「ホルン、やや音が弱いです」
「「「はい!」」」
「チューバ、今のところは基礎練習でやるようにと言っていた部分です。そこが揃わないと音が崩れてしまいます。五人もいてそれでは弱すぎる」
「「「はい!」」」
譜面台の端に置いた腕時計をチラリと見ながら演奏を進めていく。もうすぐ修学旅行ということもあり、先生はその打ち合わせに駆り出されている。若手の先生だろうとベテランの先生だろうと関係なく、修学旅行は先生方にとっては非常に大変な行事の一つだ。本来若手である滝先生は下見にもいかないといけないのだが、全国大会出場ということでそれは勘弁してもらっているらしい。
先生がいない間は、私が元来の務めとして指導を行っていた。
「コントラバス、月永君。自分の役目を理解していますか? 加えるべき響きがまだ作れていません。君がどう思っているのかは知りませんが、私の耳は誤魔化せませんよ。他の奏者も同じです。よもや吹き真似などしていないとは思いますが、一つでも欠けるとすぐに分かりますのでそのつもりで。では今のパートをもう一度」
課題曲の練習は中々苦労している。自由曲共々難易度は高い。これでいいかという妥協が一切許されないため、ドンドン課題が出てくるのが現状だった。一つ潰せば次のが出てくる。それを潰しても累積されていく。いつ終わるとも分からぬトライアンドエラーの作業に忙殺されるのが指揮者の練習風景だった。
「木管、細かい連符で滑らないように。低音はパーカッションとしっかり揃えるように音を聞きましょう。この曲は低音の調性が大事になってきます。ですので……ユーフォ、一人ずつお願いします。久石さんから、学年ごとに順番で」
一人ずつ吹いてください、は吹部の中だと嫌がられる。私だって嫌だ。とは言え、やらない事にはしっかり原因を突き止められなかったりする。一応色んな音を同時に聞いてどこがダメなのか判別するくらいは出来ると自負しているのだが、確実性を持っておきたい。まぁそれ以外にも色んな目的があってやっているのだが。
ユーフォはやはり黄前さんが一番上手い。譜面台を人差し指で音が鳴らない程度に軽く叩いている私を、前列にいるクラリネットの子たちがジッと見ていた。
「はい、そこまで。……黄前さんベスト。今のをキープしてください。君は割と余裕があるので、積極的に周りと合わせられるようにパートを主導してください。それ以外の二人は前に比べて出来るようになってますね。良い調子です。ただし、まだまだ足りません。音の区切り方、出し方に気を付けて、身近な上手い奏者の吹き方を研究すること」
「「「はい」」」
「ではもう一度」
上手くなる速度には個人差がある。呑み込みが早い子、そうでない子。その差はこうして本格的に練習が始まると顕著になってきていた。一年生の中でも大会に出れそうな子と今年は難しいと思われる子がいる。とは言え、私がそれを顔に出したり声に出したりしてはいけない。自分の内心はあくまでも予想に過ぎないからだ。何か一つ掴むことで急速に成長するというパターンもある。
府大会金も微妙かもしれない、と優子が言った状態からは大分改善されている。だがこれで関西三強、そして今年確実にダークホースになるであろう龍聖に勝利できるかと言われれば、素直には頷きにくい部分がまだある。関西までは行けるだろうから、夏合宿を含め夏休み期間にどこまで伸ばせるかが大きな課題になっていた。
結局この日はずっと課題曲の練習に明け暮れることになる。自由曲もやりたいのだが、まだまだ課題曲が完成できていないのも事実。特に自由曲はパート練習の段階で詰まっている部分が幾つかあるという報告を受けていた。そのため、まだパート練をしてもらっている。その間に私や先生が巡回し、詰まっている箇所を改善していく。まるで水道業者みたいだが、実際指導とはそういうモノなのかもしれない。
「今日の全体練習は以上とします。この後は自主練するのも自由ですが、その際に部屋の管理はしっかりするように。エアコンを消す、窓を閉める、電気を消す、ゴミを捨てる。全て基本的な事項です。これが出来ていないと教室を使えません。私たちは確かに昨年成果を出しましたが、それは免罪符ではないことをしっかり意識するように。もし何か問題があっても自分たちではないと胸を張って言えるように普段から心がけてください」
「「「はい!」」」
「最後に」
私は少し咳払いをして、改めて全員に視線を送る。
「最近、暗黙の了解とも言うべきルールがあるという話を聞きました」
この一年、緩かった部活には多数の規則が策定された。ごみを捨てるなんて言う非常に基本的な部分から、休む際にはパートリーダーに連絡する、楽器内にたまった水を捨てるバケツは使用後に水洗すること、月に一度音楽室を掃除すること。いずれも部内を運営するために必要な事だった。逆に言えば、ゴミ捨てみたいな基本的な事項が、一昨年までは出来ていなかったことになる。モラルが欠如していたのだろう。
それは非常に重要なことであり、集団を統率するうえで必要な規律だ。自由と無法地帯は違う。フリーダムとアナーキーを履き違えないようにしてほしいと思っている。とは言え、無駄にガチガチなルールで縛ることも、私は反対だった。そして今、一年生の間でそういう暗黙のルールが生まれ始めているという話を聞いている。妹がいると言うのは中々に便利なことも多い。問題の萌芽をすぐに察知できる。
「挨拶時には45度以上のお辞儀をすべし。そういうルールだそうです。まぁ、部活をまとめるために尽力している部長以下の上級生やこの私に頭を下げたくなる気持ちは大変よく理解するところですが、それはあくまでも個人間の感情に留めおくべきこと。他の部員に強要する必要はありません。むしろ、そのような行為は却って敬意を表したい先輩の手を煩わせてしまうかもしれないということを考えましょう。ルールは明文化され、それを守るから意味があるのです。暗黙の了解など必要ありません。そのようなモノを考えている時間を練習に、楽曲の理解に充てましょう。一年生諸君、よろしいですね」
「「「はい!」」」
「では以上で本日の練習を終わります」
三年生の何言ってんだコイツはという視線を軽く受け流し、注意を終える。堅苦しい挨拶をすることでメリットがあるならば取り入れるが、現状組織の硬直化を促すだけでこれと言った利点はない。強いて言えば、軍隊みたいになる事だろうか。旧南中よりももっと張り詰めた空気感になるだろう。優子の理想像とは程遠かった。それに、あれは絶対君主として統治する王が必要になって来る。今の吹部に、そういう存在はいなかった。
ともあれ、注意した以上これから少しはマシになるだろう。新入生指導係を通じて一年生の中の影響力がある数人に呼びかけるように伝えてもいる。草の根運動と私の少々威圧的な喚起で収まるはずだと信じていた。
「さっきはサンキュー。あんまり厳しいルールとかでガッチガチだと委縮しちゃう子もいるからさ」
「まぁ、あれで少しは変わると良いんだけど」
「変わるでしょ、一番怒らせるとヤバそうな人から直々に言われたんだから」
軽い口調で少し笑いながら、加部は私の背中を叩いて来る。新入生の指導を熱心に行っている彼女だからこそ、今のこの醸造されつつあった空気感には思うところもあったのだろう。
「それは良いんだが……君、大丈夫か?」
「……大丈夫って、具体的には?」
「いや、修学旅行とテスト終わったらオーディションなのに、あんまり練習してるところ見てないから。新入生も大事だけど、自分の練習もしないと」
「あー、うん。分かってる分かってる」
「なら良いけど……」
「心配しないで、大丈夫だからさ」
彼女の表情はいつもと変わらない。なのに何故だろうか、その口調の中に少し、ほんの少しだけ影が差したような気がしたのは。その違和感の正体に気付く前に、彼女は去ってしまった。まるで私から何かを覆い隠すように。窓の外は梅雨景色。雨はやまないまま降り続けていた。
あがた祭りの当日、天気は生憎と雨時々曇りというのが相応しい様相だった。どんよりとした雲が空を覆い、湿気を孕んだ空気が私の肌にまとわりついてくる。不快指数の高い状況は私のあんまり好きではない日本のじめっとした夏がもう始まっていることを示していた。
今年の祭りは一年生四人組を引き連れての行軍だった。天気は微妙だけれど、行くことにしたらしい。少しだけ小雨がチラついていたけれど、集合場所に付く頃には既に止んでいた。持ってきた傘が少し邪魔になってしまったかもしれないと思いながら、水を切って畳む。
藍色と白で彩られた蛇の目傘は昔から使っている。昨年は吉沢さんだけ浴衣だったので、ちょっとちぐはぐになってしまった。今年も着替えていくと言っていたので、流石に今年くらいはコスチュームチェンジと言うことであんまり着ない和服を引っ張り出してきたのである。
「お待たせしました~」
去年と同じようなことを言いながら、一年生たちを引き連れて吉沢さんがやって来る。一年生四人はまちまちの格好だ。私服の人もいれば、浴衣姿の人もいる。吉沢さんは去年とは違うデザインの浴衣を着ていた。多分、今日のためにレンタルしたのだろう。
「先輩、今日は和装ですか?」
「そうそう。今回は合わせようと思って。傘も普段は使わないの引っ張り出してみたりね」
「お似合いですよ~」
「そっちこそ」
「ふふ、ありがとうございます。じゃあ、皆行こうか!」
「「「はーい」」」
一年生たちを引き連れながら屋台の中を歩いて行く。たこ焼きに、トルネードしたフライドポテト、りんご飴、焼きそば。頼んでいるのは人それぞれだ。貴水君は両手に沢山抱えてよく食べている。年配の人が若者にご飯を食べさせようとする気持ちがなんとなく理解できるような気がした。
「よし、かき氷の食べたい味を言いなさい。先輩として、ここは私が出してあげよう」
「「「ありがとうございます!」」」
去年は吉沢さんに見栄張った結果、大分散財してしまったのを思い出す。今年は節制しようと思いながらも、少しは財布の紐が緩んでしまう場所だった。途中で妹と歩いている滝野を見つけ、滝野さんと尾行してみたり、ホルンパートの後輩たちに出会って瞳さんに去年のようになんか食べさせてくださいとお願いされたりと祭りの喧騒に負けないくらい騒がしく時間が過ぎ去っていく。
気付けば、夜も大分更けていた。一年生たちは四人固まって前の方を歩いている。私と吉沢さんの先輩組は少し後ろから見守るように歩いていた。赤と黄色で構成された屋台の光が湿気のせいでどこかぼんやり潤んだ夜の空気を染めていく。
「なんだか懐かしいですね」
祭り囃子の中、私には聞こえるけれど前の四人には聞こえないような声量で、吉沢さんは囁いた。
「もう、一年前か」
「ですねぇ。先輩のカッコいいところを沢山見てきましたけど、カッコ悪いところも結構知れた一年でした」
「えぇ、それはちょっと困るなぁ」
「私としては、むしろ後者の方が大事でしたけどね。先輩の本当の姿を見せてくれたのかなぁって思うので」
「本当の姿、か。まぁ、多分そうかもね。高坂さん関連でも、沢山世話になっちゃったし。結構しょうもないところも沢山あったでしょ」
「そうですねぇ。まぁ、それなりには。でも、私はそういう先輩も嫌いじゃないですよ」
するりと滑るように彼女は言う。言葉はスッと夜の空気の中に溶けて消えていった。その言葉の真意を確かめようにも、靄のようにどこかへ消えてしまっている。彼女の表情はそれなりに読めるようになったとは思う。それでも、時々不意に見せる大人びた顔や影を含んだ顔は未だに慣れないままだった。
「来年も、こう出来たらいいのに」
「それは……」
「分かってますよ~先輩が留年しないと難しいってことくらい」
「留年はしたくないなぁ」
冗談っぽく言う彼女に、冗談で返す。柔らかい笑顔を見せながら、彼女は不意に押し黙った。そして私のグイっと屋台の間の暗がりに引きずり込む。切なげな表情。頬は少し紅く、目は潤んでいる。見つめ合った数瞬後、彼女はまた口を開いた。
「先輩、私……」
「秋子先輩~、どこですか~!」
何かを言いかけたタイミングで、後輩たちの呼ぶ声がする。少しだけ残念そうな表情を見せ、そしてすぐにそれを消した彼女は表通りに戻って後輩たちに駆け寄る。
「ごめん、足の隙間に石が入っちゃって。ちょっと肩貸して貰ってたんだ。行こう行こう! ほら、先輩も早く」
「あ、あぁ、うん」
彼女が何をしようとしてたのか。その答えを探すうちに答えらしきものにたどり着く。けれど少し自意識過剰な気がして、すぐにそれを打ち消した。歩いて行く後輩たちを追いかける。もし、もし私の想像が本当だったとしたら、私はどうやって答えを返せばいいのだろうか。その答えも、まだ見えないまま。思考の奥にこの件を押し込んで、私は夜の道を歩いた。いつか、向き合う日が来るのだろうと予感しながら。
祭りの翌日。あまり天気のパッとしない朝の時間帯は、あまり爽快な気分と言う訳にもいかない天候だった。湿気を含んだ灰色の空模様の中、校門付近の紫陽花が濡れている。
「ごめん、お待たせ」
そんな中、私は加部に呼び出されていた。朝早く、出来るだけ人目につかないように話がしたいという連絡に、私はどうも不吉な予感を覚えずにはいられない。実際に対面した際の彼女の表情は、私の予想を裏切ることなく暗く沈痛なモノだった。去年私は何人もこうして呼び出して、話をした。それは凡そ、相手にとって好ましい話では無かっただろう。私が今こうしているのは、もしかしたらその報いなのかもしれない。
「朝早くにありがと」
「それは別に構わないけど……」
「今日、全体に連絡しないといけないことがあって。優子と先生にはもう話してたんだけど、一応伝えないとなって思ったから」
「……あまり、いい報せとは思えない」
「そう、だね。あんまりいい報せじゃないかも」
そこで彼女は一旦言葉を区切った。逡巡するように視線が空中を彷徨い、そして私に向けられる。作り笑いに近い表情は、痛々しさすらあった。
「えっと……何から話したらいいのか分からないけど……5月くらいにさ、演奏してる時顎に違和感があって。その時は何でも無いかなって思ってたんだけど、ドンドン痛くなって。それで、病院に行ったの」
「それは、まさか、そんな……」
「まぁ分かるよね。顎関節症だって」
顎関節症は、顎や口に痛みを覚えたり、顎を動かすと音がする病気だ。程度の差はあるけれど、重いモノだとかなり本格的な治療をしないといけない。重度だとそもそもこんな風にしていられないだろうから、比較的中度から軽度のモノなのだろう。長い時間楽器を吹くことで顎関節や口周辺の筋肉に負荷がかかると発生してしまう。管楽器奏者のこれと、パーカスの腱鞘炎は最早職業病とも言えるレベルだった。
「アンブシュアがもう、あんまり長く保てないの。暫く治療したらまた演奏できるようになるって言われたけど、とは言え流石にオーディションには間に合わないし」
「ほ、他の楽器に」
「分かってるでしょ、一番。前までの北宇治だったら、それで良かったかもしれない。でも、今はそうじゃないから。だから私はオーディションを辞退することにした。優子と先生には、そう伝えてある。本当は皆の前で一斉に言うつもりだったけど……筋は通したかったから。一番弟子として」
彼女はそう言って小さく笑った。
「それで、良いのか」
「良いって言うか良くなくてももうどうしようもないからさ。私は今後、葵先輩の後を継いで頑張るよ。後輩投げだして辞めたりはしない。葵先輩みたいに、Bの子たちを来年に繋げられるようにするから。吹奏楽部のためには、それが一番でしょ」
「アレは……アレは斎藤先輩が望んでそうしたんだ。最終的には、先輩の意思で。でも今のこれは違うだろう。そんなの……」
「私がいても役に立たない?」
「……多分、凄いありがたい。でもそう思ってることに反吐が出る」
「気にしないでよ」
「気にしないなんて、そんな事」
「私は自分の意思で、優子とか夏紀とか、もちろんオーバーワーク気味の師匠も支えたいと思ってるし。それに私、そんなに悲しくなかったから」
「……」
「トランペット吹けないって言われて、そんなにショックじゃなかった。北宇治が全国に行って欲しい。でも、その中に自分がいなくてもいいかなって思ってる。後輩がAで、先輩がBでも良いと思ってる。でも、周りはそうは思わないじゃん? 三年生なのにBで可哀想とか、そうやって言われる。自分では何とも思ってないのに、勝手に同情の対象にされる。そう言うの、ずっと嫌だった。だからちょっとホッとした。余計な詮索も気遣いもされないで済むって。だからもうすっぱり後腐れなく……」
「嘘だね」
彼女の言葉を遮るように、私は言った。
「……なんで?」
「もし本当にそう思ってるなら、まぁもしかしたら本当に少しはそう思ってるのかもしれないけど、心の底から全部そう思ってるなら、どうしてそんなに悲しそうな顔してるんだよ」
その瞳の中には確かに悲しみの色があって、声はどこか震えていて、絶対に心の底から言っているわけじゃないというのがありありと分かった。そんな事も分からないほど、関係が薄かったわけじゃない。
「それに、演奏を聞いてれば分かる。トランペットパートを一番見てきたのは私だ。先生でも無いし、他の誰でもない。その私が、分からないと思う? あんなに一生懸命練習してて、頑張って、上手くなろうとしてた演奏が嘘だなんて思えない。Aになりたくなかったなんて、思えない。楽器はその人の心を映す鏡だ。だから、適当な人は適当な音しか出ないし、心の中で思ってるモノが知らず知らずのうちに外に出てしまう。他の楽器ならいざ知らず、トランペットにおいて込められた感情が分からないほど、落ちぶれたつもりはない」
「……流石、師匠だね。隠そうと思ってたもの、全部見えちゃう。あーあ、折角後腐れなく終われるように、すっぱり諦めましたって言おうと思ってたのに。そんな風に言われたら……言われたら……」
彼女のその頬には一筋伝う光があった。
「悔しいじゃん。でももうどうしようもないの! 諦めるしかない。分かってよ。私が、全部綺麗に諦めて、笑って再出発できるように見送って。普段そうしてるじゃん。冷静に、いつだって淡々と」
「そんなこと、出来るわけないだろ!」
口に出した後に、私にはそんな事を言う権利なんてないことに気付く。私は彼女の不調すら見抜けなかった。誰かを教える資格なんて、私には無かったのだろう。だからこんな結末を招いた。多くの夢を壊して、その結果が自分の教え子のこんな終わり方だとするのなら、因果応報なのだろう。私本人ではなく、教えた相手から楽器を奪う運命とやらは、随分と残酷らしい。
音楽を好きになって欲しかった。トランペットを楽しいと思って欲しかった。それなのに、いつの間にかこんな風になってしまった。もしこんな運命をたどるなら、あの怠惰でも僅かな楽しさのある部活の方が良かったのかもしれない。そうしたらきっと彼女は今でも笑って演奏できていたはずだ。それなりでも、楽しく。上を目指すのなんて、一部の狂気の中に生きている人だけで良かったはずなのに。
「悔しいよ、そりゃ悔しい! 私だって出たかった、一緒に、皆で! 夏紀と約束したの、一緒に全国出るって! 葵先輩にも言ったの、教えてもらったこと絶対活かしますって。香織先輩にも沙菜先輩にも見て欲しかった! こんな終わり方なんて嫌だ、嫌だよ私だって! それに……それに、今年が最後じゃん。教えてくれた人に、その成果を見せられるのは! 名古屋の会場で、こんなに上手くなれたよって、言おうと思ってたのに……」
彼女は大きな声で叫びながら言葉を吐き出した。荒い息をしながら、何度も何度も肩を上下させる。もう涙も枯れつくしたのかもしれない。彼女の目には、少し乾いた涙の跡があった。
「……ごめん、全然上手くならないまま、こんな風に終わっちゃって」
「違う……違う。謝らないといけないのは私だ。師匠だなんだと言いながら、私は結局君の不調一つ気付けなかった。こんな人間に人を教える資格なんて無かった。すまない、本当に……本当にすまない……!」
私の目から涙が溢れていく。地に膝をつきながら、私はただ頭を下げるしかなかった。もっと早く気付いていたら。もっと早く対策できていたら。もっと練習に気を遣っていたら。無理をさせ過ぎないようにしていたら。後悔ばかりが頭の中に渦巻いていく。もう取り返しのつかない過去が、私に変えられない現実を突き付けていた。
「それは、違うと思う」
「え?」
「教える資格はあったよ。少なくとも、私はそう思ってる」
「なんで……」
「確かにさっき言ったみたいに変な風に勘繰られるのは嫌だった。でも私、トランペットは好きだから!」
大きな声で、高らかに彼女は言った。慟哭する私に向けて、励ますように。本末転倒だと思ってしまう。本当は私が彼女を慰めるべきなのに。私は、情けない人間だった。臆病で、どうしようもなく愚かだ。己の涙よりも、悲しみよりも、相手のことを考えるべきだったのに。そんな私のことなど気にしないかのように、彼女はハッキリと言葉を紡いでいく。
「確かに大会出れないのはそこまで言うほどショックじゃなかった。でも、演奏できないのは辛かった。私が上手くなりたかったのは、大会に出たいからじゃない。上手くなった方が楽しいと思えたから。だって、そういう風に教えてくれたじゃん」
「楽しい……」
「最初の方のこと覚えてる? そっちは希美とかの件の方が印象強いかもしれないけど、私はずっと覚えてる。あんまり上手く吹けなくて、先輩たちに笑われてた時に、それでもずっと教えてくれたじゃん。物覚えも悪かったし、正直結構どんくさかったと思うけど、嫌な顔一つしないで。出来た時は上手って言ってくれた。音出せて、今思えば超簡単な曲だけど吹けた時、楽しいって思えた。音楽っていいなぁって、トランペットってカッコいいって。だから、そっちが辞めた後も練習してた。私にとっては、アレが原点で、一番いい思い出だったから」
まだ出来ないの? と嗤った三年生を押しのけて、初心者の指導を行ったのは私だった。自分もかつては初心者だったのにそれを嘲笑う三年生に任せていては、いつか彼女が音楽やトランペットを嫌いになってしまうと思ったから。だから、演奏は楽しいと思ってもらえるように教えていた。あの頃はまだ、追い越せ追いつけという空気も無かった。のんびりした成長でも許された。いつかちょっとした特技になれるようにという程度だったのだ。
それでも、私にとっても初めて教えるという体験をした時間だったのは間違いない。あの経験が無かったら、或いは私は吹奏楽部に戻っていなかった可能性もある。忙しい日々の中で忘れかけていた、遠い日の記憶。滝野がおどけて、優子が突っ込み、それを横目に加部が少し上達した演奏を見せて、私がそれを見守りつつ時々教える。そんなありふれた、平凡すぎる日々。失われるまでの数ヶ月だったけれど、確かにあの日々があったから今の信頼関係があるのかもしれない。
香織先輩の言葉を思い出す。受け取った側がどう思うかが大事だと。私にとっては何でもない日々だったのかもしれないけれど、もしかしたら彼女にとっては目まぐるしく変化する吹奏楽部の世界の中で、それでも自分を貫くための思い出だったのかもしれない。
「私、あんな風な先輩になれるようにってずっとやって来た。人に教える資格が何なのかは、私にもよく分かんない。でも少なくとも、桜地に人を教える資格が無いなんて思わない。一番弟子の私が保証する! だから、この後も良い奏者を沢山送り出してよ。そしたらその大量の人の前で、私が一番最初だってドヤ顔するから」
「すまない……ありがとう……!」
「あぁあぁ、そんなになって。こんな状態で朝練行ったら何事? ってなっちゃうじゃん」
呆れたような声で、彼女は言う。けれど私はそんな事を気にしている余裕はなかった。自分が一番辛いはずなのに、こんな風に言ってくれることが情けないし、申し訳ないし、ありがたいしで感情がぐちゃぐちゃになっている。ただ一つ言えることがあるとするならば、私は少しは救われたということだろう。
「ドクターストップはかかってるんだけど、あと一回だけなら良いって言われてて。ていうか無理矢理言わせたんだけどね」
彼女は机の上に楽器ケースを置く。彼女の管理している、銀色のトランペット。それが入ったケースだった。
「最後に、これだけ聞いて欲しい。ちょっと厳しいかもしれないけど、どうしても吹きたかった」
「……分かった。聞かせてくれ」
「じゃあ、行くよ」
彼女は楽器を取り出し、口につける。少しだけ走ったのであろう痛みを無視して、息を吹き出した。その音はしっかりと響いている。初心者だった頃が嘘のように。伸びやかに、感情を込めて。その曲名は「アメイジング・グレイス」。アメリカ第二の国家とも謳われる讃美歌。神の赦しと素晴らしさを歌っている不朽の名作。その曲はトランペットの最初の練習曲として使っていた。今年も滝野さんに使っている。
そしてそれは、かつて加部の練習曲として最初に渡した楽譜だったから。彼女が最初に演奏した、曲らしい曲がこれだった。高らかに響き渡るメロディーはまるで暗闇に差し込む一筋の光のようで。曇天だった空はいつの間にか少しだけ晴れ間が見えている。薄い日差しが、窓から入り込んで演奏する彼女を照らした。朝の校舎に、朝の宇治の街に響き渡るように、その讃美歌は華麗に奏でられ続ける。
トランペットの持っている魅力を最大限に引き出したその音は、この時だけは、この曲だけは、この部活にいる誰よりも上手かったかもしれない。それこそ、高坂さんが後であの演奏は誰がしていたのかと問うくらいには。美しい調べは終わりを迎える。私の一番弟子の、最後の演奏は静かに幕を下ろした。
「どうだった?」
その言葉は、かつて向けられたものと同じ。遠い記憶の中で、私の最初の教え子である彼女が言った言葉。だから、私は、あの時と同じように返す。ただ一つ違いがあるとするのならば、私の声は嗚咽混じりだということだろう。喉の奥から絞り出すような声で、私はそれでも素直な感想を、まぎれもない真実を伝える。
「上手く、なったな。良い、演奏だった」
私の言葉に、彼女はニカっと笑った。その笑顔に、私は溢れ出るモノを堪えることなど出来やしなかった。