音を愛す君へ   作:tanuu

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第七十八音 好き嫌い

 サンフェスまでそう日が無いけれど、既にコンクールに向けた取り組みは動き始めている。早め早めに動き出す、というのが今年の大原則になっていた。去年と同じことをしていては、去年と同じ結果しか得られない可能性が高い。だからこそ、去年と少しでも違うことをすることで、より良い結果を得られるようにするのが狙いだった。

 

「では、今年のコンクールで演奏する曲の楽譜を配布します」

 

 音楽室で行われている練習時間で、先生は至って真面目な口調でそう告げた。その言葉に、優子と夏紀が楽譜を配り始める。上級生が部活で使う楽譜ファイルは、これまでの活動で演奏した曲がいっぱい入っている。なので、幾つか取り出してスペースを作っていることが多かった。

 

 これから半年近く付き合っていく曲ということもあり、部員はどことなくワクワクした顔をしている。その楽譜はズシリと普段より重たく感じるであろう。理由は明白で、「リズ」の方が長い曲だからだ。もちろん編曲をするのだけれど、配っている楽譜は22分ほどあるフルスコア。大会ではカットするけれども、恐らく演奏会ではカットしないのでこっちを先に配っていた。

 

「皆さん、楽譜はキチンと受け取りましたね。今年の課題曲はⅣ番『クローバー グラウンド』、自由曲は『リズと青い鳥』です。どちらも難易度としては高いですが、皆さんの実力には相応しいと私たちは考えています」

 

 どんな候補曲があって、どういう経緯で選ばれたのかは明かされない。その方が良いと私は考えていた。決して部員にとって好ましい、楽しい発言ではない会話も飛び出すからだ。合理性も時には、曲選びに必要だと思っている。もし、本気で勝ちに行くのならばなおのこと。

 

「オーディションはテスト週間前に二日かけて行います。一人ずつの審査となりますので、その心積もりでいてください。メンバー、ソロ担当者は全てそのオーディションによって決定します。サンライズフェスティバルが終わり次第合奏練習に入るので、最低限の練習はしておいてください」

 

 先生はそこで静かに息を吐きだした。もしかしたら、去年のことを思い出しているのかもしれない。去年、あのような結果になったことは先生にとっても不本意だった事だろう。けれど最後に、自分で諦める理由を欲していた先輩に、自分で幕を引く選択をさせてくれたことは、少し感謝していた。

 

「A編成に出場できるメンバーの上限は55人です。しかし、私たちがコンクールに出場するレベルに達して無いと判断する人数が多かった場合は、出場メンバーは55人を下回ることになります。現に、昨年も人数はフルではありませんでした。慢心せずに練習に取り組んでください」

「「「はい!」」」

「初心者の子も、諦めることなく取り組んでほしいと思います。個人的な経験ですが、社会に出てから経験者もそうじゃない人も平等にチャンスが与えられていることは非常に少ない。人生において大事なのは、チャンスを掴みに行く力です。努力する過程に意味がある。今はそういう風に思ってください」

 

 今年、初心者の子は別メニューをずっとやってもらって、オーディションには参加させないという案もあった。しかし、これは私の反対で廃案となっている。確かに実力的にはそうした方が伸びるかもしれないけれど、オーディションがどういうモノかの雰囲気を掴むだけでも意味があると考えていた。サンフェスのようなお祭りとは違い、オーディションは俗にいうならもっとガチなイベントだ。それに参加する権利は平等であるべきだと考えている。

 

 

 

 

 

 

「はぁ……何も分からん」

 

 昼休み。席に座りながら、私は広げた楽譜を眺めている。それは「リズと青い鳥」の楽譜。編曲を頼まれてからはや半月。全く進展が無いまま、私の仕事は停滞していた。普段はこんなことも無いのだけれど、どうやって音楽を短くするべきかの思考は全くまとまる気配を見せない。

 

「根詰めてるなぁ」

「うわっ、目がチカチカする」

 

 三年連続で同じクラスになった友人二人は、昼食を食べながら私の作業を眺めていた。音楽選択だけれど苦手な生駒は露骨に楽譜から目を逸らしている。希美はみぞれの所に行ってしまったため、今はこの三人で集まっている。と言うより、会議が無い昼は大体こうだった。どうせ修学旅行の部屋も同じである。

 

「これ、何の楽譜なん?」

「今年の自由曲」

「自由曲?」

「吹部の大会は二曲演奏するんだ。一個は主催が設定してる課題曲で、もう一個が自由曲。好きに選べる」

「マジで? じゃあアニソンとかJポップでも良いのか?」

「まぁ、理論上は。ただし、課題曲と自由曲は合わせて12分以内って決まってはいるし、課題曲は編曲できないから決められた分数でやらないといけないけど」

「ほーん」

 

 運動部の二人には知らない世界の話なのだろう。遠い異国の話を聞く人のような顔で私の話を聞いていた。

 

「『リズと青い鳥』? アレか、あの幸せがどうとかこうとか」

「それはまた別の話。読む?」

 

 私は鞄にしまってあった絵本を取り出す。日本語訳版だ。家をひっくり返して探すと、原語のドイツ語版と母親が翻訳するときに書いたであろうメモが出てきている。そっちは家に保管してあった。活字が嫌いな柏原はスッと目を逸らす。逆に生駒は絵本を手に取った。

 

「じゃあ、俺読むわ」

 

 

 

 主人公であるリズは、まぁ恐らくエリザベートかなんかの略だろうけれど、ともあれ彼女は町外れの小さな家に住んでいる少女。既に両親を亡くしているという境遇は、私や妹に近いものがある。ただし、兄妹である私たちとは違い、彼女は一人ボッチだった。

 

 日銭を稼ぐため、町のパン屋で働いている。早朝から出勤し、日没とともに帰宅する。そんな単調な日々。家の近くには大きな湖があり、リズは売れ残ったパンを湖にやって来る動物たちに分け与えていた。沢山いる動物の中で、彼女はとりわけ青い小鳥とは仲が良かった。小鳥の羽根は美しく、サファイヤのような、或いは朝焼けの映る湖のような色をしているのだ。ここまでが第一楽章の内容でもある。まぁ正直起承転結の「起」なのでそんなに面白い部分でもない。

 

 そんなある日、ひどい嵐がやって来る。第二楽章はこの嵐から始まる。雷鳴はおどろおどろしく彼女の家を揺らし、湖は最早普段のそれとは違う自然の脅威を見せつける。少女一人に何が出来るでもなく、彼女は怯えながらも家で嵐がやむのを待つしかない。嵐が過ぎ去ったあと、湖に出かけると青い髪をした一人の少女が倒れていた。

 

 介抱の結果、アクアマリンの目をした少女は見事に回復しそして、リズと暮らしたいと言う。帰る場所がない、その天涯孤独という部分に共通点を感じたリズは、共に暮らすことにするのだった。ただし、その少女は非常に小食で、少しのパン屑だけあればお腹いっぱいになるのだ。どこか不思議な少女との生活は楽しく、孤独だったリズにとって少女は特別な存在へとなっていく。

 

「私にとって、あなたといることだけが喜びなのです。どうか何も詮索しないでください。あなたに正体を知られれば、私はこの場を去らなければなりません」

 

 どこか鶴の恩返しのような謎めいた言葉を少女は言う。私が原文を確認したが、終始丁寧な文体で物語は進んでいた。この二人、一向に砕けた文体にならないのである。だから母もそのまま丁寧語に訳したのだろう。英語や独語に敬語は無いが、丁寧な言い回しはある。

 

 そしてこっから本番の第三楽章の展開になる。起承転結の「転」。それに相応しく、物語は急展開を迎える。ある朝、リズは窓から入って来た青い鳥が少女に姿を変えるのを見てしまい、少女があの青い鳥だということに気づいてしまったのだ。

 

少女を空に帰せば自分はまたひとりぼっちになってしまう。一度手に入れた幸せを手放せるのか……。ここでリズは大いに煩悶することになる。

 

「嗚呼、私はあの子を愛するがゆえに、美しい翼を奪ってしまった。彼女はどこまでも飛んでいけるのに。神様、どうして私に籠の開け方を教えたのですか」

 

自分にとっての幸せと、少女にとっての幸せを考えたリズは、一旦はその想いを秘めることにする。しかし、仕事に行った時に彼女は見てしまった。朝焼けに満ち、緑に輝く草原の上にある蒼天を、優雅に飛び続ける青い鳥の群れを。それはまるで仲間を探すような仕草で螺旋を描いていた。

 

「私はなんて罪深い行いをしていたのかしら」

 

 そして、リズは青い鳥を空に帰してやることにする。踵を返し、家の中に彼女は戻った。そこには少女ではなく、椅子の上で休まる小さな青い鳥。小鳥は悲しい声で告げる。

 

「嗚呼、リズ。どうしてここにあなたがいるのですか」

「あなたは自由になるべきよ。そのしなやかな翼で、どこまでも高く飛んでいけるはず」

「私にとって、あなたと共にいることこそが無上の喜びなのです。どうして見て見ぬふりをしてくださらないのですか」

「私はあなたを閉じ込める鳥籠。だけど、いつ鳥が籠から逃げ出すか分からない。気付かぬうちに私の手からすり抜けていくかもしれないなら、どうか私の目の前でこの幸福に終わりを告げて。それが、私の愛の在り方。美しい思い出のままのあなたを、どうか私に見送らせて」

 

 リズの言葉に青い鳥は涙を流した。

 

「それがあなたの望みだと言うのなら、どうして私が拒否できましょうか。ですがどうか時折思い出してください。この幸福だった日々を。そして、私があなたを愛していたということを」

 

 青い鳥はその美しい翼を動かすと、飛んでいった。青い空の彼方へと。リズはその方角を、いつまでもずっと眺め続けていた。

 

 という具合で「了」となるのだが、曲はまだ続く。ここまでが大体大三楽章の部分だ。オーボエとフルートはリズと青い鳥の会話という風に位置づけられている。では第四楽章はと言うと、実は原作にはない部分を描いている。タイトルは「遠き空へ」。この要素は原作にほとんどないので、ある意味で作曲者の自己解釈が付け加えられていると言えよう。だがその解釈がよく分からないまま、ここまで引きずっていた。

 

 

 

 

 

「うん、分からん!」

 

 私の友人はさっぱりした顔で本を閉じると、そう言った。

 

「ダメじゃん」

「いや分かんねぇもんは分かんねぇよ。お前も読むか?」

「いや、いい。一応横からチラチラ見てはいたから」

「あっそう。で、これ結局何が言いたいん? そもそも何で罪深いん?」

 

 まくし立てるように、生駒は聞いて来る。

 

「まぁ多分青い鳥はさっき話に出たみたいに、モーリス・メーテルリンクの『青い鳥』から着想を得てるのは事実だと思う。それを自分から逃がしているというのは、幸福を自分から手放すメタファー……かな」

「罪深いってのは?」

「それは多分キリスト教で言うところのアガペーだと思ってるけど」

「アトピー?」

「耳悪いの? アガペー。まぁ色んな考えがあるんだけど、基本的には無償の愛を説いている。神が人間を愛しても、神様にいいこと無いでしょ。だから無償。で、キリスト教では人間同士の愛もそうであるべきと言われてる。でも実際にはそうじゃなくて、所謂エロースが行われている。それはともかく、リズが青い鳥に行っていたのは無償の愛じゃなくて、一緒にいて欲しいという束縛にも似た愛情だったから、罪深いってしてるんじゃないか……と思うけど確証はない」

 

 キリスト教的文化圏で作られた話なので、神の概念だとか愛の捉え方とか、そういうのが日本と若干ズレている可能性は否めない。なので、日本人の価値観だとイマイチ?マークになるのも理解できた。

 

「ほーん、難しいなぁ」

「てか、束縛ダメなん? 普通は多少は束縛するくないか? べつにこの子ヤンデレじゃないっしょ」

「確かに。元々住みたいって言ったの鳥の方なんだから、主人公が勝手に言ってるだけっぽくね?」

 

 私の前で、何とも身も蓋もない会話が行われている。とは言え、物語を読んでどんな感想を抱くかは個人の自由。ウチの部活の女子に聞いても耽美的な答えしか返ってこないので、こういうパワー系の答えはある意味では参考になる。

 

「メッチャ尻切れトンボだよなぁ、この話。何も面白くないし」

「……そこまで言う?」

「女の子向けなんじゃないのか? 俺らにはよく分からん」

「まぁ別に君らが演奏するわけじゃないから理解しなくてもいいんだけどね。何なら私も理解してないし」

「理解して無くて良いのかよ」

「いや、普通にダメ。締め切りが近いから、私は今結構スランプかもしれない」

「頑張ってくれ」

「応援してるぞー」

 

 適当なニュアンスを声に込め、二人はエールを送って来る。重たく捉えられるよりも、こういう部外者からの興味なさげな応援の方が却って気が楽だった。軽く笑いながら、譜面に目を落とす。物語は実質音楽における第三楽章で終わっている。だから今の編曲では第三楽章を前面に押し出している。ただ、どうもそれではしっくりこない感覚が、私の中に残っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 何だか腑に落ちない感情を抱えながらサンフェスの日はやって来る。

 

「終わりましたか」

「全然」

「そうですか」

「……言いたいことは理解してますよ。ただ、ちょっと悩んでる部分が多くって。長い曲なのでどこにウェイトを置くかが難しいんです」

 

 先生とバスの席で話していた。パートで移動するときも大体私は先生の隣の席だった。たまーに運よくトランペットパートに混ぜてもらえたり、希美の隣だったりするけれど、それは運がいい時だけ。今回は先生の隣だ。さながら、編集者に原稿を迫られている作家のような気分だ。

 

「先生だったら、どこにウェイトを置くんですか?」 

「私は作曲や編曲のプロではありませんので何とも言えませんが……やはり第三楽章ではないでしょうか。作品の、そして原作の中でも特に気合を入れて描かれていますし、オーボエとフルートの掛け合いはその知名度から言っても一番注目されている場所ですから」

「ですよねぇ」

「ですが、あなたがわざわざそう聞いたということは、それを良しとは思ってないということですね?」

「まぁ、有り体に言えば。先生は……」

「何でしょうか」

「いいえ、何でも。見ます? 現在の編曲案」

 

 何でこの曲を選んだのか。そう問いたかったけれど、先生の雰囲気が少し重苦しかったので言葉を呑み込んだ。なんとしてもリズと青い鳥を上手く演奏したい。そういう思いが伝わって来る。

 

 その理由を推察しながら、先生に楽譜を渡す。第三楽章に主軸が置かれ、前面に押し出す形で演奏する形式になっていた。これでも演奏は出来るし、形にもなると思う。ただ、自分の中で何かが納得出来ないでいる。面倒な拘りと言われてしまえばそれまでかもしれないけれど、私の中では腑に落ちない部分があった。大体良い出来だと思えた時はそういう感覚になる。そうやって世に出した曲は大体高い評価を貰っていた。

 

 つまり、この段階で部員に演奏してもらってもいい曲にはならないのではないだろうか。そう思っている。

 

「任せたのは私です。ですので、納得いくまで練ってもらいたいところですが、時間には制限がありますので。それは申し訳ないですが……」

「分かってます。延長はしません。何とか期日までには終わらせてみせます。依頼は絶対完遂しますから。依頼主に不手際が無い限りは」

 

 そうは言ったものの、イマイチ上手く嵌らない。その原因が何なのか分からないのも、私の中での疑問点を増やしていた。他人の書いた曲なので、自分の曲とは違い意図が分からない部分もある。しかもよりにもよってメッセージ性の強い曲なのもそれに拍車をかけていた。

 

「まぁ、まずは今日の演奏を見るとしましょう。先生、今年こそ迷わないでくださいね」

「善処します」

「いや二年目じゃないですか、いい加減道覚えないと、松本先生に怒られますよ」

 

 頭を掻いている先生に、先ほどまでの重苦しさはもう無かった。

 

 

 

 

 

 

「今年も、この日がやって来ましたね」

 

 先生の挨拶はそんな言葉から始まる。今年は迷わずしっかり到着できたように何よりだった。

 

「サンライズフェスティバルに参加している学校は全部で十六校。マーチング強豪校である立華高校を含め、多くの高校が参加しています。他校の演奏や空気感など、良いところは全て吸収するつもりでこの貴重な機会を活かしてください」

「「「はい!」」」

 

 特に無いと言った去年とは違って、今年はしっかり言うことを考えてきたようだ。流石にアレではいかんと思ったのかもしれない。

 

「北宇治の演奏を楽しみにこの場所に足を運んでいる観客も沢山いる。決して気を抜かないようにしろ!」

「「「はい!」」」

 

 発破をかける力強い松本先生の声に、部員の返事にも自然と熱がこもる。軍曹のあだ名も納得の迫力だった。遠くからは立華高校が演奏を始めている音が聞こえる。響く歓声は、彼らへの期待度の現れだろう。流石は立華。動きに関しては我々の何歩も先を行く。だが、我々だって演奏では負けていない。全国の意地があるのだ。

 

「緊張してるかな?」

 

 トランペットパートの一年生を前に、私はシャツの袖を捲りながら問いかける。どことなく固いその表情は、本番慣れしてないからかもしれない。

 

「大丈夫。演奏ならウチが一番上手いから。何せ、指導者が良いからね!」

 

 私が堂々と言い放つと、やっと少しだけ空気が緩んだ。

 

「だから心配しなくても大丈夫。私はしっかり君たちの練習を見てきた。だからこそ気休めじゃなくて、根拠のある大丈夫が言えます。気張ってやって来なさい」

「「「はい!」」」

「よろしい。では、期待してるよ」

 

 しっかりと戦う目になった一年生に軽く頷き、後は彼らに任せることにした。ここで何か余計な事を言うよりも、今は彼ら自身が対話をする必要があるだろう。自分の中の、弱い部分と。

 

「大丈夫……上手く行く……」

「何をぶつぶつ呟いてるの」

「うわぁ! 話しかけないでよ、集中できないじゃない」

「肩に力が入り過ぎだ。ウチの庭まで使って遅くまで練習してただろ。上手く行くさ。今年に入ってから、上手く運営出来てる。問題しかなかった去年とは違う。大丈夫、よくやってるよ」

「……」

「それに、何かあっても任せられる存在が何人もいる。どっしり構えてればいいさ。こういう時も、そうじゃなくても」

 

 と、励ましている最中なのにも拘わらず、タイミングが悪いことにチューバの鈴木さんがどこかへ走り去っていく。その後ろを追う黄前さんと久石さん。なんでこうタイミングが悪いのだろうかと頭を抱えそうになる。去年もサンフェス前に斎藤先輩に聞かれたくないことを聞かれてしまった。まぁあれは後々の糸口になったから良いモノの、今はそうでもない。

 

「何々、どうしたの?」

 

 優子が慌てた顔で走り出そうとしているのを引き留めた。私の前を妹が歩いて行く。同じ釜の飯を食った仲間があんな状態なのは放置できないらしい。

 

「黄前さんに任せておけばいい」

「でも……」

「私たちが行っても事情を知らないまま茶々を入れるだけになる。近くにいる人でないと解決できない問題もあるだろう。アレはきっと、その類だ」

「……分かった」

 

 チューバの空気が微妙なのは知っていた。練習をしっかり真面目にこなす鈴木美玲さん。一方で後輩として可愛がられているのはもう一人のさつきさんの方。前者にはプライドがある。全国金のチューバ吹き。そういうプライドだ。それに、中学時代に低音のパートリーダーもしていたらしい。妹を支え、その統治を助けていたという自負もあるのだろう。

 

 それなのに今好かれているのは真面目な自分ではなく、少し緩い同期の方。それはどうしたって不満が溜まるモノだ。南中では真面目で上手いことが美徳とされた。評価されるのは自分だった。でもここでは違う。過去が偉大なほど、栄光が大きいほど、今の不遇を受け入れられなくなる。人はそういうモノだ。

 

 だからこそ、私も時々声をかけていたし、長瀬にも空気を変えるように頼んでもいた。黄前さんも久石さん経由で孤立しないようにしてるという報告が来ている。妹も仕方ないと手伝ってはくれている。それでも、何かの瞬間に暴発するということもある。

 

 去年までだったら私が助けていたのかもしれないけれど、それではダメなのだ。来年、私はもういない。ならば今、自分たちで出来るならば自分たちで解決しないことには、問題解決能力が身につかない。もしダメそうなら手助けはするけれど、最初から最後までやってしまうのは成長を阻害してしまう事にも繋がる。だから、今は敢えて優子を押しとどめた。

 

 そしてその期待通り、十分もしない間に彼女たちは戻って来ることになる。

 

 

 

 

 

 

 

「君、結局何をしに行ってたのさ」

 

 北宇治の割と派手な衣装を身にまとった妹に、そう尋ねる。衣装を着た写真はしっかり撮影していた。嫌がるかと思ったけれど、意外とノリノリで着ている。希美と二人で撮った写真も送られてきており、添えられた煽るようなスタンプにイラっとしたのはつい数十分前である。

 

「一応様子見」

「で、どうだった。私が出ないといけない感じ?」

「私の出る幕はほとんど無かった。黄前先輩が大体上手く解決してたし、だから兄さんは何もしなくてもいいと思う。今度ちょっと褒めてあげるくらいでいいかな」

「そうか。それならいいんだけど」

「一応兄さんがしっかり評価してるよってのは伝えておいたから。別に嘘じゃないからいいでしょ?」

「それはもちろん」

 

 この部で怠けている奴なんていない。だからこそ、誰にだって評価できる点はある。なので妹に言ったことも別に嘘ではない。程度の差は、もちろん個人個人に存在しているとはいえ、それは当たり前の話だろう。その人のこれまでと比較して、成長しているかどうかを判断するべきだった。当然全体との差も比較はしているが、それを前面に押し出すと初心者の子などは折れてしまうかもしれない。

 

「まぁ要するに、彼女は変わりたかったんだよね。この北宇治で。私だって、新しいモノを求めてここに来たわけだし、気持ちは分かるけど」

「それで、変われそう?」

「多分、それなりには」

 

 妹は小さく息を吐く。

 

「真面目にやってればそれで良いってのが南中のやり方だったからなぁ。先輩に気に入られるとか全然気にして無かったし、それは私のせいかもね。一番とっつきにくい先輩だっただろうし、私は」

「でも卒業式ではみんな惜しんでたけど」

「……それはまぁ、結果を残したから。それはそうと、あの子何なの?」

「あの子って、久石さん?」

「そう」

 

 珍しく酷く苛立った様子で妹は語気を荒くした。

 

「何が美玲はそのままで良い、よ。どう考えても良くないからこうなってるのに。確かに私だって鈴木さんが悪いとは思わない。でも、あそこで停滞させるような言葉をかけたって何の解決にもならない。黄前先輩は、ちゃんと前に進めるような言葉をかけてた。前進できるように、少しでも関係を変えられるように。そうするのが正しいって理解してるだろうに、何であんな……堕落させるみたいなこと」

 

 その言葉には、自分への批判も入っているような気がした。去年、現状維持に終始して、自分と見つめ合うことを避けていたかつての自己。それと久石さんの言葉が被って聞こえたのかもしれない。殻を破って前に進む選択をした彼女からすれば、停滞を加速させるような言葉が正義なわけないのは、理解できた。

 

「優しさじゃないと思う、あんなの」

「……まぁ、人には色んな考えがあるから」

「それは分かってる。だから私もあの子嫌いって言う考えを持っても良いでしょ、もう部長じゃないんだから」

「それはどうぞお好きに。ただし、揉め事は勘弁してあげて欲しい。優子の胃が死ぬ」

「それは分かってる。別に関わる機会もそんなに無いと思うし。パートも違うから。それに、自分の抱いてる悪感情を相手に見せるほど、油断するつもりはない」

「そう。なら良いけど」

 

 誰が好きで誰が嫌いか。それを決めるのは本人の自由だ。私に決める権利はない。ただし、それで何か揉め事が起こるのだけは勘弁してほしい。久石さんは一年生の中での多くのコミュニティに関わっている。影響力の強い子だ。行動力があると言っても良いかもしれない。逆に、妹は特に積極的に話しかけている様子はない。ただ、それでも彼女の周りに人は割と集まっていた。大体静かだったり大人しい子が多い印象を受ける。

 

 そんな二人がバチバチと冷戦を繰り広げた場合、とんでもないことになりかねない。下手したら、去年の再来だ。優子と夏紀も犬猿の仲とは言うけれど、何だかんだ二人はお互いに思いやりがある。だが今回の二人に相手への思いやりは多分無いだろう。あっちが立てばこっちが立たない。難しい人間関係だった。

 

 間もなく北宇治の出番がやって来る。このお祭りが終われば、次はいよいよ大会に向けての練習が始まる。空は快晴、なのにそれに反して私の未来予想図は、霧が立ち込めたように全く描けないままだった。

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