古い秩序。それは余りにも黒く染みついている。部活と言うのは集団だ。数十名によって構成される、一つの社会とすら言えるかもしれない。であるのならば、その社会に順応している人はその在り方を変更するのは難しい。なぜならば、我々自身が普段の生活様式から異なるモノに変貌させるのが難しいからだ。部活と言う名の社会も、またそれに同じである。
だがどうしても改変をもたらさなくてはいけない。そういう時にどうするか。答えは単純だが難しい。則ち、染まっていない者を懐柔すればいいのだ。そして今回その役目を担うのは一年生であった。だから私は少なくとも彼らを味方にしないといけない。孤軍奮闘ではどんなに強くても倒れてしまうから。
「君としっかりお話しするのは今回が初めてですね。吉沢秋子さん」
「はい~。こんにちは」
「こんにちは」
黒髪のショートヘアとゴムでまとめたサイドテールをした後輩は、のんびりとした口調で私の言葉に応えた。真っ直ぐだが直情的すぎるきらいがある高坂さんとはまた違い、彼女はどちらかと言えばおっとりした性格であるようだ。タイプの違う二人ではあるが、今年のトランペットパートに一年生は二人しかいない。
これがどういう事を意味するのかは明白だった。今年は良いのだ。来年もどうにかなる。だが再来年。彼女らが三年生になった際にしっかりコミュニケーションを取れていないとマズい。私は今年全国出場は難しいと踏んでいる。そのために再来年、つまり今の一年生が三年生となる年度に出場できるような土台を作りたい。彼女も必要なキーの一つだった。
「吉沢さんは、経験者と」
「はい。あんまり強い学校じゃなかったですけど……」
その言葉には、高坂さんに対する感情が見て取れた。二人しかいなければ、必然的に意識するだろう。無理もない話だった。比較してしまうことも、分からないでもない。恐らく、今年中に大会に出るのは難しいだろう。中世古先輩しかり、吉川しかりだが、上の世代がかなり強力だ。可能性が無いとは言わないが。
「今の実力は、正直関係ありません。これからどうやって伸びていくか。私はそれを知りたいと思っています。なので、こうして皆さんと接してどういう生徒なのか、どういうアプローチを行うのが正解なのかを探っているんです」
「私はどんな風に見えましたか?」
「マイペースで物怖じはあまりしない、と言ったところでしょうか?」
「お~」
彼女は小さく手で拍手をする。
「良くお母さんに言われることと同じです」
「そうですか、それは良かった。ともあれ、どちらも奏者には良いことです。他人のペースを気にせず、演奏を怖がらない。本番に強いタイプと言えるかもしれません」
「それは良かったです。でも……」
「高坂さん、ですか?」
「……はい。確かに今まではのんびりやれば良いかなぁって思ってましたけど、ここはそういう感じじゃないんですよね。だから高坂さんみたいにならないと……と思って。私でも、先輩の言う通りにしたら、高坂さんみたいな感じになれますか?」
「無理です」
私は敢えて言葉を強めに区切った。彼女はショックを受けたような顔で私を見ている。優しい口調と発言内容を続けてきただけに、少しばかりダメージを受けたらしい。とは言え、私の発言の真意は彼女を傷つけることではない。
「彼女のような奏者になるのは無理です。と言うより、なる必要が無い。彼女はその実力を得るために多くの時間を使ったことでしょう。今から三年間でそれに追い付くのは不可能です。なので、無理と言いました。しかしながら、それは彼女に劣った状態のまま終わる、と言うことを指すのではありません。上手いだけの演奏ならば機械でも構わない。人が吹いていることの意味は、その個性を発露させる部分にあると私は考えています。だからこそ必要なのは、彼女のような、もっと言えば彼女をトレースした奏者になることではなく、吉沢さん自身の良いところを活かした奏者になることです」
昨今の技術の進化はすさまじい。機械音声や機械音楽はどんどんと社会に出ていく。かくいう私も利用している身だ。だが、実際に演奏するのは奏者が行っている。それはなぜか。上手いだけ、もっと言えば正確なだけの演奏ならば機械で良い。コンディションも落とさないし、間違えることも無い。音響機器さえしっかりしてれば、楽譜通りに演奏できる。
だが、私はそれでは足りないと思っている。音楽に色を乗せるのは、演奏者の個性だ。同じ楽譜でも、個性の違いで全く違う曲になる。その曲が持っているポテンシャルを最大限に引き出すことができる。それは時に、作曲者の想像を超えて。
「君の個性を活かした奏者になってみませんか? 君の良いところは他者を良くも悪くもあまり気にしない部分だと思っています。ですが高坂さんを意識し続けては、君の個性が死んでしまう。個性を無くしたら、死んでいるのと同じです。そうは思いませんか?」
「……ですね」
「一緒に頑張っていきましょう。必ず、君が最後の大会で輝いて終われるような部活生活を送らせてみせます」
「はい、よろしくお願いします!」
元気よく彼女は答えた。上げてから下げて、また上げる。単純な手法だが、意外とよくつかえる。彼女は納得してくれたようだ。機嫌も直っている。失敗したら目も当てられないが、取り敢えず彼女はやる気になってくれたらしい。
「では、少し演奏を聴かせてください。正確な実力を把握したい。ここから課題を割り出して、対処法を考えます」
「分かりました」
彼女は楽器を取り出して、指示したところを演奏する。実力はそこそこ。確かに超高校級の高坂さんや高校生としてはかなり上の方にいる中世古先輩・吉川などには劣るものの、実力はある。これはしっかり伸ばせばいい戦力になってくれるだろう。期待以上であった。
「どう、でしたか?」
「いい感じですね。とは言え、まだ足りない」
「あうぅ……」
「しかし、恐らくは練習時間の不足が原因と思われます。ここから十分巻き返せると思いますよ。ですので課題としては……」
彼女に今後の課題と練習してほしい場所を伝える。伝えながらも手を動かしてノートにメモをしていく。こうして話した部員一人一人の実力や性格、趣味嗜好などを記録しているノートだ。今後の課題や出来るようになった部分など、細かく書いていくつもりである。相手を理解する上でも実力の推移を観察するうえでも使っていけると判断して始めたことだった。
これが音楽に必要なのかはまだ分からない。私だって初めての経験だ。だからこそ出来ることは全部やっておきたい。もしかしたらあまり役に立たないかもしれないが、それは役に立たないということが分かったという収穫がある。
「以上です。取り敢えず、何か分からないことは?」
「大丈夫だと思います」
「それは何より。とは言え、途中で出てくるかもしれませんから、その時は先輩に……いえ、その時は高坂さんに聞いてみてください」
「え、でも……教えてくれるでしょうか」
「その辺も含めて、私が話を通しておきます。折角二人しかいないんですから、もっと積極的にかかわった方が良いと私は思いますので」
「分かりました」
ちょっと不安そうではあったが、彼女は頷いてくれた。これで拒否されたらどうしようかと思ったが、そういうことをする子ではないようだ。取り敢えずこれで何とかなると信じたい。高坂さんは恐らくこういう子とはあまり好きではないと思っている。自分が上手ければ何とかなると思っているタイプではなかろうか。
別にそれは間違いではないのだが、特にこういった部活動ではそれでは困る。再来年を見据えた動き方をしていかないといけない。部活は継続的に続いていく。それも、毎年入れ替わりが存在するので一からつくっていかないといけない。さしずめ、テセウスの船のようだ。名前は同じだが、中身は全く違う。
高坂さんにも後輩指導をして欲しいのだが、経験が無いと厳しい。彼女の性格上あまり良いと言える指導ができるとは思えないので、ここで割とメンタルが強そうな吉沢さんで練習して欲しいのだ。吉沢さんを利用するようで申し訳ないが、彼女にもメリットは存在する。そこは我慢してほしい部分だ。
「じゃあ、次の子を呼んできてください」
「了解です」
頭を下げると吉沢さんはトテトテと部屋を出て行った。次の部員が来るまでの間、私は彼女のページを書き綴る。彼女の問題点としては音量のバランスが悪いことが大きかった。特に高音は出しにくい部類に入る。それでもそこで音量が崩れると一気に演奏も崩れてしまう。ここは練習がいる部分だった。他にも細々と幾つかあるが、いずれも直せる範囲内には存在している。
チェックしていたのはそれだけではなかった。楽譜への向き合い方や吹く際の姿勢、視線の位置なども確認している。楽譜は演奏中にほぼ見ない。上のレベルの大会では、もう置いてあるだけ状態である。そうでもしないと指揮者が見えない。だからこそ沢山書きこんだりしているわけだ。
ゆえにだ。暗譜は前提。それが出来ているかの確認も兼ねていた。問題なくできているように思える。書き込みもしてあったし、内容も的外れではない。姿勢面も問題なし。自己流の変な姿勢で吹いていると気管から上手く空気を送れなくなる。
細々としたチェックリストだが、全て全国の為には必要なこと。そう思って、一つ一つ潰していくことにした。
数人を経た後、低音パートに移った。ここは元々人数不足のためにユーフォニアムとコントラバスとチューバが集まって構成されたパートだ。単体で一パートを構成するほどの人数はいないので、妥当な処置であると思う。
ここの一年生は三人。それぞれの楽器に一人づついるので、来年以降も部員が加わると考えるならば問題ない人数であるように思う。そんな中で注目していたのはユーフォニアム担当の子である。勿論、聖女から来たコントラバスの川島さんも貴重な戦力だ。
コントラバスはあまり目立たないがいるのといないのとでは音の厚みに変化が生じてくる。長い間埃を被っていたコントラバスも日の目を見ることができて心なしか輝いているように思えた。なのだが、私としてはユーフォ担当の黄前さんに少しばかりの興味を持っている。それは、入学式の前に漏らした彼女の言葉が原因だった。
「ダメだこりゃ」とあの時彼女は確かにこう言った。私は私の耳に自信を持っている。人の声も聞き間違えたことはない。よく外見の似ている双子も見分け、正確には聞き分けられる自信がある。間違いなく彼女の声だったと、先ほどの名前確認で確かめている。その彼女が、ああ漏らした彼女が何故ここにいるのか。私はそれを知りたかったのだ。
「失礼します……」
少しばかり及び腰な姿勢で、彼女は入室してきた。周りを見渡した後、私を少しだけ見据えて目を逸らす。怖がられているのかもしれないと思うと少し悲しかった。
「どうぞ、おかけになってください」
「ありがとうございます……」
「黄前久美子さん、ですよね」
「はい」
「入学式の時、私の記憶が正しければ君はこう言ったと思います。『ダメだこりゃ』と」
「えっと、あっと、それはそういう意味じゃないというか、何と言うか~!」
「別に怒っているわけでも問い詰めたいわけでもありませんので、どうか落ち着いて」
誤魔化せばいいのに、馬鹿正直に取り繕おうとしている姿は少しだけ面白かった。彼女はあまり嘘が得意ではないように思える。もっと言えば、突発的な事態への対処がやや苦手、という感じだろうか。恐らく彼女の先輩たる副部長ならば記憶にないと言うか私の勘違いである可能性を指摘しただろう。
「何故、そう言いながらも君はここへ来たのか。私はそれが知りたい」
「それを聞いて、どうするんですか?」
「どうもしません。そうなのか、と思うだけです。ここの実力を把握しながらも入部した生徒は何人もいるでしょう。特に、北中や南中、聖女などの中堅以上の学校出身は理解していると思います。それでも各々目的があって入っていることが多い。私としては、その中でもマイナスな事を口にしていたのを偶然耳にした貴女に聞いてみたいと思ったまでです。どういう心境の変化だったのか、と言うことを」
彼女は迷ったように視線を泳がせた。少しばかりの沈黙の後に口を開く。
「友達に、誘われたので」
「なるほど。それは良い理由ですね」
「そう、ですか?」
「えぇ。この人となら三年間やっても良いかな、と思える友人関係が存在していると言うことですから。それは好ましいことであると思いますけど」
主体性が無い、と怒られるのかと思ったのか、彼女は安堵したように息を吐く。分かりやすい。自分では意識していないのだろうけれど、結構内心が外に漏れだしている。
「ダメだ、と思ったわけですがどうですか。入った後は。何か、印象に変化はありましたか」
「……あんまり」
「そうですか。まぁそうでしょうね。ここの部活はまだ、何も成し遂げてはいない。それこそ、海兵隊すらまともに吹けていない。ピッチはバラバラ、音はガタガタ、音量もリズムもあったものじゃない。そんな状態がダメでないとは、口が裂けても言えませんね」
返答はない。答えずらい話題だろう。あまり引っ張っても悪いだろうと思い、話題を切り替えることにする。
「さて、では少し吹いてみてください。ここの部分をお願いします」
やることはこれまでとほとんど違わない。指示した場所を演奏してもらうだけ。彼女は中々上手い。ここを批評するくらいなのである程度の実力はあるだろうと推測していたが、それは正解だったようだ。
パートリーダーである副部長ほどではないにしても、その実力はしっかりしている。今年の一年生は案外豊作かもしれない。……と言うより、毎年ある程度は豊作なのだろう。それを発露する前に腐っていただけで。黄前さんだけでなく、他の一年生の多くも大会メンバーになれる実力を持っている。ユーフォは特に副部長一人では心もとない部分があったので、大会に出る際も厚みや変化を出せるだろう。
ユーフォには二年生の中川も存在しているが、その実力は初心者よりは出来るという具合。平均的な北宇治部員の実力だ。それでは今年中に大会に出るのは難しい。やはり、ユーフォは副部長と黄前さんに期待して編成を組んだ方がよさそうだ。
「黄前さんは北中でしたね。去年の演奏、聞きました」
「そうだったんですか」
「はい。妹が南中にいるのでその関係で。「天国と地獄」でしたね。高坂さんを始め、何人か上手い演奏をすると思っていたのですが、なるほど君もその一人だったようです」
「……ダメ金でしたけどね」
「君は、ダメ金に悔しさを感じましたか? それとも、満足していましたか?」
「満足、してたと思います」
絞り出すように、捻り出すように、彼女は答えた。その目の中には後悔の色と諦観の色、そしてそれ以外にも多くの感情が渦巻いているように見えた。決して満足していたの一言で片付くような代物ではなかったのだろう。
「してた、と言うことは今は違うと」
「……分かりません」
「なるほど。では、今後の部活動での課題は、その感情の答えを見つけることかもしれませんね」
「それは、どういう……?」
「あの時は確かに満足していたかもしれない。普通の人はそれが変化することはあまりありません。普通に変わらない生活をしていれば。ですが、確かに今黄前さんの中に何かが変化しようとしている。だからこそ、分からない、と言う答えになったのだと推測します。あの大会の結果を、今はどう思っているのか。どう思うべきだったのか。その答えを探っていきましょう」
彼女はぽかんとした顔で私を見ていた。そんなことを言われるとは思ってもいなかったのだろう。だが、私は重要なことだと思っている。悔しいならば悔しいと言えばいい。そう思っていないならばまた同様。彼女はそこで取り繕えないし、取り繕おうとしてもそれくらいは分かる。だけれど彼女は正直に分からないと答えた。
彼女に必要なのは、悔しさを自覚すること。悔しくてたまらないという感情を持つこと。経歴は既に聞いている。小学生から始めて、これまでずっと大会メンバーであったらしい。であるのならば、挫折経験が少ない。これは高坂さんもそうだろう。全体の結果はどうあれ、個人として挫折した経験が少ない。
涙の数ほど強くなれるわけではないが、涙を知らないが故の弱さや脆さと言うものは存在する。彼女が悔しさを知った時、それは一歩上のステージに進めた時を意味するだろう。そしてそのステージに引き上げるために、私は探そうという提案をしたのだった。
「やるべき課題は先に渡した通りです。何か分からないことがあれば私の他に田中先輩を頼ると良いでしょう」
「あの……中川先輩は」
「分かってて聞いているのならば、君は相当意地悪ですよ」
「すみません」
「謝るほどのことではありませんが……私としてはむしろ、彼女を引っ張り上げて欲しい、くらいの期待はしています。本来そうして欲しい先輩はそういう事に興味がなさそうなので。一見とっつきにくい人かもしれませんが、意外といい人です。面倒かもしれませんが、付き合ってくれると嬉しく思います。この立場としても、同期としても」
最後の言葉は本音であった。彼女は希美が誘ってここへ連れてきた。だがその張本人はとうの昔に辞めている。だが彼女はここに残った。どうしてそうしたのか、私にははっきりとは分からない。それでも何か思うことがあったのは事実のはずだ。だからきっと、彼女の中にもあるはずなのだ。悔しさと、身体を動かす熱が。
折角ここに残った同期に、何らかの花を持たせたいと思うのは間違った感情ではないはずだと信じている。それが、全国に行くのに必要なことかどうかは、まだ分からなかった。
一年生との面談を終え、その旨を先生に報告する。顧問にも実力を把握してもらわないと、何のためにやったのかが分からなくなる。
「以上がざっとした報告になります。詳しい内容はそちらにまとめてありますので、ご確認をお願いします。総括としては、一年生はかなり優秀な人材が揃っています。一年生でも大会に出ることが出来る生徒はそれなりにいるでしょう。低音、トランペット、トロンボーン、パーカッションなどに期待できる生徒がいます。その旨も記載していますので、参考までに」
「分かりました。ありがとうございます。こちらも、二三年生が随分と協力的になってくれたのでスムーズに進みました。特に三年生が。その過程で随分と思い切ったことを言った、と聞いていますが」
三年生の中の誰か、恐らくは部長か副部長が話を通したのだろう。パートリーダー会議をやった以上、その結果を報告する必要がある。
「あれくらいしないと、人は動きませんよ。それに、この程度で及第点を貰えないようでは、全国など夢のまた夢。それは理解されていると思います。どう転んでも彼らに有利になる状況をお膳立てしました。後は用意された盤上にいる彼らを、どう指導していくかです。彼らの望むことを叶えつつ、我々の望むことも成し遂げる。それがいま求められていることであると理解しています」
私の淡々とした口調を、先生は黙って聞いていた。その眼鏡の向こうにある瞳からは、感情を中々読み取れない。少なくとも、怒っているような様子ではなかった。ここで揉めていてもしょうがない。思う所が無いわけではないだろうが、今はこらえて欲しいものだ。
「分かりました。今回の件は知らなかったことにしましょう。ですが、なるべく相談してほしいものです」
「相談したら絶対に難色を示すと思いましたので」
「分かっているならば、なおの事」
「善処します」
先生は少し苦笑する。善処する、にやりますという意味がないことを大人ならば分かっている。こういう所ばかり達者になってしまった自分に嫌気がさしてきた。
「ともあれ、しばらくの間彼らは従順です。一年生はどうにかしました。三年生はパートリーダーが従う姿勢を崩さない以上、強くは出れない。上級生が耐えている状況で、二年生は投げだせない。これで縛ること自体は出来たと思います。ここからどうするかです」
「ひたすら基礎練習になるでしょう。今は、表現などどうこう言っている場合ではありませんから。彼等には圧倒的に練習時間が不足している。それを補いつつ、基礎を固めていく作業になります」
「でしょうね。そうしなくては、先に進めない」
多少方針に違いはあれど、我々の考えは一致している。取り敢えず基礎をどうにかしないと、上に行くことはできない。この段階で方針の違い云々が表層化することはない。それ以前の問題だからだ。
「それと先生。あまり威圧的な発言は控えてくださいね」
「おや、そんなつもりは無いのですが」
「何年もやっていてこの体たらくとは嘆かわしい。そういう趣旨のことを仰られたと伺ってますが?」
先生に報告しづらい空気を作られると困る。そうなると苦情が全部部長副部長や私の所に届けられる、というのも理由の一つには存在する。だがそれ以上に報連相のしにくい空間はよろしくない。先生は人間感情の機微には疎いようだ。
「私は良いんですよ、所詮後輩なので。三年生からすれば、割と強めに発言できるし文句も言える。流石にパートリーダー会議の際は話を進めるために少々強引な手を使いましたが、基本は私は彼等より下の存在です。少なくとも、人間関係内においては。ですが、先生に威圧されると問題が起こっても上に伝わらなくなります」
「善処しましょう」
お返しとばかりにさらりと放たれた言葉に、私は小さく鼻を鳴らす。恐らく彼は止まるつもりはないだろう。己のやり方が正しいと思っているし、実際そこまで間違っているわけでもない。私が少々先走っているだけ。まだ個々人の基礎すらできていない段階で、全体のことを考えるのは早すぎる。だが、早いうちに手を打っておかないと不安なのも事実だった。
先生に別れを告げて、帰宅の途につく。陽が落ちるのは日に日に遅くなっているのに、私が帰る頃にはもう真っ暗だ。先生には何か強い意志があるのだろう。それに支えられているからこそ、この仕事が苦ではないのだ。部員だって、支え合える仲間が存在している。
私だけが、孤独だった。
「演奏を見せてください。一年生はいいので、二三年生で」
私は翌日、フルートパートを訪れていた。やりたくなかったパートナンバーワンではあるが、しょうがない部分もある。先生と二人で分担している以上、こういう事もあるだろうとは思っていた。だが、それでも古巣であるトランペットやまともな人が揃っている低音などが良かったというのが本音。
私に向けられる視線はまちまちだ。一年生は割と普通。優しく接しているのが功を奏したのか、普通の先輩と思ってくれているようだ。二三年生は敵対的傾向が強い。だがパートリーダーの姫神先輩だけは俯きがちに視線を逸らしている。
「それに何の意味があるの?」
「その意味を説明した場合、まったく効果が無くなるので言いません」
「ちょっと、そんな言い方!」
「いいの、調。やろう。皆も、ほら」
昨日までとは打って変わったような態度を見せる姫神先輩に、他の先輩や同期の井上は驚愕している。唯々諾々と従うような人ではなかったことがそれに拍車をかけていた。
「では、一、ニ」
どことなく調子が外れてはいるものの、多少はマシになった演奏が行われている。全く何もしていなかったという訳ではなく、ある程度は練習したようだ。二年生以上は当然、皆経験者。少しくらいやれば最低限は吹けるようになる。この場合の最低限とは音を出せる、ということになるが。
逆に言えば、これまではその練習すらしていなかったということになる。風通しが良くなったかと少しは期待したが、何も変わってはいない。朱に交われば赤くなるとはよく言ったものだ。
「はい、それまで。どうもありがとうございました。今のでこのパートの問題点は把握しました。今、どこを見て演奏していたのでしょうか。一年生の皆さん、先輩はどこを見て吹いていましたか?」
私の言葉に、三人いる一年生は互いに顔を見合わせる。下手なことを言えば先輩に怒られてしまうのではないか、そういう感情が浮かんでいた。だがここで止まってもらっては困る。先輩であっても指摘できるような環境にしないと、この先の未来はない。特に一年生は再来年を担う人材だ。今の内から鍛えたい。
「えっと、楽譜です……」
高橋さんが何とか声を出した。消えてしまいそうなほど小さな声ではあるが、言っていることは正解だ。
「その通り。楽譜を見ていました。それが問題です。どうしてか分かりますか?」
一年生に問いかけつつ、私は全体を見渡す。分かっている人もいれば、本当に分かっていない人もいるようだ。一年生はまだしょうがないとしても、上級生で明確な回答が出来ないようでは先が見えてくる。
「暗譜は前提です。どういう風に音を進めていくのか、それも覚えきらないままに演奏していては、それ以外のことを考える余裕がなくなる。それを確認するために私は今こうして演奏してもらいました。これまで数日あったはずです。それなのに、未だに覚えられていない。チラチラと視線が楽譜に移る。まだ何も書いていないのに」
楽譜に注意が書いてあり、難しい曲であるならば練習中に確認することも構わないだろう。だが、今回の曲は非常に簡単。しかも楽譜は印刷された状態のまま真っ白だ。やはりまだ意識が去年のまま変わっていない。これでは間に合わない。
「今の状態では、他の練習どころの話ではありません。上級生は可及的速やかに楽譜を暗記したのちにもう一度指導を行います。姫神先輩、その旨の徹底をお願いします。貴女は一応、出来ていたようなので」
「……分かった」
暗い顔で頷く先輩を確認し、次は一年生に出した課題の進捗状況を確認する。このパートの先輩は、後輩の心配をしているような場合ではない。姫神先輩が従っているため、他の三年生も言われたことをやり始めた。やはりパートリーダー経由で操縦する方法は的確だったと言わざるを得ない。
その代わりに得たのは同期からのキツイ目線。先輩たちも好感情を持っていないだろう。それでも構いはしない。厳しい目線を向けられるのは慣れている。人種差別をされないだけマシだろう。
一通りの指示を終えて、廊下に出る。閉めた扉の後ろからは、三年生の小さな文句の声。それを宥めつつ、姫神先輩は練習を始めた。彼女も色々あると察したのか、文句の声は収まって練習が始まる。効果はある。現にこうして、一つのパートがどうにかこうにか動きだした。
姫神先輩の置かれた状況が良いものとは言えないが、それでも仲間がいるだけありがたいことだった。この立場にいることの本当の辛さは向けられる悪感情でも、名誉を得られない事でもない。分かり合える存在の不在だ。しかし投げ出すわけにはいかない。漏れ出すため息に蓋をして、次の場所へと歩き出した。