サンライズフェスティバルも終了し、いよいよ空気は一変する。吹奏楽部の一大イベント、オーディションが待っているからだ。マーチングの練習は消滅し、ここからは座奏だけになっていく。長い演奏練習の時間で、どこまで上達できるのかが最大の課題として部員たちにはのしかかっていくのだ。
「では、これより自由曲の編曲版を配布します。これを大会で吹くことになりますので、しっかりと自分でも読み進めておくようにしてください。また、オーディションの際に課題として課す箇所は既にパートごとに示していますが、必ずしもそこだけを演奏してもらうという訳ではありません。別の箇所をランダムに選出することもありますので、決して課題の箇所だけを極めようなどと思わないように。まぁそんな生徒はいないと信じていますが、一応念のため」
やっと終わった自由曲の編曲版を配っていく。大幅にカットした場所が多数ある上に繋げ方も色々考えた末に作り上げている。それでもこの譜面に託した理想通りの演奏をすれば必ず評価されると考えている。それは私の評価される音楽が得意と言うあまり褒められたものではない性質から来る自信だった。
「既に皆さんでフルバージョンの楽譜を読み、曲など聞いてもらっているとは思います。この後細かい読み合わせを随時行い、課題曲共々奏者である皆さんと指揮者であるこちら側の意識のすり合わせを行います。ですが、まず最初に『リズと青い鳥』をやる際のメインテーマをお伝えします」
私はチョークを手に取り、黒板に文字を書いていく。そして書き終えると、少し横にズレて全員が見えるようにしながら部員たちを見回した。
「これがこの曲をやる上でのメインテーマ。ハッピーエンドです。皆さんがリズと青い鳥の原作を見てどう思ったかは分かりません。ビターエンド、或いはバットエンドと思った人もいるでしょう。それはそれで結構。物語の解釈は自由です。ただし、この曲はあくまでも童話『リズと青い鳥』を
最初、私はこの捉え方を間違えていた。童話の方を何回も読み返しても、この曲の解釈における答えは出てこない。無論、無駄では無いと思うけれど、かと言って一番有効とも言い難い。曲の方の真髄は第四楽章。原作にはほとんど描かれないオリジナリティのある部分だ。
「この曲で一番有名なのは第三楽章です。当然、第三楽章にも重きを置き、オーボエとフルートの掛け合いは外していません。ですがこの曲のメッセージ、真髄は第四楽章にあると私は考えています。なぜならば、この部分は原作にはない作曲者独自の解釈で書かれたある種の、物語の続きとも言える部分だからです。作曲者の卯田百合子氏は多くの物語を基にした曲を書いていますが、その信条は『ハッピーエンド』だという話を先日お聞きしました。ですので、この曲もそういう構成になっています。これをよくよく肝に銘じて、最終的に……」
コンコン、と私は黒板を叩いてから言葉を続ける。
「こうなるように演奏してください。よろしいですか?」
「「「はい!」」」
「では、よろしくお願いします。部長、お返しします」
「ありがとう。じゃあ、ここからは少し予定の確認をします。まず、もうちょっとするとあがた祭りがあります。この日は練習が早く終わるので、そのつもりで。先生もいませんので、自主練も出来ません。その後修学旅行があるので三年が抜けます。そしてテストを挟んでオーディションというのがざっくりとした流れです。しっかり確認して、分からないことはすぐに共有するように。自分の分からないことはもしかしたら誰か別の人も分からないことの可能性がありますので、そういう共有は大事です」
「「「はい!」」」
予定表は先の方までみっちりと詰まっていた。私の携帯のデジタルカレンダーは、予定の種類ごとに色が分けられている。吹奏楽部関連は緑、仕事は赤、家庭は紫、その他は黄色。なのだが、後半二つはほとんど入らない。そのせいで、私の予定表はクリスマスカラーになっていた。
「他に何か連絡のある人? はい、どうぞ」
「ごめんなさい、さっき一つ連絡し忘れました」
優子から再度主導権を貰って話を始める。
「ちょっと気が早いですが、三年の修学旅行中についてです。練習メニューは鋭意作成中ですので、皆さんの進度に合わせて前日までに完成版をお渡しします。四日間ですが、気を抜かないように。一年生は新入生指導係の黄前さんの指示に従ってください。二年生も学年リーダーの塚本君の指示に従うように。黄前さん、塚本君よろしいですか?」
「「はい」」
「そして全体練習においては……」
全体練習をやるかは迷ったが、少人数でも音を出せないといざという時に困る。来年以降のことも考えると、三年がいなくなる状況は疑似的な今年度の後半だ。どんな機会でも次につなげる気概が無いと、上達は見込めない。
「高坂さん」
「は、はい」
「私の代わりに指揮などしてください。要点は後で教えます。君が一番、恐らく現状のメンバーでは余裕があるでしょうから。出来ますか」
「はい」
「ではお願いします」
緊張した面持ちの高坂さんの目には、この場所に立つことへの不安が見て取れる。来年、私の後任に高坂さんを据えるという案はまだ生きている。と言うより現在進行形で行われている。日々の行動や後輩への接し方など全てが密かに採点対象になっていた。
そして、今回の四日間もある種の試験と考えている。短い間でも、しっかりと練習を指導できるか。全体を見る上で必要なスキルがあるか。それを確認する。無論私もいないので直接は見れないが、後で個々に話を聞けば、おのずとどういう状態だったかが分かるだろう。吉沢さんならすぐに教えてくれそうだし、ウチの妹もいる。
高坂さん自身はこんな思惑が裏側にあるとは知らないだろうけれど、むしろそれでいい。その方が自然な姿が見れるはずだ。願わくば、変に気負うことなく職務を遂行してほしかった。
「Eのメロディーではトランペットはもっと抑えて。mfと書いてあります。ここはフルートを主体にしてください」
「「「はい!」」」
「逆にフルートはもう少し大きく。fの意味を理解してください。この曲は木管が映える曲です」
「「「はい!」」」
先生に指導の下、課題曲の練習が進んでいく。今年の課題曲は結構難しめのを選んだのだが、思ったよりは出来ている部分も多い。ただし、オーディション前の全体練習だからかもしれないが、やはり個人差はある。それが顕著に目立つ曲になっているのかもしれない。
「この曲は同じ部分でも全くキャラクター性が違う演奏を行う必要があります。トランペットとフルートだけではありません。アーティキュレーションが違うということは、違う性質で演奏をしなさいと言う意味になります。それを理解してください」
「「「はい!」」」
「では、今のところを重点的にもう一度」
指導中も楽譜とにらめっこをする日々が続いている。完成にはまだまだ程遠い。府大会に間に合うのかどうか。密かな焦りは私の中で確かに存在していた。しかしながらそれを表に出すわけにはいかない。私が焦っていれば、それは全体に伝播してしまう。泰然自若としてドンと構えている事こそが部内の空気感を統一することに役立つと信じていた。
「良いでしょう。今回の全体練習はここまでとします。では、ここからは学年ごとに分かれてください。二三年生は音楽室で引き続き私が、一年生は視聴覚室で桜地君が見ます。では、移動を」
焦ってはいけないと思いつつ、一年生の底上げはかなり急務だった。個人個人ではもちろん上級生顔負け、或いは追い抜かしている奏者もいる。去年、理不尽とも言えるくらい厳しい練習を経てきた南中生は現状ではむしろ物足りないくらいではないだろうか。
だが、そういう生徒ばかりでもない。まだ北宇治は完全な強豪校では無かった。それ故にか「出来てるんじゃない? 意外と」という空気が存在しているのも事実。ニ三年生はまだまだだと自覚している。この意識の差を埋めない事には、上に行くことは出来ないだろう。上級生が自覚しているのは、一番ひどかった時期を知っているから。その記憶の差は大きかった。
上級生に関してはよくやっている。レベルは非常に高い方だと思っていた。アンコンとソロコンがここで大きな効果を発揮し始めていた。あそこで一切の妥協をすることなく練習三昧の日々を送ったことは確実な成果を出し始めている。あの時提案して良かったと心の底から思わされた。逆に、今の水準に上級生が達していなかった可能性があると考えると、それは中々に怖いことであるようにも思えてならない。
「一年生の皆さんにはまず、これを見てもらいます」
私は音楽準備室から持ってきたテレビをドンと一年生たちの前に置く。キャスター付きの棚に載ってはいるけれど、結構動かしにくい。暫く使っていないせいか、埃を被っていて思わず顔を顰める。ともあれ、埃塗れのテレビの下にあったDVDプレイヤーを操作して、一枚のDVDを入れる。
「カーテン閉めてください。はい、ありがとう。では再生します」
流れ出したのは去年の全国大会の映像。銅賞に終わった悔しき大会のDVDだった。滝先生の指揮のもと演奏が行われる。何人かの生徒は実際に現地で見たり映像を知っているらしいが、見たことの無い生徒も多かったのだろう。多くが真剣な眼差しで画面を見ている。
液晶の向こうでは、今はいない先輩たちの姿。香織先輩や小笠原先輩、田中先輩など上手かった先輩たちのもう聞けない演奏が流れ出して来る。一年生がいなかったらかなり涙腺に来ていたかもしれない。懐かしい回想を抱いてしまうのは、きっと上級生ならば分かる事だろう。
耳にタコができるほど聞いた課題曲と自由曲。良い演奏ではあるのだが、冷静に見返すと確かに少し粗があったりもする。これが銅賞だった所以なのだろう。もっと瑕疵を潰して、もっと丁寧に。今年はそこを極めないといけない。
「はい。以上です。これは昨年度の全国大会において、私たち北宇治高校が演奏した部分です。どうでしたか、感想は?」
私は一年生たちを見渡して聞く。隣近所で囁き合う声は聞こえるけれど、手を挙げて発表しようという人はそうそう現れない。誰か何か言ってくれないと話が進まないなぁと思っていると、ピンと手が挙がった。
「はい、どうぞ」
「非常に実力のある演奏だと思います」
「どうもありがとう」
こういう時に空気を読んでくれる存在は本当にありがたい。家に帰ったらお礼を言った方が良いかもしれないと思いながら、妹の言葉に頷いた。
「そう、非常に実力のある演奏です。正直、この時の演奏はこの時以前と比較しても一番いい出来でした。にも拘らず、結果はご存知の通り銅賞です。良いですか、これでも銅賞なんです。では、もう一個演奏を聞いてもらいましょう」
私はプレイヤーのリモコンをもう一度操作する。数曲後に流れ出したのは、昨年交流を持った清良女子の演奏。全くもって瑕疵の無いプロ顔負けの演奏が展開されていた。現地で聞いたときはこの映像以上の実力があるようにも感じたのをよく覚えている。その圧倒的な実力は、あまり大したことないプレイヤーとテレビのサウンドでも明確に現出していた。北宇治のそれとは、大差を持って。
「今のは幸運にも昨年度交流させて頂いた、清良女子高等学校の演奏です。そして、彼女たちは金です。どうですか、北宇治と比較すると。大きな差があったと思います。そして皆さんが今年目指す金賞は、このレベルでないと取れません」
ゴクリ、と誰かが息を呑んだ。圧倒的な実力差。今の一年生の多くからしたら、去年の北宇治の演奏でも相当上手いと思えるだろう。それでも銅。その事実を改めて突き付けたうえで、もっと上の演奏を見せる。そしてその演奏こそが今年目指している頂きだった。
「全国大会金賞とは、そういう場所です。こういう演奏をしないと、行けない場所です。それを知って欲しくて、この映像を敢えてお見せしました。二三年生はこの演奏を聞いています。生で、目の前で。だからこそみんな必死です。目標は明確に見えているから。練習とは、妥協した瞬間に終わります。こんなもんでいいかな、という言葉を出した瞬間に、もうあなたはそれ以上上手くなることは無いでしょう。厳しいようですが、これが現実です。ですが、その現実を皆さんならば受け止められると信じています」
最初にぶっ放すと多分死んでしまう。だからこの時期まで温めた。去年やったのと同じ戦法である。去年はまず海兵隊で自己肯定感を身に付けさせた。やればできる、という感情にさせた。その上で、サンフェスに出場して上手い他校の演奏を聞いた。ライバルの壁を認識させ、現実を直視して前に進ませる準備をした。それと同じことである。
この前のサンフェスでのマーチングで練習の成果が出る楽しさは知れたことだろう。それは終わった後の表情を見ていれば分かる。だからこそ、今敢えて現実を見せることで、弾みをつけてもらうつもりだった。それに、もう入部して一ヶ月半ほど。五月の半ばの今だからこそ、示せるモノがあるはずだと考えている。
「皆さんの中にも、部は違えど栄冠を手にした人がいます。そういう人を積極的に頼ってみてください。違うパートでも気になったことはお互いに指摘し合い、練習し合い、高め合いましょう。使えるものは何でも使う。その精神で上手くなっていくのです」
一年生は真剣な面持ちで聞いている。場の空気がなせる技もあるのだろうけれど、ここに入って一ヶ月以上過ぎた今ならば、ここが真剣に上を目指している場所であることは理解しているだろう。オーディションという単語も何度も出てくるようになった今だからこそ、この発破は効くはずだと判断していた。
「最後に。皆さんはスポットライトを浴びたことはありますか? 歓声を受けたことは? 万雷の喝采が自分にだけ注がれる景色を味わったことは? 何人かはあるでしょう。ですが、そういう人は多くないはずです。私はあります。それこそ何度も。全国大会では、そういう体験が出来るはずです。世界を獲った私と同じ体験が。こんな貴重な機会は滅多にありません。私と先生が、皆さんをここでしか見れない景色に導きましょう」
やや傲慢なセリフも、実績があればこそ光るはずだ。普段は別に自慢なんかしないし、押し出したりもしない私の経歴。それは伝家の宝刀であり、ここぞという時に光らせることでその威力を高められると考えているからだ。空間は熱に浮かされたように熱くなる。
「そのために、戦う覚悟をしてください。同期や先輩とではなく、妥協してしまう自分と。私は、皆さんが戦えると思ってこの話をしています。戦えるあなたの力を欲しています。よろしいですか」
「「「はい!」」」
その返事は、今までで聞いた中で一番大きなモノだった。ある意味で、今日この日が真に彼らの歩き始めた日なのかもしれない。この先長く続く、果てしない三年間という道のりを。
「政治家に転職でもしたら?」
揶揄うような声で妹は言った。家に向かう帰り道。今日はたまたまタイミングが一致していたため、一緒に帰ることになっている。家が同じ方向の希美も一緒だった。この三人で帰宅することはあんまりないので、少し新鮮な気分でもある。大体誰か一人予定が合わないことが多かった。
「そんなに凄かったの?」
「それはもう。私もちょっとビックリしました。まとってるオーラって言うか、気配? 空気感? そう言うのが家とかとは全然違くって。あぁ、ちゃんとプロなんだなぁ、修羅場潜ってるんだなぁって」
「君は自分の兄を今までなんだと思ってたの? 今まで」
「実際にあんまり体験したこと無かったから、あぁいう一面は」
「家であんな雰囲気出してたら、息苦しいでしょ。私も他の人も」
「それはそうだけど」
へぇ、見てみたかったかもと希美は呑気に言っている。私としてはそんなに見て欲しい一面と言うわけでは無い。わざとああいう風に言ってる部分が大きい。ぶっちゃけ言えば演技だ。普段からあんな態度でいるわけでも無し、本性がああいう人間性なわけでもない。私の本性はもっと臆病だ。それこそ、一人になりたくないから居場所を求めていたくらいには。
「一年生、優子先輩と兄さんに相当感化されてる。カッコいいって言う声ばっかり聞こえてくるし」
「へぇ……」
「あ、やばっ。ま、まぁ二人のコンビはいい感じに回ってるみたいだし、優子先輩の方が強いのは明確だから組織的には大丈夫だと思うよ、うん」
希美のちょっと低くなった声に汗を流しながら、涼音は強引に話題を違う方向に持って行った。
「優子先輩と兄さんは良いコンビだからそれは良いとして、それより心配なのは……」
「心配なのは?」
「あんまりこういうこと言いたくないですけど、低音かなって思います。特にユーフォ」
「……」
私は彼女の言葉に沈黙した。どう返答するべきかは分からない。ただ、彼女の経験を考えればこの問題意識が決して杞憂と一蹴できるようなものではないことも事実だった。
「ユーフォ? 何か問題あったっけ」
「黄前先輩は良いんですけどね。問題は夏紀先輩と久石さんの方だと思います。フルートは前の方なので練習中は見えないですけど、休憩中に様子を伺えば分かりました。久石さん、夏紀先輩に教えを乞うどころかほとんど話してません。黄前先輩とはよく話してるのに」
「そうなんだ、夏紀が……」
希美は痛ましそうな顔をする。夏紀は希美にとって去年の一件やそれ以前からの大事な友人。そして、大きな借りも存在している。気になるのは当然のことだった。夏紀自身もサンフェス前の練習時点で多少関係が良くないことは自覚していた。ただし、それを外に漏らしている様子はない。
優子や希美にも話していないのだろう。抱え込んでしまうのは、部長も副部長も同じなのかもしれない。自分を好意的に見ていない人に優しく接するのはどんな人でもストレスのはずだ。大抵は相手が悪いとすることで自分のストレスから逃れることが出来る。夏紀だって一方的に嫌っている久石さんに冷たくすることもできるはずだ。
けれど、そういうことをするような人じゃない。それは私や希美の抱いている、彼女に対する共通見解だろう。
「夏紀も上手くなってるんだけどな。去年に比べれば何倍も成長してるし、ちゃんと大会メンバーも射程圏内ではあると思う。……ユーフォが三人必要かと言う問題を除けば」
実際、夏紀の演奏は良くなっている。三月の立華との合同演奏会では田中先輩も顔を出してくれていた。成長した黄前さんでもまだまだ追い付けない実力者の最後の置き土産と言うべきか、かなりスパルタで指導してくれたと聞いている。田中先輩も夏紀の今後に関して思うところがあったのだろう。その田中先輩がいなくなった後は黄前さんを上手く頼って練習していたようだ。後輩に教えを乞うことが出来るのは、彼女の美徳だと思っている。
だから久石さんもその姿をしっかり見て欲しいとは思っている。彼女は一生懸命なのだ。とは言え、久石さん側にもきっと事情があるのだろう。恐らく、中学までの期間に何かあったのだ。でないと、普通はもっと素直に行動している。先輩より上手いというのは黄前さんも去年経験しているけれど、こういう態度では無かった。過去が明らかに影響を及ぼしている。
とは言え、こういう対処は私が勝手にやるわけにもいかない。専用の役職があるのだから、それにまずは任せてみるのが筋だろう。
「それ、黄前さんには言った?」
「言ったよ、同じパートなんだし一年生の統括してるんだし。ただ、黄前先輩はそこまで重く見ていないと言うか、何と言うか……。認めてないって言ってたけど、そういう感じとはちょっと違う気がする」
「嫌いってことか?」
「嫌い……と言うよりそうなろうと努力してる感じ? パッと見ただけだから勝手な想像だけど。でも夏紀先輩はいい人だから。いい人って分かってる人を嫌うのって、思ってる以上に難しいと思う」
いい人、と言う言葉に香織先輩の顔が浮かんでくる。彼女を嫌おうとするのは確かに至難の業だろう。何かしらの難癖を無理やり引っ張り出して来るしかないと思う。でもその場合は難癖だということを自分でよく理解しているがゆえに、かなりのストレスが溜まるはずだ。なにせ、相手に問題点が少ないため責任転嫁が出来ない。私が相手を嫌いなのは相手にこういう問題点があるかだら、と明確に言えない、或いはそれを大きく上回る長所があるのは嫌うには大きな障害だろう。
「爆弾はいつかどこかで爆発するよ。だから兄さん、しっかり覚えておいて。あの子は明確な、爆弾だってことを」
涼音の声はひどく平坦で、それでいて実感の籠った言葉だった。彼女は久石さんのことがそんなに好きでは無いはずだけれど、少しだけ思いやりもあるような気がする。もしかしたら、かつての自分と重ねている部分もあるのかもしれない。爆弾と言う言葉には、そういうニュアンスも感じられた。大きな部活を管理し、その中で起こる処々の問題に対処したからこそ、彼女には見えている景色があるはずだ。私には見えない、違う景色が。
「あ、そう言えば全然話変わるけど、サンフェスの写真ってどうなってる?」
「サンフェスの写真?」
「そうそう。撮ってたじゃん。涼音ちゃんと私の」
「あー、あれ。送るからちょっと待ってて」
希美がちょっと強引に話を変えてくれたので、重い空気はスッと霧散する。あの沈痛な空気のまま家に帰りたくなかったので、非常にありがたかった。真面目な話は大事なのだけれど、空気が重くなりすぎるという問題もある。
「えーっと、これと……これか」
写真フォルダの中から何枚か良いのを探していく。私は別にスマホの写真撮影が得意なわけでは無いので、何枚かは撮り損じがあった。昔からカメラで撮るのはあんまり得意じゃない。こういうのは希美の方が上手かった。
「どんな感じ~?」
希美の視線が私の画面に注がれる。
「あれ、ちょっとこれって」
「げ……」
「……すけべ」
希美は街灯の灯りでも分かる赤く染めた頬をしながら、小さい声で言う。目が泳いで、足元がステップを踏んでいるのは動転している証だろう。彼女が拡大したのは、涼音が送って来た衣装合わせの時に撮った写真。パート内でしかも女子しかいないからか、割と普段はしないようなポーズをとっている写真も存在している。投げキッスとかあったので、流石におかしくなるかと思ったのは内緒。妹から夜に突然送られてきて、何事かと思ってしまった。
「涼音ちゃん? これはどういう事かな。ちょーっとお話ししようか」
「い、いえこれはその、そう! 間違えて送ってしまって! 保存したのは兄さんが悪いんです」
「捏造するな!」
「保存したのは兄さんが悪いじゃん!」
「いや、そもそも送って来たのは……」
「どっちも悪いです。まったくもう、二人して責任転嫁しない」
「「はい……」」
我々は結局希美に頭が上がらない。と言うより何なら私の祖母も頭が上がらないので桜地家は希美に弱いのかもしれない。情けない話だけれど、実際数年前からずっとそんな感じだった。
「あんまり人に見せないでくれたらいいよ、別に。涼音ちゃんは今度から送る時に教えてね。ダメなのと良いのを選別するから」
「「はい……」」
情けない二人は縮こまりながら頷くことしか出来ない。片方は大所帯を指導する存在で、片方は一年生の中心の一人。両方とも明確に勝てない相手を挙げるならば希美を挙げるだろう。優子も何だかんだ希美をモデルケースにしつつ部内を運営してるし、夏紀も希美には大きい感情を持っているし、みぞれは言うまでも無いしで、部内で一番強い存在は、もしかしたら彼女かもしれない。北宇治高校吹奏楽部の裏番長だ。表のは優子。学ラン着て大きなリボンで腕組んでるのを想像して思わず笑いそうになってしまった。
「笑うターンじゃないと思うなぁ」
「すみません」
「一年生に人気の桜地先輩は、同級生の写真を隠し持ってるヤバい人って言っちゃうよ?」
「やめてください、お願いします」
「まぁやらないけど」
「良かった……」
「その代わりに……」
「代わりに?」
どんな交換条件を出されるのだろうと思って待ち構えていたけれど、希美はずっと考え込んだまま唸っていた。
「う~ん、あんまり思いつかないや。今度何か一個お願い聞いてもらうってことで」
「マジかぁ……」
「そんな変なのにはしないから大丈夫大丈夫!」
回避した、よしっ! と呟いている妹に恨みがましい視線を送っておく。責任転嫁とはまさにこのことかもしれないと自覚しているけれど、ちょっとくらいは良いじゃないかと自分を納得させてみる。お願いなんて、オーディションの事以外なら、こんな条件を出さなくても幾らでも聞くのに。そういう言葉は心の中にしまっておいた。言葉に出したら、この関係性は壊れてしまうような気がしたから。
私たち三人は家路を歩いて行く。もう卒業まで一年も無い。カレンダーの日付が進むたびにそれを意識させられた。もし卒業しても、またこうして歩けたらいいのに。そう思っては煩悶する。このままの関係では、きっとそうなれないだろう。日々変わっていく世界の中で変わらないことが、嬉しくもありもどかしくもあった。