「で、どうなんだよ」
昼休みの教室。その片隅でパンを呑み込みながら柏原は私に言った。いつもの昼休み。教室内は喧騒に満ちていて、各々が好きな話に興じている。最近はどんよりとした気分である私に、その喧騒は少し煩く聞こえる。我々友人三人組はこうして教室で昼食を済ませるのが日常だった。私は弁当、柏原と生駒の二人は購買組だ。
「何が」
「吹部だよ、吹部」
「あぁ……その話か」
「俺も心配はしてる。大丈夫なのか? この前、教室に用事があって行ったら途中の教室で泣いてる子いたぞ」
焼きそばパンを大きな口で咥えながら、もごもごとしつつ生駒は言う。この教室に行くまでの過程で練習してるのは恐らくフルートかクラリネットかホルン。どれにしたって泣いていてもおかしくないだろう。先生はその辺りに容赦しない。
「女の子を泣かせるのは許せませんなぁ」
「私に言わないで顧問に言ってくれ、そういうセリフは」
モテたいと常々口にしているこのバスケ部員は、時々こういう冗談を言う。まぁ私から言わせれば恐らく狙うランクが高すぎるだけだろう。彼女が何としても欲しいと嘯くが、そのくせ妥協は絶対したくないと言っている。理解はできないことも無いけれど、それにしたって最初に吶喊したのが吉川は無謀だっただろう。
「それに大丈夫に見えるか、この顔で」
「「あぁ……」」
二人して察したような声になる。それにため息で応えながら、私は軽く頬杖をついた。
「ま、何とかならないわけでもないけれど、とは言え厳しい。私の心労ばっかり溜まっていく」
「辞めれば?」
「それは矜持が許さない。私にだって譲れない部分はある。逃げたと思われるのはゴメンだな」
「だけど、あの高坂って子の練習も見てあげてんだろ? それも無償で」
「後輩から金取るほど落ちぶれちゃいません」
「頑固者め」
「石頭」
「なんだとこの野郎、表に出るか?」
「悪かったって。だから俺のコーラを振ろうとするのはやめろ」
校則違反上等な柏原は茶髪に染めている。そして彼はちょくちょく口が悪い。だからモテないのかもしれないと最近思い始めた。とは言え私の経験の中では彼は全然口が悪くない部類に入る。もっととんでもないヤツばっかりと友達だった大学時代を思えば、今は大分普通に近い交友関係を築けているのかもしれない。
「ま、お前がプライド高いのは知ってるけどな。とは言え限界が来たらさっさと抜けちまえ。時間の価値が分からないヤツらにお前の時間を使うのはもったいないだろ」
「時間の価値?」
「そ。俺は音楽界の価値や立場なんてよく分からない。けど、例えばマイケル・ジョーダンに教われるってなったら何が何でも参加する。お前もそうだろ、メッシが来たら這ってでも行くだろ?」
「そりゃまぁな」
話を振られた生駒は相槌を打ちながら、三つ目のパンを開ける。後二つほど未開封のまま鎮座しているのだが、どれくらい食べるのだろうか。ぼんやりそんなことを考えた。
「世界獲ったっていうのは、そういう事なんじゃねぇのか?」
「どうだろうな。私が今言ったみたいな存在なのかは分からない。上には上がいた」
「だとしてもだ。一線級にいるヤツが身近にいて、しかも内心がどうだとしても親身になろうとしてくれる。なら、何が何でもチャンスを逃すべきじゃねぇと思うけどな」
「みんなが君みたいに向上心があったら、私も楽なんだけどな」
「だからきっと勝てないままなんだろ、万年」
「おい、そこまで言わなくても……」
「いや、生駒。俺はハッキリ言うね。今の吹部は宝の持ち腐れだ。なぁ桜地。お前はどうだか知らねぇけど、俺は未だに友達追い出した場所を許しちゃいねぇぞ」
「……」
彼は真剣な声だった。楽しそうな女子の笑い声。携帯を突き合わせてゲームに興じる男子。賑やかで各々盛り上がってる教室の中で、彼の声は異質なほど真っ直ぐだった。こういう所をもっと女子の前で見せればいいのにと思ってしまう。私が女の子だったら好きになっていたかもしれない。
確かに、彼の言うことはそうなのかもしれない。けれど私の指導者としての実力は、正直誰も分からない。自分でも分かっていないのだ。未知数と言えば聞こえはいいが、一般部員には先生と同じようにしか見えていないのだろう。則ち、実力は未確定。何しろ結果がまだ何一つ出ていないのだ。その状態では、評価のしようもない。従って厳しい指導を受けているときに自分を納得させる道具が無い。
私にだって思う所はある。敵対的な目線を、言葉を、態度を向けられて無感動でいられるほど感情が死んだつもりはないし、冷静沈着でいるつもりもない。傷つきはしないが、それでも疲れはする。ストレスにだってなる。私を殴っても文句の言わないサンドバッグのようなものだと思われているのだとしたら、腹立たしいのも事実だ。目上である先生への抵抗は限度がある。けれど私は……殴りやすい存在だ。
私には私なりの誇りがある。辛うじて、彼らはまだそれに触れていない。ならば現状は許容するしかないと思っている。彼らの気持ちも分からないでもない。自らの領域だった場所にずかずか入られて、安泰だったはずの日々を壊される。人は誰だって変化を恐れるものだ。変化をもたらす存在を排除しようと思うのは、当然の心理だろう。だからどうこうする気は無い。今は私が耐えればそれでいい。
それに、吉川しかり彼らしかり、私の事を気遣ってくれる存在も少数ながらいる。なら、投げ出すわけにはなおの事行かないだろう。
「ま、何が言いたいかって言うと適当なところで力抜けよってことだ。全国ってのも無理があるだろ。素人耳に聞いても下手くそなんだから」
「俺は楽器吹けるだけで尊敬する」
「お前のレベルで語ると途端に話が壊れるなぁ……」
やいのやいのと言葉を紡ぐ二人を私は少しだけ笑いながら見つめる。吹部と言う狭い世界の中では味方が少なくとも、この場所には取り敢えず味方がいる。逃げ込める場所があるという安心感は大きかった。
「ありがとう。取り敢えず私は大丈夫……ではないけどもう少し頑張ってみるさ。今の状況はもう少しで否応なしに変わるはずだ。もしそうなれば、上手く行けば……恐らく大分マシになる」
「そうか」
「あぁ。心配してくれたことは感謝してる」
「うんうん。と言うことで、次の英語の課題を見せてくれ」
「……そういう事だろうと思った」
やけに饒舌に長台詞を言うと思ったら、案の定これである。とは言え、これは柏原なりの空気を変えるための言葉なのだろう。いつまでも重苦しい空気のままでは食事もマズくなる。
話題はまた違う話に移っていく。サッカー部のマネージャーが可愛いという話になったところで声が響いた。
「すみませーん! 桜地先輩はいますかー!」
大きな声に教室中の注目が集まる。私を先輩と呼ぶと言うことは一年生。くるりと振り向けば、確かに一年生の女子が立っていた。声から判断は出来ていたけれど、やはり思った通りの人物がそこにいる。
うっすらと茶色を帯びた長い髪に手入れの行き届いた眉、そして凛としたたたずまいをした彼女は、一年生のパーカッション担当である井上順菜さんだった。後ろには慌てた様子の黒髪に赤いリボンの子。同じパーカス担当の堺万紗子さんだろう。そこまで考えてアッと気が付いた。約束をすっかり忘れていた。
「じゅ、順菜、いきなりはマズいよ……」
「大丈夫だって」
堺さんは迷っていたようだったが、井上さんが引っ張って来たのだろう。ありがたいことだ。彼女がそうしていなければ、私は約束を忘れた不義理な人間になる所だったのだから。私は目立つように手を振る。それに気付いた二人は、こちらに近寄って来た。教室は一瞬彼女たちに注目するも、また元の空気に戻る。
「何あの二人。超美人」
「マジで可愛いじゃん。でも桜地目当てかぁ……」
「いや、ワンチャンある。そこのお嬢さん方」
目をキリっとさせた柏原はスッと立ち上がり、私に近づいてきた二人の元に向かう。しまったと思うも時すでに遅し。キラッという効果音が入りそうな笑顔を浮かべて声をかけている。それに生駒まで続いている。なんでこんな時だけ二人とも光速の如き反応の良さを見せるのか。
「放課後お時間ある? よければ是非俺たちと一緒に」
「カラオケでも行かない? ちゃんと奢るからさ。あと、LINEやってる?」
「え、えっと……」
「あの……」
「私の後輩に変なナンパをしかけるな!」
英語の課題をやったノートで頭をひっぱたく。いきなり見知らぬ先輩に声をかけられたら当然困惑するに決まっている。いくらイケメンでも見ず知らずの年上に迫られれば大なり小なり困るにだろう。その辺に想像力が無いからダメなのだ。
後頭部を抑えるバカ二人は放っておいて、私は鞄からCDを取り出す。彼女は音楽に対する愛情が非常に深い。この前行った面談兼実力調査でも、パーカスに入った理由は「一番楽しそうだったから」だった。一見すると適当そうな理由だが、実力は確か。期待のエースであることに間違いはない。恐らく今年の大会出場も確実だろう。
そして、彼女は演奏しているときが一番好きと言う、かなり音楽ガチ勢なのだ。そのせいかいろんなジャンルに手を出しており、いずれも造詣が深い。ちょっと話しただけでもそれはうかがい知れる。知識量で言えば、副部長である田中先輩と並ぶかもしれない。そんな彼女とはまぁ当然と言うか割と気が合うのである。
音楽的な話をそこまで深く話せる知り合いがいないので、彼女はありがたい。と言うことでこの前の面談の折にCDを貸す約束をしていたのである。今日渡すと言っていたのをさっき彼女の姿を見て思い出した。いくら忙しくても忘れてはいけないと言うのに、自らの不明を恥じるばかりである。
「ごめんなさい、教室まで届ければ良かったのにわざわざ来させてしまって」
「いえ、良いんです! 順菜が無理くり引っ張って来たので……」
「え~、だって『桜地先輩も忙しいし仕方ないよ……』なんて言ってるんだもん。別に来ても良いですよね、先輩?」
「それは勿論。それに忘れていたのは私の方だし、仕方ないなんてことは無いです。堺さん、そう言うことは先輩後輩に関係なくドンドン言ってください。別に怒ったりなんてしませんから。今回は私が全面的に悪いので。では、これが約束の物です」
「ありがとうございます!」
彼女は大事そうに受け取っている。私にとってはもうほとんど聞かない代物なのだが、彼女は持っていなかったようで欲しかったと言っていた。レコードも沢山余っているのだが、もしかしたら彼女なら引き取ってくれるかもしれない。
「井上さんも、ありがとう。危うく約束をすっぽかすクソ野郎になるところだった」
「いえいえ! それに、先輩も人間なんだなぁって思えたので。私としても大収穫です」
「人間」
「はい。なんかこう……いつもは目的の為なら何でもしてやるって言う顔してるので。普通にしてる時、あんまり見たこと無かったですから」
「なるほど……そういう……」
そんな風に思われていたのはちょっと心外だったけれども、心当たりが無いわけじゃない。心当たりは大いにある。少し改善が必要なのかもしれないと思った。後輩にそんな風に思われているのはあまりよろしくない。堺さんが遠慮していたのも、私が怖い人、話しかけづらい人と思われているからの可能性が浮上している。改善しない事には、風通しが悪くなってしまう。
「私だって普通の人ですよ」
「そうそう。俺らをひっぱたいたり」
「英語の時間に出来るからって寝てたりな」
「君らは課題をさっさとやる! まったくもう……二人とも申し訳ない。私の友人が迷惑をかけました」
悪友二人には課題のノートを押し付けて、引っ込ませる。確かに、後輩二人のルックスはお世辞抜きに良いと言えるだろう。それこそ、声をかけるのも分からないでもない。だが明らかに困惑していたのを放置するわけにはいかない。
「私は全然気にしてないですから大丈夫です」
「同じく、大丈夫で~す」
堺さんは穏やかに笑いながら、井上さんは元気よく答える。それはそれでまったく意識されていないということだろう。憐れな友人だ。墓に花くらいは添えてやろう。
「堺さん、もしよければそれ、差し上げます」
「良いんですか!?」
「えぇ。喜んでくれる人に持ってもらえた方が、そのCDも本望でしょうし」
「よかったね、万紗子」
「うん! ありがとうございます」
「お気になさらず」
ペコペコと頭を下げる堺さんを引っ張りつつ、また練習で!と朗らかに言いながら井上さんは自分たちの教室に戻っていく。やはりちょっと話しただけでは分からないことの方が多い。今の会話の中でも、二人の関係性や考え方なんかも少し掴めた。改まった場よりも、普段の会話や行動の中にこそ人間性把握のヒントはある。
知り得た情報は小さくメモをしておく。何がどこで役に立つかなんて分からない。音楽は奏者によっても大きく左右されるものだ。知っておいて損なことは無いだろう。パーカスの後輩は気のいい人が多いようだ。もう一人いる釜屋さんも穏やかそうな子だったし、パーカスはそこまで問題が無いように見える。少なくとも、ホルンなどに比べれば。
分かっていたことだが、後輩の多くは素直でいい子だ。彼ら彼女らの為にも、上級生を何とかしないといけない。それが私にできることであり、私がやるべきことである。改めて、そう決意した。
それはそうと、井上さんは昔私が通っていたピアノ教室と同じところ出身らしい。私は六歳くらいで飽きたので辞めたけれど、意外と話が通じる可能性もある。今度振ってみよう。
「君たち、順調かい?」
私の課題を必死に写している友人二人を覗き込む。教室は相変わらず賑やかだ。しかし気が楽になったのだろう。今はその喧騒も大して気にならなかった。
さて、合奏練習である。昨日先生に言ったように、先生のチェックを受ける前に何回か合わせておく必要はあると考えている。個々人の練習、パート練習では上手く行っても、他のパートと合わせると問題点が見えてくるというのは往々にしてあることだ。
先生の要求するレベルが今一つ分からない以上、最善を尽くすしかない。テストならば何点を取れば合格、と言うのが分かるが、音楽ではそうはいかない。絶対的な数値にするのが難しいものだ。数少ない例外はカラオケなどだろう。ともかく、吹奏楽の練習に明確な点数は無い。である以上、目安が分からないために出来る限り上達させておかないといけない。どの道、全国を目指すならばやり過ぎということはないだろうから。
初心者の子たちは先生に見てもらっている。流石の先生も、まだ始めたばっかりの子に厳しくするほど鬼ではないだろう。ある程度の気遣いはしてくれるはずだし、そう念を押している。普通に無視されている可能性も否めないが、それならそれで私にも考えがある。私たちは対等ではないが、こちらは無理を承諾している側。立場はともかく、発言権で譲る気は無い。
最初はパート練習をしてもらい、その後こうして音楽室に集まっている。空気ははっきり言えばよくない。それはそうだろう。連日の練習で疲れてもいるだろうし、何より不満が溜まっているのには間違いない。有形無形の不平不満は私の元にも届いている。それは誰かを介したものであったり、直接であったりと様々だけれど、多くが何らかの不満を抱いていることは間違いなかった。
それはよろしくない。不満を抱くことではなく、それで練習効率が下がる事がよろしくないのだ。我々が見ている前ではやっていても、いなくなれば少しペースダウンするだろう。その理由は簡単で、そこまでやる気がないからだ。パートリーダーを使えばボイコットはされない。しかし積極的な行動も見込めない。だからこそ私はこの会を用意した。
「お疲れ様です。本日はこれまでの練習の確認と共に、先生に見せる前に一度全体で練習しておいた方が良いだろうという判断により行うことにしました。よろしくお願いします」
軽く頭を下げる。一年生は特段変化はない。私に対する感情はフラットな生徒が多いだろう。問題なのは同期と先輩。特に声の大きい方々。けれど彼らは大体自尊心が高い。そのプライドに火を付けられれば、積極的に自ら練習するようになるだろう。パートリーダー会議の時もホルンの先輩にその手を使ったが、今度は全体に向けてやるのだ。空気を変えるにはそうするのが手っ取り早い。
「では早速合奏に入ってみましょうか」
「その前に、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
スッと手が上がり、立ち上がる人が一人。トロンボーンの田浦先輩。彼女はパートリーダーの彼女だ。気が強い人の多い吹奏楽部女子の一人である。その表情は剣呑だ。決していい話ではないだろうという察しがつく。
「何でしょうか」
「パートリーダー脅したってマジ情報?」
恐らく、野口先輩辺りが会議の内容を話したのだろう。一応確認してくれるだけまだ良心的と言うべきか。先輩同士でどういう会話が行われたのかは分からないが、脅したという風に捉えられる伝え方をされたのは分かった。尤も、嘘であるとも言い切れないのが実情なので言い訳もしにくい。
音楽室は少しざわついた。色んな視線が私に刺さる。心配するもの、敵視するもの、中には田中先輩のように「どうする?」という好奇心に満ちたものもある。内心でため息を吐きながら、私は質問に答えることにした。
「脅したなんて人聞きの悪い。私はただ、取引を行っただけです」
「ボイコットしたらサンフェス出れないようにしてやるって言ったって聞いたけど」
「確かにそう言う趣旨の話はしました。しかしながら、それは皆さんの努力次第でどうにでも回避できる結末です。私はまずこういう提案をしました。取り敢えず先生に見せるまでの期間はしっかり練習をさせて欲しい。その結果もしダメだったとしたら、私があらゆる手段で以てサンフェスに出場させるし、全国行きの目標だって取り下げさせる。こういう取引です。もし上手くなって合格だったらそれでよし。ダメでもサンフェスには出られる。けれど万が一勝手に出場しようとしたら、それは出来ないようにしてあると、こう言っただけです」
どう転んでも美味しい提案をしたつもりだ。一週間ほど頑張るだけで結末が何であれメリットのある提案をしている。何で頑張る必要があるんだと言われれば、それは彼らが全国行きを目指すという選択肢に手を挙げたからに他ならない。その責任は持ってもらう必要がある。どういう存在であれ、選択には責任が伴うのだ。
そうだというのに、それでもなお勝手に出場しようという暴挙に及ぶなら、私にだって考えがあるということだ。脅したなどと言うつもりはない。悪し様に語るならば、そういう伝え方も出来るだろう。或いは、私への悪印象が言葉のイメージを歪ませ、趣旨を捻じ曲げさせてしまったか。だとしたら私の判断不足だったということもできる。
「ご納得頂けましたか?」
「……」
「私の提案で大事なのは、一週間頑張ればどんな結果でもサンフェスには出れるよ、という部分です。そこが一番の骨子です。どうでしょうか」
「……脅したってのは取り敢えず違うって分かった」
「ありがとうございます」
決して不満が無いわけでは無いだろう。明るい顔ではないのだから、それは明白。しかし理解は一応出来たようで、彼女は席に着いた。ひと悶着あったが、これで合奏練習ができる。全く、何をするにしても時間がかかる。スムーズにいかないものだ。多くの納得を得ないといけない現在のシステムはある意味では民主的であり、ある意味では衆愚的だ。
「他に何かありますか? ……無いようですので、本題に入りましょう」
あくまでも何も感じてない風に。怒ったり苛立っている感情を見せるのは悪手だ。それは全体にいい影響を与えない。
「それでは行きますよ。準備はよろしいですか」
全体を見回し、楽器を各々構えているのを確認する。そして指揮棒を持った。先生は手で指揮をするが、私はそれがそこまで得意でもないのでこうして指揮棒を持っている。昔知り合いからもらったものだが、使わないので埃を被っていた。数年ぶりに日の目を見てこの棒も感謝しているだろう。
演奏は一言で言えば、この前よりマシ。そういう感じだ。音は出ている。調子っぱずれな人はいないし、音を外している人もいない。楽譜は追えているようだし、吹き真似で誤魔化す不届き者もいない。ただしこれは初心者に毛が生えた程度の能力に近く、経験者を名乗る層に送る誉め言葉ではない気がする。
それに、やはり合わせておいて良かった。彼らには余裕がない。自分の事だけで精一杯になっているため、他のパートの音を聞けていない。そのため、ズレてしまったりタイミングが合わないことがある。破綻していないし演奏にはなっているが、下手であることに変わりはない。一通り通して、指揮棒を置く。
音楽室には何とも言えない空気が広がっていた。上手いとも言えないけど、この前よりは上手いよね、という空気だ。彼ら自身も、自分たちにどういう評価を下したらいいのか分からないのだろう。とは言えいい演奏ですとは口が裂けても言えない。
「全体的に余裕がありませんね。自分の事だけで精一杯。そういう演奏です。私は他のパートの音も聞きつつやるように練習で言っていたはずです。実際に合わせなくても、そういう練習をすることはできる。方法論も伝えました。自分の音だけでなく、他者の音も聞いて合わせる。それが合奏です。皆で音を合わせるというのは、そういう事のはずですからね」
全国行きには程遠い。しかしここからどうにかしていかないといけない。重苦しい空気の中、私は言葉を選んで話を続けた。最大限効果を発揮するための言葉を。
「確かにこの前よりは幾分もマシです。しかし、それはとてもではないですが経験者の方々に対して向けるような誉め言葉ではありません。今ここに、初心者の子はいません。皆最低でも一年近くは楽器に触れているはずです。無論、転向した人もいるでしょうが、そうであっても経験者には変わりない。初心者の子に比べればアドバンテージがあるはずです」
初心者の子を外したのは、こういう事を伝えるためだ。別に彼らが劣っているというつもりはない。これから頑張って上を目指して欲しいし、現にそうやって努力しているのはよく知っている。だからこそ、こうして停滞している人々の有様が際立つ。
「やめますか、これ」
唐突な言葉に、顔を伏せていた人も上を向き、私の顔を見つめる。いきなり軽い口調で言いだしたことに困惑しているのが見て取れた。
「確かに全国行きを選んだのは皆さん自身ですが……でも同情できる余地はあります。なにせ、全国に行くための練習の過酷さを知らない状態だったわけですからね。それは情報不足、フェアじゃありません。今こうしてその一端を知った段階なら、もう一度選びなおしたいと思っている人もいるはずです」
姫神先輩も言っていた。必死に練習しないといけないという前提がおかしいと。あの時私は一蹴したけれど、一理ないわけじゃない。
「だから……諦めましょうか。なに、そんなに難しいことじゃないはずです。何かを諦めるなんて、人生でよくある事じゃないですか。この一週間弱は全部無駄だったけど、まぁこれも勉強です。初心者の子は愚直に頑張ってますけど、その子たちへの言い訳は頑張って考えてください。諦めて投げ出していつも通り、去年までの通り。そんな風で良いんじゃないですか。だから諦めましょう! 簡単なことじゃないですか。今までそうしてきたんですから」
さしたることでもないかのように。そして揶揄するように。元々火をつけるべきは声の大きい人々。そうじゃない人は私の知る限り真面目に取り組んでいることが多い。しかし不満を持っている人がその練習を愚痴などで阻害している。現に私の元に寄せられているパートリーダーからの相談もその手のものが多い。部長や副部長からくる報告も、そうだ。真面目な人が思い悩んでいる原因を取り除く。そのために今私はわざとこういう選択をしている。
思春期は自意識と自尊心で出来ている。だから私は自尊心を傷つける発言を行った。これは諸刃の剣だ。失敗すれば目も当てられない。とは言え、ここを乗り越えられないようでは、どの道成功は見込めない。そもそも私は今年の全国行きではなく今の一年生の代に行ければ良いという三ヵ年計画を立てている。それに従えば、この代は意識改革に終始できれば御の字だ。
「元々私は、今年の全国行きは無理だと思っています。だから今の一年生が三年生になるときに行ければよいと、そういう計画を立てていました。今の初心者の子たちが三年生になった時、立派な戦力になってくれるように鍛えているつもりです。皆さんがどういう態度を取るか、それは究極皆さん次第。とは言え、彼らの邪魔になるようなことはしないで頂きたいですね。特に上級生は。蛙の子は蛙だったと思うことにしますから」
ニ三年生を中心に私は視線を送る。言われたくない言葉の筆頭のはずだ。去年の三年には、全員が少なからず思う所がある。だからこそ同類扱いされるのは嫌なはずだ。現に傷ついた顔をする人もいれば、怒りを滲ませている人もいる。中には今にも立ち上がって火を噴きそうな顔も何人か。
それでいい。彼らの自尊心は傷ついている。諦めるという言葉。そして同類扱い。これでこのまま引き下がれないという感情になっている。斜に構えている人も、私の目論見に気付いている田中先輩のような人もいるけれど、それはあくまでも少数。大勢に影響はない。
「私は吹奏楽部の味方です。先生の味方じゃありません。この部がより良くなり、そして最終的に全国大会に出られるように最善を尽くすつもりです」
この言葉に高坂さんが少しショックを受けた顔をしている。私が先生の絶対的な味方だと思っていたらしい。流石にそれは無い。先生サイドにいるのは今のところ先生が正しいことが多いから。それに目的が一致しているのだから協力するのは当たり前だ。しかしいつでもそうとは限らない。
「だからこそ、今もう一度聞きます。今年、全国大会を目指しますか? 他の誰でもない、自分の心に従って決めましょう。諦めるのも良いでしょう。それが多数なら、私は先生を黙らせます。もしそれでもなお目指すなら……もう戻れない道になることを覚悟してください。勿論初心者の子たちにはこの後別で聞きます。その合計を部の総意として報告しますのでご安心を」
初心者の子たちを無視したりはしない。彼らだって立派な吹奏楽部の部員だ。決定に参加する権利はある。
「ですがもし、今日の妥協、明日の諦観が何かを食い潰しているような気がするのなら。このまま引き下がれないと思ったなら。今までの苦労を無駄にしたくないと思ったなら。貴重な青春に、何かを成し遂げたという証明が欲しいなら。何より私の言い草に腹が立ったなら。それはまだ貴方が諦めていない証、心の中で何かに火が付いた証だと思いますよ」
最後は個々人に語りかけるようにして言葉を続ける。今まで全体に対して言っていた。けれど今だけは自分に向けて言われている。そういう印象を相手に与えられる。その上で私は堂々と、ハッキリと口を開く。
「では決を採りましょう。部長、よろしいですね?」
「……分かった」
元々部長には少し話を通している。だからこそ、今まで黙って聞いていてくれたのだ。
「ありがとうございます。それでは、練習は厳しいけれど、それでもここで止めることなく全国大会を目指そうという人」
まずは一年生が何人か手を挙げる。真っ先に挙げたのは高坂さんだ。その後に苛立ち混じりだったり怒り任せだろうけれど、二三年生がドンドンと手を挙げた。つられるように、多くの部員の手が挙がっていく。初心者の子たちにはまだ聞いていないが、彼らが全員反対しても結果が覆ることはない。そういう状況だった。中にはどっちでもいいという人もいるのだろう。そういう人は多数派に手を挙げる。そして今の状況なら、その層は続ける方に挙手するはずだ。
流されている層もいるだろう。それはそれで構わない。どうあれ、流されると決めたのは自分だ。それに従えばいい。
人は単純だ。自尊心を傷つけられたらそれに対してまずは悲しみを覚える。その後に怒りを覚える。租に怒りの対象がどうにもできない存在なら諦めるしかないが、私と言うどうにかなりそうな存在だと怒りは増えていく。そして自分の心に傷を与えた存在を倒せる方法があるとすれば、それに飛びつく。たとえそれが、倒すべき相手の提示したものであったとしても。
「分かりました。反対の人もいるでしょうけれども、これが全体の決定です。全体の決定には、それが理不尽極まりないモノでない限り従う。それが民主主義です。今こうして決めた以上、皆さんには努力してもらいます。それでは練習を再開しましょう。初心者の子たちに、あっと言わせられるように」
このやり方が正しいなんて、間違っても思ってはいない。恐らく糾弾されるべき方法であるのは理解している。最善などではないし、もっといいやり方だってあるのだろう。だから私はそのうち地獄に落とされるのだ。いずれ手痛い罰を受けることになるはずである。だとしても、全国を目指すには必要なことだと思ったから行った。手段を選んでなんていられない。
或いは私は求めていたのかもしれない。お前は間違っていると言われるのを。そうすれば……そうすれば私は自分のやり方を改めるきっかけを作れるかもしれないから。今のところ、私の考えた方に物事は進んでいる。だから止められないままいる。やり方を変えたら、想像だにしていない方向に物事が進んでしまうのではないかと恐れている、一番の臆病者が私だった。
指揮棒を振るいながら、考える。先ほどの決で全国行きに手を挙げなかった人もいる。前回も、今回もそうしなかった人。サックスの……斎藤葵先輩。彼女の目は、私の手には乗らないと告げるように、あの時私を見ていた。その視線を忘れられないまま、私は練習を続けた。