音を愛す君へ   作:tanuu

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第五十二音 決別

「どうだった、川島さん」

「あの子、高校で辞めてしまうの?」

「さぁ、どうだろうな。本人は服飾系に興味があると言っていたけれど」

「それは残念。気が変わったら連絡するように言っておいて」

 

 コントラバスの指導が終わった後、相変わらず動かない表情のまま彼女は私の問いに答えた。ここまで言わせる存在というのも中々いない。感情表現は乏しいけれど、プライドはアルプスに負けず劣らず高い。自分以外の奏者を認めるのは早々無いことなので、かなり驚いたのも事実だ。

 

 とは言え、川島さんは我が部のエースの一人。この評価も納得できる部分はある。続ければいい奏者として活躍してくれそうだが、それはあくまでもこちらのエゴ。自分の行きたい進路を歩んでくれればいい。願わくば、音楽は好きでいて欲しいけれど。

 

「全体演奏は聞いたか」

「一回だけ」

「何か感想は?」

「粗削りね。ただ、情熱はある」

「それは……褒めてるのか?」

「情熱の無い音楽は、死んでるのと同じよ」

 

 回りくどい表現だ。素直に褒めるということが出来ないらしい。しかし粗削りという部分は決して褒めているわけじゃない。まだまだ改善する余地が沢山あるということだ。

 

「細かいところはあなたやあの先生に任せるしかないわね。私は指揮者ではないし、指導者でもない」

「分かってるさ」

「もし、この団体の演奏が今一つなら、私はあなたの評価を見直そうと思っていた。けれど、その必要が無くて良かったわ。少なくとも、世界を獲った人間がその能力と時間を費やすに足る場所であると、そう確認することが出来たから」

「そうか。それは良かった」

「えぇ、本当に。私の友人を使っておきながらパッとしない演奏なんて、そんなの許されざる事だから。それはそうと、あのトランペットの子二人。あなたの弟子ね」

「その話は言ってたかな」

「いいえ。でも聞けばわかる。あなたの教え方が入っているから。あのソロ、もうちょっとしっとりさせなさいな。あなたの曲と同じで、少しうるさい」

「……了解」

「あなたが何か抱えているのは分かるけれど、それで他を疎かにしていては元も子もない。人生は結果論。終わり良ければ、それで良いのよ」

 

 それじゃあ、期待しているわ。そう言い残して、彼女は学校を去っていく。風のように来て、風のように去って行った。先生への挨拶は軽くだけ済ませて去っていく辺りが何ともそれらしい。必要以上の人間関係を構築しようとしないのが向こうの良くない癖だと前から思っているのだが、言っても馬耳東風。まぁそれはこちらも同じかもしれない。

 

 コンバスは実際どういう強化をされたのか、向こうに全部任せていた私としては知らなくてはいけない。何か一つでも役に立つ助言を貰っていればいいのだけれど。そう思いつつ、私は今日川島さん用に用意した部屋に向かう。中からはコンバスの演奏する音が流れていた。扉を叩いて中に入る。

 

「お疲れ様」

「あ、お疲れ様です!」

 

 彼女の楽譜にはこれまで以上に色々と書いてあった。その近くにはメモ帳のようなものが見える。そこにもびっしりと書かれていた。携帯の翻訳アプリには大量の文字。あんなすました顔をしておいて、彼女はかなりしっかり指導をしてくれたようだ。

 

「どうでしたか、あの変人は。何か役に立つことはありましたか?」

「それはもう、沢山です! いつもコンバスはあんまり専門の人呼んでもらえなくて、中学の時もそうだったんですけど、やっぱり違いますね!」

「そうですか、学びになったのならよかったです」

「もう、お帰りになっちゃったんですか?」

「はい。昔から風のような人で」

「綺麗な人でした……」

「顔はそうですね。顔は」

 

 色々な感情を含みながら、私は苦笑いをしつつそう答える。顔は良い。それ以外は……まぁ……悪人ではないけれど、決して善人ではない。街中で困っている人がいても見捨てる程度には冷徹だけれど、私の要請に応えてくれるくらいには優しい部分もある。まぁ結局関係性の差なのかもしれないけれど。

 

「緑、先輩の好きな人を聞かれてしまいました」

「……え。まさかと思いますけど、何か言いました」

「いえ、分かりません! ってちゃんと答えておきました」

「それはどうもありがとうございます。……私の好きな人、知ってます?」

「いるんですか!?」

「あ、藪蛇か……」

 

 川島さんは目を爛々と輝かせて、私に迫って来る。「恋バナしようぜ恋バナ!」と顔に書いてあるような気がする。この追及を躱すのは中々大変そうだ。

 

「誰なんでしょうか。香織先輩? 優子先輩? 希美先輩? 高坂さん? 吉沢さん? 他の誰かですか??」

「ノ、ノーコメント」

「あぁん、教えてくださいよぉ」

「そんなこと気にしていないで、練習してください。学んだこと沢山あったんでしょう?」

「はーい」

 

 何とか誤魔化すことが出来たと安堵する。いや多分誤魔化せていないので、今後言動行動には注意しないといけないかもしれない。川島さんがこういう話が好きなのは、加藤さんの一件でなんとなく分かっていたけれど、これは結構筋金入りだ。元女子校出身ということもあり、この手の話題には飢えているのかもしれない。

 

 しかし、彼女の目からは香織先輩・吉川・高坂さん・吉沢さん・希美が私の好きな人である可能性がある候補として見られているのだろうか。半分以上トランペットパートなのは中々謎だが、確かに特に交流がある女子部員はトランペットパートに集約されている。希美とみぞれがちょっと特殊なのかもしれない。

 

 先ほどまで恋バナに興味津々だったのはどこへやら、今はかなり真面目な顔でメモと向き合っている。貰った意見をもとに試行錯誤しているようだった。確かに音の響かせ方が良くなっているように思える。それに、表現力も。僅かな力加減の変化だとしても、それは大きく影響する。

 

 より上達すればするほど、要求される改善点は難しくなる。それをすぐにこなすというのは中々難しい話だ。けれど彼女は試行錯誤しながらではあるものの、割とすぐにこなしている。その卓越した技術故だろう。どうして、こんなと言ってはアレだけれど、昔は弱小だった北宇治に来たのか。制服が可愛かったと前に言っていたけれど、それだけではない気がする。

 

「川島さん」

「はい、どうしましたか?」

「川島さんは、どうしてまたこんな高校に?」

「……」

「聖女に残っていれば、安定した生活だったと思いますが。まぁ異性はいませんけど」

「聖女は……強い学校でした。でも、それの裏には色々あったんです。コンバスは人がいないので巻き込まれることは少なかったですけど、実力至上主義って感じで。でも緑は思うんです。コンクール以上に大事なことがあるって。もちろんプロの方はそうじゃないと思いますけど、部活なんだからって」

 

 部活であることの意味。一銭にもなりはしない。栄光や名誉は得られるとしても、それは実利とは程遠いものであるのも事実。プロでもない部活であることの意味は何であるのか。それはきっと、一生考え続けなくてはいけない事なのだろう。実力だけが正しいとされる世界で、生きていくのはプロだけで十分だ。少なくとも、高校生にそれは求めるべきモノでは無いのかもしれない。

 

 けれど、コンクールで金を獲りたいという思いもまた事実だ。ではそれにどう両立させればいいのか。三年生を一番上手い集団にして三年生になれば必ず大会に出れるというシステムを作れれば理想的だ。努力の末に大会に出られる。それは理想の図式。しかし現実はそんな風には上手く行かない。

 

「だから、先輩が言ってくれたのは嬉しかったです。吹奏楽部というチームって。聖女のやり方に疑問を持ったあの時の緑が間違ってなかったって、思えましたから」

 

 それは先生からの受け売りだった。元々は、私が言われた言葉。けれど今では、私が相手に言う言葉になっている。そして、それを聞いてよかったと思ってくれる人も、こうして存在している。言葉とはそういうものなのかもしれない。流れる空気のように掴みどころがないけれど、だからこそ流れて人へ人へと受け継がれていく。

 

 少なくとも、今ニコニコとしている彼女は部活動を楽しんでいる。かつての中学では、それは成し得なかったのかもしれない。だとするならば、この環境を保てるようにすることが、大事なのだろう。実力だけが、全てにならない世界を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌日の昼下がり。私は再び学校の面談室を訪れていた。この前とは逆の構図である。今先輩が動き出している。その援護射撃ということだ。これにどれだけの力がるのかは分からない。けれど、何もしないよりはマシだろうという私の判断だった。断られる可能性もあるけれど、教頭先生経由で話を通したところ、先方は拍子抜けするほどあっさりと承諾したらしい。

 

「お忙しい中、お時間を頂きありがとうございます」 

「こちらも前回同じことをしましたから。それで、お話とは何でしょう。と言いたいところですがその前に」

 

 先輩の母親は少し疲れた顔をしていた。

 

「あなたですか、あすかに入れ知恵したのは」

「入れ知恵とは人聞きの悪い。先輩の成績はご自身でお取りになったものです。私の差し金でも何でもありませんよ」

「とぼけないでください。そちらではありません。その成績を元手に交渉を行うというやり方です」

「あぁ、そちらですか。もしかしたら遅かれ早かれ先輩自身でお気付きになったかもしれませんが、そういうやり方があるという風な紹介をしたのは事実です。それを使うかどうか、そもそもそれを行うに足る材料が存在しているか。それは私にはあずかり知らぬところでありますから、結局は先輩任せになってしまうわけですけれど」

 

 私はあくまでやり方を提案しただけ。こうしろ、ああしろとは一言も言っていない。もし先輩が方法に気付く役に立ったのならばそれで私の役目は果たせたと言える。やはり、自分の意思は辞めたくないというモノだったのだろう。そして私の交渉と提案を聞き、大義名分に乗っかる材料を探し、そして用意した。結果が出るまで時間がかかるので、不用意な発言も出来なかったのだろう。

 

 それはそうとして先生や私にくらいは話を通してくれても良かったと、思わないでもない。何とかしようと藻掻いていたならば、その状況くらいは知らせてくれても良かった。とは言え、まぁそうするほどの信頼は得られていなかったということで、私の人徳が至らなかったということだろう。

 

「……」

「お母様は大義名分を用意してしまいました。受験という大きな大義名分を。これは容易に突破することはできません。社会的に見ても共感性の高い名分でしょう。ですがこれにも弱点があります。結果を出されてしまった場合、大義名分は途端に相手の要求に応じなくてはいけない枷となります。何故なら、元は自分がそれで以て相手の意思を捻じ曲げようとしていたのですからね。カウンターをされたら、今度は自分の意思を曲げないといけなくなる」

「……まったく、その通りです」

「それで、先輩の()()は許可して頂けましたか? 結果を残したのです。私の提案を通り越して、完全復帰をお認めになってもよろしいのではないでしょうか」

 

 ウチの家ですら結果を出したのならば自由にすることが認められている。実利こそ全て。金を持って来る人間が最も偉大。そういう商家の家だからこその思想かもしれないが。

 

「昨日、あすかからもそういう話をされました。何が、あの子をそこまで突き動かすのか。今まではいつだって、私の言うことを聞いてくれたのに……」

「理由は幾つかあるでしょう。しかし最も単純なのは、先輩も大人になっているということです。子供の頃は従順でも、大人になっていくにつれてそうではなくなっていく。反抗期じゃないですかね、少々遅めの。反抗期は健全な成長と自立心の発露です。変に従順であり続ける奴隷のような子供より、ずっと健康的ではありませんか」

 

 きっと多分、それ以外にも理由は幾つかある。当然黄前さんに背中を押されたという部分もあるだろう。けれど、だがそれは敢えて言わない。黄前さんに余計な火の粉が飛ぶ可能性もあるし、そうでなくてもこれは家庭内の問題であるという風にしないといけないのだ。それがきっと、解決の道であると信じている。

 

「お母様。今から私は非常に踏み込んだ質問をします。もし答えたくないなら、答えなくても結構です」

「……」

「お母様は、ユーフォニアムが嫌いですね」

「……」

 

 返答はない。だがその目が泳いだ。図星。そう判断する。

 

「だから、先輩にユーフォニアムをやっていて欲しくない。だから、大義名分を用意してやめさせようとした。この機会に、きっぱりと」

「……」

「ですが疑問が残ります。なら何故あのユーフォを買ったのか。楽器は決して安くない金額です。先輩のそれが自分の所持品である以上、どなたかがお買い求めになったはず。違いますか?」

「……あれは、私が買ったものではありません。元夫が、買ったものです」

 

 絞り出すような声で、彼女は言った。目を細める。人は自分の隠したいものを一つくらいは持っている。そしてそれを絶対に言わない時と、すんなり言ってしまう時がある。そのタイミングを言語化するのは難しいけれど、何となくわかる。今は、後者のタイミングだ。ならば、話すように質問で誘導していくだけ。

 

「先輩のお父様、ということですか」

「えぇ。元ですが。離婚しましたので。あの子がまだ、物心つく前に。それなのにあの人は、ある日いきなり送り付けてきたんです。あの人がやっている、あの楽器を! 正直嫌がらせかと思いました。義実家から娘を連れていなくなった私への、当てつけかと」

「……お父様のお名前は?」

「進藤です。進藤正和。ご存知でしょう、あなたもそういう業界に生きているのなら」

 

 よく知っている名前だった。ユーフォニアム奏者進藤正和。広い意味では同業者になるだろう。ユーフォニアム奏者の中では有名な存在だ。日陰に置かれることの多いユーフォの知名度向上に尽力している。初心者が練習するときのCDや教本は彼が作ったものが多い。

 

「しかし、よく吹奏楽部入部も許可しましたね」

「反対しましたよ。ですが抵抗されたので、良い成績を獲り続ける事を条件に許可しました。この高校の吹奏楽部は、例年夏ごろには引退だったので」

 

 誰かさん達のせいで変えられてしまった。そういう感情の籠った言い方だった。とは言え、それを私に言われても困る。直接の主犯は先生なのだから。

 

「そうですか、進藤正和。そうかそれで……」

「夫が、何か?」

「……恐らく、先輩は聞いて欲しいのでしょう。自分の演奏を、お父様に。かつて、彼が送ったユーフォを吹くことで」

「……何故、そうなるのです」

「名古屋で行われる吹奏楽コンクールの審査員には、彼がいます」

 

 その言葉に、彼女は時が止まったような顔になる。

 

「あの子、父親に……会おうとしている?」

「いや、多分会うつもりはないでしょう。ただ、ここまで続けてきた証明をあの場所でしたいのではないでしょうか」

「そんなの……認められません!」

「いいえ、認めないといけないのです。これは、先輩なりの決別ではないでしょうか。きっと、先輩にお父様と何らかの関係を持つつもりはありません。ですが、人は存在しないモノに憧れ、空想し、夢を抱く。両親がいなくなった私は両親に。そして、お父様が記憶の中に無かった先輩がお父様に夢をめぐらせてもおかしくはない」

 

 手に届かないモノを人は追い求める。存在しないモノに夢を見る。隣の芝生は青く見えるのだ。例えその青が本当は青じゃなくても。或いは、塗料で無理矢理青くしているのだとしても。特にそれが鳥籠の中だったらば、より青く見える事だろう。

 

 作り出した幻想に憧れを抱く。その姿は、どことなくかつての妹に似ているように感じた。

 

「ですが、だからと言って何年も会っていない父子がどうこうなるわけでも無いのは分かっているでしょう。恐らく先輩は今後もこの辺で暮らすんじゃないですかね」

「どうして……」

「それは、あなたがいるからですよ。先輩はお母様の事、別に嫌いではないと思います。好きかと言われると微妙ですが……まぁそれはご本人に聞いてください。ともあれ、お母様の近くで生きるなら、空想の中にいる父親とは別れないといけない。だからこそ、決別なんじゃないですか。最後に、名古屋の舞台で演奏を聞いてもらう。そしてそこでスッパリと父親の事は忘れる。ユーフォまで捨てるとは思いませんが」

 

 これは全部私の想像。本当のところがどうなのかは知らない。けれど相手がそれを突っ込んでこないなら、説得の材料には使えるのだ。父親と決別したいのかは分からない。ただ、私には何となくそう思えた。これまで続けてきた最後の集大成に、きっかけをくれた人間に披露する。そんな物語のような展開があってもいいと、私は思っている。人生、それくらいはあっても良いじゃないのだろうか。

 

「あの人は……家庭を顧みなかった。出会った頃はそのどこか浮世離れしたところがいいと思っていたけれど、離婚してみてアレは唯の世間知らずだと知りました。娘が産まれても演奏と練習と。義実家と同居するなんて大事なこと、一言も相談しないで勝手に決めて。そして私は義実家と折り合いが悪く、我慢の限界になって……家を飛び出ました。前職は帝国商事にいたのです」

「……」

 

 帝国商事。遠縁の縁戚が経営している商社だ。明治に創業した古い会社。桜地家の繁栄を支えてきた屋台骨でもある。

 

「折角大企業に入って、それなのに私のキャリアは結婚と同時に全部無くなりました。最初はそれでよかったのです。そういう時代であり、私も夫の支えになりつつ子育てが出来れば、それでいいだろうと。けれど……義実家にいるときに思ってしまった。こんな目にあうために、私は全部を捨てたのかと。実家も、職も。折角いい大学に入ったのに、その学歴すら捨てたも同然になってしまった」

 

 今でこそ共働きはスタンダードになりつつある。けれど昔はそうではなかった。適当に大学を出て、就職したら数年で寿退社。そして以後はずっと専業主婦。それが社会の中にある正しい生き方だったのだ。

 

「実家にも結婚に反対されました。売れない、実家が太いだけの音楽家なんてと。結局あの人たちが正しかったのです。私の恋を縛る枷と思っていた人だけが」

 

 だから、彼女は先輩を縛った。常識で判断し、例え子を縛ることになったとしても常識的な道に、敷かれたレールの上に誘導し進ませることが正しいと、彼女の経験で知ったから。故に自分もかつての自分の両親をトレースすることで、先輩が間違えることの無いようにしたかった。そういう事だろう。

 

「だから、私は……認められません。あの人を認める事なんて出来ない。父親としての役目なんて果たそうとしないで、それなのに楽器だけ送り付けて、夢を与えて、あしながおじさん気取り! 苦労して、働いて、あの子を育てたのは私なのに、美味しいところだけ持って行って!」

 

 立ち上がって叫びながら、彼女は荒い息を吐く。そして目を抑えて、暫くそのままだった。そしてやがて少し落ち着いたような態度のまま、もう一度座った。

 

「分かってはいます。あの子と元夫が別人格だということは。けれどあの楽器を見る度に思い出してしまう。あの頃の、愚かだった自分の記憶まで全部。低い音で目立たないけれど、花形を支えているあの楽器のことが好きだった、昔の自分が」

「では、やはりこれは渡さなくてはいけませんね」

 

 私は懐にしまっていた封筒を取り出す。そして机の上に置いて、スッと前に差し出した。怪訝そうな顔で彼女はそれを受け取る。

 

「差し上げます。どうぞ、ご確認ください」

「これは……全日本吹奏楽コンクール、全国大会……」

「その席のチケットです」

「あなた、何を考えて」

「それはお母様、あなたのものです。破り捨てるのも、突き返すのも自由です。それを私に咎める権利はありません。ですがもし、過去と決別したいのなら、私はそれを使って、名古屋に足を運ぶべきだと考えます。お母様の苦しみも過去も、私には聞くことしかできません。私にはあなたの心を理解することは出来ない。私に一つ出来る事があるとすれば、嫌な記憶の象徴であるユーフォニアムを、娘さんの、先輩の象徴という風に塗り替えてはみないか、という提案だけです」

 

 もし仮に先輩の母親が、先輩の説得だけで折れたとしてもそれは事態の根本的解決とは言えない。勿論私に根本的な解決をするべき理由は無いし、これは言ってしまえばお節介であるのかもしれない。だとしても、動かないわけにはいかなかった。

 

 両親が死んだ後。私たち兄妹の処遇は揉めた。或いはあの時、私が音楽の道を絶たれる可能性も存在したのだろう。けれど、大勢に抵抗して私たちを守ってくれた人がいた。「二人の自由は、私が守ります」とそう言って、居並ぶ大人の前で啖呵を切って、そして私たちに自分の家に住める状況をくれた。

 

 私は私の従姉に守られて、支えられて、助けられて今ここにいる。もっと前は両親に。自分の夢を貫き通した母に。諦めたからこそ、静かに送り出した父に。だから今度はきっと、私が誰か、自分の意思ではないモノに縛られている人の助けになるべきなのだろう。そうやって、世界は回っていくはずだ。人生は結果論。終わり良ければ総て良し。私の友はそう言った。なら、過程がどうであれ、最後に幸せになれるように手助けすることが、私の為すべき行いだと信じている。

 

「行かないも行くも自由です。ですが、お母様には行く意思が少なくとも僅かではありますが存在している」

「どうして、そう言い切れるのです」

「もし絶対に行きたくないなら、確認した瞬間破り捨てたはず。違いますか?」

「……」

「先輩の演奏を聞いてください。自分の過去を先輩に重ねるのではなく、先輩そのものを見るために。今日は、そのお話をしたくわざわざご足労頂きました」

「子供のくせに、生意気ね。それにお節介」

「性分ですのでご勘弁を」

「今日は帰ります」

「そうですか。私どもにとっての朗報を、お待ちしております」

 

 扉を開け放ち、そしてスタスタと彼女は帰っていく。これでどうなるかは分からない。もしかしたら援護射撃にはならなかった可能性もある。だが、あの表情を見る限り、少しは翻意を促せたのではないかと考えていた。

 

 出来る限りのことはしたつもりだ。何の役に立つかは分からずとも、それは最善を尽くさない理由にはならない。後は先輩に任せるしかないだろうと思い、面談室のソファに深く腰掛けた。沈み込む身体は疲れを訴えている。

 

 だが一つ今までと違う所があるとするならば、それは多少は心地の良いものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 そして約束の日となる。音楽室内はいつも通り様々な声で満たされていた。肝心要の存在は、まだ姿を現さない。けれどもうすぐだろうと思っていた。ここまで大分時間はかかったけれど、これで大団円になる。それが私には、とても喜ばしいことだった。

 

「それじゃ、頑張ってね」

「へ、始まりますよ?」

「あれもしかして聞いてないの?あすか先輩も意地悪だなぁ」

 

 中川は席を立ち、楽譜を小脇に抱えて黄前さんのもとを去る。それと入れ替わるように、音楽室の扉が開かれた。昨晩、幹部+なぜか私がいるグループに一通のメッセージが送られた。差出人は先輩。そのメッセージには文字はない。ただ「◎」だけが書かれていた。私も部長も香織先輩も、その記号の意味はすぐに理解した。

 

 成功したのだ。それを確認した時、私は思わずガッツポーズをしてしまったのを思い出す。私のやった事に何か意味があったのなら、今までの行動も報われる。

「ゴメン。遅れた」

「田中先輩!」

 

 ざわめきがあっという間に室内を満たす。涙ぐむ生徒もいれば立ち上がって喜ぶ者もいる。一応話は聞いていたとはいえ、実際に姿を見るまでは確証が持てなかったのも事実。そのため、こうしてやって来たのを見て、私は初めて安堵することが出来た。

 

「どういう事ですか?」

「あすか先輩、模試で全国30位以内だったみたいで、それを使って母親と交渉したみたい。どうしても出たいってね」

「夏紀、ごめん」

「謝らないで下さいよ。私、あすか先輩のこと待ってたんですから」

 

 そう言って彼女は音楽室の後方へ行く。大会のないB編成の子達の場所へ。その胸中にある感情は分からないけれど、一度手にしたあの席を来年もう一度。その背中はそう語っているように見えた。

 

 先輩は戻って来た。これで出られるのだ。これで、全員が。誰一人欠けることなく、何なら一人増えて。北宇治高校吹奏楽部は全国大会に。去年の失敗はもう繰り返さない。そう思って、動いていた。希美のようになる一年生を作らないように。高坂さんの情熱に応えるために。吹奏楽部をよりよい場所にするために。色々な目的のために、ここまで半年近くやって来た。

 

 それはもしかしたら、全てこの日のためにあったのかもしれない。歓喜に湧く音楽室。多くの拍手が飛び交っている。私も手を叩いた。この結末に、満足しながら。

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