新学期が始まってから、定例のパートリーダー会議の構造も少し変化していた。今までよりもより組織的に、会議要素の強いモノになっている。この大人数を私一人で全部見ることは出来ない。なので、去年同様にパートリーダーを使って体系的に指示を出すことで効率化を図っている。新入生指導係、私、そしてパートリーダー。これらが連携を密にすることで、より効果的な練習を行えることが狙いだった。
「以上、今渡したのが今後各パートごとの練習計画だ。これに沿って行動してほしい。一年生を中心にしつつ、上級生の課題もしっかり入れてある。今後も定期的に先生と共に確認も行っていくから、パートリーダーは練習計画の徹底をお願いすることになる。負担は大きいと思うし、自分の練習もしたいだろうけれど、三年生としての責務と思って頑張って欲しい」
ぐるりと座ったパートリーダーを見回す。去年の先輩はこんなことをやらされていたのか、と顔に書いてある。そして、彼らの考えていることは正しかった。去年のパートリーダーはこういうことをやらされていた。私と三年生の間に存在していた年齢差を埋めるために、パートリーダーを使った間接統治というのが当初から続いた私のやり方だ。このやり方は今年も継続されている。
「はい、質問」
「どうぞ」
「これによると、コンクール曲の練習はサンフェス終わりからすぐに始めるって書いてあるけど、曲は決まってるん?」
「課題曲は先生とこれから相談して決定する。自由曲は決まってるけど、課題曲を決めてから編曲するからまだ楽譜が出来てない。もうちょっと待ってほしい」
「了解」
ホルンパートのパートリーダーである岸部の質問に答える。椅子を揺らしながら、彼女はペンをくるくる回している。曲に関する興味は誰だって持っている。これから半年近く付き合うことになる曲なのだから、興味が出るのも当たり前だった。
「あの~」
「はい、どうぞ」
「二年とかから初心者も吹けるようにしてサンフェス出た方が良いんじゃないかっていう意見も出てるんだけど、どうかな」
「それは私から説明する」
トロンボーンの岩田が遠慮がちに言った言葉を、優子が拾った。
「確かにそっちの方が初心者の子も早く成長できると思う。でも、それだとついて行けない子が出てくる。初心者はまず基本をきっちりできるようになった方が良いって私は考えてる。焦りながらお尻叩いてると、肝心なところが疎かになりそうだし、教える側の負担も大きくなるから」
「そっか。分かった、そういう風に説明しておく」
ガミガミ言いながら練習をすることもできる。ただ、去年教頭先生と話した通り、部活も変わらないといけない時期に来ている。スポコンスパルタの成果主義・根性論から、現代に即したやり方にしないと生き残れない。特に、北宇治は公立だ。私立と違って、上澄みが各地からやって来るわけじゃない。だからこそ、北宇治が長いこと強豪でいたいなら初心者などを育成していく過程が重要だ。そのノウハウを伝授していく必要がある。
それに、怒りながら怒鳴りながらの練習だと、そういう目に遭わないことが目的になってしまうだろう。向上心ではなく、怒られないために練習する。そういう状況が正しいと私は思えない。自発的に楽しいから頑張る。そういう風になってくれることが理想なのだ。理想は遠くとも、目指さない理由にはならない。抑圧的な行動は、硬直化した組織の誕生を生んでしまう。それは望んでいることでは無かった。
間もなく五月だ。それは新入生のお客様期間の終了を意味する。とは言え、やる事はあんまり変わりはしない。今までより急に練習が厳しくなったりはしない。じわじわと要求するレベルは高くなっているが、まだ悲鳴を出すほどでは無いようだった。
衣装を発注するにあたって、採寸をしないといけない。女子は視聴覚室と言う大きな部屋を使えるが、私たち男子は小さい部屋に押し込められていた。あまり扱いが良くないのはいつものことだ。先輩部員である我々はとうに慣れ切っている。私は今年、男子の統轄をしないといけない。去年も先輩がやっていたように、こういう採寸時の取りまとめや合宿の部屋長みたいなのが仕事だ。後藤も滝野もどっちもパートリーダーだからこそお鉢が回って来たとも言える。
「塚本君、キミまた身長伸びましたか? もう抜かされそうなんですけど」
「そうですかね。自分だとあんま実感なくて」
「そうですよ。もう181センチ……。あと4センチしか違わないですね。抜かされないように頑張らないと」
「頑張るって、何を頑張るんですか」
そんな笑い話をしながら身長を手元の紙に書き込んでいく。
「次の人」
「お願いします」
「求君ね。はい、塚本君よろしく」
「はい……153センチです」
「153っと。はい、オーケーです」
「……あの」
採寸が終わった月永君がこちらに話しかける。夏紀の話では、川島さんに弟子入りしたらしい。彼女の前だと露骨に態度が違うと困ったように笑っていた。他の女子部員とはあまり打ち解けず、特に久石さんとは冷戦状態だそうだ。そんな彼も同性ばかりの男子組では意外と普通の態度をしている。少しは覇気も出たように思えた。彼のボーイズソプラノの声はまだ若々しい。女顔と言うべきか、相変わらず線の細い容姿をしている。
「どうしましたか?」
「お二人、どうやったら身長を伸ばせたんですか」
「そうだなぁ……遺伝かなぁ」
それ以上の返答に困り、塚本君はこちらに目をやる。
「そうですね……カルシウム摂ってみるのはダメでしょうか? 後はしっかり寝るとか」
「ですよね……」
月永君は期待していた有効な解決策が得られなかったせいか、少し落ち込んでいた。どうやら身長を伸ばしたいらしい。中性的な見た目もコンプレックスになっているようだった。
「まぁあれです。心配するのは時期尚早かもしれません。私の知り合いに大学一年生の時は低身長だったのに卒業する時は超高身長になってる人もいます。焦らなくても大丈夫……かもしれません」
上手くフォローできているかは自信ないが、取り敢えずアドバイスはした。それに少し安堵したのか、彼は一礼して去って行く。
「先輩もアイツのこと名前呼びなんですね」
「まぁ、面談の時にちょっと」
「名前で呼ぶなオーラ出てますからね」
「そうそう。まぁ別に大したことでは無いし、普段は名前呼びでも構いはしないです。流石に指導のときは名字で呼びますけど。特別扱いは出来ませんので」
配慮と特別扱いは違う。なるべく全員の前では公平にしておきたかった。優子などが言うなら別に構わないかもしれないが、私は指導する立場。フラットに接しないといけない。だから希美も練習中は名字呼び出し、妹にだってそうしていた。
「先輩、妹さんも名字で呼んでますからね。徹底してるなぁと思ってます」
「当たり前ですよ。変な贔屓をしてると思われたくないですから。時々間違えて名前で呼んでしまいそうになりますけど。自分の妹のこと桜地さんっていうの、すんごい違和感があるんですよね。何と言うか、ちょっとゾワッとしてしまいます。妹から先輩って言われた時も同じような事感じますけど」
「そういうもんなんですかね……。滝野先輩も同じような事言ってました」
「まぁ私と彼は共通点が多いので。私の妹はトランペットを選んではくれませんでしたが……そう言えば、君。浮気は感心しないですね」
ブッと彼は思わず噴き出した。私は半ば冗談で言ったのだけれど、かなり焦っているので逆に怪しい。尤も、彼はそう言うことをするタイプでは無いと思うが。
「違います、そんなんじゃないですから」
「そうですか? トロンボーンの葉加瀬さんが君によく話しかけてると、パーリーから聞いてるもので」
「岩田先輩……」
「まぁそう言うんじゃないのは分かってますよ。冗談です冗談」
「良かった……」
安堵したように彼は胸を撫でおろした。それを見ながら小さく笑って、私はペンを動かす。彼女が出来ると急にモテだすというのはよくある話だ。とは言え、公表はされていないからそういう話ではないだろうけれど。まぁ恐らくは憧れの目線であるとは思う。尤も、いつまで憧れのままなのかは、私にも分かりかねるが。
取り敢えず男子全員分の採寸は終わる。紙に必要事項を記入して、再度確認を行った後にファイルにしまった。後は女子の分とまとめて発注すれば完了である。
「はい、全員注目。採寸は終わりました。で、ここからですが、女子が終わるまで待機です」
「「「はい」」」
毎年サンフェスの時は時間のかかる女子を待っている時間が多い。全体練習をしたくても向こうが終わらない事にはどうしようもないからだ。練習はもう既にサンフェスの曲に移行している。歩きながら吹くわけで、まずは立ちながら、その後に身体を動かした状態で演奏する。演奏面はこれでどうにかなるだろう。問題は動きの方で、これも練習しないといけないのだ。立華で貰って来たメモが生きる時が来たのかもしれない。
「やーっぱ吹部男子は待遇悪いっすねぇ」
サックス一年生の鈴木君がぼやく。彼はアルトサックス担当だ。サックスパートは今年かなりの数の一年生が入っている。小笠原先輩がきいたら万歳で喜びそうな現状だった。そして、何より彼は結構ノリがいい。女子部員によく絡んでいるのを見かけていた。そんな彼だが意外なことに南中。ウチの妹の下で生活していたのである。
「お前、馬鹿言っちゃいけねぇよ。これでも大分良くなってるんだぜ、色々。取り敢えず桜地が男子の統括と三年の学年リーダーやってる間は良い空気吸えるのが確定してるから、拝んどけ」
「何を言ってるんだ君は」
滝野の軽い口調に思わず突っ込む。確かに、我々が一年の時は実に吹部らしく女性優位社会だったが、今でもそんなに変わってはいない気がする。
「幹部に男子が食い込むのも珍しかったからな、今までは。パーリーはそこそこいたけど」
「そんなに空気変わってるか?」
「割とな。何かあるとお前が出てくるのに、わざわざ余計な事しようとするヤツいねぇって。コイツと口喧嘩したくねぇだろ? なぁ?」
一二年生の男子たちはウンウンと頷いている。その首肯はまるで示し合わせたかのように息ぴったりで、そういう目で見られていたのかと思うと、少し意外だった。まぁ幹部にしろ何にしろ、私と口喧嘩したくないと思ってるのは理解しているつもりだったけれど、それでもそこまでとは思っていなかったのが真実である。
「私にはよく分からないけど……。あ、そうだ鈴木君。君あんまり大滝さん怒らせないであげてくださいね」
「えー、怒らせてないっすよ」
「瀧川君、真実は?」
「怒らせてまーす」
「ちょ、瀧川先輩」
「悪いな。俺もこの人に嘘ついて後で痛い目見たくねぇんだ、すまん」
「よく分かりました。瀧川君、あとで校舎裏」
「なんでっすか!?」
最近彼女の出来た彼は目に見えて調子がいい。ちょっと露骨で笑ってしまったけれど、何であれお互いに支え合いながら上手く実力を伸ばしてくれるならばそれでいいと思っている。そんな彼を笑いながら見ている塚本君も、黄前さんと付き合っていた。尤も、それを知るのは少数だけ。本人も黙っていて欲しいらしいので、私はもちろん漏らしていない。当然、滝野や妹、希美にも。男の絆は固いのだ。
「てか鈴木君、ウチの妹の下でどうやって生活してたんですか? 純粋に聞きたいんですけど。あのガッチガチな南中でよく生活できてましたね」
「いやーまぁ、部長美人でしたから! 一回ふざけたらガチでごみを見るような目で見られたっすけど、まぁいいかなって」
「あぁ、そういう……」
「立って挨拶するのとか、慣れちゃえばそんなにだったんで。全体練がガチガチな分、パート練は上手く息抜きしてましたし、教え方は上手かったですし」
何でも無いかのように言ってるけれど、それでも彼だって全国に行った実力者であることには変わりない。
「お前、一回じゃなくて割と何やってんだコイツって思われてたぞ」
「マジで!?」
「お前がやらかしたって報告が来た時の表情はもう絶対零度だったんだから、勘弁してくれ。北山君、彼はどうしたら良いのでしょうか……と言われた時はもうお前終わったなと思ったぞ。まぁそれでも呼び出そうとしてる顧問から俺と一緒に庇ってくれるくらいには、期待されてたけど」
「マジか……。タイルもありがとな」
鈴木君は北山君に手を合わせて拝むようなポーズをする。クラリネットの北山君は南中副部長。同じ男子同士だし、交友関係はしっかりあったようだ。と言うかそもそも、吹部男子で交友関係が無いという事例の方が少ないんじゃないだろうか。現に、月永君だってこうして話に耳を傾けてはいるんだから。
「まだ終わりませんね……」
「しょうがない。女子の着替えと買い物は長いんだ。求だけじゃなくて男子諸君はしっかりそれを学ぼうな」
月永君の小さな呟きに、滝野は彼の肩に腕を回して答える。滝野も月永君のことは名前で呼ぶようにしていた。私がそうするように促していたからでもある。おかげかは分からないけれど、彼も少しは気分が楽に過ごせているようだった。
「何を知った風に言ってるんだか」
「なにをー! 俺だってさやかの買い物に付き合わされてるんだから知ってるんだぞ」
「あぁ、それもそうか」
妹萌え、とたまに言われることもあるけれど、実際に妹がいる人間からするとそんな感情は沸いてこない。滝野は特にそうだろう。私は保護すべく対象なので、必然的に愛情を注いでいるのでちょっと彼とは事情が違う。でも他所ではしないような気の抜けた姿はよく知っているし、普通に私に対してはそれなりに口が悪い。風呂上がりに薄着だったり、包丁使いたくないとゴネたりと普通に子供っぽいところもあるのだ。言うと本人が口をきいてくれなくなるので言わないけれど。
「よっしゃどうせ暇だし恋バナするぞ、恋バナ」
去年はハーレムにならないのがおかしい、とこの時期嘯いていた滝野だが、今年はよく分からない方向に舵を切っている。どういう心境の変化があったのだろうか。
「ハーレムは諦めたのか」
「夢は夢だから綺麗だって知ったんだぜ……」
「は?」
「お前時々冷たいよなぁ。いいよお前の好きな人はどうせすぐ分かるんだから」
「……え?」
「あと、後藤も良いからな。お前は長瀬さんとずっとイチャついてろ」
「イチャついてない」
後藤の反論も虚しく、知らなかった情報を提供され一年生たちは興味深そうな顔で後藤を見ていた。確かに割とオープンに付き合ってるという情報が公開されているのは後藤と長瀬カップルが一番だろう。次点で瀧川高久カップルになる。去年だったらトロンボーンの先輩とかでもいたけれど。あの二人どうなったのだろうか。ちょっと今になって気になって来た。
「ちょっと待て、私は別に」
「うるせぇ、お前はどうせ傘木さんだろ」
「は、はぁ? そ、そんなんじゃないし」
「はいはい、そうだな。指導者は平等じゃないといけないもんな。お前らー、今のは忘れてやれー」
「「「はーい」」」
こいつら……と思いながら男子組を見渡す。今年の男子組の中心は滝野が回してくれるらしい。確かに、私はそう言うタイプじゃないし、後藤は寡黙で穏やかだ。中心になる三年生は滝野しかいないだろう。香織先輩に命捧げてた滝野だが、意外と人の恋愛事情も見ているようだ。私のはそんなに分かりやすいのかとガックリ来る。去年川島さんにも見抜かれそうになっていたし、ちょっと注意した方が良いのだろうか。
取り敢えず男子組は外に漏らさないという信頼があるので、今はまだ大丈夫だろう。男子組で秘密を洩らすとマジで処刑されかねない。なので内緒にしたいことは黙っておくというのが暗黙の了解だった。そうやって結束を維持しているのである。問題は女子に漏れた時。妹は口が重いけれど、他の子もそうとは限らない。この狭い女子社会で噂は飯の種だ。そんな風にはなりたくない。ちょっと自重しないといけないかと思い、ガックリと肩を落とした。
「1、2、3、4!」
手を叩きながらリズムを作り、それに合わせて足踏みしつつ演奏を行う。去年もやったサンフェスの練習だ。今年は新一年生を加えて実行している。今はトランペットパートで練習を行っていた。
「はい、しっかり足上げて。腕も下げない」
去年もやった二三年生は慣れたものであるけれど、一年生はそうでもない。初心者の滝野さんはステップ係なのだが、それ以外の三人は全員ここで練習している。
「開幕からバーンと勢いよく出るんだから、もっと音を張るように。二年生を見習って!」
気弱そうに見えると言うか、まぁ実際割と気が弱い小日向さんが一番上手い。しっかりとした基礎練習に基づいた確かな実力を有していた。これは今年の大会も出れるんじゃないだろうかという風に今でも見られている。一年生有数の実力者として認識され始めていた。尤も、本人は別にそういう評価を求めているわけでは無いようだが。
北中出身とあって、高坂さんの後輩にあたる。中学で二年、高校でもまた二年一緒に生活することになるわけだが、気が強い高坂さんとの相性はまだ分からないでいる。高坂さんの方は実力者としてしっかり認識し、記憶していたようだけれど。
「はい、ストップ。貴水君は音が出てるけど処理が甘いです。音量がデカければ良いのはジャズくらいですから、丁寧に処理するように」
「はい」
「浅倉さんは逆に音が細いです。動きながらには慣れてないかもしれませんが、実際は数キロ程歩きながら演奏することになります。後、暑いです。その環境でも安定した音を出せるように」
「はい」
「上級生はよくできてます。ただしここはまだ前段階。行進練習でも音を出せるようにしておいてください」
現在の状況を書き留めながら話をしていく。上級生が出来ていないと話にならないが、それは流石に杞憂に終わったようで安心している。
「では、取り敢えず私はここまでとします。ここからはパートリーダー中心に練習するように。二年生は一年生を見てあげてください。そうですね……高坂さんは小日向さんと浅倉さんを、吉沢さんは貴水君をという感じで。二人ならば行けると思ってますが、大丈夫ですね?」
「「はい」」
「良かった。ではお願いします」
トランペットパートの教室を出て、隣の教室に向かう。隣の部屋では滝野さんが加部にトランペットの基礎を教わっていた。まだまだ初心者の彼女がいち早くできるようにという狙いの元、サンフェスでの演奏をさせずにこうして別個の練習をさせている。ただ、その間加部が自分の練習が出来なくなってしまうので、それを問題視はしていたが加部本人がそれでいいと言うので、最終的に今の形になっている。
「お疲れ様。どう?」
「バッチリ」
「それは何より。じゃあちょっと見せてもらおうかな」
「は、はい」
「そんなに緊張しないで」
滝野さんは緊張したような顔をしている。私はそんなに緊張するのだろうか。怖がられているわけでは無いと思いたいけれど、もしそうならちょっと悲しい。
「じゃあ、3、4」
トランペットは3つのピストンを使って音を鳴らす楽器になっている。ピアノとかと違って、一つの指で一つの音と言うわけでは無い。同じ指で複数の音を出している形だ。息のスピードで音を変えている。ピストンは手前から一音、真ん中が半音、一番奥が一音半音が下がる構造だ。つまり、この組み合わせは複数存在していてる。同じ音を別の指の使い方で出すことを換え指という。これを覚えると、複雑な譜面の時に楽な運指で演奏することができることがある。
初心者はまず運指を覚えてもらうことからスタートしていた。これは運指表を使いつつ練習してもらっている。ただ、そのままでは覚えにくいので、音符と運指表が出てくる動画を使って一緒にやりながら練習する形式をとっていた。これは私が加部に対して行ったアプローチであり、それをそのまま踏襲しつつ加部は滝野さんに教えている。
そしてそれをしつつ、ドをゆっくりなテンポで4拍出して4拍休む吹き方を練習してもらっていた。要するにロングトーンである。ドが出来たら次は別の音に移っている。正直この辺の練習は普通に面倒でつまらないのだが、これが終われば簡単な曲なら吹けるようになってくるので、もうすぐの辛抱ではあった。とは言え、この辺は大体一二週間で出来るようになる。滝野さんももうすぐ大詰めと言う感じだった。
滝野さんは課題にしていたロングトーンを行っている。それを確認するのが今行っている作業だった。
「良いですね。よくできてます」
終わった後、私が言った言葉に彼女はホッとしたような顔をする。やったじゃん、と言いながら加部がにっこりと笑いかけている。二年前に私は同じような事を彼女に言った記憶がある。その時も似たような笑顔で笑っていた。私が誰かにトランペットを教えたのは加部が初めてだったので、手探りに遠回りもしつつの練習だったのだが、それでも簡単な曲が演奏できた時は楽しそうにしていたのをよく覚えている。或いは、彼女が味わっている感動は自分がかつて感じていたものだったからかもしれない。
ロングトーンは始めから終わりまで同じ息のスピードであること、音がフラフラせず真っ直ぐ綺麗に出せていることの二つが大事になってくる。当然上手くなっても基礎練習としてよく行うモノで、上手い人はこの時点ですでに上手い。また、上級者は伸ばす拍数をもっと長くしてやることも多かった。当然、私もそう言う風にして基礎を疎かにしないようにしていた。
「大分真っ直ぐに音が出るようになりました。まだ基礎的な音ですけど、十分でしょう」
「師匠が優秀だからだね」
「師匠の師匠が優秀だったからでは? まぁそれはともかく、これからはちょっとした曲を使って練習してみましょうか。単純に音だけ出しててもつまらないでしょうし。曲としてはそうですね……」
私がごそごそとファイルを漁る。その中には大量の楽譜が入っていた。
「これじゃなくて、これでもなくて……あぁあった。これとかどうでしょう」
「アメージンググレイス?」
「はい。ちょっと有名な曲を引っ張って来ました。後はこっちも。こっちの方が簡単かもしれませんね」
渡したのは「かえるの歌」。有名な童謡だ。とは言え、歌詞にもあるように音階を刻んでいくため練習するには割と丁度いいと思っている。加部の最初の曲もこれだった。
「アメージングの方は吹ける部分からだけでも構いません。取り敢えずできる所からでも練習して、基礎練としてください。こうした曲の方が成長が実感しやすいでしょうから。とは言え、大事なのは地道な基礎練習です。練習曲はそれを精神的に助けてくれる存在に過ぎません。どんなに上手い奏者でも、最初に一歩はみんな同じです。腐らないで頑張ってみてください。大丈夫、練習を続ければ絶対上手くなりますから」
「はい!」
「よし、いい返事。加部もパート練してきた方が良い。こっちはしばらく私が見るから」
「了解。じゃ、さやかちゃんちょっと行ってくるね」
「ありがとうございました!」
加部が隣の教室に行って練習に参加しに行く。教室には私と滝野さんの二人が残された。ここからは三十分ほどではあるけれど私が練習を見ることになる。色んな楽器を教えないといけないので勉強を重ねているが、それでもやっぱり専門はトランペット。教えていて一番楽なのは当たり前だけれどトランペットだった。
「どうです、滝野さん。慣れてきました?」
「はい。みんな優しくしてくださるので」
「高坂さんは厳しいでしょ」
「意外と普通ですよ? 秋子先輩が横でじっと見てるからかもしれませんけど」
吉沢さんがいると高坂さんは弱体化するらしい。これならもし言い過ぎたりしても「お口チャックしようか」でストップかけられそうで安心する。お互い足りないモノを補い合いながら進んでいけることが理想的だと私は思っていた。
「何と言うか、兄ってすごかったんだって実感してます」
「滝野が?」
「はい。家に帰ってきたらずっと寝てるし、お母さんとかにいつも勉強しなさいって言われてるのに適当に誤魔化してるし、デリカシー無いしであんまり尊敬できなかったんですけど、吹部に入って同じ楽器やってみて、凄いことしてたんだなぁって思うようになりました」
「まぁ、それはね。彼だって、去年の大会メンバーですし。全国大会にいるトランぺット奏者なんて百人ちょっとしかいませんからね。その中の一人が彼です。高坂さんや優子には劣りますけど、それでもパートリーダーになれるくらいには上手いですから」
「久しぶりに、カッコいいって思えたかもしれません」
「それは良かった。本人に伝えましょうか?」
「絶対やめてください」
「彼も可哀想に……」
家庭で見せる姿と、部活で見せる姿は当然違う。滝野が演奏している姿を実際に見て、そして自分がトランペットを始めてみて、そうすることで気付くこともあるのだろう。扱いが雑なパートリーダーだが、それでもしっかり高坂さんや吉沢さんだっていう事を聞いている。優子だって信頼してるからパートリーダーを任せた。彼も誇るべき北宇治の三年生なのだ。
「じゃあ、そのお兄さんに追い付けるように頑張らないといけませんね」
「はい、頑張ります」
背中を追いかけながら、同じ楽器をやる。そうしてくれる妹はいるのは少し羨ましい。ウチの妹がフルートを選んだことは、それはれで別に良いと思うけれど、そうは言ってもトランペットをやってくれたら嬉しかっただろう。そんな事を思いながら、滝野さんの練習に意識を戻した。