音を愛す君へ   作:tanuu

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第五十三音 いつか隣で Viewpoint from 希美

 声援が響く。万国旗が風にたなびいていた。今日は体育祭。北宇治高校の秋に行われる、最後のイベントだ。数日前にあすか先輩が退部するかもしれないという騒動があって、どこか浮ついた空気の中でイベントは行われている。今日は学校があるので当然先輩もいる。そして体育祭の最初に演奏をしていた。

 

 今は毎年高校二年生が行っている有志の競技の真っ最中。特に点数が入るわけでは無いけれど、それでも盛り上がるから行われている。男子は応援団、女子はダンスがある。そのダンスは曲も振り付けも自由だ。そして、そのセンターは私が務めていた。

 

 元々吹部も他の人より忙しくないし、ダンスは得意だしということで立候補したらあれよあれよという間にセンターを任されていた。爆音のバックミュージックに合わせて、体育館で何度も練習した通りにやっていく。こんなに汗を流したのは久しぶりだった。頬を伝う汗を、秋の風が撫でていく。腕と足を動かしていくと、一緒に髪も揺れる。

 

 最後のサビが終わって、バッとダンスが終わる。一斉に動きを止めて、カッコよく。そういう振付にしていた。そして狙い通りに大きな歓声と拍手。例年に負けないように仕上げられたと思う。この辺は凛音が文化祭でやっていた盛り上げ方を少し参考にした。

 

 少しだけ荒い息を吐きながら、自分のクラスの方を見る。こっちに視線を送っている彼に届けばいいなぁと思いながら小さくウインクする。さっきまでよりももっと大きい歓声が校庭から轟いた。誰に向かってしたのか、きっと皆は分からないだろう。今はそれでいい。この想いを伝えるのは、まだ早すぎる。だから、もうちょっと秘密だ。

 

「どうだった、私のダンス」

「カッコいい。……ごめん、ちょっと語彙力が死んでるな」

「えー、なんかもっとこう色々あるでしょ」

「いやホント申し訳ない。でも嘘じゃないから」

「それは分かってる」

「カッコよかったし、綺麗だったと思ってる」

 

 その言葉は欲しかったもの。クラスの人からも先生からも褒められたけれど、そんなシンプルな言葉が聞きたかった。可愛いと綺麗と、どっちの方が彼の中で恋愛対象に使う褒め言葉なんだろう。きっとそんな事考えていないだろうけれど。そんな事に一喜一憂してしまう。でも取り敢えず、今は喜んでおくことにした。

 

 それを糧に、この後クラス対抗リレーで優勝するのは、また別の話。

 

 

 

 

 

 

 

 それから数日後。駅ビルコンサートは快晴の中行われた。むしろ暑いくらい。今日は久しぶりの演奏なので、気合いが入ってる。辞めて以降、外部の市民オーケストラには参加してたものの、部活としては実質去年のサンフェス以来となる。それも散々な出来だった以上、本当にいい演奏が出来るのは南中以来かもしれない。心地良い緊張が体を満たしていた。

 

 先輩の一時の帰還により本調子を取り戻した私たちは、ステージでの演奏に集中する。曲は宝島。サックスのソロが一番目立つ曲だ。演奏席から前をちらりと見れば、観客席に意中の人の姿ははっきりと見えた。ピンと背を伸ばし、割りと真剣な顔で見つめている。慌てて視線を先生に集中させた。

 

 そして、手が振られる。

 

 終わってしまえばあっという間で、きちんと吹けていたのかどうかは今一つ覚えていない。久しぶりの高揚感が満ちる。長らく忘れていた感覚が戻ってきた。感傷に浸っている場合ではないことを思い出し、走り始める。これから清良の演奏を聞くと言っていた。つまりまだ席から動かないのだろう。人の移動があるため、僅かにできた隙間に体を滑り込ませ隣を確保することが先決だ。

 

 皆も清良の演奏を聞くというのは同じのようで、後ろから次々とやって来る。このままでは目的の席をゲット出来ないかもしれない。小走りで移動しつつ、人の波に呑み込まれて遭難しかけていたみぞれを救助して何とかたどり着いた。勢いよく隣に滑り込むと少し怪訝そうな顔をされたが、すぐに前を向いてしまった。

 

 大方何でこんなに急いでるんだろう? とか、そんなに清良の演奏を聴きたかったのか? とか思ってるんだろう。ちょっとイラっとする。どんどん人が来るので狭くて潰されそう。押されて抱きついたみたいな体勢になってるのが恥ずかしい。

 

「せ、狭い……」

「文句言わないで。いの一番に私の隣を陣取ったんだから。甘んじて受け入れて」

「うぅ……もうちょい寄れない?」

「努力はしてみる」

「ごめんね……」

 

 このままだと私の精神衛生的に非常によろしくないので早く何とかならないものだろうか。顔が滅茶苦茶近くて心臓の鼓動が速くなる。ドキドキが止まらない乙女と成り果てているのを感じていると、清良の演奏は始まった。

 

 圧倒される上手さを持つ演奏はたちまち観客を魅了していた。誰もがそれに引き込まれている。勿論私も。隣からもしきりに感嘆の息をもらす音がした。この前の清良との合同練習の時も思ったけれど、彼はやっぱりあの学校に少し思い入れがある。お母さんの出身校だという話だし、きっと色々思う所はあるんだろう。

 

 途中で曲紹介と一緒に紹介されてた時はあまりにも憮然とした顔というかひきつった顔をしていたので、思わず笑いながら肘でつついた。ただ、演奏が始まると感心したように時折頷きながらちょくちょくメモをしていたので、そこまで嫌だった訳では無いと思う。

 

 あの上手い演奏を聞きながら、同時に自分の技術の至らなさにも気付く。目指す頂きはとても遠くて、眩しかった。たどり着きたい。あの場所に。そうしたらきっと、隣に立てるから。手をキュッと握りしめ、誰も知らない心の中で誓う。いつか、あの人の隣に立つのに相応しい人になれるように、と。

 

 コンサートが終わった後に彼の誘いに着いて行くと、京都駅の近くの喫茶店らしき店に連れてこられた。中はお洒落な雰囲気で、多分普段なら絶対入らないというか入れない感じ。店員さんらしき人は初老のマスターだけ。ケーキも売ってるのか、レジの前にはショーケースもあった。若干緊張してる。慣れたように進んでいくので、慌てて動きを合わせる。

 

 案内された席でメニューを開くと、とても美味しそうな品目が並んでいる。お値段を見てギョッとしたけど、美味しいものの誘惑には勝てない。しかし心もとない高校生の財布。バイトも出来ない吹奏楽部員はなけなしのお小遣いで生きている。

 

「うーん。うーん」

「何してるの……」

「美味しそうなんだよ。美味しそうなんだけどお金の持ち合わせが……」

「あぁ、それなら気にしないで。元々私が連れてきたんだし、今日は奢り」

「え、でもそんな悪いって」

「いいって。女子と二人でお店に来て、しかも自分で連れてきておいて割り勘は私のプライドが許さないし……次はそっちが出してくれたらOKってことで」

「それなら、お言葉に甘えてありがたく頂きます」

 

 次がある、とそう思って良いのだろうか。吹奏楽部の休みはほとんどない。またこうして出かけられるのは一体いつになってしまうのか。もしかしたら、来年までないかもしれない。冬休みだって、多分あんまり休めないはずだから。もし休みがやってきたら、その時は誘ってみよう。どこかへ行こうと、少しお洒落して。

 

「今日は、あすか先輩来れたね」

「……そうだなぁ」

「この感じでこれからも来れれば良いけど」

「……」

 

 彼の声は鈍色に思える。私の言葉は色々な事を無視した希望的観測でしかない。それはよく分かってる。でも、悪いことを口にしてしまうとなんだか本当にそうなってしまう気がしたから。なるべくポジティブな言葉を言うようにしていた。

 

「夏には色々迷惑かけちゃったし。何か出来ることがあればしたいけど」

「家庭の問題だからな。我々には難しいさ」

「そんな事言って。あすか先輩のお母さんとは交渉してるし、それ以外にも出来る事は協力してくれるんでしょ? 夏紀から聞いたよ」

「出来る限り、な」

 

 彼の出来る限り、は普通の人より大きい気がする。きっと何とかしてしまえるんじゃないか。そう思っている人は、きっと多いと思う。それは確かにそうなんだろうけど、と私は思っていた。それでも無傷のまま動いているわけじゃない。疲れもするし、時には傷つくこともあるだろう。

 

 まだ、そんな素振りは見えない。でも、彼は隠すのが上手い。だから私は、気付かないといけないと思う。近くにいるんだから、なおの事。前は気付けなかったその痛みに、今度は鈍感でいてはいけないと思っている。

 

「香織先輩も喜んでたよ。これであすか先輩を連れ戻すぞ大作戦も成功に近付いたって。今日夏紀が呼ばれてるのもそれの件だし」

「何作戦だって?」

「あすか先輩を連れ戻すぞ大作戦」

「何だその幼稚というかトンでもセンスな名前は」

「これ、考えたの香織先輩だよ」

「素晴らしい作戦名だ。溢れ出る芸術的・文学的なセンスが感じられる。これを考えた人は芥川賞も固いだろう」

「わーお見事な手の平クルクルだね」

「ありがとう」

「誉めてないよー。どや顔しないの」

 

 優子と言い、彼と言い、トランペットパートにおいて香織先輩は特別な存在だ。それこそ、評価がべた甘になるくらいには。そんな存在に、私はなれるのだろうか。笑顔を浮かべる自分の顔が、少し自信がない。紅茶に反射したその表情は、少し不自然なように、自分では思えた。

 

「冗談はこれくらいにしてその作戦、どういう事するんだ?」

「先輩のお母さんに頼み込むんだって。幸富堂の栗饅頭が好物なんだって。先輩のお母さん」

「それ、本気で言ってるの?」

「……本気だよ」

「目を見て言いなさいな、目を。まぁ、それは最終手段というかおまけだな。それに、今のままでは多分成功しない。きっと我々ではダメなんだ。誰か別の人でなくてはダメなんだと思う。その候補はいるんだけど……」

 

 彼は目を泳がせる。その候補が誰なのかは分からない。きっと彼なりの理論や考えがあって、その人を選んだのだろう。頼ってくれればいつでも、何だって頑張るのに、彼は私を頼ってはくれない。きっと去年はこんな気持ちだったのだろう。頼って欲しい人に、頼られないのは、とても辛い。 

 

「特別ってなんだろう」

「特別?」

 

 胸を刺す小さな痛みを抑えていた私に、彼は唐突に話を振る。

 

「誰かを、何かを特別だと思うのはダメな事なのか、と思って」

「私には難しい事はよく分からないけど、特別に思う人がいるのは悪いことじゃないし、普通だと思う。でも、特別だって言ってその人を崇めたり、勝手に比べて自分を下に見たりするのは違うと思う。特別に思いつつも、隣にいられたら素敵だよね」

 

 具体的には、と言おうとして慌てて口を閉ざす。それはきっと言ってはいけない。まだ、今は。多分在学中は言えないんじゃないかと思ってる。だって、彼は指導者で私は部員だ。そこに恋愛関係なんて存在してはいけない。贔屓を疑われて大変な事になったというのを伝聞であっても知っているのに。 

 

「お、来た」

「え、あ、ホントだ」

 

 だから彼が話を変えてくれたのはありがたかった。実際美味しいのは事実なので、それに舌鼓を打つ。しまったバクバク食べ過ぎたかなと思いながら顔をあげると、紅茶を飲みながら優しく微笑む顔があった。

 

 それは、とても優しくて、穏やかで今このときくらいしか見れないものだと何故か分かった。幸せという言葉で形容するのがふさわしいその笑顔に見つめられ、顔が紅くなっているのが分かる。今が夕方で良かった。西日で全部隠せるから。

 

 さっきの言葉で分かったけど、彼は彼なりにしっかりとこの問題について解決したいと考えている。その頭を捻って糸口を模索している。私はそこまで頭が良くないけれど、気持ちだけは同じでいたかった。

 

 特別な存在は、その特別さが上がるほど抱く気持ちは強くなる。痛いほどによく分かった。香織先輩たちの特別があすか先輩であるように、私の特別は凛音なのだから。あるのは対象の違いだけ。もしかしたら恋愛感情と友情の違いもあるかもだけれど。

 

曇りガラスから差し込む光と暖かなランプの光が私たちを包み込む。この狂おしいほどに愛しくて、優しくて、幸せな空間に二人でいられたら。そう心の底から願う。

 

 そうなれたなら、もう私は何もいらないのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから数日後いつも通りに家を出て学校に向かった。最近の凛音は顔色が悪い。大丈夫なのか心配でいるけれど、本人は大丈夫の一点張り。絶対大丈夫じゃないと思っているけど、全然弱いところを見せてくれない。それが少し寂しかった。

 

 通学中、学校の目の前で携帯が鳴る。誰からだろうとかけてきた相手の名前を見ると、涼音ちゃん。何の用だろう。想像がつかず首をかしげつつ電話に出る。

 

「あ、もしもし、希美先輩ですか? おはようございます。朝早くにすみません。今大丈夫ですか?」

「あ、うん。大丈夫だよ。どうしたの?」

「それが……兄さんが倒れてしまいまして」

 

 その言葉に少しだけ眠かった目が一気に開く。

 

「え、ちょちょ、大丈夫なの!?」

「今一応寝かせてます。熱は高いですけど、本人は大丈夫だって主張してるので、私は家を出ようとしてます。……病院嫌いなので全然行ってくれないんです、今度会ったら先輩からも何か言ってくださると助かります」

「そうなんだ……」

 

 咳してたし、体調悪そうではあったけど案の定こうなっちゃった。全然大丈夫じゃないじゃん、と心の中で呟く。

 

「ビックリしましたよ。朝ドンガラガッシャーンって音がして飛び起きてみたらフライパン持って台所の床にぶっ倒れてたんですから。39度近くあるのにご飯作ろうとするので慌ててベッドに放り込みました。まぁこれは私が料理出来ないせいなんですけど……」

「……容易に想像できる」

「ま、それは良いとして。大変申し上げにくいお願いをしたいのですが……」

「え、何だろう。私に出来るなら良いけど」

「誠に勝手ながら、私は本日帰りが20時近くなる予定でして……。部長という立場上抜けられなくて。雫さんも仕事で大阪に出るので帰りはそれくらいになるんです」

「ふむふむ」

「もしお時間に余裕があるならよろしければ様子を見に行って欲しいんです……。お願い出来ますか? 高熱出してる人を放置するのは危険そうなので。生存確認だけしてもらえれば構いませんから」

「全然いいよ。むしろ大歓迎」

 

 これまであすか先輩の件と言い色々頑張ってるのは知ってる。それに、私は沢山迷惑をかけてきた。だから、その恩返しができるなら、少しでも役に立てるなら出来る事は何でもしておきたい。

 

「ありがとうございます! 鍵はポストに隠しておくので開けてください」

「了解だよ」

「本当に助かりました。他に頼めそうな人がいなくて。夜まで帰れないのは不安だったので本当にありがとうございます」

「どういたしまして。そう言えば、夜まで帰れないってことはご飯とかはどうするの? いつも凛音が作ってるけど」

「今日は……何か買ってこようかなと。一旦家に帰ってからになってしまうので、少し遅くはなりますが」

「私、やろうか?」

「本当ですか? じゃなくて、ありがたいですけどご迷惑じゃないですか?」

 

 掴むべきはまず胃袋。あと外堀を埋める為に意中の人の家族からの好感度を上げる。お母さんはこれでお父さんを落としたらしい。ホントか嘘かは知らないけど。と言うのは冗談としても、後輩が困っているのは見過ごせない。雫さんもこの前お世話になった。その恩はしっかり返しておきたい。借りっぱなしというのは、私の性分に合わないのだ。

 

「全然気にしなくていいよ。やりたくてやってる事だし」

「本当にありがとうございます。兄さんも喜びますよ。希美先輩のご飯食べられると知ったら」

「そ、そうかな。じゃあ頑張らないとね」

 

 人並みには出来ると思っているし、最近は少しずつ練習するようにもしている。元々帰宅部時代は暇だったので、その間に練習していた分もあるつもり。なので、少しは自信があった。

 

「くれぐれも無理だけはしないで下さいね。それじゃあ申し訳ないですけどよろしくお願いします」

「はいはーい。任せておいてよ」

 

 勿論、純粋に心配なのでキチンと様子は見るし、看病する。多分他の部員に休むこと伝えないといけない。あと、私も今日の部活はお休みしないとだろう。朝練の時に先生と部長、それと他の皆にお休みの事は伝えた。学年を問わずに驚きの声が上がる。

 

 あすか先輩と重なったせいか、まさか彼もとなっている声が出てしまい、慌てて否定した。ただ風邪で休みということに安堵の声が漏れるのは、彼の人望が高い証だと思う。

 

 教室に戻ってしばらくすると朝のHRが始まる。いつも隣にいる人がいないと変な気分になってしまった。ただでさえ滅多に休まないのだし。隣が空白なのは少し、寂しい。

 

「桜地ー、桜地は休みか?」

 

 横に視線を送りながらぼーっとしてたら先生の声が聞こえた。

 

「先生、りん……じゃなくて桜地君はお休みです」

「お、そうか。病欠か?」

「はい」

「分かった」

 

 後で分かったけれど、この後先生が職員室に戻った時に別の先生から連絡が入った事を教えられたらしい。入れ違いになっていたみたい。

 

 そのあとは普段通りに授業を受ける。その間に彼からノートとっておいてと連絡が来た。もちろんそうするつもりだったので、授業中だったけれど後ろの席なのを活かしてすぐに返信しておいた。ちょっと悪いことなのは分かっているけれど、この小さな秘密は隣がいない寂しさを紛らわしてくれるように思える。

 

 ちょっとだけ部活に顔を出して、すぐ向かわなくちゃいけない。部活に行ってお見舞いに行くという話をしたら、色んな人がお見舞いの品を渡してきた。なんだか私が貰っているみたいな気分になって来る。

 

 そしてそのメンバーは滝野君以外みんな女の子。何とも言えない気持ちになる。みぞれはラムネ。夏紀はゼリー。優子はポッキー。高坂さんと香織先輩はお手紙。私のライバルは封筒入りの便箋。いつ書いたのだろう。多分、私と同じ授業中だ。

 

 と言うより、まさか香織先輩がライバルとかではないよね、と少し蒼くなる。頼むからそれは止めて欲しい。そうなったら勝ち目薄いと言うより北宇治吹部の面子で香織先輩に勝てる人の方が少ないと思う。本当にお願いします。沢山ある京都の寺社仏閣に祈りを捧げながら、帰り道をスタスタと歩いている。

 

 よく見慣れた門の前につく。ギーっと音のなる木戸を通ってポストを覗くと鍵があった。それを取ってそのまま玄関へ歩く。鍵を開けて中に入るとお屋敷の中はシーンと静まりかえっていた。靴を脱いで、玄関に荷物を置いて、手洗いしてから一先ず様子を見るために部屋に行く。

 

 一応ノックしたが返事が無いのでゆっくりと入る。ベッドの上には苦しそうに息をしたまま寝ている姿があった。起こさないように額に手を当てると熱かった。私の平熱が36.6くらいなので、だいたい39度前後だろうか。兎に角このままじゃまずい。様子を見に来て正解だった。

 

 取り敢えず、水の入れたボウルとタオルを取ってくる。冷えピタがあれば良いのだけれどあいにく場所を知らない。なのでこれで代用だ。冷たさで少し楽になったのか呼吸が落ち着き始める。布団を整えて、少し胸元を緩めて呼吸しやすくする。こんなものだろうか。お見舞いの品と預かったプリントとかを机におく。時刻は三時半。パパっと何か作ってしまいますか。まだ起きないかもしれないけど、温め直してもらえば良いし。

 

 お母さん直伝の……とは言えそんな大したものではないけれど、お粥が出来上がったので、部屋に持っていく。起きてはいないようで相変わらずまだ辛そうにしている。呼吸が荒い様子は見ていても辛い。

 

 時折何かにうなされているみたいな顔になる。悪い夢でも見ているのだろうか。私にはどうすることも出来ない。せめて何かしたくて左手を握りしめる。

 

「私を……一人にしないで……」

 

 か細い声でそう聞こえた。悲しい夢を見てるのだろうか。凛音は、この歳で別れの多い日々だったと思う。その中の誰か、或いは全員の夢を見てるのかもしれない。その表情にキュッと胸が締め付けられ、握った手に力が入る。

 

「大丈夫だよ。私がずっと、側にいるから」

 

 口から思わず、そんな言葉が飛び出た。衝動的な言葉だけれど、偽り無き本心。きっと次は私の番だから。いつも助けてもらってる分、私が隣にいてあげたい。彼がそれを望むなら、なおさら。私の光。私の特別なあなた。その為なら私は頑張れるから。

 

 私に、もし資格があると言ってくれるならずっと側にいたい。この、二人だけの世界に。午後の光が窓から差し込む、穏やかな場所に。でも、それは許されないのだろう。この人は多くの人が必要としてる。二人だけには永遠になれない。それでも、いつかは振り向いて欲しい。心の底からそう、思っているのだから。

 

 そしてハッと目を覚ます。少し寝てしまっていたようだ。時計の針は五時を指していた。繋いでいた手は外され、ハラリとタオルケットが落ちる。机の上のお皿は空っぽになっていたし、お見舞いの品はまとめられていた。彼はスースーと整った寝息をしながら寝ている。良かった。熱は少し下がったみたいだ。ホッと一安心して立ち上がろうとする。

 

 そうしたら足がしびれていたみたいでよろめく。長いこと同じ姿勢だったからだろう。手をついて顔面が衝突するのは防いだけど、ベッドに手をついたせいで思いっきりそっちに倒れる。予期せず覆い被さってしまった。顔と顔が数センチしか離れていない。これじゃまるで押し倒してるみたい。

 

 まるで、眠り姫のように整った綺麗な寝顔が見える。普通男の子につかう表現ではないけれど、その形容がピッタリに思えた。目線がその唇に行く。

 

頭の中で天使と悪魔が囁く。悪魔は行けと。天使はシチュエーションを選べと。どっちもうるさい、と天使と悪魔を追い払う。取り敢えずこのままではよろしくないので何とか立ち上がる。このままもう少し様子を見て、五時半くらいになったらご飯を作ろう。頼まれたことはキチンとやらなくてはいけない。それまでは、もう少し様子を見ていよう。そう思ってまた座り直した。

 

 五時半過ぎになったので、作り始める。簡単に作れるのはカレーとかだけど、病人に食べさせる物ではないので、同じ材料だけれど胃に優しいシチューの方にする。そんなこんなで作っていると時間は時を回った。いい感じに出来たし、そろそろ帰ろうと考えて準備する。メッセージを残しておいて、最後に様子をもう一度見に行った。

 

 彼はよく寝ている。呼吸も落ち着いたし、熱も微熱だろう。これなら大丈夫そうだ。

 

「早くよくなってね。寂しかったんだから」

 

 そう声をかけて、部屋を出た。鍵を閉め、元のポストに戻して家に帰る。今日は色々あったから少し疲れた。あの時、唇が触れそうになった事を思い出す。顔が紅くなっていくのが分かる。私も病気にかかっているみたいだ。恋の病に。楽しさも持っているこの病の患者の私は、彼が早く元気になることを祈りつつ、帰路についた。

 

 

 

 

 

 その翌々日には、彼は元気になって普通にしていた。美味しそうなお菓子をお礼にくれたのは良いのだけれど、親にその出所を聞かれて説明に困ってしまった。それに、もう一つ困った事がある。

 

 それは、あの顔を見る度にあの時の事を思い出して顔が赤くなりそうになって目を逸らしてしまうこと。ホントにどうしようと悩んでいる。ため息をつきつつ、この事態に実はそんなに困っていない自分がいることに苦笑いしてしまう。

 

 でもそんな事より気になってることが一つだけある。

 

「なーんか綺麗な人と一緒でしたね~」

 

 ちょっとダル絡みしている気がするのは自覚している。でも、ちょっと気になってしまう。彼女がどんな人なのか。もしかしたら好きなんじゃないか。そんな風に思ってしまう。ただでさえ年上の方が良いっていう話だし。

 

「あぁ、見てたの?」

「誰なの~? あの人」

「前に見たでしょ。覚えてない?」

「前……? あぁ、あの写真の!」

 

 前に泊まった時、彼の部屋にあった写真に彼女が写っていた。金色の流れるような髪に青い目。そしてその特徴的な無表情。あんな写真なのに表情筋がピクリともしていない人を、私はあの時初めて見たかもしれない。

 

「コンバスの川島さん用に頼んでいた専用コーチで、忙しい中来てくれたんだ。わざわざ、このために」

「そっか。優しい人なんだね。それか、友達想い」

「まぁ、そうかも」

 

 彼の目は少しだけ細くなって、遠くを見る。それは、私の知らない世界を見ているときの表情。その表情をされると、私は胸が締め付けられてしまう。その世界に私はいない。そう言う顔をしている彼の瞳に、私は映っていない。それは仕方のないことだってわかってる。人には誰だって、相手の知らない記憶がある。でもそれを寂しいと思ってしまうのは、間違ったことなのだろうか。

 

 でも、私に出来る事は少ない。彼の記憶は当然過去のもの。そこに行って、何かすることはできない。過去の記憶に、私はいられない。だから出来る事は、きっと彼の記憶を教えてもらうことなのだろう。そうすることで、私との時間を積み重ねてもらう。それくらいしか、出来ないのだ。

 

「ねぇ、もっと教えてよ。昔の話」

「聞いててもそんなに面白くないと思うけど」

「いいのいいの。私が個人的に、知りたいだけだから」

 

 私は笑顔でそう語りかける。彼は遅くまで教頭先生と話し込んでいた。きっと、あすか先輩の事で何かあるのだろう。彼は動こうとしている。それに関して、私に力になれる事はほとんどない。それでも何かできることがあるとするならば。こうして気分を少しでも変えられるようにすることくらいのはずだ。

 

 今はまだ、無力。でもいつか、いつかきっと大人になって、色んなことが出来るようになって。そうしたら、あなたの隣にいても良いですか。そんな言葉は、口に出されることの無いまま夜の闇の中に溶けていった。今は、それでよかったから。

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