッと見だけど」

 

 優子もこの人と比べられたらきっと怒ったりはしないだろう。どことなく凛音と目が似ている。髪の毛は涼音ちゃんに近いかもしれない。

 

「あ、これ中学の卒業式の時の写真だ。これは今年の府大会と関西大会のか。こっちのは……私の知らない人だなぁ。友達?」

「ああ、友達だよ。音大時代のね」

「隣の集合写真は?」

「そっちもそう。私が中央にいるヤツでしょ? 昔の仲間だね」

 

 中央には凛音。隣には茶色いカールした髪のお人形さんみたいな女の子。身長はあんまり彼と変わらない。ツーショットもあるし、きっととても仲が良かったのだろう。茶髪の男性は優しそうな印象。隣の暗いブロンド髪の女性は明るそうな感じがある。黒髪の男性は雰囲気が少し橋本先生に似てるかもしれない。その隣の綺麗な金髪の人は涼しげだけどちょっと怖い印象もある。

 

 彼らと凛音はどんな青春を送ったのだろうか。私の知らない世界、私の知らない記憶。この時彼はどんな気持ちで、どんな思いで日々を過ごしていたのだろう。彼らとの思い出も、いつか私に教えてくれる時が来るのだろうか。

 

 彼は優しくもどこか悲しげな既視感のある目でツーショットの写真を見つめていた。きっと彼女は……。それが分かったから、それ以上は聞かないことにした。

 

「沢山あるね、本」

「まぁね。知識はあって困ることは無いし」

「漫画とか無いの?」

「そんな事無いはずだけど……。下の方にあるはず」

「え、エッチな本とかないよね?」

「ありません。読みたいものがあったら、好きに読んで良いぞ。私は仕事に戻るから」

「うん」

 

 ベッドの上に腰かけて、雑誌を開いた。吹奏楽の雑誌。目次には凛音の名前もある。記事を書いているらしい。その部分を開こうとページを捲った。その少し前で、大坂東照と全国出場校一覧のページが開かれる。関西大会の時、大坂東照の子が話しかけに来ていた。そんな姿から、ふとお風呂での話も含めて心のどこかでひっかかっていた事を聞きたくなる。

 

「……もうすぐ全国なんだね」

「そうだなぁ」

「皆、頑張って欲しいよね」

「当然」

「皆、ここまで来たなら金が欲しいって言ってる。そういう目標だし」

「だね」

「金じゃなくても皆は賞を貰える。全国で演奏できたら達成感も感動もある。大会に出てない私達でも今まで支えてきたんだって思うと嬉しくなるし得るものがあって今までって無駄じゃなかったって思える。顧問の滝先生は指揮できる。松本先生もまた全国に来れた」

「そんな列挙して、どうしたの」

 

 彼はくるりとこちらを向いた。そう。これがずっとひっかかっていた私の疑問。

 

「皆誰しも何かを得られてる。今まで頑張ってきたのが報われてる。なのに、凛音にはそれが無いんじゃないかと思って。演奏できるのでも、指揮するのでもない。凛音は何で教えてるの? 仕事もあって、忙しいのに自分の時間を削ってまで。私は、きちんと凛音にも報われて欲しい。ずっと頑張ってきたんだから。それは、去年からずっと思ってる」

 

 答えがほしい訳じゃない。でも、知りたかった。その願いを。他の人には言ってくれないようなことを。私は知りたいんだ。なぁなぁなんかじゃなくて、彼の全部を、好きだから。私は、知らないといけないんだ。 

 

「さぁ。どうだろう。どうすれば報われるのか、よく分からない部分が多い。勿論指導者としては教え子が全国出場したのは十分に報われていると思えるだろうね。高坂さんを筆頭に、優秀な後輩も持てた。先輩としても十分だと思う。何で教えてるのかの根本は幾つかあるけど、大きいのは二つかな」

「二つ?」

「そう。一つは自分も昔優秀な先達から教えられてここにいるから。自分が次の世代に自分がされたのと同じような事をしてあげるのが、彼らへの恩返しなんだと思う。そしてもう一つは……若い情熱の炎を見たからかもしれない」

 

 その対象はきっと、私じゃない。知っている。春に、高坂さんが彼を呼びに来たことを。そして今は彼が高坂さんを教えている。それもかなりの時間、個人的に。彼の中できっと、高坂さんは特別な存在だ。

 

 それが悔しかった。渡したくない。あなたが彼の何を知ってるの? 心の中の高坂さんに問いかける。彼女はきっと、私みたいにこんな感情になったりなんかしないのだろう。自分の心臓がキューっと締め付けられるような感覚を覚える。その切なさが、私を満たしていた。私を見て欲しい。そう思うのは、おかしいことなのだろうか。

 

「そっか。それは高坂さんだよね」

「そうだけど、どうして?」

「う~ん、何となく。でもあの子なんじゃないかって気がする。あの子はきっと、凛音の特別なんだね」

「さぁ、どうだろう。優秀な後輩だし、目をかけてるのは事実だ。期待もしてる。でも特別かと言われると、どうなのかはよく分からないな」

「そうなんだ……」

 

 雑誌を閉じて、私はベッドに横たわる。否定して欲しかった自分と、そうでないと彼じゃないと思う自分が、矛盾したまま戦いを繰り広げている。そんな私の視界に影が出来る。彼が覗き込むように私の顔を見ている。

 

「まぁだから、こうなれば報われたって言うのはまだちゃんと分かってないかも。だからさ」

 

 彼はそこで少し言葉を区切った。そして、もう一度口を開く。

 

「君がそうなってくれると嬉しいんだけど」

「それって、どういう意味?」

「割とそのまんま。君が全国大会の会場で演奏して、後悔なんて無いって笑ってくれれば、きっと報われたと思えるから」

 

 関西大会の時に感じたあの爆発するような心臓の感覚。それがもう一回襲ってくる。ドクンドクンと鼓動はうるさく、今にも爆散してしまいそう。自分は今、どんな顔をしているのだろうか。まともにその瞳を見れなくて、私は顔を逸らす。

 

 嬉しさが心を満たしていく。私は好きなんだ。彼のことが。確認するように、内心で呟く。初恋に毛が生えたような恋愛感情なんかじゃない。燃え上がるような炎が、今私の中に灯っていた。それを自覚すると同時に、横になっていたせいか眠気が襲ってくる。今日は色んなことがあって、ちょっと感情が動きすぎた。そのせいで、こうなったんだろう。

 

「分かったよ。じゃあ、もっと練習がんばら、ない、と……」

 

 それだけ言って、微睡に自分の身を任せる。きっと、幸せな夢が見られる気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 朝、起きると時間は六時半だった。今日は休校なのに、こんな早く起きてしまう。もう職業病なのかもしれない。目を開けて辺りを見渡すと、景色は昨日の夜と同じ。それでハッと気づく。私は昨日、彼の部屋で寝てしまった。なんという醜態と思いながらちょっと頭を抱える。

 

 枕元には、私の制服が置かれていた。夜中の間に彼の従姉である雫さんが置いてくれたのだろう。黒髪の長い、清楚な感じの人だった。でも思ったよりはずっと明るくて話しやすい感じの人。私にも親切にしてくれるいい人だ。私なんて、自分の弟のような存在を傷つけて、妹のような存在に呪いを残した疫病神みたいなものだと思うのに、そんな私でも優しくしてくれる。

 

 やっぱり、この家の人は皆優しい。きっと、あの写真にいたお母さんやお父さんのおかげなのだろう。それに救われて、今の私もいる。心の中で感謝した。

 

 着替えて部屋の外に出る。家の外はまだ風と雨が強い。今日のお昼ごろにお父さんかお母さんのどっちかがタクシーを使って帰って来るので、そしたら中に入れる。その連絡が来たら、また送ってくれるらしい。何から何まで、全部やってくれて本当に頭が上がらない。

 

「あれ、どっちだっけ」

 

 どっちなのか分からない。どうしようもないので、凛音を起こして聞こうかと思って本来寝るはずだった客間を開けると、そこにはもう姿が無い。もしかしたらもう起きてご飯とかを作っているのかも。涼音ちゃんを起こすのも申し訳ない。

 

「まぁ、歩いてればどこかには着くよね、多分」

 

 パジャマを持ったまま、桜地家の廊下を歩く。所々には絵が飾られていた。一際長い奥まで続く廊下を見つける。どこに続いているのかと思って歩いて行けば、一つのドアがあった。ここはもしかしたら、彼が言っていた離れかもしれない。雫さんが暮らしている場所だ。

 

 なるほどここか、と思ってくるりとUターンしようとしたとき、扉が開く。

 

「あら、傘木さん。おはようございます」

「おはようございます!」

「お元気ですね。どうしましたか、あぁ、迷ってしまいましたか」

「はい、そうなんです。貸してもらったパジャマをどこに持っていけばいいのか分からなくて」

「分かりました。お預かりしておきますね。そうだ、朝食まで時間がありますので、少し中で待っていてください」

 

 彼女は私を自室の中に招き入れる。そして渡したパジャマを持って行ってくれた。ぐるりと部屋を見渡す。端っこにはベッド。それ以外の多くは絵や画材で埋め尽くされている。大きなカンバスが幾つもあったり、机の上にはペンタブのようなものもある。本棚らしき場所には凛音の部屋とは違って美術系の本なんかが沢山並んでいた。

 

 画家をしているというのは知っていたけど、実際にどんな感じで作品を作っているのかは知らなかった。調べてみると結構高額で取引されていて、ビックリしたのを覚えている。京都の美術館でも作品展をやっていたのをこの前ネットニュースで知った。

 

「お待たせしました。散らかっていて、申し訳ありません」

「いえ、全然。でも、凄いですね。芸術家の部屋って感じです」

「私なんてまだまだですよ。そちら、お座りになってください」

 

 彼女は私に椅子を勧める。言われるがままに腰を下ろした。彼女は大きなカンバスを除けて、小さいものを取り出す。まだ乾いていない絵の具があるパレットを引っ張ってきて、おもむろに筆を動かし始めた。

 

「あんまり若い方と話す機会も無いものですから。部活に情熱を燃やす高校生、という存在から何か得られると思ったもので。すみません、こちらの仕事に付き合わせてしまって」

「むしろこちらの方がご迷惑をおかけしてますから」

「それにしても、よかったのですか? 同級生で旧知とは言え、男子の家に泊まるなんて」

「凛音は、変なことしないって分かってますし、涼音ちゃんや雫さんもいますし、それに……」

「凛音君のことが好きだから、ですか」

「ななな、何を言ってるんですか!」

 

 いきなり図星を突かれて、私はびっくりしてしまう。彼女はクスクスと笑ったまま、止まることなく絵筆を動かしていた。

 

「その目の奥にあるのは、恋情だと思ったのですが。私の思い違いでしょうか」

「……その、正解です」

「それは良かった。私の観察眼もまだ捨てたものではないようですね。画家とは何であれ対象を描き出すモノ。それが観察眼を失ったようでは、廃業です」

 

 彼女は優しい声と眼差しで私に笑いかける。どう返したらいいのか分からないまま、私は曖昧に笑った。

 

「私は音楽は門外漢ですが、それでもどこか絵画と通じるものがあると思っています。人間は誰しも己の中に宇宙を、世界を持っています。それをどう具現化するか、その違いなのではないかと。音楽は聴覚に、絵画は視覚に訴える形で、他の多くに自分の世界を知らしめる。それがこの二つの芸術の共通点と思っています」

「凄いですね……。私には、そんな難しいことは考えられなくて」

「考える必要は別にないですから。私が頭でっかちなだけですので」

「雫さんは、どうして絵画の道を選んだんですか? 凛音も涼音ちゃんも凄い頭が良いっていつも言ってるので……」

「きっかけは祖父が昔、戦後間もない頃一時期骨董商をしていて、そのせいか当家が売らないまま残った多くの絵を所有していたからかもしれません。初めて見た時、こんな風な絵を描きたいと思ったのです。私がレールから外れることを選んだのは、まぁ色々理由はあるのですが……」

 

 彼女は一端そこで言葉を区切った。私に何をどう伝えようか、少し迷っているような顔で。

 

「自分の人生です。育ててくれた親には感謝していますが、それでも私の人生です。だからこそ、親の人形のまま終わりたくなかった。一人の人間として、歩んでみたかった。まぁ多くに甘えているので、結局のところ言葉だけなのかもしれません。でも、私は敷かれたレールを走る列車より、自分で歩く方を選びたかったのです」

 

 迷うことなくその腕は動かされている。自分の人生。そんな風に、私は歩めるのだろうか。今の私には、進路はおろか一週間後の自分の姿すらよく分からないのに。

 

「今を全力で走っていれば、きっとそのうち何かに出会えるはずです。少なくとも、走っていない人よりは、確実に。さぁ、こんな感じですかね」

 

 渡されたのは、私が描かれた絵。手元には使っていたフルート。彼女の前で演奏したのは文化祭の時だけのはず。それなのに、ここまで完璧に再現されていた。私、こんなに美人じゃないと思うんだけどなぁという顔をしている。座っているのは学校の椅子。後ろには音楽室らしき背景と、描かれた窓には青い空。彼女はあの部屋に入ったことが無いはずなのに、まるで何年もそこに通い詰めたかのような空気感を感じる。

 

 つい、見入ってしまう。そんな迫力と存在感、そして人を引き付けてやまない何かがその絵には存在していた。

 

「差し上げます」

「え、良いんですか? でも……」

「私も色々と得るモノがありましたから。そのお礼です。よろしければ、持っていってください」

「じゃあ、ありがとうございます」

「傘木さんの恋心がどうなるのか、私には分かりません。ですが、もしよければ。凛音君のこと、見てあげてください。私のような頼りにならない大人より、ずっと彼のことを理解して、助けられるでしょうから。不躾なお願いですが、どうか」

 

 彼女は私に深く頭を下げる。彼は、少なくとも最も近しい家族からしっかり愛されている。そんな存在を傷つけた私を、咎めることなく頭を下げてくれる。それは信頼でもあるのだろう。そんな信頼を、損なうことがあってはいけない。強くそう思った。

 

「勿論です!」

 

 私は彼女に大きな声で応える。それを見て、彼女は優しく微笑んでくれた。また明日と言ったあの日、私は決めたんだ。もう二度と、その手を離さないと。それは絶対に守らないといけない。好きな人を傷つけるなんてこと、もう二度としたくない。

 

 いつかその日が来て、私の想いが青春の風によって攫われて、叶わないものになったとしても。私はきっと、彼を好きでい続けるだろう。関西大会の時に言ってくれた、あの言葉。昨日の夜に言ってくれた、あの言葉。それだけで、好きでい続けるのには、十分なのだから。

 

 家の外はまだ強い雨風が吹き荒れている。それでも私の心は青く澄んでいた。

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