「はあぁ……」
眠そうな声が響く。
「おい、こら起きなさい」
「……」
「寝ないで、ほら、ちょっと。後一駅で着くから」
朝会場に行く電車で、希美は私に寄りかかってずっと寝ていた。昨日は中々遅くまで練習していたので、無理もないだろう。みぞれも半開きの目をしてうつらうつらとしている。朝の電車の中で座れたのはいいものの、ちゃんと起きてくれるかどうかが不安だった。
目的地の駅に着くと、既に来ていた高坂さんが待っている。いつも行動が早くて助かる。なんとなく待ち合わせ場所に誰もいないと、時間や場所を間違えてしまったんじゃないかと心配になるので、待っていてくれるのはありがたかった。すぐにやってきた川島さんは一人だけテンションが高い。この子はいつも元気だ。その無限にも近いエネルギーはどこから出てくるのか。少し分けて欲しい。
「す、すみませーん、遅れました~!」
慌てて走って来るのは井上さん。今回は彼女が最後になった。別に時間は遅れてはいないし、何なら集合時間より前なのだけれど、みんな揃ってると何だか遅れたような気分になってしまうのも共感できる。
「いえいえ、全然時間より前です。大丈夫ですよ」
「そ、そうですか? よかった……」
「はい、じゃあちょっと呼吸を落ち着かせてください。そしたらぼちぼち行きましょう」
アンサンブルコンテストの二日後。私は今回のソロコンに出る五人を引き連れて会場に来ていた。ソロコンの京都予選は大きいホールでやるわけでは無い。関西ともなればもう少し会場が大きいのだけれど、予選ではそこまでだ。本当なら別に私がついて行く必要も無いのだけれど、ソロコンではピアノ伴奏がある曲も選ぶことが出来る。この伴奏者は別に誰でも良いのだが、なるべく身内で済ませたいのが本音になるだろう。部内で一番余裕があって、かつピアノが出来るのは私しかいない。故に、こうしてついてくることになっていた。なお、今回は先生方は入試関連の会議があり来れない。なので現地集合現地解散だ。
しかもよりによって、どうせいるなら伴奏付きの曲にしておこうと思ったのか、全員伴奏付きの曲を選択していた。おかげで、五曲も練習する羽目になっている。京都府予選は二段階で、前段階に録音審査があるのだが、それは全員突破していた。なのでこうして会場に赴けている。
予選会場は関西地区で十五。そこから約五人程度が上に推薦される。そして関西大会では金の中で一位から三位までを決めて全国に進ませるというシステムになっていた。全国大会は三月二十七日に東京都中央区立日本橋公会堂ホールで行われる。
アンコンを終え、戦いは次の舞台に移る。日本橋劇場を目指した戦いが始まろうとしていた。
「はい、じゃあ取り敢えず集合。これから受付します。その後、時間になるまで待機。楽器ごとにやっていくらしいので、しばらく待ちます。その間は最後の確認をしておいてください。私も行かないといけないので、もし万が一いなかった鬼電してくださいね。まぁ基本皆さんと一緒にいるのでそんな事にはならないと思いたいですが……一応念のため」
「「「はい」」」
「では、最後に心構えを。ソロコンは普段の大会やアンコンとは違います。伴奏はいますけど、私のピアノはあくまでも添え物に過ぎません。自分だけがメインの舞台というのはどんな場所であっても緊張するモノです。私だってそう。ですが、逆に言えば普段は誰かと合わせないといけない中で、自分のやりたい音楽を貫くことが出来ます。伴奏はやりたいことに全力で合わせますから、むしろ引っ張るくらいの勢いで。私はここにいる、お前ら私の音を聞けという勢いで。最後は練習した自分を信じて、やってください」
「「「はい!」」」
いい返事が返って来る。この中の五人中三人が一年生なのも、来年度再来年度における大きな期待をさせてくれる。来年度の自由曲はみぞれと希美のコンビが映える曲にしたいと滝先生が言っていた。逆に言えば、この木管二人組は主戦力として期待されているということ。物語性の高い曲に、表現力のある二人は適任だろう。両者ともに関係性も深く、やり取りもしやすいため合わせやすいという特性も持っている。
アンコンが全体の底上げを目指すのためだとしたら、ソロコンは突出した個人の実力を更に磨いて主戦力として目立たせるための戦略だ。初心者はゆっくりでも上手く。中級者はドンドン上手く。上級者はどこまでも上手く。そういう風にして先へ先へと進んでいくことが進歩であり、その先に栄冠はあるだろう。来年あの名古屋の舞台にまた立つためにも、出来る限りをする。そういう目的で、私は変わらず動いていた。
「パーカッション、移動してください」
色んな高校生がごちゃ混ぜになった控室でパーカッションから名前が呼ばれる。つまり、北宇治のトップバッターは井上さんということになる。
「では、行きましょう」
「はい」
演奏場所まで移動する。あと四回は一緒について行かないといけないので、大変だ。
「先輩、よろしくお願いします!」
「任せておいてください。同じピアノ教室の縁です。頑張って君を輝かせられるようにしますので」
どんな時でも物怖じしないのが井上さんの良いところだ。委縮したりすること無く、明るく快活に振る舞っているので、基本あんまり心配していない。今回彼女が選択したのはシロフォン独奏で、石原勇太郎作曲「種々の楽器のための小品集第22曲より若紫の民話」だ。ソロコンの規定で演奏は四分以内になっている。オーバーしても止められるだけで減点にはならないけれど、やっぱり演奏しきりたいというのが人情だと思う。
「では、始めてください」
審査員の前に楽器が用意されており、演奏を促される。楽譜は当然見ても良いので、私は思いっきりピアノに広げていた。ちゃんとした場所でピアノを演奏するのは何気に久しぶりかもしれない。大学時代はキーボードなどもやっていたので慣れてはいるけれど、ちょっと緊張はする。
井上さんの選んだ曲は最初は中々ハイテンポ。それに加えてスタートはピアノから始まる。私が鍵盤を押して音を奏で始めるのに合わせて、シロフォンの軽快なリズムが鳴り響いた。まずは踊るように。そして中盤を超えたあたりからは少し雰囲気が変わり低めの音で演奏される。最後は駆け抜けるようにしてフィニッシュだ。終わった後はやり切ったという顔で審査員に頭を下げている。取り敢えず瑕疵はなかったようで私は一安心している。
「大丈夫でしたか?」
「はい。バッチリです」
「それは何より」
そんな具合で次々と人は呼ばれて行き、演奏が行われる。井上さんの次はフルートの希美。彼女が選んだのはイタリア人V.モンティ作曲の「チャルダッシュ」。ソロ楽器のための定番曲で、技術力をアピールできるために選んでいた。時間は結構ギリギリなのだが、それでもこれが良いと言われたのでそうですかと言うしかない。元々はバイオリンのための曲なのだが、フルート用も存在している。最初は静かに、中盤は早いという構成は、ハンガリー音楽特有のラッサンとフリスカである。ウィーンの宮廷で禁止令が出たほどの人気曲だ。
みぞれが選択したのはフランス人有名作曲家カミーユ・サン=サーンス作曲の「動物の謝肉祭より白鳥」である。他の音楽家の曲をパロディしまくった皮肉に満ちた作品として有名な「動物の謝肉祭」だけれど、その中でも「白鳥」だけは例外的に高く評価されていた。ここは作者のオリジナルであるからでもあり、その曲がかなり卓越しているからでもある。オーボエの音は儚く透明感を孕み、純白の白鳥を示している。伴奏のピアノは揺らめく湖面だ。
川島さんは田丸和弥作曲の「木漏れ日の日々」を選んだ。基本は穏やかで情緒的な旋律が続く低音が生きる曲なのだが、中間部では激しさもあり、小さな体躯に大きな情熱を秘めた彼女にはピッタリかもしれない。この曲は少々時間がはみ出るけれど、それでもやりたいと言われたのでそのまま通している。ソロコンは奏者のやりたいようにやらないと、評価されないと思っている。まぁやりたいようにやったら評価されるとは限らないけれど、それでも自分をフルに表現できるのは貴重な機会だろう。
最後の高坂さんは福田洋介作曲の「夏雲の唄」。どことなく切ない日本の夏の情景を思い起こさせる曲だ。しっとりとした主部とピアノとのアンサンブルが光る中間部など色々な表情を見せているのは、夏という景色そのものの体現かもしれない。夏と言えば吹部にとっては駆け抜けた青春真っ只中の時期。あの暑く燃え滾るようだった夏に、ほんの僅かに今なら感じる寂寥感を重ね合わせた表現は相変わらず上手い。その表現で奏でられるラストは感動すら与えるだろう。消えていく姿は、儚い青春という思い出なのかもしれない。
ともあれ、全員分無事に演奏は終了した。皆非常に良い演奏だったと思っている。今回は他の人の演奏を聞けないのでどの程度なのかは不明だけれど、何人かは上に行けるだろう。流石に全員は難しくても、一人くらいは……と思っていた。個人的には伴奏でミスらなかったのでほっと一安心している。トランペットなら私の恋人とも言うべき
演奏してしまったら、後は結果発表を待つだけである。全員がいる控室に、審査員の人がやって来た。
「えー、三月上旬に行われる関西地区大会への推薦を行う人員を五名読み上げます。12番フルート、傘木希美」
呼ばれる順番は演奏順。ガッツポーズをする希美と対照的に井上さんがアチャーと言う顔をしている。部内ではエースでも、ここでも選ばれるとは限らない。それに、どんなにパーフェクトな演奏でも審査員の目に留まるかは別だし、もっと上を行く奏者がいないとも限らない。
「続いて25番オーボエ、鎧塚みぞれ」
みぞれはあんまり表情を動かしていない。しかし、取り敢えず喜んでいる気配は伝わって来た。その後も30番のクラリネットの人、35番のアルトサックスの人が呼ばれる。川島さんは28番なので、惜しくもここで落選となる。残念、という顔だった。元々この府予選を勝ち残るのは難しい。人数も多いし、録音審査を通っただけでも御の字なのかもしれなかった。
そして残ったのは最後の一枠。残っているのはホルン・トランペット・ユーフォ・チューバなどの後半組。
「最後になります、45番トランペット、高坂麗奈」
高坂さんはよしっ、と声が一瞬漏れ出る勢いで拳を握りしめている。全員合格とは流石にいかないけれど、五人中三人が受かっている。しかも、全体の推薦枠が五枠の中でこの枠数を勝ち取っているのは普通に誇ってもいいだろう。京都の全吹奏楽部員が参加しているわけでは無いけれど、それでもこの予選に参加した中でピカイチだったということだ。
みぞれは元々練習の鬼。あれだけひたすらやって伸びないわけがない。高坂さんも早くから私に師事していた結果が出たとも言える。これで彼女の父にドヤ顔出来そうだ。希美も夏の時点で実力的にはすぐに大会に出ても問題ないレベルだった。帰宅部だった間も公園などで欠かさず練習していたからだと思う。それに加え、復帰後も練習を重ねて最近ではさらに輪をかけて努力していたため、それが実った形になる。いずれも、しっかりやっていたことが評価された形になった。
当然井上さんや川島さんの努力が劣っていたわけではない。彼女たちも今後の北宇治における主戦力として活躍してくれるだろう。とにかく、関西大会まで三人も駒を進められたというわけだ。滝先生も大いに喜ぶことだろう。益々自由曲選びに精が出るはずだ。
「みぞれ、やったね」
「うん」
「あぁん、やっぱり時間オーバーはやめた方が良かったかもです……」
「そんな事無いよ、また来年来よう。高坂さんも頑張って!」
「もちろん」
会場から出た後、五人は思い思いに話している。ここで次のステップに行く仲間を応援できるのは大事なことだと思っていた。そういう部活であって欲しいし、優子もそれを望んでいるのだろう。当然、私も。部活ならば、仲間を大切にする場所であるべきなのだ。本当の意味で代わりの効かない、一人一人の集まりなのだから。
「皆さん、よく頑張りました。これは快挙です。関西進出する人は誇ってください。そうでなくても、ここまで練習した努力は消えません。今回の定演には間に合いませんが、次回辺りどこかで演奏会をすることがあれば、是非五人それぞれ演奏を披露してもらえればと思っています。取り敢えずまずはお疲れ様でした。次は定演です。一層忙しい中ではありますが、突っ走りましょう!」
「「「はい!」」」
いい返事だ。この快挙は確実に良い流れをもたらす。垂れ幕が沢山作れると教頭先生も大喜びだろう。今確かに流れは来ていた。風は吹ている。しかも追い風が。定演、そして立華との演奏会。いずれも更なる追い風となって北宇治という船を大海原に押し出すだろう。その先に待っているのは、きっと希望と言う名の島のはずだ。私はそう確信していた。
2月14日。ヴェネツィアの音楽家フランチェスコ・カヴァッリの誕生日。そして、高校生にとっては大きなイベントの一つであるバレンタインデー。製菓会社の陰謀と叫ぶのは簡単ではあるのだけれど、そうは言っても気にはなってしまうのが男子高校生の性と言うものだろう。
そのせいなのかは分からないけれど、学校の空気はどこかソワソワしている。していないのは鬼気迫る表情の三年生くらいなものだろう。図書室も自習室も連日満員御礼で、あちらこちらでペンの動く音がしている。センター試験は既に終わっているけれど、私大の受験真っ最中であったし、まだ国公立は受験日が来ていない。とは言え、二年生はそんなのは横目に見ているだけ。まだまだ浮かれ気分で青春イベントを楽しむ学年だった。
「俺らもなぁ、何か欲しいよなぁ」
「分かる」
「君らは女子マネージャーいるでしょ。貰えるんじゃないの?」
「黙れ、吹部とは違うんだよ」
「どう考えても義理だろ馬鹿野郎」
軽い気持ちで言ってしまったら、私の友人二人があらん限りの罵倒をしてくる。そんなに言わなくても良いじゃないかと思うけれど、こういう時に余計な事を言うと三倍くらいになって返って来るので黙っておく。
「けっ、女子ばっかりの部活は違うよな」
「お前は傘木さんから貰えるんだし俺らとは違うんだよ」
「吹部の子はキミらの話時々してたよ。割とアリかもって」
「「マジで!?」」
「現金な奴らめ……。それに、私だって希美から貰えるかなんて分からないんだから」
「いや、それはない」
「右に同じ」
「何を根拠に」
「はー」
「クソボケがよ」
そんな事言ったって、貰えるかなんて本当に分からない。別に全部の女子がバレンタインをするわけじゃない。そういうイベントごとに興味が無い女子だって存在している。希美は割と学生的ないベントは好きな方だけれど、クリスマスやお正月とバレンタインは毛色が違う。もしかしたら興味無いということもあり得た。
「お前ら、バレンタインで浮かれるのも良いが、テストも近いしあんまり気抜くなよ。あと、建前上教師は止めないといけないから、バレないようにやれ~」
「せんせーに渡しちゃダメですか~」
「貰っても良いけど返さないぞ」
「えー」
クラスの中では、朝のHRで適当な注意がされている。ウチのクラスの担任はいつもこんな感じだった。厳しく咎めてもしょうがないだろうから、暴発しない程度に黙認するというのがよくある方針で、今回もそれを遺憾なく発揮している。この少し緩い姿勢は割と居心地がいい。
「お、お昼休み暇?」
「まぁ、多分」
「じゃ、じゃあちょっと時間もらえると嬉しいな」
「分かった」
冷静に答えておきながら、私の心はバクバクだった。この日に呼び出されるというのは、如何せん期待せずにはいられない。今日呼び出すということはそう言うことで良いのだろうか。もしかしたら全然違うかもしれないし、そうだったら恥ずかしいので何も言わないようにして、態度にも出さないようにする。平静を装得ているのかどうか、自分では全く分からないのが少し辛い。
結局、一時間目から四時間目まで、私はどこか上の空だった。お昼休みが近付くにつれて、時計の進みがドンドン遅くなっているようにも感じる。時間の速度は変わるわけがないので、これは自分の心の問題。待ち遠しいことは遠い先に感じて、嫌な事はあっという間に来るように感じる。人間のままならないところだ。
「お待たせ」
特別棟は休み時間になるとあんまり人がいない。その一角で、私たちは向き合っていた。
「ごめん、待たせちゃった」
「別に大丈夫。今来たところだから」
「良かった……。えっと、まぁ、その……なんとなく分かってると思うけど、はい! 受け取ってください!」
「あ、あぁ、ありがとう」
「ぎ、義理だから。義理だからね。もしくは友チョコ。OK?」
「この形で?」
「その形でも!」
綺麗にラッピングされているけれど、形はハート形。確かにバレンタインと言えばハート形みたいなところはあるし、別に特別な相手ではなくてもハート形を贈ることはあるのかもしれない。本命ですと言われてしまったら、多分ぶっ倒れていた気がするので、ある意味でこれで良かったのかもしれない。それでもどこかで本命だったらよかったと思わないではいられない。
「もしかして本命……欲しかった?」
「それはもちろん、そうだったら嬉しいけど」
「そっか。……私、基本こういうの贈らないんだよね」
「……それは、どういう?」
「さぁ、どういう意味でしょ~。考えてね!」
それじゃ、と言って彼女は爽やかに去っていく。カラッと涼やかな風のような雰囲気すら感じる。もしかして勝手に色々考えてるのは私だけなのかもしれない。はぁ、と息を吐いた。冬の廊下の空気に私のため息が消えていく。恋してるとため息が出るらしい。島崎藤村もそう言っている。この想いは多分、消えそうにない。
「はい、これ」
「え、は……? 悪い、俺にそういう趣味は無いんだ」
「差出人をしっかり見ろよ、目ついてんのか?」
「あ、あぁ……」
五六時間目を終えて、時間は既に放課後。トランペットのパート練習中の休憩時間。滝野に渡したのは小さな箱。リボンが丁寧にまかれているのは明らかに贈答用と分かる品物だ。表面にはブランドのマーク。デパ地下で買ってきたのがよく分かる。吉沢さんと高坂さんがドン引きした顔で見ていたので、慌てて訂正しておくことにした。
「渡してって頼まれたから渡してるだけだから。絶対に勘違いしないように。特にそこの一年生二人」
「でもね……」
「そうは言っても……」
「おい!」
これ見よがしにひそひそ話し合ってる二人の頭を楽譜で叩く。加部や優子は事情をある程度察したのか、スルーすることを選択したようだった。
「妹から頼まれたから。これで約束は果たしたので、後で連絡してあげてくれ」
「お、おう。でもなんで俺に?」
「さぁね。お世話になったからお礼みたいなもんじゃないの。お歳暮だお歳暮。そう言う感じ」
「そ、そうか。取り敢えず受け取りはしたから」
受験の数日前なのに急に出かけたかと思えば、今滝野に渡した箱を持って帰って来た。何してるんだよと思いはしたけれど、それくらいはしたい乙女心なのかもしれない。それにしたって受験前にすることでもないような気がする。ただ、ここ数日ずっと最後の追い込みをかけているので、少し息抜きになったのかもしれない。
買いに行くというのは正しい選択だと思う。あの子の腕で作ろうと思ったら、とんでもないものが出来かねない。鍋が焦げるのは勘弁だし、材料がもったいない。手作りを渡せないとガックリきていたが、そもそも包丁が苦手な子はスタートラインから大分厳しいと思う。本気で受験が終わったら料理を教えないといけないかもしれない。
「はいはい、そこの二人。これを渡すのは非常に不本意だけど、香織先輩と沙菜先輩からの贈り物なのでしょうがないから涙を呑んで渋々遺憾だけれど渡します。……ん」
優子がムスッとした表情で紙袋を差し出して来る。受験で忙しい中でありながら、先輩たちは用意してくれたらしい。香織先輩から貰ったということは墓場まで持っていかないと多分、私と滝野は学校中の男子に殺される。まず間違いなく血祭りにあげられる。学年を問わずに殺害予告が届くだろう。
「やっば、私何も用意してないわ」
「別に良いんじゃない、渡す相手もいないなら。むしろ友恵はそのままでいて……」
優子の鞄の近くには大きな紙袋。その中には色々入っている。クラスの女子やら吹部の女子と交換しないといけないらしい。それはそれで面倒そうだ。渡した渡さないでまたひと悶着あるらしいから、貰えるかなぁとソワソワしている男子の方がよっぽど良い気がした。
「私たちはあげますよ、ねぇ、麗奈ちゃん」
「お世話になってるので……」
私と滝野にそれぞれ渡される。滝野は私の妹、一年生二人組、先輩二人と合計五個受け取っている。去年は自分の妹からチロルチョコだけだったと泣いていたけれど、今年は五個。えらい進化である。そのせいかは分からないけれど、滂沱の涙を流していた。さながら救世主に出会った迷える子羊のよう。香織先輩を天使と仮定するとあんまり間違ってもいないのかもしれない。
「麗奈ちゃん、先生に渡す口実が欲しかったみたいで」
「あぁ、そういう」
「配ってますって言う理由なら誤魔化せますからね。本命だと思ってもらえないとかごねてましたけど、そんな事言ってる場合じゃないだろということでゴリ押しました。流石に職員室で本命アピールはマズいですし」
「ナイス判断」
良かったわね~といじられてる滝野を眺めつつ、吉沢さんが小さく耳元で囁く。私に渡したならば滝先生にも渡す口実になる。いい考えだった。どう考えても吉沢さんのアイデアである。高坂さんは恋愛に関してもそうでないことも、割と結構突撃気質と言うか脳筋と言うか……。まぁそういう感じなので、こんな緻密な作戦は思いつかなそうなイメージがある。どことなく優子と似てる感じもあるように思っていた。多分本人たちに言うと怒られるので言わないけれど。
「私の方は本命……かもしれないし、そうじゃないかもしれないし、もしかしたらそうかもしれませんよ?」
「どっち?」
「さぁ? どっちでしょう」
私の知り合いの女子は皆こんな風にハッキリ言ってくれない子が多いのだろうか。いたずらっぽく微笑む彼女の表情の裏にある真意は、今一つしっかりと読みれなかった。
家に帰った途端、妹が走ってやって来る。
「どう! 渡してくれた!」
「渡しました。ちゃんと、しっかりと」
「で?」
「で、とは?」
「反応は!」
「あー、まぁ喜んでたけど」
「そ、そっかぁ、よかった……」
勉強してたところだったのだろう。ちょっと疲れた顔の妹は安堵の表情を見せていた。いきなり渡したために若干戸惑っていたのは言わないことにした。世の中には言わなくていいことが沢山ある。例えば、このことのように。とは言え、喜んでたのは嘘ではない。自分の妹に自慢すると言って喜び勇んで帰って行った。
私は滝野の妹――さやかさんと言うらしいけれど――に直接会ったことは無い。ただ、北宇治を受けるという話は聞いていた。別に偏差値的に同じランクの学校は北宇治だけではなく、沢山ある。その中で敢えて北宇治を選んだということは、多分割と兄である滝野のことが好きなのだろう。ブラコンと言うほどではないけれど、滝野の主観にあるような兄嫌いと言う感じでは無い印象を受けていた。尤も、滝野にそれを読みとれというのは難しいかもしれない。
近しい関係ほど、案外相手の感情を読み取れなかったりするものだ。私と妹のように。
「それで……それが兄さんの今日の戦利品?」
「戦利品って……。まぁそんな感じかもしれないけど」
「これは?」
「希美」
「こっちは?」
「香織先輩たち」
「それは?」
「高坂さんと吉沢さん」
「あれは?」
「えーっと井上さんと堺さんだったかな? まぁほとんどその辺で売ってるお菓子が多いから、明らかに義理だろうけどね」
「このチョコですらないサイダーグミは?」
「それはみぞれ」
チョコ系のお菓子の中で、サイダー味のグミは一人だけ異彩を放っている。自分の好きな物を渡すイベントだと思っていたようだ。確かにチョコでないといけないという決まりはないし、これはこれで良いのかもしれない。貰えるなら何でもいいというのが本音だろう。
「優子先輩はくれなかったの?」
「もう疲れたってさ。夏紀は低音パート内だけらしい」
「確かに面倒なのは分かるかも。私も部活の後輩にちょっとあげたけど、何か泣きながらどっかに行っちゃって……。家宝にしますとか何とか言ってたけど、まぁ冗談だよね」
「いや多分本気でそうするつもりだと思う。女子?」
「どっちも」
「男は絶対食べないと思う。もったいないから」
「ただの安い既製品だけど?」
「貰えるだけ嬉しいもんだよ」
大体何であれそうだと思う。この前の南中の感じを見るに、
旧北宇治吹部の悪弊の一つであったお菓子だが、別に新生北宇治でも禁止されたわけじゃない。というか禁止する理由も無かった。練習してないのが悪いのであって、練習してる間の休憩時間に何をしていようと別に咎めはしない。トランプだろうとUNOだろうと、好きにやればいいと思う。休憩時間は休憩するための時間なのだから、自分たちが休めるなら何だって構わない。
なので、現在も休憩時間にはよく食べているのを目撃する。吹部は隠れた運動部の異名通り、何だかんだと体力を使う。長時間練習で疲労もするし、気分転換にもちょうどいいのだ。だから休憩時間にパートを訪れると時々分けてくれたりもする。これは私の立場の役得かもしれない。
ずっと練習だけしてろなんて言う気はない。上を目指すことと、部活や音楽を楽しむことは両立できるはずだ。少なくとも不可能ではない。清良女子ではそういう風に出来ていたと言うのを、私たちは身をもって知っている。私の母が作り上げた部活の姿こそ、私が、私たちが目指すべき理想なのかもしれない。仏壇の遺影は何も言わない。かつて鞄をチョコでいっぱいにしたという母は、ただ静かにほほ笑んでいた。
理想の部活にはまだ遠いのだろう。けれどそれは目指さない理由にはならない。新生北宇治二年目、私が関われる最後の年。妹に幸福な部活生活を送ってもらうためにも、私は妥協する気はないのだ。
おかげさまで、ハーメルン内の同一原作作品内総合評価で4位になれました。皆様の高評価・登録ありがとうございます。