音を愛す君へ   作:tanuu

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第七十音 卒業

 残すは立華との合同演奏会のみとなった頃、何とか見つけた全員の空いている日を使って、卒部会が行われた。全校規模で行われる三年生を送る会はまた別途で存在し、そこでも演奏したりしたが、今回は内輪だけの会である。三年生はそろそろ卒業式の練習で登校させられていたので、何とか日にちは合わせることが出来たのだ。

 

 去年のに出ていないからして何とも言えないが、少なくとも人づてに聞く限りでは、去年のものより気合が入っているらしい。それもそのはずだろう。全国に出場し、共に一年間努力を続けていたのだ。去年の三年生とは当たり前だけれど大違いである。かくいう私も二年生であるからして、当然の如くしっかりと準備をしてきた。

 

 卒業おめでとう、と書かれた黒板。飾られた音楽室は、普段練習しているときに見るのとはまた違った非日常風に演出されており、その内装の特別感が否応なしに別れの近い事を認識させられる。終わってみればあっという間だった。こんなにも悲しいのはきっと、積み重ねてきた時間があるからだろう。

 

 そして、司会担当の加藤さんによる合図で三年生の入場が始まる。

 

「それでは、卒業生の入場でーす!」

 

 皆と共に歓声と拍手を送る。それに笑いながら手を振り、応える先輩方。

 

「香織せんぱーい……!」

 

 優子は大きなリボンを揺らしながら、もう泣いてる。流石に早いと思うけれど、気持ちはわかる。つられて涙脆くなりそうなので勘弁してほしい。先輩方に向けられる皆の視線はどれも、懐かしさや悲しみで出来ていて、思い出を振り返っている。

 

 寂しさを内包しながらも、着々と進行していく。今年は気合が入った寸劇やビンゴ大会も行われた。優勝賞品は小笠原先輩が獲得している。もう泣いてるのは先輩も同じだ。北宇治の部長は涙脆くないとなれないのかもしれない。

 

 スクリーンで流されるのは合宿中などに撮りためた秘蔵の映像。爆笑できるものや、クスッとできるもの。懐かしいなぁと思えるものを集めた。この動画編集にそれなりに時間がかかったけれど、反応がこの調子ならやって良かったと思える。これに気合入れた結果寝不足だけれど、頑張った甲斐があるというものだろう。

 

 会は順調に進み、卒業生による後輩たちへの演奏。曲名は「Staring the project」。その軽やかなメロディーからは確かな練度が感じられる。時間の少ない中でも、しっかり練習していたことが如実に伝わってきた。小笠原先輩の軽快なサウンド。田中先輩のコクのあるユーフォ。香織先輩の優しい音。それ以外にも、聞けばこの人だとすぐ分かる音が幾重にも響き渡っている。最後までカッコいい先輩であろうという意思が伝わって来る。

 

 このメンバーで来年も出来たら、きっと全国金も容易いだろう。そう思わせるほど、先輩方の演奏技術は向上している。でも、それは叶わない夢。一年でリセットされてしまう事もきっと吹奏楽の良さなのかもしれないと思う事で、悲しみを飲み込んだ。

 

「先輩たちと過ごした時間はその全てが私たちにとってかけがえのない物です。それを後輩にも伝え北宇治吹奏楽部を作っていきたいと思います。そして全国、金をかならじゅ……」 

 

 噛んだ。しかもかなり盛大に。先輩たちがこらえきれずに噴き出す。優子と共に前に立っていた夏紀が呆れたように突っ込んだ。

 

「大事なところで……」

「うるさい! えっと、では私たちの決意を込めて、卒業生の皆さんにこの曲を送ります」

 

 そして出番がやって来る。横に控えていたが、出番が来たため前に出た。本来ならば、この役目は希美がやる予定だったが、彼女も吹くべきだろうと考えて交代した。丁度適役がここにいるのだからやらない手はない。礼をして、くるりと体を反転させる。奏者たちを一瞥し、指揮棒を構えた。楽器が構えられたのを見て、その手を振り下ろす。

 

 軽快なトランペットがけたたましく音を奏でる。それに続くように音は次々響き渡る。幾度となく練習でやってきたこの曲こそが、門出に相応しい。春には初心者だった子も、そうでなかった子も。大会メンバーもそうじゃない人も。今は一丸となってこの曲を奏でる。その心中を慮りながら、腕を動かす。前にいると分かる所々欠けた音のパーツが、いささか物足りない音量が、先輩たちの存在感を示していた。それでもそれを埋めるように演奏は続く。

 

 そして始まるトランペットのソロパート。何度でも思い出される記憶。そのフレーズに込められた思い。万感の思いを込めてと言うべき演奏に聞きほれる。奏者の高坂さんを見る優子の目に、かつての剣呑さはもうない。優しい眼差しが静かにその指使いを見守っていた。後ろの香織先輩は何を思っているのだろうか。振り返れないもどかしさを感じながらも、きっと優しい目線を送っているのだろうと想像した。

 

 あの口論も、あの公開オーディションも、いつかは青春の一ページとして、過去の中に沈んでいくのだろう。でも、きっとこの曲を、このメロディーを聞けば、蘇るはずだ。辛く苦しくても、一生懸命で輝いていた記憶が。高坂さんの情熱に突き動かされ、孤独を感じながらも部内の変革に着手した。先輩を動かし、後輩を動かし、同期を動かしながら海兵隊をやり、そしてサンフェスに挑んだ。斎藤先輩を引き留め、オーディションで苦しみ、府大会で歓喜した。

 

 希美に翻弄されつつも迎えた関西大会では実力で勝ち取った奇跡を目の当たりにした。文化祭、田中先輩の母親との対面、南中や清良と言った強豪校との交流、そして全国大会。全ては輝くような日々の中にある。決して幸福な事ばかりではなかったけど、それでも確かに幸福と呼べるものがそこには存在していた。少なくとも、私はそう思っている。

 

 そして、追憶に思いを馳せながら、演奏はフィナーレを迎える。最後の盛り上がりに、私は渾身の指揮をする。情熱は失われ、悲歎の中にいた人生はここで変わった。その想いを込めて勢いよく、そして壮麗に締めくくる。やりきった充実感が満ちていた。振り返り、再び一礼する。

 

 パチパチと鳴り響く拍手が、この演奏が大成功であることを証明していた。その拍手はかつて異国の地で聞いた観衆の喝采よりも、なぜだか嬉しいものに感じられた。

 

「本当に、ありがとうございました。こんな素敵な会を開いてくれて、本当に……感無量です」

 

 最後の挨拶で小笠原先輩が泣きそうになりながらも言葉を紡いでいる。

 

「後輩の皆には沢山の迷惑をかけてしまいました。頼りなかったり、正直誇れるような先輩では無かったこともあったと思います。それでもみんなが付いてきてくれたから、私たちは今年の結果を得られました。先生方も、私たちを上に連れて行ってくださいました。本当に、ありがとうございます」

 

 最後の方は涙声で何言ってんだかよく分からない先輩の声。大きな拍手が響き渡る。それに小さく微笑みを浮かべながら、リモコンのスイッチを入れた。プロジェクターが再起動し、設定した通りに映像が流れ出す。台本には無い演出は、私が勝手に付けたしたサプライズ要素である。突然動き出した機械に驚きながら先輩が後ろを見る。それ以外の先輩も、在校生も、先生も視線が画面に集まっていた。

 

「改めまして、ご卒業おめでとうございます。きっと今頃、この映像が流れている頃は小笠原先輩が泣いている頃でしょう」

 

 映像の中の私が話し始める。優子が目を丸くしながらこっちを見てきたので、適当に肩をすくめて返事をしておいた。後で話がある、と口パクで返って来る。ちょっと怒られることになりそうだ。

 

「今年一年、先輩方のおかげで私自身も多くのモノを得ることが出来ました。改めてお礼申し上げます。全国大会出場と言う結果を掴みとれたのは、先輩方のご協力があってこそです。本当は一人一人申し上げたいことがありますが、そうしていると日が暮れてしまいます。ですので、代わりに何かできることは無いかと考え、こうしてサプライズを贈ることとしました。では、行きます!」

 

 カメラがズームアウトして、会場全体を映し出す。場所はオーストリアのウィーン。私のコンテストの会場だった。色々無理を言って数時間だけ空けて貰っている。六連覇なので恐らく許可されたけれど、普通に結構無理筋な事を言ったので、後で色々頭を下げる羽目にはなった。とは言え、最終的にOKが出たので良かったと思っている。

 

 画面の中央にはギターを構えた私。普段はキーボード担当だけれど、ボーカルが日本語出来ないので今回は交代。ベース担当が亡くなっているので、いつもなら頑なにバイオリン以外やらないフランチスカに平身低頭でベースをやってもらっている。背景には予定の空いていたコンテストの参加者に声をかけてバックミュージックを担当してもらっている。よくまぁこんなに集まったと今更ながら思っていた。私の人徳もまだまだ捨てたものではないのかもしれない。

  

 我々以外は練習時間三十分の一発撮りで完璧なのを出してきたので、流石はプロの集団だろう。私のお世話になった人の卒業用と言ったら快く参加してくれたことに感謝していた。しんみりしているのはそんなに好きじゃない。華やかに送り出そうと曲を選んだ。

 

「「いま!」という この瞬間 なんだって 音楽に 出来たらいいのに まだ 全力で やり切ってない 悔し涙 拭ったんだ 青春のフレージング」 

 手拍子が聞こえてくる。バックサウンドのトランペットやトロンボーンが鳴り響き、木管組が合わせるように爽やかなサウンドを送る。間奏に入れば音楽室から歓声が上がる。全国大会出場という、大げさな夢を追いかけ続けた一年。そしてその先につかみ取った一年だった。だからこそ、それを象徴する歌を選んだのだ。取り敢えず成功したと思って良いだろう。小笠原先輩がさっき以上に号泣しているのを見ながら、そう思えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 雪の予報の出た曇天の中、先輩方の卒業式は行われた。重厚な雲に覆われた空に、青い部分は見えない。体育館には既に多くの生徒が集められている。壁には紅白の幕が垂れている。後方のパイプ椅子の席には保護者が微笑みを湛えながら着席していた。吹奏楽部は入退場の演奏の関係で、最初から最後まで一般生徒とは異なり体育館の端にいる。卒業証書授与式。掲げられた文字を見つめ、そっと目を伏せる。

 

『卒業生、入場』

 

 拍手が響くと共に、体育館の重い扉がゆっくり開かれ、卒業生の入場が始める。滝先生の指揮が始まり「威風堂々」を奏で始める。普段私は演奏に携わることはないが、今回は例外である。吹奏楽部の部員として、この高校の生徒としてやらない訳にもいかないだろうと思って、演奏する事にした。

 

 合奏など随分と久しぶりの事であり、練習時は感覚を取り戻すことからスタートした。隣の席の高坂さんはあからさまに緊張している。ソロコンで一緒じゃないかとは言ったけれど、トランペットとピアノでは違うらしい。リハーサルの時から珍しくガチガチなので、そんなに緊張しなくても、と告げるとプロの隣で演奏しろと言われた高校生の気持ちを分かってくださいと言われてしまう。

 

 随分昔以来本当に久方ぶりに奏者席から指揮者を眺める。演奏しながら、少しだけ視線をずらし、入場する三年生の列を見つめる。無意識にか意識的にか、見知った姿を探し求める。そして見つけたときには安堵した気持ちになった。

 

『校歌斉唱』

 

 与えられた席から立ち上がり、練習通りピアノの前に座る。毎年卒業式や入学式のピアノ担当は音楽の先生が決める。今年は松本先生と滝先生がその役目だった。オーディションをする年もあるらしいのだが、在校生の分は私で良かろうと二人で判断したらしい。ソロコンも出ているし、最近はトランペットよりピアノの方に練習時間を割いている気がする。椅子に座り、鍵盤を鳴らした。

 

(みやこ)の南 緑の地

 澄みし碧空 天高く

 千歳の山吹 咲き誇る

 白亜の学び舎こそ 我らが母校

 赤き血潮は 胸に満つ

 あぁ 北宇治高等学校

 

 宇治川照らす 夏の陽も

 紅葉を濡らす 雨雪も

 我らの希望は 砕けまじ

 凛たりし(いらか)こそ 我らが母校

 優美な心を 育まん

 あぁ 北宇治高等学校」

 

 慣れ親しんだ校歌が歌われ、式は順調に進んでいる。先輩方の名前を各担任が読み上げる。それに応え、先輩方は返事をする。慣れ親しんだ声が聞こえると、小さく嗚咽が聞こえる。壇上に見えるのは黒い学ランと茶色の制服。若さの象徴ともいえるそれに身を包むのも、きっと今日が最後なのだろう。そんなノスタルジックな感情の余韻に浸る暇も与えず、無情にも司会の教頭先生は己の職務を全うする。あまり接点のない現生徒会長による送辞と元生徒会長による答辞が終われば、出番がやって来る。

 

『続きまして、在校生による送る歌です』 

 

 その言葉にざっと在校生が立ち上がる。勿論吹奏楽部部員も楽器を置いて立つ。私はと言えば、また体育館の前方に鎮座するグランドピアノの前に立つ。今回のお役目は伴奏者である。ついでに言えば、指揮は希美が務めている。この両名も音楽教師が指名するので、吹奏楽部の生徒から選ばれる確率が高い。その方が先生もやりやすいのだろう。希美は南中で部長だったし、指揮は出来る。それは滝先生も松本先生も知っていたようだ。

 

 音大の入試科目にはピアノが必須であるため、弾けない訳がない。希美とのコンビは中学時代の合唱祭以来である。それもあってか、お互いやりやすい。

 

『指揮は傘木希美。伴奏は桜地凛音です』

 

 そのアナウンスに頭を下げる。ステージからこちらを見てくる希美に視線を返す。それを見て微かに頷き、彼女は腕を振り始めた。時々ステージを確認しながら演奏をする。合唱の伴奏はただ演奏するより難しいまであるが、これでも音楽家だ。プライドにかけてしっかり弾ききる。弾き終われば再び立ち上がり指揮者と共に一礼。列席者からは見えないピアノの裏側で合流して、小さくグータッチをして、自席へ戻る。

 

 次は卒業生の歌である。流れてくる歌声の中に、微かに、それこそ耳のいい人しか聞こえないであろう大きさの声が聞こえる。二人のトランペットの先輩の歌声。それにキュッと胸が締め付けられる。ふと、隣の高坂さんを見れば、その瞳には確かに光るものがあった。

 

 

 

 

 

 退場曲の演奏も終わり、式が終了する。その後は下校する先輩たちを見送る場がある。皆は思い思いの人と時間を過ごしていた。聞こえる威勢のいい声はサッカー部だろうか。それともバスケ部かもしれない。なんにせよ、彼らは青春最後の思い出として胴上げをやっているらしい。その姿もまた一つの青さの表れに感じられた。保護者はそれを生暖かい目で見守っている。

 

「もし」

 

 後ろから声をかけられた。そこには正装を来た中年の女性。その顔を見て、すぐにピンときた。

 

「この度はご卒業おめでとうございます。それと大学の合格も」

「ご丁寧にどうも」

「心よりお祝い申し上げます。田中先輩の新たな門出を」

 

 卒業式なんだからいるだろうとは分かっていた。けれど、まさか声をかけられるとは思っておらず、少し動揺する。田中先輩はしっかり第一志望の大学に受かっていた。同じ進学クラスの斎藤先輩も、自分の志望校に合格している。受験という理由で退部しようとしていた彼女を引き留めたのは私だ。その結果もし振るわなかったらどうしようと戦々恐々だったが、合格したという報せを聞いて安堵したのを覚えている。

 

「あなたには、お礼を言わなくてはいけませんね」

「そんな事をしたつもりは特にありませんが。こちらこそ、田中先輩の合同演奏会への参加を許可してくださりありがとうございます」

「もう、受験は終わりましたから。これからはあすかも自由に生きていくのでしょう。私は、娘の枷でした」

「……」

「とは言え、何も分からぬまま娘に捨てられるよりは今の方がずっといい。そう思えています」

「演奏はお聞きになりましたか」

「えぇ。……やはり私にはまだ、あの楽器を受け入れるのは難しいかもしれません」

「そうですか……」

「ただ、前よりは幾分か、マシになったようにも思います。何より、娘があんなに生き生きと演奏している姿を私は初めて見ました。あんなに楽しそうに、あんなに自由に。私はきっと、間違っていたのでしょう」

 

 少し憑き物の落ちたような顔で、相手は語っていた。職員室で怒鳴っていた頃、私に説得されていた頃の憔悴した様子とは違う。あの全国大会はこの親子に何か、変化をもたらしたのかもしれない。それがどういうモノであれ、停滞したままよりずっと良いはずだ。

 

「さぁ、そればかりは何とも。私はただ、切符を渡したにすぎません。お母様と先輩が前に進んでいくための。それをどう使うかは自由です。いかなる結末であれ、私は選び取った道を見守ることしか出来ませんから」

「実は、名古屋で元夫に会いました」

「そうでしたか」

「ほとんど会話らしい会話はありませんでしたが……それでも抱えたまま生きていくよりは良かった。ですから、こうしてお礼を申し上げたかったのです。そして、娘の件でご迷惑をおかけしました」

「私はただ、吹奏楽部のために必要な事を行ったまでです。そろそろ私も行かなくては。お世話になった先輩との別れですので」

「お時間取らせました」

「いいえ、お気になさらず。もう会うこともないでしょう。ですので最後に一つだけ。先輩共々お幸せに。それでは失礼します」

 

 頭を下げて、母親の前を辞す。私に何が出来たとも思わない。ただ、なるようになっただけだ。もし何か力が働いたとしたら、それは本人たちの前に進もうとする意思だろう。私が何かをしたとするのなら、それに少しだけ火を付けたにすぎない。

 

 人でごったがえす道をかき分け、前に進む。吹奏楽部の部員が多く集まるゾーンを見つけた。優子は既に香織先輩に抱き付いている。その姿に苦笑しながら近付く。

 

「先輩方、卒業おめでとうございます」

「ありがとう」

「ピアノ、良かったよ」

 

 二人の言葉に涙腺が決壊しそうになりながら、何とか押しとどめる。一番お世話になった先輩がこの二人だ。入部した時。今はいない旧三年生に嫌がらせを受けた時。退部した時。再入部した時。オーディションの時。それぞれの大会で。思えば、今年一年の部活での日常はこのパートと共にあった。それは、きっと二人が優しく受け入れてくれたから。

 

「香織先輩……。私は、先輩の後輩になれてよかったと思っています。心の底から、掛け値なしに」

「ありがとう。嬉しいよ」

「先輩に出会えてよかった。人として、好きになれて、尊敬出来てよかった。本当に、これまでありがとうございました」

「私の悔しさは、もうリベンジできないから。だから次の大会の時に、皆を助けてあげて。それと、新しく入って来る一年生の子たちも、守ってあげてね」

「はい、もちろんです。先輩の頼みなんですから、必ず遂行してみせます!」

 

 彼女がいなければ、私はどこかで心が折れていたかもしれない。彼女がいなければ、私は前に踏み出す勇気が持てなかったかもしれない。思い出と青春の中にいた、一輪の花。優しさに満ちた、明るい陽だまり。先輩はきっと、そういう人だ。あなたがいてくれて良かった。そう思わなかった日はないだろう。

 

「みんな、これからの北宇治吹奏楽部をお願いね」

「今年の大会は、金頼むよ」

 

 その言葉に滝野も加部も優子も一年生二人も、そして私もしっかりと頷く。その姿を見た二人は顔を見合わせ小さく頷きながら「ありがとう」と口にする。そして泣きそうになりながらも大輪の花のような笑顔を浮かべるのだった。

 

 学校の花壇には冬の寒さにも負けず花が咲いている。冬咲きのスイートピー。その花言葉は「門出」そして「前進」。さようならは言わない。だからせめて笑って見送ろう。六人で話し合い、そう決めていた。だから、私たちは六人でこう告げるのだ。

 

「今までありがとうございました。また会いましょう!」

 

 

 

 

 

 

 

 香織先輩たちの卒業式の二日後。今度は中学校の卒業式だった。制服でもいいけれど、どちらかと言うとスーツの方が慣れている。と言うより、私はあんまり学ランが好きじゃない。首がなんとなく苦しいからだ。なので、今日はよく着ているスーツを引っ張り出していた。

 

 ワイシャツのまま台所に立つ。中学生の妹に料理を作るのは今日が最後になるだろう。私とは朝のタイムスケジュールが違うのでいつもバラバラに作っていたけれど、高校に入ってからは同じになるはずだ。少なくとも一年間は。お弁当は数日前に最後のモノを作り終えている。どうせまた四月から作らないといけないのに、無性に寂しかったのを思い出す。

 

「おはよう」 

「あぁ。朝ごはん、出来てるから」

 

 妹は挨拶もそこそこにご飯を食べ始める。雫さんはまだ着替えに時間がかかっているらしい。体育館に入れるのは九時からなのでそんなに焦らなくても良いのだけれど、髪の毛のセットが終わらないと言って部屋に引き籠って悪戦苦闘していた。

 

 ラジオからは朝の番組が流れている。昼の準備をしながらそれをぼんやり聞いていた。夜は珍しく外食なので準備しなくて良いから助かる。

 

「ごちそうさま」

「おいといて」

 

 置かれた皿。そして妹は制服に着替えに言った。南中の制服に袖を通すのも今日が最後になるのだろう。洗い物を終えて、一段落したところで椅子に座ってマグカップに淹れたコーヒーを啜る。広げた新聞には桜が咲き始めているという情報が出ている。まさに今日と言う日にピッタリかもしれない。

 

「兄さん」 

 

 顔を上げると、制服に着替えた妹がスッと背筋を伸ばして私の前に立っている。右手にカップを、左手に折った新聞を持って足を組んで座っている姿はあまり褒められたものではないかもしれない。現に希美にはお父さんみたいと言われてしまった。

 

「どうした」

「今まで、ありがとうございました」

「……雫さんにもお礼は言ったか」

「さっき言ってきた」

 

 新聞を畳んで、足を戻し、彼女を見つめる。随分と背が伸びた気がする。それだけではなくて、中身もきっと成長したのだろう。涼やかに音が響く。そういう思いを込めて名付けられた通り、彼女はしっかりと育っていた。二年前、暗闇の中にいた彼女は希美が外の世界に連れ出した。半年前は滝野が引っ張ってくれた。私は大したことなど何も出来ていない。周りの力と、本人の力に頼るしかなかった、無力な兄だ。

 

「お父さんとお母さんが死んじゃってから二年半、ずっと私のことを見守ってくれていて。沢山ワガママも言ったし、沢山文句も言ってしまいました。冷たくしたり、無視したり、言うこと守らなかったり、いい子では無かったと思います。でも、私は兄さんが私の兄で幸せだったと思っています。ありがとうございました。それと、ご飯も美味しかったです。ずっと言えなくてごめんなさい」

「気にしなくていい。涼音が健康に過ごせたなら、それでいい」

「行ってきます」

「あぁ、行ってらっしゃい」

 

 顔を綻ばせて、私は彼女を送り出す。私は両親の代わりになれただろうか。飾られた写真に視線を送った。物言わぬ写真は何も答えてはくれない。きっと代わりにはなれないのだろう。それは一生かかったとしても。だとしても、ありがとうという言葉は確かに私の中で何度も繰り返し鳴り響いていた。

 

「あぁ、何とか準備が終わりました」

「そうですか、良かった」

「涼音さん、急に来てお礼を言ってからピューっと去って行ってしまいました。言ってる方もなのでしょうけれど、言われている方も少し気恥ずかしさがありますね」

「そうですね。若者はいつの間にか、大きくなっているものだと実感させられました」

「……そうだ、携帯が充電しっぱなしです。ちょっと取りに行かないと」

 

 そう言うと、雫さんはまた部屋に戻っていく。ダイニングには私が一人だけ取り残された。手に持っていたコーヒーを口に運ぶ。苦味に混じって、僅かな塩気。潤んだ視界で原因を探ろうとすれば、それはすぐに分かった。私の頬を伝う何本もの涙の線。それが全部カップの中に入ってしまったのだろう。膝のあたりで持っていたから垂れてしまったのだ。

 

「なんで、泣いて……」

 

 そう呟くも、涙は止まらない。どんどんと溢れ出てくる。毎朝早起きして、弁当と朝食を作って、部活に行く妹を送り出してきた。自分が吹部に戻っても、それは変わらなかった。何かリアクションが返って来ることなんてなかったけれど、それでも私がやらなきゃいけないという使命感に突き動かされてずっとやり続けていた。或いは、彼女が一番苦しんでいるときに何もしてあげられなかったことへの、罪滅ぼしだったのかもしれない。

 

 そんな利己的な行動に与えられた感謝と美味しかったという言葉。不甲斐ない兄だと思っている。それでも、そんな言葉を貰えたことが何よりも嬉しい。 

 

「よかった、元気に病気も無くここまで来れて、本当に、本当に……」

 

 言葉にならない嗚咽が漏れ出る。初春の日差しが窓から差し込む。その光の中、私は止まることなく涙を流し続けた。たった一人の妹の、その人生が幸福に満ちていることを願いながら。

 

 

 

 

 

 

 

 かくして一つの曲が終わり、そして、次の曲が始まる。

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