フルートパートを後にして、私の古巣に戻るときに私が抱いた感情は決して愉快なものではない。それは他のパートに持っている苛立ちであったりではなく、どちらかと言えば後悔の念だった。もっと言えば、気まずさであるかもしれない。かつての同期に顔を合わせることを避けてきた身からすればいきなりの邂逅は少々やりづらいものがあった。
コンコンと扉を叩き、そして開く。その先から向けられる視線に込められた感情はそれぞれ様々だ。決して悪感情ではないことだけが救いであったのかもしれない。
「こんにちは」
取り敢えず、礼儀正しく。ここはなるべく私の味方にしておきたい場所だ。
「私は一応ここの所属ということになります。どうぞ、よろしくお願いします」
頭を下げて、挨拶する。戸惑ったような感情と歓迎する感情が入り混じった拍手が行われた。トランペットパートのパートリーダーは中世古先輩。同輩・後輩に人望厚い存在だ。通称吹奏楽部のマドンナ。その名に恥じない人間性を持っている。かくいう私も昨年は大分お世話になったことを覚えている。
正直、厄ネタでしかない私という存在をこうして受けれいる方向性にまとまっているのは、先輩がそういう方向性にまとめてくれたことが大きいと推察している。吉川が反対しなかったこともあるだろうが、そうであっても先輩の力は計り知れない。
「また、よろしくね」
「ありがとうございます」
優しく微笑みかけてくれる先輩に、再度頭を下げる。このパートの人数は私を除くと全部で7人。三年生は今の中世古先輩と笠野先輩。どちらも穏健派で知られる三年生で、こちらの動きにも協力的だ。無論、その背景にはサンフェスに出たいという思いがあるのだろうけれど、それでも真面目に活動すること自体には反対ではない。
二年生はこの前に説得した吉川と残り二人。数少ない男子である滝野と昨年までは初心者だった加部がその二名だ。滝野は決して凄く真面目という訳ではないが、中世古先輩の方針には従う姿勢を見せている。彼は先輩に対し憧れを抱いているのだからしてある意味では当然かもしれない。加部はどっちでも構わないという姿勢だ。
一年生は私に師事を願った高坂さんと、この前面談した吉沢さん。二人とも中々面白い生徒ではあるが、何とかうまくやって欲しい。三年生も二人だが、そこは上手くコミュニケーションを取れている。一年生にも将来的にそうなって欲しいのだが、高坂さんがハリネズミみたいになっているので時間がかかりそうだ。
吉川に釘を刺されていたため、部長副部長と話した後に少しばかり挨拶をしている。そんなことをしなくても怒ったりはしない相手であるが、それでも筋を通す必要があるというのは事実である。些細なことをおろそかにして、自分に不利になるようなことは愚かしい。
「では、早速いきましょう。先日先生に課題は提示されているはずですので、私はその進捗状況の確認に来ました」
このパートはかなりまともに運営されていた。練習時間が少ないのが問題なだけで、練習自体はしている。トランプしたりお菓子を貪っている他のパートとは違うのだ。それは決して小さくない違いを生んでいる。少なくとも、暗譜してない人はいないし楽譜を追えない人もいない。
一人一人ならばある程度のばらつきはあれど吹くことはできるはずと思う。だがそれではいけない。合奏をする以上、自分のペースで好き勝手にアレンジするわけにはいかないのだ。ゆえにこのパートの課題は合わせたときに存在する。
「このパートは恐らく、合奏時の演奏に多少の問題があるように思います。今年の一年生は全員経験者なので、実力に多少の差はあれどいきなり合わせるのでも大丈夫だと考えています。どうでしょうか?」
異論が挟まれることはない。当然、と言わんばかりの高坂さんは自信を滲ませているし、吉沢さんも特に問題なさそうだ。
「では行きます。3、4」
私が手を振れば、音が奏でられる。音は奏でられたが、決して良いと言えるようなものではない。何がダメ、というより単純に練度が低い。音は出ている以上、恐らく他人の音を聞いて合わせるという練習をしていない。合奏練習をしている間に培われていく能力ではあるのだが、そもそもここにいるメンバーは去年までの間にほとんど演奏会などをする機会が無かった。
個人練習で出来ていたけれど、いざ合わせてみると出来ないというのはよくある話だ。その原因は色々あり、単純に出来ているつもりになっていただけの可能性もある。しかしながらそうでない場合もある。そのケースでは、リズムが捉えられていないことが多い。
このパートの場合、出来ている人もいる。特に顕著なのはやはり高坂さん。彼女はこのレベルの曲では問題ない。海兵隊如きでは手間取らないだろう。逆に手間取っている他のパートに問題があるとすら言えるかもしれない。次点で中世古先輩や吉川は出来ている方だ。完璧かと言われれば、指摘したい部分もあるけれど今は目を瞑れるレベル。他の部員も一通りは何とかなっている。やるべきなのはより技術を向上させること。
「ありがとうございました。このパートの問題点は基本的にはっきりしています。練習時間が少ないこと。これに尽きるでしょう」
実際問題、これが一番の課題だった。吉川の技術が下降したのも、中世古先輩が伸び悩んでいるのもここに尽きる。
「闇雲に時間だけ増やせばいいというモノでもないですが、そもそもやってないならどうしようもありません。勉強と一緒です。最大効率を最短時間で。これが一番の理想形ではないかと。高坂さん」
「はい」
「今の練習時間は、これまでと比べてどうでしたか」
「北中の半分以下です」
断固としてしっかりと答えられたその言葉は、教室の空気をやや沈下させた。吉川はムスッとした目を高坂さんに向ける。事実を言っている以上、彼女が責められるべきではないのは明白だが、そういう問題じゃないのも事実。吉川はくだらない虐めなんぞはしないという信頼があるが、他の部員がどう思うか。特に高坂さんはもし仮に良くない視線に晒されるとしてもほとんど意に介さないで行動してしまうだろう。これは望むべき状態ではない。
「吉川、南中と比べると?」
「……半分も、ない」
「でしょう? このパートは、と言うか他のパートもそうだけれども圧倒的に練習量が足りない。練習しないで上手くなれるなら、苦労はしません」
彼女だって分かっているのだ。自分の練習量が足りない事は。ただずけずけという高坂さんに対して思う所があるだけ。だからその矛先を私に逸らせばいい。現に、自分の抱いた高坂さんへの悪感情が正しくないものであると認識した彼女は、高坂さんへ向けていた好意的ではない視線を取り下げた。
「ただし、良いところもあります。個々の技量は想像よりもずっと良い。他のパートに比べれば基本が出来ています」
これは事実だった。実際、譜面をどうこうと言っている先ほどのフルートパートに比べれば随分と楽であるのは変わりない。そして、私の中でこのパートにおける一番の懸念点は実は吉沢さんではない。去年まで初心者だった加部の方である。正直、そこまで出来ていないことを想定していたが、決して凄い上手ではないけれど中堅くらいまでには仕上がっている。これが私にとっては嬉しい誤算だった。
「今の演奏では、タイミングのズレが問題でした。と言うことで、これは何回もやるしかありません。取り敢えず10回連続でタイミングが揃うまで繰り返すことにします。とは言え、このパートの様子だとそこまで時間はかからないでしょう。では、やります。用意は良いですか? それでは、3、4」
私の想定通り、そこまで時間はかからなかった。何回かすれば、綺麗なタイミングで演奏を開始させられるようになっている。メトロノームも同時に起動させていたとはいえ、リズムを捕まえることは出来たようだ。これならば、後は中世古先輩に投げても上手くまとめてくれるだろう。
「はい。では、私からは取り敢えずここまで。後は個々人の課題に移りましょう。誰しも、どんな場所であっても完璧ではないのは当然。仮に現在の曲が出来るならば、より難しいものへ。そうして個々のレベルを上げて、全体の底上げに繋げていきたいというのが私の思惑です。ここのパートは実力のある人が多い。部内の中心となってくれると、期待している部分が大きくあります。それでは引き継ぎますので中世古先輩、後はお願いします。合奏を中心に、余裕があれば他のパートをCDか何かで流しつつ。問題なさそうならば、個人練習に移ってください。最後にもう一度合わせて、今日はおしまいにしましょう」
先輩は軽く頷く。彼女は任せておけば大丈夫な人だ。そういう信頼が私の中に存在している。
「何かあれば、私までまた。それと、高坂さんは練習後来てください」
「分かりました」
少しだけ声音を高く、高坂さんは返事をする。個々人への課題設定も成している。既にその確認は練習中に終えた。中世古先輩や笠野先輩のような出来ている勢にはある程度厳しめの物を。まだまだな加部などにはそれなりの課題を出しておく。トップを突っ走っている高坂さんには最早全然海兵隊と関係ない課題も追加で出していた。彼女は今の状況にフラストレーションが溜まっているだろうから、余計なことを考えなくても良いようにとの配慮のつもりである。
一礼して教室を出た。どっと疲れが湧いてくる。やはり向いていない。人前で話すのは得意な方ではあるけれど、先輩相手は気を遣う。他の先輩ならばほとんど気を遣わないでどうにでも出来るのだが、このパートの先輩にはお世話になった。私という異端児を受け入れてくれただけでも感謝しないといけない。少なくとも、三年生がどうしようもなかった去年においては、あの二人が清涼剤であったのは間違いないのだ。
私はこの先の展開もある程度予想している。もし仮に全国に出るならば、去年までのように年功序列で大会に出すわけにはいかない。一年の有望株はそこまで多くなく、二年生も少ない現状なら恐らく大半の三年生はそのまま出れるだろうけれども、ソロやソリはそう言うわけにはいかない。この部で恐らく、最大級の戦力が高坂さんだ。並ぶのは田中先輩と今年の川島さん、後はみぞれくらいだろう。そうなれば恐らく、先生はトランペットも目立つ曲を選ぶ。ソロないしはソリがある可能性は高い。
そうなれば……。ため息が零れ落ちる。嫌な未来予想図は私の前に煌々と点滅しているけれど、取り敢えずは見ないことにした。現状、そんなことに悩める状態ではないのだから。
少しずつ遅くなっていく夕暮れの中、職員室で私は報告を行う。
「先生」
「あぁ、桜地君。お疲れ様です」
「はい。取り敢えずトランペットは行けそうです。一番問題がないでしょう。次点で低音とダブルリード。他はまだまだですね。三年生が従順なので、ある程度はどうにかなっています」
「私としても、随分と助かっています。やはり、組織において一番年長の存在が動かないと下も動けません。三年生が練習に非協力的な状態では、どうしても指揮が下がるというモノです」
「それは仰る通り。とは言え、薄氷上の平和に過ぎません。結果を出さなくては、ダムは決壊するでしょう。そこで、私に一つやりたいことがあります」
「何でしょうか」
「明日、一時間ほど下さい。先生に見せる前に何回か合わせてみないことにはどうしようもないと思いますので」
合奏練習をしないまま先生に挑むのは自殺行為であると考えている。他のパートの音を、実際に演奏しながら聞くという行為は確実にスキルアップに繋がる。パート単体や個人練習では味わえない感覚を実感することができる以上、やるべきであると私は考えていた。
「それは特に構いません。では、その間私は他の仕事を……」
「いえ、先生は初心者の子たちを見てあげてください。課題はこれに」
先生に初心者組に渡した課題の一覧をまとめた紙を手渡す。初心者は数が少ないが、貴重な戦力には違いない。しっかり育てていく必要がある。
「敢えて初心者の生徒を外す意味はあるのでしょうか。合奏練習に、例え吹かないまでも参加するのは価値があると思いますが」
「私もそれは否定しません。ただ、今回の場合においては、初心者の子はいない方が良い」
「と、言いますと?」
「先生は、思春期とは何で構成されていると思いますか?」
まったく関係の無さそうな私の問いかけに、先生は少しばかり悩む。別に答えを求めているわけじゃない。厄介な仕事を引き受けている代わりの、ちょっとの意趣返しだ。これくらいはしてもいいだろう。
「私は自尊心と自意識だと思っています。ですから、それを突きます。自発性を上げて、目的意識を持つために。サンフェスという実利的な利益だけでは人間は十全に動けない。ナポレオンが名誉を軍隊に与えたように、感情的な利益へ誘導する必要があります」
先生は驚いたような顔で、私を見た。その眼鏡の奥にある表情は、生徒に向けるものとは少し違うように思えた。
「何と言いますか、こんなことを言ってはいけないのは分かっていますが……。桜地君を相手にしていると、生徒ではない存在と話しているような気分になります。無論、悪い意味ではありませんが」
「そうですか? 私も生徒ですよ。一般の高校生ですとも。少なくとも、
最後の部分は少しだけ含みを持たせて言うことにした。普段の私、授業や昼休みの自分は一高校生に過ぎない。場所と与えられた役職が、私を普通から遠ざけている。
「それはともかく、問題ないでしょうか?」
「……分かりました。そちらはお任せします。恐らく、私よりあなたの方が人間感情の機微については理解しているようですから」
「まだまだですよ。初心者の子たちをよろしくお願いいたしますね。まだ若い芽です。摘み取らないように育ててくださいね」
言外にいつもの調子でやるんじゃねぇぞと言う思いを込めて、私は先生に一礼した。
「はぁぁ……」
ドンドン疲労だけが溜まっていく。どこか温泉にでも行きたい気分だ。自販機の前で、ぼんやりと光る飲み物を眺める。普段はなるべく節約しているけれど、たまには飲んでも良いだろうと思った。それくらいには疲れているという意味かも知れない。
「随分ジジくさい声ね」
見知った声が私の背後から響く。たなびく髪よりも目を引くデカいリボン。吉川優子その人である。
「なんだ、吉川か」
「なんだって何よ、なんだって」
「練習終わりか?」
「休憩よ休憩。誰かさんが言うからまだ練習中」
「そうか」
言葉の文面は剣呑だが、声はそこまででもない。
「買わないの?」
「あー、忘れてた」
「じゃ、どいて」
「はいはい」
私が退くと、彼女は自販機を一瞥して硬貨を投入し始めた。その即断即決は見習うべきかもしれない。
「はい」
「なに? くれるの?」
「そうだけど」
「それは……ありがとう」
あまりおいしくないと評判のトマトジュースだった。そんなマズいと分かっているものにわざわざ挑戦するような酔狂なことはしないので、初めて飲む。蓋を開けて流し込めば、評判通りあまり美味しくない。くれるというのなら、もっと色々あるのにと思うが、彼女なりの小さな抵抗なのかもしれない。
「わざと買っただろ」
「あらぁ、気付かなかった。それ、一番不人気じゃない」
「わざとらしい」
こんな会話をするのは、久しぶりかもしれない。三年の中頃からの転校生ではあったが、同じ中学同士それなりに交流もあった。去年の部活では、特に。私は三年には疎まれていたし、二年生や一年生同士でもそれなりにどう触れていいのか分からない存在だった。それは自覚している。その空気を堂々と突き破った彼女には、感謝している部分だって存在するのだ。だからこそ、この前の至極つまらない演奏には思う所もあったわけだが。
「調、お冠よ」
「だろうな」
「りえも」
「想定内」
「海松も文句言ってた」
「案の定だな」
「パーカスは……」
「そこも?」
「美代子は特に」
「それは助かる」
吉川は自分の分を買うと、そのまま飲み始めた。誰も来ない自販機。どんどんと校舎の影に色んなものが呑み込まれていく中で、自販機の無機質な光がランプのようになっていた。その影の隅で、私たちは奇妙な距離感のまま話を続ける。
「あんた、分かってたでしょ? これが貧乏くじだって」
「まぁ、そうだな」
「なんでこんなの引き受けたのよ。断ればよかったのに。普通に無理筋言ってるのは先生なんだし」
「それは……分かってる」
どうして引き受けたのか。その明確な回答は一つには絞れないし、きっとそれはこれからもそうなのだろう。
「目に、熱い光を灯した奴がいてな。それにほだされたって言うのもあるかもしれない」
「それって高坂?」
「そうでもあるし、そうでないとも言える」
わけ分かんないんですけど……と彼女は呟く。私も分からない。高坂さんであるのは事実だ。ただ、彼女の瞳の奥に見たのは、かつての自分だったのかもしれない。
「それに……」
「それに?」
「赦されたかったのかもしれない」
「……そっか」
それで十分だろうと思った。結果として、言葉はこれで十分だった。何を赦して欲しいのか、誰に赦して欲しいのか。それは言わなくても彼女なら分かるのだ。
「私の話はまぁどうでもいい。それより、加部だが」
「友恵?」
「そう。随分と上手くなってるな」
「そりゃそうでしょ。あんたがやれって言ったこと、ずっとやってたんだから」
私は思わず視線を彼女に向けた。今まで下を向けていた瞳で、彼女を見る。その表情は少し陰になっているけれど、決して嘘を言っているようには見えない。それに、彼女はつまらない嘘など言わない。
「……まさか、ずっと?」
「勿論、他の曲やらないといけない時はそっち優先。けど、それ以外はずっと基礎練習だけやってた」
「そうか、だから……」
教えたところが出来ているのも納得だった。彼女がまだ右も左も分からない初心者だった頃、彼女にトランペットを教えていたのは私だった。最初は三年がやっていたが、あまりにも頓珍漢なことを言っているのに我慢ならず、色々理由を付けて教育係を交代したのだ。どうせ暇だったというのもあるが。
トランペットは花形だ。だから最初の楽器決めの際、いつも人気になる。経験者でない場合は、マウスピースの音を出せた人が合格となる。彼女はその枠だった。決して才能に溢れているという訳ではないけれど、しっかり旋律を出せた時は楽しそうにしていた。彼女に教えるというのも私が吹部に来る目的だったし、そして大体教えられたと思ったから辞めた。
「貰ったものだし、他にすることも無いしって言ってたわよ。あんたが辞めた後も。あの性悪たちにやめろって言われたけど、珍しく抵抗して……まぁ香織先輩が間に入ってくれてどうにかなったけど」
「知らなかったな」
「言ってないし。それで……私、前々から聞きたかったのよね」
吉川は私の方に視線を向ける。
「なんで友恵に教えてたのかって」
「どうしてそんな事を知りたい?」
「別に、凄い知りたいわけじゃない。でも、部内の状況にも、自分への誹謗中傷にも無関心だったのに、あの子に教えるのはしっかりやってたから。その精神構造が知りたかった。そんな好奇心よ」
「なるほど」
部内の状況に興味が無かったのは、いずれいなくなる人を相手にする必要が無いと思っていたから。だからこそクーデターを持ちかける希美に賛同しなかった。けれど相手にする必要もないと思っていたからこそ無視されている彼女に声をかけ続けたし、相談には乗った。誹謗中傷に無関心だったのは、慣れているから。あの程度、そよ風に過ぎない。私自身への悪口など、聞き慣れている。あれでメンタル折れるほど、柔じゃない。
「嫌いになって欲しくなかった、のかもしれない」
「嫌いになる?」
「そう。あんなへっぽこな教え方じゃ、一生上手く吹けるようにはなれない。吹けない楽器なんて、面白くないし、そんなんじゃ音楽はつまらない。だから嫌いになってしまうかもしれない。それは……あまりいい気分じゃなかった。今まで初心者で、楽器に触れたことない相手だったからこそ、楽器や音楽の楽しさを知って欲しかった。教えたのは、あくまでのその過程だ。演奏者として音楽を楽しむには、ある程度基礎ができないといけない」
そんな割とどうでもいい感情だ。希美なんかは、例え吹部でなくても音楽に触れるだろうし、嫌いにはならないだろう。そういう存在だと思っていた。他の南中部員もそうだ。現に、彼女らは今軽音楽部にいる。結局、音楽から、奏者としての音楽は離れられないということだ。希美も市民楽団にいると風の噂で聞いた。私の想像は間違っていなかった。
けれど加部はどうだろうか。勿論、流行りの曲を聞いたりはするかもしれない。音楽の授業もあるだろう。だがここで嫌いになってしまえば、少なくとも奏者として音楽に関わることはない。それはもったいないことであるように思えたし、あんなしょうもない連中のせいで私が人生を賭けている音楽を嫌われるのは納得できなかった。そんな、子供じみた下らないとさえ言えるかもしれない感情。それが私の動機だ。
「ま、あれだ。将来大人になって、会社の人とか子供とかに「私、昔トランペット吹いてたんですよ~」と少しばかりの自慢と共に言えるくらいの上手さになってくれたらいいな、と思ってた。だから教えてたんだよ」
「意外に、色々考えてたのね」
「それなりには。そういう性分なのでね」
「……個人的には、今適当に考えた出まかせなんじゃないかっていう疑いが心の中に三割くらいあるんだけど」
「三割は多くないか? せめて一割くらいにしてくれ」
「日頃の行いよ、日頃の行い」
「ともあれ、納得はしてくれたかな?」
「一応は」
「それは何より」
ゴクリ、と彼女は最後の一滴を飲み干すと、近くにあったゴミ箱の中にペットボトルを放り投げた。投射物は綺麗な放物線を描いて、吸い込まれていく。物理の運動方程式を思い出した。定期テストの勉強もある程度しないといけない。英語をやらなくていい分、他の生徒よりは楽かもしれないけれど。
「それじゃ、戻るから」
「あぁ、頑張れ」
「はいはい。まぁ何と言うか、あんたも……頑張んなさいよね。無理しない程度に」
「あぁ、ありがとう」
フン、と鼻息を鳴らして彼女は校舎に戻っていく。彼女なりの見えにくい優しさなのだろう。私は居場所を探している。居場所がないというのは、組織の中で生きて行く上で致命的だ。私は学年が一番上でもない。先生のように、絶対的に確立された超えられない立場にもいない。孤独のままでいてはいけない。せめて孤高にならなくては。それが私が留学先で学んだことの一つだった。有能な味方は多くて損はない。
果たして、吉川は私を仲間だと思っているだろうか。彼女の性格を思い起こせば、仲間の外にいる人にこんな気遣いはしてくれないだろう。それは彼女が狭量とか不親切なわけでは無くて、向ける親切や優しさの種類が違うという話。なのだとしたら、彼女は私にとって非常にありがたい存在だ。残ったジュースを呑み込む。
「美味しくないな……」
独特のドロリとした食感と奇妙な味が舌を通過して喉の向こうへ消えて行く。味はあまり美味しくないが、彼女の優しさは感じられた。それだけで、今は十分だった。少なくとも、完全な孤独ではないと思えたから。
練習時間も終わり、各部員は各々で帰路に着く。だが学校が閉まるまでにはまだ時間がある。傾いた日差しは地平の彼方だ。電気をつけた室内には私と高坂さんしかいない。密会を疑われそうな状況だが、あいにくとそんな色っぽい話ではない。至極真面目な、そして緊迫した時間である。
「そこ、高音を誤魔化さない」
「はい」
「もう一回」
何度も繰り返し指示を飛ばしていく。彼女には海兵隊とは何の関係もない難しい課題曲を渡している。無論、部活中は部活の課題を最優先にするようにと言っているが、家ではこっちを練習してもらっている。彼女の家には防音室があるようなので、それは我々にとって好都合なことだった。
出来る人を燻らせておくのは損失だし、彼女自身もそれは望んでいない。であるのならば、出来る限り上達に導く必要がある。彼女は上手いが、私に言わせればまだ改善点はごまんとある。それは演奏の技術であり、表現であり、そして人間関係でありだ。また、これは部に戻る前にした彼女との約束の履行でもある。益々しっかりやらないといけない。約束を破る輩と思われるのは業腹だ。
「今のところ、油断しない」
「はい」
「ここが課題だ。もっと勢いよく。唇に全神経を張り巡らせて」
「……はいっ」
彼女の額には汗がにじんでいる。まだ夏には遠いし、室内の気温も窓が開いているのでむしろ少し肌寒いくらいだ。けれどその頬は紅いし、白い肌には汗が張り付いている。集中して取り組んでいるからこそだろう。それに、音楽は結構体力を使う。これまでの練習も相まって、彼女は結構疲れているはずだ。それでもそれを意に介さず練習に励んでいる姿は、青春そのものにも思える。その真っ直ぐさは美徳だ。
「よし……取り敢えず休憩にしよう」
「ありがとうございます」
彼女は水を勢いよく流し込む。彼女を深窓のご令嬢と思っている二年生の男子諸君に見せたら、そのギャップに驚くだろう。人の印象と言うのは勝手に流布する上に当てにならないものだと思わされた。どうやら、彼女は進学クラスにいる深窓のご令嬢で、病弱らしい。大真面目に語る友人に、思わず笑ってしまったのも無理はないだろう。彼女の今の姿は病弱とは程遠い。令嬢というのは音楽家の娘をそう表するのなら事実なのだろう。とはいえ、深窓と言うには些か活発だ。深窓のご令嬢は先輩の教室に初手で殴り込みをかけない。
「高坂さん」
「はい、何でしょうか」
「君に一つ、課題兼頼みごとがある」
「分かりました。何をすればいいですか?」
「やる気があるのは大変結構。では、君には吉沢さんの練習を見てあげて欲しい。彼女にも、君に積極的に質問するように言ってある。吉川や中世古先輩にも話は通してある」
「それは……どういう意図があるのでしょうか」
「他人に教えることで、自分の上達に繋がる。問題点に気付けることもあるし、技巧などを言語化することで自己理解を促進することもできる。それに、来年再来年の戦力を作らないといけない。来年は吉川たちがいるが、再来年の三年生は今年と同じで二人だけだ。もし北宇治が成果を出せば、トランペットパートも人数が増える。その時、最上級学年の君たちが一番の実力者であり、連携してパートをまとめていくのが望ましい。そのためには、今から関係を深めておく必要がある。それが狙いだ」
彼女が本当の意味で北宇治を全国に連れて行きたいならば、己の信条と多少反することでもしないといけない。無論、吉沢さんに教えることが彼女の信条に反するのかどうかは知らないが、ともあれ凄くやりたいことではないというのは表情から察せられた。とは言え、拒否されても困る。
北宇治が全国に行く。そのための課題は多い。そして、今年だけで終わりにしてはいけない。その流れを受け継がせるのには、今から対策をしないといけないのだ。彼女は敏い。私の説明で分かってくれるものであると信じている。
「今年に全力投球するのは大事だけれど、それだけではいけない。視野は広く持たないと。来年、再来年のことも念頭に置いて行動することが大事だ。君が北宇治を、そして先生のことを真に思うならば、やるべきだと私は思っているし、これが君のステップアップに繋がると私は信じている」
「……分かりました」
「ただし、条件が一つ。言い方伝え方には工夫をすること。彼女は見たところ心が広いので、多少適当な接し方でも許してくれるだろう。ただ、それは相手に甘えているに過ぎない。真に”特別”を得るなら、その過程にも拘る必要がある。OK?」
「はい」
悩みながらではあるが、最終的に彼女は返事をした。私はそれを受けて軽く頷く。彼女は有言実行の人だ。思うに、高坂さんはプライドが高いし、自身の能力に自信がある。である以上、出来ないと思われるのは彼女にとって忌避するべき事態のはずだ。特に彼女の言によれば尊敬している私に思われるのは嫌だろう。思春期とは自尊心と自意識によって出来ている。ならば、どちらか或いは両方を刺激すれば人は動きやすくなる。
「よろしく頼んだ」
だからこそ、高坂麗奈という存在は分かりやすい。そして彼女の存在は、この部の前進には必ず欠かせないピースであるはずだ。それは今年だけでなく、来年も再来年も。その時に、肝心の彼女に大きな問題があってはいけない。彼女の持つコミュニケーション能力の低さの改善は今からやる必要がある。
「では、続きをやろう」
彼女の自尊心は動かした。次は、残っている部員たち。彼らのそれを、動かさないといけない。蛍光灯に照らされた教室で、高坂さんは音を奏で続ける。金色のトランペットが、煌々と輝いていた。