音を愛す君へ   作:tanuu

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第五十九音 12月3日

 翌日の練習でも、その次の日の練習でも、意識して吉沢さんの方を確認してみる。その様子は特段変わったようには見受けない。少し眠そうに、そしてのんびりと準備をしている姿。普段と全く変わらない。もしかしたら、この前のは私の勘違いなのかもしれない。或いは事実だけれどもそこまで重苦しく言うつもりはなかったのかもしれない。

 

 ただ、どうしてもこのまま放置していてはいけないという予感が私の中に渦巻いていた。それは消えることの無いまま、結局時間は少し気分が晴れないままで過ぎていった。同時に、高坂さんを本当に後任として良いのだろうか。それは身内贔屓なのではないか。そういう考えが頭の中をよぎっては消えていった。

 

 分かることが何かあるとするのならば、このまま放置していても何一つ良いことなど無いということだろう。

 

「やっぱり、どうにかしないといけないよな……」

「凛音はほっといたらダメだと思ってるんでしょ?」

「まぁ、そうなる」

「なら、それに従ったら良いんじゃない? でも今回は高坂さん何も悪いことしてないから、吉沢さんのフォローだけに止めておいた方が良いかもしれない。もうすぐ向こういかないといけないから、大変かもだし、戻ってからでも良いかもしれないけど」

「まぁ後輩の事だし、別にそれくらいは良いんだけどね」

「でも難しいよね。私だってマイ楽器買ってもらったのは多分、他の人より恵まれてると思うし。南中のフルートはマイ楽器持ってないと入れないから、入りたいけど諦めたって人は毎年いるし……」

 

 妹はマイ楽器を持っていたからその縛りをパスできた。けれど、世の中にはお金にそこまで余裕がなく買えないという家庭もあるはずだ。それは北宇治にだってきっと。貧乏でもないけれど、楽器は高すぎるという家も少なからずある。希美のフルートでも18万円くらいはする。ポンと出せる家の方が少ない。私のヴィクトリカは希美の私物の六倍ほど。目が飛び出るかと思ったのを覚えている。

 

「吉沢さん、変な感じじゃないんでしょ? ここ数日は」

「そうだね」

「じゃあ、ちょっと様子見するのも良いんじゃない? いきなり行くとちょっと不自然だし」

「まぁ……そうかもしれない。ありがとう。相談に乗ってくれて」

 

 昔はこういう悩みを打ち明ける相手もいなかった。今は話せるだけ大分気が楽になっている。結局結論は出なかったり、同じ結論だったりすることもあるけれど、人と話すことで考えの整理が出来る。それで大分救われている部分が多かった。気付けば、あっという間に彼女の家の前に着いてしまう。冬の夜は早くに暗くなるので、帰りが同じときはいつも送るようにしていた。

 

 吉沢さんの件は一旦様子を見るしかない。それに、高坂さんの父親に会って高坂さんの育った環境について見極めた後で対処したいという思惑もある。そうしないで下手に動いては、彼女たちの間に折角芽生えている友情に傷をつける可能性があるからだ。

 

「あれ、そう言えば明日とかだよね、行くの」

「明日の午後の飛行機の予定」

「そっか……」

「一年がサボらないか見張っててくれると助かる」

「大丈夫だと思うよ~」

「まぁ、そうだろうけど」

「何日に戻って来るの?」

「大会が3日で……とは言えその後色々あって、多分日本時間で7日の昼には戻って来る」

「お土産待ってるね」

「はいはい」

 

 今日が私のコンテスト前に会える最後の日だった。昼間に部活には話を通してある。数日いないので、その間もしっかり練習と準備をすること、そして何か困ったことがあれば連絡してくれれば対応するけれど、時差があるのですぐには出来ないということも話してある。高坂さんなんかは凄まじい熱量で応援してくれていた。それはありがたかったけれど、私としてはいつもと変わらない雰囲気で頑張ってくださいと言っている吉沢さんの方を気にしていたのも事実。

 

 そして私は今、鞄に彼女への誕生日プレゼントを隠している。妹にアドバイスを受け、散々悩んだ末に買ったものだった。値段が適正なのかは分からない。ただ、それでも一番彼女に似合うと思ったものにしたつもりだった。ただ、いざ渡そうと思うと中々勇気が出ないもので、タイミングのせいにして結局今日一日が過ぎ去ってしまった。

 

 とはいえ、ここで行かなかったらきっと後悔するだろう。妹にもまたツンケンとした態度を取られてしまうかもしれない。何より、そんな恥ずかしさでこの気持ちを覆い隠すのが嫌だった。

 

「あのさ」

「どうしたの?」

「ちょっと早いけど、渡したいものがある。はい。これ」

「え、何これ? くれるの?」

「……ご自分の誕生日把握してらっしゃる? 誕生日おめでとう。当日いないから、今渡した」

「もしかして覚えててくれたの?」

「そりゃ、まぁ」

「え~、そっかぁ~。嬉しいなぁ。何が入ってるの?」

「内緒。恥ずかしいから家に帰ったら開けて」

「仕方ないなぁ。でも、すっごい嬉しい。ありがとう!」

 

 彼女は嬉しそうな笑顔を私に向けてくる。雪のチラつき始めた冬の宇治で、そこだけまるで夏になったかのような眩しさが私の瞳を照らした。喜んでくれたなら、妹に頼って色々悩んだ甲斐があったと思う。その笑顔を、私は好きになったのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 シャンデリアの光が眩しく輝いている。老若男女の集う明るい世界の中で、私は非常に疲れていた。場所は日本から遠く海を越えた欧州。音楽の都と謳われるオーストリアの首都・ウィーン。そこで行われるソロコンテストが私のよく参加している大会だった。

 

 コンテスト自体は色々なところで開催されているし、何もここでなくても良い。それこそ、今吹奏楽部で取り組もうとしているソロコンでも良いわけだ。私がここを選んでいるのは、単純に欧州音楽界での権威性が高いことと、歴史が古いこと。この二つが中心である。楽器はオーケストラに使用されているモノなら何でも構わない。楽器ごとに部門があり、私は当然金管のトランペット部門だった。

 

 オリンピックでは無いので、ここで優勝しても厳密な世界一とは言えない。けれど、俗にそう言う風に言われているので、私はよくその名称を使っていた。なんとなく通りがいいし、インパクトもあるので自分を宣伝するときには非常に効果を発揮しているのだ。その大会の終了後行われている晩餐会的なものがある。優勝者が参加しない訳にもいかず、他の優秀な奏者や音楽業界の人と会えるので仕方なく参加しているのである。そうでもなければさっさと日本に帰っていた。

 

「ではまた、是非ともよろしくお願いします」

「こちらこそ、またお願いします」

 

 イタリアの楽器会社の人に頭を下げる。自社発売のトランペットの宣伝を書いて欲しいという依頼を受けていた。もう何度目かも分からない挨拶に、少し辟易していた。そこに一人の日本人と思しき男性が近付いてくる。その顔を、私はよく知っていた。

 

「こうしてお会いするのは初めてですな」

「えぇ。お初にお目にかかります」

「娘がお世話になっております。高坂麗奈の父です」

「よく存じておりますとも」

 

 高坂さんには、ここでなら会えると伝えるように言った。彼はアメリカを中心に仕事をしている。まさか欧州までやって来るとは思わなかった。旧大陸には縁が無いとばかり思っていたので、彼が持っている横の繋がりの多さに少し驚く。

 

「お時間、よろしいかな」

「構いませんよ」

 

 私は部屋の隅に移動する。華やかな光の中、世界から訪れた高名な奏者や音楽会社の人間、指揮者や楽団員などが話に興じている。こういう場で浮くことなく過ごせるのは、私が自分の家に感謝している数少ない要素だった。その華やかさの裏には当然、輝かしくないモノも沢山存在している。東洋人の優勝者は毎年ほとんどいない。参加していないわけでは無いので、単純に評価されにくいのだ。

 

 嫉妬、羨望、収賄、その他もろもろ。綺麗な部分だけで構成されている場所では、到底ないだろう。だからと言って、決してここにいる人間の音楽家としての腕が劣るわけじゃない。彼らを糾弾するほど清廉潔白でもないし、順応できるほど毒されてもいないつもりだった。とは言え或いは、コンテストに迎合している時点で私も同じ穴の狢なのかもしれない。

 

「本日はおめでとうございます」

「ありがとうございます」

「春先に娘が大変なご無礼を働いたようで。桜地さんには非常に申し訳なく思っております。北宇治高校にいるという話をしてしまったモノですから、まさかと思いましたが」

「無礼とは思っておりませんのでご安心ください。些か面食らいはしましたが、それでもその熱意は本物でしたので。むしろ、自分が上達するのに有効な手段をためらうことなく行使できるのは、一つの才能であるという風に思っております」

「それはありがたい。自慢の娘ではありますが、お手を煩わせてしまったのではないかと心配でした」

 

 実際、最初は断ろうと思うくらいには迷惑でもあったのだけれど、あの情熱の炎は本物だった。だからこそ、今もこうして教えている。あの情熱を燃やすきっかけを、トランペットを彼女に与えたのは間違いなく目の前にいるこの男性だった。彼への憧れがきっと、彼女の最初に存在していたものだろう。父親のように。そういう意思がこれっぽっちも無いとは、どうしても思えない。

 

 逆に言えば、今の彼女の問題点も彼の教育によって幾分かは形成されていると言っても過言ではないだろう。勿論、彼の妻、つまりは高坂さんの母親の影響だってあるだろうけれど、音楽家という観点では間違いなく父親から影響を受けているのだ。

 

「高坂さんは……失敬、どちらも高坂さんでした。麗奈さんは非常に優秀な奏者として北宇治高校吹奏楽部に貢献してくれています。今はアンサンブルコンテストとソロコンテストの出場を目指している最中ですが、どちらでも真剣に取り組んでおり、私としても非常に期待している部員の一人です」

「そうですか、それは何より」

「全国大会はご覧に?」

「残念ながら仕事で行けませんでした。妻が映像を買っていたのでそれで聴きましたが」

「そうですか。来年度は是非ともいらっしゃってください。きっと、より磨きがかかった演奏を、部活全体として披露してくれることでしょう。勿論、麗奈さんも。私は吹奏楽部内の人間関係しか存じ上げませんが、友人やライバルにも恵まれて非常に充実していると考えます」

「ライバルですか。同じ楽器で?」

「えぇ」

 

 その質問に肯定しつつも、一瞬だけ意図を捉え損ねた。しかし、すぐに彼の質問の底に込められた感情に気付く。

 

「実力伯仲している相手だけが、ライバルではありませんから」

 

 私の言葉に、彼は納得したのかしてないのかよく分からない表情をする。質問に存在していた意図は、同じ楽器、つまりはトランペットの中にライバルになり得るような演奏の子がいたのかな? というモノであろう。確かに、トランペットパートの中で一番上手いのは、三年生を戻したとしても彼女だろう。だとしても、ライバルにもなり得ない、歯牙にもかけなくて良いと言えるほど実力が離れているわけでもない。

 

 優子も、吉沢さんも、滝野や加部だって追い上げている。うかうかしていたら、高坂さんとてその頂点を失ってしまうだろう。勿論彼女は努力をしているので、そうそうそんな事にはならないと思うけれど。少なくとも、彼女にだってライバルは存在しているのだ。何より吉沢さんや他のメンバーだって私が教えている相手だ。喧嘩売ってんのかこの野郎と思うが、あまり顔に悪気は見られない。恐らく、何か問題があるとも思っていないのではないか。そんな風に思えた。

 

「仲間でライバルという存在に恵まれていますから、切磋琢磨して共に高め合ってくれることでしょう」

「それは確かに、喜ばしいことです。娘は家であまり友人の話などしないものですから。思春期なのかもしれませんが、ずっと長いことそうなので。親としては嬉しい話です」

「おや、そうなのですか?」

「小学校や中学校の面談などは妻にまかせっきりでしたが、いずれももうちょっと友達と積極的に交流した方が良い、と言われていたようで」

「大人びていたのですね。同級生と話が合わなかったのかもしれません」

「さぁ、それは何とも」

「そういう様子でしたら、特段問題なども起こさず、あまり喧嘩などもしなかったのではありませんか。或いは喧嘩にならなかっただけかもしれませんが。今でも優等生ではありますので、そこまで変わっていないのかもしれません」

「ほとんど聞いたことがありませんね。あ、いや、昔一回どこかで……。何だったかな、何か羨ましいと言われたとかどうとか。珍しかったので少しばかり記憶しています。まぁ、さしたるものじゃありませんよ。大体そう言うのは僻みですから」

「僻み」

「えぇ!」

 

 彼は特段気負うことなく平然と言った。その顔には全くもって屈託など無い。自然な顔。自分の娘に原因の一割も存在していないと考えている、信じ切っている顔だった。

 

「娘の将来のために、やりたいことのために全力で応援するのが親の務めです。ですがどうも、それを僻む存在もいるようで。私が真っ当に仕事をして稼いだ資金をどう使おうと私の自由だというのに、腹立たしい話です。逆に、親が子供の進路を妨害するなど、親とは言えません」

「……」

 

 親とは言えない、か。内心でそう呟く。思い出すのは、田中先輩の母親の顔。あの人のやっていたことは、確かに真っ当な事とは言えない。褒められた方法とも言えない。その根底にあった感情も決して認められたものではないだろう。けれど、先輩への愛情は存在していたはずだ。親と呼べないほどなのだろうか。その答えはきっと、子供である田中先輩にしか出せないのだろうけれど、そこまで言うことも無いだろうと思ってしまった私がいるのも事実だった。

 

「子供に不便をさせず、未来への道を歩むために必要な事をするのは当然の話ですとも。だからこそピアノやバイオリンやトランペットの教室に通わせました。麗奈がそれを望みましたからね。当たり前の話です。今の娘の実力は娘自身の努力の結果だというのに、昨今では何でしたっけ、親ガチャだとか何とか。嘆かわしい話です」

「……そうでしょうかね」

「おやこれは異な反応ですね。桜地さんこそ、賛同して頂けると思いましたが」

 

 確かに、私に彼の言を否定することはできない。言っていること自体はさして間違ってないからだ。子供のやりたいことを応援するのは理想的な在り方だ。私だってもし将来的に親になるなら、そうありたいと思っている。私もそうして今のキャリアを築くことが出来たわけだし、否定することはできない。私と高坂さんは、ある意味同じ道を歩いていた。

 

 音楽的な才能或いは実績のある親の元に生まれ、幸運な事に親の資金力があり、その中で努力したからこそ、今の実力を手に入れている。ただ私たちの間に違いがあるとすれば、それはそれに自覚的であるかどうかだろう。確かに彼女が努力しなければ、いかに恵まれた環境であろうとも活かすことは出来なかっただろう。それは認めている。彼女は頑張っている。では、だから正しいのかと問われれば、それは当然すぐに肯定できないだろう。

 

「努力して手に入れたモノは全て本人のモノではありませんか。桜地さんとて、お生まれになった家は名門財閥の総本家。だとしても努力なさったからこそ、今日の結果を手に入れている。六連続の優勝という前代未聞の快挙を」 

「スタートラインが例え、親の力によって他より有利なところから始まっていたとしても?」

「当然です。実力とはそういうものではありませんか。少なくともアメリカではそうですし、音楽界とてそうではないですか。カネもコネも実家も、全て実力。よーいドンというわけにはいきませんとも」

「まぁ、それはそうですが」

 

 それは正しい。彼の言っていることは一貫しているし、正しい。けれど、それはいついかなる時でも正しいのだろうか。この場では正論だ。プロフェッショナルにスタートラインがとか、そういう泣き言は許されない。出来ない方が悪いし、努力不足で片付けられてもどうしようもないだろう。プロには時間がある。何年もかければ、或いは追いつけることもある。

 

 だが部活ではどうだろうか。たった三年間。その時間で、与えられた差を覆すのは難しい。履いている下駄の分、履いてない方は当然不利だ。そして三年間は差を埋めるにはあまりにも短い。それに、スタートラインの差を泣き言で片付けて良いのだろうか。常なる手段で上には行けない。狂気の世界に片足を突っ込まない限り、全国金は難しいだろう。

 

 だとしても、何か大事な物を捨ててまで得る部活動での金に、果たして意味はあるのだろうか。その金は、純粋な黄金色なのだろうか。むしろ、そうして手に入れた金賞は、私には歪んで見えた。犠牲。それを私はかつて看過しようとした。けれどそれは先生によって止められた。現実に生きないといけないのが今いる会場のような世界なら、理想に生きられるのが学校の中の世界なのかもしれない。何かを取りこぼしたくないという優子の理想を、作れる場所なのかもしれない。

 

 とは言え、この人にこれを言っても無意味である。

 

「何にせよ、麗奈さんの事はお任せください。一流の奏者に育ててみせますよ。演奏面でも、それ以外でも。なにせ、先生と呼ばれてしまいましたからね。これは、演奏だけ見て終わりという訳にはいきませんから」 

「昇君といい、良い指導者に恵まれて娘も幸せでしょう。よろしくお願いします」

 

 軽く頭を下げる彼を頷きで返す。こっちは娘に頼まれて時間を割いて教えている。こういう態度くらいはしてもいいだろう。キャリアの長さがどうだろうと、高坂さんを預かっているのは事実。しかもお願いされたうえでそうしているのだ。高坂さん本人に恩を売るつもりも無いし、それで偉そうにするつもりもないけれど、親相手なら少しくらい恩を売ってもいいだろう。もとより、同じ奏者としては対等な間柄なのだから。

 

「ではまたどこかで」

「えぇ。お会いできるのを楽しみにしております」

 

 社交辞令で見送った後、その姿が見えなくなった後に大きなため息を吐きだす。高坂さんには悪いけれど、私はあの人のこと少し苦手だ。そして高坂さんの態度や信条の根底に存在しているのが彼であることも今理解することが出来た。

 

 このまま高坂さんを放置して、技術だけを鍛える事は出来ない。ましてやそんな状態で後任にするなどもってのほかだ。私は今、この瞬間に決めた。彼女を私の後任に出来るようにする。奏者としてだけではなくて、広い視野を持って様々なアプローチで物事に対処できるようになってもらう。それこそがきっと、将来の役に立つはずだと信じているから。

 

 スタートラインは変えられない。けれど、それを知っているか知らないままかで大きく変わるだろう。さもなくば、彼女の行いは金持ちのパワハラになってしまいかねない。そんな存在に彼女をしてしまうのは、先生と呼ばれている身としては看過できなかった。

 

 高坂さんの育成、希美との約束、優子の理想の実現。やるべきことは多い。けれどこれくらいでちょうどいいのかもしれない。それに少なくとも、今年やるべきだったことよりも多少はポジティブな感情を持って取り組めるような気がする。

 

 とりあえず方針は決まった。彼女を私の後任にする。そのために、来年は私の立場から人事権と曲決定権を排除してオーディション参加権を復活し、部長副部長の下部に位置させ上下関係を明確化、パートリーダーのまとめ役程度にしてパートリーダーとも対等に話せるようにする。その上で、同じパートのパートリーダーに高坂さんのストッパーになりうる存在である吉沢さんを据える。そうすれば、暴走も防げるはずだ。

 

 同学年で高坂さんを止められるのは近しい黄前さんか、実力伯仲の川島さんか、ライバルたる吉沢さんしかいないと私は踏んでいる。けれど黄前さんは近すぎるかもしれない。再オーディションの時に味方でいてくれたのは助かったけれど、きっと黄前さんは高坂さんの鮮烈さに焼かれている。川島さんはそもそも争いごとを好まないだろう。だとすれば、頼めるのは吉沢さんしかいなかった。

 

 今年の最初、私は吉沢さんに高坂さんとコミュニケーションを取るように言った。それはもう達成されている。だから次のステップなのだ。次は高坂さんが間違った時には間違っていると言えるように。もしかしたら、それで一度は傷ついてしまうかもしれない。けれど今は思う。傷ついてでも、前に進んだ方が良いと。そう思えるようになったのは、希美のおかげかもしれない。

 

「感謝しないとな」

「誰に?」

 

 唐突に後ろから話しかけられて一瞬心臓が止まった。慌てて振り返るとそこには見知った顔。

 

「何だお前か」

「何だとはご挨拶だな」

「悪い。顔見せるのが遅れた。サックスは昨日だったろ。行けなくてすまん」

「ま、前日は自分の練習するのが当然だからな」

 

 サックス奏者。今回のコンテストでは準優勝だった彼の名はディートヘルム・シュミット。私の一番古い友人の一人。留学して右も左もよく分からない私に、彼は親切にしてくれていた。日本のアニメ作品が好きだったらしく、日本人だったから声をかけたというのは後で聞いた話。とは言え、彼が声をかけてくれたおかげで大分過ごしやすかったのを覚えている。

 

 茶色い髪の気さくな青年だ。もうすぐ三十代だけれど、その感じはあんまりない。まだまだ若々しさに溢れていた。

 

「お前さんの嫁は?」

「風邪で寝込んでる」

「おぅ……それはお大事に。お嬢は昔から肝心な時にツキが無いな」

「それを言ったらおしまいだ。残念がってたぜ、お前に会えないの」

「そりゃどうも。よろしく言っといてくれ」

 

 私の仲間の間で一番資金力があったのは彼の妻。元ドイツ帝国貴族の娘だとかなんとか言っていた。その資金力には大変お世話になったのを覚えている。本来日本からヨーロッパまで来る飛行機代も馬鹿にならないのだけれど、何とかなっているのは彼女の助けも大きい。彼はいわゆる入り婿だった。

 

「久々に会って思ったけど、やっぱ明るい顔になってんな」

「そうか?」

「この世の終わりみたいな顔してた去年よりは、ずっとマシだ。今年の演奏は随分華があったしな。何か良いことでもあったのか?」

「そういう意味では、そうかもしれない」

「あれか、北宇治高校ってところか?」

「まぁ、そうとも言える」

「ちょっと興味が湧いてきた。お前を立ち直らせた場所がどんななのかな」

「今度日本に来た時にでも見に来ればいい。良い演奏を聴かせられるはずだ」

「そりゃ楽しみにしておく」

 

 昔とまるで変わらないように、もしかしたら敢えてそうしているのかもしれないけれど、彼はそう振舞ってくれていた。

 

「上昇志向のお前が、キャリア捨ててでも選んだ場所なんだ。それだけの価値があるんだろう。ただ……俺としてはまたお前とやりたい。もうじきトランペットの枠が一つ空くって話だ。もしそうなったら、そこのオーディション、受けてみないか。前に俺のところから勧誘受けてただろ」

「ベルリンフィルか……」

「詳しい話は分かり次第また伝えるから。考えてみてくれ」

「分かった。ただし、来年いっぱいは無理だ。部活の指導がある」

「それは、今後の人生より大事か?」

「まぁそれを言われると弱いが……惚れた子と約束しちまった。絶対全国大会に連れていくってな」

「そうか。なら仕方ねぇな。男なら、約束守らんと。それがサムライだろ?」

「ちょっと違うような気もするが……大体そういうことだ」

 

 ニッと笑いながら、彼は私の背中をバシバシと叩いてくる。

 

「で、どんな子なんだよ」

「……他に言うなよ」

「言わない言わない」

 

 私は携帯を取り出して、写真フォルダから見せても良さそうな写真を選ぶ。この前やっとお金が入ったので携帯を買い替えた。かれこれ四年くらいだましだまし使っていたので、やっと機種変更出来たのでその記念にと撮った写真があったので、それを見せる。

 

「このポニテの子」

「結構カワイイ子だな」

「綺麗と言ってくれ」

「ほ~ん、マジで惚れてんだなぁ。じゃなきゃ綺麗なんて言わないだろ」

「うるさい。フルート吹いてる子なんだ。もしかしたら、お嬢にも助けて貰うことになるかもしれない」

「任せとけ。お前の頼みを断ったりしねぇよ。俺もアイツも」

「助かる」

 

 私が知る限り一番上手いフルート奏者が彼の妻だ。なら、もし彼女が今よりももっともっと上手くなりたいと思ったなら、指導を頼むしかない。私では限界があるのも事実だ。使えるものは何でも使っていく必要がある。そしてフルートのエースたる彼女が実力を向上させることは、部にとってもプラスになる事なのだ。

 

「今度会わせてくれ」

「嫌だ」

「なんでだよ!」

「まだ告ってないから!」

「じゃあ早くすればいいだろ」

「そういう訳にもいかないんだよ、色々と」

 

 そして、私たちの笑い声が響く。久々に会った友人との時間は、先ほどまでのどこか憂鬱な時間を遠くに置き去っていた。遠い東の彼方では、もう12月4日になっているのだろう。ハッピーバースデー、と私は酒を飲んでいる彼の横で呟く。ウィーンの空には雪が舞っている。京都の空もそうだと良いのに。そうすれば、同じ景色を見られる。そんな感傷的な事を思いながら、会場の窓の外を見上げた。

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