「やっぱり、どうにかしないといけないよな……」
ある日の帰り道、彼はそう言った。どこか疲れた様子は、悩みの中にいることがよく伝わって来る。私に問題を華麗に解決する能力は無いけれど、話を聞くくらいは出来るつもりだった。
「凛音はほっといたらダメだと思ってるんでしょ?」
「まぁ、そうなる」
「なら、それに従ったら良いんじゃない? でも今回は高坂さん何も悪いことしてないから、吉沢さんのフォローだけに止めておいた方が良いかもしれない。もうすぐ向こういかないといけないから、大変かもだし、戻ってからでも良いかもしれないけど」
「まぁ後輩の事だし、別にそれくらいは良いんだけどね」
「でも難しいよね。私だってマイ楽器買ってもらったのは多分、他の人より恵まれてると思うし。南中のフルートはマイ楽器持ってないと入れないから、入りたいけど諦めたって人は毎年いるし……」
私もお父さんに頭を下げて買ってもらった。中学生の私にはかなりの大金だったし、実際お父さんもかなり渋っていたのを覚えている。決して貧乏でも無いけど、お金持ちでもない。そういう家だからこそ、十数万円をポイっと出すことは出来なかった。それは今でもよく理解しているし、感謝している。
そして、私はそれでも親に恵まれているということも。買ってもらえないと断念した子を見て、それはよくよく思い知っていた。楽器は値が張る。けど、彼曰く日本は吹奏楽部の存在によって基本安価に音楽を開始することが出来るという話だった。門戸は開かれているらしい。そう考えれば、それも幸運な事だったのかもしれない。
「吉沢さん、変な感じじゃないんでしょ? ここ数日は」
「そうだね」
「じゃあ、ちょっと様子見するのも良いんじゃない? いきなり行くとちょっと不自然だし」
「まぁ……そうかもしれない。ありがとう。相談に乗ってくれて」
吉沢さんはきっと隠したいと思っているんだろう。あんまり綺麗な感情では無いし、それを先輩に、ましてや好きな先輩には見せたくないはずだ。私だってその感情は理解できる。とは言え、それが吹奏楽部の、ひいては彼のためになるかと言えば多分違う。後輩が悩んでいることに気付けなかったとなれば、彼はきっと自分を責めるだろう。そうなって欲しくはなかった。
ありがとう、の言葉が痛い。私はお礼を言われる資格なんてあるのだろうか。そう思ってしまう事もある。
「あれ、そう言えば明日とかだよね、行くの」
「明日の午後の飛行機の予定」
「そっか……」
いつか、彼は遠くに行ってしまうのだろう。この広い世界という、彼の本来輝くべき世界へ。北宇治高校はきっと、彼が立つには狭すぎる。その時、彼の瞳に私は映っているのだろうか。もしそうだったなら、どんなに幸せだろう。
「一年がサボらないか見張っててくれると助かる」
「大丈夫だと思うよ~」
「まぁ、そうだろうけど」
「何日に戻って来るの?」
「大会が3日で……とは言えその後色々あって、多分日本時間で7日の昼には戻って来る」
「お土産待ってるね」
「はいはい」
3日は丁度私が産まれた日だった。だからと言って何かあるわけでもない。友達や親は祝ってくれるけれど、肝心要な人はいないのだ。それが少し残念だった。けれど笑って激励して送り出すのがきっと私のやるべき事なんだろうとは思ってる。
「あのさ」
「どうしたの?」
「ちょっと早いけど、渡したいものがある。はい。これ」
「え、何これ? くれるの?」
「……ご自分の誕生日把握してらっしゃる? 誕生日おめでとう。当日いないから、今渡した」
残念と思っていた心が大きく動いた音がした。そんなのズルいじゃないかと思ってしまう。下げてから上げるなんてそんなことされたら、普通に貰うよりも何倍も心が飛び跳ねてしまう。ドクドクと高鳴る心臓はうるさいくらい鼓動を鳴らしていた。その柔らかい笑顔が私の瞳を満たしていく。
「もしかして覚えててくれたの?」
「そりゃ、まぁ」
「え~、そっかぁ~。嬉しいなぁ。何が入ってるの?」
「内緒。恥ずかしいから家に帰ったら開けて」
「仕方ないなぁ。でも、すっごい嬉しい。ありがとう!」
こんなに嬉しい気分になったのはいつ以来だろう。笑顔が思わず零れ落ちた。私はきっと幸せ者なのだろう。こんな風にしてもらえるなんて。彼と分かれた後も鳴り続ける心臓を抑えながら、家に帰る。玄関を開けた時も、まだその音が耳の奥で鳴りやまないままだった。
「あら、お帰りなさい。大丈夫? 顔赤いわよ?」
「だ、大丈夫大丈夫」
台所からやって来たお母さんは心配そうな顔をしていた。私の顔はきっと真っ赤になっているだろう。鏡を見なくてもすぐに分かった。だってこんなにも暑いから。
「あらあらあら~大事そうに抱えて。それ、誕生日プレゼントよね? その反応は、前言ってた……良かったわねぇ~」
自分が貰ったわけでもないのに愉快そう。この前ポロッと漏らしたのがまずかった。事あるごとに揶揄われる。「恋愛なんて微塵も興味ないと思ってた娘に好きな人ができるとは! 血は争えないわ」らしい。娘の恋愛相談を受けるのが夢だったとも言っていた。軽い夢だなぁ……と思ったのは内緒。
「何が入ってるの?」
「まだ開けてないからわかんない」
「開けなさいな開けなさいな。早く早く」
「急かさないでよ」
そう言いながらゆっくり丁寧に包装を剥がす。中からは黒い箱が出てきた。慎重に若干指が震えながらも蓋を開ける。目に飛び込んできたのは電球に反射して輝く銀と紫の輝き。銀の鎖に紫色の宝石がついたネックレス。
「まぁっ!」
お母さんの驚く声。放心状態の私。期待以上の贈り物に、心のハッピーの許容量が遂に満杯になってしまった。
「良いわねぇ、すっごい良いもの貰ったじゃない! ちゃんとお礼しなくちゃダメよ? 聞いてる? おーい、戻ってきなさーい」
私の好きな色は紫。それを考えてこの色の宝石にしてくれたのだろうか。
「これはタンザナイトね。確か12月の誕生石よ」
誕生石は幾つかある場合がある。だから、その中からわざわざこれにしてくれたという事は、もう確定だ。緩んだしまりのない顔にお母さんも苦笑していた。
「愛されてるわね。あ、そうだわ。私、そのあなたの好きな彼の事ちゃんと見たことないのよね。写真とかある?」
「あるよ~ちょっと待ってね」
夢見心地のまま、スマホを取り出し画像フォルダを漁る。写りの良い写真を探すと、割りと直近で撮ったものが見つかった。文化祭の時の写真や体育祭の時の写真。カメラを向けたらポーズをとってくれたので、個人的にはカッコよく写ってると思う。
「はいこれ」
「どれどれ、ってあなた、これ私が若かったら狙ってたわよ。超優良物件ね」
「でしょ~。……あ」
やっと我に返る。途端に恥ずかしさが涌き出てきて、慌てて2階の部屋に戻った。顔から火が出そう。
ふと鏡を見て、貰ったんだから着けてみないとね、と思う。制服のままだけど、これはこれでいいんじゃないの? と誰かに言い訳しながら、細心の注意を払って首にチェーンをかける。鏡を見つめれば、鏡面の自分の胸元には紫の綺麗な宝石。幸せに包まれたまま、私はその贈り物を丁寧に箱に入れて、鍵のかかる引き出しにしまった。いつか、大事なときに着けていこうと心に決めて。
調べて知ったタンザナイトの石言葉。高貴、冷静、誇り高き人、知性、神秘。色々あるけれど、一番好きな意味は「希望」。私の名前は希美。希望は美しいから、という理由で希望の「望」の字を「美」に変えたと両親から聞いていた。この石の意味と私の名前とは不思議と同じ起源を持っていた。
それを知って、余計に嬉しくて、ベットの上を転がり回った。制服がよれるのも気にしないまま、髪が乱れるのも気にしないまま。幸せで死んでしまいそうだったから。
「……」
「そんなに落ち込まなくても……」
あれから数日。無言で歩いている私に、彼は困ったように声をかけてくる。不貞腐れてるという訳でもないけれど、私はちょっとナイーブな感情だった。つい数日前に行われたアンサンブルコンテストの選考投票。先輩も呼んで行われたそれで、私たちの編成は二位だった。それも、かなり僅差の。後数票多ければ、私たちは府大会に出ることが出来た。そう考えるとめちゃくちゃ悔しい。
みぞれもちょっと不満そうな顔をしていた。あの子があんなに感情を露わにするのも珍しいと思う。私にとって、アンサンブルコンテストは部活に戻ってから初めてになる、参加できる可能性のある大会だった。今年の大会に出ることが出来なかったのは一度辞めた私のせい。出たいなんて厚顔無恥なことは言えないし、言うつもりもない。それに、来年一緒に全国に行くという約束をした。それで十分だった。でも、それと今回のとは話が別。出れるなら出たいに決まってる。
だから、みぞれとりえを誘った。どっちも木管の上手い奏者。クラリネットは北宇治の最強戦力の一つだったし、みぞれは言わずもがな上手い奏者。私だって負けているつもりはない。絶対に勝てると思って挑んだ編成だったし、練習段階でも上手く行っていた。元々後輩と組もうとしていたりえを口説き落として、頼み込んだ結果がこれでは彼女にも申し訳なかった。気にしてないと言ってくれたのがせめてもの救いだったのかもしれない。
「でもさぁ、二番目って一番悔しいじゃん」
「僅差だったからなぁ、全体的に」
その僅差が一番恨めしい。自分の努力不足が原因だけど、ちょっとくらいは恨めしいと思ってもいいはずだ。
「完成度高かったからなぁ、高坂さんたち」
「分かってるよ~。でも悔しいものは悔しいし。頑張ったんだけどなぁ」
「そのフラストレーションはソロコンのオーディションで発散してくれ」
「はーい」
けれど諦めるにはまだ早い。私にはまだチャンスが残されている。ソロコンテストの京都府予選。二月に行われるそれの代表はまだ決まっていなかった。それに出ることが出来れば、少しでもこの代で何かが出来たという証になると思う。
「ねぇ」
「どうした?」
「……何でもない」
「そっか」
凛音はどこに投票したの? という言葉が喉元まで出かかって、そして呑み込んだ。それはきっと、言ってはいけない言葉だったから。そんな事聞いてしまえば、彼は悩んでしまうかもしれない。そんな迷惑はかけたくない。私は、自分の大会に出たいという感情を抑えて部のために頑張っている姿を尊敬していた。だからこそ、その邪魔はしたくない。
彼は私よりもずっと大人だった。少なくとも、来年でも良いから大会に出たいという想いを抱えながら戻ろうとした私より、ずっと。でも大人になれたくても、私は諦められない。あの舞台に立つことを。もう一度、あの舞台の上で、スポットライトの中で、演奏をすることを。そして今度こそ、望む色を抱いて帰ることを。
だから、上手くなるために彼を頼った。きっと助けてくれるだろうと信じていたから。そしてその通りに彼は上手くなるための案をくれる。それは楽ちんなものではないけれど、でも楽に上手くなれるなら苦労はしない。幸い練習は嫌いじゃない。もっと頑張らないといけないのだ。こんなところで弱音を吐いているわけにはいかなかった。
翌朝。目覚ましの音の隣で、携帯の着信音が鳴り響いている。枕もとに置いたスマホが明滅していた。
「はいはい……もしもし……」
「あ、起きた?」
「どちらさま……?」
「君がモーニングコールしろって言ったから電話かけたのに酷い言い草だ」
「え、あ、あぁ、起きた、起きました」
「家の前で叫ぼうか」
「それはやめて」
マジトーンの言葉に、電話の向こうからは笑い声。目覚ましを止めて、大きなあくびをした。まだ日は完全に昇っていないからか、窓の外は暗い。いつもこの時間よりもずっと前に起きてるのかと思うと、ちょっと自分には真似できそうにも無い。半分寝そうな頭を叩き起こして服を着替え始める。
「……あのさ、切っていい?」
パジャマのボタンを全部外した辺りで電話口から困ったような声がする。ビデオ通話にはなっていないけど、向こうには私が服を脱いでる音が全部聞こえていたのかもしれない。眠気なんて全部吹っ飛んで、頭の中が真っ白になってしまった。
「ご、ごめん!」
慌てて通話を切る。バクバクと朝からうるさい心臓はしばらく鳴りやむことは無かった。着替えて一階に降りると、お父さんが新聞を読みながらご飯を食べてる。その前の席に座って、私も朝ごはんを食べ始めた。早くしないと置いていかれてしまう。
「なんだ、こんな朝早くから」
「今日からこの時間に起きることにしたの。練習あるから」
「吹奏楽もいいが、勉強してるのか。来年は受験生だぞ」
「分かってる」
「いつも言っているが、勉強できて困ることは無い。進路の幅を広げられるように、勉強はしておきなさい」
「はーい」
まったく、と言いながらお父さんは二階に上がっていく。いつも言われている事なのでなんとなく流してしまったけど、もうすぐ三年生になるというのは本当の話。自分の進路を考えないといけないのはよく分かっていた。でも、そんなの考えられるのだろうか。自分が何なのかもよく分かってないし、何になりたいのかもよく分かっていない。先輩たちはどうしていたんだろう。同じような事を考えていたのか、それは少し気になった。
「おはよう」
「あ、調。おはよう」
もう三年生のいないフルートの練習教室に、調がやって来る。あの夏以来、少しは仲良くなれたような気がしないでもない。一年生の子とはすぐに打ち解けられたから、余計に調がどう思っているのかは気になっていた。
「そうだ、調。ちょっと話があるんだけど」
「どうしたの」
「凛音がさ、自分の友達でフルート奏者の人がいて、その人に練習見てもらえないか頼んでるみたいなんだけど、一緒にどう?」
「桜地が? それ、そっちだけ対象なんじゃないの?」
「別にそんな事言ってなかったよ。私が調も誘っていい? って聞いたら良いって言ってたし」
「……そう」
「来年三年生私たちだけだしさ、一緒にやってみない? 一緒にやってくれる子がいると心強いし」
「あぁ、確かにアイツの友達は癖強そうね。……まぁ、希美がそれでいいなら、良いけど」
「よかった。じゃあ、後でお願いしてくる」
調は小さく頷いた。今年の曲じゃあ負けてしまったけれど、来年の曲なら負けたくはない。来年こそ、絶対大会には出たいし、出るならソロとかソリをやりたいのは事実。でも私だけ有利な状態でスタートしたいかと言われると違う。特に高坂さんの話を聞いた後だと、なおのことそれは良くないと思ってる。それに、私だけ頑張っても上には行けない。調も上手くなれば、部活のためにもなるはず。そしてそれは、全国大会に出るのに役立つと思っていた。
だから誘ったし、それ以上に何か考えているわけじゃない。それに、調が拒んだりしないで私と一緒に練習に参加してくれるのは嬉しかった。まだ完全に仲良くなれたわけじゃなくても、少なくとも少しは受け入れてくれたような、そんな気がしたから。
「私は希美に負けたくない。だからソロコンも出たわけだし。次の勝負はそこよ。私が代表になってやる」
「そっか……。でも、私も代表になりたい。北宇治で初めての大会に出てみたい」
私たちはどっちも負けたくないと思ってる。なら方法は一つしかない。夏休みの時にそうしたように、公平な勝負が出来る場所で戦うしかないんだろう。そして私はそのやり方が嫌いじゃなかった。勝負することもそうだけれど、そうすることでもっと相手のことを知れる気がしたから。少なくとも、前の私は調がこんなに負けず嫌いだなんて知らなかったのだし。
だから、松本先生がソロコンオーディションの結果を発表するときは酷く緊張していた。暫くの間味わっていなかったこの独特の緊張感。中学時代に散々経験したけれど、未だになれない。誕生日プレゼントを貰った時とはまた別のドクドクとした音が鳴り響いている。呼吸は少し、浅くなっていた。
「これより、北宇治高校吹奏楽部の代表としてソロコンテストの予選に参加する五名を発表する。名前を呼ばれた者は大きく返事をするように。オーボエ、鎧塚みぞれ」
「はい」
「コントラバス、川島緑輝」
「はい!」
「トランペット、高坂麗奈」
「はい!」
みぞれが選ばれるのは当然だと思っている。みぞれは上手い。それこそ、私よりも。それをアンコンの時に嫌というほど思い知らされた。胸の中に黒いインクの染みのような何かが広がっていく感覚があったのを今でも鮮明に覚えていた。それは、夏のあの日、みぞれともう一度スタートした日、見ないフリをしたものだった。それをかき消したくて、私は凛音に自分を鍛えてくれるように頼んだ。
川島さんも凛音が目をかけている後輩の一人。私も上手い子だと思うし、安定感がすごい。いつでも安定した演奏をしているため、合奏練習でも滝先生に注意されたのを聞いたことが無かった。凛音もそう言えば聞いたこと無いかもしれないと言っている。それくらいにはいつも安定して音を出せる優秀な子だと思う。
高坂さんはいまさら言う必要も無いと思う。どうもあの子は滝先生にお熱のようなので別に良いのだけれど、凛音の側にいることが多いのはやっぱりどうしても気になってしまう。彼が部活に戻るきっかけになった子だからこそ、きっと彼にとっては特別な子だ。私はそれが羨ましいのだと思う。
「パーカッション、井上順菜」
「はい!」
パーカスの井上さんはいい子だと思う。調と同じ名字だけど、性格とかは全然違う。調は静かなことが多いけど、彼女は元気いっぱいという感じだった。同じパーカスの堺さんとたまに教室に遊びに来ている。堺さんは彼と音楽の趣味が合うらしく、時々そっち系の談義をしている。井上さんは同じピアノ教室で、今でもピアノは結構弾けるらしい。それ関連の話をしていることも多かった。
そして、最後の一枠になってしまう。この部には上手い子が多い。誰が選ばれても不思議じゃない。堺さん、久美子ちゃん、チューバの後藤君やトロンボーンの塚本君だって上手い奏者だ。優子や吉沢さんが選ばれても不思議じゃない。クラリネット、ホルン、サックス。上手い奏者は沢山いる。どんどん鼓動は激しくなっていった。
「最後にフルート、傘木希美」
「はい!」
その言葉に、思わず俯いていた顔を上げる。私は選ばれた。北宇治の代表、その最後の一人。今年のソロ奏者高坂さんやみぞれと並んで、私が。横で調が鼻息を鳴らした後手を叩いている。返事をしておいて、私はその場に少し震えながら立っていた。私が、コンテストに出れる。北宇治に入って、初めて。選ばれるっていうのはこんなに嬉しいことだったのか、と今この時に改めて思い直す。こんな感情になったのはきっと、中学生の時以来。久しく忘れていた感動が、私の胸の中で脈打っていた。
「頑張んなさいよ」
先生の話も彼の話も耳に入らず、やっとしっかり認識できたのは調の呆れたようなこの言葉だった。
「明けましておめでとうございます。お邪魔します」
「こちらこそおめでとうございます。ようこそお越しくださいました。さぁさぁこちらへ」
テンションの高い涼音ちゃんに案内され、家に上がる。今日は新年一月四日。約束の初詣の日だった。自然体で、特に何もしないで来て下さいと言われたから、特にお化粧もせずやって来た。彼にプレゼントを渡せたクリスマスの日、涼音ちゃんは私の耳元で囁いた。お正月に初詣で着物を着れば、普段と違う姿を見せてアピールできますよ、と。その悪魔の声にも似てる囁きにまんまと乗せられた私は、こうしてこの家を訪れている。
「この日のために先輩に似合いそうなものをピックアップしました。さぁ、衣装チェンジと行きましょう」
目を爛々とさせながら興奮気味に言う彼女にちょっと不安になりながら、お着替えルームへと連れられる。そこから約一時間、着せかえ人形となった。幾つか着物を見せられ、似合うものを選ばれ、着付け。そのあと髪をセットされ、お化粧までしてくれた。鏡を見たら、普段とは全然違う自分がいた。彼好みの美人になれているのかわからないけれど、少なくともいつもの私より綺麗なはず。
後輩に為すがままにされたことは私の中で目新しい経験かもしれない。その後、待機を命じられたので大人しく廊下に立ち襖の前で待つ。
「お待たせしました。私の最高傑作です。では、いきますよ。オープン!」
涼音ちゃんがそう言い、バシュっと襖を開け放つ。
「ど、どうかな? 変じゃないかな?」
「あ、あぁ、凄く似合ってると思う」
ガッツポーズを心の中でして、涼音ちゃんに全力の感謝の念を向ける。目を白黒させながら、凛音の視線が私の至るところを上下左右しているのがわかる。どうやらちゃんとアピールできてるみたいだ。いつもと違い露骨にどぎまぎしている彼に、魅力があると思われてることがわかり嬉しくてたまらない。
「それでは、お二人は行ってらっしゃい。ごゆっくりどうぞ。私はこの後部活の子と北野天満宮に験担ぎに行ってくるので。帰ってきたら雫さんが着替えを手伝ってくれますから」
そう言われ見送られながら、若干挙動不審な凛音と二人で町に繰り出した。いつもは私が翻弄されてるのに、今日は私が翻弄してると思うと、楽しくなってくる。青と紫を基調とした着物。自撮りをしてみると、全然違う人のように見えた。髪も結われて、紅を引いた口紅は私の年齢をスッと大人に引き上げてくれるような気がする。
雪の積もっている街は正月色に染まっている。門松や国旗が掲げられた家もちらほら。桜地家の門前にも立派な物が置かれていた。
「うはぁ凄い並んでるね」
「そりゃまぁ、お正月だからなぁ」
凄い人の数。長蛇の列だ。ホント、いつもみんなこんなに見かけないのに、どこから湧いて出てきたんだろう。これだけいれば一人くらい知り合いがいそうだなぁと思って聞いてみる。
「ね、誰か知り合いいるかな?」
「どうだろう。誰か一人くらいはいるんじゃないか?」
「会っちゃったらどうしよう?」
「どうしようって言ってもな……。見た通りとしか言いようがない」
その言葉に少しいたずら心が湧いて、また同時に反応が見たくて、こう聞いてみる。
「だよねー。……私たち、こ、恋人同士に見えたりするのかな?」
「っ! ど、どうなんだろう。人によりけりじゃないの。多分」
顔を真っ赤にしてのこの答え。否定しないってことはそう見られてもいいもしくはそう見られても嫌じゃないってことでいいんだよね、と誰かに問いかける。そうすると恥ずかしくなり、また顔が赤くなる。バレてないといいなぁと思いながらも、彼を直視できなかった。
参道の長い列も特に苦にはならない。話すことは尽きないし、例えそうでなかったとしてもきっと隣にいるなら何時間でも並べてしまうだろう。
「やっと順番来たよ」
「長かったなぁ、そこそこ」
参拝の順番が回ってきた。後ろも並んでるので、素早くお賽銭を入れる。何を願うか。散々悩んだ結果、決めていた。勉強が上手くいくようにと、全国金と、恋愛成就。この三つだけ。多いかな? まぁ、シンプルな方が叶いやすいと思う。神頼みだけじゃダメなのはわかってる。努力して、頑張らないと恋は成就しない。でも、もう一つだけ願うなら。
来年は恋人として来れますように。彼が同じ事を願っていたらなぁと夢想しつつ、祈りを捧げた。多分、人生で一番真剣に神様にお願いした瞬間だった。
「ねーねー、何お願いした?」
自分の恥ずかしいお願いをした記憶を紛らわす為に、そう聞いてみる。
「そっちこそ何をお願いしたのさ?」
「受験生だし、勉強上手くいきますようにって。あと、今年は金とりたいってお願いしたよ」
「そうか。こっちもそんなもん」
「だよね~」
それだけじゃないんだよなぁと思いつつ、小さく頭を横に振る。考えない考えないと念じるほど、考えてしまうのはどうしてなんだろう。
「お願いって、口に出したら叶わないってマジ?」
「え~そんな事無いでしょ~精々叶いにくくなるくらいじゃん?」
すれ違った人たちの会話が耳に入る。それは彼も同じだったみたいで、こっちを見てくる。
「今の本当かな?」
「俗説じゃないのか? じゃないと困るし。願いは口に出さないと叶わないとも言うから」
「うんうん」
不安から聞いたけど、大丈夫。肝心なところは言ってない。これで万が一俗説じゃなくても大丈夫だ。
「おみくじどうだった? 私中吉」
「吉だった」
「微妙だね~お互い」
「ま、凶だと悲しいし、大吉だと運使い果たした気がするし、良いんじゃない?」
「だね~」
正直な事を言えば、おみくじの当たりの順番なんてわからない。大吉が一番上で、凶が下。大吉の下が中吉……あれ吉だったっけ? それはどうでもいいけど、大事なのは一つだけ。恋愛の欄が『叶う』だったこと。最高すぎて財布にしまった。もはや私にとってすれば大吉より嬉しい。
「ねぇ」
「どうした?」
「さっきの話だけどさ。わ、私さ。実は言ってないお願いしたんだけど……聞きたい?」
思わずそう問いかける。もし、聞きたいって言われたら、その時は……どうしよう。何も考えていなかった。そんな行き当たりばったりなつもりはなかったけれど、このどこか浮かれた気分と街の空気、そして人の喧騒がそうさせているのかもしれない。好きです、というたった四文字の言葉は、私の喉から出すのにすさまじい勇気を必要としていた。
「い、いいよ。話したら叶わないかもしれないし。大切なお願いだから黙ってたんでしょ? そんな願いなら叶って欲しいし」
動揺しながらも彼はそう答える。それに言えない寂しさ半分、今言わなくてよくなった嬉しさ半分。
「そ、そっか。そうだよね!」
「そうだよ。ま、私も言ってないお願いあるけど」
「え、なになに? めっちゃ聞きたい」
「ダメです。言いません」
「えー」
同じだといいな。そう思って、空を見上げる。雲一つなく、澄みわたっていた。新しい年の始まりにピッタリかもしれない。
「今年も一年、よろしいお願いします」
「うん。こちらこそ、よろしくお願いします」
凛音の言葉にそう返す。ゆったりと喧騒の町のなかを二人だけの時間が過ぎていく。世界のせわしない流れから取り残されたように、ゆっくりとゆっくりと。手をからめられないもどかしさを感じつつも、幸せに浸って歩く。
空と同じ青い鳥の番が二羽、空を舞っている。いつかあんな風に……。何回目かもわからないまま赤くなった顔のその熱さえも、理由を思えば心が踊った。恋の神頼みの成就を願って、私たちは鳥居をくぐった。目指すは桜地家。歩くスピードを少し落とす。時間が過ぎ去らないようにという、私の小さな小さな抵抗だった。
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