本番前最後の練習はいつも微調整を行うために存在していた。細かいズレを直し、最後の最後まで細部にこだわる。そのために行うのだ。いつも通りやっていては体力が持たないし、明日の本番に影響が出る。
今日は10月31日土曜日。名古屋で借りたホールでは、小さな修正を何度も繰り返しながら、最良の形を探る作業が始まっていた。時間は既に午後三時を回っている。果たして中学の部がどうなったのか。まだ情報は回ってこない。
「本日の練習はここで終わります。この後ソロの人だけは最後の調整を行いますが、それ以外の方はここで解散です。残って練習するのも構いませんが、無茶をして明日の本番に響かないように気を付けてください」
「「「はい!」」」
練習から解放された部員の顔は晴れがましい。これが最後の練習だ。ここを終えてしまえば、後は本番くらいしかない。近くのホテルに宿泊しているので、練習しない人は各自風呂と食事が待っている。それが終わればさっさと就寝となる。明日の本番は万全の状態で臨みたい。だからこそ、英気を養うのも大事な作業だった。
「最後の一音まで気を抜かない。良いね?」
「はい!」
高坂さん相手のレッスンもこの曲ではこれが最終回だ。
「よし……。この曲においてレッスンするのは今が最後になる。最初の方に設定した課題は、覚えてるね」
「この二曲で、先生を超える演奏をする、ですよね」
「その通り。明日がその課題確認の本番になる。気負わなくていい。いつも通り、全力を出し切りなさい。舞台袖から、今年一年の成長を聞かせてもらう」
「はい!」
「よしいい返事だ」
時計は既に彼女との練習開始から一時間以上を経過し、午後の部の結果発表が行われる頃合いになっていた。だが会場の外に出るまでは連絡は来ないだろう。今向こうは人が多いし、電波も悪いはずだ。雫さんはいつも通り会場に見に行ってくれているけれど、今回は妹が自分で連絡すると言っているので、それを待たないといけない。
「じゃあ、戻ろうか」
「はい」
どんな結果になっているのか。その不安を抱えながらも宿泊所に戻る。夕食を食べないといけない。ウチのパートは残って練習している人も多かったので、ほとんど食べる時間は同じだ。
「ねぇ、連絡来たの」
「まだ」
吉川はソワソワしている。自分の本番よりよほど気になっているのかもしれない。自分の本番は自分が出来る限りのことをするしかないけれど、他人の本番は何もすることが出来ない。だからこそ落ち着かない気分になる。そして彼女が味わっているそれは、これまでの大会で私が味わってきたものに他ならない。
「優子ちゃん、後輩が心配なのは分かるけど、ちょっと落ち着こう?」
「で、でも香織先輩……」
吉川が捨てられた犬のような目で先輩を見ているとき、電話が鳴り響く。発進相手の名前は妹。少し震える手で通話ボタンを押した。
「もしもし」
相手の返答はない。後ろの方からは凄い数の人の声。周囲には南中の部員がいるのだろうか、はしゃぐ声が響き渡っている。
「兄、さん」
「うん」
「やった、やったよ、金、金!」
「そうか、よくやった!」
画面の向こうからは「部長~!」と叫ぶ声。そして色んな音が混ざり合った後、また後でと言って電話は切られた。金、全国大会金賞。北宇治に先んじて、彼女の率いた部活は見事にその大戦果を掲げた。全国大会初出場にして、金賞。自分の親をも超える殊勲を見事に成し遂げてみせたのだ。
彼女の名前は学校の歴史に永遠に刻まれることになるだろう。それが、とても誇らしかった。メッセージが一件届く。そこには誰かが撮ったであろう半泣きでトロフィーを抱えている彼女の姿があった。同じ京都代表であり、この前切磋琢磨した相手の戦果はたちまち部員の間に広がり、彼らに続けと言う強い闘志となっている。
「同じ色、獲るわよ」
途端に元気になって白米を掻きこんでいる吉川に若干呆れた目を送りながら、しかしその意見には深く頷いたのだった。
すっかり寝静まった廊下は静かになっている。興奮のせいか先ほどまで寝れていなかった男子部屋もすっかり静まり返っていた。夜中の十二時。丁度日付の変わるその時間に、私は廊下にある自販機の前のベンチに座っていた。手にはコーヒーの缶。湯気が立ち昇るそれを飲みながら、ぼんやりと廊下の向こうの闇を眺めていた。
思えばこんなところまで来てしまった。全く後悔してはいないけれど、よくもここまで来たものだと自分の中で思わないでもない。先生に誘われ、高坂さんに突き動かされ、そして自分でも戻ると決めてから半年以上。正直激動だった。少し苦みの走るコーヒーを飲んで、息を吐いた。
服の中では銀のロザリオが揺れている。この十字架もこの舞台まで一緒に来ている。これを持ち出すのは今年になってから三回目だった。一回目も二回目もいい結果だった。だからこそ三回目も、と思うのは少し欲張りだろうか。どうあってもいいので、悔いのない演奏を彼らが出来るように見守っていて欲しい。そう願いながら、左手で優しく撫でた。
「こんな時間まで起きているのはよくありませんね」
「先生だって、同じじゃないですか。それくらいの役得はあってもいいと思います」
「修学旅行では消灯時間で寝てくださいね。今はまぁ、構いませんが」
先生は静かに自販機に硬貨を入れる。コーヒーの缶が転がって来る音がやけに大きく響いた。
「ここまで、来てしまいましたね」
「えぇ。私は、桜地君に感謝しないといけません」
「何ですか、藪から棒に」
「練習の補佐、三年生の懐柔、ホールの確保、吉川さんへの対応、高坂さんへのフォロー、再オーディションにおける動き、強豪校との折衝、そして田中さんのこと。私は多くの事であなたの力を借りてしまいました。本来は教師である私がどうにかしなくてはいけなかったのに、忸怩たる思いです」
「まぁ良いんじゃないですか。私がいる間は、私がお手伝いできるので。いなくなった後に同じような事にならないよう、気を付けて頂ければ。それに私が微力ながらもお力添えしたのは事実ですが、私のやり方が全部正しかったとは思ってません」
今でも正しくないと思っていることもある。もっといい方法、よい言い回しが出来たのではないかと思う時もある。もし人生が結果論なら、気にする必要は無いのだろう。だけれど、私はそうなれるほど達観した考えを持てなかった。
「先生がもし、再オーディションの時に私を切り捨てないという選択をしなかったら、私はきっと田中先輩の件に上手く関われなかった。その先輩の件でも、やり方はどうあれあそこで毅然と要求を拒絶したのは、先輩には救いだったでしょう」
「だとしても、未熟であったことには変わりありません。反省することばかりです」
「先生という立場は言い訳できませんからね。初心者だろうと新人だろうと、先生という立場で教壇に立った以上、経験の有無など生徒には関係ない。非常に大変だと、私は思います」
生徒にはより完璧に近い先生を求める権利がある。教壇に立つ存在が今年初めてとか、そういう情報で生徒に同情や配慮をされるようなことがあってはいけない。理想論かもしれないけれど、教える立場とはそういう存在であるべきだと思っている。至らないところは絶対にどんな人でもあるけれど、「あの人は若いから生徒側で配慮しよう」と思われるような存在であってはいけないと思うのだ。
「本当に、ありがとうございました。あなたのおかげで、私もここまで来ることが出来ました。……妻の夢を、夢物語から現実に近いモノにすることが出来ました」
「なにしみったれたこと言ってるんですか。まだ終わってないですよ」
どこか弱気で、もう何も悔いなど無いかのような先生の声に、私は覆い被せるようにして言葉を発した。
「金獲ってこそ、夢が叶ったと言えるんでじゃないですか? 北宇治はまだ始まったばかりです。来年、再来年、その先ともっと上手くなる。だからそんなもう全部終わりで悔いなんてないみたいな顔しないでくださいよ」
「そうでしたね。私としたことが、少し弱気になっていたのかもしれません」
先生は小さく笑って、缶コーヒーに口を付けた。それ以上、私たちが何かを話すことは無かった。ただ、この代を共に率いた者同士、静かに廊下の奥にある闇を見つめていた。会話はないけれど、きっと考えていたことは同じだろう。明日への想い。考える事は、それしかないはずだ。
一晩明けて朝が来る。誰の目にも、もう迷いはない。目指すのはたった一つだけ。もちろん私も。全員の気持ちは揺るぎなく、一つだ。外は晴れやか。快晴となった空模様は、大会を行うには相応しい天気かもしれない。
「あれ、見たことありますね」
「あぁ、埼玉栄光だね」
「あっちも」
「浜松海の月かな」
「あれは……清良ですね」
吉沢さんはほ~という感じで勢ぞろいしている他校を見ている。知ってる学校は何校もある。元々私は日本の吹奏楽に詳しいわけでは無かった。無論ある程度の知識はあるけれど、欧州畑で歩んできた人間なので、そこまででもない。今年この役目を担うようになって色々と知ったことも多かった。仕事も関係しているからかもしれないが。
有名な顧問もいれば、そうでない人もいる。清良にはどこかで挨拶しておきたい。この前の演奏会ではお世話になっている。だが他校のことはそこまで気にしてもいられない。私たちにはこの後の演奏が待っている。泣いても笑ってもこれが最後。他を気にする必要など、元より無いのだ。
「ついに、この日が来ましたね」
移動した先、本番前最後の練習場所で先生は部員全員の顔を見渡す。
「昨晩はよく眠れたでしょうか」
口々に返事が返って来る。男子部屋はそんなに早く寝ていないので、ちょっと目を逸らすしかない部員が多い。興奮のせいかそこまで早く寝られない人が多く、そのためトランプが盛り上がっていた。先生と最後の打ち合わせを終えて戻ってきた私が「早く寝ろ」と急かす事態になっていたのを思い出す。普段寝る時間が遅い人が消灯を促すという異常な状態だった。
「私達は春に全国大会出場という目標を掲げ、ここまでやってきました。結果を気にするなとは言いません。ですが、ここまで来たらまず大切なのは悔いのない演奏をすることです。特に三年生……」
「「「はい!」」」
「今日が最後の本番です。この晴れ舞台で悔いのない演奏をしてください」
「「「はい!」」」
「先生、一言いいですか?」
「もちろんです、どうぞ」
部長が立ち上がる。
「ついに本番だよ。私今日だけは絶対ネガティブなこと言わない。私ね今心の底からワクワクしてる。いい演奏をして、金獲って帰ろう!」
「「「はい!」」」
「じゃあ副部長のあすか」
「え~っと、全国に関して皆に色々迷惑をかけてしまいました。こうやってここにいられるのは本当に皆のおかげだね……ありがとう。今日はここにいるみんな北宇治全員で最高の音楽を作ろう!それで、笑って終われるようにしよう!」
「「「はい!」」」
流した汗の数だけ、上手くなった。かけた時間の数だけ、上手くなった。そうして今彼らはここにいる。努力をして、何になるのかは分からない。もしかしたら、努力は報われないかもしれない。少なくとも、そういう事だってある。けれど私は今ここに確かに一つ、その意見への反証を知っているのだ。
「では、桜地君、よろしく」
「分かりました」
言葉を探す。走馬灯のように思い出がよみがえり、言うことが決められない。迷いながらも話し始める。
「ここまで、よく練習してくれたと思います。正直、厳しいことも言いました。年下や同級生に教わる事に不満を持っていた人も決して少なくないと思います。それでも、ここまで本当によく、頑張りました。新生北宇治がこうして全国に舞い戻った、最初の一年に関われたことを私は誇りに思います」
ここで一度言葉を切る。思い出を噛み締めるように続きを話し始める。
「皆さんはこの二つの曲に半年以上向かい合ってきました。これは非常に類まれなる経験であると思います。そしてそんな皆さんだからこそ会場に描き出せる景色が存在していると、私は思っています。どうか、それを見せて頂きたい」
美術と音楽は似ている。私の従姉はそう言った。どちらも結局は同じものを映し出そうとしているだろう。この現実という世界に、別の世界を上書きする。それが音によってか視覚によってかは異なるとしても、根本は同じところから始まった芸術なのかもしれない。そして、この二つの曲に向かい合い続けた彼らだからこそ描ける世界は確かに存在していると私は思っていた。
「未来の北宇治に入る奏者が、今日この演奏を聞いていることでしょう。そして将来の北宇治生が原点に立ち返った時、今日の演奏を聴くでしょう。そういう存在に、努力すれば夢はきっと叶うと伝えられるような演奏を心掛けてください」
南中の部員は今日も帰らないで全国の演奏を聞くと言っていた。少なくとも彼らの中の誰かに、今日の演奏が届くはずだ。そして今日はここにいない、まだ見ぬ誰かへも。
「そして最後に……」
「「「練習では悲観的に、本番では楽観的に!」」」
「はい、よろしい」
促そうと思っていたら先に言われてしまった。顧問や指導者の口癖は覚えられているらしいけれど、もしかしたら私のもそういう扱いを受けているのかもしれない。私の言葉が終わると、拍手が送られた。そして、最後の締めにかかる。全員の目線が部長に集まった。
「それじゃあ今日は先生も」
「私もですか?」
照れながら先生も輪に加わった。熱気を孕んだ多くの視線が混ざりあう。
「では、皆さん。ご唱和下さい。北宇治、ふぁいとぉ……」
「「「おー!!」」」
今までで一番大きい掛け声と共に、全員の手は高く掲げられた。私の胸の中でも、銀の十字架が揺れている。その熱に突き動かされるように。それはまるで、私の心境を表しているかのように。
移動した先の舞台袖はいつもと同じような熱気と静かな鼓動に満ちている。
「今日、お母さん来てるみたい」
「そうなんですか?」
「うん。迷ってたけど、来ることにしたって」
田中先輩と黄前さんが話していた。私のメッセージは一応、届いたようだ。きっと先輩は私にも聞こえるように敢えて話している。母親の行動について、どう考えているのかは分からない。だが、それでも少なくとも悪感情は抱いていないように見えた。
多くの人が見に来ている。私の祖母や従姉、妹もいる。最初のはまぁどうでもいいけれど。親兄弟が来ている人も多いだろう。色んな思いを込めて、今日の演奏は行われるはずだ。
「高坂さん、そして吉沢さん」
「「はい」」
「今日がこれまでのレッスンの集大成を見せる時です。いつも通り、演奏すれば問題ありません。ここまでよく頑張りました。頑張りの量を比べるのはあまり好きではないですけど、それでも敢えてするのなら、一番遅くまで一番厳しい練習に耐えてきたのが二人だと私は思っています。友としてライバルとして切磋琢磨し、そしてここまで来ました。相当ハードルの高い時間だったと思いますが、それでも二人とも投げ出すことはしなかった。辛くとも辞めなかったというのは、二人の持つ誇るべき強さです。どうか、今日は後悔の無い演奏を。君たちだけにしか描けない景色を見せてください」
「「はい!」」
「よし。ではもう言うことはありません。ただひたすら、輝いてきなさい」
生半可な練習をしていたつもりは全くない。他の強豪校の奏者であっても投げ出すような時間を作っていたつもりだ。追い込んでいたわけでは無いけれど、厳しい時間だったと思う。一つ出来ても次から次へとハイペースに努力を求められる。それは楽な道では無かったはずだ。
それでも二人ともついてきてくれた。これは私にとっても得難い経験であるのは間違いないだろう。特別になりたいと言って、私を招いた燃え上がる情熱の赤い炎。走った長さで勝負するんだと走り出した、普段は見せないけれど確かに燃えている、静かな青い炎。二人の情熱は、私を支える原動力だったのかもしれない。
頑張ろうとお互いに言っている二人を見て、そう思う。私に教えを乞うて良かった。そう思ってもらえるような演奏が、出来る事を願う。そんな私の肩が軽く叩かれた。
「桜地君」
「はい、どうしましたか、香織先輩」
「府大会の前に、全国の前になったら言って欲しいって言われたことがあったでしょ。だから、今言っちゃおうと思って」
そう言えば、そんな会話をしたのを覚えている。あの時はここまで来れるかなんて分からなかった。ただ、府大会で終わりとは思えなかったのも事実。だから先輩に希望を持ってほしくて、そう言った。
「ここまで連れてきてくれて、夢は叶うって教えてくれて、本当にありがとう。滝先生にも感謝してるけど、でも私たちトランペットパートは、一番桜地君にお世話になった場所だと思う。それに私個人も、再オーディションの時も、葵やあすかのことも。沢山助けて貰っちゃった」
「いえ、そんな。むしろ私の方こそ沢山ご迷惑をかけてしまいました。いつも先輩には陰に日向に助けて頂いてます」
「ふふふ、最後まで桜地君らしいね。……私は、去年何も出来なかった。結局、辞めていく桜地君を引き留めることも。でも、そんな私でも、桜地君の尊敬できる、誇れる先輩になれたかな」
「そんなの……当たり前じゃないですか」
結果発表はおろか演奏すらまだなのに、心の底から感情の波が押し寄せてくる。私は人生で、多くの年上と接してきたと思う。極端に上の存在から、そうでない人まで。それでも心の底から尊敬できる存在が一体何人いただろうか。ただ年を重ねただけの人を何人も見てきた。だからこそ、先輩は尊敬していた。
去年も、今年の春も、そして再オーディションの時も。いつも誰かを思いやっていた存在に、私は一体何が出来たのだろうか。もし辞めていなければ、違う道があったのかもしれない。けれどそれを選ばなかったのは自分だった。合宿の時だって最後に背中を押してくれた。その優しさに何度も甘えてきた。
目から涙があふれてくる。たまらず、下を向いて袖でそれを拭った。
「先輩を誇れなくて、尊敬できなくて、私は一体誰を尊敬すればいいんですか。あなたを先輩と呼べて、よかった」
「そっか……ありがとう」
優しい笑顔で、彼女は微笑んだ。最後まで、その精神性は変わることなく。気高いまま、美しいまま。
「あー、香織が桜地君泣かせてるよ」
「ちょっと、そんなつもりじゃないよ」
笠野先輩が優しくもからかうように香織先輩の側に寄った。私の背中を後ろからバシンと叩く音がする。鈍い衝撃に振り返れば、何とも言えない顔をした吉川が立っていた。
「何だよ」
「ちょっと、ムカついた。でも……香織先輩が認めてるアンタの事は、私だって認めてるから。それだけ」
こちらを見ることなく、彼女はただ前を向いてそう言う。それに言葉は返さない。言いたいことは伝わった。
「随分、助けられたな。最初から」
「……そうだったかしらね」
吉川は何とも言えない表情で言う。彼女がどう思っているのかは分からないけれど、確かに助けられた面は存在する。なにせ、私が復帰に際して最初に話をしたのは他ならぬ吉川であった。その理由は幾つもあって、大半は利己的なモノであったけれど、だとしても彼女を信頼していたのは事実だ。そして私は、その信頼には十分応えてくれていると思っている。
彼女は今日が先輩と演奏できる最後の機会だ。誰よりも先輩を思っていたからこそ、悔いなく演奏してほしい。私の想いを知ってか知らずか、間もなく幕が上がろうとしていた。
「続いての演奏は、プログラム十番、関西代表、京都府立北宇治高等学校の皆さんです」
部員が一斉に動き出す。我々演奏しないメンバーは舞台袖から見守る事しか出来ない。懐かしい熱気が、舞台から流れてくる。自分がかつてあんな風に舞台にいたことを思い出すと、とても懐かしかった。
「ほんじゃあまぁ、行きますか」
「気合入れて行けよ、滝野」
「おぅ、分かってるぜ」
彼は軽く首を鳴らしてからその目を舞台に向ける。真剣そのものな表情。彼は私の妹を助けてくれた第二の恩人だ。その妹も、今日はどこかで演奏を聞いている。当然彼もそれは知っているのだろう。いつになく、気合が入っているように見えた。
「俺の妹も来てるんだ。さやかって言って、涼音ちゃんと同い年なんだけど」
「へぇ、ならなおの事頑張らないとな」
「いつも生意気なヤツなんだけど、今回はやけにしおらしく応援しててよ。ちょっと調子狂ったぜ」
「何だかんだ好きなんだろ、お前のこと」
「さぁな。来年北宇治に行きたいってよ。きっと入ったら一番可愛いだろうな」
「は? ウチの涼音が一番だが?」
「なんだお前」
「よし、表に出ろ」
「はいはい、馬鹿なこと言ってないで準備する!」
滝野と私の間に加部が割り込んでくる。吉川は向こうの方で心底呆れた顔をしていた。今ので滝野も吉川も、少しはリラックスできたようだ。加部も分かっていて割り込んでくれたのだろう。彼女は気遣いが上手かった。自分に出来るせめてもの事を、とよく色々手伝ってくれている。彼女も来年こそは、大会に。そういう思いを私はいつも抱いていた。
光の舞台へ向かっていく部員に、幕の後ろから最後に声をかけていく。府大会の時と同じように、府大会の時よりも熱量を込めて、一人一人。反応は十人十色。サムズアップ、頷く、ハイタッチ、グータッチ、手を振るだけの人もいれば、カクカクになってお辞儀する人もいる。ただ一つ言えるのは、誰もが強い意志を持っているということだろう。
隣の希美はいつになく、硬い表情をしている。緊張するのは、なにも演奏する側だけじゃない。見てる方だって、緊張はするのだ。するのは分かるし大いに共感できるから、お願いなので私の腕を握りしめないで欲しかった。ちょっと痛い。
「大丈夫。きっと、大丈夫だ」
希美を、そして自分も落ち着かせるように小声で呟く。こくりと頷くのを横目に見ながら、神経を眼前の奏者たちに向ける。
「課題曲Ⅳ、自由曲は堀川奈美恵作曲『三日月の舞』、指揮は滝昇です」
一条の真っ直ぐな光が先生を照らした。先生が頭を下げると、観客席からは大きな拍手が聞こえる。あの暗い闇の中のどこに、私の従姉や妹がいるのだろう。祖母は、田中先輩の母親はどこにいるのだろう。
部員の心はそれぞれだろう。ただ、多くの人が抱いている感情を私はよく知っていた。最後の舞台、行きつくところまで行ってしまった最後の戦場ではもう何も考えていないことが多い。自分の相棒である楽器だけが側にいて、世界をただ俯瞰しているような気分になる。それでいて、脳内はすさまじい興奮の嵐が吹き荒れているのだ。それはきっと、ここでしか味わえないもの。名古屋が、全国が持つ魔物だ。
神など信じていない。いたとしても、私はそれを嫌っているままだろう。だとしても。胸から十字架を取り出して握りしめた。もし神がいると言うのなら、彼らに少なくとも悔いのない演奏が出来るような時間を与えて欲しい。それくらいはしてくれても良いはずなのだ。神なんか信じちゃいない。でも祈るだけでそんな時間が彼らに与えられるのなら、私は何時間だって祈ってやる。
先生が腕を上げる。それが振り下ろされ、高らかに演奏は始まった。
まずは課題曲から。そのスパニッシュな開幕はこれまでと同じ。ほぼ全楽器が稼働して一斉に曲を作っていく。始めこそ肝心といつもいつも口を酸っぱくして言っていた。それは府大会からずっと変わらない。課題曲Ⅳを採用しているのはウチの高校ともう一校だけ。全体から見れば少数派だ。だからこそ、魅せられれば評価が上がることも期待できる。
クラリネットの異国情緒あふれるニ短調が優雅に奏でられていた。異国情緒をどう出すか。これは難しい問題であったけれど、新山先生の指導のもと上手く表現できている。植田さん高久さん松崎さんのクラリネット一年生組が特に平均値が高い。元々そうだったのがより磨きがかかっている。
二年唯一の部員である島も、苦戦していた部分はすんなりと出来ていた。春の頃とは大違い。それは他の部員にも言える事だろう。三年生の先輩たちも音の粒が綺麗に揃っている。基本のきから。そういう指導をしてきたのはきっと無駄ではないだろう。大口先輩や加瀬先輩などは特にそれが顕著に出ている。
紺碧の地中海を駆け抜けてトロンボーンな勇壮なメロディーが響いた。そして曲調は少し変化してオーボエとユーフォを中心にしっとりとしたメロディーを奏でていく。この二つの曲想が入り混じるのがCからDにかけてだった。
ここから一気に曲がまた変わる。今度はスペインからフランスに行ったのだ。サックスとユーフォニアムによる緩やかかつ暖かなフレーズは穏やかなフランスの農村を思わせている。
越川先輩や臼井先輩のバスクラは響かせ方が格段に良くなっている。そしてその少し低めなしっとり感の中に混じる雑賀先輩のピッコロはアクセントになっていた。文化祭でも見事決めきっただけのことはある。流石の演奏だった。寄り添うように控えたトランペットは主張し過ぎない。いい塩梅を保っている。物憂げな演奏の中にあるフルートもいい味を出している。希美はどこか寂しそうな、それでいて眩しそうな目で井上や姫神先輩たちを見つめていた。Hのトロンボーンはよくできている。田浦先輩や野口先輩、何より塚本君が苦戦していたハーモニーも上手だ。
そしてIに突入し、中奏になる。ここでトランペットの見せ場。三連符主体のファンファーレだ。その音は軽やかに、そしてそれでいて美しく。マーチ特有の軽くなりすぎるという現象を抑えるように再三指示を出していたのが上手く効果を発揮している。三連符の形と十六分音符の形、そして音の処理の仕方。拘った部分が上手く効果を発揮しているとホッとする。右手首を柔軟にと言われていた赤松さんや岩田も良く出来ていた。
Jからはメロディにトランペットが入る。ここで一気に華やかに。場面の切り替えは意識するような練習をしてきた。金管中低音との対旋律は美しく作曲者の世界を会場に映し出している。
そして最後は再びスペインに戻り、軽やかに華やかに、その風の旅の終端を彩った。先生は楽譜をめくり、もう一度手をあげる。過不足なく終わった課題曲。次は自由曲。北宇治の個性が一番出る所だった。
トランペットが華やかに、華麗に鳴り響く。幾度と無く繰り返された音色がそのベルから吐き出される。香織先輩や笠野先輩は言うまでも無く、吉川と滝野も入りは完璧だ。吉沢さんも特訓の成果はしっかりと出ている。文句なしの開幕となったファンファーレの高音が空気を震わせ、トロンボーンが続く。フルートがクラリネットが、ホルンがチューバがユーフォニアムが、サックスが。次々と後へ続いて行った。加速するテンポが音の行進を形作る。
音の中にかつての記憶を見る。これまで積み重ねてきた練習まみれの日々の思い出を辿る。懐古の情を乗せながら、音楽は止むこと無く続けられる。全ての努力は、今この時の為に。青春を捧げた音楽はホールを切り裂いて木霊する。魂を揺るがすように、心を叩くように。
堺さんの叩き方も随分よくなった。上手い子が正しい指導を受けると化けるいい例だろう。処理の仕方が素晴らしい。木管勢を支えるように響くホルン。最初は一番文句の多かった沢田先輩や加橋先輩も今では演奏を支える縁の下の力持ち。ホルンがカッコいいと先生が言うのも納得なほど、この曲では何度も登場する。岸辺や森本さんも音の処理が格段に良くなって、まさしく少数精鋭に相応しい立ち位置だった。
パーカッションはリズムを作るうえで大事な役割を果たしている。田邊先輩や加山先輩、大野はしっかりとその役目を全うしていた。そして同時に行われているフルートやクラリネットらの木管高音セクション。三原先輩や渡辺先輩など三年生に混じって小田さんや高橋さんなどの一年生も見事に吹ききっている。
今のシンバル井上さんの入りは渾身と言ってもいい。弾けるようなサウンドはダイナミックな満天の星空と、各楽器が担当しているモチーフへの橋渡しに上手く寄与している。
タンバリンと共に行われるクラリネットの音はまるで空を飛んでいるように。浮遊感を持って軽やかに。そういう演奏をイメージして作って来た。鈴鹿先輩や鳥塚先輩がピーターパンの冒頭部分のような、天を舞踏会の会場にしているような演奏をしている。田中先輩や萩原先輩も三連符を吹きこなしている。
フルートやグロッケン、トランペットが入れ代わり立ち代わり、宙に輝く無数の星のように演奏をしていく。スネアドラムによって拍子がもう一度四拍子に引き戻された。もう一度冒頭のファンファーレを繰り返して、押し出されるようにして全合奏のフォルテシモを奏でた。そして曲はベースラインの減衰がしていき静寂に導かれる。それはさながらプラネタリウムの終演のように。
そして月光が一条差し込んだ。その輝きは優しく、そして甘く切ない。それを体現した高坂さんのトランペットソロ。柔らかく、しっとりと、それでいてどこか存在感がある。幽玄さと優美さを混ぜ合わせた儚さの美学は、新古今和歌集かはたまたギリシャの詩か。異国で嫦娥と謳われる月のさやけくも確かな光を見事に会場に差し込ませている。
思わず口から笑みがこぼれる。合格だ。確かに私の中の全てがそう告げていた。今の彼女は、この曲においては、私より上手い。きっと彼女はいつか、私を追い抜くのかもしれない。だとしたら、その最初の日は今日ここから始まったと言えるのだろう。ソロを支えるように田中先輩と黄前さんのユーフォや後藤と長瀬のチューバ、そしてホルン隊などが入る。その中を高らかに美しく、高音は奏でられていた。
あの時。私は音楽家としての自分に従って高坂さんを選んだ。そして、それは間違っていなかった。そのことだけは、絶対に断言できる。そういう演奏を、彼女は今全身で行っているのだ。魂を懸けて、己の宇宙を描き出そうとしている。
ソロが終われば月の静かな舞が始まる。それを担当するのはみぞれ。格段に心の籠った演奏を行うようになった彼女は、まさに三日月としか言いようのない演奏をする。背後は我が友に太鼓判を押された川島さんや野口先輩・田浦先輩のトロンボーンファースト組が支えている。
そして今度はユーフォ・田中先輩のソロ。誰に聞かせたいのか。それはきっとはっきりしている。観客席であり、そして審査員席。その二つの席に、彼女の演奏は確かに届いているはずだ。抒情的な雰囲気はファゴットの喜多村先輩もそれを形作るのに一役買っている。みぞれとの合わせは流石同じパートだけあってしっかり決まっている。
曲想はまたここで変わり、スネアドラムとティンパニ、それに先導された木管楽器が明るい曲を奏でている。岡先輩も良い入りが出来るようになった。この部分では部長のサックスが単独で吹く場面もある。だが駅ビルコンサートであの演奏を披露した部長に、もう怖いものなんてないだろう。負けじとサックスの瀧川君や牧さん、平尾もセカンドで支えていた。
木管楽器は楽譜を飛び回り、それをバリトンサックスをはじめとする音楽器が低音から高音まで駆け回る。その姿はまさに縦横無尽。宮先輩や橋先輩、岡本先輩のサックス三年生も部長に劣らぬ演奏を披露していた。
ここから緊張感を高めつつテンポを徐々に緩めていく曲は、元の速度に戻って徐々に終盤へ、私たちの全国の終わりに向けて駆けだしていく。ホルンはチャイムの出現と共に一揆位にテンポを加速させた。熱で膨れ上がる気球のように、演奏はどんどん加速していく。ティンパニにどっしりと支えられた演奏は、宇宙を目指す人の歴史のように走りを止めず、そして重厚なスフォルツァティッシモで終幕を迎えた。
絞りきった最後の一絞りの一滴を垂らすようにクレッシェンド。そして指揮棒はピタリと止まる。数拍遅れての拍手。まさに最高の演奏。耳にタコが出来るくらい何度も何度も聞いた音。耳にこびりついたメロディー。だというのに、今はそれらがまるで始めて素晴らしい演奏を聞いたかのような感動をもたらしていた。
先生に促され、彼らは立ち上がり、礼をする。会場の拍手が強くなった。その音の大きさが、努力の結果を語っていた。これ以上ない、最上の演奏。彼らは確かに、それを成し遂げた。この全国の舞台で、自分たちがここにいたと、確かに証明してみせたのだ。私の横で、静かに希美が泣いていた。それは悲しみによってではなく、歓喜と感動によって。
誰かの心に、そして少なくとも舞台袖で見ている私たちの心に、星空と三日月は輝いただろう。それは彼らの頭上に輝くべき栄冠の輝きにも似ているかもしれない。
「部長、副部長」
演奏後、私は幹部としてこれまでこの部を率いてきた二人の前に立つ。きっとどんな結果でも、部長は号泣してしまうだろう。だからこそ、しっかりしている今の間に挨拶しておきたかった。
「これまで、お疲れさまでした。そして、ありがとうございました。新生北宇治初代の幹部が二人であったことは、大変な幸運であったと思っています」
「桜地君……!」
「部長、これからの部長は、あなたを規範にするでしょう。誇ってください。あなたは道なき場所を進み、そしてあなたの後ろに道は出来たのです」
かつて、私の母がそうだったように。部長は感極まったような顔をしている。
「こらぁ、晴香にそういう事言ったら泣いちゃうでしょ~、そういうのは後にしないと」
「だから早めに言ったんですよ」
私は両名の前に右手を差し出す。小笠原先輩は躊躇することなくその手を握った。そして田中先輩も。
「届けられましたか」
「うん。しっかりと」
「それは良かった」
もう彼女に悔いはないだろう。それならば、ここまで来た甲斐もあったというものだ。
結果発表を聞くために、参加者は全員がホールに集まる。席に座れば、前に沢山のトロフィーと盾が見える。ひときわ大きく、輝いているのが金賞のトロフィー。あれこそが栄光と頂点の証であり、この場にいる全校の部員が切望しているものだ。
他校の演奏を聞いてメモを取るといういつもの作業を済ませ、私は今皆と同じ場所に座ってその結果を待っていた。代表の人たちが入場してくる。スポットライトが彼らを一層明るく照らし出す。ステージでは偉い人がなにやら口上を述べているが、何一つ耳に入ってこない。心臓は高鳴り、今か今かと待ち望んでいる。
「それではまず、皆さんをここまで率いてくださった各顧問の先生方に指揮者賞を贈呈します」
その存在を忘れていた。自分が吹奏楽部の全国大会に久しく来たことがなかったから忘れてたが、こんなものも存在していた。誰も認識してなかったため、戸惑っている。弱小故に全国など無縁だった弊害がこんなところにあるとは思いもしなかった。他校の生徒が次々と歓声を上げるなか、我々は何を言うのか決めかねていた。
「関西代表、京都府立北宇治高等学校吹奏楽部、滝昇殿」
そんな中、いよいよ我らの顧問の出番が来てしまう。焦りが最高潮に達する中、スッと高坂さんが立ち上がる。
「先生、好きです!」
彼女は前の方の席から立ち上がって手すりを掴み、大声で叫ぶ。行われたのは突然の愛の告白。あれはマジの告白だろう。少し頭が痛いのだが、状況は見事に好転した。素直に助かったと思うべきなのかもしれない。
「高坂、マジファインプレー!」
「ありがとう。みんな何も言えなかったから」
次々とかけられる声援に若干がっかりしたような表情を見せながら首を振っていた。皆あれがただの声援だと思ってるんだろうなぁと苦笑しながら、親指を立てておく。
「うわ、大胆だなぁ……」
「は、ははは……」
希美は気付いたようでちょっと頬を紅くしている。私は何とも言えない笑いを浮かべるしかない。高坂さんの後ろの席では、吉沢さんがやれやれというような仕草で肩をすくめていた。
「続きまして、結果発表に移ります」
ざわめいていた会場はその言葉によって一瞬で静まる。誰もが食いぎみにステージを見つめる。
「一番、北陸代表、義雁商業高等学校。銅賞」
左端の団体から落胆の声が聞こえる。選ばれるものと選ばれないもの。全国大会ともなれば、その違いは、きっととてもささやかで小さいのではないだろうか。
この時間はどうしようもなく苦しい。金賞常連の強豪も、我々のような校も。隣では清良の部員たちが祈りを捧げている。勝つことが当然とされた世界。栄光が当たり前とされた世界の苦しさはとてもよく知っていた。その世界は、一見華やかで、美しく見えるけれどそこにたどり着けばわかる苦しみがある。息苦しくて、不自由で。努力ではなく結果のみが評価される。それは、当たり前のようでとても辛い。
知り合いで、この前も北宇治に明るく接してくれた清良の部長の泣きそうな顔がステージに見え、そう思わされる。私の母は、あそこで賞を受け取る時何を思っていたのだろう。
「五番、東京代表、東京都立片敷高等学校。ゴールド金賞!」
次の歓声は一階から。余韻も無く、次々と発表は進んでいく。
「九番、東関東代表、成合市立成合高等学校。銀賞」
次だ。いよいよ次だ。誰もが祈った。運命の言葉が放たれる。
「十番、関西代表、京都府立北宇治高等学校」
そして――――
「なんだ、そのしょぼんとした顔は! ちゃんと笑え!」
「って言われてもな……」
中央にいる部長の手にある表彰状。そこに書かれているのは『銅賞』の文字。そう、北宇治の実質的に初めてとなる全国大会は銅賞で幕を閉じた。
「すみませんでした、先輩」
「高坂さんが謝る事じゃないよ。これが私たちの実力だったんだよ」
その言葉が突き刺さる。きっともっと上に行けたはずだ。何かが足りなかった。私の教え方の何かが……。唇を噛み締める。こんな気持ちになったのも随分と久しぶりだった。
「高坂、来年金とるよ」
吉川の言葉に、高坂さんは力強く頷く。
「先輩、先輩……」
涙を浮かべて、吉沢さんは下を向きながら私に向かい合っていた。
「泣かない。そんなんじゃ折角の晴れ舞台が台無しだ。どんな結果でも、笑って帰らないと」
「でも……でも……!」
「君の演奏は確かに私の心に届いている。高坂さん共々、よくやった。自信を持って。この私が言うんだから。笑って帰ろう。そうすれば来年、また来れるから。だから今は泣いて終わるんじゃなくて、待ってろよとここに告げてあげよう」
「うぅ、うぅぅ……はい、頑張ります」
「その意気だ」
彼女の肩を叩いて慰める。これまで必死にやって来た結果はしっかりと演奏に反映されていた。それは嘘でも偽りでもない。
「高坂さん」
不意にかけられた声に振り返ると、先生がこちらに微笑みかけている。その姿を認識したとたんに声をかけられた当人は顔を赤くした。
「指揮者賞のとき、声をかけてくださってありがとうございました」
「い、いえ、そんなお礼を言われるような事なんて、全然してないです」
長いポニーテールをブンブン左右に揺らしながら答える彼女の姿は普段とのギャップも相まって少し面白い。
「実を言うと少し自信が無かったので。この学校に来てから、皆さんに好かれてばかりではないと自覚していましたので、一人よがりな指導をしているのではと不安に思っていたのです。もしかすると、自分のやりたいことを押し付けているだけではないかと……」
「そんなことないです! みんな先生に感謝してます! アタシ、先生の事好きなんです!」
その言葉に周囲の女性陣が息をのむ。上気した頬、見開かれた瞳のまま、彼女は距離をつめる。
「北宇治を選んだのだって、先生がいるからで! その、本当に先生のこと好きなんです」
「そう言ってもらえると、教師冥利に尽きますね。ありがとうございます」
そう言って、先生は去っていく。あの人は分かっていて躱しているのか、それとも。どちらにしても高坂さんの恋は前途多難だろう。恐らく、相当難しいはずだ。
「はぁ……」
私の後輩の盛大なため息が聞こえる。
「高坂」
「頑張ろう」
吉川と先輩が慰めている。すごい落ち込んでいる姿はやはり珍しかった。ある意味、微笑ましい光景だ。吉沢さんはウサギのような赤い目をしながら、前途多難と呟いている。共感はしたけれど、何を言ってもなんだか角が立ちそうなので黙っていることにした。
携帯には妹から連絡が来ている。曰く「お疲れ様でした。南中部員のいい勉強になったと思います。私たちの心にはしっかりと響きました。来年精鋭を率いて殴り込みに行くので、コンクールメンバの席を空けておいてください」と。何とも挑戦的な内容だけれど、心に響いたという言葉が今は嬉しかった。未来の北宇治部員に、私たちの想いは確かに届いていたのだから。
「凛音さん」
不意に少し老いた声が響く。途端に感動がスーッと消えていく音がした。トランペットパートの人たちは私たちの間を疑問符を浮かべながら遠目に見ている。滝野はなんとなく理解したようでそそくさとその場から逃げ出していた。遠くからこちらに近づいていた希美が慌てて駆け寄って来るのが横目に見える。
「何ですか」
「これが北宇治高等学校の演奏ですか」
「そうです。私の誇るべき存在の、誇るべき演奏です。ド素人の耳でも多少は分かったんじゃないですか、その素晴らしさが」
「その物言いに思う所は多々ありますが……私の発言は確かに間違いでした。それは認めましょう。この場所は、確かに意味のある場所であることは間違いありません」
「だからそう言ったんですよ。最初から。出した結果には報いてくださいね」
「言葉を違える事はしません」
「頼みますよ。あんな状態の家じゃ、おちおち青春も出来やしない」
「……なるほど」
祖母は何かに納得いったような顔で小さく頷く。息を切らしてきた希美が、祖母に頭を下げた。
「こんにちは!」
「えぇ、数日ぶりですね」
「どう、でしたか」
「良いモノでした」
「良かったです!」
「えぇ。来年は貴女も出るのでしょう?」
「もちろんです」
「そうですか。ではまた、来年ここに来ることにしましょう。今後は会う機会も増えそうですので」
「えっと……?」
「いえ、こちらの話。では失礼」
奥様! と駆け寄って来る数名のスーツ姿の男性たち。彼らは私に一礼すると、祖母を連れていく。車で来たのだろうから、送迎というわけだ。言いたいことだけ言って去っていく。相変わらずムカつく相手だ。思いっきり中指立てようとして、希美に慌てて止められる。
来年ここに来ると言った。つまり、私たちも来年ここにまた来ないといけない。無論そのつもりだけれど、あの人に言われていると発破をかけられているようで何とも腹立たしい。鼻息を荒くする私を、希美が困ったなぁと呆れ顔で見ていた。
バスに乗る前、最後に集合をかけられる。目元を赤くした部長が前に立った。
「私たち三年は、これで引退となります。最後になりますが、今日までこんな不甲斐ない部長についてきてくれてありがとう。この一年は嫌なことも、不安で辛いこともいっぱいあったけど、それ以上にみんなとの演奏が楽しくて……」
所々詰まりながら話していた声は、涙声に変わり、最後は泣きながら言葉を詰まらせていた。その姿に、全員から拍手が送られる。もちろんで私も。心からの喝采を送る。
「では、泣き虫部長に代わって一言。正直、今日の演奏で言いたいことは何もありません。北宇治の音は全国に響いた。私たちは全力を出しきった。本当にみんなお疲れ様。そして、三年生はこれで引退。後は二年生の天下です。もう不安しかありません」
副部長の言葉に小さく笑いが起こる。
「えー、私は皆さんが知っての通り、回りくどい話は出来ないのではっきり言います。今回の結果、私はとても悔しい。でも、三年に雪辱の機会はもうない。こんな思いは私たちだけでたくさん。だから、来年は必ず金賞を取って。これは、最後の副部長命令です。分かった?」
「「「はい!」」」
「よーし。その返事忘れないよ! 卒業しても毎日見に来るからね」
「先輩、それ最悪です」
「えーちょ、何でよー!」
さっきよりも大きい笑いが起こる。
「じゃあ、次に桜地君。お願い」
「はい。では僭越ながら……」
「お姉ちゃん!」
突然黄前さんが走り出す。
「え、黄前さん!」
部長の言葉も耳に入らないようで、そのまま走り去っていった。呆気にとられたが、お姉ちゃんという言葉から誰が目当てかは簡単に察せられる。あの子、やっぱり不良少女だ。夏合宿の時の一幕を思い出して、私は小さく笑う。
「まぁいいでしょう。では、改めて私から。非常に良い演奏でした。評価がなんぼのもんじゃいという感じです。何が書かれていても気にしないでください。それは我々指導陣が受け止めますので、皆さんは「うるせぇバーカ」と言ってくだされば結構です」
審査員のコメントは時々心無いこともある。とは言え、それは指導者が真剣に受け止めればいいこと。部員がそうする必要は無いと私は思っている。
「今日の結果に思う所はあると思います。しかし本当に良い演奏だった。それは他ならぬ私が言うのです。信じてください。そして、未来の北宇治部員になるであろう子たちにも、確かに届いています。皆さんの想い、描きたかったモノ。確かに受け取りました。ですが音楽はここで終わりではありません。まだまだ続いていきます。特に三年生の先輩方は、是非とも選び取った進路の先でも音楽と少しでも関わって下されば、私は嬉しく思います」
ここで言葉を止めて、息を吸う。色んな思いと共に。そして全国に行けたら、どんな結果でも聞こうとずっと思っていた言葉を放った。
「私はずっと、吹奏楽部のためという行動指針を持って動いてきました。ですがここが部活である以上、最後は笑って終わるべきであると思っています。だから誰一人欠けることなく、何なら一人増えてこの場所に来れて私は良かったと思っています。その上で、笑顔で終われるように私はこれを聞きたいと思います。皆さん、今日の演奏は楽しかったですか?」
それに皆は一瞬だけ何かを考えるような思い出すような表情をした。けれどすぐに大きく口が開かれる。
「「「はい!」」」
「ならば良し!」
自分の一年間の努力は、正にこの時に報われた。
「二年生、来年は全員揃って大会出るぞ!」
「「「おー!」」」
「一年生、お前らも全員出るぞ!」
「「「おー!」」」
「厳しい練習にも文句言わないで耐えるぞ!」
「「「おー、おぉ?」」」
「また名古屋に来て、今度は清良とか他の強豪泣かすぞ!」
「「「おぉー!」」」
天に幾つもの拳が上がる。これは私から先輩たちへのさりげないアンサー。私たちはしっかり受け継いでいく。だから安心してくれ。そういう思いを込めた煽りだった。
かくして、今年の全てをかけた全国大会は多くの思い出と共に幕を閉じた。だが、残された者の戦いは終わらない。立華から合同演奏会のお誘いが来ている。そしてここから三月までの数ヶ月は実質春から大会までと同じくらいの時間がある。そこを活かさない手はない。練習もし甲斐がありそうだ。そう思いながら、口角を上げる。都会の星空が私たちを見下ろしていた。
「来年は、必ずまた全国に行って、金取ろうね。一緒にさ!」
帰りのバスの中で少し鼻息荒くしながら、隣で希美が言う。一緒に、という言葉の響きは心地よかった。そう。彼女をまたここに、今度は奏者として連れていく。私はそう約束した。だからこそ、その約束を守らないといけない。何があっても。
「私も、頑張る」
後ろの席から声が聞こえる。
「おっ、みぞれも頑張ろうね」
「うん。頑張る。希美と一緒に吹く」
「そっか」
「うん」
「ま、あんまり気合いを入れすぎてもアレだし、何か美味しいものでも食べに行きたい」
「おっ、良いね」
「私も、行きたい」
「じゃ、どっか行きますか!」
どこが良いかなぁと席の前後で話し合う二人を横目に窓の外を見る。また一年が始まる。今度は、最後の一年だ。後悔無きように、これまで以上に全力で。街灯の光が流れるように視界に移っては消えていく。その光と同じように、時間は止められない。また最初からだ。それは非常に大変だし、疲れるだろう。それでも、きっと上手く行く。根拠なんて何にもないけれど、そんな風に思えた。