吹奏楽部を引退して、私はいよいよ受験に入った。全国金賞という史上初の結果を勝ち取れたことは、私の人生において今度も誇りであり続けるのだろう。集合写真は私の部屋に飾られている。そこには嬉し涙の跡が残る顔の部員たち。光栄な事に、真ん中にはトロフィーを抱えた私が写っている。いつか思い出が過去のモノになって色褪せていくとしても、あの日のことはきっと忘れやしないのだ。
成し遂げた結果を噛みしめて、少し燃え尽きながらも目標を主席合格に絞って勉強を続けている。兄はめんどくさがって進学クラスに行かなかったが、大卒ではない私はしっかり勉強するためにも進学クラスに入学したい。出来れば、一番で。偏差値が全てではないけれど、やはり日本には学歴フィルターが存在している。なるべく選択肢を広げるには、上を狙うのが上策。北宇治に行くのは偏差値を無視した判断だからこそ、大学を見据えておきたい。私は雫さんや兄のように道を外れても問題ないような能力はないのだから。
「と言うか、君塾行かなくていいの?」
「いい、別に。必要ないし」
「受験生で必要ないって言いきる人初めて見たかもしれない」
兄は呆れたような声で言う。でも実際特に必要としてはいなかった。勉強なら今どき幾らでもやりようはある。教材は売っているし、教師役も家の中にいる。雫さんは中退でも元京大生。芸大時代は家庭教師のバイトをしていたらしいので、教えるのも上手い。だからちょくちょく助けてもらいつつ勉強は進めている。英語だけは兄に聞けばいいし、経済的にもそっちの方がいいのはよく理解しているつもりだった。
そんな中、クリスマスがやって来る。今年は誕生日に合わせて特別なプレゼントを用意してくれるらしいので、クリスマスプレゼントは無しだ。その代わりと言ってはなんだが、北宇治吹部の二年生が集まってワチャワチャするらしい。受験生だから迷惑じゃないか、と兄に聞かれたが、特に問題ない。一日やらなかったくらいで落ちてしまうんだったらそれまでだ。そう言いながらずっと勉強しないならともかく、それくらいの自制心はあるつもりでいる。
迎えた当日には結構たくさんの人が来ていた。私を見た時の反応は十人十色。どんな反応であれ、桜地家の娘として、妹として兄の顔に泥を塗らないようにしっかりとおもてなしをする。先輩たちから今年の北宇治について生の声を聞けて、モチベーションも確保できた。時々兄への面白い話が混ざっていて笑ってしまう。男子の中では意外と普通の人らしい。全体の前に立つ時と個人を相手にしている時では多分違うんだろう。
希美先輩、優子先輩、みぞれ先輩とも会えたし、実質初めましてだったけれど南中出身の先輩の夏紀先輩にも会えた。彼女は副部長の座を継承したらしい。茶色っぽい髪のクールそうな人だったけれど、話すと存外とっつきやすい。思えば、今北宇治を実質的に仕切っているのは皆南中の先輩たち。かつて排斥される側だった存在は、今や部活を差配している。少し皮肉な事だった。
色んな先輩がいたけれど、兄が数少ない男子仲間を誘わない訳もなく、滝野さんも来ていた。私がお皿を運んでいた時にちょっと重いなぁと思っていたら、助けてくれる。あの時、花火大会で私の手を引いて走ってくれたのと同じように。
「大丈夫? 俺、手伝うよ」
「あ、すみません。ありがとうございます」
「ここに置けばいい?」
「はい。大丈夫です。わざわざありがとうございました」
「前見た時も思ったけど、元気そうで良かった。それと、金賞おめでとうな。いやぁ、すげぇもんだ。初全国で初金賞なんて」
「いえ、私一人の力ではありませんから」
あなたにも助けられたから、と心の中で呟く。助けられたと思っていたのはまごうことなく本当。あのままだったらきっと、私はハリネズミのように棘を逆立たせて、誰の言葉も聞かないままに殻に閉じこもっていたんじゃないかと思っている。そうなっていたらきっと、ここで今みたいに笑う事だって出来やしなかったはずだ。
「あ、そういや受験生なんだよな……。ごめん、こんな押しかけて」
「私も息抜きをしたかったので、丁度良かったです。もう一度お会いできて良かったですし」
「北宇治受けるんだろ? 受かれば嫌でも毎日顔合わせないといけないだろうから。アイツ、散々ずーっと自慢してるから疲れるわ」
「すみません、ご迷惑をおかけします」
「ま、良いんだけどな。俺も妹の話時々してるし。そうだ、俺の妹も北宇治受けるんだ。吹部入りたいって言ってるし、仲良くしてあげて欲しい」
「えぇ、それはもちろん! 私としても話に聞く純一さんの交友を深めたいと思っていたところですから」
「良かった、さやかも喜ぶ……あれ、え、俺のこと今名前で」
「さぁ何のことでしょうか。そう言えば、入学した後も引き続き名前で呼んでくださいね。兄と被るので」
ズイっと身を乗り出し、彼に顔を近づける。幻影ではない本物の希美先輩を見るきっかけ。間違っていたと思い続けていた部活運営を見直す勇気。そして、自分の味方でいてくれる人の存在。その全てを思い出させ、与えてくれた。それも忘れられるはずがない。全国で金賞と取れたのも、間接的にはきっと、彼のおかげな部分が大きいのだから。私が前を進むきっかけをくれた、二人目の太陽。そして、祭りの灯りの中、私の手を引いて駆けだしてくれた、不器用な優しさのあなた。私はちゃんと好きだった。ちゃんと、彼のことが。
「これからもよろしくお願いしますね」
進学理由がもう一つ増えている。こんな不純な動機で進学するのは良くないのかもしれない。けれど受かってしまえばこっちのものだ。どんな理由であれ、受かればいい。それに、吹奏楽がしたいのも嘘ではないのだし。もっとお話ししていたい。今はきっと妹のようにしか見られていないのだろう。実妹と同い年の女の子を恋愛対象にしたりは中々しないと思う。先輩や同期に美人が多いとなおのこと。
だから私は来年一年間で勝負しないといけない。私の恋情が実るかどうかの勝負。両片想いみたいな状態なのに兄の立場上の問題で進展しない希美先輩たちのようには、申し訳ないけどあんまりなりたくない。出来れば私は早めに成就してほしい。そうじゃないと今度は向こうの受験だ。それまでには、明確に言葉にできる関係になりたかった。友人の妹と兄の友人という関係ではない、もっと端的な名前の間柄に。
受験も終わり、卒業式の日を迎えた。合格発表の時に人目も憚らず泣いてしまったので、ちょっと恥ずかしい。また後輩になります、なんて恥ずかしい文章を希美先輩に送ってしまったことは軽く黒歴史だった。それでも一緒に全国を目指そうと言ってくれたのをよく覚えている。そして兄が泣きながら私を抱きしめてくれたことも。
部長って結構ブラコンだよね、と吹部の同期に言われたのをいまだに納得はしていないけれど、はた目から見るとそういう風に見えてしまうのかもしれない。とは言え、断じて違うと一応主張はしておいた。
それはともかくとして、何とか合格は出来たのだ。しかも新入生代表で入学式に話して欲しいと頼まれている。つまり、北宇治の毎年の慣例から考えると進学クラスの一番の成績で入学だったということ。目指していたのはそこだったので、その目標も達成できたことはとても満足できることだった。
兄は卒業式だということで学校をわざわざ休んで来ると言っている。学校に行くことを優先するように勧めても、頑として頷かなかった。こういうところになると頑固な人だった。
目覚ましの音で目を開ける。布団から起き上がれば明るい空は青く澄んでいる。中学に行くために食べる最後の朝ごはんを食べて、そして制服に袖を通す。この服を着るのも今日が最後になるだろう。春からは新しい、北宇治高校の冬服に袖を通すのだ。もう既に採寸は終わって、家に届いている。一回だけ試着した時も、兄は嬉しそうに頷きながら雫さんとずっと話していた。その時、私は聞いていた。兄が仏壇に向かって、小さな声で話しているのを。
「涼音が北宇治高校に入学することになりました。制服も似合ってます。きっと良い高校生活を送れるでしょう。私も吹奏楽部の指導員として、頼れる仲間と一緒に精一杯それを助けていくつもりです。二人の代わりになることは終ぞ出来ませんでしたが、どうか、見守っていてください」
兄はそう言って手を合わせていた。ずっとずっと私の面倒を見てくれていた。三食作って、母の代わりに色々と気を回してくれた。修学旅行の話だったり、部費の話だったり、結局私はその辺で一度も不便を感じたことは無い。それは多分、兄と雫さんでほぼ全部どうにかしてくれたから。今まで二年半以上お世話になった。私には何も返せないけれど、お礼を言うことくらいはしないといけない。仏壇で静かに祈る兄を見て、そう思わされる。
だから、言うことにした。いつもなら気恥ずかしいことも、きっと今日なら言えるから。兄は椅子に座って新聞を読んでいる。手にはコーヒーの入ったカップ。着ている服がスーツな事以外は、いつもとさして変わらないようにすら思える。当たり前のように朝起きたら既に起きていて、ご飯とお弁当が出てくる。帰ってきたら夜ご飯が出てくる。その当たり前がどれだけ貴重なものなのか、私はよく思い知らされていた。
「兄さん」
私は声をかける。兄はスッと視線をこちらに向けて来る。何の要件なのかさっぱりわかってないという顔だった。
「どうした」
「今まで、ありがとうございました」
「……雫さんにもお礼は言ったか」
「さっき言ってきた」
雫さんにも当然言ったに決まっている。私たちの面倒を見てくれているし、お金だって家に入れてくれている。花盛りの二十代なのに、遊びにも行かず浮いた話もないまま私たちを見守ってくれていた。家に帰れば昨日着ていたワイシャツがアイロンをかけられて綺麗に畳まれているのも、布団が干されているのも、全部やってくれているから。感謝していないわけがない。
「お父さんとお母さんが死んじゃってから二年半、ずっと私のことを見守ってくれていて。沢山ワガママも言ったし、沢山文句も言ってしまいました。冷たくしたり、無視したり、言うこと守らなかったり、いい子では無かったと思います。でも、私は兄さんが私の兄で幸せだったと思っています。ありがとうございました。それと、ご飯も美味しかったです。ずっと言えなくてごめんなさい」
言いたかったことを伝える。私が言わないといけない、感謝の言葉だ。それを聞いた兄は新聞を畳んで、テーブルの上に置く。そして至極普通の声で返事をした。
「気にしなくていい。涼音が健康に過ごせたなら、それでいい」
何でもない事のように、いつも頑張っている。それはよく知っているつもりだった。家の中でも、きっと北宇治でも。傷ついていることもあるけれど、それでも前に進み続ける。兄はそういう人だった。だから普通の高校生なら嫌だと思うような、妹の世話なんて仕事でもこんな風に、何でもないかのように言ってしまう。でも、兄を普通から遠ざけている一端が私だと思うと、申し訳なさも込み上げてくる。
「行ってきます」
「あぁ、行ってらっしゃい」
少しだけ微笑んで、兄は私を送り出す。玄関の戸を開ければ、桜の蕾が綻んでいた。その優しい行ってらっしゃいの声は、最後まで変わることなく。私を送り出してくれていた。まるで、両親と同じように。私がもし結婚するのなら、両親よりも兄に感謝のスピーチの尺を割かないといけないだろう。だって、私のために頑張ってくれる、そんなカッコいい兄なのだから。
「桜地涼音」
「はい!」
担任の先生に名前を呼ばれて、私は大きく返事をする。卒業式の壇上で校長先生から卒業証書を受け取った。一礼してくるりと保護者席の方を向く。あの二人はすぐ見つかった。平均年齢が40ほどの空間に二十代と十代のセットがいれば目立ってしょうがない。それに、雫さんに至ってはビデオカメラを回していた。
「卒業の歌、卒業生、起立」
ザっと三年生が立ち上がった。その中、整然と並べられた椅子とその前に立つ生徒の間を通って私は体育館の側面へと出る。ピアノ担当は私だった。意外な事にこれを指名してきたのは顧問。嫌われているのだから、てっきり別の人を指名すると思っていたので少し驚いた。
兄より上手には弾けないけれど、他の子に負ける気もない。そう言えるくらいには練習を重ねてきた。イントロを弾けば、練習させられたことを思い出す。卒業式の練習で何回もやり直させられて大変だった。主に、顧問が合唱が気に入らないという理由で。あの人やっぱりダメだと思う。
「白い光の中に 山並みは萌えて 遥かな空の果てまでも 君は飛び立つ」
曲は『旅立ちの日に』。1991年に埼玉県秩父市立影森中学校の先生によって作られた異色の経歴を持つ曲だった。荒れていた学校を建て直すために尽力した校長と音楽の先生が、最後に卒業する生徒のために書いた曲。それが今では卒業式の定番になっている。
伴奏は兄に頼りながらもみっちりやった。実の妹に全く手加減しないと言うか、実の妹だからこそ全く手加減してくれない。この厳しさに兄の弟子二人は耐えていたのだろうか。普通に尊敬することしか出来ない。けれど、おかげで歌う人を泣かせる、感情を煽る伴奏が出来るようになったと思っている。流石はプロ。感情を動かす術はキチンと心得ているのだろう。
「勇気を翼に込めて 希望の風に乗り この広い大空に 夢を託して」
何度も何度もやり直しさせられた曲も、卒業式で聞くと何故だか感動的に聞こえてしまう。ウチの顧問は割と満足そうな顔をしている。もう少し感動した、という顔をして欲しかったような気もするけれど、あれはもうあの人の変わらないカラーなんだろう。未来を託した私の後輩たちが大丈夫かは心配であるけれど、きっと団結して乗り越えてくれると信じている。
退場するときには吹奏楽部の演奏が行われている。誰が吹いているのかすぐ分かった。色々言いたいことが湧いて来るけれど、もう私はあの音楽室で指揮棒を振るうことは無い。皆の前で立って話すことも無いのだ。ちょっと怖いくらい整った挨拶も、聞くことは無い。そう思うと無性に悲しくなってくる。
体育館の外は少しだけ温かい小春日和。昨日までのことは全部あっという間に過ぎ去った幻想のようにすら思える。髪を靡かせる春風は、冷たさの中に温かさを含んでいた。
教室での諸々も終わって、帰る時間になる。名残惜しい教室とも別れを告げ、昇降口を出る。兄や雫さんは外で待っていた。卒業式の看板と一緒に写真を撮りたいらしい。
「あ、部長!」
後輩の声がしてそちらを見れば、部員が勢揃いしている。何なら私と同期、つまりは今回卒業する生徒まで。何かしてくれようとしているのは嬉しいけれど、少し邪魔になってしまっているかもしれない。なので、一旦どかすことにした。
「全員整列。少々出入りの邪魔です。避けましょう」
「「「はい!」」」
久しぶりに聞いた声。他の父兄は何事かと思っているようだ。やっぱりちょっと迷惑な集団である。兄は遠くで凄い笑っている。けれど、その頬には涙の跡が何本も。きっと本人は気付いていないのだろう。雫さんは気付いてて放置しているのだと分かった。何故なら、笑っている笑顔が少し揶揄い成分を含んでいるような気がしたから。
しかし一体何事と思っていれば、人混みの中から一人が姿を現した。長い黒髪を垂らした彼女は、私が後事を託した一人。
「部長」
「もう部長ではありませんよ、義井さん。いえ、部長でしたね」
「涼音先輩」
「はい。と言うより、教室待機では?」
「抜け出しました」
「感心しませんね……。それで、何でしょうか」
「これ、全員で書きました。受け取ってください!」
渡されたのは大きな色紙。そこには全員分の名前とメッセージが書かれている。卒業式の時に先生によく渡すようなアレ。それをまさか私が貰うことになるとは思いもしなかった。
「これ、は……」
「部長、私たちにメッセージくださったじゃないですか。卒部式の時に。在校生だけじゃなくて、同じ三年生の先輩にも、一人一人」
それはよく覚えていた。私は別に口が上手いわけじゃない。だから上手く感情を伝えられるのかよく分からなかった。それに、一人一人言っていては時間も足りない。だから、何か効率よくメッセージを伝えられるものはないかと思い、手紙を書いたのを覚えている。数十人分なので、数日かかったけれど、それでもしっかり思いの丈を綴れたと思っていた。
「だから、私たちも何かできないかと思って。せめて、これだけはしておきたかったんです。全員で話し合って決めました」
「そうですか……。ありがとうございます。私は、果報者ですね」
改めて色紙を見る。大きな文字や小さな文字。全てに個性が詰まっている。メッセージが長文なのは大体フルートの後輩や同期。短文でも力強いものもある。と言うより、北山君や鈴木さんは同じ学校に進学するというのに、四月からどういう顔で会えばいいのだろうか。
「部長」
「山口さん……」
初夏、私の間違えてしまった選択肢の象徴。それが彼女だった。クラリネットの三年生で、府大会のオーディションに落ちてしまった彼女に、私がかけた言葉は適切とは思えないでいる。恨み言の一つでも言われても、文句は言えないだろう。
「正直沢山悔しかったし、部長にイラっとしたこともあったけど、でも……でも音楽続けて良かった。吹部、辞めないで続けて良かったよ!」
その声に、私は言葉が詰まる。胸に熱く込み上げるものがある。音楽を続けて良かった。そういう風に言ってもらえる場所を、私は作れたのか。その問いへの一つの答えがこれだったのかもしれない。
「すみません、ちょっと……」
そう言いながら、ハンカチで目元を拭う。教室でも、式の最中でも出てこなかった涙が今、零れ落ちていた。写真でも撮ろうか、と兄が声をかけてくる。わちゃわちゃしながらも、部員たちが並んでいく。カメラの液晶には、半泣きの私が笑っている姿が映されているのだろう。もうこのメンバーで揃うことは無い。それはとても寂しいことだけれど、こうして送り出してくれたからこそ私は前を向いていけそうだった。
さらば愛しき地よ。希美先輩との、そして彼らとの思い出が詰まったこの場所より、今日私は卒業するのだ。未来への希望を心に抱いて。
3月14日に私は15歳の誕生日を迎える。前日は前祝い兼花見と称して希美先輩たちがやって来ていた。まぁ多分後者の方がウェイトとしては大きいのだろうとは思うけれど。縁側で騒ぎながらご飯食べてるのを見ながら、兄は将来的にウチが集会所に使われそうだとガックリきている。どうせ空いてる部屋なら沢山あるのだし、好きなように使ってもらって構わないと私は思っていた。
当日の晩に家族で、って言っても私の他に二人しかいないけれど、お祝いをしてくれる。叔父夫婦は何も送ってはくれないし、祖母は私の高校の学費だけは振り込んでくれたらしい。兄の分はないのでちょっと電話越しにキレていた。
それはともかく、私はその兄から何が貰えるのかなと少し楽しみにしていた。雫さんは、女の人用のお洒落な腕時計をくれた。高校生にはマストアイテムなので、そのセンスの良さに脱帽するしかない。そして勿体ぶりながら兄が大きめのラッピングされた箱を渡してくる。そこそこの重さがある。外からは中をうかがい知ることは出来ない。
渡した後、兄はサーっと部屋に帰ってしまう。お風呂に入って、それから部屋に帰って開けることにした。包みを開けていると、手紙が付属していることに気付く。便箋数枚に渡って書いてある文面を読み始めた。
『まずは、誕生日おめでとう。今回のプレゼントは、誕生日・受験合格・高校進学・大会金賞等々のお祝いです。思えば、15年前、あなたが産まれた日のことは、昨日のことのように覚えています。私はまだ幼かったけれど「あなたがお兄ちゃんになるのよ」と母から言われたのを鮮明に記憶しています。それから15年間本当にありがとう。あなたの存在は私に大きなものをたくさんくれました。
そしてもう一つ、貴女には、きちんと謝らなければなりません。あの夏、貴女の苦しみに気付いてあげられなくてごめんなさい。これまでの人生で苦しみ続けていた貴女に気付けなくてごめんなさい。四年間も一人にさせてしまってごめんなさい。謝りたいことがたくさんあります。あの時から、私はあなたの寂しさを紛らわせてこれたでしょうか。どうしたらいいのか分からず、お金に頼ってしまっていることを自覚しつつも、止めたら嫌われてしまうかもしれないと怖くて、止められないでいます。多分、そんなことしないと笑って言ってくれるのでしょうか。でも、私はあなたに幸せな人生を送ってほしいと考えています。それだけはどうか、信じて下さい。中学一年生で親を失うという苦しみを負わされたあなたにはこれからは幸福で満ちた生涯を過ごしてほしいのです。
今はまだこの家で共に過ごしていてくれています。けれどいつか、旅立っていくのでしょう。それは仕方のないことだけれど、考えると少し悲しいです。だからこそ、高校生の間は、両親に顔向け出来るようにしっかりと見守っていきたいと考えています。過保護だったらごめんなさい。
あなたが音楽を始めてくれた時、私はとても嬉しかったです。自分の妹が自分と同じことをしてくれたことが、嬉しかったです。覚えているか分かりませんが、「何で始めたの?」と聞いた時「お兄ちゃんみたいにカッコよくなりたい」と言われたときは嬉しさのあまり踊ってしまいそうでした。中学校で部長までして、全国で金を獲得して、あなたのこれまでの努力が報われたことは、無上の喜びです。
長くなってしまいました。書いているうちに色々溢れてきて、なんだか支離滅裂な文章になってしまいました。最後になりますが、私のたった一つの願いがあるとしたなら、それはあなたの幸せです。この地に産まれたのは、あなたの兄として生き、あなたに出会うためだったと心の底から思っています。
その人生が実りと幸福に満ち溢れていることを祈り、またそう祈っていた私のことを、大人になっても少しでも思い出してもらえるように、これを送ります。喜んでくれるかは分かりませんが、精一杯選んだつもりです。これからの青春が輝きに満ちていますように。
桜地凛音』
流麗で綺麗な字はところどころ滲んでいる。書いている時に泣きながら書いたのだろうか。そこに一粒、二粒と新しい水滴が零れ、滲みを作っていく。止まらない涙を拭っても、涙は零れ続ける。漏れ出る嗚咽に口を押える。こんなにも自分のことを愛してくれる。ちゃんと、私という存在を見てくれている。それなのに、私は……私は兄を遠ざけて、嫌って、拗ねて勝手に決めつけて。そして酷いことばかり言ってきた。嬉しさと後悔から涙は止まることを知らない。
書かれている私への贈り物が何なのか。ここまで考えてくれたその品が何なのかが気になり、涙を拭きながら、包みをほどく。中からは黒い箱。それと同じ形状のものを私は学校で何度も見て、触ってきた。恐る恐る開ければ、そこには白銀の輝きを放つ綺麗なフルートが納められている。プラチナのような輝きを放つそれは、見事な宝飾品にも似た気品を持っている。新品独特の香りが私の鼻をくすぐった。
これでも三年間やってきた。色々調べもした。だから、このフルートがどういう品なのか、一瞬で分かる。私が使っていて好みでもある材質なども調べてきたのだろう。好みと完全に一致するものがそこにはある。ケースの内側には私の名前が刺繍されている。多分、オーダーしたのだ。特注品とも言えるこれはおそらく三桁万円はくだらない。そう言えば、コンテストの賞金がすっからかんと言っていたのを思い出す。高校生が持っているような品じゃない、こんなすごいものを私に送るために使ってしまったのだろう。自分は今年本も服も買わず、映画も観ないで過ごしてきたのに。
必死に仕事をこなしていたのは、もしかして、いやもしかしなくてもこれを買うため。もう一度溢れる涙を今度はどうやっても止めることが出来なくて、私はフルートを前に泣き続けた。
泣き疲れて、真っ赤になったであろう目を擦りながら、丁寧に箱をしまう。これを持って行って部活で過ごせというお達しなのだろう。気持ちはとても嬉しいが、こんな高級品を扱いこなせるだろうか。豚に真珠と言われないように、この楽器の能力を引き出せるように練習しなくてはいけない。
絶対使いこなして、これに相応しい奏者になると決意しながら、私はもうすぐ訪れる高校生活を夢見る。窓の外には桜が満開に咲いていた。
今回を持ちまして、一年生編は完結となります。次回からは二年生編に入ります。麗奈のソロコン全国大会はほぼ年度末なので二年生編に回します。また、ここまで一ヶ月半ほど毎日一万文字以上文字を打っていて流石に少し疲れたので、数日お休みします。ご理解の程よろしくお願いします。