定期演奏会は無事に終わった。しかし北宇治のイベントはまだ終わらない。ソロコンの関西大会もあるし、それだけではなく立華との合同演奏会も待っていた。音楽室に座っている部員を見回し、優子は予定を話していく。
「定期演奏会が終わったばかりですが、次の本番についてのお知らせです。以前にも言っていたように、立華高校との合同演奏会を行います。会場はCMとかでよくやっているドリームパークです。春休みのタイミングでイルミネーション展示を行うようなのですが、そこでのオープニングイベントの依頼です」
そんなに大きな遊園地ではなく、USJに比べれば規模は落ちるモノの、地元の遊園地として有名な場所だ。夏はプールもあるし、冬はスケート場も用意されている。イルミネーションは公園エリアで行われるらしい。遊園地なんて言ったのは何年前だろう。三年になった時にある修学旅行ではディズニーランドに行くらしいので、それが恐らく高校生活最初で最後の遊園地だと思う。ディズニーランドを遊園地とするかは微妙だが。
「本番は練習日程表に書いてある通り、三月中旬にあります。春休みまでに何度も立華高校との合同練習を予定しています。強豪校と同じ舞台に立てるというのは非常に有意義な経験です。南中、清良の時と同様に多くを吸収するつもりでいきましょう」
「「「はい!」」」
引退した三年生も今回の演奏会には参加することになる。人数的に圧倒的に少ない北宇治は、そうやって人数を増やさないと音で負けてしまう。これに関して小笠原先輩や香織先輩を経由して各先輩方に交渉を持ち掛け、多くから承諾を貰っている。受験関連で忙しい人も、前期入試が終われば来れる人が多かった。
そして、一回目の合同練習はその週の週末に行われた。練習場所としては立華高校の体育館を提供されている。北宇治のおんぼろ体育館に比べれば、立華は私立だけあって非常に綺麗な体育館だ。こっちの方が響きも良さそうで、羨ましい。もしかしたら自分や妹が入るかもしれなかった学校だけあって、割と思い入れはある。
立華高校の校内に足を踏み入れたのは受験の時以来かもしれない。数年ぶりに、その小綺麗な校舎に入る。体育館の床には緑のシートがびっしりと敷かれている。床の保護のためらしい。北宇治は全然気を遣っていないので、そこら辺も使っている素材の差なのかもしれない。準備は向こうがしてくれたので、ありがたい話だった。
「「「こんにちは!」」」
巨大な声で立華の部員は挨拶をしてくる。北宇治はいつも通りしどろもどろ。あっという間に空気に呑まれている。立華の雰囲気はザ・運動部と言った感じだろうか。清廉な騎士団という空気だった南中とはまたちょっと違う。やはり、学校ごとに空気感は大きく異なるのだろう。
「どうも、本日はお招きいただきありがとうございます。北宇治高校吹奏楽部で指導をしております、桜地凛音と申します。どうぞお見知りおきを」
「ご丁寧にありがとうございます。立華高校吹奏楽部の元部長、森岡翔子です」
長い黒髪をお団子にしてまとめている利発そうな顔立ちをした女性が手を差し出して来る。それを軽く握り返し、少し頭を下げた。立華高校は今年もマーチングで全国金賞を獲得している。その栄冠へ導いた立役者とあっては尊敬の念を抱かないわけにはいかない。
それに、快活そうに笑っているその笑顔の裏には、修羅場を潜ってきたことを感じさせる風格がある。相手もこっちが別にのほほんと生きてきたわけでは無いことは理解したらしく、その笑顔が少し深くなった。
「本日は北宇治生一同、胸を借りるつもりで来ておりますので、どうぞお手柔らかに」
「こちらこそ、桜地先生に教えて頂けるとあって特にトランペットパートなんかは数日前から楽しみにしていました」
「ありがたいお話です。どうぞ、敬語なんて使わずに」
「そういうわけにはいきませんよ。北宇治高校のブレーン、滝先生の秘密兵器だと熊田先生も仰っていたので」
あの人何言ってんの? と内心で思いつつ、ハハハと笑う。肯定しても否定しても角が立ちそうだった。
「プロフェッショナルに敬意を払うのは当たり前です」
「恐縮です」
「そうだ、前にご連絡いただいた通り、今日はマーチングの専門家にも来てもらってます。北宇治さんも、マーチングで大会に出るんですか?」
「いえいえ、しばらくは座奏だけです。いずれ数代後にはマーチングでもという声が出るかもしれませんので、ノウハウの継承だけはしておこうかと。どちらにしても、サンライズフェスティバルもありますので、教えて頂けるならば幸いと思った次第です」
「良かった。進出されたらどうしようと話していたので」
「立華さんとやり合うのは骨が折れそうですから、私がいる間はやめて欲しいものです」
あくまでもマーチングにおける直近の大会参加は否定しつつ、将来的な参加は否定しない。北宇治だって今年から強豪の端くれだ。当然、座奏とマーチングの両方で上を目指す選択肢だって存在している。
「南ー!」
彼女は私の言葉に小さく笑った後、誰かの名前を呼ぶ。その声が向けられた先の人混みから誰かがやって来る。すらりと流した長い黒髪、涼やかに細められた切れ長の瞳、冷淡そうな顔には涼やかな美しさ。
「わーお……」
「はい?」
「あぁいえ、こっちの話です」
希美に先に出会っていてよかった。もし出会ってなかったら多分好きになってたと思う。立華に入るという選択肢を選んでいたら、叶わない恋を秘めたまま苦しい学校生活を送る羽目になる事だっただろう。好きな人がいて良かった。美人だなぁという感覚で止まっている。芸能人を見るそれに近いかもしれない。
「立華高校吹奏楽部、元ドラムメジャー、神田南です。よろしくお願いします」
「桜地です。お願いします」
「今日は、マーチングに関して聞きたいことがあるという伝達を受けてますが」
「はい。是非色々ご教授頂けたらと」
「分かりました。出来る限りお答えします」
森岡さんはウチの小笠原先輩と話し始めた。その間に私は神田さんに話を聞いて行く。至極冷静に淡々と話を進めてくれるのでありがたい。こういうタイプは一緒に仕事をしていると大変やりやすいタイプだ。流石この強豪のDMに選ばれただけのことはある。真面目で優秀な受け答えだった。私もペンを動かしメモ帳に色々と書き留めながら話を聞いて行く。
「立華ではドラムメジャーは専任職なのですね。何か、理由が?」
「マーチングでは中心ですので、マーチングに主軸を置いている立華ではそれが代々の伝統となっています。音楽的な指導も行う職でもありますが」
「なるほど。逆に言えば、部内の諸々は部長・副部長が担うわけですね」
「その通りです。役割分担をきっちりとすることで、膨大な仕事量に対応しています。現在の北宇治の体制もそれに近いと、私は思いますが」
確かに言われた通りかもしれない。立華で言うところのドラムメジャーが私の立ち位置に近い。持っている権限の大きさは私の方が多いけれど、やっている業務や幹部としての立ち位置などは立華に近い。もし私が高坂さんに後継を託すなら、ドラムメジャーという役職にするのが良いのかもしれない。権限と言い、業務内容や立ち位置と言い、理想的な役職であると思う。
「色々と軋轢や気苦労も多いと拝察しますが」
「まぁ……否定はできないですね。嫌われ役をやり続けるのも正直しんどいですし。別にガミガミ怒るのは好きではありませんが、それでもこういう役職も必要と思っています」
「そのモチベーションは?」
「上に立つと分かることがあります。もっともっとという気持ちが湧いてきて、まだ頂きは遠いと思う。だからこそ、厳しく言います。その根底には、立華の伝統を絶やしたくないという思いがありますが。今のままで満足しないことで、次の大会への切符を掴む権利は得られると思っています。あの時やっていればと後悔したくない。それが私のモチベーションでした」
「なるほど……」
後悔したくない。それはきっと多くの部員が抱いている事だろう。頂きを目指すというのは私と同じ考え方だった。妥協した瞬間、その奏者はそこで終わる。完璧は存在しない。どんなに上手くできても、もっと上を目指す。全ては、たった一瞬の時のために。一瞬のために全てを捧げる存在こそ、奏者というモノなのだと思っている。とすれば、立華の考え方は一高校生というよりプロフェッショナルに近いのかもしれない。
先ほどから話を聞いているマーチングの技術や指導についても、要所要所にお客さんという言葉が出てくる。これはすなわち、客を意識した演奏・演技をするという意識があることに他ならない。もちろん北宇治だって意識はしているけれど、立華のマーチングはさらに先を行っているように思える。それはまるで、私たちと同じ、客商売すら見据えたような捉え方。その凄まじさ、ストイックさに舌を巻く。
「色々とありがとうございます。貴重なお話を聞くことが出来ました」
「お役に立てたなら、幸いです」
原動力になっているのはやはり伝統が大きいのだろう。メモ帳には伝統の創出という私の繋げ字が大きく書かれている。伝統は権威と繋がる。そしてその存在は多くを従えるには効果的だ。だが北宇治には伝統が無い。正確にはあったのだろうけれど、長い間に廃れていき、残っていた最早悪弊に近かったモノは先生と私により全部破壊されてしまった。それによって北宇治は今まっさらな画用紙に近い。
ここからどういう伝統を作っていくかは私たちに委ねられている部分が大きい。変な伝統を残してしまうと、また北宇治を変な方向に導きかねない。それを認識できただけでも、今回の立華との練習は大きな学びがあったと言えるだろう。
「なんだあのトロンボーンの一年生。死ぬほど上手いな」
「ですね……」
ジャージで練習していたため、終わった後は着替えをしないといけない。男子組はこういう時いつも待機をさせられていた。私の呟きに、ため息を吐きながら塚本君が返事をする。その表情には悔しさと疲労の色があった。
立華との練習はまず一回通しで演奏することから始まった。そこで私たちが多くの指摘を行って、それを踏まえてパート練習が行われる。私もトランペットパートを中心に色々と教えを乞われて少し疲れている。立華の子はガッツが凄まじい。体力もあるので、ドンドン練習していく。流石マーチングが主体なだけのことはある。
「あの子、北中の子でしょ」
「そうです。ただ、中学の時はあんなに上手くなかったんですけど」
「あれ、音大行けるね、間違いない」
「でも今年の三年生にあいつより上手い人いたらしいですよ」
「あぁ、確かに立華のトロンボーンになんか化け物みたいなのいたなぁ」
「その人、初心者だったらしいですよ。高校から始めた」
「マジで?」
「マジです」
「よかったぁ、同じ楽器じゃなくて。同業者になるところだった」
流石立華。とんでもないのを平然と擁している。清良でも色々とショックを受けている部員は多かったし、塚本君も色々触発されていたようだけれど、ここまででは無かった。多分、見知った人だからこそこういう風になるのだ。
「そう言えば、ちかおに彼女出来たの知ってます?」
「あぁ、知ってる知ってる。本人がこの前言ってた。高久さんでしょ、クラの」
「です。やっぱり知ってましたか」
「そりゃまぁね。そういう君はどうなんだ?」
「……この前後藤先輩にも相談して、色々悩んだんですけど、後悔したくないので行くことにします。高校生活、終わったらあっという間っぽいので」
「そうか。応援してるぞ。前に言ったこと、覚えてるか」
「失敗したら奢ってくれるんですよね」
「その通り。ただ、私はやっぱり金欠なのでやりたくない。だから絶対落としてこい」
「はい。頑張ります」
「よし、その意気だ!」
バシッと塚本君の背中を叩く。トロンボーンのことも、恋愛のことも、彼は前に進もうとしている。それの背中を押すのが先輩としての役目だろう。上手くなりたいとその顔に書いてある。その情熱を失わなければ、彼はきっともっともっと上手くなるだろう。
「本日はありがとうございました!」
「「「ありがとうございました!」」」
最後まで立華のデカい声に圧倒されていた我々北宇治だったけれど、無事に練習は終了した。最後に向こうの顧問に少し挨拶をする。伝統について考えるきっかけになったし、マーチングに関しても知識を習得できた。立華の積み重ねられてきたノウハウの一端を手に入れたことも、今後の北宇治に役立っていくことだろう。
立華高校の顧問、熊田祥江先生。おしゃべりな名物顧問である。経費削減のために自らトラックを運転するパワフルな人間性は、立華を体現しているのかもしれない。
「いやぁ、どうもどうも。ウチの南と翔子は役に立ちましたか」
「大変多くを学べました。どうもありがとうございます」
「いやぁ、滝先生ともお話ししましたけど、北宇治さんがここまで来たのはその見識と的確な将来予想が大きいと思いますわ。ウチのトランペットの子たちもいい刺激を貰いましたんで、そのお返しが出来たなら幸いです」
その大きな声はよく響く。私の周りにはあまりいないタイプの先生だった。
「ウチもね、この前の定演でそちらの曲やってみたんですよ。清良さんがやってたし行けるかなぁって」
「そうでしたか、ありがとうございます」
「それでね、部員とも話したんですが、あれ清良さんどうやって完成させたんか全く分かりませんでしたわ。今度アドバイスくれると助かります」
「もちろんです。次の練習の時にでも」
私も清良がどうやって完成させたのかはさっぱり分からない。自分で書いておいてなんだが、あの曲は自分でも吹きたいとは思わない。自分のやりたいことを詰め込んだらスゴイ難しい曲になってしまった。だからこそ駅ビルコンで聞いたときは大したもんだと思ったわけだが。
熊田先生に頭を下げ、立華を後にする。ここからはぞろぞろとまた北宇治に戻っていくだけだ。まだ今回は第一回の練習なので、粗削りな部分も多く、今後もっと詰めていかないといけないだろう。
「……」
「あの、どうかしました?」
「……」
ツーンとした顔でそっぽを向いている相手に対する対応方法はイマイチよく分からない。怒っているのか拗ねているのか。私の隣をフルートを持ちながら歩いている彼女は、黙ったままだった。ただ一つ言えるのは、少なくとも私に対して意図的に分かりやすく不機嫌ですよ~とアピールしているのだろう。
「立華の元ドラムメジャーさん綺麗な人だったね」
「あ、喋った」
「黙ってるのも疲れたし、無視するのも良くないから。で、綺麗だったね」
「まぁ、それは確かに」
「ふ~ん。ああいう人が好みなんでしょ、知ってるよ」
「なんで? どこ情報」
「滝野君」
あの男余計な事してくれたなぁ! と心の中で毒づく。確かに滝野の言っていることは正しいし、実際もし希美に出会ってなければ他校のもうすぐ卒業する先輩を好きになるという面倒な行為をしていた可能性がある。とは言え、今の私が好きな人は希美であり、綺麗だなぁとは思いつつも別に付き合いたいとか恋してるという感情にはならない。
だとしても滝野には後でちょっと痛い目に遭って欲しい。
「まぁ確かに見た目は綺麗だと思ったけど、別にそれ以外は特に。付き合いたいとかは思ってないし」
「そうなんだ」
「妬いてる?」
「違います~」
「ホントに~?」
私のちょっと揶揄った言葉には鞄を足にぶつけてくるという攻撃で返答が返って来る。別に大して痛くはないけれど。冗談めかして言ったけれど、もし本当に嫉妬してくれているのなら嬉しいと思ってしまうのはダメなのだろうか。
「あの、私もいるんだけど……」
「あぁ、ご、ごめん!」
みぞれは困ったような声で少し後ろから声をかけてくる。困ったような声ではあるけれど、その中に無視して青春してんじゃねぇぞというような雰囲気を感じる。私を見る目が若干冷たいのは、気のせいだと思いたかった。別に浮気しているわけでは無いし、私が好きなのは一貫して希美なので、お願いだからそんな目をしないで欲しい。彼女のジトーっとした目が一番心に来るのだ。
立華高校との合同練習が進行していく中、我々北宇治の一部部員は他にも抱えているモノがある。正確には私を含めた四人だが。それはソロコンの関西大会に向けた練習だ。ソロコンは先輩たちの卒業式の前、2月28日の日曜日に行われる。場所は奈良県立橿原文化会館小ホールだ。奈良県まで行かないといけないので結構面倒だ。近鉄で一時間半ほどで到着するが、十数駅乗ってないといけないのでやはり大変な事に違いはない。
既に演奏順番は発表されており、希美は19番、みぞれは29番、高坂さんは71番である。それに伴って、私は三回もピアノを弾くことになっていた。関西大会の出場者は出場に7000円近く取られており、しかもこれは自費負担だった。高坂家と鎧塚家はポンと出してくれたらしい。傘木家は関西大会ならまぁ、良いかと言う感じだったと聞いている。予選大会の費用もかかっているし、吹奏楽は金食い虫だった。
そして前日の土曜日。最後の練習ということで、私の家の防音室で練習が行われていた。妹の受験も終わっているし、今は好き勝手に音を出しても構わない期間である。何回か私の家に来ている二年生二人に対し、高坂さんはガチガチに緊張していた。
「そんな固くならないで。というか、高坂さんの家も結構大きいと思うんだけど」
「いえ、こんなじゃないので……」
一回だけ彼女の家を見たことがあった。とは言え、写真ではあるけれど。
「入り口がどこか分からなくてウロウロしてしまいました」
「あー、分かりにくいよね。ずっと塀だし」
長い廊下を歩きながら、彼女を防音室に案内する。
「和風の見た目ですけど、中は結構洋風ですね」
「ウチの両親の、というか母親の趣味でね。キッチンはシステムキッチンだし、ユニットバスだし、和室数室分ぶち抜いて防音室作るし、まぁ普通にちょっとヤバい人だね」
「でもそのおかげで私がこうして練習できるので」
「確かに」
「そうだ、母がお世話になってるのでこれを、と」
「ご丁寧にどうも」
高坂さんの持っていた紙袋を受け取る。中にはお菓子らしき箱が入っている。貰えるものはありがたく受け取っておくことにする。
「長いですね、廊下」
「無駄にね。掃除が大変で。もう使わない部屋は一ヶ月くらい掃除してないところもあって。デカいのに住む人が三人しかいないとこんなことになってる。夜中はちょっと歩きたくない。住んでても」
「……出るんですか?」
「いや、多分出ない。見たこと無いから、多分。怖い?」
「私は大丈夫です。久美子がこういうのは嫌いなので」
「へぇ、黄前さん怖いの苦手なのか」
「先生、悪い顔になってますよ……」
高坂さんがちょっと呆れた顔で言う。黄前さんは色々反応が面白い。田中先輩や夏紀が可愛がってるのもなんとなく理解できた。私はホラーは大丈夫と言うか、むしろ好きな映画はホラー映画という人なので、全然平気だ。家族で全然好きな映画が違うので基本趣味が合わない。雫さんはアクション系、涼音は恋愛系が好きだった。
「今日、ご家族は?」
「いない。どっちも用事で出かけてるからね」
「そうですか」
「そうそう。だから遠慮なく過ごして。明日が本番だし、最後の練習だろうから。はい、着いた。もう二人はいるから、ドンドンやって行こう」
扉を開けると、グランドピアノが目に入る。いつもこの黒い巨体が部屋に入った時に目に入る存在だった。部屋の中央にあるので自然と飛び込んでくる。アンプ系は隅っこに追いやられて最近日の目を見ていない。他には妹のバイオリンや私のコルネットなんかが壁際にしまってあった。防音室では譜面台を出して、既に希美とみぞれが練習を始めている。二人とも高坂さんよりは近くに住んでいるので、こうしてすぐに練習できるのだった。
「はい、じゃあ全員揃ったので取り敢えずやっていきますか! まずは一人ずつ」
私はピアノの椅子に座って準備を始める。関西大会の参加者は90名ほど。それで上に行けるのは僅か三人。かなり厳しい道である。けれど金賞を獲る事はもう少し難易度が低い。なので、せめて金賞は取れるようにするというのが目標だった。
「先生、今のところもう一回やってもらっても良いですか?」
「了解」
「凛音ー、こっちもお願い」
「はいはい」
「私も」
三人に合わせながら鍵盤を叩いていく。ソロコンの主役はあくまでも奏者である三人。私の行う伴奏は添え物に過ぎない。それはよくよく理解しているので、彼女たちのやりたい表現に合わせて演奏を行うようにしていた。それは前回の予選もそうだし、今回は一層意識的にそうしていた。
もし将来的にプロ奏者を目指すなら、人と合わせられないといけない。高坂さんには私のやっていることを見てそれを学んで欲しかった。それに、自分のやりたい音楽、芯のある音楽を奏でられないと特別にはなれないだろう。だからこそ、自分の表現、理想とする音楽をやってもらうために脇役に徹していた。
希美やみぞれも自分の理想とする形があるはずだ。それを鑑みて曲を選んでいるだろうし、私にこうしてほしいという要望を行っている。そうやって部員一人一人が理想とする音楽を束ね合わせて、最終的に北宇治のやりたい音楽になっていければ、一番の理想であろう。それは遠い道かもしれないけれど、南中ではそれに近いことをしていた。ならば出来ないということも無いだろうと思っている。
本番は少し曇り空の中行われた。朝早くから電車に揺られて一時間半ほど。奈良県を目指し南下して、そしてホールに足を踏み入れる。大和八木駅の近くにあるホールだった。関西地区で行われる予選を突破した精鋭が集まっているのがこの会場だ。予選段階では千人近い人が応募している。だがここに来れるのは90名ほど。その中に三人食い込ませた北宇治は健闘している方だろう。
演奏する曲は予選と同じ。希美は「チャルダッシュ」、みぞれは「動物の謝肉祭より白鳥」、高坂さんは「夏雲の唄」だ。いずれも予選段階よりも数日を経て磨きがかかっている。他の精鋭にも引けを取らないだろう。
演奏自体は一人四分なのだが、何せ人数が多いので十時から始めても七時間くらいかかる。終わるのは十八時ごろ。家に戻れるのは二十時くらいになるんではないだろうかと予想している。
「よし、じゃあ気張っていきましょう。北宇治ファイトー!」
「「「オー」」」
希美が高らかに声を挙げ、みぞれがそれに続いて拳を天に伸ばす。高坂さんは二人のテンションにちょっとビックリしながら、それでも合わせて手を挙げる。東京での全国大会を目指して集まったライバルの中でどこまで検討できるか。それがこれまでの努力の成果になる。私も伴奏役としてミスするわけにはいかない。三人のやる気に満ちた声を聞きながら、自分の頬を張った。
演奏は間に結構な時間を空けつつ、希美から始まる。その演奏は技巧的に非常に優れている。北宇治フルートパートのエースというに相応しい演奏だ。ハンガリー音楽の持つ特有の緩急を吹きこなし、曲の中に含まれている景色の違いをしっかりと表している。酒場という意味を持つタイトルを示すように、踊る如く演奏は進められていった。近世中欧の空気感を漂わせ、時代をさかのぼった世界観を会場に見せている。
ちょっと時間を空けて、みぞれの演奏になる。高名な「動物の謝肉祭」を使っているのは、有名曲でも吹きこなしてみせるというみぞれなりのプライドの現れなのかもしれない。この作品を基にしたバレエに「瀕死の白鳥」というものがあり、みぞれはそれを参考にしつつ曲を演奏している。オーボエは傷つきながらもなお高潔に白い羽を広げる白鳥を示し、そしてピアノはその白い身体を受け入れる湖の湖面だった。
そして最後の高坂さんは二人と大分時間を空けての演奏となる。夏の雲と濃密な空気感。爽やかさ、ジットリした蒸し暑さ、照り付ける太陽と昇る入道雲。日本人の心の中にある郷愁をトランペットとピアノが描き出していく。私が一年間みっちり教えたのは彼女だけである。吉沢さんは途中参加だし、希美もそう。高坂さんだけが一貫して春からずっと私に教えを乞い続けていた。それに応えるべく私も練習を進めてきた。私の二番弟子は圧巻の演奏で見事に夏の世界を表現している。夏の持つ儚さと強さが入り混じった演奏は、実にレベルが高かった。
全員の演奏が終わり、そして高坂さんから後ろの十数人が演奏した後、審査は終わりを迎える。ここから金銀銅に分けられ、金賞の中で三名だけが上の大会に進める。北宇治の三人で独占できればいいけれど、それは流石に現実的ではない。誰か一人でも良いから入っていてくれ、と願いながら私は発表を待っていた。
「それでは、これから中学生・高校生管打楽器ソロコンテスト関西大会、高校生の部の結果発表を行います。結果は以下の通りとなります」
印刷された紙が公開される。19、29、71を目で探した。まず19番、フルート、傘木希美の横には金の文字。まず一人と安堵して次に視線を移す。29番、オーボエ、鎧塚みぞれ。色は金。ソロコンは普通の大会より金は出やすい。同じ楽器の中で半分以上金の時もある。それでも取れているのは十分誇れることだろう。そして最後、71番、トランペット、高坂麗奈。金賞。何とか全員金で帰ることが出来ると胸を撫でおろした。関西の中でも優秀な奏者として評価されたということに他ならないのだ。他の強豪校にも引けを取らない奏者だと、自信を持って言って構わないだろう。
「次に、来たる三月末に日本橋で行われる全国大会に推薦する金一位から三位を発表します。金第一位、85番、チューバ、守山杏。金第二位、15番、フルート、湯川蒼馬」
フルートと言われた時に、希美が唇を噛みしめる。基本的に同じ楽器は選ばれない。つまり、希美はここで終わりだ。だからこそ悔しいのだろう。自分より上手いと判断されるフルート奏者がいたというのは、悔しいはずだ。その気持ちはよく分かる。そして残るのは最後の一人だった。
「最後に金第三位、71番、トランペット、高坂麗奈。以上三名」
合格した高坂さんはポカンとした顔で前を見ている。
「やったじゃん、高坂さん! 全国だよ、全国!」
「おめでとう」
希美は自分の悔しさを押し込んで、高坂さんを祝っている。みぞれも自分が呼ばれないことにちょっとムッとしながらも高坂さんに称賛の言葉を送っている。当の高坂さんはまだちょっとボーっとしていた。
「よくやった、本当によくやった」
私は呆けている高坂さんの手を取る。それでやっと彼女は現実世界に戻って来たようだった。
「先生、私……」
「よくやったよ。これで全国で選ばれた精鋭だ。君は私の誇るべき教え子だよ。一年間、よく頑張ってきた結果だ。本当によく頑張って来た。誰よりも遅くまで私の厳しい練習に耐えてきたからこそ掴みとれた。誇りなさい」
「ありがとう、ございます……!」
「あれだね、指導者が優秀だったからだろう」
「はい、そうだと思います」
「え、今のはちょっと否定するか笑ってくれないと……」
すごい真顔で肯定されるとちょっと困ってしまう。
「私一人じゃ、ここまで来れませんでした。先輩とか、友達とか、ライバルとか、当然滝先生と桜地先生のおかげでもあります」
「音楽は見えないものとの戦いだ。一人では戦えない。周りと助け合って、そうして前に進んでいくんだ。君の見えないものと戦った一年は、多くに支えられた一年だった。私だけじゃなくて、他の多くに。それを忘れないように」
「はい、はい……!」
「も~、折角おめでたいのに説教くさいと嫌われるよ。ねぇ、みぞれ」
「うん」
「そんな事無いから」
「もっと今はお祝いしてあげなよ。一年間、一番面倒見てきたんでしょ? ねぇ、みぞれ」
「うん」
みぞれが希美の全肯定botみたいになっている。私だって当然嬉しいに決まっている。教え子が結果を出してくれると嬉しくないわけがない。私が手塩にかけた教え子ならなおのこと。あの春の日に、彼女の先生になって良かった。心の底からそう思う。諦めたくないと叫ぶ彼女に突き動かされて、本当に良かった。私の手を握りながら泣いている彼女を見て、私も涙が出てくる。
会場の隅で嬉し涙を流している師弟を、希美とみぞれが優しいまなざしで見守っていた。
次回で一年生編は終わりになります。