サンライズフェスティバルまで一週間を迎えた四月の下旬、私はまた先生と顔を突き合わせていた。やるべきことはたった一つ。今年の大会で演奏する課題曲の選定である。去年も時間をかけて行ったが、この選択が大きく結果を左右するため重要なものだ。ある意味で、課題曲の方が自由曲よりも大事とすら言えるかもしれない。自由曲は好きな曲を選べるが、課題曲は五つの中から選ぶしかない。当然被りもするので、どう演奏するかは審査員も注視する場所だった。
「なんだか懐かしいですね。去年同じようなことをしたのが遠い昔のことみたいです」
私の何とも言えない回顧の言葉に、先生は小さく頷いた。
「私がこうして曲選びに関われるのもこれが最後かと思うと、残念でなりません」
「私としても、来年から選ぶときに相談する相手が減ってしまい、今からどうしたものかと思っています」
「幹部に相談してみれば良いんじゃないですか? 或いは、部内全員で曲を決めるというのもアリかもしれません。そう言う風にしている学校もあるみたいですし。どっちにするかも、来年の幹部に聞いてみるのも良いかもしれません。何もかも一人で決める必要なんてないですから。吹奏楽部は本来、部員たちのためのモノですし」
来年は高坂さんたちの世代になる。どんな曲を、どんな風に演奏するのだろいうか。それが今から楽しみだ。けれど今考えるべきは遠い未来、私が何をしているのかも分からない先の話ではなく、もうすぐ訪れる時期の話。もしかしたら、卒業したくないという子供じみた願いを誤魔化すために遠い未来の話をしているのかもしれない。
「まぁ編曲はお任せください。私が来年どこで何をしているのかは分かりませんが、それでもお引き受けしますよ。もちろん、OBとして」
「ありがたいことです。私は作曲の専門家ではありませんから。では、そろそろ選んでいきましょう。まず今年の課題曲を整理しておきます。課題曲Ⅰは矢藤学作曲『マーチ・スカイブルー・ドリーム』、Ⅱは山本雅一作曲『スペインの市場で』、Ⅲは西村友作曲『ある英雄の記憶~「虹の国と氷の国」より』、Ⅳは鹿島康奨作曲『マーチ「クローバー グラウンド」』、Ⅴは島田尚美作曲『焔』です」
「また個性的なのが揃いましたね、改めて並べると……」
一曲目の『スカイブルー・ドリーム』はトランペットの華やかな4小節のファンファーレから始まる。爽やかさのある曲だが、作曲者からの注意書きがある。この作曲者はトランペットをやっている人で、そう言う意味では私の先輩にあたるのだがそれはともかく。注意書きは『テンポは一定に』と『場面ごとに表情をつけて』である。シンプルな曲ではあるが、それ故に演奏する際のセンスが求められるだろう。
二曲目の『スペインの市場で』はアンダルシアの港町をモチーフにしている。去年といい、大会の曲選定係にはスペイン推しがいるのだろうか。中間部にはキューバやハイチなどの中米旧スペイン植民地の音楽が使われている。ハーモニーもめまぐるしく動くこの曲は、同じ場所をやっているパート間の連携が確実に大事になって来るだろう。ラヴェルのスペイン狂詩曲の影響も入っているようで、中々大変そうな曲だ。
三曲目の『ある英雄の記憶』は幼稚園の子供たちが持ち合って作った物語の劇附属音楽からメロディーを集めて作ったらしい。サブタイトルはその冒険物語のタイトルのようだ。個人的には課題曲らしからぬ曲であるように思う。曲としては分かりやすい方だが、金管がきつそうだ。全体的に展開も早いので、木管だからと言って楽だということは全く無いと思う。指導者が楽曲理解でミスるととんでもないことになりそうだ。
四曲目の『クローバー グラウンド』は延々と続くなだらかな丘陵をイメージしたらしい。クローバーはヨーロッパではたまに見るので、割となじみ深い。一回だけ行ったアイルランドを思い出す。去年のプロヴァンスの風と同じように、ちょっと変わった感じのマーチだった。曲全体として同じ動きのパートが多く書かれているため、揃える作業が大変そうだ。トランペットも結構カギになりそうに感じるので、もしやるなら私としてもやりがいがありそうだった。
五曲目の『焔』の作曲者は2009年に引き続き二回目の登場となる。去年もそうだったが、課題曲Ⅴは現代音楽の布教を目的としているため、曲はどれも難解な事が多い。奏者は曲の中にある遠近感や立体感を正しく認識し、音価、つまりは音の長さについて理解することが求められるだろう。その上で、何の役割なのか、どういう意味のメロディーなのかも叩きこんで演奏しないといけない。音の始め方、終え方に注視しないと曲が不安定になる。課題曲Ⅴらしい曲と言えるかもしれない。
どれも良いところのある曲だ。それ故に難しさもある。どれを選ぶかは悩みどころだが、まず一つ言えることがあるとすれば。
「先生、これ……」
「何でしょう」
「絶対これⅠが一番人気じゃないですか、見えてますよこんなの」
「確かに、それは私も思いました。他の学校にそれとなく聞いても、Ⅰを選ぶところが多かったようです。清良女子の大友先生もⅠにすると仰っていました」
「ですよねぇ。南中はⅢにするらしいですよ、敢えて。自由曲は『キリストの復活~ゲツセマネの祈り』だそうで」
当代の部長から連絡が来たらしく、妹が教えてくれた。「あの人曲決めは早いんだよ、逆張りが多いけど。てかまたキリストか……。博愛からほど遠いんだけどね、あの人」ということらしい。確かに去年もキリストの受難だし、何かキリスト教に思い入れがあるのだろうか。ミッション系の学校の出身ということはあり得る。
ゲツセネマというのは聖書に出てくるオリーブの木の名前だ。キリストは処刑の前日に、オリーブの木の広場に行き、目の前に迫る十字架を恐れ、憂い悲しみ祈り続けていたらしい。最後には逮捕を受け入れたキリストだが、捧げた祈りが通じて復活を遂げる。この曲はこの場面を切り取ったモノだった。南中の顧問は去年のに味を占めたのかもしれない。
「順調に行けば、今年も南中と合同練習を行う予定です。交流会としては有益な機会ですし、現に今年も優秀な奏者が来てくれましたから」
「それは賛成します。公立校の弱みを少しでも減らすために、部員確保は欠かせませんからね。それで……肝心の曲選びですが、先生はどれを選びましたか」
「一番人気じゃないか、という意見の後に言うのは少し複雑ですが、私もⅠが良いのではないかと考えます」
先生は少しだけ声に迷いを滲ませながらも、自分の選択を言った。
「理由をお聞きしても?」
「私としては自由曲を主体に据えたいと思っています。自由曲に少しでも時間を使うためには、短めのⅠが良いのではないかと」
「うーん……」
「何か、気になるところが」
「私、個人的にⅠはあんまり北宇治に合ってない気がするんですよね。明確な根拠が無くて申し訳ないですけど。何と言うか、単調で眠くなってしまいそうな演奏になりかねない気がします。それに、同じ曲を多くが選ぶということは、明暗が分かれやすくなります。審査員の目も必然的に厳しくなるでしょう。同じ曲の中で差をつけるなら、粗探しになってきますし。最後にですけど、時間で決めるのはちょっと悪手じゃないかなぁと。スカイブルーと青い鳥は共通性があってそれは良いと思いますけどね」
「なるほど。では、あなたの考えはどうでしょうか」
「私は……」
私は改めて楽譜に目を落とした。五つの楽譜にはそれぞれのメロディーが紡がれている。作曲も行う人間としては、あぁきっとこういう風に演奏してほしくて書いたんだろうなぁというのがなんとなく伝わって来る。この五つの物語の中でどれを選ぶかが、今後の私たちの明暗を分けるだろう。
「……Ⅳでしょうか」
「Ⅳ、ですか」
「はい」
コンクールの曲自体はそれなりに前から発表されている。なので、既に世間では曲に対する印象などが出回っていた。一番評判が良いのはやはりⅠ。短いので自由曲に時間を割けるのもそうだが、単純に曲としても好かれているのだろう。確かに私もいい曲だとは思う。ただ、被りまくるのが想定されるところに突っ込んでいくのは今一つ気が引けていた。
それに、一定のテンポと言うのは下手すると単調な演奏になりかねないリスクを孕んでいる気がする。もちろん、マーチである以上一定なのは大事なのだが、去年のプロヴァンスに比べると変化が少ない。更に言えば、「リズと青い鳥」が凄まじい表現力を有する難曲である以上、こういう場合はこう演奏するというセンスが問われるモノを選ぶとパンクしてしまうようにも思えた。
「Ⅳは木管金管打楽器すべてのバランスが整ってないと難しい曲です。ですが逆に、これが出来ない事にはリズも出来ません。マーチでは金管が出張りがちですが、リズで結構木管が活躍することを考えると、バランス感覚を重視するうえでも最適な課題曲では無いでしょうか」
鳴らし過ぎないと作曲者も書いている。フレーズの歌い方を極めるという意味でも、自由曲と上手く繋げられるのではないだろうか。時間もスカイブルーよりは長いけれど、それでも4分ほど。残りの8分ほどは自由曲に回せる。
「私はⅣを見た時に、ちょっと驚きました。かなり大雑把と言えば語弊がありますが、少し無責任にも感じました。『アーティキュレーションが役割によって変えてある』という部分も、難しいのではないかと思います」
例えばトランペットパートが主旋律の箇所で木管も同じメロディーを演奏している部分がある。この曲は総じてそういう風に構成されていた。これはかなり研究が必要な曲になっている。だがこれにも利点があった。
「これはこちらの指導陣が明確にどういう演奏をするのか示さないと恐らくいい演奏にならないでしょう」
「えぇ。ですから、少し難しいと思いましたが」
「逆ですよ、先生。逆です。だからこそ楽なんです。こっちからどういう風に演奏しなさいと言えばその通りになる。こちらの示した楽譜通りになって、アーティキュレーションを加えていく。統一した表現が出来ます。一方で、自由曲はかなり表現力が問われています。まさに、奏者がどう解釈するかによって何倍にも何十倍にも色濃くなっていく。そういう曲が二曲もあったら大変じゃないですか。自由曲に重きを置くからこそ、ここでは敢えてこちらの指示通りのある意味では楽譜通りな演奏をしてもらう。そうすることで二曲間の間にある差を印象付けることも出来ます。無論、課題曲も完璧に演奏すれば、より好印象になるでしょう」
ちょっと単調なモノの後には激しいモノを。裁量度の低い曲の後には奏者の裁量が強い曲を。明るい曲の後には静かで清廉な曲を。そういう高低差が人の印象に残るのだ。そして大体後者が印象には残りやすい。
「……なるほど」
「つまり、私と先生が必死にどう演奏するかを一から十まで決められればOKということですね」
「リズと青い鳥の方は何分で編曲できそうですか」
「まだ終わってないので何とも」
私の顔は作曲の締め切りの数日前にリテイクを要求された時の顔になっているだろう。あのゲーム会社二度と許さない。次あんなスケジューリングした日にはぶっ飛ばしてやろうと思ってる。それはともかく、あまり私の顔色は良くなかった。
「解釈に苦しんでます。どこにウェイトを置くか、どこを削るか。何度も本を読み直したり、楽譜を見たり、曲を聞いてるんですけどね。おかげさまで頭の中でずっとオーボエとフルートが歌ってますよ。とは言え、選ばれた課題曲の分数に合わせるくらいのことはしてみせます」
先生はしばらくの間、考え込んでいた。その目は少し下を向いて、ずっと一点を見つめている。先生の中で何らかの思考を働かせて、色々な計算をしている事だろう。実際に何を考えているのかは分からない。どれほど時間が経ったのだろうか。先生は顔を上げた。
「分かりました。あなたが時間に合わせた編曲が出来るならば、私はⅣでも構わないと思います」
「ありがとうございます」
先生は多分、自由曲の方に強いこだわりを持っているのだろう。あの渡された絵本は既に返しているけれど、あれは先生の私物だった。図書館のバーコードなどはついていない。だが先生に絵本を買う趣味があるとは思えない。恐らく、あれは先生の亡くなった奥さんが持っていたモノなんじゃないだろうか。だからこそ、先生はアレを選んだ。奥さんとの思い出があるから。そして幸か不幸か、その思い出の品には私の思い出も重なっていた。
だからこそここで譲歩する選択を選んだのだろう。Ⅰを選んだのが自由曲にウェイトを置くためなら、自由曲がしっかりと演奏できるなら課題曲は何でも良いはずなのだ。
「じゃあ、まだ時間もありますし読み合わせしましょうか」
私の言葉に、眼鏡をくいっと上げて、先生は頷いた。夜の音楽室に二人の声が響く。大体喧々諤々の議論になりあんまり進まないのだが、それでも何とか楽譜の解釈を行っていく。ここで意識統一をして、どういう風に演奏するかを確認しないと確実に崩壊するだろうことは明白。妥協を許さぬまま、会議は続いて行った。
サンフェスの本番が近付き、グラウンドでの練習が始める。去年よりも融通をきかせてもらえるようになったのは全国出場効果というものだろうか。ジャージやTシャツを着ながら隊列を組んだ部員は乱れなく足を動かす。
「5メートル8歩。歩幅を意識して。前、横、列の流れを意識してください!」
「「「はい!」」」
ホイッスルを首から提げ、指示を出す。マーチングで大事なのは歩幅の統一だ。これがズレるとある意味演奏のミスよりも目立つ。人は聴覚情報より視覚情報の方が受け取りやすいのもあるかもしれない。1歩62.5センチ、8歩で5メートル。この動きを身体に叩き込ませる必要があった。
「1、2、3、4、5、6、7、8」
こちらの鳴らすホイッスルに合わせて、部員たちはカウントを繰り返す。楽器はまだ持っておらず、持っていると仮定して練習している。
「周りにも注意してください。もし途中で躓いてしまうと、他を巻き込んで大きなケガになります。楽器を持っていない今動けてないと、楽器を持った時にもっと動けなくなります!」
こんなところで怪我なんてして欲しくない。私のマーチングのいろはの一端を教えてくれた神田さんも、怪我にだけは気を付けるようにと口を酸っぱくして言っていた。同期の三年生が怪我で全国大会直前に出場を断念したらしい。それ故に、非常に重苦しい声で言っていた。部員の動きがひとまず大丈夫そうなラインに到着したことを確認して、ホイッスルを鋭く鳴らす。ここで歩行練習は一旦終わりだ。
「視覚情報は聴覚情報よりも注目されやすいです。音楽に詳しくないお客さんは、行進が揃っているかどうかを注目します。無理に吹くくらいなら、まずは身体を揃えることを意識してください」
疲労の色が濃く見える部員が多い中、物足りなそうな顔をしている一年生もチラホラ。大方、強豪出身だろう。自分の妹を見ていれば良くわかる。昨日の夜密かに自宅の無駄に長い直線の廊下で練習していたのを知っている。努力しているからこそ、今みたく涼しそうな顔で立っていられるのだろう。そのストイックさは尊敬できるところだった。
「今から10分休憩に入ります。各自、しっかり水分補給等行って、その後は各パートごとに練習。よろしいですか?」
「「「はい!」」」
列をなした部員が一斉に散っていく。しかし、どうも隊列を組んだそこそこの人数に指示を出していると軍隊の指揮官みたいだった。背伸びすれば青い空が見える。段々夏が近づいていくが、空はまだ春模様だった。去年度立華高校から貰ったアドバイスやメモが大変役に立っている。ありがとう神田先輩。あなたのおかげで助かってます。
視界の隅で、ヒュウと風切り音を鳴らしながらバトンが空高く舞う。そして落下して……
「あうっ!」
優子の頭に激突した。頭を抱えてうずくまってるが、諦めた様子は無く、もう一度バトンを拾っている。今年のドラムメジャーは彼女が務めている。私が代わりにやろうか? という風に問いかけはしたのだが、彼女は断って自分がやると主張していた。
「あいつ、休み時間くらいは休まないと……」
そう呟くが、追いかけているのが誰なのかは容易に想像がついたので手を出さないことにした。それに休め、と私が言っても説得力皆無だろう。いざという時はぶん殴ってでも止めてくれる最終兵器があるし……と低音パートに目を向けた。
そして他のパートに目をやれば、概ね問題なさそうに見える。ただ、一見しただけでは分からないものが人間関係と言うもの。優子と夏紀も気を配っているし、黄前さんが色々動いてくれているところもある。男子も私と塚本君で一応の統制はとれている。
身内がいると気になるのが人の性と言うものなのか、視線はフルートパートに向く。視線が向く理由はそれだけではないけれど。目線は揺れるポニーテールを無意識に或いは意識的に追いかけている。あのパートは激戦区だったようで、全員マイ楽器持ちの経験者だ。そして我が妹もその戦争を制した一人としてあの輪の中にいる。
「あそこはいつも賑やかですねぇ」
「ああ、うん。元気そうでいいよ」
「先輩の妹さんがいるから気になるんですね」
「まぁね」
話しかけてきた吉沢さんの話に乗っかる。
「人気ですよ~妹さん。生徒の間じゃあ、吹奏楽部以外の子からも知られてるみたいです。なんでも品行方正、容姿端麗、勉学優秀、博学多才、運動神経抜群のお嬢様として広まってますね。私のクラスの男子でも、良いなぁって言ってる人がいましたからね。通称北宇治1年のプリンセスだそうで」
「プリンセスとはこれまた大層な。家だともっと普通なんだけどな」
「男子は概ね女子に幻想を抱いているので仕方ないですよ。お昼ごはんに食べているお弁当も自作説がまことしなやかに流れてますよ」
「随分と的外れな考察だこと」
家庭的! とか言って騒いでる男子諸君はあの弁当を私が作ってると知ったらどういう顔をするのだろうか。その顔はちょっと拝んでみたい。彼女の弁当は私の作成である。去年までと全く変わってない。少しはマシになった彼女の料理スキルだけれど、まだまだ上手には程遠い。この前やっとカレーを作れるようになっていた。取り敢えず修学旅行の間はカレーとレトルトで食いつないでもらおう。
「あれ、意外ですね。もっと、妹は誰にもやらん! みたいなこと言うかと思ってました」
「いやいや、あの子が選んだ奴なら大丈夫だと思ってるし、そもそもそう簡単に告白を受けたりしないだろうし。それに、そこいらの有象無象では落とせないだろうしな」
「有象無象って、中々の言い方ですねぇ。流石シスコン」
「誰がシスコンだって?」
「滝野先輩が言ってましたよ」
「あの野郎」
「麗奈ちゃんが羨ましがってました」
「何を!?」
高坂さんは兄が欲しい願望でもあったのか。妹になりたい系女子なのか。ちょっとギョッとした私に、吉沢さんはケラケラ笑っていた。
こちらに気付いた妹は軽く手を振る。それを見た他の一年生の子たちが頭を下げる。手を振り返しつつ、目を細めながらフルートパートを見つめた。妹は妹なりに上手くやれているように思う。いつも周りに一年生の子がいるのが、その証だろう。彼女の手の中で陽光に反射して白銀の光を放つフルートは私の贈ったものだった。大事そうに持ってくれているのが嬉しかった。
「1、2、3、4、5、6、7、8」
便宜上トランペットパート所属の身なので、まずはここの様子を見ることとした。初心者の人や日焼けに弱いダブルリードの楽器を演奏する人、物理的に持てないコンバスの人は例年通りカラーガードとして旗を振りまわすか、ポンポンの係である。そのため、演奏班には今三年生・二年生の全員と一年生の経験者三人がいた。
「視線を前に! 小日向さん、背筋伸ばして。貴水君顎を引く!」
楽器を吹きながらの練習は今まで以上に疲れる。楽器の重みが腕にのしかかるからだ。それでもトランペットはまだまだマシな方。重いスーザフォンなどはもっと大変だろう。
「こら滝野、何年目だ! ちょっと遅れたぞ」
慌てたように滝野の背筋がシャンと伸びる。まぁこの日差しの下では仕方ないのかもしれないが、そうやって妥協するわけにもいかないのがこの世界。厳しくならざるを得ない。二年生になった二人はしっかりとしたクオリティーを保っている。高坂さんは言わずもがな、吉沢さんもしっかり出来ている。去年1年の努力の成果が着実に表れていた。これは今年のオーディションも期待できそうだ。
「4、5、6、7、8。ユーフォ、今音ズレてる。夏紀だな、暗譜して! 後トロンボーンは足が揃ってない。ホルンの聞こえ方が悪いんですが、ベルちゃんと上に向けてますか? 注意して!」
「「「はい!」」」
視線は目の前のトランペットに向けているし、リズムもトランペットパートのものを手で叩いている。その間も後ろで練習してるユーフォの音がズレていたし、右のホルンは聞こえ方が悪い。チラリと視線を送ればベルの向きが悪くなっている。左の方で練習してるトロンボーンは足が揃ってないから足踏みの音がおかしかった。四方八方から返事が返って来る。それを認識しながら、目線はトランペットパートに集中していた。
「はいストップ。オーケー、概ね問題ない! あとは優子、任せた」
「りょーかい」
後を任せて次のパートに行かなくてはならない。今年のトランペットパートは大丈夫そうだ。少なくとも去年よりは。そう思い、その場を後にする。休憩に入った瞬間に一瞬だけ見えた加部の陰りのある表情が少し引っかかったが、次のパートの練習に集中する中で記憶から抜け落ちていた。
「はい、じゃあ今日の練習は終わります。お疲れさまでした!」
「「「お疲れ様でした!」」」
最後の通しを終えた段階で、夕暮れの校庭にチャイムが鳴り響く。学校のではなく、市が鳴らしているチャイムだ。西には夕陽が沈み、東の濃紺な空には三日月が昇っている。日曜日というかなり時間のある日に、かつ延長届けまで出しているので、相当長い時間を練習に費やせることになっていた。それだけ時間をかけたからか、演奏する人もそうじゃない人もしっかり動けるようになった。これならば立華には劣ると言えども、それなりの演奏が出来るようになるだろう。
「疲れた……」
小さい声で呟く。指導している側も声を張りながら炎天下の中にいるので疲労がたまる。汗が首筋を流れていた。それをタオルで拭き取り、水筒に入った少し生ぬるい水を一気に飲み干す。そうすると余計にブワっと汗が流れ落ちていた。
帰り始めている部員もいれば、自主練のために残っている部員もいた。そればっかりは個人の自由だ。当たり前のことだけれど、自主練は自主的に行うモノであって強制的の行うモノじゃない。吹奏楽だけで生きていく人なんてほんの一握りだ。私みたいに成績なんて気にしなくても就職先がある人なんてまずいない。当然塾などに行くならば大いに言ってもらって構わないと思ってる。もし自主練を強制して第二第三の田中先輩事件ともなれば、もう私も庇いきれないだろう。
「桜地先生、この後お願いします」
「はい、了解。先に行って待ってて」
サンフェスの曲が発表されてから、新入生歓迎期間は少しお休みにしていた個人レッスンが復活していた。高坂さんと吉沢さんはいつも通り参加している。見学だけは他パートからも来るのだが、その壮絶さゆえか大体がすぐに逃げ出してしまう。そんなに鬼かなぁと思ってはいるのだが、高坂さんは目を逸らし吉沢さんは曖昧に笑うだけだった。多分鬼なんだと思う。
「大丈夫か」
「まぁ、何とか」
ベンチに座りながら飲み物片手にため息を吐いているのは夏紀だった。その目には明確な疲労がある。普段はそこまで見せない色も、今日は深々とその顔に刻まれている。
「久石さんか」
「……」
「図星、と」
「なんで分かった?」
「最初から火種は見えてたから。それを見るために面談してる。パート内で解決できるなら良いけど、出来なそうな時にスムーズに手助けできるように」
「そっか。まぁ、見抜かれるよね」
パート練習も合奏練習も、私は低音を覗いている。それは田中先輩がいないため、意識してそうしている部分もあった。去年は田中先輩がいたため少し低音へ行く頻度は低かったが、今年はそうもいかない。なので他パートと同じように顔を出していた。その中でも、久石さんが夏紀に何か教えを乞うたことは無かった。聞かれているのはもっぱら、黄前さん。単純に二年の先輩の方が聞きやすいという可能性もある。ただ、それだけであるとはどうしても思えなかった。
「まぁ、多分嫌われてるんだと思う」
「何とかなりそうか。無理そうなら……」
「気持ちは嬉しいけど、もう少し様子を見てみる。私が上手くなれれば、もう少し変わるかもしれないから」
「了解。ただ、もし厳しそうなら言ってくれ」
「分かったけど、どうする気?」
「その時になってみないと分からない部分もあるけれど……でも幾分も楽だよ、去年の先輩に比べれば」
斎藤先輩や田中先輩の顔が浮かんでくる。ついでに田中先輩の母親の顔も。あの人たちに比べれば、久石さんなんて可愛いモノだ。嫌いという態度を少なくとも夏紀に察せられてしまう程度には表に出している時点で、まだまだ詰めが甘い。ウチの妹なら完全に隠しきってしまうだろう。
夕暮れの中、夏紀は大きなため息を吐く。空を流れる夜色に染まりつつある雲とは違い、順風満帆とはいかないようだった。