音を愛す君へ   作:tanuu

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第五十四音 ライバル

「皆さんも既に知っての通り、無事田中さんがコンクールに出場できることになりました」

 

 先生は穏やかな表情で言う。口元には微笑が湛えられており、この結末になったことに安堵しているのが分かった。それはかく言う私も同じこと。

 

「結局、皆に迷惑をかける形になってしまって、本当にすみませんでした。これから本番まで必死で練習して、良い演奏をしたいと思います。よろしくお願いします」

 

 先輩が頭を下げれば、大きな拍手が鳴り響く。あぁ、何とかなったんだ。そういう感想を心の中で漏らしながら、肩の荷が降りたことを痛感する。ここからがラストスパート。残った日数は二十日弱。この僅か三週間足らずでどこまで行けるのか。それによって、全国大会での結果は大きく左右されることになるだろう。

 

 その大事な時期に先輩が戻ってきたことは非常に喜ばしい。演奏という面でも、そしてそれ以外の面でも。ただし、その喜ばしい渦中にあって唯一浮かない顔をしている人間が一人。あっちが終われば今度はこっちかと言わんばかりに次々と事態が勃発していく。私の教え子たる高坂さんは、その顔に憂いを帯びていた。

 

「いやぁ、ありがとね。私のことで、迷惑かけて。お母さんもだけど」

「ホントですよまったく。勘弁してください」

 

 見え始めている問題の萌芽を他所に、私は先輩に呼び出されていた。今度は、多少はプラスの内容で、だが。前回とは違って今回は難しい話でも重苦しい話でも無いのが特徴だ。だからこそ、少し砕けた口調で軽い文句を言う。かしこまってお礼をされるのは、そんなに得意ではないから。

 

「私の父親のこと、誰に聞いたの?」

「先輩のお母様が自分で喋りましたよ」

「そうかぁ……」

「でも、どうしてそんな話を?」

「家で急に父親の話をされたから、あぁなんか説得されたのかなぁと思ったからね。君が色々手配したんでしょ、あのチケットとか」

「まぁさしたる労苦ではありませんので。あれくらいは」

 

 実際、ウチの面倒な祖母に送り付けるつもりだったものを枚数一枚追加しただけだ。なのでそこまで大変な作業ではない。あの母親だって話すのが三回目にもなれば、多少は人となりも分かる。どういう風に話を運んだらいいのか、それも理解していた。

 

「私は何年一緒にいても説得一つ出来ないのに、大したものだよ」

「こっちは部外者ですからね。部外者である以上、何でも言えますし何でもできます。相手にとってもそう。怒鳴り散らしたり、ましてや暴力沙汰なんて起こせない。だからこそ、ギリギリ理性と感情の分水嶺に立って話すしかない。もし一摘みでも理性が残っているのなら、交渉の糸口はありますから」

 

 相手の事を思いやる必要も、共感する必要もない。今後付き合いを続けていくこともない。だからこそ、私はああいう風に振る舞える。自分の親族血族ともなればあんな風なことは出来ないだろう。ある意味で、部外者だからこそ出来たことなのではないか、そういう風に考えていた。

 

「ともあれ、何らか解決に繋がるお手伝いが出来たのであれば幸いです。こちらとしてもこの結末は非常に歓迎するべき事でしたから」

「私、君にあんまり好かれてないと思ってたんだけどなぁ。だからこうして色々手を回してくれて、正直ちょっと驚いていた」

「別に好きではないですけど、嫌いでもありませんので。しいて言えば……苦手? でもまぁそれは私個人の感情です。部活動の事を考えれば、優先するべき事項ではありませんし」

「それが助けてくれた理由?」

「その一部です。他にもまぁ大小細々色々とありますが……。私は少なくとも、幸運な人間です。夢を、自分のやりたいことをやる自由を与えられている。両親、そして今は従姉に。私の行いたいことを阻もうとする存在を、そう言った存在が庇って、守って、そして今があります。ですが彼らに私が出来ることは少ない。だからこそ、今己の人生を生きる道を閉ざされそうになっている存在を助ける事で、せめてもの恩返しと思っています」

「そっか……。ありがとうございました。私自身と、そして母に代わって、お礼申し上げます」

「お礼は結構です。その代わり、一番いい演奏をしてください。それで全部貸し借り無しということにしましょう。何より、香織先輩が泣かずに済んで私も満足ですから」

「なにそれ」

 

 この前と同じ言葉を、この前よりも柔らかな口調で彼女は言った。私はこの結末に満足している。それは嘘でも偽りでもない。一番いい演奏を出来るようにするのが私の務めだ。妥協無く、油断なく。だからこの結末になるように多少なりとも努力したつもりだ。

 

 彼女が良い演奏をしてくれればそれでいい。理由なんてなんだって構わない。自分のためでも、誰かのためでも、それは一向にかまわない。有名になりたい、自分を証明したい、あのスポットライトの下に行きたい。そんなともすれば俗物的な理由でも構わないのだ。良い演奏は良い演奏。それ以上でもそれ以下でもない。そこにどんな動機があろうとも。私はそう思っている。

 

 それに、動機なんて複数あって当たり前だ。目立つ物を自分でピックアップしているだけで、実際はその裏に無限の理由が存在している。時にそれは矛盾していることもあるだろう。けれどそれも別におかしな話では無いと、私は思っている。人間は矛盾している。だからこそ、人間なのだろう。首尾一貫した行動しかしないのなら、それはロボットと同じだ。

 

「さぁ、戻りましょう。また練習が始まります」

「そうだね。これ以上、実力落とすわけにはいかないから」

「その通りです」

 

 我々は連れ立って校舎に戻る。後ろからついてくる先輩がどんな表情をしているのか、私には分からない。ただ一つ言えるのは、きっと前よりはいい顔になっているのではないか、ということだ。別にそれを私が見る必要はない。香織先輩にしろ部長にしろ、或いは黄前さんにしろ。彼女が見せたい相手に、見せればいいのだから。

 

 

 

 

 

 

「お疲れさまでした」

 

 夜の帰り道。希美は唐突に私の方を向いて、そんな事を言ってくる。

 

 調子のイマイチ振るわない高坂さんを、吉沢さんと共にどうしたものかと思いつつ指導した帰りだ。家に帰ってもすること無いからと、希美は学校に残って練習していることが多い。来年の大会メンバーに何としてでも入る。そしてもし存在しているのならばソロパートを担当できるようにする。それが今の目標だと言っていた。そして、その目標のために有言実行の努力をしている。

 

「ど、どうもありがとう?」

「何でお礼?」

「いや、他になんて言ったらいいのかよく分からないから……」

「疲れた~って言えばいいんじゃない?」

 

 確かにちょっと疲れたのはその通り。ただ、別にそこまででもない。一番疲労度が危なかったのは、今思えば春頃。府大会くらいまでだろう。そこからは忙しいなりにも何とかなっていた記憶が朧気ながらある。正直必死に走っていたせいで、今になってみるとよく思い出せないことが多かった。

 

「でも、本当にお疲れ様でしたって思ってるよ。あすか先輩も、助かったんだし」

「あれは先輩自身が自分でどうにかしただけ。私がしたのは、その援護射撃」

「援護射撃が無いと辛いと思うけどなぁ、私は」

「どうしたの? 今日はなんかすごい褒めてくれるけど。何か後ろめたいことでもある?」

「無いよ!」

 

 慌てた顔で彼女は言う。そのビックリした顔がちょっと面白くて、少し笑ってしまう。からかわないでよ、と彼女は少し膨らんだ頬で言った。

 

「ただ、みんなあすか先輩戻ってきてよかった~だけだから。私ももちろんそう思ってるけど、でもその裏でそうするために頑張ってた人の事、あんまり見てない気がして。夏紀とか、久美子ちゃんもそうだけど……一番頑張ってたのは、凛音だと私は思ってる」

「言うほどでもないと思うけど」

「でも、あすか先輩のお母さんと交渉するなんて離れ業してるの、一人だけだよ。香織先輩でも部長でも、なんなら滝先生でも出来なかったことしてるじゃん。そう言うのが得意なのかもしれないけど、だからってそれを無かったことにしちゃダメだと思うし」

「ああいうのは慣れてるから。それに、田中先輩にはお礼言われたし。当事者がそうしてくれるなら、こっちとしては殊更手柄自慢したりなんてしなくていいの」

「ふーん」

 

 どこか納得してないような声で、彼女は前を向いた。その横顔からは、どんなことを考えているのかはよく分からない。近しい人ほど、分かりにくいのかもしれない。相手の考えている事と言うのは。

 

 遠い関係であれば、推し量った末に行動してもし間違っていてもどうにかなる。でも、近ければ近いほど間違えてしまった時に怖いと思ってしまう。だからこそ、推し量るのを押し留めるのだろう。自分の中の恐怖心が囁くから。

 

「まぁでも私としては、君がそうやって言ってくれるなら、別にそれでいいけど」

「そっか……うん? それ、どういう意味?」

「さぁ、どういう意味でしょう」

「え~、ちょっと教えてよ~」

 

 それは嘘偽りなき本心。私が行動したのは別にお礼を言われるためでも、褒め称えられるためでもない。ただそうするべきだったから、そうしただけ。そうしたかったから、そうしようとしただけ。だからもし仮に先輩に何も言われなかったとしても、私は特段何か思うことは無かったんじゃないだろうか。

 

 だからこそ、こうしてお疲れ様と言ってくれるだけで、良いと思えるのだ。それは他ならぬ、彼女だからかもしれない。その眩しい笑顔を見れればそれでいいと、あの夏の日に思った。季節が一つ動いても、その気持ちは変わらない。その声が私をねぎらって、その明るい優しさを向けてくれるのなら、私はそれでいいと、そう思えるのだ。

 

 冬に近づきつつある空は、夏とは違い少しずつ澄んでいる。月の光に照らされるまま、私たちは家路を歩いた。家の前まで帰って来たら、一台の車が門の前に止まっている。そのナンバープレートを見た瞬間に思わず「うげっ」と声を漏らしてしまった。会いたくない相手が来ているとすぐに分かる。真っ黒な車体の運転席から人が降りてきて、後部座席のドアを開けた。その中から和服を着た老婦人が出てくる。

 

「え、知ってる人?」

「……ウチの婆さん」

 

 私の後ろにちょっと身を隠しながら希美が小さな声で聞いてくる。彼女からすれば知らない老人がいきなり友達の家の前に黒い車を停めているのだからそういうリアクションになるのも納得だった。

 

「何しに来たんですかね」

「これの意味を聞きに」

 

 祖母は懐から一枚の紙を取り出す。先日送り付けた全国大会のチケット。それを再度懐にしまい、彼女は希美に視線を移した。

 

「そちらの方は」

「あ、あの、私傘木希美って言います。凛音……君とは、その、友達というかなんというか……えっと……」

「傘木、希美……」

「前話したはずですけど」

「あぁ、あの」

 

 しどろもどろに挨拶している希美。病気になったりする節も無い老人は背筋が伸びていて、かつ眼光も鋭いので怖いのだろう。最初の剣呑な視線が希美の反応を誘ったに違いない。普段はもっと明るく朗らかに初対面の人でも挨拶するのだから。

 

「孫娘がお世話になりました。桜地家の当主として深く御礼申し上げます」 

「えっと、あの……」

「涼音のことだよ」

「あ、あぁ、そういうこと? えっと、後輩が困っていたら助けるのは当然ですから! 大したことじゃないですからそんな風に頭を下げないでください」

「恩には報いよが当家の家訓の一つでありますから。何か困ったことがあればいつでも不肖の孫に申し付けてください」

「ごめん、いきなりこんな事言われても困るでしょ。まぁ適当に話半分にでも聞いておいて」

「別にそんなこと無いけど……」

 

 彼女は困ったような顔で私と祖母の顔を見比べている。私は希美と話したいけれど自分の婆さんと話したいわけじゃない。さっさとお引き取り願おうと思い、話を切り出した。

 

「それで、送り付けた物の意味なら簡単です。貴女がくだらないと言い放った学校は全国大会に出場しました。しっかりと結果を出しています。六月に貴女が言ったことは覚えていますね?」

「……えぇ」

「その結果だけでも十分とは思いますが、全国大会でその演奏を聞いて、その言葉を取り消してもらいます。取り消さざるを得ないはずです。そのためにそれを送りました」

「なるほど。趣旨は理解しました」

「私は貴女に屈したりしません。私は結果を出しました。結果を出しても認められなかった父さんと同じようにいくとは、思わないでください」

「……透也は、息子は自分で自分の道を選びました」

「えぇ、貴女に選ばされてね。それを自分で分かっているでしょう。自分がそう選ばざるを得ないようにした。そういう風に誘導したと分かっているから、今口籠ったはずだ」

「……」

「己を押し通したければ結果を出せと、三回忌でそう言った。私は結果を出した。もしそれで納得できないなら、結果の成果を見に来ればいい。そのためにそれを送りましたので。彼らは、納得させられるだけの演奏をするはずです。私はそう、信じていますので」

「いいでしょう。成果を見せてもらいます。もし私が納得できたのなら、私の発言を取り消します」

「ついでに資金援助もよろしくお願いしますね」

 

 お互いに睨み合う私たち。火花が飛び散る。結局、ここの関係が改善することは無いのかもしれない。

 

「あ、あの」

「何でしょうか」

「その紫色の着物、綺麗ですね!」

「おや、若いのにセンスが良いですね」

「私、紫色好きなんですよ」

 

 私たちの間に割って入るように、希美が急に全然違う話題を展開し始めた。いきなりの行為に私は少し戸惑ったまま横の彼女を見る。さっきまでは緊張した顔をしていたけれど、今は意を決したような表情で祖母と話している。女性同士の会話に私はすっかり置いてけぼりになってしまった。ポカンとしている私の横で二人は数分話している。

 

 涼音の恩人と言うのはよく理解しているので、希美への対応は丁寧だ。と言うより桜地家からすれば大恩人に他ならないので、親族一同頭が上がらない可能性もある。なんなら私も妹の件に関しては今でもしっかり感謝していた。

 

「あの、全国大会は私の友達も出るんです。すっごい沢山練習してて……絶対来てください。後悔は、させないと思います。私からのお願いです」

「……そうですか。では素直に従うとしましょう。他ならぬ、貴女からのお願いならば」

 

 名古屋でお会いしましょう。そう言って、祖母は車に乗って帰って行った。親指を思いっきり下に向けてる私を慌てて希美が止めてくる。

 

「何してんの」

「中指立ててないだけマシでしょ」

「ダメだよ、実のお祖母さんなんだし」

「ふん!」

「そんな拗ねないで~。あぁ、でも緊張したぁ」 

「結構楽しそうに話してたけど?」

「だって凛音とあんなに睨み合ってるんだもん。放ってはおけないから、何か空気変えられないかなぁって」

「そうか……ありがとう」

「ううん、別に全然大したことじゃないんだけどさ。実際言ったことは嘘じゃないし」

 

 彼女は少し胸を撫でおろして、安堵した顔で私の方を見つめてくる。緊張していたのはきっと本当の事だろう。というか初対面でかなり年の離れた相手に平然と出来る方が中々凄いと思う。市民楽団にいたということだし、年上の相手は意外と慣れているのかもしれない。若い人はあんまりいないと言っていたのを思い出す。

 

「凛音のお父さんって何してた人なの?」

「どうした、いきなり」

「ちょっと気になっちゃって。前にお母さんの話は結構聞いたけど、あんまりお父さんの話は聞いたこと無いなぁって」

「まぁ、そんなに面白い話でもないけど、それでもいいなら」

 

 私の父親は真面目な人だった。真面目過ぎたのかもしれない。涼音の生真面目さや自分を追い詰める雰囲気は、そこから来ているのかもしれない。常識的な人生を歩んで、或いは歩まされていた人だったけれど、だからこそ私には変な人生を歩ませてくれた部分もある。

 

 涼音に期待を寄せる一族には屈してしまう部分もあったし、結局自分の人生を自分で選べなかったと言えばそれだけ。そういう意味では、母親に比べれば少し弱い人だったのかもしれない。涼音についていつも祖母と喧嘩している母親に強く出れないでいたのを覚えている。

 

「父さんは……夢を諦めたんだよ」

「夢?」

「そう。野球選手になりたかった。昔、そう言ってた。京都代表で甲子園にも行ったんだって」

「甲子園!? 凄い……」

「優勝は出来なかったみたいだけど」

「それでも十分凄いと思うけどなぁ」

「でも、それは高校時代で終わりだった」

 

 大学に行っても続けたい。プロになりたい。そう思っていたらしいけれど、家はそれを許さなかった。売れるかどうかも分からない、どう頑張っても四十代でキャリアを終わる職業に就くことを許してはくれなかった。自分で選んだと祖母は言っていたけれど、それは詭弁だ。正確には選ばされた。私はそう思っているし、きっと父もどこかでそう思っていたのだろう。

 

 父がマウンドに立ったのは、結局高校三年生のあの夏が最後だったのだ。

 

「それから東京の大学に行って、母さんに出会って、まぁなんやかんやあって結婚してって感じ」

 

 しみったれた顔してるわね! が出会った時の第一声だったらしい。そんな事を言ってくる相手と最終的に結婚してるので、ウチの父親も大概ちょっと変なのかもしれない。ファーストコンタクトで変な事を言ってくる相手を好きになるのが私の家の家系なのだろうか。そんな変な血筋、絶対に要らないので何とかしたい。

 

「だからまぁ、そんな風にどこかで後悔するような人生は嫌だからさ。なるべく一生懸命頑張ろうと思ってる。自分で決めたことは貫けるようにね」

「やっぱり、全国行けてよかったね」

「あの婆さんに聞かせられるから?」

「まぁそれもあるけど、でもお父さんとお母さんにも聞いてもらえるじゃん。自分の成果を、ちゃんと見てもらえる。夢諦めないで良かったよって、言えるしね」

「……かもしれないな」

「それじゃあ、私も来年頑張らないと。私も凛音の家族に見て欲しいし。ちゃんと、約束守ってくれましたよって」

 

 ニカっと眩しく彼女は笑う。彼女の後ろに輝いている月の光より眩しく、美しく、そして温かく。私はその顔に、心臓を撃ち抜かれるような気持ちになった。月は人を狂わせるというけれど、彼女はそれよりもっと私を狂わせている。

 

「じゃあ、明日から練習量を増やさないと」

「う~ん……」

「おい」

「大丈夫大丈夫。ちゃんと練習するから!」

「ホントに?」

「もちろん」

 

 また明日と手を振る。また明日と手が振り返される。その小さな一言を言えるようになっていることが、私にとってはたまらなく嬉しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 その翌日。練習はいよいよもって佳境に突入している。先輩が戻ってきたことでふらついていたユーフォが安定。低音が下支えになっているのがよく分かる事態だった。抜けるだけで一気に演奏が不安定になる。コンバスもパワーアップしているし、順調に思えていた。

 

「演奏はどんどん良くなっていますが、慢心はいけません。桜地君がいつも言っているように、練習では悲観的に。自分を最低の奏者と思うようにしてください。最後の最後で慢心すると、全てが崩れます。よろしいですね」

「「「はい!」」」

「では、自由曲をもう一度」

 

 自由曲の完成度はかなり上がっている。間違いなく演奏は良くなっているのだ。出だしも綺麗になっているし、この前南中の顧問に言われたように場面の変化における切り替えもスムーズになった。前のパートの余韻を引きずった方が良い時もあるけれど、パッと切り替わった方が良い時もある。その見分けも出来るようになっていた。左右どちらを向いても強豪だらけの全国でも、遜色ない演奏を出来るのではないか。

 

 今はそう確信するに至っている。だからこそ、その演奏は許せなかったのかもしれない。自由曲のトランペットソロが始まった瞬間に私の眉間には確実に皺が寄っていたと思う。先生が指揮をしている間、私は基本先生が止めたタイミングで一緒に意見を言うようにしていた。それはあくまでも先生が顧問であり、主体となって進めるべきだと思っているから。

 

 そう考えれば、先生が指揮をしている最中に遮ったのはこれが初めてかもしれない。

 

「止めてください」

 

 その言葉に、先生の手が止まる。同時に演奏も止んだ。先生は私が止めた理由を理解している。だからこそもうすぐ止めようとしていたのだろう。私の方が少し判断が早いのは、きっと専門かどうかの違いだ。

 

 数日前から本調子ではないのは分かっていた。しかし体調は悪くないと言っている。吉沢さんにそれとなく探るようにお願いしても、芳しい結果は得られなかったようだ。その音は弱い。全くもって腑抜けた演奏。こんなものを出しては、昨日啖呵を切った私がバカみたいだし、何より期待していた私がバカみたいだ。彼女の隣に座っている吉沢さんがアチャーという顔をする。吉川がこちらからスッと目を逸らした。

 

「……帰る?」

 

 私の声は多分、きっとかなり低い。思えば、怒るという行為をしたことはほとんど無いかもしれない。注意したり、真面目な話は何度もしてきたけれど、怒ったのは再オーディションの時くらい。それは明確な個人相手ではなくて、どちらかと言えば不特定多数相手だった。なので、こういう行動をしたのは、全体の前だと多分初めて。

 

「やる気ないなら、帰って構わないので。その空気の抜けた風船みたいな演奏、即刻止めなさい。いくら何でも弱すぎる」

「……すみません」

「自分がどういう経緯でそこに座っているのか、貴女が一番理解しているはずです。私があのホールで言った言葉、忘れていないでしょうね」

「はい」

「なら立て直してください。改善が見られないなら、その場所は別の方に吹いてもらいます」

 

 私の視線に、彼女は少し俯いた。

 

 

 

 

 

「アンタ、ちょっと厳しく言いすぎ」

「昔の君より優しいと思うけど」

「でも、もうちょっとこう、言い方ってもんがあるでしょ」

 

 全体練習の後の廊下で、吉川は私にそう言ってくる。高坂さんは今、一人で練習しに行った。少し頭を冷やして来たいらしい。

 

「まぁさ、気持ちは分かるけど、高坂には高坂なりに色々あるんでしょ、多分」

「分かってる。ただそれでも、もし本気でプロになりたいなら、どんな状況でも完璧にやってみせるくらいの勢いでないと、まず無理だ」

「はぁ~頑固なヤツ」

 

 君も大概だと思うけど、という喉まで出かかった言葉を呑み込んで、私は曖昧な表情を浮かべた。

 

「まぁいいけど。私はちょっと様子見てくるから、アンタは後で行ってあげなさい」

「了解」

「言っておくけど、香織先輩が心配してるから行くんであって、高坂の事なんて気にして無いんだから」

「はいはいそうですか」

 

 吉川がよく分からないツンデレを発揮しながらズンズンと歩いて行くのを見送る。ちょっと言い方がきつかったのは認める。ただ、それはあの腑抜けた演奏が許せなかったからだった。その場所は先輩を、実力とは言え追い落として座っているモノだ。それなのにあの演奏では、先輩が浮かばれない。そんな状態を許すわけにはいかなかった。彼女自身のためにも。

 

「先輩、沸点は高いですけど怒り方あんまり上手じゃないですね~」

 

 後ろからひょこっと吉沢さんが顔を出す。ちょっと驚いて後ろを向いた私の顔を見上げながら、彼女は私の前に移動した。

 

「あんまり怒ってないから、忘れちゃってるのかもですけど」

「私だって結構内心ではイラっとしてるんだけどなぁ」

「でもそれをあんまり表に出さないですからね。先生とかあすか先輩より分かりにくいですよ、先輩が怒ってるの。その分本気で怒ってる時はすぐ分かりますけど」

「……そんなに?」

「はい。目がキューって細くなるので」

 

 そんなに分かりやすいつもりはなかったので、少し動揺してしまう。もうちょっと分かりにくくするように工夫した方が良いかもしれない。自分の感情で相手をコントロールすることはやりたいことではないのだ。特にマイナスの感情を使うのは。

 

 ニコニコしながら、彼女は私の隣を並んで歩き始めた。そしてチラリとどこかに視線を送ってから話を始める。

 

「でも、先輩は麗奈ちゃんにスゴイ期待してますよね。上手いからですか?」

「まぁそれもあるんだけど。私が吹部に戻ろうと思ったのは彼女がいたからってのも大きいし。だから余計に……あんな演奏が許せなかったのかもしれない」

「わーお、初耳です」

「言ってないからね。四月に高坂さんがいきなり教室にやって来て、その後校舎裏に呼び出された」

「告白みたいです」

「それで、私の先生になってくださいって言われた」

「う~ん、色気が無いですね」

「確かに。それでまぁ、色々理由を付けて断ろうとしたんだけど、あんまりにも真剣だったから課題を出して、それをクリアしたらOKっていうことにした。どこまでやれるか分からなかったけど、及第点まで仕上げられちゃったらもうどうしようもない。それに……あの時の目の中には、凄まじい情熱の炎が灯ってた。だからその熱に突き動かされて、私は一度は断った先生のもとに足を運んだのかもしれない」

「じゃあ、麗奈ちゃんがきっかけだったってことなんですか?」

「まぁ、そうとも言えるかもしれない」

「なるほど~。だってさぁ、麗奈ちゃん」

 

 彼女が言葉を投げかけた先には、申し訳なさそうな顔で立っている高坂さん。謀ったな、という顔で吉沢さんを見るけれど、素知らぬ顔であさっての方向を見ている。ちょっとどうしてくれようかと思ったけれど、恐らくは気を遣ってこういう風にしてくれたのだろう。さっき視線を送ったのも、高坂さんがいる事に気付いていたからかもしれない。

 

「……桜地先生」 

「多少は気分転換出来た?」

「はい。優子先輩にも、色々励まされましたので」

「そう」

「あの、すみませんでした! 次は必ず、先生の期待に応えられるような演奏をします!」

「私の期待には別に応えなくてもいい。それはあくまでも私の基準だから。ただ、自分に顔向けできないような演奏だけは、しないように」

「……はい!」

「なら良い」

「良かったね~、許してくれたってよ」

 

 吉沢さんは高坂さんの隣でニコッと笑う。ぎこちない笑顔で返そうとした高坂さんに囁くように、それでいて私にも聞こえる音量で、彼女は表情を変えずに言葉を放つ。

 

「でもあんまり油断してると、私が全部掻っ攫っちゃうよ?」

 

 じゃあ、練習頑張ろう! と言って彼女はとてとてと音楽室に向かっていく。なんだかんだでこの一年、高坂さんの厳しい練習についてきているだけのことはある。彼女だって、ちゃんと闘争心はあるのだ。油断していたら、高坂さんだっていつ追い落とされてしまうか分からないだろう。舐めた演奏してんじゃねぇぞという、彼女なりの牽制にも思えた。

 

 高坂さんは少しだけ唖然とした表情をした後、すぐに引き締まった表情になる。その顔に腑抜けた要素はもうない。その目は爛々と輝いていて、そしてあの時と同じように情熱の炎が灯っていた。私はその目を見て、少し口角を上げる。

 

「いいライバルを持ったな」

「はい」

 

 頷く彼女は、もう迷わないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そこからの日々は練習の連続だった。怒涛のように日々は過ぎていく。そしていよいよ、その日が訪れようとしていた。全日本吹奏楽コンクール全国大会は、中学校の部が10月31日の土曜日、高校の部が11月1日の日曜日にどちらも名古屋で開催される。私も妹も、前日から泊りで向かうことになる。妹は金曜日からいないし、私は一日遅れの土曜日からいない。

 

 木曜日の夜。明日に出発を控えた妹と私は、仏間の前に並んで正座していた。仏壇には、両親の写真。泣いても笑っても、あと数十時間後には結果が出ている。それは自分が演奏するわけではなくても、とても苦しい。実際に演奏する妹は、もっと緊張している事だろう。

 

「お父さん、お母さん。私、頑張って来るから。見守ってて」

 

 かつて、普門館に清良女子の栄光の旗をはためかせた母親。けれどその道中は決して平坦ではなく、自信に満ちたその瞳を友の前では涙に濡らしたこともあったという。夢を叶えられずとも、全高校球児の夢の舞台で汗を流した父親は、どんな気持ちであのマウンドの上にいたのだろう。今になって、聞いておけばよかったと思う。

 

 輝かしい栄光を知っている二人に、私たち兄妹が及ぶのかどうかは分からない。けれど、努力の量なら間違いなく負けてなどいないはずだ。

 

「頑張れよ、南中」

「そっちこそ、北宇治」

 

 私たちはお互いを見る。妹の目に迷いも憂いも無い。最早何も気にすることなく、彼女は彼女について行くと決めた仲間と共に最後まで走り抜けるだろう。そして私も、私がこの一年を過ごした彼らと共に走り抜けるのだ。

 

 もうすぐ、もうすぐだ。もうすぐ――

 

 

 

――私たちの全国が始まる。

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