音を愛す君へ   作:tanuu

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第四十六音 戦争

 秋。日本から消滅したと毎年思う時期がやって来た。まだ9月中旬。京の都の暑さはまだまだ続くけれど空は秋の空に移り変わりつつある。全国大会まであと2ヶ月を切った。文化祭と体育祭も終わり部員一同より気を引き締めて日々の練習に挑んでいる。

 

 辺りに台風で吹き飛ばされた葉や木の枝が散乱するなか、道を歩いていく。また今日も早く登校だ。朝の練習をする人も多い。そこで良く質問を受けるのでそのために早く登校している。家からそこそこには近いのが幸いだ。

 

 文化祭も終わり、もうイベント事はほとんど残されていない。駅ビルコンサートと経たら、後残されているのは全国大会ただ一つ。それが終わってしまえば先輩たちともお別れとなる。あと少し、あと少しだけの時間。それでもやるべきことは変わらない。今掲げている目標に少しでも近づけるよう、勇往邁進するだけ。

 

 そう思っていた。もう抵抗勢力はない。何もかも順調に進んでいく。けれど私のそんな期待を裏切るように。台風は大きな渦を引っ張ってきた。部内学内に敵がいなくなれば、次はその外から、問題はやって来るのである。

 

 

 

 

 

 

 駅ビルコンサートは間近に迫っている。清良女子との合同練習も組めることになっているため、それは先生主体で話が進んでいた。既に大部分の打ち合わせを終えている。

 

「当日のスケジュールはお渡しした紙の通りになります」

「分かりました」

「急遽ですがホールが借りれて良かったです。助かりました」

「いいえ、そんな大したことではありませんから」

 

 清良との場所確保は悩んだが、宇治市のホールがいい具合の日程で空いていたので、話が出た段階で仮確保をしてもらい、話がまとまった段階で予約が出来るようにしておいた。相手はホームが福岡にあるので、当然こっちに練習場所なんてない。なので、 我々が用意しておくのが筋だった。

 

「今回の合同練習は全員にとってよい経験になるでしょう。そして刺激にも」

「はい。この話は学校のHPなどにも掲載できますから、超強豪校との交流もあるというのは来年再来年以降の部員獲得にも大きく響いてくるはずです。毎年違う音楽を展開できるのは吹奏楽部の魅力ですが、それによって実力が落ちないような工夫を……」

「貴方が滝先生ですか!」

 

 甲高く神経質そうな女性の声が職員室に響く。私はくるりと後ろを振り向いた。髪の毛を束ねた四十から五十代ほどの女性。その隣には、副部長の田中先輩が立っている。

 

「お母さん、止めてよ。今話し中でしょ」

 

 あの顔つきと口ぶりからしてどう考えても良い話ではないだろうと察し、先生との親子との間に立っていた私はスッと横にズレる。

 

「私が、吹奏楽部顧問の滝昇です。田中さんのお母様でしょうか」

「そうです」

「申し訳ありませんが、今、別の生徒の対応中です。手短に終わらせますので、別室でお待ちいただいてもよろしいでしょうか」

「彼は、三年生なんですか?」

「いえ、二年生の生徒です」

「なら! 三年生の方が優先でしょう。私は、娘の進路に関して非常に重大な話をしに来たのです。わざわざ、仕事を休んで。娘の時間は非常に惜しいのです。もし受験に悪影響が出たら、どう責任を取ってくれるんですか!」

「私は、生徒に貴賤は無いと考えます」

「あなた、それでも先生ですか? 優先するべきが受験生かそうじゃないかくらい、判断つくでしょう!」

「大きな声出さないでよお母さん。すみません」

「どうしてあなたが謝るの! 謝ってもらうのはこっちでしょう!」

 

 目を怒らせ、彼女は田中先輩にもその矛先を向ける。なんとなく事情は読めた。恐らく、母親の要求は部活に関すること。受験の話が出たことから察するに、退部させたいのだろう。教育ママ、と言えば聞こえはいいが、実態は恐らくそうじゃない。感情的になると止められない体質なのだろう。だからこそ、先輩は諦観を込めた目をしている。

 

「先生、私は後回しでも構いませんから」

「はぁ! 先生なら、子供にとって今何が一番大切か分かりますよね!?」

「ええ……」

 

 私が一歩引いたことで大義名分を得たのを確信したのか、相手は話を続ける。怒鳴り声を聞きつけてやって来た教頭先生が及び腰になりながら応対する。私を追い出さないのはもう視界に入っていないからだろうか。なんとなく去る機会を逸した。それに、吹奏楽部の運営に携わっている以上、この事態を看過することはできない。

 

「部活動で推薦入学するなら兎も角、うちの子は一般受験なんですよ」

「お、お母様のおっしゃる通りです」

「だったら! 直ぐに退部届けを受理してください!」

「えぇ、しかしですねぇ、今年の吹奏楽部は非常にがんばっておりましてですねぇ、全国大会にも出ておりまして、もう少し考えてはいただけないでしょうか……」

「全国大会が、受験のなんの役に立つと言うんです!」

 

 相手は完全にいきり立っている。仕方ないかもしれない。教頭先生、滝先生、そして自分の娘。この場にいる全員は、程度は違えど彼女の意思・願望と反する行動や言動をしている。攻撃的になっている人にそういう態度で接すると、相手は自分が攻撃されたと感じ余計にエスカレートしがちだ。だから、一回少し感情の波を抑えないといけない。

 

「お母様。差し出がましいようですが、ここは他の先生・生徒も利用する公共性のある場所です。もう少し、お声を落として頂けないでしょうか」

「子供には関係ない話です。黙ってなさい!」

「申し訳ありません。ですが、大人の方が大声を出しているということに、トラウマを持つ生徒も一定数存在するかと思いますので、ご配慮頂けたらと」

「それは……」

「具体的には、私など」

 

 これは完全にウソ。確かに罵倒されたことも、悪意をぶつけられたこともある。私たち兄妹が死ねば、という話を面と向かってされたことだってある。とは言え、怒鳴られたりした経験はない。だけれど相手にはそんな事は分からない。

 

 田中先輩の母親がどういう人なのかは分からない。ただし、一般論から言って田中先輩のように頭のいい人は少なくともそうなれる環境が整っていないと出来上がらない。ということは、そこから逆算するにその母親だってある程度の社会性と読解力を持っているはずなのだ。今は頭に血がのぼっているとはいえ、言いたいことが分からないとは思わない。

 

 そして現に、少しバツの悪そうな顔になっている。私の演技力も割と功を奏したようだ。大学に演劇科があったのがきいているのかもしれない。しかし、本題が終わったわけでは無い。声量を落として、話は続けられた。だが確実に先ほどまでよりは落ち着いている。

 

「ともあれ、退部届を受け取って頂きます」

「私は何があっても、その退部届けを受け取るつもりはありません。」

「どうしてですか? この通り、名前も印鑑も、保護者のサインもあります。受け取れない理由は無いはずです」

「確かに、書類上では不備はありません。ですが、この退部届けはお母さんの意思で書かれたのでは無いですか?」

 

 先輩が目をそらす。母親は一瞬息を呑んだ。それが、図星であることの何よりの証明だった。

 

「それの、何がいけないんですか。この子は私が一人でここまで育てて来たんです。誰の手も借りずに一人で! だから、娘の将来は私が決めます。部活動はこの子にとって枷でしかありません!」

「え、えぇそのお気持ちは大変よくわかります。しかし…」

 

 そんな教頭の言葉を遮って、先生は告げる。

 

「私は本人の意思を尊重します。田中さんが望まない以上、その退部届けは受け取れません。何があってもです」

「滝先生、もう少し言葉を選んで……」

「田中さんは副部長として立派に部をまとめてくれています。その部の悲願である全国大会に出場できるんです。応援してあげる事はできませんか」

 

 その目に見つめられ、彼女はすっと息を吸い吐き出した。これで一先ず収まったのか。先生はそう思ったかもしれないけれど、私はそうは思えない。彼女は別の方策を探そうとしている。先生は大義名分を与えてしまった。先輩本人の意思ならば、拒否できないという大義名分を。

 

 退部届はここでない場所で書かれている。故に、密室性が高く本人の意思であるかの証明は出来ない。けれどここで言わせてしまえば、どうだろうか。内心はどうあれ、本人の意思と捉えられる。それが社会のルールだ。実はそう思ってませんでした、は通用しない。

 

 先生は幸いにして、幸福な人生を送って来たのだろう。自分の願望や要求を押し通そうとし、自分が信じて疑わないような存在との対立は、ほとんど経験してこなかったのではないだろうか。だからこそ、相手を見誤っている。これで止まるようなら、そもそも田中先輩本人が説得していたことだろう。平日の午後に仕事を休んでくるような人が、そんな生半可なことで折れたりはしない。

 

「では、こう言うのはどうでしょうか。吹奏楽部のメンバーは基本、大会に出ることを前提条件としています。ですが、一部例外も存在します。サックスの三年生である斎藤先輩は受験勉強のためということで、大会に関するオーディションを辞退しています。今現在は塾に通いつつ、時々B編成、つまりは大会に出ない子の育成を担当して頂いてます。部活動に顔を出すのは毎日ではなく、時間としても決して遅くならない時間に下校しております」

 

 これは結構苦肉の策だ。だが、相手の帰着点が先輩の退部だとしたら、どんなに言葉を重ねても折れはしない。だからこそ帰着点を変える必要がある。少しでも、こちらに有利な方に。相手に譲歩しつつ、こちらの要求を完全にではなくとも押し通す。それが出来れば、後は方便を上手く使いこなせればどうとでもなる。

 

 滝先生は大義名分を与えてしまった。それを相手が発動する前に、こちらも向こうが設定してしまった大義名分に乗っかる。恐らく受験関連以外にも理由があって、そっちが本命であろう気がするが、少なくとも先ほどの話で委縮する程度には社会性があるのだから、そんな個人の欲求が正しくないとは分かっているだろう。なら、付け入る隙はある。

 

「部活動はどんな形であれ、やはり最後まで続けることが本人にやり切ったという経験と自信を与え、それが将来的に、例えば就職の際などにも自信となるのではないでしょうか。成功体験の数は、多いに越したことは無いと思います。ですので、受験勉強の邪魔にならない程度に補助の形であっても、部活動に参加する。これならば、退部という最終手段を取らずともお母様のご懸念はある程度払拭できると考えますが、いかがでしょうか」

「あなたに就職の何が分かるというの?」

「申し遅れました、私はこういうものです」

 

 差し出したのは一枚の名刺。仕事をする際にはどうしても必要なので財布に入れて持ち歩いていた。彼女はそれを少し見た後、しまった。しまうんだ、とはちょっと思う。てっきり床に捨てられてもおかしくは無いと思ったのだが。やはり、社会性はある。娘のため、というのもまるっきり嘘では無いのだろう。

 

「その子の成績はどうなの?」

「流石にそこまでは分かりかねますが、田中先輩とは同じクラスです。娘さんにお聞きになられてはいかがでしょうか」

「あすか、どうなの」

「学年では、普通に上位にいるはず。多分、一桁には入ってた。少なくとも落ちてはいない」

「……」

「いかがでしょうか。田中先輩はこれまで非常に多くの場面で部活動に貢献してくださいました。その部活がどういう結果を迎えるのか、せめてそれだけは部員という立場で見守りたいと思うのが人の心というモノではないかと愚考します」

 

 この措置で了解してもらえば、後はこっちのものだ。少ない時間であったとしても練習はさせられる。元々卓越した実力だ。黄前さんより下になることは無いだろう。全国金は大事な目標だが、吹奏楽部のために彼女を切り捨てることが良いとはこれっぽっちも思わない。むしろ悪影響だろう。

 

 そうして実力が多少落ちても吹ける状態を確保する。名古屋に連れて行ってしまえばこっちのものだ。そのまま出場させてしまえば、全国大会には出れる。後で多分死ぬほど抗議が来るが、全ては後の祭り。最早過去は戻らないのだから、彼女がいかに騒ごうとも結果は同じ。いずれ鎮静化するしかない。

 

「先生、いかがでしょう」

「……私は、本人がそれを積極的意思で希望するならば認めるつもりです。斎藤さんの時は、そうしましたから。しかしそれは斎藤さん自身が積極的理由で選び取った選択です。この状況では、お母さんの意思で選ばされた消去法でしかありません。それでは、意味が無いと考えます」

「ちょっと先生、何言ってんですか!」

 

 この分からず屋、噓も方便という言葉を知らないのかと言いたくなる。取り敢えずこの道を勧めておけば後はどうとでもなるのだ。確かに妥協と消去法の末に選ばれた選択になるだろう。正しいとは言い難いのも事実。それでも何もしないよりはマシなはずなのだ。

 

 理想論は大いに立派だけれど、現実はそんなに甘くない。特にこういう場で理想論を持ち出したところでどうしようもないのだ。頭を抱えたくなる。この人は時々、本当に頑固になる。その頑固さが今まで結果的にいい方向に進んだとはいえ、今この時だけは勘弁してほしかった。

 

「はぁ……提案はともかく、この先生の態度ではしょうがないわね。あすか、この場で退部すると言いなさい」

「え?」

「言いなさい。今。辞めるって」

「……お母さん、私部活辞めたくな」

 

 パシン! そのビンタの音は沈黙を保ちながらここの会話だけが響いていた職員室に大きく木霊した。

 

「なんで……何で私の言うことが聞けないの! あんな楽器吹いてるのも、私への当てつけなんでしょう! そんなに私の事苦しめたいの!?」

「お母様、暴力はいけません」

 

 すっ飛んでいった先輩の眼鏡を拾って渡しつつ、私は口を開く。

 

「私もかつて、妹を虐めた同級生を叩きのめしたことがありました。しかし結果として悪者になったのは私でした。いついかなる場合でも、暴力を振るった方が負けてしまう事が大半なのです。言ってることが正しかろうと、その行動に至らしめた理由が正当であろうと」

「あすか……ごめんなさい」

「大丈夫」

 

 先輩は避けもしなかった。自分より小さな母親からの攻撃なんて、容易く躱せるだろうに。きっとこれは何度も受けてきたのだろう。だから躱せない。躱しても無駄だから。

 

 もう先生がこの態度ではどうしようもない。一回場をリセットするしかないだろう。鳴り響く頭痛を抑えながら、私はどうにかして一回穏便に帰ってもらう方法を模索した。彼女に今必要なのは共感。周りが有効勢力じゃなかった今、妥協案を出した私は他よりマシと思われている可能性が高い。と言うより、それに賭けるしかない。

 

「先生はこの通り理想論ばっかり言ってますが、私はお母様のお気持ちも少しではありますが、拝察いたします」

「子育てなんて、した事無いでしょう」

「それは、その通りです。ですので、少しと申し上げました。私には妹がおります。不肖の妹で、中学三年生というのに進路を決めずにフラフラしておりまして。両親が鬼籍に入った今、彼女の将来は私の仕事にかかっています。ですので、彼女に不自由なく暮らして欲しい、自分の理想とする進路を選び取って欲しいと常日頃思い、厳しく言っているのですが、どうもあまり理解はしてもらえないままで」

 

 ここでデカいカードを切った。普通の社会性がある人ならば、親がいないというカードとその兄妹の内兄の方が働きつつ妹の将来を案じているというカードに有効な対策を持たない。実際は従姉もいるのだが、そんな情報はいらないし、そもそも相手が知る由もない。事実、相手の目に少し同情が浮かんだ。

 

「ただでさえかなり苦労しておりますから、お母様の努力や苦労はきっと計り知れないのだろうと思います。両親の遺産はハゲワシのような親戚に半ば奪われ、それでも数年生きてきた身としては、同じような努力を何年も行ってこられたことの心労は察するに余りある次第です。ですが、同時にお世話になった先輩にも、このまま去って欲しくないという本音もあります。ですから先ほどのような提案をしました」

「そ、そう……。けれど、先生は無理だと言いました。これではどうしようもないでしょう」

「えぇ。ですのでもしお母様が私の提案を吞んでいただけるのでしたら、先生は私が責任をもって説き伏せます。今すぐお決めになるのは難しいでしょうから、一度持ち帰って、先輩とお話しなさってはいかがでしょうか」

 

 有り体に言えば帰ってね、という話である。母親は目をあちらこちらに動かしていた。しかし多少は説得も効果があったようで、先ほどの暴力沙汰と言い、少しこちらに強く出られなくなっている。こちらが勉強という大義名分に則った提案をしている以上、これを否定しては理論の土台が崩れる。それは理解しているだろう。

 

「……分かりました」

「先生すみません。今日は母と帰るので部活休ませて貰って良いですか」

「それは勿論、構いませんが……」

「明日からはまたキチンと参加しますので、心配しないでください。お騒がせしました。桜地君も、ありがとう」

 

 そう平然とした顔で言うと、先輩は母親を連れて外に出ていく。あぁ、よくある事なんだなと思った。だから慣れている。慣れているから、あんな顔になるのだろう。親に逆らっても無駄、そういう諦観が染みついている。だが気持ちはよく分かる。親や大人というのは、大きく上にのしかかっているものだ。味方であれば頼もしいけれど、敵なった時は、それこそ世界の半分が敵になったようなモノであろう。

 

 完全に二人の姿が見えなくなったところで、私は先生に向き直った。

 

「先生、なんであんな事言うんですか。理想論は立派ですけど、理想論じゃどうにもできないことだってあるんです。今回はまさにそのケースでした。斎藤先輩と同じ措置にして、それでも限られた時間で練習させて、時には図書室で勉強してたとか嘘も言ってもらい、名古屋まで連れていく。そして大会に出してしまえばこっちのものだったんです!」

「桜地君、その辺で」

 

 教頭先生の制止を無視して私は先生を見据えた。

 

「あの手の人は自分の意見を押し通しに来てるんです。こっちが完全に平行な要求を突き付けても、話は交わらない。だから妥協点を探して、少しでも歩み寄りの姿勢を見せて、僅かでもこちらの望みが通るような工夫をして、話をまとめに行くんです。そうしないとあんなの、いつまで経っても解決しませんよ。子供の人生を自分の人形劇にしてるような大人相手の経験値はこっちの方が上なんです。自分の要求を押し通そうとする人のも、感情的になる人のも、自分が正しいと思ってる人のも!」

 

 確かに先生の行動は正しい。正しすぎる。だけれど正しさだけで解決するなら、物事はこんなに複雑に絡まらない。先生はきっとそれなりに幸福な家庭で生きてきたのだろう。少なくとも、先生の親はああいう存在じゃなかった。親族や周囲にもああいう存在はいなかった。だからこそ、腹立たしい。

 

 自分の幸福な世界観の論理が、他者にも通じると思っているのが。そんなに上手く行くなら、世の中揉め事はもっと少ないだろう。事実、あの母親は私の話に耳を傾ける態勢になっていた。上手く話しを運び、相手の思考を考え、切れるカードを順番に効率よく、そして最大限の効果が出るように切っていく。その末に妥協点を見つけるのが交渉のやり方だ。全部要求通りなんて、そんな上手い話はない。

 

 自分の呪われた血と、最悪な血族が初めて誰かの役に立っているのではないだろうか。今だけはそれに感謝した。

 

「ともかく、こうなってしまった以上、対策は必要です。万が一に備えて動かないと、そもそも演奏自体が出来なくなってしまう。本日から、中川に練習しておくように言いましょう」

「ですが、田中さんがどうなるかは分かりません」

「それは承知の上です。私とて、話が上手くまとまることを願ってはいますが、大体物事と言うのは得てして悪い方向に進んでいくものですから。指導員には楽器違いとは言え、のぞ……じゃなかった傘木を使えばよろしいかと。もし無理そうなら、こちらで手配します。よろしいですか? よろしいですね?」

 

 嫌とは言わせない。言外にそういう思いを込めて、先生に強く迫った。先生は少し逡巡した後、致し方ないというような顔で頷く。

 

「分かりました。ただし、私は限界まで待ちたいと思います。練習をしてもらう中川さんには申し訳ありませんが、暫くは田中さんが来ない場合でも黄前さん一人で吹いてもらいます」

「それでいいと思います。先生のやり方が良いと私は思いませんが、それでもあそこで明確に母親の要求を拒絶したことは、少なくとも先輩にとっては救いだったと思います。迎合姿勢を見せた、私より、ずっと」

 

 まぁ家庭で話し合ってダメなら別の手段を考えるしかない。最悪、田中家の前で先生が土下座でもすれば良いんじゃないだろうか。土下座は効く。相手に土下座させてしまったら、もうそれ以上はどうしようもないからだ。社会人なら、ある程度常識の通用する相手なら、なおのこと。

 

 視線を動かし、入り口で固まる茶色い髪の人物を見つける。黄前久美子。その名を頭の中で反芻する。このまま先輩が戻らなかった時にどうするか。思うに、結局先輩の根幹には諦観がある。それを破るのは難しいだろう。先輩は賢い人だ。故に、そうすることのリスクとそうしても結果がほとんど覆らなかった過去の経験から、理性に則って行動しない。

 

 だがもし彼女が感情論を突き動かしてくれるなら。理性で動く人にもし、理論的に考えれば難しい行動をさせたいなら。感情の部分を突くしかない。私には無理だ。どちらかと言えば先輩に近い人だから。故に彼女。先輩と親しく、それでいて三年生たちとはまた違って目線で動いている。何より、人の感情に関する部分を動かす能力があるはずだ。まだ粗削りでも。

 

 そう思い彼女を見る。見られてることに気付いた彼女はアワアワとしながら持っていたノートを置くと走り去っていく。先生はそれを知ってか知らずか、落ちていた退部届をビリビリに破り捨てた。

 

そして、先ほどのやり取りは瞬く間に部活全体に広まり、吹奏楽部は混乱に包まれる事となる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あすかが辞めるって、ホントなの!?」

 

 トランペットパートの教室に入るなり、香織先輩は私のもとに駆け寄って来た。

 

「今のところは何とも言えません。取り敢えずは私が出した妥協案について家で話し合って欲しいという名目で、お引き取り願いました」

「そ、そっか……。すぐにでも退部ってわけじゃ、無いんだよね?」

「恐らくは」

 

 私の言葉に、へなへなと先輩は椅子に座る。部内は大なり小なり混乱に満ちているようだった。副部長が退部するかもしれないともなれば、こうなるのもある程度は納得できる。

 

「でも、どうしてそんな事に……。あすかは成績良いはずなのに」

「多分、それが真の理由じゃないですね。本当の理由は多分、違うところにあるかと」

 

 あんな楽器吹いている。確かにそう言った。あんな楽器とは当然ユーフォニアムだろう。つまり、あの母親とユーフォニアムの間には何か因縁がある。それも恐らくかなり深いところに。考えられる理由は二つ。一つは学生時代のトラウマ。元々彼女はユーフォニアム奏者で、夢破れたから娘がやっているのが気に食わない。二つ目は完全な推測だけれど、独身な理由に何か関わっている。

 

 一人で育ててきたことを強調した。死別か離婚かのどちらかだろうけれど、そのどちらかに関連している可能性がある。死んだ・別れた夫を思い出すから嫌だ。そういう線だ。じゃないと、特定楽器にあそこまで憎悪を向けない。音楽全般を否定するはずだ。

 

「まぁ、これは憶測なので何とも言えませんが。ともあれ、現状は向こうの返答待ちです」

「そう、なんだね」

「香織先輩。田中先輩のお母様について、何でも構いません、何か情報はありませんか?」

「ううん、あんまり知らないんだ。駅前の栗まんじゅうが好きって言うのは聞いたことあるけど……。あすか、あんまりプライベートな話しないから」

「なるほど、分かりました」

 

 どんな情報であれ、今は何が役に立つか分からない。学外の人間を相手するのに、切れる手札が少なすぎる。一応伝家の宝刀も無いわけじゃないが、それを使えばこっちもただでは済まない可能性がある。

 

 トランペットパートの部屋は沈んでいた。誰もが重苦しい顔をしている。田中先輩に対する感情には個人差があるだろう。一年生はそこまで思い入れが無い人も多いかもしれない。それでもパートリーダーが落ち込んでいるこの状況を良しとする人はいなかった。

 

「どうして、干渉するんでしょうか。受験も、部活も、全部最後は自分で決める事なのに……」

「それは、幸せな人の考え方だね」

 

 高坂さんの呟いた言葉に、私は敢えて口を挟む。田中先輩は極端な例としても、今後こう言うことが無いとも限らない。受験と部活。その問題を考える時に、他者の立場になって想像することが出来ないようでは困る。自分の家庭と相手の家庭が同じであるとは限らないのだ。

 

「確かに受験も部活も、全部自分で決めるのが理想。でも、それを許さない親もいる。それは理想とか道理とかそう言うのは通用しない場所なんだ。だって相手の家庭だから。むしろ、全部自分で決められる事に感謝した方が良い。それは当たり前の環境じゃなくて、恵まれてるんだって、そういう風にね」

 

 高坂家の両親は娘の選択を尊重するタイプなのだろう。だから、自分で決められる。それがスタンダードになっている。でもそういう家ばかりじゃない。それこそ、私だって。

 

「結局、自分で稼げない間は親の言うことを聞くしかないからね。そうしたくないと……私の従姉みたいに家から追い出されて、携帯も解約されて、学費も生活費も無しに無一文で生活させられる羽目になる。何があっても頼れないし、助けてもくれない。それでも理想を貫けるか、ってそういう話になるから。私だって、自分の祖母に逆らって今の場所にいるし。従ってたらきっと音楽もやってないし、この学校にもいないし、全然知らない人と来年あたり結婚させられてただろうし」

 

 すぐには受け入れられなくてもいい。ただ、相手の家庭が自分のそれと同じじゃないっていう事は理解して欲しかった。みんなその中で頑張っている。きっと見えないところで親から圧力をかけられている三年生はいるはずだ。表に出さないだけで。

 

「ともあれ、この問題は先生と私とでどうにかします。皆さんは、そのまま練習してください。それが田中先輩のためにもなるはずですから」

 

 全員が、少し緩慢に練習に戻る。これはきっとこのパートだけじゃない。他のパートでも動揺が走っているのは明白だ。尾を引く問題になってしまっている。希美の件よりももっと重く、再オーディションの時よりももっと大きく。

 

 解決の糸口が見えないまま、我々は練習するしかなかった。それ以外に、現実から逃れる術が無いのだから。

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