音を愛す君へ   作:tanuu

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第五十一音 追憶

 朝から咳が止まらない。朝起きて、少しボーッとするものの朝食と二人分の弁当を作ろうと思ったら不意に目眩がして倒れた。その時にフライパンを落としたせいでビックリして飛び起きてきた妹に熱を測られると39度弱。フラフラしつつもご飯だけは作ろうとしたが、強制的にベッドに叩き込まれた。

 

 弁当も作ってないので仕方なくコンビニか何かで買ってくるようにとお金を渡す。その間も咳は止まらず、熱は高いまま。ベッドにいると段々と眠くなっていく。病院に行くべきなのかもしれないけれど、私は個人的にあんまり病院が好きではなかった。救急車も、同じように。

 

「兄さんごめんなさい。大会近いから遅くなるかも。夜ご飯は……適当にどうにかするから。お昼はゼリーか何か食べて。それとも、私が作る?」

「涼音の飯食べるなら、絶食の方がまだマシ……」

「酷い……」

「申し訳ありません、私も付いていたいのですが、本日は運悪くちょっと大阪まで出なくてはならなくて……。夜ご飯までには帰ってきますので、すみませんがお一人で留守番お願いします」

「ああ、うん。いいよいいよ。気にしないで」

 

 ボーっとする意識の中で答える。この感じなら、今日か明日にはもう治ってると思いたい。そろそろ危ないとは思っていたけれど、このタイミングで来るとは思わなかった。今日は黄前さんが田中先輩の家に行く日。本当は何かしてあげたいけれど、あいにくとそんな事は出来そうにない。

 

「学校にはこっちから連絡しておくから」

 

 そう言う妹を行ってらっしゃいと見送ってから少しして、鍵の閉まる音がした。一人になった家の中で布団にくるまる。明日は無理かもしれないが、明後日くらいには戻れるだろう。仕事も一段落している。作曲の依頼は今はないし、原稿は送った。大人しくベットで寝よう。

 

 咳は薬で少しおさまったが、熱が下がらない。解熱剤も飲むべきだったけれど、取りに行くのも面倒なのでそのままにしているが、ちょっと苦しい。置かれた水を飲んでから、寝ながら枕元の携帯に手を伸ばす。適当に一番上の会話履歴から電話をかける。数回のコールの後、繋がった。

 

「はい、高坂です」

「……こうさかって誰?」

「はい? 高坂麗奈ですけど……桜地先生大丈夫ですか?」

「れいな? あぁ高坂さんかぁ……」

 

 頭があんまり働いてないようで、電話を掛けたのが誰だったかもよく見てなかったし、相手の名前が一瞬出てこなかった。おかげで頓珍漢なことを言ってしまった。今度学校に行ったら謝らないといけないかもしれない。

 

「今日、風邪で休むから。後で……あの……ほら、あれだよ」

「練習メニューですか?」

「そう、それ。それ送るから、見といて」

「そんなの良いですから、寝ててください」

「いやそう言う訳にもいかないでしょ、この時期に。じゃ、お願いね……」

「はい……分かりました。お大事にしてください」

 

 用件だけ伝えて電話を切る。後は彼女から上手く伝達しておいてくれるだろう。これで大半は問題ない。最後に希美にノートとっておいてとお願いしておく。ここ最近ずっと短い睡眠と諸々の心労で疲れていたのだろう。

 

 ポチポチと携帯の画面を打って、今日のトランペットレッスンでしようと思っていたことを送る。ついでに先生への伝達事項なども。定例のパートリーダー会議は数日後だ。それまでにやらないといけない事もあるのに、こんなところで倒れている場合じゃない。何とか全部打ち終わり、そのまま送信した。既読が付かないのは今授業中なのだろう。高坂さんは真面目な子なので、見ていないはず。授業時間に既読と返信を行ってくる希美はちょっと見習った方が良いと思う。嬉しいは嬉しいけれど。

 

 やるべきことは出来たと携帯を放り出した。そのままベッドに横たわる。氷枕がひんやりとしている。色々と考えたい思考とは裏腹に、身体は休息を欲しているようで、横になるとゆっくりと意識が薄れていった。

 

 

 

 

 

 夢を見た。明晰夢。夢だと分かっている夢。しかし、その認識も薄れていく。

 

カツカツと音をたて石造りの古い廊下を歩いている。手に持っているのは楽器ケース。この光景を私は知っている。かつての学舎。遥か海の向こう、私のいた大学。その廊下だ。夢、ここは夢……果たして夢なのだろうか? 今まで過ごしてきた日々の方が、吹奏楽部にいた全ての日々の方が夢なのではないか。思考は妙にクリアに働いていた。

 

 遠くで手を振る少女が見える。その奥には友人達も。ここが夢か現か。それも分からなくなっていたが、涙を流しながら、走り出す。忘れた事など一度もなかった友人に向かって手を伸ばして走る。掴まえようとしたその手は何も掴めなかった。走っても走っても追い付けない。そして、景色は変わった。

 

 歩いていた。私は歩いていた。ここは、多分普通の道。前には両親がいる。随分前にこんな光景を見たことがある気がした。今度は、掴まえなくては。手を伸ばすが空中をかすめるだけ。どんどんと先に歩いていってしまった。そして、暗闇に一人、私だけが取り残された。

 

 叫び続ける。私を一人にしないでくれ! と。誰も答えずどこにも響かない暗闇で叫び続けた。ずっと抱え続けた苦しみを。どれだけの時間がたったのか分からない。もはや、喉もかれて、声も殆ど出ない。

 

「私を、一人にしないで」

 

 何も分からないまま、そう呟いた。

 

『大丈………………から』

 

 どこからか優しい声がした。思い出せそうで思い出せない声。だけれど、何故か安心できた。起きたときには何て言っていたのかは忘れてしまうのだろうけれど、それでもその声は私の心を鎮めた。ゆっくり晴れていく暗闇を最後に、視界は再び暗転した。

 

 ハッと目を覚ます。熱は少し引いたようで、息苦しさはなかった。さっきまでの記憶は綺麗に残っている。あれは、何だったのだろうか。夢か幻か。或いは願望か心象風景か。どんなものであれ、戻ってこれて良かった。

 

 ふと、左手に違和感を感じてゆっくりと体を起こす。そこには私の手を握りしめたままベットに突っ伏して寝ている希美の姿があった。時計を見れば4時過ぎ。学校が終わって直行したのだろうか。鍵は……涼音辺りが渡したんだろう。様子を見て欲しいと頼んだのかもしれない。体を起こしたときタオルがポトリと落ちてきた。額にのっていたらしい。寝たときには無かったので、乗せてくれたのだろうか。見れば突っ伏している足元にはボウル。中には水が入っていた。

 

「ごめん、わざわざ」

 

 聞こえていないだろうけれど、そう囁く。ゆっくりと起こさないように手を離した。白い肌とツルっとした手触りは心臓に少し悪い。その温かみは優しいものだった。机には、お皿が乗っている。見れば、まだ温かいお粥があった。ゼリーを食べろと言っていた妹にこんな高度な料理は出来ない。多分、希美が作ってくれたのだろう。ちょっぴりとする塩味が美味しい。喉がそんなに痛くないのが幸いかもしれない。

 

机の上には、プリントが何枚か乗ってる。今日の授業の物だろう。これも届けてくれたらしい。英語の小テストまで入っている。ウチの担任は何を考えているのだろうか。一応成績関連のモノなんだから、同級生に見せたらまずいだろうと思うのだが。

 

 他にも色々置いてあるので一つずつ見ていく。サイダー味のラムネ。付箋が貼ってあり「お大事に。みぞれ」と書いてある。病人に渡すものではない気もするがそこには触れずありがたく受け取っておく。次は、ゼリー。「死ぬな~夏紀」次は……ポッキーだ。なぜこのチョイスなのかは分からない。「これしかなかった。早く治しなさい。優子」くれるだけありがたいのだから文句は言わない。後で食べる事にする。クラスの友人である生駒や柏原からもお菓子が放り込まれていた。高校生は意外と皆お菓子を持っているようだ。

 

 それ以外にも紙が幾つか。最初の便箋には「お大事にしてください。香織」とある。香織先輩からの手紙とは、吉川なら興奮で死にかねない案件のものを貰ってしまった。

 

「無理なさらないで下さい。くれぐれも練習とかしないで下さい。麗奈」という手紙が二枚目に入っている。練習メニューの件は確認したら了解しましたと返されていたので安心する。そんなに体力無いからしてないものの、もう少し元気だったらやってたから、バッチリ私の性質が見抜かれてる。

 

 最後は封筒付き。気合い入ってる。差出人は……吉沢秋子。中身は中々長かったが、まとめると心配です。早く元気になって下さい。という中身だった。他にもトランペットパートのメンバーや先輩・後輩などから幾つかメッセージ・差し入れなどがある。全部確認していたら結構な時間になってしまった。

 

 休むことなんて殆どない人生だったが、こんなに沢山心配されたりお見舞いもらったのは初めての経験である。この喜びはきっと夢ではないだろう。口角が上がるのを感じる。爆睡したままの希美にクローゼットからタオルケットを取り出してかける。そして、私もゆっくりとまた睡眠に入る。

 

 今度は、悲しい夢など見ることはなかった。

 

 またフッと目が覚める。時計は19時半くらいになった。そこに希美の姿はなく、タオルケットは畳まれて置いてあった。熱が殆ど引いたからか、ボウルも片付けられていた。まだ若い身体で良かった。多少は無茶も出来るし、すぐ治る。これなら明日か明後日くらいには行けるかもしれない。夕飯くらいは作れるだろうと思ってキッチンに行くと、もう鍋が用意されていた。

 

 困惑していると、玄関の開く音がする。会話が聞こえるので、二人が帰って来たようだった。

 

「あ、兄さんもう動けるんだ。良かった良かった。希美先輩来た?」

「ん、あぁ。来てくれたよ。私が起きたときには寝てたけど」

「そう、良かった。一応心配だったから様子を見てきて欲しいって頼んだんだけど、すぐに引き受けてくださって……。ホント、感謝しないといけないよ」

「そ、そうだなぁ……」

「あ、そう言えば兄さん。夜ご飯は作らなくて良いって言ったのに。これから何か買いに行こうとしてたんだけど」

「私が作ったわけじゃないけど」

 

 キッチンには綺麗に置かれた皿。ラップのされたサラダと鍋。中にはシチュー。近くにはメモ書きがあった。

 

「え、嘘。じゃあそのメモは何?」

「あ、えーと『寝てたみたいでごめんなさい。涼音ちゃんから帰ってからご飯を買いに行くと聞いていたので、よかったら食べて下さい。PSお粥は口に合いましたか? 希美』だって」

「え、本当に作ってくれたの。希美先輩……ものは言ってみるものだね」

「お前、何言ったんだ?」

「希美先輩が作ったら兄さんも喜ぶかも……って」

「そんな事言ったのか……」

 

 学校で謝らなくてはいけない。おかゆは多分作ってくれたんだろうと思っていたけれど、まさか夕飯まで作っておいてくれたのは感謝しかない。と言うより、桜地家の台所を使いこなしている。前泊まった時だけだったはずなのだが、それでももしかしたら色々覚えていてくれたのだろうか。

 

 そのシチューは美味しかった。そして、お粥と同じ優しい味がする。ふと、夢の中で聞いた声が鮮明に蘇った。さっきまで思い出せなかったのに。

 

「大丈夫だよ。私がずっと、側にいるから」

 

 顔が一気に暑くなる。この火照りは、熱などでは無い、もっと別のものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌日は動けるようになっていたものの、大事を取って午後から行くことにした。万が一風邪が再発しても大丈夫なようにする措置である。朝練に参加できないのはこの時期としては非常に痛いが、これで蓄積されたダメージを減らしてまたしばらく耐えれるようにするための措置と考えればさして悪いことではないと思える。何回も連続して休んだり来たりを繰り返す方が迷惑だろう。

 

 ベッドの上でおとなしくしてないとと妹に言われ、そのままボーっとしている。しかしここのところずっと一日も休むことなく何かしていた気がするので、何もしないという時間は却って貴重な気がした。そんな

ものが風邪を引かないと訪れないというのも、何とも悲しい身の上である気がした。もしこれと同じような生活を普通の部員も送っているのだとしたら、燃え尽き症候群になってしまうのではないか。

 

 全国大会を目指していたあの日々を忘れる事が出来ず、そしてそれ以上の情熱を人生に見いだせないまま、どこか追憶を抱えたまま生きる事になってしまうのではないか。栄光と苦難の日々の思い出を、引きずってしまうのではないか。そんな懸念を覚えてしまう。部活が終わっても人生は続く。人生の中で一瞬しかないこの時間が後の人生に悪影響を及ぼしてしまうのだとしたら、それはきっと正しい部活の姿とは言えないのかもしれない。

 

 けれど逆に、頑張れば報われるという体験が出来れば、その後の人生の糧になることもあるだろう。それはどちらも一長一短あることであり、一概にどちらとは言えない。だからこそ難しい問題であり、だからこそ指導者をやるならば考えなければならない事なのかもしれない。寝転がりながら天井を見上げ、そんな事を考える。不意に、ドアが叩かれる。

 

「凛音君、起きてますか?」

「あぁ、はい。どうしました?」

 

 ひょこっと顔を覗かせた雫さんは頬に少し絵具が付いている。

 

「お客さんがいらしてます」

「お客? そんな約束してないですけど」

「外国の方で、呼ばれたから来たと。一応応接間にお通してしてますが」

「……外国? あ、まさか」

「心当たりでも?」

「えぇ、まぁ。今行きます」

 

 元々駅ビルコンの少し後に行けるという連絡を受けていた。確かに今は駅ビルコンの少し後だし全国大会の前。タイミング的には微妙だけれど、それでも間に合っている事は事実。頼んでおいてアレだけれど、最近の先輩の一件ですっかり忘れていた。

 

 急いでしっかりした服に着替えて、応接間に向かう。ドアを開ければ、普段は使わない来客用のティーカップから湯気が昇っている。ティーポッドも普段は使わないのに、今日は珍しく日の目を見ている。そもそもティーバックではなくしっかり茶葉を使っていた。これは従姉が用意してくれたのだろう。正直助かっている。これでティーバックなんて出した日には何を言われるのか分かったもんじゃない。

 

 優雅にそれを飲んでいるのは、私の古い友人だった。流れるような金髪に青い目。西洋人形のような顔をしている、20代も後半の女性。大学の同期で、今回コントラバスの指導と全体の様子を見て何か意見を貰えればと思って呼びつけたアメリカ在住のバイオリニストである。

 

「……よくここが分かったな」

「最初は京都市の方に行ったら違うと言われて困った」

「それはどうも申し訳ない。道に迷わず来れたんだな」

「タクシーは便利ね」

「なるほどそういう……」

 

 彼女はくるりと部屋を見渡した。そのサファイア色の瞳が室内の装飾を見つめている。相変わらずその顔の表情はイマイチ読み取れない。みぞれの方が百倍分かりやすいだろう。

 

「古い家」

「悪かったな。お前の家よりは新しいよ。そもそも、家に来るとは思わなかった。いなかったらどうするつもりだったんだ?」

「……?」

「想定外と」

 

 割と自分の考えている世界が中心で動いている人間だ。面白くないことは絶対にしないし、その基準も自分で設定している。なのでむしろよく楽団に所属する気になったと思ったものだ。しかもシカゴの名門に。就職先が内定した時は大層驚いたものだった。これほど就業に向いていない人間もそうそういないだろう。

 

「まぁまずはよく来てくれた。それは素直に嬉しく思う。ありがとう」

「どういたしまして」

 

 こっちはずっと日本語で話している。相手はずっと若干ドイツ訛りの英語。お互いにこっちの方が楽だからそうしていた。多分向こうはほとんど日本語を話せない。こちらは独英どっちも出来るようにしているので、この辺で英語が世界共通語なのを感じる。最も、聞き取ってくれるだけマシなのだが。

 

「日本はまだ少し暑い」

「京都は盆地だ。仕方ない」

「ここでは時間に正確なのはいいけれど、バスが分かりにくくて困るわ」

「あぁ、京都のバスは分かりにくい」

「おかげでホテルに着くのにも一苦労」

「仕方ない。市民もよく分かってない時があるから。それで、いつ帰るんだ」

「明日」

「明日!? 昨日とかに来たばっかりだろ?」

「仕方ないの。四日後にまた仕事だから。今日が一日だけスケジュールを空けられたの」

「それは……すまない」

 

 私以外は皆しっかり仕事が入っている。それは楽団のものだったり、そうでなかったりするけれど。私が欧州での勧誘を蹴って日本に戻っていなければ、今頃きっと同じような位置にいただろう。それは確かに魅力ではあったけれど、今の生活を捨てたいという思いも別になかった。確かにもっと懐が温かくなればいいとは思うが、それは今の生活、指導員をしている生活を辞めたという意味じゃない。 

 

「それで、コントラバスの指導ということだけれど」

「あぁ、それな。この後午後から学校に行くので、その時に案内する」

「その子、上手なのよね。下手な子に教えるのは嫌。教えることもそんなに好きじゃないのに」

「実力は折り紙付き。中学三年とも全国に出てる。今回も。押しも押されぬ北宇治のエースの一人だ」

「そう。ならいいわ」

「そもそも、そんなに言うなら何で引き受けたんだよ。頼んでおいてアレだけど」

 

 彼女はピクリと眉を動かした。そして湯気の立ち昇るカップに口を付ける。即答しない彼女の態度に疑問を覚えながら、私はもう一個置かれたカップに自分の分を注いだ。匂いからしてダージリンだろう。

 

「……個人的な友情に基づいての行動と言ったら、笑うのかしら」

 

 私はカップを持ったまま、ポカンとした顔で彼女を眺める。

 

「笑いはしないけれど、少し驚いている。君、私に友情を感じていてくれたんだ。てっきり割と一方通行かと思っていた」

「失敬ね」

「そう?」

「えぇ。それなりに。他人に期待しないのは好きにすればいいと思うけれど、他者の行為を低く見積もって人間感情を悪い方向に捉えるのは、相変わらずの悪癖」

「そう言われてもね」

「そんな事では、恋した相手もいずれ愛想を尽かしてしまうかも」

 

 私は飲もうとしていた紅茶を吹き出しそうになる。相手は何ら動じることなく私の顔を見ている。名をフランチスカ・ヴァルテンブルク。数多のヴァイオリンに関するコンクールで金賞や優秀賞を獲得している。アメリカやヨーロッパで広くその名を聞く新進気鋭の天才。それが彼女の評判。恋だの愛だのとは無縁な顔をしていたけれど、人間は数年あれば変わる。最後に会ってからもう二年は経っている。その間に何か心境の変化があったのかもしれない。

 

「驚いた。惚れた腫れたには疎いと思っていたのに。君の言ってた恋人は楽器って言葉、便利だからよく使ってたんだけどな」

「あら、それは本当よ。けれど私だって相手が何を考えているかくらいは分かるわ。それなりに年を経ているもの。恋しているかくらいは、余裕で」

「へぇ。なら普段から相手に配慮した行動をして欲しいものだけれど」

 

 私の苦言は全くもって聞こえていないような顔をしている。昔からこうだった。七歳くらい年の離れた存在相手でも他の人相手でもいつもこの感じなのだ。ある意味で平等と言えるかもしれない。自分以外全員が等しい位置にいるのだから。それでも多少なりとも私のためを思ってここまで来てくれたのには感謝していた。

 

「けれど良かった。そのよく回る口もしっかり戻ってる。あなたの目も、しっかり輝いている」

「……」

「リリーが神のもとへ召されてから、あなたはすっかり抜け殻だった。音楽だけ奏でている機械のように見えていた」

「……あだ名がオルゴールだったヤツに言われたくはない」

「ガランドウだったモノにもう一度中身を詰めた存在がいるのね。それが恋してる相手? それとも、日本の部活動とやら?」

「前者は間違いなくそうだろう。後者は……どうだろうな。指導者としての位置にやりがいを感じているのは事実だ。結果を出せているから言える結果論かもしれないが」

「人生は結果論の集合。今が良ければ、それでいいのよ」

「トータルで幸せかどうかも大事だと思うが?」

「そんなものは死んだ後に幾らでも考えればいい。今は走るだけよ。あなただってそうだったでしょう。そして今だって、もう一度走り出そうとしている。私が今回引き受けたのは、あなたへの友情もあるけれど、あなたをそうした場所への興味も多少あったから。あなたが作ろうとしている場所を、見ようと思って。他の人にも教えないといけないから」

 

 彼女は静かにカップを置いた。私も残りを飲み干す。どうも紅茶は慣れない。コーヒーの方が性に合っていた。

 

「一つ、勘違いをしているな」

「勘違い?」

「あぁ。北宇治吹奏楽部は私が作ろうとしているモノじゃない。私たちが作ろうとしているモノだ」

「……そう。それは、あなたらしい答えね」

「そうか? 自分ではよく分からない」

「別に良いのよ、あなたはそれで。私の灰色だった世界に色を与えたのは、あの日無理くりメンバーに引きずり込んだあなた。そしてそのあなたは、今その高校にいる子に、また色を与えてもらったのね。それも、少し強引に。だからあなたはその場所を守ろうとしてる。その子がいるから」

「なにそれ。その理屈だと、君私の事好きだったの?」

「今はダメね。身長が高すぎるし、年齢がかさみ過ぎてる」

 

 冗談なのかよく分からないのは、その表情筋がほとんど動いていないからだろう。ただ、多分冗談交じりであるとは思っている。17歳と25歳じゃ対象にはならないだろうし、そもそも私は希美が好きだし。もっと言えば、彼女が人間に恋している姿は想像できなかった。

 

「本題に戻る。この後高校に案内するから、お願いしたい子を見てあげてくれ。気が向いたら全体演奏も聞いてもらって構わない」

「えぇ」

「じゃあ、よろしく」

「あなた、選んだ道に後悔はない?」

「あぁ、勿論」

「そう。それは良かった」

  

 そう言うと彼女はカップを置き、スッと立ち上がった。時計は既に午後になっている。あと一、ニ時間もすれば練習が始まるだろう。それを見越してなのか、出かける支度をしている。

 

「これを渡しておくわね」

「なに、これ」

「あの子の墓地の場所」

「……ありがとう」

「自分の中で整理を付けたなら、行ってあげなさい」

「あぁ。そうする」

 

 彼女はそれ以上何も言わなかった。いつもと同じような顔。けれどその目は少しだけ、笑っていたような気がする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 午後四時。学校に来て、低音パートの練習教室から川島さんを引っ張って来る。用意してもらった教室で今日は合奏練習になる時間を遅くしてもらったため、その時間までずっと個人練習だ。翻訳アプリなどもあるから何とかなります! とポジティブかつ楽しそうに言っていた彼女が印象的である。対する私の友人の方は、その気配に少し気圧されているようだった。あんな感じになるのは珍しい。以外と押しに弱いのは知っているけれど、川島さんタイプの子には特に弱いと知った。

 

 川島さんに彼女を任せ、職員室に向かおうと廊下を歩く。その時、後ろから呼び止められた。

 

「桜地君!」

「あぁ、斎藤先輩。数日ぶりですね。どうされました?」

「朗報だよ。あすか、全国模試で30位以内に入ったみたい」

「30!? それはまた随分と……。しかもこの時期の模試は実質合否判定みたいなものじゃないですか」

「そうだよ。だからあすか、それを元手に交渉してみるって」

「そう、仰っていたんですね!?」

「さっき、ハッキリと。今は家に帰ったけど、多分その話をするため」

「そう、ですか……」

 

 朗報である。母親が掲げた大義名分に乗っかる方法。それを彼女はしっかり考えていた。模試の判定は北宇治という狭い空間ではなく、全国区だ。それこそ東京などの秀才天才も受けている。その中で30位。ホントに何でここにいるのかよく分からないくらいには凄まじい成績だ。それは大義名分に乗っかる上で、非常に有利な交渉材料になる。何せ、結果は出しているのだから。

 

「あすかが言ってたんだけど」

「はい」

「久美子ちゃんに辞めようとするのは自己満足って言われたみたいなんだよね。……何か入れ知恵した? どこかで聞いたような言葉だって思ったんだけど」

「いえ、私は何も。ただ同じ結論にたどり着いた。それだけでしょう」

「……」

「疑ってますね?」

「まぁ、いいや。別にどっちでもいいんだけどね、本当は。でもよかった」

「えぇ、これで少しは光明が差し込みました」

「それもそうなんだけど、それだけじゃなくて。もし、あそこで辞めてたらあすかのこんな姿にも気付けなかったかもしれない。あの子がちゃんと人間だって、分からないまま終わってたかも。悩みも無くて、問題なんて一個も無い。そんな風に思ったまま終わってた未来が簡単に想像できた。気付けないまま、分からないまま。勝手な劣等感を拗らせて、特別視したまま。色眼鏡の無い、本当の部分を知らないのはきっと……正しくないと思う」

 

 彼女はそう言う。けれどそれでも、きっと田中先輩は特別なのだろう。だとしても、その特別という言葉に込められている思いは、大分変っているはずだった。斎藤先輩だけじゃない。部長も、香織先輩も、他の人も。

 

「だから、ありがとう。私をここに引き留めてくれて」

「……感謝されるようなことはしていませんよ。今でもあのやり方は正しかったと思えないでいます」

「まぁ確かにあれは酷いと思うけど、でも今私は後悔してない。受験がどうなるかでまた変わるかもしれないけど、でもこの時に後悔してないって思ったことは、きっと忘れないから。だから、ありがとう。それだけ、言っておきたかった。私は、少しは部活の役に立った?」

「それはもう、沢山」

「そっか、ならやっぱり、残って良かったよ。それじゃあ」

 

 斎藤先輩はそう言ってまたB編成の練習教室に戻っていく。彼女もまた、選び取った。私や部長の影響もあったのは事実だろう。けれど彼女は、自分でこの道を行くと決めた。その姿もまた、田中先輩の一つの指針になっていたのかもしれない。

 

 なんにせよ、黄前さんは成功したということだ。最後の一押し。自分で動く力。これまで自分を押さえつけていた親という存在と向き合う勇気。そして何より、もう一度吹きたいという情熱の炎。それを心臓にある蝋燭に、確かに灯したのだ。

 

 彼女はきっと、今自分の戦場に赴いている。自分なりの戦い方で、自分にしかできない戦いを。ならばこちらも、こちらにしかできない戦いをするのみだ。決意を決め、教頭先生のもとを訪れる。

 

「桜地君、風邪は大丈夫ですか?」

「ご心配をおかけしました。もう大丈夫です」

「それは良かった。それで、どうしましたか」

「一つ、お願いがあります」

 

 これが最後の戦いになるだろう。だがその勝率はきっと、今までの中で最も高いはずだ。追憶と別れる戦いを、我々はしなくてはいけない。私が、妹が、多くの人がそうしていた。過去と決別し、今を生きる。そういう行いを。だからこそ、今を生きていない人を、今に引きずり戻すのだ。

 

 そして私は、最後のカードを切った。

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