音を愛す君へ   作:tanuu

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第五十音 正念場

 カリカリとペンの音が静かな室内に響く。コンサートで一時的に顔を見せた先輩だが、結局あの後部活には顔を出さないままだった。副部長の業務は多岐に渡っており、本来その仕事内容では無いものの専用の係りとかも無い仕事も引き受けていたようで、それをする人がいなくなってしまっている今、代わりの人材は私だけだ。手が比較的空いているのは私のみである。他は全員練習中だ。

 

 他の部活との折衝やお知らせ作成、予定の管理にコンサートの後始末(主催者への御礼状など)、保護者向けのプリント作りなど。それを今現在一手に引き受けている。加えて昨日学校宛に清良からお手紙が来たのでその返信も書かねばならない。曰く、また機会があればご一緒しましょう的な話だった。

 

 元々業務の一部は肩代わりする契約だったので慣れてはいるけれど、それでもある程度は向こうがやってくれていた分、こっちに回って来る仕事はそれなりに量がある。清良からの手紙には私個人宛も同封されていたので、それの返事も書いている。こっちは私事なので構わないのだが。

 

 部長を筆頭に三年生の方々も手伝ってはくれるが、大会も近い上に、受験も迫っているなかこれに時間を取らせるわけにはいかなかった。

 

「ふぅ……」

 

 長い息を吐いて腕を伸ばす。コキコキと肩の骨が音を出した。同時にゲホゲホと咳が出た。最近風邪が流行り始めている。気を付けなくてはいけない。

 

「おーす、やってるねぇ」

「お疲れ」

 

 扉が開き静寂は終わる。ペンを動かす手をゆっくりと止めて顔を上げる。

 

「あぁ、練習か。OK、今どかす」

 

 荷物を片付ける。ここからは練習の時間だ。仕事は一度終わらせて、練習に集中する。先輩は戻ってこないが合奏は普通にある。ユーフォは一人では足りない。その為、中川は現在毎回合奏練に参加している。だが、実力はまだまだなので、暇そうな希美を拉致してここで一緒に練習させている。二人同時に強化出来るので大変効率が良い。この調子なら来年は二人ともコンクールに出れるだろう。

 

 ちなみに、吹奏楽部の部員の中でも技術的に頂点を極めると音大進学という道が待ってる。と言っても、今この部で音大に受かると思える人は少ない。各パートに一人いるかいないかと言った所だろう。強豪校の仲間入りをしつつある北宇治部員ならば、来年以降音大進学者も出るかもしれない。誰が行くのかは分からないが。

 

 練習は淡々と進める。やるからには手加減はしないし、それを望んでもいないだろうから。高坂さんや吉沢さんのレッスンもこの後に控えており、四人の奏者を同時並行で面倒を見るのは中々骨が折れる仕事だった。

 

 夕暮れの教室にユーフォとフルートが掛け合いを始める。楽譜を凝視しながらそれを聞き続ける。時々口を挟みつつ練習は続く。落ちるのが早くなった秋の夕日が教室に満ちている。ここだけを切り取ればこの教室は絵の中の景色のようだろう。

 

 ガラガラガラと突如としてノックも何もなしに扉が開け放たれた。音はピタリと止まり、私もそちらに首を回す。めちゃくちゃビックリした。心臓が止まるかと思った。寿命が縮むからやめて欲しい。

 

「あれ、黄前ちゃんどうしたの?」

 

突撃してきたから緊急の用事かと思いきや黄前さんは、教室を見渡しハッとしたような顔をする。

 

「あ、す、すみません。いきなり……。三人はどうしてここに……?」

「音楽室人多いからね。ここの方が練習に集中出来るんだよ。二人はその付き添い」

「まぁ、私は誰かさんに拐われてきたんだけど」

「何を言うんだ人聞きの悪い。実際暇でしょ。来年コンクールに出るためにも死ぬ気でやるんだよ」

「あははは……そうですか」

 

 愛想笑いを浮かべそして、気落ちしたような表情を浮かべ彼女は去っていった。出ていった後の教室は少し沈んだ空気になる。中川は目を伏せて、希美は困ったように頬を搔いた。

 

「ねぇ……今の黄前ちゃんさ……」

「うん。やっぱりそうだよね……」

「先輩が吹いていると思ったんだろう」

 

 彼女もまた、復帰を願う一人なのだ。それこそ音を聞いて勘違いとは言え、ここに突撃してくるくらい。もっと言えば、中川と先輩の音が聞き分けられないくらい。深くこの問題が心に影を射しているのは明白だ。

 

「やっぱり私じゃ、頼りないよね……」

 

 そう言って手を握りしめた中川の姿を直視したくなくて目を伏せた。否定も肯定も、役には立たないだろう。何を言ってもおためごかしにしかならない気がして口を開かないことを選択する。希美は困ったような顔をするだけだった。

 

 

 

 

 

 

「先日、またお母様がお見えになりました」

「……まぁ十中八九駅ビルコンサートの話ですよね」

「えぇ。ただ、私は関知していませんので、知らぬ存ぜぬでお帰り頂きましたが」

 

 教頭は素知らぬ顔でそう言う。上手く誤魔化してくれているというか、状況を悪化させない程度に援護射撃をしてくれている。助かる話だった。娘の将来を案ずるが故。そういうことを言っておけば、割と正当性があるように見える。将来を案ずる、あなたのために。そういう言葉はよく耳にする。

 

 だが本当にそうなのか。確かに本当にそう言う時もあるだろう。本当に踏み外してはいけない道を踏み外そうとしている時に止めるのは大事なことだ。けれど一般にはそうじゃないことが多い。あなたのため、は本当にあなたのためなのか。私にそれを言った存在は、ほぼ例外なく自分のためだった。

 

 将来が今の延長線上にあるのなら。今を全力で生きる事の出来ない存在に、果たして将来は訪れるのだろうか。社会の歯車になるとしても、個人には個人の人生があって、考えがあって、そして尊厳がある。それは生まれたての子供から、死にかけの老人まで。それを無視してはいけないのだ。法に反しない限り、個人には自由に生きる権利がある。行使できるかは、また別としても。

 

「どうもご迷惑をおかけします」

「いえ。ですが、承知とは思いますが、何度も同じ手は通用しません」

「はい。重々理解しているつもりです」

「忸怩たる思いですが、他者の人生に介入するというのは大きなモノです。それは我々教師であってもそう簡単には出来ません。出来る限りの事はしますが、それ以上は何も……」

「動いていただけるだけで、ありがたく思います」

 

 教頭先生に何度もお礼を言って、私はまた音楽室へ戻っていく。このやり取りももう何回目になるだろう。今回の件はとにかく校長・教頭と言った上司陣が理解があったためにここまで引き延ばせている。事なかれ主義ですぐに親に屈していた場合、こうはならなかっただろう。先生がいかにごねても、先生は教頭先生の部下にあたる。上司命令とあっては逆らうことも出来ないだろう。

 

 だからこそ、どんな場合であれ味方を増やすことは必要なのだ。学校内であろうとも、学校外であろうとも。特にそれがそのコミュニティ内で一定の力を有している場合は。頭がボーっとする。ここ数日関節がたまに痛い。疲れやすくなっているし、風邪を引きそうな気配がある。薬は飲んでいるけれど、果たしてどの程度効くのだろうか。

 

 しかし先輩の事や自分の体調ばかり気にしている場合ではないのも事実。今日は夏休み以来の橋本先生の来校日だった。パーカッションパートを筆頭に、実力は向上している。全体の様相はともかく、個々の実力は確実に上がっているはずだった。その確認も相まって来てくれたのだろう。

 

 彼が音楽室に入ると、空気はあからさまに明るくなる。いつものような出で立ちは夏の頃とほとんど変わらない。間もなく冬になろうという暦だが、10月に入ろうとしていても一向に気温は下がらないままなので彼の装いの方が案外涼しいかもしれない。

 

「はい、ありがとう」

 

 一回通して演奏した後、橋本先生は何とも言えない表情と声でそう言った。

 

「えーとそうだなぁ、うーん……。正直に感想を言わせてもらうと、辛気臭い」

 

 ズバリと切り込まれた言葉に、部員たちは少し目を伏せる。誰もが自覚はあった。音に籠っている情動が、決して明るいそれではないということを。

 

「学校が始まって練習時間が減っているのに、夏休みの頃の音を維持できているのはスゴイと思う。けど、あの頃よりみんな固い。音がガチャガチャで聞いててキツイ」

「「「はい」」」

「もしかして、全国だからって緊張してる? みんな全然面白く無さそうだよ。滝クンみたいに怖い顔して」

「私は怖い顔なんてしませんよ」

「これだから自覚のない人は困るなぁ」

 

 少しだけ空気が和らいだ。先生をいじるという、部員には出来ない行為を使えるのが彼の特権だった。彼の持ち味はその空気操縦の能力だ。それも、ポジションな方向性を持った。先生も同じことが出来るが、春の頃然りそのやり方は少し破壊的だ。笑いと明るさで人を動かす橋本先生、理論で人を動かす先生。その違いは部内の空気を変えるのには役立つ。

 

「色んな学校の子に言ってるけど、ボク実はコンクールってあんまり好きじゃない。一生懸命やってるなら金でも銀でもいいと思ってる。まぁでもどこの学校の子にも『金じゃないと嫌です!』って言われちゃう。当たり前の話だけど」

 

 コンクール中心主義。日本の吹奏楽部によく向けられる批判だ。全日本吹奏楽コンクールに傾注するあまり、それ以外の音楽活動がおろそかになっている、或いは厳しい部活動を課している等々。海外よりも音楽活動を容易に始められる環境である一方で、そう言った批判も後を絶たない。それは昔から言われている事だった。

 

「他人の評価は当然大事だ。音楽なんて聴かせてなんぼなんだから、自己満足な演奏ってのは勿論ダメ。けど、金だの銀だのっていう評価を気にして雁字搦めになってもいけない。音を楽しむと書いて音楽。明るく、楽しく、朗らかに! はい復唱!」

「「「明るく」」」

「ハキっと明るく!」

「「「明るく、楽しく、朗らかに!」」」

 

 無理やりにでも気分を転換するには、こうして声に出すしかない。声に出すという行為は案外馬鹿にならない。内心を敢えて口を動かし、外に出して耳で聞くという行為は、自己意識を変革するのに役立つこともある。だから鏡の前で自己暗示をするという行為が存在するのだ。

 

「はい、じゃあ気になったところを順番に言っていくと……まずユーフォ。全然音聞こえなったけど、ホントに吹いてた?」

「ふ、吹いてました」

 

 黄前さんに矛先が向くのは分かっていた。中川はまだ仕上がってない。今出ても全体を壊してしまう可能性がある。だからこそ、希美と猛特訓の最中だ。おそらく、この時間も。だがその間はどうしても音が弱くなってしまう。黄前さんは下手でもないし音量も出ているが、元々二人だったのが一人という弊害は大きな影響を持ってここに現れていた。

 

「一人だからかもしれないけど、音小さいなぁ。あの~いつもの上手い先輩は? ほら、赤眼鏡の」

「あすか先輩は……その……」

「今日は欠席です」

 

 答えに窮した黄前さんに、後藤が助け舟を出す。

 

「この大事な時期に? まぁいいや。とにかく、もっとちゃんと鳴らさないと」

「はい」

 

 小さな咳をしながら、黄前さんは答えた。やはり抜けた穴は大きい。橋本先生は先生の肩を叩く。そのやや乱暴な仕草に、先生の顔は驚いたような顔になった。そしてチラリとこちらに視線を送った後、部員たちの方を向く。

 

「ここが、正念場だよ」

 

 その言葉は、まさしく真実だった。

 

 

 

 

 

 

 翌々日の練習が終わったのは夕暮れの中だった。橋本先生に指摘された日、熱っぽいと言った黄前さんは一日休んでまた復帰してくれた。この時期に長期間ユーフォが戦線離脱すると困ってしまうので、早く治ってくれてよかったように思う。高坂さんがお見舞いに行くというので、何か適当に買うようにと渡したせいで、私の財布は隙間風を吹かせていた。

 

 それはともかく、かく言う私もここ数日あまり体調が良くない。元々関西大会が終わるまで何とかなればいいという精神で無理をしてきたツケがやって来たのだろう。秋ぐらいには危ないと17年間の経験が告げていたが、そろそろその時期が近付いていた。

 

「では、本日の練習はこれで終了しますが、一つ、皆さんにお話があります」

 

 練習終わり、先生はそこで言葉を少し区切った。

 

「田中さんが今週末までに部活を続けていく確証が持てない場合、全国大会の本番には中川さんに出てもらいます」

 

 部活に全く顔を出してない以上、もうどうすることも出来なかった。もしこれで、仮に母親が私の提案を受けてくれたならば、少しでも練習をすることは出来た。しかし今現在、全くユーフォニアムに触っていない状況であろうと推察される。家で練習できる環境とも思えない。

 

 音楽は一日やらないだけでガクッと実力が落ちていく。このままではいずれ中川と先輩の実力は逆転しかねない。その分水嶺が今だった。全国大会まであと20日程度。先輩の急激に下降していく実力グラフと、中川の緩やかだが上昇していく実力グラフが交わるのも、間もなくだった。

 

「確かに、技術的には現時点で田中さんの方が優れています。しかしその優位も、長期間のブランクを経るごとに減っていきます。それに加え、いつ練習に参加できるのか分からないという不安要素を抱えたままコンクールに臨むのは最善ではないと考えました。もちろん、田中さん自身にやる気が無いとは考えません。ですが、今回の件は許容範囲を超えています」

 

 先生の顔には迷いが見えないように思う。だが私は知っている。この決断は苦渋の上で行われたモノだ。私とも長い間話し合い、その結果もたらされた選択肢である。私はもう少し待つことを主張したけれど、先生は提案が受け入れられるのは望み薄と考えているようだった。

 

 最終手段を使わないといけない日は、刻一刻と近付いているように思える。

 

「田中さんと中川さんには早くから、こうなる可能性を伝えていました。本人たちも納得しています。中川さんには明日から合奏に参加してもらいます。最終的な判断は来週行うつもりですが、皆さんもその心積もりでお願いします」

 

 先生は部長へ視線を送る。固まっていた彼女は、ハッとして立ち上がった。

 

「それでは本日の練習を終わります。ありがとうございました」 

「「「ありがとうございました」」」

 

 先生が出て行っても、部員たちはすぐには動かない。その目と顔には不安が見て取れた。本当に先輩がいなくなるのか。大会には出れないのか。退部にはならなくとも、実質的にそれに近い状況に置かれてしまうのか。そういう不安が、彼らの表情には存在している。その目はやがて、私の方を見据えた。私に事態の解決を迫るような、そんな感情を含んで。

 

「……もし、大会で良い評価を得ようと思うなら、先輩のことは早々に諦めるのが、非常に合理的な判断でした。しかしながら、私はそれを相応しい判断とは思いませんでした。それがどうしてなのか。様々な理由が存在します。勿論、今のように皆さんの精神状態に悪影響が出るからというのもあります」

 

 誰一人動かないまま、私の話を聞いていた。どう話を進めるべきか迷いながら、私は次の言葉を口に出す。

 

「ただそれと同じくらい、それが正しい行動なのかという問いがあったのです。橋本先生はコンクールでどの賞をとっても良いじゃないかと言いました。それは、部活動に関する話だからです。私は、そうは思わない。私はコンクールのおかげで今の地位を築いた人間です。皆さんにこうして指導を行っているのも、先生が私にそれを要請したのも、全てコンクールやコンテストと呼ばれる存在で結果を出したからに他ならない。拝金主義・コンクール迎合と私を非難する人間も一定数います。しかし、食っていけないようでは音楽どころの話じゃない。私はそういう人生を歩んでいます」

 

 コンテストで優勝すればお金が入る。有名になれば、知名度によって依頼が来る。大きい会社や団体からの依頼はそれだけで大金だ。取材料、出演料だってそれなりにいい額をしている。少なくともバイトをするよりも短時間で大金を稼げるのは事実だ。

 

 そうやって地位や名声によって私の資金源は成り立っている。そうでもないとあの無駄に広い家にかかる税金は払えないし、妹と共に満足に暮らすことも出来ないだろう。

 

「売れる音楽、評価される音楽こそが私の音楽です。だからこそ、芸術面では大きく負けている部分があるのも事実。ですから、皆さんに教えているのもコンクールで評価されやすいであろう音楽です。けれど部活動という観点で考えた時に、それは果たして正しいのか。そういう疑問は常に持ち続けています。コンクールで金だろうと銀だろうと、皆さんには一銭も入りません。それでもやるからには、もっと違う所に価値があるはずだ。私はそう思っています。吹奏楽部というチームで、メンバーを欠くことなく出場する。それこそにもし、部活動である意味があるのだとしたら。私はまだ、諦めるべきではないと考えます。ですので、もう少しだけ待ってください。出来る限りの、最善を尽くしてみます」

 

 部員たちがどう思うかはまだ分からない。納得してくれたのかも。だが、今できる事をしなくてはいけないだろう。まずやるべきことは決まっていた。今の今まで、巻き込む理由が見つからなかった。だが先ほど、中川から連絡が入り、情報が共有されている。今の状態ならば、こちらも大手を振ってとりかかれるはず。 

 

 その想いを胸に、私は中川と共に黄前さんを呼び出すに至っていた。彼女には中川には出来ない事が出来るんじゃないかと、これまで密かに考えていた。物事の中心に近い位置にいた彼女ならば、多くを学んでいるはずだと。

 

 そして何より、先輩自身が彼女に背中を押してもらうことを願っている。その根拠は簡単だった。何故なら、先輩は勉強を教えるという名目で彼女を家に招いている。無論嘘ではないと思うけれど、本当とも思えない。何の意味も無しに、この状況で、彼女が後輩を家に招くだろうか。

 

 そもそも、勉強しないといけないのは受験生である先輩の方。黄前さんの数学が割と悲惨なのは知っているが、それでも受験生に割ける余裕があるとは思えない。それが先輩ならば、なおの事。

 

「黄前ちゃん。私たちからお願いがあるんだけど」

「お願い……なんですか?」

「これ」

 

 中川が渡したのは一枚のメモ。多分記憶が正しければあの……素晴らしい名前の作戦が書かれているはずだ。 

 

「え? あすか先輩を連れ戻すぞ大作戦……?」

「何ですか、その作戦?」

「あ、言っとくけど作戦名を決めたのは、香織先輩だから」

「す、素敵な作戦名ですねー……」

 

 心の籠っていない声が聞こえる。もっと心から褒め称えないといけない。この部活にこの作戦名と立案者を聞いてなお酷評出来る存在がいたら連れてきて欲しいものだ。噛み締めれば味がする食べ物のように何度も作戦名を口にすれば味わい深くなるはずだ。……多分。

 

「でさ、黄前ちゃん明日あすか先輩の家に勉強教わりに行くんでしょ?」

「無理です」

 

 凄まじい即答だった。 

 

「まだ何も言ってないけど」

「そこでお母さん説得してこいって言うんですよね?」

「まぁね」

「無理ですよー。無茶言わないで下さい。そういうのはほら、もっと得意な人が……」

 

 黄前さんが私に視線を送る。私を見られても困るので、スッと視線を外した。それを見て、少ししょんぼりとする黄前さん。その肩を中川は軽く掴む。端から見れば慰めてるように見えるが、私には絶対に逃がさないと言っているように思えた。

 

「大丈夫。香織先輩から良い物もらってるから」

 

 取り出されたるは虎の巻などではなく、こちらも小さなメモ用紙。

 

「駅前、幸富堂の栗饅頭が一番おすすめだよ? 何ですか、これ?」

「あすか先輩のお母さんの好物なんだって。これさえ持ってけば、全ておっけー!」

「私の目を見て言って下さい」

「おっけー……」

 

 最後の最後で中川の語尾が尻すぼみになる。 

 

「はぁ……」

「けど、本当に今まで上手くやってきたよ。高坂さんの時も、みぞれの時も」

「私は何も……」

「そんなことない。あすか先輩がどうして黄前ちゃんを呼んだと思う?」

「わかりません」

「私は黄前ちゃんなら何とかしてくれるって期待してるからだと思う」

 

 それは、かなり身勝手な期待だ。彼女には、その期待を達成する義務など無いというのに。同情しつつも、彼女に賭けている自分がいる。力のあった否定の言葉は少しずつその勢いを失っていた。強い口調でも素晴らしい名文句でもないけれど、中川の話す言葉は、確かに彼女の心を溶かしていた。

 

 本心より紡がれた言葉だからこそ、心に届く。今までの努力を棒に振っても、誰かの為に動き続けるその善性に、黄前さんの心も緩み始めているようだった。

 

「そんなことないです。それに、それでもしあすか先輩が戻ってきたら……夏紀先輩、吹けなくなります」

「私はいいの。来年もあるし。今この部にとって一番良いのは、あすか先輩が戻ってくることなんだから。」

「それは、夏紀先輩の本心ですか?」

「黄前ちゃんらしいね。うん、本心だよ」

 

 彼女はまだ、決めあぐねている様子だった。そう簡単に決断など出来ないだろう。頼んでいることはとてつもなく重い荷だ。

 

「終わったー?」

「希美。私から行くって言ってたのに……」

「希美先輩。鎧塚先輩」

「伝えて欲しい、あすか先輩に。待ってますって」

 

 そのみぞれの言葉は、彼女を頷かせるには十分だった。

 

 

 

 

 

 

 

 放課後の学校は静かな世界だ。この西日が支配する光景を、私は嫌いじゃない。だか、今の私の気分ではこの景色を楽しむ余裕など無かった。へばりつく何かを落とすために自販機の前に立つ。飲み物と一緒に飲み込んでしまいたかった。

 

「先輩」

 

その声に振り向く。声の主は意外な人だった。

 

「どうしましたか、黄前さん。……とは言え、まぁ、話の内容はなんとなく察しがついていますが」

「少し、相談があって……」

 

 ふぅ、と息を吐き、彼女を見る。

 

「聞きましょう。その話」

 

 場所を少し移す。彼女の手には暖かい紅茶が握られていた。

 

「あの、これありがとうございます」

「良いんですよ。ついでですし。百円も二百円も大して変わらないので」

 

 そう言いながら、缶コーヒーを開ける。その独特な香りと混ざった砂糖の甘い匂いが鼻から伝わる。

 

「あすか先輩の事なんですけど……」

「正直無茶苦茶な話をしてるのは自覚しています。中川も、私も。どうしても無理なら断ってもらっても全然構わないというか何と言うか……まぁそんなところですね」

「いえ、そういう訳じゃなくて。分からないんです。どうやったら、あすか先輩を説得できるか」

「なるほど……」

 

 本質的な所に彼女は気付いてるのかもしれない。皆、先輩の母親を何とかすれば良いと考えている節がある。だが、それは一介の学生には難しい話だ。不可能に近い。現に、私の交渉は停滞状態。打破する糸口は掴めないままでいる。

 

 なら、どうするか。先輩自身が、何かをしなくてはならない。具体的には材料を用意して、それを使って母親を説得するとかだ。これまでそう言う風に促してきたし、妥協点を用意するようにと母親側にも楔を打ち込んでみた。

 

 けれど楔は打ち込んだだけではヒビが入るだけ。大きな石を割るにはさらに大きな力でその楔を打ち込まないといけない。だからこの問題には先輩自身が何とかしなくてはいけないのだ。我々に出来るのはヒビの数を増やすだけ。問題という石を割るのは、彼女自身でないといけない。

 

「どうして、私なんでしょうか」

「この問題は、いかに我々が動こうとも先輩自身が自分で何とかする必要が存在しています。我々はどこまでいっても外野。問題の根本に位置しているのは、二人だけ。だからこそ、どちらかが動かないことには現状維持しか出来ません。そしてこの場合における現状維持は緩やかな衰退を招きます。私は先輩にそういう話をしました。その上で交渉を行う際に必要と思われることもお伝えしました」

 

 相手の用意している大義名分に乗っかるという話だ。向こうは受験勉強を盾に自分の根本的な要求であるユーフォニアムを辞めて欲しいという願望を押し通そうとしている。だがそれは社会的に見て親のエゴでしかない。だからこそ、同じエゴでも受験という社会的に見て非常に反論しにくいところを突いてくるのだ。

 

 無論、部活をしていて有名大学に受かることはある。私の従姉だって、予備校にもいかず限界まで部活をして普通に受かっている。だがそう言う反論は無意味だ。個別のケースでは平均をはみ出した異例な値を参考値にしてしまう事もある。

 

 よって、他者のケースを引っ張るのではなく先輩自身が何らかの結果を出す必要があった。結果を出す。それはウチの家でも求められていること。だからこそ、この考えに至るのは早かったと、自分では分析している。大義名分に乗っかり、結果を出す。そういう方法があるとは伝えていた。だが、それが実行されたのかどうかはまだ分からない。

 

「ですから先輩はやり方を知っています。ですが黄前さんを呼んだのは……恐らく背中を押してもらうためではないかと」

「背中を、ですか?」

「はい。親とは、子供にとって大きな存在です。それこそ、場合によっては絶対と言って良いかもしれない。先輩は母子家庭ですので、母親の存在は非常に強いものだったでしょう。それは今でも。だからこそ、抵抗するには大きな勇気を要する。そのためには、孤独では戦えない。故に黄前さんに僅かでも背中を、最後の一押しをして欲しかったのかもしれません」

「どうして、香織先輩とか部長とかじゃないんでしょうか……」

「そればかりは何とも。妄想に近い部分になってしまいますので」

 

 君が自分に似てると思ったからじゃないか。そういう予想をなんとなく立てていた。だがそれを言っても混乱させるだけかもしれないと思い、黙っておくことにした。

 

「或いは、辞めたくないという思いを再確認するためかもしれません。先輩は自分がフェードアウトすることが部のためで、皆はすぐ自分を忘れると思っている節があります。それを黄前さんに否定してほしいのかもしれませんね。これもまぁ、言ってしまえば憶測ですが」

「なるほど……」

「それより黄前さんは、何故先輩に拘るのでしょう? そしてあなたは、どうしたいですか?」

「それは……」

「結局中川でも良いじゃないかという考えも出来ます。私と希美との特訓で実力は付いてきてる。別に先輩じゃなくても良い。むしろ、混乱をもたらす先輩にはとっととフェードアウトしてもらった方が良い。金賞を取りたいのは事実だけれど、全国にはもう出た。最初の目標は達成している。だから、別に先輩でなくてもいい君は周りに言われたから拘っているように見せてる……」

「それは違います! なんでそんな事言うんですか、桜地先輩が吹奏楽部っていうチームでメンバーを欠けることなく出場することに意味があるって言ったのに」

「怒らないで。そんな事微塵も思っていません。ですが、理屈というか、冷たい考え方をすれば、こうも言えるわけです」

「……」

「今の台詞の話し手を私から先輩に変えて、先輩自身が説得を試みる黄前さんにこの言葉を突きつけたら、あなたはどうしますか?」

「みんな、戻ってきて欲しいと思ってます……って言うと思います。誰も、そんな事、先輩に消えて欲しいなんて思ってないって」

 真っ直ぐな解答は眩しい。けれど、それでは足りない。大きい主語ではいけないのだ。誰かではなく、自分が。その言葉を、きっと彼女は待っている。

 

「なるほど。それで、皆っていうのは誰でしょうか? そして、その皆って言う存在は本音を言ってるのでしょうか」

「え……」

「主語を大きくするのは悪手ですね。それはいい方法とは言えない」

 

 その現実に彼女は頭を必死に動かしているようだった。

 

「ここから分かるように、理屈じゃ勝てません」

「じゃあ、どうしたら……」

「だから聞いたはずです。あなたはどうしたいのかと。どうして戻ってきて欲しいのかとも言えますけど。部活のためでしょうか?」

「……違います。それもあるけど、一番じゃないです」

「じゃあ、先輩のためでしょうか? 香織先輩、小笠原先輩、希美やみぞれ、中川のためでしょうか?」

「違います」

「じゃあ何のため?」

「私が、私のためです。私が、先輩と吹きたいっていう思いを叶えるためです!」

 

 大きな声を出して彼女は肩で息をしていた。

 

「よろしい。後は、それを直接本人に言えばいいでしょう。思うに、先輩はどうするべきで生きすぎました。だからこそ、自分の意思表示を聞いている場面ですら、どうするべきが出てくる。どうしたいかで動くのに慣れていない。だから私の言葉は届きません。どうするべきかを主にし、主語の大きい言葉を使っている私では。先輩が求めているのは、他の誰でもないあなただと、私は思っています」

「……はい」

「理屈だけじゃ心は動かない。私は、この部活で今年、それを少しは学ぶ事が出来たと思います。心を動かすのは、いつだって誰かの強い思いなのかもしれません。難しさなんてない、純粋で単純で。あ、そんな事なんだって自分で思うような。そして、心の境界線を踏み越えるような」

 

 理屈を使ってはいた。こうすれば動くだろうと思って、色々と動いた。けれど結局、最後は感情が人を動かした。人間は感情の奴隷である。だがそれは、人間が人間たる証なのではないか。私はそう思っていた。

 

「私、頑張ってみます。自分の想いを、伝えるために」

「その意気です。先輩は思っているのでしょう。何かを諦めて我慢して、それが大人になることだと。そして、停滞を望んでいるように見せています。けれどあの心臓にはまだ、確かな情熱が灯っている。でなければきっと、もうとっくに部活を辞めていたことでしょう。母親の言うことに従って」

 

 親に従って何かを諦めた人。それを私はよく知っている。一度は諦めたのが私の従姉。けれどそのままでいる事に我慢できなくて、最後は家を飛び出した。そしてもう一人、私はその相手を知っている。それこそが、私の父だった。甲子園のマウンドに立った高校球児は、高校でその野球人生を閉じた。プロになる夢を、私の祖母の声によって諦めて。もしかしたら、私だってそうなっていたかもしれない。

 

 けれど様々な幸運によって、私はそうはならなかった。だからこそ、次は私が誰かの助けになれるように動くべきなのかもしれないと、そう思っている。それが例え人任せに近いものであっても、まだ手段は残っているのだから。いかなる理由でも、最善を尽くさない理由にはならない。そう常に言っていた私の友の声が、今だけ鮮明に聞こえた。

 

「あなたに丸投げしなくてはいけないこと、先輩として恥ずかしく思います。ですが、どうか、彼女を……彼女に、間違いだとしても自分で選んだ地獄を生きる勇気を、渡してください」

「……はい!」

 

 そう返事をして、彼女は走っていく。ゲホゲホと咳が出た。少し肌寒くなった風が私の肌を撫でる。黄前さんがどこまでやってくれるのかは分からない。ただ、今の彼女なら真っ直ぐに言葉を伝えられるはずだ。どんな事を、相手が言おうとも。今必要なのは、どうするべきかじゃなくてどうしたいかで動いた人間の心からの言葉。それだけが、消えかかっている炎を灯せる。

 

 もしそれが叶ったならば。私たちも最後の援護射撃をすることが出来るはずだ。携帯の画面には、チケット配送完了の文字が輝いている。ゲホゲホと長い咳が出る。肝心な時に役に立たない身体が少し、恨めしかった。

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