「あれから、何か動きは」
「矛先は私に向けられているようです。本日、ファックスで送られてきました」
「しつこい人ですね……」
職員室の一角。教頭先生を前に私はそう漏らすしかなかった。滝先生への交渉、失敗。私との対談、不首尾。ともなれば最後に責任者たる教頭先生のところへ持っていったと言うのは話の流れとしては筋が通っている。とは言え、一貫して面倒な事に変わりはない。
「それで、どうするのでしょうか」
「私はあくまでも受け取っただけです。受け取ると受理するのとはまた話が違います。役所でも、そうなっていますからね。書類を受け取った後は、受理する作業が必要ですから」
「なるほど。流石です」
「それなりに長く生きていると、小狡い技ばかり覚えていくものです。それを恥じる日々でしたが、いやはやこんなところで役に立つとは。人生は分からないものです。とは言え、限界はあります。誤魔化せて、二週間。これが限度でしょう」
「分かりました。それまでにどうにかするよう、こちらでも対応を考えます」
「……申し訳ありません。生徒にこのような事を……」
「いえ、気にしないでください。これは、私が選んだことですから」
自分で選んで私はここにいて、役目を果たしている。それは春から一貫して何も変わってない。私は私の意思でここにいる。それだけは、誰にも譲れない部分だった。煩悶することもある、苦しんだことも多かった。それでもその悩みも苦しみも、私が決めて選び取ったもので、私だけの経験であり財産だ。それは誰にも汚させないし、誰にも奪わせない。
私は私の意思で、この人生を送っているのだから。
「……田中さんは、どうですか」
「本人が意思表明をハッキリしてくれないので何とも言えません。もし辞めたくないと一言言えば、それなりに動けるのですが。そうでない以上どうしようも無いですから」
「保護者の強い影響下にいる子供は、自分の意思表示が苦手なことがあります。それは、分かってあげて欲しいところです」
「はい、それは勿論」
「ともあれ、私は今しばらくこの状態を維持するべく行動します。それ以上は約束しかねますので、そのつもりでお願いします。滝先生よりは冷静に動いてくれるでしょうから」
「こちらもそれはお約束しかねますが」
「それは困りました。最悪、二人仲良くクビです」
「その時は、再就職先でも斡旋しますよ」
ハハハ、と小さな二つの笑い声が職員室の隅で響いた。薄くなった頭の老教師は、その気弱そうな見た目とは相反して現状維持に奔走している。現状維持は悪いことのようだが、この状況ではむしろプラス。悪化しないだけマシだ。
だが時間は少ない。残された数少ない時の中で、どう動いていくか。これが我々に残された課題だった。結局意思表示してくれないので困っている。先輩本人の事もそうだが、部活は彼女一人のためにあるわけじゃない。中川をどうするかの問題だって横たわっている。もし実力が足りないなら、最悪黄前さん一人で出てもらうしかない。私がユーフォニアムを吹ければよかったのだが、今からは厳しい。最低三ヶ月あれば死に物狂いでモノにできた可能性もあるが、今は後の祭りだ。
事態は好転していないが、悪化もしていない。この薄氷上の均衡が、今の数少ない救いだった。
「何ですか、これ」
音楽室に入るとパンパンと手を叩く音と共に先生のそんな声が聞こえる。こちらに気付いているのかいないのかは定かでは無いものの、そう告げる先生の姿はかつてのまだ今年が始まって間もない頃の姿を想起させた。思えばこのセリフも聞き覚えがある。
懐かしさや色々な思い出が蘇りかけるのを記憶の棚へと追いやる。確かに歩いているときから腑抜けたというか、覇気のない演奏が聞こえていた。案の定というか想定通りというかではあるものの、やはり聞き苦しい事には変わりなく、全国には到底相応しくない演奏であるのも事実。
「皆さん、ちゃんと集中してます?」
その言葉に多くが目線を落とす。その声は内容に反して剣呑ではない。むしろ、自分の力不足を嘆いているような、そんな声だった。
「あの……」
上げられた手。吉川のその姿に視線が集まる。やはり、こういう時に動くのが彼女だろう。それが良いところでもあるのだ。
「なんですか」
「あすか先輩の退部届、教頭先生が代理で受け取ったって話は本当なんですか?」
「……そのような事実はありません」
話が漏れていたか、別の内容が混ざって伝わっているか。いずれにしても、情報が錯綜しているのだろう。そして運の悪いことに、この話は一部事実だった。受理はしていないが、受け取ってもいない。そういう屁理屈を展開している最中なのだが、それは当然他の生徒には伝わっていない。
「皆さんはこれからも、そんな噂話が一つ出る度に集中力を切らして、このような気の抜けた演奏をするつもりですか?今日は終わりにして残りはパート練にしましょう。よろしいですね部長」
「嫌です」
誰もが目を見開く。空気がざわめく。部長のそんな反抗を目にするのは初めてだった。視線がそそがれる中、彼女は立ち上がり頭を下げる。
「合奏、させて下さい」
その言葉に三年生が立ち上がる。あちこちで椅子と床が擦れる音が響いた。
「私たち、まだ頑張れます」
「お願いします。合奏を続けさせて下さい」
先輩たちの行動に二年生と一年生がつられて立ち上がり頭を下げる。誰もがその姿勢のまま微動だにしなかった。何の返答もないことを不審に思い視線を向ければ、先生の顔に浮かんでいた表情は戸惑いだった。
「違うんですよ」
部員たちの怪訝そうな顔を見つめながら彼は言葉を絞り出す。
「私は、皆さんに怒っているわけじゃないんです。春の頃と違って、皆さんにはやる気があります。一生懸命こちらの話を聞いて、それに応えようとしてくれています。その気持ちは十分、理解しています」
ただ、と彼は少し目を伏せながら言った。
「気持ちだけではどうしようも無いことがあります。いくらやる気があってもこのままでは空回りになってしまいます。田中さんのことを忘れろとは言いません。ですが、練習と心配事を切り離せないようでは、このままずっと上の空で合奏を続ける事になってしまいます。普段できていることができなくなって、ミスが増えて……合奏するたびに下手になってしまうならば、いっそ今の状態で合わせない方が良いと私は判断しました」
その瞳に浮かぶ苦悩は、きっと誰かへの怒りではなく、指導者としての自分の不甲斐なさに向けられたもの。正しいこと、正しい答えなんて誰も知らない。私にも到底分からない。先生の言葉に、誰も反論しない。いや、出来ない。俯いたまま、誰もが立っていた。
「ここからは、パート練習にします。良いですね?」
唸るような返事が響く。教室のあちらこちらですすり泣く声が聞こえてくる。次々と涙があふれている部員が多くいる。その涙は自分たちの不甲斐なさか、先生に失望されたくないという悔しさか、精神的な弱さを克服しなくてはならないと思う決意の現れなのか、そのいずれかであり、いずれでもあるのだろう。
いつの間にか、先生は北宇治の中で大きな存在になっていた。その期待に応えられない事に、涙する人間がいるほどに。それはいいことなのだろうか。この状況の中で、私は事態をどこか俯瞰的に見ていた。そこまで顧問に気持ちを委ねるのは、正しいのか。その浮かんだ疑問を今はしまう。それは今考えるべき主題ではないから。
「後はお願いします」
「分かりました。例の件も伝えて構いませんね」
「……はい」
先生の言葉に私は頷いて了承を示す。
「みんな、少しだけ時間をくれる?」
先生の姿を押し黙ったまま見送った部長は、前へと歩きだしていた。
「あすかがいなくて、みんな不安になるのは当然だと思う。でも、このままあすかに頼っていたらダメだと思う。あすかがいないだけで不安になって、演奏もダメになって……部活ってそうじゃない」
「そんなのわかってるよ」
「だけど……」
その言葉に三年生のパートリーダーたちが反論する。今までの大した仕事もない名前だけの職だったパートリーダーは今年に入ってから仕事量も責任も増えた。そんな彼らこそが、一番副部長に頼っていたのだろう。
「私は自分よりもあすかの方が優秀だと思ってる。だからあすかが部長をやればいいってずっと思ってた。私だけじゃない。あすかが何でもできるから、みんな頼ってた。あすかは特別だからそれでいいんだって」
そこにいたのは、かつての弱気な部長では無かった。四月に震えていたその声は、姿は、今は全くもって震えなどせず、堂々としていた。
「でもあすかは特別なんかじゃなかった。私たちが勝手にあの子を特別にしていた。副部長にパートリーダーにドラムメジャーとか。仕事を完璧にこなすのが当たり前で、あの子が弱みを見せないから平気なんだろうって思ってた。今度は私たちがあすかを支える番だと思う。あの子がいつ戻ってきてもいいように。勿論、去年のことがあったからムカついている人もいると思う。あすか以外は頼りない先輩ばっかりだって感じている子もいるかもしれない。でも、それでも付いてきて欲しい。……お願い、します」
私は斎藤先輩の一件の時、彼女が部長で良かったと言った。そしてそれは今でもそう思っている。この過渡期の中で、他の人間だったら潰れていたのではないか。そんな風に考える。きっと彼女だから出来たことがあった。
去年の三年生は正直嫌いだ。だが、それでも彼らは私たちに唯一たった一つのプラスな置き土産をしてくれた。それには感謝しよう。当代の部長だから出来ることがある。私はそう思ってる。大勢を引き連れる先導者でなくても、共に歩む者として、彼女は存在しているのだ。
「あんまり舐めないでください。そんなこと言われなくても、みんな付いていくつもりです! 本気なんですよ、みんな」
若干潤んだ声でそう返した吉川に皆が頷く。
「ま、あんたの場合、好きな先輩に対して私情を持ち込みすぎだけどねー」
「うっさい!」
犬猿の仲とでも言うべき二人のいつも通りの光景に思わず皆が笑い出す。この部屋に今日初めて笑い声がした瞬間だった。部長も、小さく笑みを浮かべている。この瞬間に私は思った。次の部長は、吉川だと。
「私たちが今するべきことは練習。あすかが戻ってきた時に笑われないように、恥ずかしくない演奏をすること。ここからは気張っていくよ!」
「「「はい!」」」
「先生は戻っちゃったけど、私は全体練習をしたい。お願いできないかな」
部長の目は真っ直ぐに私を射抜く。
「桜地君にはいつも迷惑をかけて申し訳ないと思ってる。あすかのお母さんの件でも、結局全部色々任せちゃったし……それでも、私は!」
「分かってます」
私は敢えて部長の言葉を遮った。音楽室の入り口から歩を進め、そして前に立つ部長の横に向かう。
「部長には部長にしかできない事があると、私は思っています。私は初夏にこう言いました。部長が今年の部長で良かったと。それ以来、その言葉に反する感情を抱いたことは、一度もありませんよ」
彼女が私をどう思っているのかは分からない。それでも私の思っていることは、変わりはしない。それだけは確かだった。
「部長の考えはよく理解しました。しかしこちら側にも限界はあります。大会二週間前までに田中先輩から何らかの意思表示が無い限り、コンクールメンバーは交代とします。それはご理解ください」
「……分かった」
「皆さんもよろしいですね。いいですか、意思表示ですよ。ここをはき違えないように。もし退部したくないという意思をしっかりと確認できた場合は……持てる手段を用いて最大限努力します」
これからどう話を運ぶか少し迷った。しかし、現状を正しく説明しないからこそ噂話が蔓延するような事態になるのだろう。正しく事実状況を通達することで、防げるトラブルもあると判断した。
「現在、目下諸々交渉中です。教頭先生も協力して現状維持に努めて頂いてます。今のところ妥協案として、斎藤先輩と同じ措置にすることを提案中なんですが、先方がどうも手強くて。一度サシで交渉したのですが、楔をさせた感触はありますが後数回押さないと多分どうにもならないと思います」
「交渉って……」
「そりゃ、田中先輩を部活に残留させるための交渉ですよ。先輩のお母様と」
音楽室がにわかにざわめいた。多くが顔を見合わせている。私がこの間に何をしていたのか、その動向が読めないと思っていた部員が多いのだろう。だがこの事態に際し、何もしないという選択肢はあり得なかった。
「何か質問は?」
「斎藤先輩と同じ措置ってことは、もし上手く行ってもあすか先輩は大会に出れないってこと?」
手を挙げた中川から質問が飛んでくる。言葉だけ捉えると、そう考えても無理はない。
「まさか。その交渉が通れば多少なりとも部活に来ることが出来る。来ることが出来れば、練習できる。練習出来れば実力の低下を最低限に抑えることが出来る。その状態を保ち、最後の大会だからと名古屋に連れて行けば、後はこっちのもの。出場させてしまえば良い訳ですね」
「それって詐欺なんじゃ……」
どこからか声が飛んでくる。詐欺に近いことをしているのは事実だ。けれど契約していない口約束を信用しないのが商売人の鉄則。法に反していなければ、騙された方が悪い。相手が吹奏楽コンクールの規約をよく確認しておかなかったのが問題なのだ。こちらのせいにされてはたまらない。契約事項を詳細に詰めない社会人が悪いのだ。
「契約事項を詳細まで確認しなかった向こうの不手際ということで押し切るつもりです。まぁもしかしたら、私や先生が多少処罰を受ける可能性はありますが……その時はその時です」
楽譜を譜面台に置き、指揮棒を取り出す。私のスタイルはいつもこれだ。
「ここからは私の裁量で練習を再開します。ただし、先ほどまでの演奏と同じクオリティーだった場合は直ちに中止します。よろしいですね?」
「「「はい!」」」
「では、始めましょう。部長もお願いします」
「桜地君……ありがとう」
「当然の事をしているまでです」
全体を見渡す。先ほどまでのお通夜のような空気はどこにもない。情熱の炎がまだ灯っているのなら。私はそれに酸素を送ろう。その火が消えることなく、灯っていられるように。
私の裁量で執り行われた練習が終わり、音楽室の鍵を閉めると、私は職員室に向かう。
「お疲れ様でした」
「あ、あぁはい。お疲れ様です」
「勝手に練習を進めました。一応、その報告を」
「いえ、ありがとうございました」
先生は酷く疲れているように見えた。
「先ほど、小笠原さんが来ました。駅ビルコンサートでのバリサクソロをやらせて欲しい、と」
「そうですか。それが、部長なりの決意表明なのでしょう。あれから何か動きは?」
「今は小康状態です」
「となると、悪化はしてないわけですか。それならばまだやりようはあります。問題は田中先輩自身が改めて進退に関する決断を下していないことになりつつあります。それが無用の混乱を招いているのも事実。今回は部長のおかげで処理できましたが、次回以降も同じとは限りません。……辞めたくないと一言でも言ってもらえれば、やりようもあるのですが」
「私は……あの時見せた田中さんの言葉が真実だと思っています」
「ですがそれは正式な意思表示じゃない。大義名分には、その正式さが重要なんです。生徒の意思の代弁。それなら大手を振って動ける」
言葉は難しいが、時には使いようだ。教頭先生が受け取ると受理は別と言っているように。確かに私もあの時職員室で最後に見せた言葉が、きっと先輩の本心であると考えている。ただ、部活の現状や家庭の問題を鑑みて、大っぴらに本心を見せられないのも事実だろう。もしくは、見せたとして何が変わるとも思っていないのか。
私は後者の可能性が高いと思っている。完璧な人間は二つに分かれる。本当に完璧な存在か、あるいはそれを演じている存在か。私の妹は後者だった。だから破綻した。ではなぜ演じるのか。これは人それぞれだろう。先輩の場合は、他人に期待していないからじゃないかと思えている。
だが、私は彼女が真の意味で他人に期待していない、ということは無いとも思っている。何故なら、本当に他者に期待していない人は、誰かに怒ることもしないからだ。先生は深くため息を吐いた。少しだけ、話題を変えたくて話の種を探す。しかし見つかったのは、これまで先生のデスクには無かった写真だけ。
「……橋本先生と新山先生ですね」
「あぁ、これですか。橋本先生が勝手に置いて行ってしまって。ほんと、しょうもない人です」
「真ん中にいらっしゃるのは、奥様ですか」
「橋本先生から伺ったそうですね」
「えぇ。申し訳ありません。私から詮索したわけでは無いのですが」
「良いんですよ。私も、伝えるべきだったのかもしれません。思うに、私は教師ですからあなたの個人情報も見ることが出来ますし、担任の鈴本先生からも申し送りを受けています。ですが、こちらの事については伝えそびれていました。同じ仕事をしているのに、それは少し不誠実だったかもしれません」
先生は頭を搔きながら言う。机の上に置かれたマグカップから珈琲の匂いがした。
「橋本先生がここのOBなのは周知ですが、私の妻もここの出身だったんですよ。橋本先生とは同期で。当時は私の父の指導を受けていました」
滝透。十年前までこの部活の顧問だった人だ。北宇治に存在していたかつての栄光の時代。その黄金期を作り上げた男である。今は教職を引退し、市民楽団の指揮者をしているらしい。
「私は、父が嫌いでした。休日もずっと部活動の指導に明け暮れて、家庭を顧みたことはありませんでしたから。教えようとしてくれる父のことも、ずっと避けていました。トロンボーンも、父に教わったのはごく幼少期の記憶だけです」
「そうでしたか」
「桜地君は、誰にトランペットを?」
「最初は母です」
「清良女子の、ミスパーフェクト。先方の顧問の先生からそうお聞きしました」
「そのあだ名、あんまり好きじゃなかったみたいですけどね。努力して無いみたいに見えるって言って。昔のアルバムを見ながら、あんな問題があったとか、この子はこんなことやらかした、面倒だったみたいな話をされたのを覚えています」
一見完璧に見えても、悩みや迷うことはある。それを周りに見せるかどうか。母は自己肯定感が高いのか何なのか、迷っても最終的には「私が出した答えなんだし正しいよね」の精神で押し通したらしい。実際それで大体上手く行っているので、余程能力が高かったのか天運に恵まれたのか。今となっては確かめる余地も無い。
「奥様は……何の楽器を?」
「……ユーフォニアムを」
「そうでしたか」
「妻は、父のことを尊敬していたようでした。私は元々教師になるつもりは無かったのですが、トロンボーン奏者として食べてはいけなかったもので。妻は初めからそうするつもりだったようですが」
「奥様も、顧問を?」
「はい。私とは反対でした。私がコーラス部の顧問と囲碁部の副顧問をしている間、彼女はずっと吹部一筋でした。小さい部活でしたが。元々吹奏楽部の顧問をするつもりはなかったんですが、前の学校で小さい吹奏楽部の副顧問を頼まれました。まぁ、先生の人数の都合で割り当てられただけなんですけどね。個人的な感情とはともかく、やるからには生徒に失礼の無いようにと勉強して……少人数編制でしたが、大会でもそこそこまでは行けました。妻と違い、私は多少向いていたようです」
「奥様は、優しすぎたんでしょうかね」
「慧眼ですね。どうしてそう思いましたか?」
「写真を見る限り、あまり厳しい指導をしている姿が想像できなかったもので」
その写真に写っているのは穏やかな女性。烈火のごとく怒る姿も、先生のように冷徹に指導する姿も、私のように鉄面皮に徹する姿も見えない。むしろ、去年の顧問の面影をどこかに感じた。学生に舐められ、理想は不完全なまま利用されていた、あの顧問だ。
「厳しさばかりが部活では無いと、私も思うのですが……妻は色々と悩んでいたようです。それでも元気な人でした。運動が好きで、だから余命宣告の時には、もう頭が真っ白になりました。出来る限り側にいようと思いましたが、月日の経つのはあっという間です。気付いたときにはもう、私の側からいなくなってしまいました」
「……いきなりいなくなるのも、ゆっくりといなくなっていくのも、どちらも辛いですね。月日が経つのは嫌なものです。段々と、相手の事を忘れていく自分がいる。その声を、その姿を、少しずつ思い出せなくなっていく自分がいる。思い出の中の存在が薄れていくのに怯えながら、日々を過ごしていくしかない。前にもお話した親友がいました。その子の声が最近、あまり鮮明に思い出せなくなっている気がします」
四年を過ごした友は既に亡い。残された者たちは今、バラバラに活躍している。私だけが燻っていた。今年は良い方かもしれない。やっと、燻っていた状態から脱出することが出来たのだから。駅ビルコンが終わった頃に来れそうと言っていた私の友人も、だから来てくれることを選んだのかもしれない。前に進み始めたのを、感じたから。
「桜地君は……語弊を恐れずに言うならば、強いのですね。私は一人だけでこの有様です。それが後二人追加されるとなると、もう耐えられそうにありません」
「私も強いわけじゃないのですけどね。ただ、音楽だけは辞める気になれなくて。その子にも怒られてしまいそうですし。同じトランペットで、私より上手かった。私はコンクールで評価されたり売れたりする音楽は得意ですが、芸術性ではきっと負けていた」
「だから、最初に上には上がいると知っている、と言ったわけですか。現在、世界で一番と言われながら」
「そういう事です。楽しいことが好きな子でした。向こうも飛び級で、同じ世代の人は他にほとんどいなかったものですから、交流を持つのは必然的だったのかもしれません。人生は楽しむためにあるのだ。だからこそ、その楽しみにこそ全力を尽くして、最善を目指そう。そう言っていました」
遠い日々の残響が聞こえる。あの声を、もう最近は鮮明に思い出せなくなってしまった。映像の中にある記録だけが、彼女の声を今に伝えている。けれどそれを聞いても思うのだ。こんな声じゃなかったような気がする、と。気がするだけなのかもしれない。ただ、本当のそれとはまたどこか違うような、そんな気分になってしまう。
「先生は奥様のために、全国に?」
「どう、でしょうね。そういう側面があるのは否定しません。妻の夢は自分が全国に連れて行って、そこで金賞を取る事でした。学生時代に、遂に果たせなかった夢。それを実現させることが、夢だったようです」
「では、その夢を継ごうと」
「顧問になった理由は違いますが、目標を設定したのは、無意識にそれを考えていたのかもしれません。あの時は全然違うことを思っていたわけですので」
「顧問を断ることも、出来たんじゃないですか? あまり、いい思い出ばかりではないと思いますが。特に、北宇治高校は」
「そうですね。父を私から奪った場所、という意味ではそうでしょう。ただ、妻が死んでから無気力になっていた私が、北宇治に転勤することになったとき、父が訪ねてきたんです」
「お父様が?」
「吹奏楽部の顧問をしてくれないかと頼まれました。父は校長に頼まれていたようですが。その背景には、恐らくあなたが存在しているのだと思います」
「私?」
「えぇ。あなたが教頭先生を通じて、昨年度の問題を職員間に周知させました。同時に火消が出来るようにもした。その結果、吹奏楽部の現状を何とか変更できないかと考えて、父経由で私に話が来たそうです。最初は断ろうかと考えましたが、いつまでも塞ぎ込んでいてはいけないと思いまして、引き受けました」
ここに至るまでの過去の話。私が、そして生徒が知らない話。それを今先生は語った。
「その話、最初に生徒にでもすればもう少しスムーズだったかもしれませんよ。私だって、心を動かされたかも」
「そうかもしれませんね。ただ、同情で人を動かすのは好きではありませんでした。今、こうして全国大会に出場できるとあって、私にも人並みに欲が出てしまった。出れるだけで嬉しいから、妻の夢を叶えたい、に。これが正しい感情なのかどうか、判断は出来ないでいます」
「……」
「思えば、私の個人的感傷で部員や、あなたも巻き込んでしまいました」
「部員に関しては本当にそうですよ。反省してください。ただ……私に関しては特に気にしなくて良いです。私は結果論ではありますが、今この場所にいることが出来て良かったと思っていますから」
「ありがたい言葉です」
「ただし。大っぴらにする気が無いなら、他の部員にはこういう話はしないようにしてください。してしまうと、先生のためにという理由が出来てしまいます。字面だけ見るとは悪いことではありませんが、先生への同情が混じった献身は、行動を歪ませる原因にもなりかねません。部活は彼ら生徒のために存在しています。自分のために、頑張るべきなんです。先生の事情で生徒を頑張らせるようなことは、あってはいけないと私は考えます」
「肝に銘じておきたいのですが、既に黄前さんに話してしまいました」
「マジかぁ……」
ちょっと呆れた声を出す。黄前さんは何でこう要所要所に顔を出すのだろう。再オーディションの時はあれでいい。高坂さんの味方でいてくれて助かった。ただその後も希美の件と言い、職員室にたまたまいた件と言い、この話と言い。願わくば、彼女が変な方向に思いを抱かない事を願う。
「それはともかく。ですから、私はあなたに感謝しています。私がこんな欲望を抱けるようになったのもあなたの力添えがあったからでしょう」
「それはまぁ……否定はしませんけど」
「実は父にも関西大会の後怒られてしまいました。協力してもらうにしても相手をもっと考えろ、と。今度高坂さんのお父さんと合わせてそちらに伺うことになるかもしれません」
「大したもてなしは出来ないと言っておいてください」
滝先生の父親にあまり用事は無いし、別に来なくてもいい。けれど、高坂父に関しては「娘がお世話になっております」くらい言っても良くないかと思っていたので、それを言いに来たということなのだろう。まぁ向こうも忙しいようなので、遅くなったのも無理は無いと思うが。
「本当に気にしなくていいと思っているのは事実です。とんでもない人に出会ってしまったとは思いましたけど。でも私は、自分の目的遂行のためにあらゆる手段を考え実行するというやり方は嫌いじゃありません。身近に有効な戦力がいれば使おうと考えるのも。私にも私の目的があります。ですから先生も奥様の夢、叶えれば良いじゃないですか。他者に迷惑をかけない限り、どんな夢を持つのも自由ですから。まだ愛してるのでしょう? 前に聞いた好きな花、そういう意味なんでしょうから」
どこかで他愛もない話の中で出た話題。好きな花。私はナスタチウムと答えた。
「イタリアンホワイト。花言葉は『あなたを想い続けます』」
「かないませんね」
少し照れるように、先生は言った。私はこんな風に情熱を、愛情を抱き続けられるのだろうか。失った後でも、なお。愛することはできるのだろう。けれど、それを失ってもこうしてまた前を向けるのだろうか。あの太陽のような眩しい笑顔を、失っても。答えはきっと一生出ないだろうと、夕闇の中にある職員室で、そう思った。