音を愛す君へ   作:tanuu

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第四十七音 親

 普段B編成組が練習している教室のドアを叩いた。開けたドアの先にいた多くの視線が私に突き刺さる。私の姿を視界におさめた斎藤先輩が小さくため息を吐いた。そして練習を停止させる。

 

「中川さん、だよね?」

「話が早くて助かります」

「中川さん、行ってきて」

「……はい」

 

 斎藤先輩の指示に従って、中川は私の後ろに付いてくる。教室から少し離れた廊下の端で、私は歩みを止めた。

 

「話は、聞いてるな?」

「……それは、まぁ。あすか先輩、ホントに辞めるの?」

「まだ分からないのが現状だ。先生は限界まで待つつもりでいる」

「先生は、ってことは!」

「違うから話を最後まで聞いてくれ。私もそうするべきだと思っている。ここで先輩を切り捨てるのは簡単だ。けれどそれはするべき事じゃない。吹奏楽部のためにならない。少なくとも、先輩自身が退部を決意しないなら、私たちはあらゆる手段を用いて残留できるようにするのが正しいだろう。部員を切り捨てて取る賞に、価値はないはずだ。けれど、演奏の実力を落とすことは、部の目標という観点からできない。なので、中川。君が、田中先輩の代役を務められるように練習してほしい」

「……」

「難しい話なのは分かってる。希美にも後で話を通しておく。必要なら、専門家に頭を下げてみる。あくまでも、万が一のための予防措置だ。黄前さんを一人で大会に出すわけにはいかないだろ? それに、今練習しておくことは、来年のためにもなる。引き受けて欲しい」

「……分かった。でも、一つだけ聞かせて」

「なんだ?」

「アンタは、あすか先輩の味方なの?」

「少なくとも彼女が吹奏楽部の部員であり、対抗勢力がそうじゃない間は。言い換えるなら、この事態の間は」

「信じても、いいんだね」

「私は部活動においては誠実だったと思うけれど。事情を話さなかったことはあるけれど、嘘を吐いたことは無いと思ってる」

「なら、信じる。だから、あすか先輩を辞めさせないために、力を貸して欲しい」

「出来る限り、努力しよう」

 

 中川は小さく頷いた。出来る限り努力するという言葉に嘘はない。ただ、結果的にこの事態をどうにかするのには、彼女自身が動かないといけないだろう。外部の説得に屈する可能性はほぼほぼない。もしあるとすれば、それは相当強い圧力が関係しないといけないはずだ。それこそ、自身の職などに関するレベルの。

 

 だからもし出来ることがあるならば。それは彼女が母親に抗う意思を、後押しすることくらい。それでもきっと私の言葉は届かない。彼女自身のためではなく、部活動のためというあまりにも見え透いた明白な理由があるから。感情論で理性を超えるには、心の底からの動機が必要だ。彼女を失いたくないという、心の底からの。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 カツカツと廊下に音が響く。歩きながら思考は昨日の事を反芻していた。中川と希美には話をして、早速練習に入ってもらっている。私は金管とは言え、ユーフォニアムに詳しいわけじゃない。これまで田中先輩の知識と技術に頼ってきた部分が大きいからだろう。こんな事態を予測する方に無理がある。

 

 今日の練習にも、おそらく来れない。きっとそう一朝一夕で解決するものでは無いだろうから。練習はまともに出来ないだろう。そう思いつつ歩く。足取りは重かった。

 

「あ、桜地君」

 

 突然の呼び声に振り向く。

 

「あぁ、教頭先生。こんにちは。どうかなさいましたか」

「……少しお話があります」

 

 何かがあったな。その声音はそう予感させるには十分だった。促されるままに、小さな面談室へと付いて行く。奇しくもその部屋は、私が春にこの部活に戻るかどうかの話をした場所だった。あの時は戻る者の話を。今は去りかねない者の話を。何とも皮肉なように感じた。

 

「どうされましたか? 昨日の件で何か、あったのでしょうか」

「このようなことを生徒に託するのは、あまり、良くないことなのですが……桜地君は無関係とは言えないでしょう。現在、田中さんのお母さんがお一人で来られています」

「はぁ。それが、何か」

「要件は先日と同じです。ですが、その……」

「何でしょう」

「桜地君に、会わせろと」

「……なるほど。先方は何故そのような話を?」

「分かりません。ただ、昨日の説得は非常に巧みだったと思います。少なくとも相手に譲歩を迫りつつ、こちらも譲歩する姿勢を見せていた。君は教師ではありませんから、田中さんの将来について責任を取る必要もありません。ですので、あの場では最善だったと私は考えています。故に、多少なりとも先方にも思う所があったのかもしれません」

「そう、ですか……。お受けします」

「分かりました。ここで少し待っていてください。万が一に備えて松本先生にも同席して頂きます。滝先生では、少し、ね?」

「は、ははは」

 

 乾いた笑いが浮かぶ。

 

「しかし、先生。どうしてそこまでご尽力下さるのですか。受理することも、滝先生に強権を発動することも出来たと思いますが。先生は滝先生の上司ですし」

 その問いに彼は少しこちらを見つめ、答え始める。

 

「関西大会の映像を拝聴しました。素晴らしかった。音楽など殆ど分からないど素人の私が素晴らしいと思えたのです。あの感動を作ってくれた子たちだ。きっと更に腕を上げて全国大会に望んでくれるでしょう。私は、昨日から寝ずに考えてきました。そして、そんな頑張って努力して、私では想像も出来ない辛さを味わってきたあの子達が、何より田中さんが、こんな終わり方で良いはずないと、そう思ったのです」

 

 誰かの心を動かすことが音楽であるのだとしたら、確かに彼らの演奏は一人の心を動かしている。

 

「努力が報われないことの方が多い。そう思って生きてきました。だからこそ君たちの姿は眩しかった。ひたむきになれる姿に、力をもらいました。私は、この事で何らかの処罰を受ける可能性もあります。それでも、それでも私は最高の形で舞台に臨んで欲しいのです。それが、私の教育者としての責任でもあると考えています」

 

 強い意思のこもった老教師の瞳が私を見つめる。そこには確かな一つの思いがあった。我々は、北宇治の吹奏楽部の演奏はここに確かに、一人の心へ届いていた。それはとても、誇れる事だ。

 

「分かりました。必ずや、全国で最高の演奏が出来るよう尽力しましょう」

「私にはこれしか出来ません。どうか、幸運を祈ります」

 

 教頭先生は部屋を出ていく。数分の後、先日とよく似た装いで、先輩の母親は現れた。後ろには松本先生を伴っている。先生と目線が合う。あまり過激な事はしないように、と言っているのが分かった。面談室のソファに、向かい合うようにして座る。何故この人がわざわざ私に会いに来たのかが読み取れない。想像は出来るが、あくまでも想像の域を出ない。恐らくここで説得は不可能だろう。だとしても、何かしらの糸口がつかめるなら。私はそう思って座っている。

 

「こちら、勝手ながら調べさせてもらいました」

 

 スッと差し出されたのは私の名刺。昨日よりは喧嘩腰ではないように思える。

 

「左様ですか。私に御用でしたら、ご連絡いただければ場を整えさせていただいたのですが」

「それには及びません。そちらも忙しいようですので」

「ご配慮感謝いたします。それで、単刀直入に申し上げますが、本日はどのようなご用件でしょうか」

「あすかからあなたの話を聞きました。あの滝先生が迎え入れたという話でしたが」

「事実です」

「それによって、あなたの言うことは先生も無視できないという話でした。あの先生では埒があきませんので、こちら、あなたの手から渡してください」

「……なるほど」

 

 差し出されたのは退部届。ご丁寧に書類に瑕疵が無い状態で置かれている。

 

「私のご提案、ご一考いただけましたか?」

「えぇ。だからと言って、それを呑まないといけないという話では無いはずです」

「それは道理ですね」

「あなたから先生に説得してもらえば、あの頑固な先生も認めざるを得ないでしょう」

「確かに、やろうと思えば可能であると考えます。ですが、私にそれをするメリットが存在していません。私とお母様はお会いしてまだ一日。さしたる友誼も恩情も互いに存在していないはず。いかなる手立てを以て私を動かさんとするのでしょうか。私は確かにお母様の境遇や心情に多少なりとも共感するところではありますが、それは味方であるということではありません」

「心得ています。ですが、娘がいつまでも進退を決めかねているというのは部活動にとってよろしくないのでは?」

 

 先輩は余計なことまで話してくれたらしい。きっと母親に問い詰められたのだろう。滝先生に強気に出て、あの場を収拾させようとしていたあの若造は何者であるかと。その結果、私の行動信条までご丁寧に話してくれたようだ。おかげさまで不利になりつつある。

 

 やはり手強い。元々決して愚かな人間じゃない。だからこそ私の行動信条を知られてはいけなかった。理論で動いている場合、それを上回る理論で来られると行動不能になってしまう。少し考えて、まずは一回、この攻撃を受けることにした。

 

「他の部員に悪影響を及ぼす可能性のある存在は、切り捨ててしまった方が良いでしょう。指導をするならば、その方が楽なはずです」

「切り捨てる、ですか。なるほど。仰ることは一理あります。しかし……部活動は学校教育の中で行われているモノです。学校教育の中で切り捨てる、という行動は正しいのでしょうか」

「それは綺麗事。実際には多くの場所で有形無形の切り捨てが行われているはずでは?」

「しかし理想論も唱えられない教育環境に、意味はあるのでしょうか。教育に正解がない以上、理想論を追い求めるべきでは?」

「机上の空論は夢と同じ。追っていても掴めないものです」

「これは手厳しい」

 

 先生より厄介だ。普通に面倒な相手であることを認識する。少なくとも、ウチの親戚連中より口が回る。これに対抗するのは先輩と言えども確かに難しい話だろう。例え意思があったとしても、砕けてしまう可能性が高い。

 

 だが切り捨ててはいけないモノはある。再オーディションの時、私を切り捨てるのが一番だと、私は先生に話した。あの時の言葉が間違っているとは今でも思わない。それでも、理想論でも切り捨てないと言ったその言葉を、先生は有言実行した。あの時も、そして今も。吹奏楽部というチーム。その言が思い起こされる。チームメイトを切り捨てるのは簡単だけれど、それは渡ってはいけない橋なのだ。

 

「私の提案であっても、どうしても受け入れられないということでしょうか」

「その通りです」

「お母様、時に子供の人生とはどういうものとお考えですか」

「昨日も言ったはずです。あすかは私が一人で育ててきたのです。だからこそ」

「その将来は自分が決める。そういうお話でしたね。では、先輩自身の選択権、決定権はどこにあるのでしょうか。もしくは、まるっきり存在していないと、そういう話でしょうか?」

「子供は未熟なものです。大人が道を敷いて、苦労しないようにすることこそ大事なはず。あなたも、自分の妹をどうあれ養っているならば、それは分かっているはずです。と言うより、そもそも後見人はどうしたのですか?」

「後見人はいますが、私の両親と今一つ不仲で。全く支援はしてくれませんから、名義だけです。まぁこんな大人ばかりですので、私はお母様は優しいと思いますよ。娘のために道を用意するというのは。道から外れて死んでしまえ、と思ったりしている私の親族に比べれば、ずっとずっと」

 

 少なくともこんな親であっても、いるだけ羨ましいと思ってしまうのはおかしいのだろうか。実際にいたら嫌かもしれないけれど、存在してないよりはマシだと、思えてしまうのだ。

 

「私も妹に苦労はして欲しくありません。私の仕事はどうしても浮き沈みがありますから。ですが、それでももし自分の行きたい道、やりたいことがあるのなら、それを尊重します」

「それは、どうして?」

「私がそうしてもらったからです。私の、今は亡き両親に」

「故人の悪口は言いたくありませんが、それは無責任な話です」

「まぁ確かにそうとも言えるかもしれません。ですが、私が頼んだのです。海外に行きたい。音楽に生きる人生にしたいと。あの時は情熱だけでしたが」

「その結果苦労して、傷つくのは本人なのです。あなたにその責任が取れますか!」

「取れません。というより、何で私が田中先輩の人生の責任を取らないといけないんですか。自分の人生の責任は、誰にも転嫁できるものではないと考えます。それは例え親であっても。なした行いは全部自分に返ってきます」

「それを放置するのは親の役目ではありません! 正しい理想的な人生を歩めるようにするのが、親の役目です」

「その正しさは、何によって担保されるのでしょうか。時代とともに正しさは遷り変っていきます。お母様がお生まれになった頃は女性は寿退職して、家庭に入るのが正しいとされていました。しかし今は当然違います。その理想像は、お母様の世界観の中での理想像に過ぎないのではありませんか?」

 

 世界は広い。それこそ、無限に幸せの形はある。幸いにして、私は色々な国を見てきた。ヨーロッパ、中東、アジア、アフリカ、アメリカ、そして日本。同じ日本の中ですら、幸せの形は違う。そして、理想的な生き方も。

 

「理想像から外れた人生を歩んでいる姿を見るのは、親からすれば歯がゆいことかもしれません。苦しいかもしれません。ですが私はそれでも、人生を選ぶ側とそれを見守る側の両方に立っているからこそ、思うのです。示されたレールの先にある天国よりも、自分で選び取った地獄の方が何倍もいいと」

 

 相手は絶句したまま私を見ている。確かに相手に比べれば、私は数分の一しか生きていない。それでも、十七年分の人生を送って来た。そこには良いことも、悪いことも存在していた。やり直したいこと、間違えたと思うことも無限にある。それでも、何度生まれ変わっても、私は同じ道を選ぶだろう。それが自分で選んだモノならば。

 

「その先は地獄と伝えるのは、親の、見守る者の使命だと思います。時に身体を張って、その道へ行くのを阻止するのも。ですが最後には送り出すべきではないでしょうか。子供は親の人形でも、ゲームのキャラクターでもない。生きていて、親とは違うことを考えて、悩んでいる、一人の人格です。傷ついて帰ってきたら、その時は受け入れるのが()()()()に出来るせめてもの役割と、私は考えます。ですからこれは受け取れません」

 

 テーブルに置かれた紙を、私はスッと相手の手元に戻す。

 

「欧州は地獄ですよ。暮らしたことはありますか?」

「……いえ」

「そうですか。言語も人種も宗教も文化も違うのは孤独ですし、差別は有形無形に存在します。表向きは平等ですからね。真の差別はいない者扱いという形で発生します。正直地獄です。あそこで、真の意味で生きていくというのは。それでも私は何度選びなおせても、もう一度あそこに赴くでしょう。地獄も住めば都。それなりに居心地の良いものです」

 

 相手の牙城は崩れた。私をただの少し口が回るだけの早熟なガキと思ってきたのかもしれないが、あいにくとそれは悪手だ。自分を舐め腐っている相手への対応なんて何回もやっている。人間の毒を煮詰めた存在との対峙経験なら相手よりこちらに軍配が上がるだろう。

 

「今から大分失礼な事を申し上げます。お母様はいずれ死にます。恐らく先輩より早く。子供の人生を見守れるのは長くともあと数十年。その全てをお母様が左右していたら、先輩はお母様が亡くなった後何も出来なくなってしまいますよ」

「大人になれば、自分で選ぶことも出来るはずです」

「そうでしょうか。ではお母様はいつ先輩を大人として、言い換えれば一人の人格として自己決定権をお認めになるのですか? 運転免許証を取れる18歳から? 成人年齢である20歳になった時? それともストレートだと大学を卒業する22歳? 社会に出てお金を稼ぐようになっていることが大人なら、私も大人ですね。17歳ですけど」

「それは……」

「恐らく、幾つになってもお母様の視点から見れば先輩は子供のままですよ。いつでも未熟に見えてしまう。だからきっと、ずっと見守りたくなってしまう。親に必要な事を語る資格を私は有しませんが、理想論を申し上げるなら、自分が死んだ後でも一人で生きて行けるようにすることではないかと。そのために必要なのは、レールを敷くことではなく、自分でレールを敷くのを見守る事ではないでしょうか。間違えることも苦しむことも、子供に、一人の人生に与えられた権利だと、私は思います」

 

 私はスッと席を立ちあがる。これ以上話してもどうにもならないだろう。私が言っているのはあくまでも理想論。そして外野に過ぎない。だからこそもし本当に事態を好転させたいなら、先輩が自分でどうにかしないといけないのだ。

 

「差し出がましいようですが、もっと先輩の話を聞いてあげてください。もしどうしても不安ならば、交換条件でも妥協点でも、見つけてください。でないといつか、全部失ってしまうかもしれませんよ? 子供はいつか、自分を縛るモノから逃げ出そうとするものです。私のように。この後も指導がありますので、もう失礼しても構いませんか?」

「……えぇ。時間を取らせてしまいました」

「いえ。お気になさらず。では失礼します」

 

 扉を閉めるとどっと疲れが湧いてきた。結局あの人は私を通して滝先生を説得させたかったようだ。途中で話をすり替え続けたので結局本題に戻ることなく煙に巻けたのは幸いだったが。これで事態が好転するとは思えない。だが、糸口は見つけた。

 

 交換条件や妥協点。これを見い出せればどうにかなる。多少なりとも私の言葉について考えれば、そうせざるを得ない。先輩が家で母親の指示に従わない行動を見せれば、それは私の言ったことの真実性を増していく。自分を縛るモノからの逃亡。それが現実味を帯びた未来として母親の脳内に現れるはずだ。

 

 監禁して閉じ込めることも出来はしない。そうしてもきっと逃げられてしまう。それは理解しているはずだ。理解できないほど短絡的とは思えない。暴力を用いても、いずれ世間に露呈する。昨日の職員室でのやり取りからも分かるが、世間体を気にしているのは確かだ。ならば、暴力沙汰は出来ない。リスクが大きすぎる。

 

 自分のもとに繋ぎ留めておきたいなら、譲歩をする必要があると少しは考える……と思いたい。これは個人的な願望だ。だがこれ以外に方法が無かったのも事実。教師でも何でもない私に出来るのはここまで。これ以上は先輩本人が何とかしてくれない事には、何も解決しない。

 

 

 

 

 

 

 翌日。私は先輩に呼び出されていた。

 

「ごめんねぇ、ウチのお母さん。いきなり押しかけて会わせろ~なんて、面倒だったでしょ」

「えぇ、まぁ、率直に言えばかなり。とは言え面倒な大人の相手は慣れていますから」

「それって、滝先生?」

「それよりももっと面倒な相手です」

 

 滝先生が面倒な人ということは敢えて否定しない。実際面倒なところもある。

 

「私としては、まさかあの提案で蹴られるとは思いもしませんでしたけど」

「一回はOKになりかかってたんだけどねー。その後すぐにダメって言ったり二転三転して。結局認めたくないんだけど、理性で考えればあの提案を受けるのが丸く収まるのは理解してるみたいで。そのせいで色々ぐちゃぐちゃになってるんでしょ、多分」

「なるほど。と言うより、何しに来たのかよく分からない部分が大きいです。私を使えば先生を説得できると目論んでいたのは理解していますが、どうも詰めが甘いというか」

「さぁ。共感でもして欲しかったんじゃない? 逆に丸め込まれて、余計に何もかも分かんなくなってたみたいだけど。君、お母さんに何言ったの?」

「ごく、当たり前の話を」

「それでああなるとは思えないんだけど……。どんな魔術を使ったのやら」

「商家になってより800年の末裔が私ですから。口八丁手八丁で交渉してこそ商人ですので。まぁそれは良いんです。それよりも……どうするつもりなんですか、これから」

「どうする、ねぇ……」

 

 先輩は遠くの空を見上げた。その言葉にいつものような覇気も勢いもない。衰えて、弱々しいくなったような声音。今確実に、彼女はダメージを受けている。

 

「滝先生は待つつもりでいます。ですが、進退に関して、部長や香織先輩の問いにも答えてくれなかったと聞きました。私は諸先輩方や先生ほど甘くはない。奏者の問題もあります。先輩はどうしたいか。その意思を問いたい部分があります」

「香織から聞いてない? みんなに迷惑はかけないって」

「そうですか。じゃあ、退部届は受け取ってしまって良いんですね? 今から先輩のお宅にでも訪問して、直接お母様から受け取りましょうか」

「……」

「この状況は既に迷惑です。それは進退を決めかねているから、不安材料しか無くて、皆が戸惑っているから。もし辞めるとすっぱり言うのなら、多少の混乱は発生するにしても、やがて落ち着いていくでしょう。月日は悲しみを覆い隠します。もし辞めたくないという意思があるなら、それはそれで構いません。何としてでも大会には出ると、そう表明すれば状況も収まるでしょう。どっちつかずの今が、一番迷惑です」

 

 冷静に、冷徹に、私はただ淡々と事実を述べる。迷惑はかけないというのが既に虚言だ。実際今の段階で既に部は混乱している。その混乱具合は再オーディションや希美復帰の際の比じゃない。明確に、彼女の不明瞭な進退は迷惑と言っても差し支えない状況になっていた。

 

「とはいえ、どうしたいかはもう既に決まっているのではありませんか」

「……」

「関西大会の演奏前の言葉。そして、先日職員室で言った、辞めたくないという言葉。あれが、見えにくいあなたの本心じゃないんですか」

「……私を辞めさせないようにしてる?」

「えぇ」

「まぁ、そうだよねぇ。私が辞めない方が演奏面ではいい。でも吹奏楽部の為を考えれば、私を辞めさせるのが合理的。騒動起こして、全体に迷惑かけてる存在をデリートする。それが全体のためだし、部活のため。そうでしょ?」

「あなたは分かってませんねぇ。私を何にも理解してない。理解して無いのに理解してる風に言わないでください。希美の方がまだ私のこと分かってますよ」

 

 少し呆れた口調で、私は言葉を紡いだ。

 

「前にも申し上げた気がしますが、私は確かに吹奏楽部のためになることをしています。ですがそれは単純短絡な方法ではありません。一見遠回りに見える事でも、すぐに事態を解決できない道でも、まわりまわってそれが一番良い形で作用する方法を模索しています。斎藤先輩の進退、加藤さんの失恋、香織先輩の再オーディション、希美の復帰とそれに付随する諸々。全てそうしてきたつもりです。あなたを切り捨てるのは簡単ですが、それが部活のためになるとは一ミリも思っていません。というか辞めたいんですか?」

「……」

「辞めたくないならそんな変な事言ってないで、どうにかお母様を説得する方法でも考えてください。私はあると思いますよ、道筋」

「それは、ウチのお母さんを知らないからじゃない?」

「かもしれません。しかし、糸口はあると思います。お母様の本音は多分、ユーフォニアム自体が嫌いなんでしょうね。ですが、それは外には漏らしてはいけない部分。だから大義名分として受験勉強を用意してしまった。ですからこれを逆手に取ればいい。相手の大義名分に乗っかる。これが状況打開の数少ない方法じゃないでしょうか」

 

 大義名分は強いからこそ機能する。受験勉強は大きな大義名分だ。世間的に見ても、かなりの効力を持っている。だからこそ、それを利用して、その範囲内で説得材料を用意できれば、それは絶大なカウンターとなるはずなのだ。

 

「……なるほど」

「どう説得するかとかは自分で考えてくださいね。自分の人生なんですし。私は助けませんよ。自分の人生を切り拓けるのは、結局自分だけです。でも、助けてって一言でも言えば、助けてくれる人はいるんじゃないですか。先輩の周りに何人でも」

「それって、晴香とか香織のこと?」

「はい。何が出来るかは分かりません。ですが、味方がいるというのは存外心強いものだと、私は思います。ともあれ、どうしたいのか早めに決めてくださいね。お願いします」

「どうしたいか? どうするべきかじゃなくて?」

「自分の感情のままに行動して、その行動理由を後付けで正当化するくらいは先輩なら造作も無いと、私は思っているのですが」

「買い被り過ぎじゃない?」

 

 何度も思っていることだけれど、この問題は先輩自身がどうにかしないといけないモノだ。周りがとやかく言っても、決して解決はしない。楔は打ち込んでおいたつもりだ。援護射撃ならいくらでもする。先生も、私も、周りの人も。最悪香織先輩とかを引き連れて自宅に突撃し、あの母親の前で土下座をかませばいいと考えている。まぁ最終手段だけれど。

 

「では、よろしくお願いしますね。駅ビルコンサートもその前の合同練習も、枠は空けておくので。来れそうなら来てください」

「分かった何とかしておく」

「当日お待ちしています」

「最後に一つだけ。なんでそこまでするの? 君は賢い子だと思ってる。こんな何の得にもならないようなことして、ウチのお母さんとも話して。何のために?」

「それは吹奏楽部のために。先輩には一応、希美を説得してもらい、全体のためとは言えみぞれへの配慮をしてもらった恩もありますし。あとはまぁ、そうですね……先輩がいなくなると、香織先輩が泣いてしまいそうなので」

「なにそれ」

 

 張りつめた顔が少しだけ緩む。その表情を見て、この人も普通に人間なのだと実感する。滝野や周りが私に抱いていたのは、こういう感情だったのかもしれない。一見すれば少しマシになったように見える。けれど結局、私の言葉は届いていない可能性が高い。私では弱いのだ。どうしても全体のためという要素が足を引っ張る。

 

 あなたのためでもダメだ。それは先輩の母親と言葉と内容を変えただけ。やってることは同じ。だからこそ一番大事なのは、自分のためと言い張れる人だろう。その人物に既に心当たりはある。けれどこれは、誰かに言われてからではダメなんだ。自分のためなんだから、自分から動かないといけない。そうでないと、彼女の心には響かない。

 

 ただ、きっかけは作ることが出来る。何か手段はないか。見つからないながらもそれを模索した。

 

 

 

 

 

 

 いつも通りの報告を終えて、職員室から出ると辺りは大分夕闇に包まれていた。昇降口に陰が一つ。逆光で顔はよく見えなくてもシルエットから誰か分かる辺り私も大分付き合いが長くなったことを感じる。

 

「希美。こんな時間まで待ってたの? 先に帰れば良いのに」

「うーんそうも思ったけど、早く帰る理由も無いし。待ってても良いかなって」

「そうか。ありがとう」

 

 そう言って歩き始める。

 

「あすか先輩、どうなっちゃうんだろう。辞めちゃうのかなぁ」

「さぁ、まだ、何とも言えない。不確定要素が多すぎる」

「随分冷めてるね」

「冷めてはいない、つもりだ。冷静と言ってくれ。あーだこーだとごちゃごちゃ言ってもどうにもならない。一人くらい冷静な奴が必要でしょ。そもそもこの件は良く考えるに家庭の事情であるわけだからして我々が気安く首を突っ込む訳にはいかない」

「また、そうやって言い訳して、何か変な事しようとしてない? 前みたいに」

「そんな昔の話を今するの? 今回は真面目にそこまで多くは考えてない。もっと言えば考えついてない。と言うより先輩本人がどうにかしない事には、解決しない」

「そんな昔じゃない。私にとっては昨日の事と大差ないの。……まぁそれは今は一先ず置いておいても、お願いだから一人だけ傷ついたり苦しんだり、誰かを思って突き放したりしないで」

「……善処する」

「善処? なんでしないってハッキリ言ってくれないの?」

「なんでそんなに拘って……」

「なんで? 大切な人が傷つくのを、誰が見たいと思うのさ!」

「ご、ごめんなさい。そんなつもりじゃ……」

 

 全く予想だにしてなかった強い口調で言われて少したじろぐ。けれどその言葉は、むしろ言われて喜ばしいものだった。

 

「わかればよろしい」

 

 フンと息を吐く姿に少しだけ気分が前向きになって来る。いずれにしても、来るべき時が来てしまったのかもしれない。これまでの部活はどこか、確かに歪だったのだ。

 

 今まで北宇治吹奏楽部が抱いていた大きな幻想であり、空想。田中あすかに対する色眼鏡。その姿は虚構でしか無かった。本音を隠した笑顔に騙されてきた。でも、彼女は特別。それは間違いなく事実だろう。それに我々は頼りすぎていただけなのだ。その結果がこれ。彼女が抜けるだけで回らなくなりかけた部活。すべてそこに集約されていた。

 

 だが、と同時に思う。仲間がいなくなろうとしているのに全く動揺しない部活というのは、果たして正しいのだろうか。その答えはどう考えても否だった。どんな結果を残そうとも、ここが部活動である以上切り捨ててはいけないモノが存在している。人を特別に思うこと。それ自体は決して悪いことではないはずなのだ。問題なのは、特別に思うことと妄信が混ざることなのだから。

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