一年生へのオリエンテーションも終わった穏やかな春の夕刻。先生と私は職員室で話している。去年はもっと剣呑な雰囲気で始まった我々の関係であるが、今年は穏やかなまま話せていた。あの時はボロボロだった部活を何とかまともな格好になるように奔走していたので、こんな穏やかにしている余裕もなかったのを思い出す。
「どうですか、一年生は」
「まだ大人しいですよ。ただ、もし何かあるとすればここから。五月から六月にかけてでしょう。人間関係が構築され始めた時期であると同時に、それに大きな変化をもたらすオーディションがありますので」
先生は小さく頷く。オーディションが人間関係に悪影響を及ぼすことがあるというのを、香織先輩と高坂さんの一件で我々はよく知っている。それでも上に行くには、目標を達成するには絶対に必要な事だった。
「演奏技術に関してはこれから面談を行いますので、そこでチェックして報告します。それが終わり次第個々の練習に関する指針と全体に関する指針を作りますので、それに沿って練習を行っていくつもりです」
「分かりました。サンライズフェスティバルに関してはどうなりましたか」
「そちらも面談で一年生に回答を求めます。それで以て決定となるでしょう。今のところ、出ることになる感じですが。先生としては、どちらがよろしいんですか?」
「私はどちらでも構いません。出場することも、しないこともそれぞれ一長一短存在してますから、生徒の皆さんの決定に従いましょう。全員で出ることに意義があるというのも理解できますし、座奏の練習に励みたいというのも、理解できることですので」
「なるほど」
先生は本当にどっちでもいいと思っているようだった。生徒の自主性。それが建前になっている。しかし、しっかり合意を取さえすれば生徒の決断に関して特段反論することは今まででも無かった。その象徴がアンコンやソロコンであった。あれも私の提案を、合意を取り付けたうえで実行することにしたものだ。
「座奏の話が出たので、これをお渡しします」
「ありがとうございます。今年の課題曲の一覧ですか」
「はい。楽譜も載せています。また昨年と同じように曲に関する決定を行いますので、聞いておいてください。サンライズフェスティバルの前に決定を行いたいと思っています」
「分かりました。自由曲はどうですか?」
「自由曲は既に候補を選定しています。こちらです」
渡されたのは一枚のCD、そして楽譜。
「リズと、青い鳥……」
「はい。同名の童話を基にした曲になります。全四章、フルで演奏すると22分ほどになります。これをやりたいと思っています」
「これは……難しいですね」
パッと楽譜を見ただけでも理解できる難解さ。私はそれを認識して、難しい顔を作った。楽譜を指でなぞる。あらゆる楽器に高度な実力が求められている。去年の「三日月の舞」もかなり難しかったが、今年はもっと難しいように思える。
あまりこの曲には詳しくないが、第三楽章のオーボエとフルートの掛け合いは有名で、いつだったかテレビCMにも使われていた記憶がある。恐らく先生はみぞれと希美のソロコンやアンコンにおける実力から鑑みて選んだ部分が大きいのだろう。クラリネットやトランペットにも活躍の機会があるし、パーカッションも相変わらず出番が多い。ソロコンやアンコンの結果を大いに反映した選曲であると思う。
「どうでしょうか」
「うーん……。まぁ良いんじゃないですか。悪い曲では無いと思いますし。技術も表現力も求められる曲でしょうから、全国大会にも相応しいでしょう」
「良かったです」
「しかし、これを編曲ですか。また骨の折れる……」
「どこを削るかは、あなたの解釈に任せたいと思っています。全四章のうち、どこにウェイトを置くのかも。なるべく早めに編曲を終えて欲しいとは思いますが、難しいことであるのも理解しています。自由曲に関しては、去年と同じ頃までに仕上げてください。先に課題曲の練習を始めますので」
「分かりました。奮闘します」
「これも渡しておきます。曲理解の助けになれば良いのですが」
「ありがとうございます」
先生が渡してきたのは「リズと青い鳥」の絵本。図書室にあったものだろうか。それとも先生の私物かもしれない。作者の所にはドイツ系らしき人の名前。リズはエリザベスとかエリザベートの略で、後者はドイツ系の名前なので作者もドイツ系の人なのかもしれない。拍子に書かれた絵を眺め、作者の下に書いてある訳の所で目が止まる。
「これは……」
訳:秋月千里と書かれている。秋月は私の母親の旧姓。結婚する前に名乗っていた名字。同姓同名というのも考えにくい。死去するまでしていた仕事は翻訳。ゲルマン系言語が得意だったので、その縁で私もドイツに留学していた。思わず手が震える。まさかこんなところで出会うとは思わなかった。
「桜地君? どうかしましたか」
「……この翻訳を行ったのは、私の母です。秋月は旧姓でした。先生、知っててこれを選んだんですか?」
「いえ、全く知りませんでした。まさかそのような奇妙な偶然があったとは。正直かなり驚いています」
楽譜を握る手に少し力が籠る。私が日本にいる最後かもしれない年。そして、どうあっても吹奏楽部にいられる最後の年。その年にこういう経緯のある物語を使った曲をやる事になるというのは、何かしら運命的なものを感じる。そして、だからこそ何としてでもこの曲で全国金を獲りたかった。
「そうなると、一応他の候補も考えていたのですが、この曲にしてよかったかもしれません。ソロコンやアンコンの結果を考えてこの曲が良いと思っていましたから、なおのこと」
先生はそう呟くと、コーヒーを啜った。
「ちなみに、他の曲の候補は?」
「『ダフニスとクロエ』や『白磁の月の輝宮夜』、『バレエ音楽「三角帽子」より』なども考えました。あなたの曲も一瞬候補に挙がったのですが、難しすぎてすぐに却下しました」
「おや、それは残念ですね」
「流石に今の北宇治では大会で演奏できる段階にないので。きっとどこかの強豪校が挑戦はするとは思いますが。ともあれ、色々考えた結果『リズと青い鳥』こそ相応しいのではないかと考えました」
先生の出した候補は皆有名で、かつ難しい曲ばかり。本気で勝ちに行く曲であるのは間違いないだろう。そしてオーディションも熾烈を極めることが容易に予想が出来た。オーボエでみぞれに勝てる奏者はそうそういないけれど、一番激戦区になるのはフルートじゃないだろうか。現在トップでソロコン関西金の希美と、元全国金の部長である妹がバトルすることになるのだ。どっちがソロかでかなり白熱した戦いになることが予想される。そこに井上や二年生も殴り込んでくるので多分去年のトランペットよりも激戦区かもしれない。
「そう言えば、オーディションに関して一つ相談したいことがあります」
「何でしょうか」
「私事で申し訳ないですけれど、私の妹に関することです」
「なるほど、その話でしたか」
「はい。もうお察しかもしれませんが、私の妹のオーディションに際して、私はその判断に……」
「いえ、その必要はありません。あなたも引き続き全員分のオーディションに参加してもらう予定でいます」
「……問題ありませんか? 無論、私は絶対に贔屓などしたりしません。しかしながら、そうであっても去年あんなことになってしまった。万が一を考えれば、私は外れた方が良いようにも思いますが」
「それは一理あります。しかし、桜地君がそうしてしまうのは、却ってあなたの意思に弱さがあるという風に捉えてしまう事態に繋がるのではないでしょうか。贔屓をするような可能性のある信用ならない相手、と一年生に思わせてしまう可能性もあります。堂々と参加することこそ、逆に公平性を示せると私は思います。それに、私はあなたが身内を贔屓するような人間であるとも思いませんし、昨年の演奏を聞く限りあなたの妹に贔屓が必要な奏者であるとも思いません」
「……ありがとうございます」
私は小さく頭を下げる。先生の信頼が無ければ、この仕事はすぐに宙ぶらりんになってしまう。私はともかく、妹に関してもしっかり先生が戦力と考えて信用していることが、私にとっては嬉しい。自分のことよりも彼女を認められたり褒められたりする方が嬉しく感じるのは、親と一緒なのかもしれない。
先生の理想とは裏腹に、もしかしたら心無い噂が出るかもしれない。しかし、少なくとも去年のような事態にはならないだろう。パートリーダーとはある程度の信頼関係を築けているはずだし、問題はすぐにパートリーダーが集約して上に持っていく仕組みになっている。優子や夏紀は信頼してくれているはずだ。必ず去年のようなことを生まないために働いてくれると信じている。
先生の言うことは基本理想的だが、あまり現実に即してないことも多い。人間はそんなに綺麗じゃない。それでも、理想を唱えられないなら終わりとも言える。理想的な姿になれるように努めることも、私の務めかもしれない。それに、去年は先輩だったけれど今年は同期。よりやりやすくなっているはず。優子の理想、そして先生の理想。これらを叶えるための方策を考え始める。まずは一年生と面談だ。そこで味方を増やし、部内の掌握に努める。去年とやる事は変わりはしないのだ。
「それと、進路希望調査に堂々と未定と書くのはやめましょう」
「しょうがないじゃないですか、未定なんですから。白紙提出とか、出さないとかよりマシだと思いますけど」
「私もそう思いますが、鈴本先生が学年主任と進路主任に詰められてましたので」
「マジですか。後で謝っておかないとな……。まぁ実際の所、就職だと思いますよ。就職先が決まってないだけで」
「そうですか……。北宇治では多くの生徒が進学を選びますが、あなたは一足先に世間に旅立っていくのですね。いや、正確にはもう半分飛び出しているようなものかもしれませんが」
「さぁ、どうでしょう」
「改めてこの前橋本先生にも怒られてしまいました。キャリアを二年分使わせてるんだから、それに見合った何かを得られるような場所にしないといけないと」
「私は十分得られていますよ。少なくとも、大学卒業してそのまま就職してたら得られなかっただろうモノを、沢山」
就職していた未来もあっただろう。それでもある程度は幸福に暮らせたのかもしれない。けれど、今の関係が存在していないというのは、想像したくもない出来事だった。希美や他の同期と出会って、同性の友人も出来て、妹との関係も改善して、後輩も沢山いて、尊敬できる先輩もいた。こういう関係に出会えただけでも得られたものはあった。それ以外にも、もちろん色々。音楽的なことでも、そうでないことでも。
「ですので心配しないでください。私は今、割と楽しいですので」
「そうですか。それは良かった。自分で招いておいておかしな話ですが、私も罪悪感を抱くことが多かったもので」
「気にしないでください。私たちは少なくとも、目指している場所は同じなんですから」
「桜地君は……大人ですね」
「そうですかね。自分ではよく分かりませんけど」
自分が大人なのかどうかはよく分からない。ただ、「大人になるということ」に憧れを抱くのをやめた時が大人になった時だと思っていた。意外と大人なんて子供の延長線上みたいなものだろう。いつかどこかでポケモンのように進化したりしない。全ては連続の上にある。明確な区切りなど無い。だからこそ、実は子供と大人の区別なんてのは曖昧模糊なものなのかもしれない。もし違いがあるとすれば、子供は願っても大人にはなれないけれど、大人は子供の心を持つことだって出来るということだろう。
翌日行われた面談はつつがなく進行していた。トランペットパートに関しては自己紹介などで何度も接しているので、知りたい情報なんかは大分知れているように思える。けれど、それ以外の部員に関してはまだまだ名前以外のことを知らないままだった。メモ帳やノートを広げながら、私は椅子に座る。この光景は丁度一年ほど前にも見たモノだった。あの時は何とかして支持基盤を作ろうと躍起だったのを覚えている。
「次の方どうぞ」
「失礼します」
取り敢えずパートの順番は適当にということで面談を行っている。今は低音パートの時間だった。扉を開けて入って来た彼の声は実に覇気がない。何と言うか無気力と言うのが近いかもしれない。その目は沈んでいて、何を映しているのかよく分からないままだった。なんでこう、毎年低音パートはちょっと変な人がいるんだろう。田中先輩の呪いだろうか。
「ようこそ月永求君。どうぞ座って」
私の言葉に彼はピクリと眉を動かす。しかしまたすぐに元の表情に戻った。その顔の動きで、彼が今の私の言葉に反応したのが分かった。何か気に障ったのだろう。その原因を短い時間ながら推理する。先ほどの私の発言で目立つのは名前。名前が好きではないというのは川島さんもそうだし、普通に存在している。では名前なのか、名字なのか。求は普通の名前だ。だとすると、名字が嫌いな可能性が高い。月永、という姓がもし私の予想通りならば、なおのこと。そしてそれを裏付けるように、彼の出身校は龍聖だった。
「まずはごめんなさい。コンバスをわざわざ運ばせてしまって」
「……いえ、別に」
「では早速、ちょっと演奏してみてください」
彼の演奏は下手ではない。ただし、凄く上手いわけでもない。じっと彼の演奏している姿を見つめた。技術的な問題に関して、私の出来るアドバイスは決して多くない。弦楽器は門外漢だ。ただし、そんな私でも理解できることがある。
「月永君、それ、誰に習いました?」
「特に誰にも」
「では、独学で?」
「そうなります」
「なるほど。癖が目立ちますね。川島さんも気付くでしょうけれど、申し送りはしておきますので指導を受けてください。川島さんは私の友人が太鼓判を押した、我が部のエースです。間違った癖では良い演奏になりませんので」
「分かりました」
彼の受け答えは淡々としていた。緊張も感じなければ、悪感情も感じない。
「コントラバスはどうして選択を? 中々珍しい楽器だと思いますが。特に吹奏楽では」
「姉が、やっていたので」
「そうでしたか。では、月永君はどうしてここに?」
「それ、何か部活に関係ありますか?」
「いえ特には。ただの個人的な興味です」
「……」
「なるほど。どういう三年間にしたいかとか、何かありますか。もしくは今困っている事でも構いませんが」
「……」
「ふむ……。名字は嫌いですか?」
私の言葉にあまり回答する意思を見せなかった彼は、最後の言葉にバッと鋭い視線を向けてくる。私は平然とした顔で座っていることだろう。逆光のせいで、向こうから見れば光の中で不気味に座っている先輩に見えているのかもしれない。
「どう、して……」
「やっと感情を見せてくれましたね。良かった、何をしても無感動な人だったらどうしようかと思っていましたよ。名前を呼んだ時に表情を曇らせたのと、その姓と出身校を考えればなんとなく分かります。月永なんて、そうそういる名前じゃないですし」
「……」
「君の縁戚に月永源一郎先生がいらっしゃいますね? 元明静工科の顧問で、今年から龍聖学園に移動になった」
あんまりこういうやり方は好きではないのだけれど、あのままでは何も答えてくれないままになっていた。それでは少し困る。もし見えている地雷があるのなら、しっかり確認しておきたい。ちょっとでもコミュニケーションを取ってもらうには、多少強引でも相手にこちらを意識させないといけない。だが私はコンバスで天才的な才能があるわけでもないため、こうするしかなかった。
「……祖父です」
「分かりました。名字で呼ばれるのが嫌ならば、私も配慮します。ただし、先生方にそれを求めることは出来ませんし、全体練習などの前では必然的に名字で呼ばないといけません。そこは徹底したいので、申し訳ないですが我慢してもらいます。よろしいですね?」
「はい」
「いきなり変な事を聞いて申し訳ありません。ただ……私も少しは共感できるところもありますので。桜地の姓は私にとって、重荷でした。長い間私も、妹も、この名字に苦しめられてきた。その資産を甘受するには、桜地家は血に染まりすぎていまして……。そういう意味では君の心持ちも少しですが理解できるかもしれません。大事なのは家であって、まるで自分は附属品のよう。そう思ってしまう気持ちもね」
私はそう言いながら目を伏せた後顔を上げて、少しだけ笑いかける。私をまるで怪物を見るような目で見ていた彼は、それでどこか安堵したような表情を見せた。インパクトの後に共感を示すと人は懐柔されやすい。人間は共通点を探す生き物だ。そして偶然であっても、或いは多少強引であっても共通点が発見されると、かつそれがマイナーであればあるほど、共感を示し仲間意識を抱く。捨てられた犬のような目をしていた彼が、少しだけでも仲間意識を私に抱いてくれれば、最終的に胸襟を開いてくれやすくなるだろう。
それが私の狙いだった。あまりにもコミュニケーションを取らない生徒は扱いに困ってしまう。みぞれはあまり得意ではないだけで、レスポンスはしっかりしている。メッセージを送れば返信は来る。なんなら画面上の方が多少饒舌かもしれない。月永君のように無気力にポケ~としているとどうしたら良いのか分からなくなってしまうのだ。それに、人によってはそれを良しとしない人もいるだろう。ある種の処世術の伝授が必要だった。
「でも君はお爺さんが嫌いでは無いですね」
「どうして、そう言えるんですか」
「嫌いなら、音楽を辞めるのが一番の意思表示だと思うからです。お爺さんが愛した音楽を否定することが、一番の抵抗ではないですか?」
「……」
「まぁ君の家庭事情には深く突っ込みません。必要が無い以上は。それに、この話は誰にもしません。それは信じてください。私は基本吹奏楽部の味方です。吹奏楽部にとって不利益をもたらすような行為は行いません。君の情報を拡散することは、優秀なコントラバス奏者の損失に繋がりかねない。それに、私個人としても貴重な男子の後輩に去って欲しくはないですから。信じて頂けますか?」
「まぁ、一応は」
「それは良かった。最後に一つだけ。もう少しはきはきと答えましょうね。人によっては、良しとしない人もいますので。よろしいですか」
「はい」
「声が小さいです」
「はいっ!」
「よろしい。流石男子校出身ですね」
戸惑いながらも、彼の目に剣呑さはない。私の前でだけかもしれないが、多少は無気力さも薄れたような気がする。共感を示したことがやはり大きく作用しているのだろうか。この人は自分のことを理解してくれる。そういう風に思っているのかもしれない。それは嘘ではない。確かに私は月永君に共感する部分もある。とは言え、完全に共感しているわけでもない。だがそれは言わなくてもいいだろう。言わなくても良いことは、世の中に沢山あるのだから
「君の三年間が実りあるものであることを、そして君が大人になっていく中で何かを得られる時間であることを祈っています。自分の音楽を、そして人生を見つけてください。どうぞよろしく、求君」
「よろしく、お願いします」
差し出した手に、彼はおずおずと手を伸ばした。それをしっかり握って、微笑みかける。彼がもし大人になる時があるのなら、それは彼が名字の存在を受け入れられるようになった時、月永求という自分を認められるようになったときだろう。そういう日が来ることを、私は願っていた。こればかりは、本心から。全ての部員にとって三年間が実りあるものであってほしい。その想いはまごうこと無き本音だ。
「そうだ。サンライズフェスティバルの件は、どう思いますか」
「僕は別にどっちでも。ただ、あまり得意では無いので出ないならそれはそれで嬉しいかもしれません」
「分かりました。ありがとうございます」
月永君のフォローは川島さんに任せつつ、男子組でもサポートして行けば良いだろう。塚本君は面倒見がいいし、瀧川君や滝野のような若干適当な存在が側にいた方が気分も楽になるだろう。男子組は結束が固い。それは、困ったときに助け合うことで部内で弱い立場同士連帯していかないといけないからだった。
「では、次の方」
「こんにちは~。久石奏と言います~」
なんでこうユーフォニアムは癖が強い人ばっかりなんだと思いながら内心で軽く頭を抱える。一年生に待望のユーフォニアム奏者が来たと思っていたら、こんなぶりっ子と言っても差し支えないような人だった時の私の気持ちを、誰か救ってほしい。明らかに取り繕っている、分かりやすい擬態。女性経験のない男子なら引っかかってしまいそうな感じすらある。
「久石さん、どうぞよろしく。では早速ですが、ちょっと演奏してみてください」
「分かりました」
言うことは素直に聞いてくれるようで、彼女は演奏を始めた。なるほど、中々に上手い。田中先輩がいなくなった現在、ユーフォで一番上手いのは黄前さんだ。その次くらいには上手いように思われる。夏紀とどっちが上かといわれると、恐らく久石さんに軍配が上がるんじゃないだろうか。
「ありがとうございます。経験者ということですが、何年ほど?」
「西中に入ってからなので、今年で四年目です」
「なるほど。西中ですか」
西中は去年の府大会銀賞だった。凄く強いわけでもないけれど、弱いわけでもない普通の公立中学校だ。北中のように金賞常連でもないし、南中のように全国に行ったりするほどではない。とは言え、技術的にはかなりしっかりしているので、個人的に努力を重ねたのだろう。
「サンライズフェスティバルの件は、どうですか」
「私はどっちでもいいと思います。先輩方の決定に従いますよ」
「なるほど。分かりました」
自分で決定したくないというよりは、先輩と違う意見、全体と違う意見を言いたくないというような感情が見受けられる。それは別に悪いことでもないけれど、求めている意見かと言うとそうでもない。とは言え、どっちでもいいということは、どちらになっても文句を言わないということでもあるからして、楽ではあった。
「低音パートはどうですか。何とかやれてますか」
「はい。大変良くして頂いてます。特に黄前先輩には、それはもう」
「困ったことがあれば、すぐに先輩に相談してくださいね。黄前さんでも、夏紀でも、それ以外でも。そう言えば、この前のオリエンテーションのときは良いアシストでした。鈴木さんの気持ちを上手く代弁していたので大変良かったと思います」
「いえ、当然のことをしたまでです。それに、アレは私も聞きたいことでしたから。部活で揉め事が起こる原因は多々ありますが、オーディションを行っているのなら特にそれが温床になりやすいですし、明確な基準が存在しているのかは、大なり小なり全員の気にしていることだったと思いますので。でも、しっかりと基準があったようで安心しました」
「それは何より」
営業スマイル全開という顔の表情。けれど生憎こっちも営業スマイルには慣れている。二歳も下の子のその作られた表情に気付かないほど甘い人生を送ってはいない。自分が可愛いと分かっていないと出来ない仕草は、女子の中では嫌われることもありそうな態度だろう。男子よりも女子の方が敏感だ。特にこういう部分は。
「上を目指すのに必要な事を粛々と実行する。それが私の仕事ですので」
「……はい、そうですね」
その小さな間に込められた感情を見抜くには、私と彼女の間には隔たりが大きい。これをどうにかするには、間近で接さないといけないだろう。退出していく彼女の背中を見送りながら、今後の対応を考える。月永君は川島さんに任せることにした。これは技術面の申し送りをしておけばいいだろう。ならば久石さんはどうするか。取り敢えず黄前さんに任せるしかないと結論は出る。夏紀では、教える段階にはまだいないのだから。
三年生より上手い一年生。それは去年もあった構図だ。しかし、去年の香織先輩は高坂さんも実力は認める部内有数のトップエース。今年入った小日向さんも上手いけれど、メンタルと経験値の面で考えれば今でも香織先輩の方が上手いと思う。だが夏紀はトップエースではない。ユーフォの今のエースは黄前さん。ユーフォが三人も大会に必要かと言うと、また微妙な話になってくる。田中先輩がいれば問答無用で二人だったのだが……バランス配分が難しかった。
「次の方、どうぞ」
「失礼します」
「お久しぶりですね、鈴木さん。どうぞ座って」
「ありがとうございます」
チューバを抱えた彼女とは、以前に南中で出会っている。鈴木美玲。一年生の中で数少ない全国大会まで出た言わばエースの奏者だ。妹もその実力に関してはよく話をしていたし、下支えとして非常に安定感のある演奏をするという申し送りもされている。期待するべき一人だった。なお、今年は鈴木という名字が二人、しかも同じチューバにいるので呼び方は気を付けないとどっちも反応してしまうだろう。
「北宇治を選んでくれたようで、ありがとうございます。優秀な奏者が来てくれたことは非常に喜ばしいことです」
その言葉に、彼女は小さく頭を下げた。
「北宇治の低音パートとは以前一度話していると思いますが、どうですか。問題なく過ごせていますか。とは言えまだ数日ですが」
「一応は」
「何かあれば、パートリーダーなどにすぐ相談してくださいね」
「……はい」
「或いは、同期でも良いかもしれませんが。低音パートの同期は中々個性的ですし、同じ中学出身の部員も何人かいるわけですので」
「はい」
パートリーダーの話をするより、南中の同期の話をした時の方が反応が良いのは、恐らく後藤たちより妹の方に信頼が向いているのだろう。まぁそれは無理もない話だった。三年間やって来た仲間か一回会っただけでの先輩かと言われれば、前者を選ぶのは至極当然。無理も無いと言えよう。
「全国大会の演奏を聞きましたよ。非常に良い演奏でした。では本題ではありますが、ちょっと演奏してみてください」
「はい」
その演奏は上手い。後藤や長瀬と比べても遜色ないだろう。流石と言うべきか何と言うべきか。合同練習を前に行った時も、田中先輩や後藤から真面目で上手い子と言う風に評されていたのを覚えている。田中先輩が上手いとハッキリ言うのは珍しかったので、よく覚えていた。
「良い演奏です」
「ありがとうございます。ぶちょ、じゃなかった桜地さんにも沢山助けて貰いましたので」
「そうでしたか。その辺りは全然知らないもので」
「中々上手く行かない時に練習に付き合ってくれたり、アドバイスをくれたりと色々してもらいました。チューバは専門外だと言っていたので、多分勉強してくれたんだと思います」
そう言えば、二年ほど前に部長になると決まった際、私の部屋にある他楽器の本を何冊も持って行ったことがあったのを覚えている。あの時に勉強していたのかもしれない。
「妹がお役に立ったのならば何よりです。これは個人的な話ですが、今後ともどうかお願いします」
「もちろんです。私に何ができるかは分かりませんけど、返せない恩が多くありますから」
「ありがとうございます。では最後に、サンライズフェスティバルについて聞いても良いですか?」
「私は……出た方が良いと思います。確かに大会に出るには必要ないかもしれませんけど、サンフェスはお祭りですし、そういうのが少しくらいはあっても良いと思いますから。桜地さんはそう言うのも大事にしていましたので」
「分かりました。しっかりとした意見、ありがとうございます。一年生はどうも、どっちでも良い派が多くて。参考になります」
私の言葉に、彼女はまた小さく頭を下げる。几帳面で真面目、責任感が強いけれど追い詰められやすい。妹からはそういう風に伝えられていた。南中部員に関する申し送りが全部正確すぎて逆に怖いくらいだ。面談すると言った時に演奏技術、性格、経歴など全て伝えられている。そしてその通りに人格であるように、今パッと見た感じでは思わされた。
低音パートは静かな人が多い。夏紀も後藤夫妻も黄前さんも割とおとなしい。久石さんや月永君もそうだろう。むしろ加藤さんや川島さんが数少ない元気な感じである。その中でなら割と上手くやれるのではないだろうか。問題があるとすれば加藤さんとの相性と、もう一人の鈴木さんとの相性である。
「次の方、どうぞ」
「はい!」
元気よく返事をして入って来た、所謂萌え袖? のような制服の着方をしている、もう一人の鈴木さんを見ながらそう思った。