音を愛す君へ   作:tanuu

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第九音 日進月歩

 週末を挟んで月曜日になる。期限の水曜日までは今日を含めて後三日。先生の求めているレベルが不明という根本的な問題は存在しているとはいえ、聞けるレベルの演奏、演奏と言っても問題ないレベルの仕上がりを求めているのだとすれば、ある程度出来上がっているだろう。

 

 先週、おおよそ良いとは言えないような方法で部員たちの声のデカい面々を焚きつけた効果は出ている。日曜日も練習を行っていたため、合奏も最初よりはいい具合になっている。文句を言いつつ緩慢な動きだった人々が、文句を言いつつキビキビ練習をするようになったのは大きいと思う。

 

 元々真面目にやる気質のある人はやっていた。ただし、空気と言うのは大きい。空気を作る側にいる声の大きい面子がやる気に欠けると、どことなく練習をしづらい空気が出来上がる。それは蔓延し、結果として良い効果を生まない。その最たる例が去年の空気であろう。あれは声が大きく立場の強い三年生の生み出す空気が場を支配し、他の意見を排斥した。別に全ての三年生が性悪かと言えばそうではない。中には普通の人もいた。

 

 そう言った人々をだらけさせたのは空気によるところが大きいだろう。人は楽な方に流される。場を支配する空気というものの大きさをあの時改めて思い知った。それを変える難しさもである。今先生がやろうとしているのは土台作りだ。練習を行っていく上で必要な空気を生むための土台。これの作成が先生のやろうとしていることの隠された目的だろう。

 

 ゆえに、やや危険な方法であったとしてもあそこで焚きつけたことの効果はあったと思っている。その良し悪しはともかくとしておきつつ。そうやって醜い自己弁護をしながら、私は朝食の味噌汁をかき混ぜていた。時刻は午前五時半。後一時間もしないうちに家を出て、学校に向かわないといけない。

 

「ちょっとしょっぱいか……」

 

 疲れているのか、味噌の量を間違えたらしい。食べれないわけでは無いので、ちょっと水を足す程度にすることにした。妹が起きるまで後十分。それまでには完成できそうだ。妹に持たせる弁当は自分の分含めて既に出来ている。そこら辺に抜かりはない。所詮は昨日の夕食の残りではあるけれど。

 

「おはようございます」

 

 冷蔵庫を漁っていたら背中から声をかけられた。妹はまだ寝ている。声の主は分かりきっていた。

 

「おはようございます、雫さん」

 

 彼女は私の従姉だ。今年で29歳。誕生日は10月なのでまだ28を主張している。30が近くなるのが嫌だと言っていた。私から見ればまだまだ20代前半で通じる顔をしてる。仕事柄不規則な生活をしている彼女だが、食事だけは時間を合わせてくれる。

 

 長い黒髪を後ろにストレートで垂らし、前髪は横一線に切っている。高めの身長、よいスタイル、切れ長の目、薄い唇、大人びた空気。モテる要素しかないのに浮いた話も無いのは恐らく我々兄妹のせいであると勝手に思っている。私たちの保護者役を引き受けているために出会いの場も無いのではないかと感じているので、それが少し引け目だった。

 

 薄いカーディガンを羽織った彼女は牛乳を取り出す。壊滅的に料理が出来ない彼女に代わって私が料理担当なのだが、向こうはそれに対し思う所もあるらしく、こうして時々手伝ってくれる。私にとって、この12歳近く離れた従姉は姉のような存在である。

 

 彼女が大学生だった10年ほど前から同居していたこともあり、過ごしてきた期間は長い。最初の頃の日々は10代前半の子供には少々新鮮な体験であり、まぁ恐らく私の初恋のような何かも彼女だろう。もう遠い日々の話であり、今は全くそういう感情は無いけれど。

 

「どうですか、部活の方は」

 

 みんな同じような問いかけをしてくる。何だかんだ心配されているのだろうと考えれば、ありがたい話だ。

 

「まぁ、何とかやってるんじゃないかなぁと」

「それは良かったです。昨年は色々ありましたから……。私はあの時何の助けにもなれませんでした。大人として、泉下のお二人の代わりを担わないといけない立場として不甲斐ないと何回も反省しました」

「そんな。雫さんが反省するようなことは無いです。アレは……多くの不幸が積み重なった結果ですから」

「……私は、頼りない大人だと思います。大学も中退して別のところに入りなおすみたいな人生ですし。順風満帆な人生設計とは言いづらい。ですが取り敢えず12年ほど先に歩き出した身として言いますが、凛音君は……もう少し嫌なことに対する防衛行動をした方が良いと思います」

「十分している気がしますけど」

「そうですか? 嫌なことだけど、やりたくないけど、目的の為に必要だからという理由で実行する。それが、私の主観の中にいる凛音君の姿です。でもそれが間違っていたり、感情に反していることは分かっているから、手段を選ばず行って心に傷を負ってしまう。今はそれでいいかもしれませんけど、そのうち限界が来てしまいますよ。必要なことだけをしているというのは、そういう結果を招く気がします。何の根拠もありませんけど」

 

 私は無言で、野菜炒めを皿の上に乗せた。ご飯は既に炊けている。味噌汁もよそえば終わりだろう。もうすぐで妹がやって来る。雫さんの言葉を自分の中で反芻した。そうなのだろうか。私は嫌なことは嫌だと主張していると思っている。私は別に聖人君子ではないし、我慢強い人間でもない。

 

 目的の為に手段を選んでいられないのは事実だ。北宇治は問題だらけ。それを全国大会に出すという結末に導くには、生半可な手段ではいけないと思っている。おとぎ話を現実にするには、とてもお話には描けないようなこともしないといけないはずなのだ。

 

「凛音君は強い人です。情けない話ですが、私よりもずっと。でも強さは弱さの裏返しであるとも思っています。ダイヤモンドが一点に圧力を加えられれば簡単に砕けるように」

「……」

 

 彼女が言っていることは事実だった。私は臆病だ。自分の進んでいる道筋に問題が発生しないと引き返せない。引き返す勇気を持てない。自分の罪に向き合うことができない。だから未だに希美と没交渉のまま。同じクラスだというのに、いないかのように振る舞っている。

 

 私の臆病さ、取り繕った強さはしっかりと見抜かれていた。怒られそうだが、これが年の功というのならばそうなのだろう。遠回りなやり方に効果があるか分からないから踏み出せず、結果茶番劇を繰り返す臆病者。それが私という存在だ。

 

「生き急がないでくださいね。大人になってどう思うかは人それぞれですけど……若さを無駄に出来るのが若さだと、私は思いますから。それに、人生という絵画を描くときに、無駄なことなどないと思いますし」

「……まだ雫さんも若いじゃないですか」

「それはそうですけどね」

 

 話題の方向性を変えて、その場を誤魔化す。また向き合うことから逃げた。それを全て分かっているかのように、彼女は小さく微笑んで皿を食卓に持っていく。生徒でない存在と話しているようだと先生は言った。私にはその実際の真偽は分からない。ただ一つ言えることは、彼女の前ではいつまでも年下のままだということだろう。普通の、悩みを抱えた高校生として話ができる存在がいるのはありがたいことだった。

 

「おはよう……」

 

 眠い目を擦りながら、妹がやって来る。南中吹奏楽部の部長さんは大変だ。いつかの先輩を追いかけて、必死に練習に励んでいる。その証拠に、昨日も遅くまで吹いていたのだろう。防音室の灯りは日付を超えても消えていなかった。

 

 挨拶をしながら小さなため息を吐く。学校に行くのは少し億劫だった。授業や教室がではなく、部活が。ストレスは消えることなく、積もるだけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「伸ばして、もっと長く」

 

 フー、と息を吐いていく声が響き渡る。瞑想か何かのようにも見えるが、れっきとした練習の一つ。基礎部分に該当するものだが、肺活量を増やしていく練習だ。長く、太く、遠くに送るように。よく言われることであるが、実際にやってみると難しい。素人では中々上手く行かないだろう。

 

 吹奏楽は吹という文字があるように、呼吸を必要とする楽器が多い。オーケストラはバイオリンが主役なのを考えれば、その違いが分かるだろう。私はオーケストラ畑を進んできた人間ではあるが、金管楽器においてやることは結局変わらない。息を使って音を出す以上、長く太く吹けるのは良い奏者の条件のようなものであった。

 

「はい、よいですね。最初より大分よくなりました」

 

 一番私に対する反発が強かったホルンパートもこのように、割と素直に練習してくれるようになった。内心はどうあれ、行動がしっかりしているならばそれ以上言うことはない。特に三年生の沢田先輩と加橋先輩が練習を頑張るようになったのが大きいだろう。やっとスタートラインという気がしないでもないが、ともあれこれで下地は整っている。

 

「では、次に移ります。一回吹いてみましょう。準備は良いですね? 3、4」

 

 指揮棒を振れば、大分整った音が出るようになった。てんでバラバラだった初期に比べれば大きな進化である。人は変化するものだとつくづく思い知らされる。去年もこうなっていたならば、どれほど良かっただろう。先生が去年いたならば。そう思わずにはいられない。そうすればきっと……。

 

 あり得ない妄想を振り払い、私は目の前の奏者に集中する。現在の彼女らは真剣だ。ならば私が雑念によって余計な思案をしているというのは、真剣さに対する失礼に当たる。それは避けなくてはいけない。

 

「どうでしょうか。随分とよくなったように思いませんか?」

「それは……まぁ……」

「多少は?」

 

 先輩たちは顔を見合わせた後にそう言った。自分たちで自己肯定感を多少なりとも身に着けてもらわないと折れてしまう。まぁ元々気の強い面々だ。それなりに自己肯定感はあるだろうから問題は無い。大事なのは大人しい人々がどう思っているか。そのメンタルケアは欠かさないようにしたい。さもないと、また去年の二の舞だ。

 

「とは言え、まだ少し気になります。自分の出したいと思ったタイミングで出したい音が出ているか、それを意識しましょう。これはどんな領域の奏者でも常に悩むことです。どこまで理想形に近づけられるかの勝負と言い換えても良いでしょう。ですので……」

 

 先ほどの音を録音していたのを流す。吹いている側、内側からでは分からないこともある。外側から客観的に音を把握することで、自分が思ったより出来ていなかった事に気付けるということもあるのだ。特にまだ吹くことに一生懸命な間は。

 

「先ほどの演奏です。自分の理想のタイミングと比べてどうでしたか? ちょっと外れていたり、思ったより理想と遠い場所があったはずです。そこを重点的にやる事で実力の向上が出来るのです。勉強と同じですね。出来るところと出来ないところを明らかにして、後者を重点的にやる。そうでしょう?」

 

 残りの練習を指示して、ホルンパートを後にする。教室を出ても愚痴より先に手を動かすようになった。良い変化だ。やったことの意味はある。そうでなくては、私の正当性は何一つなくなってしまうだろう。それは望むところではない。

 

 廊下を歩いていると、水道のところに人影がある。見知った姿に、声をかけることにした。

 

「休憩?」

「そう」

 

 短く返事をした彼女は、手を拭きながら私の方を向いた。長い髪、白い肌。どこか磁器人形を思わせる彼女は、この部唯一のオーボエ奏者にしてかなりの実力者。南中吹奏楽部出身。名を鎧塚みぞれ。私と比較的仲の良いと自負している存在だった。あまり話す回数は無いけれど、受け答えは他の人よりスムーズにしてくれる、気がしている。

 

「どう、最近の吹部は?」

「どうって、言われても……」

「それもそうか。楽しい?」

「……分からない」

「そっか」

 

 目を伏せながら彼女は言った。彼女は残った。去年の騒動の中でも。その理由は、誘われなかったから。そう本人は自覚している。ただ、私はそれだけだとは思わない。彼女は、意外と自立した意思を持っている人間だ。それに結構頑固でもある。

 

 私が辞める時には、引き留める言葉をくれた。私はそれに結構感謝している。結果的に退部したとはいえ、吉川しかり彼女しかり引き留めてくれるのは嬉しいことだ。戻ることになった時は、吉川の後ではあるが一応連絡も入れている。言葉少なではあるものの、拒否はされなかった。それで十分である。

 

「希美とは……」

「その話はやめて」

「悪い。無神経だった」

 

 彼女は明確な拒絶で以て私の言葉を遮った。彼女が抱いている感情の片鱗は理解しているつもりだったが、思った以上に根は深い。けれど私にはどうこう言う資格はない。私も同じだ。同じように、逃げている。結局、私も彼女も、そして多くの二年生も、去年の呪縛からは解かれていないのだ。それはきっと、水曜日の演奏がどうなろうとも。北宇治がどんな結果になろうとも。

 

「涼音ちゃんに伝えておいて」

「伝言? 珍しい」

「先輩だし、一応。部長、頑張ってって」

「分かった。伝えておくよ。先輩からの激励だし、きっと喜ぶさ。あの子も今年こそって張り切ってるから」

「後、無理しないでって」

「了解した」

 

 こくりと頷いて、彼女はまたダブルリードの教室に戻っていく。あそこのパートは割と平和だ。不必要な干渉はしないし、岡先輩も喜多村先輩も決して悪い人じゃない。彼女は割と可愛がられている方だろう。なので問題は少ない。練習は比較的しっかりやっているようだし。彼女の数少ない幸運は、少なくとも居場所は割と平穏なことなのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、約束の日がやって来るのである。部室の空気は真剣。愚痴をこぼしつつも、雰囲気は程よい緊張感に包まれている。これまで一週間。その間に激動の如く色々なものが動いた。多種多様な思惑に左右されながら、色んな人が動き回り、その結果として今がある。組織運営は面倒だ。それを痛感させられる。

 

「絶対文句言わせない」

「これでなんか言われたら、マッピ投げるし」

「っていうか、なんであの先生、指揮棒使わないの? 見にくいんだけど」

 

 各所からそんな声が聞こえる。マウスピースを投げる、という発言が出るくらいにはこの部の面々は練習した。全国に行くには全然足りないが、少なくともこれまでの部活よりは圧倒的に練習している。不満や文句というフラストレーションを練習の方面に向けるのには苦労したが、先週煽ったこともありやる気は少なくとも十分にあるように見受けられる。

 

 実際発言ではああ言いつつも彼等の手は楽器の調整の為に動いている。良い変化だ。おざなりだった楽器のメンテナンスなども徐々に、かつ自発的にやる部員が増えている。楽器は己の武器。磨いておくに越したことはない。

 

 先生はガラガラと扉を開けて入って来る。緊張感は一気に高まった。紆余曲折を経ながらも一週間、それなりにまともに練習をしたのだ。上級生はサンフェス出場もかかっていることだし、やる気がある。練習しても許可が出なければ私が無理やり出場させるという契約になっているのは周知の事実。とは言え、そんな形で出場するのはどうも手放しでは喜べないという層が多いだろう。自尊心を考えれば当然の心理状態だと思う。

 

「約束の日になりました。この一週間の練習の成果が楽しみです。鳥塚さん、お願いします」

 

クラリネットからチューニングが始まる。部員たちはいっせいに同じ音を吹く。吹奏楽にはチューニングが欠かせない。と言うより演奏には基本これをやる。弦楽器だって調整は必要なのだ。同時に同じ音を出し高低差の調節を行う。

 

 高温環境だと音程が高くなり、低温環境だと低くなる傾向にある。故に、やる事はほとんどないけれど真夏の炎天下の下と真冬の雪国では音が大きく変わるのだ。クーラーの状況、照明の熱、会場の温度、移動時間。こういったものを考えるのも大事なことだ。特に世界大会レベルだと一段気を遣う。

 

 チューニングの音の揃い具合で実力はある程度分かる。最初期は揃うのに随分と時間を要したけれど、今はバシッと決まっている。うねりは無い。澄んでいて、真っ直ぐに音が出ていた。吹き方も随分とうるさく言ったけれど、それも反映されている。期待が出来る状態だった。それは先生も分かっているのだろう。心なしか顔が柔らかい。

 

「それでは、よろしいですか。では、始めましょう。……3、4」

 

 手が振り下ろされると同時に音が奏でられる。タイミングが揃うまで、開始の練習は何回もやった。全体練習もしかり、パート練習もしかり。音の高さがズレるのも致命的だが、それ以上にズレると目も当てられない。前回はそうだったが、今回では少なくとも合っている。

 

 トランペットは揃っている。フルートも暗譜している。クラリネットもズレていないし、ホルンもタイミングが良い。指の動かし方、息の吹き方、目の動かし方。方々に目を配りながら、確認したいことを見ていく。

 

 勇壮で軽快。行進したくなるようなメロディーが見事に奏でられている。聞くに耐えなかったあの頃とは比べ物にならない。前回のを知っていれば尚更。ボロボロのぐちゃぐちゃだった音楽は、軍隊のような勇ましさを持っていた。それは、きちんとした音楽であった。

 

 手にした楽譜の該当する音符が光って見える。昔からそうだ。カッチリ嵌っているときは音符が光るように見える。あくまで見えているだけなんだろうけれども、長年の経験上現在の演奏が問題ないことを示していた。気になる点が無いわけじゃない。だが、最初のひどすぎるアレと比べれば圧倒的な変化だった。青空に抜けていくような、気分のいい演奏である。

 

 目線を動かせば、今回は演奏していない初心者の子たちが何人も目に入る。その表情は明るく、楽しそうで、そして感動を感じているようだった。上手な音楽は心を動かす効果がある。これまで音楽に触れてこなかった彼らには、これが初めて間近で体験する良い音楽なのかもしれない。この演奏で音楽への楽しさを感じてもらえたら嬉しいと思う。

 

 不思議な高揚感に包まれながら、その曲は終わる。思えば、この音楽室に真っ当な演奏が響いたのは十数年ぶりなのかもしれない。昔、まだこの学校が真の強豪校として全国に君臨していた、あの頃だ。

 

 演奏の後、部員たちは皆黙りながら先生を見つめていた。ある者は自信を覗かせ、ある者はマウスピースを投げる覚悟を決めながら、ある者は不安な面持ちで。その視線の先にいる先生は、沈黙の後周りを見回し、少し瞑目してその口を開く。やや綻んだ口元で。

 

「いいでしょう」

 

 その言葉にパッと場の空気が明るくなる。ハッと目を見開く人、顔を見合わせている人、ガッツポーズをする人。各々ポジティブな反応を返している。

 

「細かい点をあげればまだまだ気になることはありますが、何よりも今、皆さんは合奏をしていましたよ」

 

 努力が必ず報われるかどうかは分からない。そうじゃないことの方が多いだろう。けれど報われるときに感じる喜びは悪いモノであるはずがない。まずは小さな成功体験。これを植え付けるのも先生の狙いだったのだろうと、今部員の表情を見て思った。

 

 これまで具体的に大きな成果を残した人はいない。それがこの部活の状態だった。誰だって、努力が無駄になるのは怖いし、努力しないで済むならしない方が良いに決まっている。その方が楽なのだし。成功体験が無いというのは努力を怖いモノにさせる。報われない怖さがあるからだ。だからこそここで成功体験を植え付けた。もっとやればもっと出来るようになる。その可能性を見せた。上手い手だと思わざるを得ない。

 

「ふぅ……」

 

 小さく息を吐く。まず第一関門は突破と言っていいだろう。この先にそびえ立っている壁はまだまだ分厚く高いが、それでも最初の関門を超えられないようでは意味がない。

 

「これは音楽でしたか?」

 

 先生の問いかけが向けられる。私は最初、ここの演奏を音楽ではないと言い切った。それを反映しての事だろう。

 

「えぇ。間違いなく。それは私よりも感じている人がいるでしょう。ねぇ、加藤さん。どうでしたか?」

「え! えっと、何と言うか、すっごいカッコいい感じでした!」

 

 突然振られたことでビックリしていたけれど、求めていた答えをくれた。初心者だからこそ、音楽に触れた経験が少ない人だからこそ、その感想は真っ直ぐだ。明るく朗らかな彼女なら物おじせず答えてくれると思っていたけれど、予想通りで助かる。

 

 そして彼女の言葉は、特に私に焚きつけられた先輩たちの自尊心に響く。満足そうな顔、嬉しそうな顔をしている人が多い。自分たちの演奏が真っ直ぐな言葉で評価されたのだ。自尊心は削ったままではいけない。その後で倍になって取り返す機会を設けることで、効果を発揮する。私は少なくともそう思っているのだ。

 

 先生は満足そうに頷くと、プリントを取り出した。

 

「小笠原さん、これをみんなに配ってくれますか?」

「はい」

 

キチンとこれを持ってきてる辺りこの人もこの結果を信じていたのだろう。元々全体練習している際の音は聞こえていたはずなので、ある程度実力は把握していたはずだ。それに、勝手な想像だけれども私の予想するハードルより先生の求めるハードルは低い可能性が高い。特に成功体験を植え付けるのが目的だとすれば、なおの事。

 

「お待たせしました。サンフェスに向けての練習メニューです」

 

 休日返上のメニューになっている。平日は午前に朝~始業まで、午後に16時~19時まで。休日は午前に8時~12時まで、午後に13時~19時まで。これまでの何倍も厳しいメニューではあるが、強豪校はどこもこれと同じようなカリキュラムをこなしている。

 

 むしろ、私立の学校は毎週土曜日に授業があることを考えればその分練習に使用できるので有利とすら言えるかもしれない。尤も、向こうは潤沢な資金があるわけだけれども。ゴールデンウィークもガン無視の練習が明日の4月23日木曜日から続く。同時に私も休日返上だ。

 

「曲は何ですか?」

「譜面は明日配ります。お楽しみに。さて、残された日数は長くはありません。しかし皆さんが普段若さにかまけて、ドブに捨ててる時間をかき集めればこのくらいの練習量は余裕でしょう」

 

 私は既に楽曲を知らされている。団体申請の期間は結構迫っている。本当は今日までなのだが、万が一に備えてギリギリまで待ってくれるように頼んである。杞憂で済んでよかった。どっちにしろギリギリに出してくる迷惑な団体であることに変わりは無いのだが。先生は私に感謝してほしい。

 

「サンフェスは楽しいお祭りですが、コンクール以外で有力校が一堂に集まる貴重な機会です。この機会を利用して今年の北宇治はひと味違うと思わせるのです」

「でも、今からじゃ…」

 

 部長の不安そうな声に幾人かが俯く。

 

「できないと思いますか?」

 

 周りを見回し、彼は続ける。

 

「私はできると思っていますよ。なぜなら私たちは、全国を目指しているのですから」

 

 その屈託の無い笑顔に、多くの部員は気付いたのだろう。この人は本気で自分達を全国へ連れていこうとしている。狡い人だ。ドン底を認識させた後で努力は報われるという事の最も分かりやすい例を身をもって示した。

 

 私という()()に頭を下げてまで頼み込んだ。その時点で彼の本気度を私は理解していた。部長や副部長もそうだろう。吉川も私と話した時に気付いた。けれど多くの人は半信半疑だったに違いない。だからこそ今この瞬間に、確認することになっただろう。自分たちが選んだ選択を本気で実行しようとしている人が彼であると。

 

 先生はドブに捨てている時間と言った。確かにそうなのかもしれない。漫然と昨日を終え、今日を生き、明日を過ごす。変わらない毎日。変わらない出来事。友達とくだらない話をして、授業をある程度真面目に或いは船を漕ぎながら受け、放課後を謳歌し、家に帰って家族と過ごす。確かに振り返ってみればあの時もっとこうしておけば、と思うような時間も多くある。

 

 そういう意味では、ドブに捨てているのかもしれない。だが、振り返ってみた時にきっと後悔以外のものもあるはずなのだ。輝いていた、楽しかった、漫然としていたけれど充実していた。そういう時間だってきっとあるはずだ。大人からみれば無駄でも、実際に過ごしている本人にとってはかけがえのない時間。練習以外に価値が無いなんてことがあるはずがない。音楽は、多くの経験の中で彩を得ていくものだ。

 

 私の大学時代だってそうだ。後悔もあるし、何してたんだあの時と思うようなこともある。けれどそれが間違いだとは思いたくない。「若さを無駄に出来るのが若さであり、そもそも無駄ですらない」と言った大人がいた。「ドブに捨てている」と言った大人もいる。どちらが正しいのかなんて、立場によって変わる。

 

 私はこれまでの高校生活が無駄な何かだったなんて思いたくないし、他の部員の人生だってきっとそうだろう。振り返らないと分からないものであるはずだし、価値は自分できめるものだ。大学生活を送ったからこそ、それは色濃く実感する。

 

 それでも、私は先生にそう言う資格はない。私はドブに捨てていると切り捨てないといけない側の人間なのだから。先生の青春はきっと、さぞ意味のあるものだったのだろう。内心でそう嫌味を呟いて、終わらせることにした。そうすることすらきっと、私には本来許されるものではないのだろうから。

 

 ……価値を一方的に決めてしまった彼らの青春に、何か報いることができる方法はあるのか。そう考えた時に、答えは一つしかない。結果を出すこと。だがそう考えるとそれが可能なのかという問題が持ち上がる。折り合いは未だに、付きそうにない。

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