結局、その後も先輩が戻ることは無かった。一向に改善の兆しの見えない現状に、部員の多くが不安を感じていた。十人十色の思いを抱えながら、彼らはただ待っていた。彼らの求める人物の帰還を。
中には現状打破を望み行動を起こす者もいた。夕陽に包まれた教室に呼び出された私は、呼び出した張本人の顔を見ながらこの後の展開を予想していた。
「あー、呼び出された理由は何となく分かってると思うけど……」
「これ以上はどうしようもない」
「早いなぁ……」
少々突き放すような言い方になってしまったと反省する。別にいじめたくて言ったわけでは無かった。
「私は結局、先輩のことをよく知らない。過ごした日数なら、君の方が多いだろ。中川が有効な手段を考えつかないなら、私に思いつくとは思えない」
「分かってるけどさ。頭の良い人なら、自分には思い付かないアイデアが出てくると思うのはある意味当然じゃない?」
「私は提示した案を本命に据えている。他にもやりようはないことも無いけれど……それはあくまでも最後の手段と思ってる」
会話が途切れ、教室を沈黙が支配する。聞きたいことが一つあった。今なら聞けるだろう。それはここで聞いておかないといけないこと。
「そもそも、どうして君は先輩に復帰を求めるのか、それを聞かせて欲しい。部活のため? 特定の誰かのため? それとも……自分のため?」
「……全部だよ。全部。部活的にもここまで来たら全国に行きたいし、今の雰囲気はダメだと思う。香織先輩たちも、低音パートのみんなも沈んでる。それに……」
「それに?」
「私、先輩が好きだから。最後に全国で吹いて欲しい。それじゃあ、ダメなのかな」
ダメか、と聞かれれば間違いなく問題ないだろう。中川が果たして先輩の背中を押す力になるのだろうか。その疑問に今一つ自信を持てないでいる。一番密度が濃い時間、すなわち今年のA編成としての記憶を共有していない事の影響を、私は測りかねていた。
「分かってるか?」
「何が?」
「惚けなくてもいい。このまま先輩が戻らないなら君が全国で、あの舞台で吹ける。だが、もし戻って来たらその努力は……」
「いいんだよ」
私の言葉は最後まで口にすることを許されずに遮られた。
「いいんだよ。それで。まぁ、私もさー、出てみたいよ。全国に。でも、それをするにはまだ努力が足りない。自分でそれを分かってるからこそ、そんな理由でのうのうと出場する自分が許せないじゃん。だから、来年までお預け」
努力が報われない選択肢に自分から突き進んでいくのは、人によってはそれを愚かと評するのかもしれない。しかし、その選択肢が取れるのは、愚かであっても強く、優しいのではないかと私は思う。強くない者に、そんな事は出来ない。優しさは強さだと、私は思っている。
希美の時も、彼女は他者のために行動していた。多くに拒まれつつも。今もなおまた、動いている。その行動原理の底にあるのは、献身なのかそれ以外の何かなのか。読み取ることはできないけれど一つ分かることがあるとすれば。このままフェードアウトして終わりというのが正しい結末ではないということだけだろう。
希美の件で諸々力になれなかったという負い目もある。それを考えれば、共闘するのは良いことだろう。味方は多い方が良い。それを上手く使いこなすことが出来るならば、どんな場合においても。
「勿論引き続き出来る限り協力はする。そちらも仲間を集めて欲しい。君の後輩にも、声をかけておいてくれ」
「ん。サンキュ」
先輩の心を動かせる可能性がある人材は多くない。友人では少し足りないのではないか。そう思っていた。自分勝手になるには、香織先輩も部長も斎藤先輩も押しが弱い。それに、側にいるからこそ見えないモノもある。思い浮かぶのは妹の顔。あの子の弱さを私が見えなかったように、近すぎると分からないこともあるのだろう。
程よい距離で、己の意思で動ける存在。それが誰なのか候補は二人。目の前の中川か、黄前さんか。だが私は後者を本命と思っている。中川の意思は敬意に値するけれど、彼女は先輩を特別だと思っている。特別と思うことも悪いことではないけれど、それは相手への理解を諦める、ある種の諦観だ。己のカテゴライズの中に相手を括っている。
「ちなみにさ。その最終手段って何?」
「有志を募って先輩の家に突撃し、母親の前で土下座でもして懇願する」
「……それ、上手く行くの?」
「社会において交渉事の場合、相手に土下座させたら負けだ。もうこっちは切るカードも何もない。人間の尊厳ぶちまけて頭下げてるんだ。これ以上は腹切るしかないぞという意思表示になる。相手に社会性があればあるほど、窮地になっていく。何らかの対応をしないと、話が進まないわけだし」
「マジかぁ」
「ウチはこれを一回だけやった事がある。その一回はしっかり成功しているわけだから、伝家の宝刀ではあるけれど……勝率が無いわけじゃないと踏んでいる」
学生相手だと思われたら通じないかもしれない。しかし相手は二度の交渉を経てこちらを社会人と認識しつつある。その中でこの技はある程度効力を発揮するんじゃないかと思っていた。もうこれもダメだと、禁じ手に手を伸ばすしかない。自爆特攻してダメなら、差し違えるしかないだろう。
「戦後にやって成功したから今も行けるとは思わないが……確率としてはゼロじゃないと踏んでいる。だからいざとなったらやるしかない」
占領地に送った社員は帰ってこないし、持ってた船舶は徴用されて沈むし、工場は止まるし、貿易は出来なくなるし、経済は大混乱で大阪は爆撃され、おまけに財閥解体と公職追放を食らい、持っていた農地も農地改革で大分持っていかれ、満州利権も消滅した戦後の時代は土下座外交でどうにかしたと聞いている。本当かは知らないが、ともあれやる価値はあるんじゃないかと思っていた。
「まぁ、分かった。一応覚悟はしておく」
「頼んだ」
相手がどう思うかは分からないが、こちらの示せる覚悟はこれくらいが限界だ。一般学生に出来るのはそれくらい。そもそも、結局意思表示がなされていない事に問題がある。もし意思表示をしてくれれば、もっと大手を振って動けるのに。
「北宇治高校の皆さん、こんにちは!」
借りたホールでは、大きな声で相手の部長が話している。駅ビルコンサートの前日、前々から話のあった清良女子との合同練習会という名の実質北宇治が勉強させて頂く会が始まった。
先輩は今日も姿を現していない。こればっかりはしょうがないだろう。それでもそんな事を表に出すわけにもいかず、北宇治の部員は皆緊張した面持ちで席に座っている。天下の名門校相手に演奏を披露する機会などそうそうない。とは言え、名古屋に来るのはこういう学校ばかり。右を向いても左を向いても、強豪しかいないのが全国大会だ。
「本日は私たちとの時間を作って下さり、ありがとうございます! 精一杯、有意義な時間にしましょう!」
ハキハキと話している清良の部長。非常に話慣れているというか、恐らくコンサートなどでもよく人前で話しているのだろう。ガチガチになっているウチの部長とはまた違った雰囲気を醸し出していた。
そしてその演奏は非常に上手い。舌を巻くしかないというのが実情だった。先にこちらが演奏するようにしておいて良かったかもしれない。これは非常に、そう非常に上手いのだ。それ以外に言葉が出てこない。ここまで完成された演奏を行える集団だとは。演奏を生で聞いたのは随分前の話。それ以来音源を聞くことはあっても、生で聞くのは初めてだった。
部員一同は息を吞んでいる。これが全国金の真骨頂。それも大会ではないから、幾分かリラックスしている事だろう。それでこれなのだ。全神経を張り詰めた大会でどんな演奏をされるか、それを想像したら鳥肌が立つ。金の壁は厚く、大きい。誰かが欠けた状態で突破できるような、脆い壁ではない。上には上がいる。その言葉はまさに、今のためにあるかのようだった。
全員高坂さん。そう考えるのが適切かもしれない。或いは、それ以上か。ともあれ、この中の何名かが高校で音楽を辞める可能性があるのを考えると、損失であるようにすら思える。
「お久しぶりです、大友先生。母の、葬儀以来でしょうか」
「そんなになるかしらねぇ」
清良の顧問の先生は私の挨拶にそう返す。今は各パートに別れて交流している時間だ。最初に部員に「今日は先生に教わるつもりで全部技を盗んでくるように」と言っておいて良かった。積極的に教わりに行く姿勢が作れている。正直同じ高校生とは思えない演奏団体だったけれど、役に立つならば何でも使っていかないといけない。折角向こうから誘ってきたのだから、利用し倒さないと損だ。
特に、ユーフォニアムは上手い奏者の子が何人もいた。先輩が出れるか出れないか不明瞭な今、黄前さんと中川にはしっかり教えを乞うてくるように言ってある。特に、黄前さんと同じ一年生と言っていた子にかなり上手い生徒がいたのが印象深い。
我らが滝先生はトロンボーンパートに捕まっていた。女子校の生徒に滝先生は随分と刺さるらしい。実際、嬉しそうな顔をしている相手の生徒が多かった印象を受ける。
「生演奏を拝聴したのは随分と久しぶりです。ここまでとは、正直脱帽です。指導をやっていますが、まだまだここまでには出来ません。未熟さを痛感しました」
「今年一年であの演奏なら、十分にやっているとは思いますよ」
「ただ、それは大会にも観客にも関係ない。そうですよね?」
「その通りです。ですから私たち清良は、常に聞かせる相手がいることを意識しています。妥協無く、どんな場所でも全力で。それこそが私たちのやり方であり、誇りでもあります」
「敬服するばかりです」
「あら、そのあり方を作り出した発端はあなたのお母さんですよ。1990年、清良女子が初めて全国大会へ出場した時の、部長だったのですから。不思議な縁ね。清良を始めて普門館に連れて行った子の息子が、弱小校をもう一度全国に引き戻した最初の世代を引っ張っていたなんて」
「それは……何とも数奇な話です」
「そうよねぇ。あの子は、あなたのお母さんはちょっと変わった子で。でもいつでも完璧に近かった。明るく、堂々と、今風に言えば、ちょっと中二病だったのかも?」
そんな風に笑いながら、彼女は、私の母の下で副部長をしていた先生は遠くを見ながら言った。
「部長就任の第一声、覚えてるわぁ。『この私が部長になったからには、全員を必ず普門館に連れていく。そして私たちの後清良は毎年そこへ行く。その栄光の第一世代が私たちと知りなさい。私たちの前に道はないけれど、私たちの後の代は、私たちの歩いた道を行くのよ。だから全員、私を信じて付いてきなさい!』と言って高笑いしてたわ。とんでもない子が部長になっちゃったって唖然としながら皆言ってた。顧問の先生も、大分引いてたわね。でも、それでも本当にそれを実現してしまった。あの子が泣いてるのを見たのは、後にも先にも九州大会に勝った時だけね」
確かに母親が泣いているのを、私も見たことが無かった。どんな時でも胸を張っていたし、自分が正しいと疑ったことも無いような顔をしていた。祖母と揉めているときも、結局あの面倒な祖母がいつも折れていた。折られていたの方が正しいかもしれない。
「あの子は私たちにとって特別だった。でも、全国行きが決まった時、私の前だけでは泣いてたのよ。『私を信じろって言って、もしダメだったらどうしようって思ってた。良かった、本当に良かったよ。嘘つきにならなくて、よかった』ってね。その時思ったわ。あぁ、この子もちゃんと人間で、私たちと同じ場所にいるんだって。特別な子だとしても、きっと普通の場所もあるのね」
彼女は遠くを見つめて目を細める。そこにいるのは、両校のトランペットパート。あのメンバーの中に、昔の友の面影を見ているのかもしれない。遠い日に共に歩んだ、栄光の旗手の姿を。
「北宇治、いい音を出すわね。あの時の私たちみたいな情熱がある。ちょっとユーフォの音が弱いけれど」
「あー……そこはちょっと色々あって。今一番上手い先輩が抜けてるんです」
「あらそうなの。どおりで。」
「部内問題も大変よね。あなたのお母さんも苦労してたわ。まぁでも、何と言うか勢いが強いから。大体それで何とかなってたし、皆毒気を抜かれてた。それにしてもあの一年生の子、ウチの真由とどっちが上手いかしら」
「そちらの方が上手いんじゃないですか。まだ」
いつかは追い抜かしてやるという意味を込めて、そう言った。
「その負けねぇぞこの野郎って顔、そっくりねぇ。やっぱり息子なだけはあるのかしら」
「そうですかね」
「そうよぉ。……北宇治はもっと上手くなるわね。今年より来年。来年より再来年。これはただの予感だけど、そんな気がする。そうなってもまた、こうしてお相手してくださるとありがたいわ」
「こちらこそ、勉強させていただくことばかりです。いずれ、あなた方を追い抜かす日まで」
「簡単に負ける気はないわよ」
「こっちだって」
ふふふ、と意味深に笑い合ってるところに、高坂さんが走って来る。
「桜地先生。清良のトランペットの方が是非教えを乞いたいって言ってるんですが……」
「私からもお願いするわ。あなたのお母さんの話時々しちゃってるせいで、トランペットパートでは有名人なのよ。行ってあげて。色々教えてくれると助かるわ」
「分かりました。今行きます」
高坂さんに引っ張られてトランペットパートのもとへ向かう。何と言うか、負けたくない負けたくないと、高坂さんの顔に書いてある気がする。清良のトランペットパートも彼女に負けず劣らず上手い。だからこそ、絶対負けないという闘志が燃えているのだろう。
「桜地先生、ご指導お願いします!」
「「「お願いします!」」」
清良のパートリーダーが深く頭を下げ、十数人いるパートメンバーも全員頭を下げてくる。それを見てちょっと困惑しているウチのパートメンバー。後で聞いた話によると、羨ましい環境と散々言われたらしい。
田中先輩の姿は無かったけれど、この交流はかなり刺激になったらしい。先輩の存在を一時忘れてしまうくらいに、部員の情熱は燃え滾っていた。今度相手にする存在を近くに認識したことで、その闘志を燃やしたようだ。それならば少しは意味があったのかもしれないと、安堵する。部員は皆前に進んでいる。その輪の中に、一人欠けている事だけが残念だった。
綺麗な快晴の下でコンサートが始まろうとしている。サンフェスや文化祭など多くのイベントで天気に恵まれて来たが、今度もどうやらそのようだ。
京都駅の駅ビルは流石観光都市京都の玄関口と言うべきか、独特な外観内観をしている。クリスタルパレスのようなガラス張りの高い天井。曲線、幾何学模様の現代美術が至るところに施され、設計者の気合が伝わる。地元と言えば地元だが、それでもあちらこちらに目移りする。
演奏場所は大階段の前のステージ。北宇治の番は後少し。準備を始めていた。ここに来る前、清良女子を発見したので顧問の先生や部長さんたちに軽く挨拶をしてきた。今は待機中の部員たちを見ている。松本先生が今日別の仕事でお休みなので、その分も部員をちゃんと見なくてはいけない。
「あすかっ!」
「何よー? お化けを見るような顔して」
楽器を抱えた先輩がいた。少し驚きつつ、その姿を見る。何とかするとは言っていたけれど、どうにか出来るとは思っていなかった節もある。恐らく今日も黙ってここに来たのだろう。
「来れたんだね」
「言ったでしょう? 迷惑はかけないって」
一応進退を決めてもらえないという迷惑を被ってはいるけれど、一番それを言う権利のある先輩方や低音パートのメンバーが何も言わないのを見て、黙ることにする。問題など何一つ解決していないのに、部全体の空気は明らかに明るくなっていた。それは低音パートも、そうでないパートも。まさしく、精神的な支柱だった。
「あすか。私、ソロ吹くことになったから」
その部長の宣言。そこには、前に話していたもう頼りきりにはならないししないという決意の現れ。特別だと持ち上げて、勝手に期待して押し付けて。そんなものはもうおしまいだと言うように部長から副部長に向けて楽譜は渡される。
「今度は私の演奏を、しっかり支えてね?」
「……勿論!」
このやり取りを見る限り、大丈夫そうだ。少なくとも今日は。問題の根本的解決がなされていない事に不安を抱きつつ、今はこのコンサートに集中する事にする。
私は観客席側から演奏を見る。場所は一番前の特等席。曲目は『宝島』。吹奏楽の定番であり軽快かつ陽気メロディーは聞く人を踊りださせるようである。この曲一番の見せ場はバリサクのソロパート。そこそこ長くまた今日は観客のド真ん前で演奏するので緊張も凄いだろう。それを任されたのは我らが部長だ。
パーカスがアンサンブルをし、曲が始まる。メロディーが作られるにつれ、客席から若干合ってない手拍子が入っている。これもこういうイベント系の演奏会の醍醐味だろう。気が付けば周りの人が増えていた。演奏に惹かれて来たのだろう。次々と人がやって来ており、その数はまだまだ尽きていない。
こんなにも人を惹き付けられる演奏が出来るようになっている彼らに喜びを抱く。立派に成長している。その練習は無駄では無いのだ。こういうコンサートだからこそ、観客の反応は大会よりダイレクトに伝わる。普段は演奏の機会の少ないB編成の子たちにも、これで演奏の楽しさが伝われば万々歳だ。
最高潮の盛り上がりの中、いよいよ最大の見せ場であるバリサクソロに突入する。アレンジを施したその演奏は素晴らしいの一言に尽きるだろう。いつもの様子とは真逆に堂々と演奏する姿は、この部活の部長があの人である理由を改めて認識させる。謙虚だとか引っ込みがちだとか色々言われているが、その秘めた芯の強さが彼女が部長たる所以だと、確かにそう示していた。
そして、そのソロパートの演奏が終われば、会場は今日一番のかつ鳴り止まない喝采に包まれた。無論私も手を叩く。最後に全体の演奏が終わったときも大きな拍手が起こる。演奏者の誰もが、満足感に満ちた顔をしていた。全国大会前ではあるものの、このイベントに参加した意義は大いにあったと思った。
演奏が終わると自由時間になる。と言うか解散だ。先生がここで解散にしてくれたので、大分楽になる。さて、皆はどうするのかと思えば、全員清良の演奏を聞いていくらしい。人の入れ換えに合わせて私のいた周辺に無理やり全員入ってきたのでちょっとキツキツなんだが…。場所取りしていた訳じゃないんだが。
「せ、狭い……」
「文句言わないで。いの一番に私の隣を陣取ったんだから。甘んじて受け入れて」
「うぅ……もうちょい寄れない?」
「努力はしてみる」
「ごめんね……」
ぎゅうぎゅうになってる事に文句を言ってるが、演奏終わった瞬間に即行で来たんだから我慢して欲しい。希美は先日の合同練習で清良のフルートに衝撃を受けたらしい。まだ上には上がいると確信して、今まで以上に猛練習に励むようになった。
「あ、始まるよ」
その声に前を向けば、先日の部長さんが挨拶をしていた。そして、それが終わるといよいよ演奏が始まる。北宇治と違い清良は三曲やるらしい。うちとは格が違うと言うことだろう。
演奏曲は『マードックからの最後の手紙』。タイタニック号に乗船していた航海士の名前で、船が沈む瞬間まで乗客救助に命を賭した人物の名だ。彼は家族への手紙を書くことを日課にしており、それを題材にした名曲である。
壮大な音は、稀有な演奏を伴って甘美な響きを会場に満たしていく。痺れるような音、そして脳内にある「マードック」の楽譜に書かれた音符は全部光り輝いている。一切の瑕疵などない。リズムの変化も、構成の複雑さも意に介さなように、その演奏は正確無比でいて、最高級の臨場感を持って続けられていた。
しっとりとしたパート、そして激しいパート。遷り変る曲は奏者の目まぐるしい指の動きをもたらす。それでも何も動じることなく、精密機械のように演奏は行われた。昔のアンティーク時計を思い出す。何もかも手作りで作られたそれは、寸分の狂いもなく動いていた。まさに、そんな演奏。最後の一音まで精巧に形作られた演奏は、間違いなく日本最高峰だろう。
ここで聞いている我が校の部員の多くも、大きな拍手を送っている。勿論私も。
「ここまで全力で演奏させていただきましたが、皆様お楽しみいただけましたでしょうか。こうして京都で演奏する機会を頂けて、部員一同大変嬉しかったです。本日は演奏を聞いてくださりありがとうございました」
MCは部長が勤めている。強豪校では結構そういうところもある。ウチの部長はそういうことはやりたがらないタイプなので、むしろ珍しいのかもしれない。
「次で最後になります。最後の曲はここ京都府在住の新進気鋭の作曲家にして世界最高峰のトランペット奏者。そして本校とも縁深き桜地凛音先生の曲です。先日イタリアで行われた作曲コンクールで準優勝された曲を早速演奏します。曲名は「我が第二の故郷に告ぐ」。なんと、今日は私達の演奏を聞きに作曲者ご本人が来てくださいました。期待に答えられるよう頑張ります。是非見ていて下さいねー! それでは、最後までお楽しみ下さい!」
私の名前が出た瞬間幾つもの視線がこちらに向けられる。多分若干ひきつった顔をしてたと思う。隣がさっきから笑いながら肘でつついてくる。と言うか、今年の最初に世に出たくらいの曲をもう仕入れてきたのかと、少し驚いた。先日は全然そんな話をしていなかったので、サプライズされたのだろう。
曲が始まる。自分で作ったのでその構成はよく知っている。その上で言うなら完璧だ。楽譜通りいや、それを上回る出来になっている。素晴らしいの一言に尽きるだろう。こんな風に演奏してもらえるのは、クリエイター冥利に尽きると言うもの。
「我が第二の故郷に告ぐ」。そういう風にタイトルを付けているけれど、これは結局大学時代を過ごした街への賛歌だ。オーケストラ用だけれど吹奏楽部用も一応用意してある。構成は全部で五章まである。一章では有史以前をテーマに「琥珀の地」、二章では中世の繁栄をテーマに「大海原へ」、三章では近世をテーマに「自由の街」、四章では近現代をテーマに「軍靴」、五章は私の記憶をテーマに「思い出」とそれぞれ銘打っている。
全体的にスピーディーさを持たせて、流れるような感じの曲に仕上げた。一章は物語の始まりをイメージし、二章では海がメインなので壮大に。三章は楽しく浮かれるように。四章は重厚に、重苦しく。そして五章は全てを混ぜつつ終盤へ向かう。かなり速いところもあるし、難易度は相当あるはず。それをよくここまでという思いだ。
曲が終われば、喝采が響く。部員たちも圧倒されたように拍手を送っていた。私も当然演奏してもらった側として拍手を送る。次からもお願いしようと思った。
「凄かったねぇ」
「あんなサプライズやるなんて。心臓に悪い」
「でも、嬉しいでしょ」
「それはそうだけど」
「ならいいじゃん! 素直に嬉しいって言いなよ~。そう言えば、この後暇?」
「暇と言えば暇だけど、そう言えば希美、他の人はどうした?」
「みぞれは優子が連れてっちゃった。夏紀は香織先輩といるみたい」
「香織先輩と。珍しい取り合わせだね。それで……暇ならどっか行こうという訳か」
「うん。まぁどこ行くかは決めてないけど」
「じゃあ着いてきて。良い店を紹介する」
「え、ホント?」
「もちろん。優雅にティータイムと行こう。題して放課後ティータイムだ」
そんなわけで京都駅の近くにある喫茶店にやって来た。ここのお店は割りとお値段はするものの、味は滅茶苦茶良い。自信を持って人に薦められるレベルだった。 あんまりお金はないけれど、さっき清良が演奏してくれた曲を出したコンクールの賞金がもうすぐ入ってくるはず。その額約60万ほど。やっとまともに生活できそうだ。
「うーん。うーん」
希美はさっきからメニューと格闘中だった。
「何してるの……」
「美味しそうなんだよ。美味しそうなんだけどお金の持ち合わせが……」
「あぁ、それなら気にしないで。元々私が連れてきたんだし、今日は奢り」
「え、でもそんな悪いって」
「いいって。女子と二人でお店に来て、しかも自分で連れてきておいて割り勘は私のプライドが許さないし……次はそっちが出してくれたらOKってことで」
「それなら、お言葉に甘えてありがたく頂きます」
手を合わせて拝むようなポーズをする。次もどこかこうして行けると良いなぁという思いを込めてみたのだけれど、届いているのだろうか。
「今日は、あすか先輩来れたね」
「……そうだなぁ」
「この感じでこれからも来れれば良いけど」
「……」
それは希望的観測。本人も分かっていてそう言ったのだろう。
「夏には色々迷惑かけちゃったし。何か出来ることがあればしたいけど」
「家庭の問題だからな。我々には難しいさ」
「そんな事言って。あすか先輩のお母さんとは交渉してるし、それ以外にも出来る事は協力してくれるんでしょ? 夏紀から聞いたよ」
「出来る限り、な」
「香織先輩も喜んでたよ。これであすか先輩を連れ戻すぞ大作戦も成功に近付いたって。今日夏紀が呼ばれてるのもそれの件だし」
何か今すごい頭の痛くなるような名前が聞こえた。
「何作戦だって?」
「あすか先輩を連れ戻すぞ大作戦」
「何だその幼稚というかトンでもセンスな名前は」
「これ、考えたの香織先輩だよ。」
「素晴らしい作戦名だ。溢れ出る芸術的・文学的なセンスが感じられる。これを考えた人は芥川賞も固いだろう」
「わーお見事な手の平クルクルだね」
「ありがとう」
「誉めてないよー。どや顔しないの」
「冗談はこれくらいにしてその作戦、どういう事するんだ?」
「先輩のお母さんに頼み込むんだって。幸富堂の栗饅頭が好物なんだって。先輩のお母さん」
「それ、本気で言ってるの?」
「……本気だよ」
「目を見て言いなさいな、目を。まぁ、それは最終手段というかおまけだな。それに、今のままでは多分成功しない。きっと我々ではダメなんだ。誰か別の人でなくてはダメなんだと思う。その候補はいるんだけど……」
まだ中々動けないままでいた。先輩がどうしたいのか。その意思が無いと難しい部分はある。だがその大作戦なら、黄前さんも巻き込めるだろう。もしかしたら何かを打開する可能性があるかもしれない。私は再オーディションの時に見せたあの、場の空気に呑まれず手を叩いた精神性に期待している部分があった。こんなことを彼女任せにするのは、気が引けるけれどそれしかやりようが無いのも事実。
もし先輩の心を動かしてくれれば、援護射撃は先生と教頭先生と松本先生で幾らでもする。だが、今はそれに至っていない。今日戻って来たことで部が明るくなった。まさしく、その姿は、特別というに相応しいのかもしれない。部長が否定しても、きっとどこかで彼女は多くの特別であり続けるのだろう。
「特別ってなんだろう」
「特別?」
部長の話を聞いたとき僅かに心に引っ掛かった小さな欠片。
「誰かを、何かを特別だと思うのはダメな事なのか、と思って」
「私には難しい事はよく分からないけど、特別に思う人がいるのは悪いことじゃないし、普通だと思う。でも、特別だって言ってその人を崇めたり、勝手に比べて自分を下に見たりするのは違うと思う。特別に思いつつも、隣にいられたら素敵だよね」
そんな意見が来るとは思わなかったから、目を少し大きく開く。確かにそんな関係は素敵というのが相応しく思えた。
「お、来た」
「え、あ、ホントだ」
注文の品が運ばれてくると、彼女は目を輝かせながら食べ始める。その様子を向かい合った席から見守る。そんなに食べて大丈夫なのだろうか。ケーキは別腹だと言うがそういうものなのか。何にせよ、美味しそうに食べてる姿は年相応に可愛らしいと思う。
先送りにしているのはそうなのかもしれない。現にここまでの会話で、何か糸口が掴めた訳ではない。それでも、茜色の日が差し込み曇りガラスが輝き、ランプの灯る綺麗なこの空間が、この二人の時間が続けば良いのに。幸せの味を噛み締める。
今この時だけはあらゆる問題は別世界の事のように感じられた。