私は自分の事が分からない。昔はよく分かっていた。自分のなりたいもの、やりたいこと、行きたい場所。将来は未確定で、フワフワしていて。けれど決して暗い色で彩られた何かでは無くて、光で出来た輪郭に囲われているような存在だった。
思考はとめどなく流れる。かつては漠然とでも描けていた未来は、今は何も見えない。一年後、十年後、そしてもっと先。自分が何をしているのかなんてわかりっこない。自分が何になりたくて、何をしたくて、どこに行きたいのか。答えは出ないまま。そして私は進路希望調査を白紙のままで出した。真っ白過ぎる紙に無機質に書かれたインクの線と文字。紙切れ一枚で自分の未来を決められているような感覚がして、無性に破りたくなった。
もしかしたら破りたかったのは、自分自身だったのかもしれない。
「それ、何?」
放課後の廊下を黄金色の夕日が照らす。みぞれが手に抱えた紙の正体を知りたくて私は声をかけた。
「これ……パンフレット」
「うん、それは分かるよ。見てもいい?」
差し出された紙を広げてみるとデカデカと大学の名前が書いてある。その大学名に特徴があるとするならば、それは音楽大学校つまり音大だった。
「音大のパンフレットかー。へ~。アレ? てかこれ、みぞれ音大受けるの?」
「新山先生がくれた。興味ある? って」
その答えに足が止まる。心に渦巻く感情は自分でも良く分からなかった。未知なる世界への好奇心が沸き上がるのと同時に暗い何かが蠢く。これは勿論見栄やらなんやらもあるだろう。でもそれ以上のものがあった。
私はみぞれに特別になって欲しくなかった。「みぞれより自分のほうが絶対に音楽が好き」。これが私の数少ない取り柄だと思っていた。みぞれは上手い。それはゆるぎない事実だ。でもそこから目を背けたい自分がいた。特別な人は二人も三人も欲しくなかった。だって。そうしないと自分がどうしようもなくちっぽけに見えてしまうから。みぞれと凛音に挟まれた私は、特別なんかじゃないんだろう。
分かり切ってるはずなのに、もう一人の私はそれは嫌だと囁く。これは嫉妬? それとも憧憬? 言葉では名前を付けられない感情だった。
新山先生が、プロの人が認めてしまった。みぞれの才能を。「みぞれの才能を”特別”なものとして選び取った」んだ。ああ、そうだ。私はみぞれに私と同じで居て欲しかったんだ。桜地凛音という圧倒的な特別と並んだら、きっと平凡でしかない私は何者でも無くなってしまうだろう。だから私とみぞれがセットだと思いたかった。酷い感情だと思う。でも、同じ側にいるんだと勝手にそう決めつけて。でもみぞれはもうこっち側じゃない。むしろ元々こっち側じゃなかったのかもしれない。
沈黙。沈黙。沈黙。このままではきっと二人とも私の前から消えてしまうのではないか。そんな感情が頭をよぎった。そうなりたくないなら、どうするか。自分が向こう側に行くしかない。特別に、なるしかないんだ。もし凛音が認めてくれれば。私はみぞれと同じ地面に立てるんだから。だから私はみぞれに言う。
「私、ここの大学、受けようかな」
黒い波が心を撫でる。昔、去年の夏に抱いた感情。そして、アンコンやソロコンのときに抱いた感情。あれからずっと努力はしてきたと思っている。同じソロコン関西まで行けた。でも消えることの無い黒い炎が私の心を焦がしている。押さえつけようとする度にその炎は大きくなって、ドンドンと私の心を焼き尽くしていった。
「じゃあ、私も」
「え?」
「希美が受けるなら、私も」
このみぞれの言葉に返せるものを私は持ち合わせていなかった。今の私は空虚だった。どうしようもないほど空っぽの箱には、何も入っていないのだから。
助けて、私はどうしたら良いの。答えを求める心の中の叫びに、応えてくれる人はいない。
翌朝起きた時の気分は、ハッキリ言ってしまえばあんまり良いモノじゃなかった。黒い感情の波は押し寄せては引いて行く。みぞれのことが嫌いなわけじゃない。むしろ大事だと思っている。だからこそ、余計にこんな感情を抱いてしまう自分のことが嫌いだった。
みぞれの気持ちに気付かないで傷つけた二年前。そしてまた傷つけた去年の夏。今年も同じ過ちをするのだけは嫌だった。鏡の前に立って、無理矢理笑顔を作ってみる。ぎこちないと一瞬で分かる顔は、どう考えても可愛くなかった。
「希美」
朝ごはんを食べていたお父さんが私の名前を呼ぶ。その声音はきっと楽しい話題じゃないだろう。眉間に寄った皺からも、それはよく分かった。
「ちょっと座りなさい」
「……うん」
「進路希望調査、白紙で出したそうだな」
「……」
「なんでそんなことをしたんだ。先生も困ってらしたぞ」
「それは……まだ決まってないから」
「もう6月だ。修学旅行が終わったらもう夏! 夏は受験の天王山という言葉くらい、知ってるだろう。部活にかまけるのも良いが、部活で進学できるのか。もし出来たとしても、それはお前の行きたいところなのか? 妥協して受かればいいやというのは許さないぞ」
「……分かってるよ」
「分かってるなら、大学を調べるとか、そういう事をしなさい。毎日遅くまで練習三昧じゃ、伸びる成績も伸びないぞ。やりたいことが無いのはしょうがない。普通はそうだろう。だからこそ、やりたいことが出来た時に困らないように、しっかり基礎になる勉学をだな」
「分かってるから!」
私はちょっと大きい声で応える。何も決まってない私が悪いのは事実。白紙で出したのが悪いのも分かってる。進路をこの時期にハッキリ決めてないのも私が悪い。お父さんの言うことは全部正論だった。でも、正論で納得出来たらこんな風に悩んではいない。
「とにかく、自分の人生だ、しっかり決めなさい」
「……はい」
不貞腐れた顔のまま、私は席を立つ。
「ご飯は?」
「いらない!」
お母さんに八つ当たりみたいな返事をしながら、私は自分の部屋に戻った。クシャっと歪んだスカートの裾を直しながら、もう一回鏡を見る。ぎこちない笑顔は、もっとぎこちないモノになっていた。
足取りが重いまま、学校に向かう。朝練の時に彼の姿はない。近くにいた子に聞くと、先生に呼び出されていったのだという。少しだけ残念に思いながら、同時に今の暗い顔を見られなくて良かったような気もする。みぞれの隣に座って、練習を始めた。後輩たちが来るまでの少しだけの間、私たちはこうして音を奏でていた。どちらがそうしようと決めた訳でもなく、自然とそうしている。
「希美は、この曲好き?」
「うん、まぁ、割と」
「……そう」
「みぞれは、好きじゃない?」
「そんな事無い、と思うけど」
リズと青い鳥は私たちに似てるんじゃないかと、勝手に思っていた。リズがみぞれで、青い鳥は私。高音を出すフルートは鳥の役目を与えられているし、何となくそれになぞらえて考えていた。だとしたら私はいつか別れを告げられてしまうのだろう。長い旅の中、愛せると思った
「ハッピーエンドって、難しい」
「あぁ、凛音の言ってたやつ?」
私の言葉に、みぞれは小さく頷いた。この曲はハッピーエンドで終わらせるように演奏しなさい。そう彼は言っていた。実際、曲も第四楽章を中心にまとめられている。カットされている部分も一番少ない。物語を踏まえて、その続きとして描かれた部分に一番力を入れて表現することを、彼は求めていた。
「私は、青い鳥を逃がせないと思う。だから、何回考えてもハッピーエンドには、出来なかった」
「う~ん、そっか……」
「希美は、飛べるの?」
「私?」
「希美は、青い鳥だから。飛べるのかって、思って」
「どう、だろう。そうなってみないと分からないかも」
きっと飛べないんじゃないだろうか。そんな気がする。みっともなく泣きついて、嫌だと叫んでしまうんじゃないだろうか。でも、相手が心の底から望んでいたのなら、もしかしたら最後には飛び立ってしまうのかもしれない。
「新しい旅路なんて、分からない」
みぞれは楽譜を見ながら呟く。きっと凛音と私たちの間には、見えている景色に差があるんだと思う。だからこんな風に二人して悩んでいる。彼の見ている景色を見れる人は、もしかしたらこの部活にはいないのかもしれない。船出、旅立ち、ハッピーエンド。彼は編曲している時、熱に浮かされるようにしてそう呟いていた。きっとそれは大きなヒントのはず。なのにいまだに、答えは見つけられそうにない。
「おはよう」
「聞いたよー、先生に呼ばれたって。何したの? 何したの?」
「なんもしてません。ただの進路面談です」
「なーんだ」
「なーんだとはなんだよ。大事だぞ、進路は」
「どうせ白紙で出したとか言うオチでしょ」
自分を棚に上げて言う。きっと彼なら白紙で出したんじゃないかと言う思いを抱きながら。みぞれや私みたいに。もしかしたらそうあって欲しかったのかもしれない。そうだったら、平凡な私と同じような悩みを、特別な彼も抱いていたということになるから。
「まっさか。ちゃんと書きましたとも」
「えーほんとかなぁ」
「書いてます。未定って」
「それ白紙とあんまり変わんないじゃん!」
茶化しながらも思う。彼も自らの進む道は定まってるのだろうか。チクチクと心に棘が刺さる。私だけが取り残されてる気がした。この話題を終わらせたくて、彼の手元の封筒に目をやる。
「それ、何? ラブレターとか!?」
「だと面白いんだけどね……」
「……面白くないし」
面白くない。全然面白くない。勿論私以外の女の子にもラブレターを出す権利がある。そんなのは百も承知。けれど世の中に好きな男子が自分じゃない子からラブレターを貰ってるのを見て嬉しくなる人はほとんどいないだろう。彼の事を少しも理解してもいない癖に、抜け駆けされたくはなかった。私だって全部分かるわけでは無い。でも、分かっているつもりでいた。それが多分、傲慢だって知りながら。
どうやら紙はラブレターではないらしい。相手が外国人なのかもしれないけど。紙にはミミズみたいな筆記体の文字列が書かれている。
「なにこれ? 英語……じゃないよね」
「ドイツ語だね」
「読めるの?」
「読めなかったらどうやって四年間過ごしたのさ」
「いや、まぁそうなんだけど」
至極真っ当なツッコミだった。「ちゃんと読んだり話したりしてるの見たことなかったし……」と小声でつぶやく。バッチリ聞こえていたみたいで、ジト目で見られたが。
すらすらと読み上げられたその文面は私の思っていたものよりもずっと重大だった。彼の実力ならおかしくはない事だと思った。私の心をかき乱しているのはそこではない。彼に勝つなど不可能なのだから、そこは諦めている。きっとトランペットのエース、高坂さんや優子も言わずもがなだけれど勝てないだろう。
「スカウト、だよね」
「そういう事になる、と思う」
「ベルリン、行っちゃうの?」
「オーディションに受かって、行くと決めれば、おそらくは」
「そう、なんだ。――凄いじゃん! 胸張りなよ。こんなの滅多にないでしょ?」
祝福しなきゃ、笑って送らないと。そういう風に思いながら、食い気味に話す。
「そりゃ、まぁね。この年で実力でここに入ったこの二人がおかしいだけで、ここは中途半端な実力じゃ入れない。喉から手が出るほどこのオーディションの枠が欲しい人は、それこそ山ほどいる」
「どう、するの」
「分からん。まだ全然分かんない。もうちょっと考えてみるさ」
「だよね。そんな大事な事、サッとは決められないよね。ゆっくり考えたらいいと思うよ!」
「あ、ああ」
口をついて出てきたのは心中とは真逆の言葉たち。本当は行かないで、と言いたいけれど、恋人でも配偶者でも家族でもない人がそんな事をいう権利はない。それに、むしろそういう関係の人だったら応援するのが筋だとも思う。キュッと絞めつけられるような思いにとらわれてぎこちない笑顔を浮かべた。笑えているのかどうか、自信なんて全くなかったけど。
「希美先輩たちはもう進路とか決めてるんですか?」
朝の音楽室で、そう久美子ちゃんに問われた。
「私? 私はまだ迷ってるけど、音大に行こうかなと思ってる。まぁ三年からの対策ってめっちゃ遅いってのは分かってるんだけど」
メッチャ遅いどころではない。遅すぎるくらいだ。スタート出遅れどころか周回遅れの可能性さえある。眠そうな顔をしていた凛音が目を見開いてこちらを見てきた。寝耳に水な私の話に驚いているんだろう。私もしっかり決められたわけじゃなかった。売り言葉に買い言葉のようなところもあって、ハッキリ行きますとは言えないでいる。優柔不断な私の頭の奥で、お父さんの言葉が何度もリピートしていた。
「音大を受けるんですか」
高坂さんは私の話題に食いつく。彼女の話は凛音より時々聞いていた。彼にとっては手のかかるけれど可愛い後輩らしい。私が見た感じだと品行方正な感じの真面目な子って感じだけれど、私みたいなそこまで仲良くない人には見せない一面があるのだろう。多分、負けず嫌いなんじゃないだろうか。なんとなくそんな感じがする。
「まだ確定じゃないけどね」
逃げ道を用意したくて、私は話の矛先を自分から逸らした。この時期にこういう特殊な進路が確定してない方がおかしい。普通の大学ならもっと秋口くらいまで迷えるけれど、音大ではそうはいかないだろう。それは凛音も分かっているはずで、彼の顔は決して明るいモノでは無かった。
「みぞれも受けるよ。同じとこ」
「えっ、みぞれ先輩がですか?」
久美子ちゃんは驚いたように言う。
「どうしてまた、音大へ?」
「希美が受けるなら、私も」
そんな事を言われても困ってしまう。みぞれはどうなりたいんだろう。私に何をして欲しいんだろう。みぞれの人生を私は決めれられるほど偉くもないし、覚悟もない。誰かの人生を背負えるほど立派な人間じゃないと思うし、そんな責任なんか負えないに決まってる。だから、私は凛音を尊敬していた。指導者なんて、誰かの人生の一部を背負ってるのに等しいと思うから。
「どうしたの? みぞれのジョークじゃん」
違う。ジョークじゃない。そんなの分かっている。でも、こう言うしかなかったんだ。逆にどう答えるのが正解なのか、教えて欲しい。誰にもわかる訳も無いのだから。私はプロになりたいのか。みぞれはプロになりたいのか。そうじゃないなら何故音大へ行くのか。何もかも分からなかった。全部投げ出して、どっかに逃げてしまいたかった。
「そんな志望動機で受かるようなところでもないけれど」
剣呑な声がする。私の発言の時よりも空気は冷え込む。凛音の声は冷たく、その目は細くなっている。眉間には皺が寄っており、怒ってると言うより苛立っていると言う方が正しそうだった。彼の苛立ちの先が誰に向かっているのかは一瞬で分かった。きっと思い出を汚されたような気がしたのだろう。
「ごめんなさい」
みぞれは搾り出すような声で言う。
「いや、私も言い過ぎた。すまない」
気にしないでと言うように手を振っている。けれど彼の目は納得しきれていない様子だった。それくらいは分かる。こんなんでも中三から行動を共にすることが多かったんだ。こんなのも分からないようじゃ、やっていけないと思う。
「まぁ音大に進学するって言ってもプロ奏者一択の進路って訳でもないから。我らの顧問みたいな教職や楽器教室の先生、作曲者になることも出来る。文才があれば評論家や音楽系のライターにもなれる。音楽に携わる企業の就職も可能だ。軽く考えてはいけないと思うけど、重く考えすぎるのも良くない。それに、奏者を目指すにしてもあそこは悪いところじゃないよ。努力できる人間なら」
この言葉にハッとする。私は勝手に音大に行く=プロになると考えていた。視野が狭かったとしか言わざるを得ない。色んな道があるのに、調べてもいなかった。もしかしたら、私でも。そう思えるだけの希望をもたらしてくれる情報だった。
高坂さんは凛音にベルリンに行くべきだと熱弁している。その話を聞いている時の彼の顔を、しっかり彼女は見ているのだろうか。もし見ているのならばエゴの押し付けだし、見てないなら無神経だと思う。とは言え、仕方ないのかもしれない。高坂さんに彼と涼音ちゃんの関係性を推し量ることは出来ないだろう。どれくらい、彼が妹を大切にしているかも。
「ああ、そうだ希美」
明るい口調で話しかけられてちょっとビックリしながら反応する。急に雰囲気が変わったので少し怖かった。
「な、なに?」
「6月の最後の日曜日、ご予定は空いてます?」
「空いてるけど……」
「これ、行きません? 運よく練習は早めに終わる日だし」
渡されたのは前に彼の読んでいた手紙に同封されていたチケットだった。
「え、これって……こないだの?」
「そう。この前の。どう?」
「行っていいの? 一緒に」
「だからお誘い申し上げているのです」
「わ、分かった! 行く! 行きます!」
食い気味に言う。この機会を逃したら大事な何かを見つけられない気がした。プロの演奏を聴いたら、私がどうすべきか分かるような感覚に陥ったのだ。
「じゃあ、予定空けておいてね。多分多少はドレスコードに気を遣う必要があるけど……詳しい話はまた今度。修学旅行終わった辺りくらいでするから」
「う、うん」
宝物を扱うようにそっとチケットを財布にしまった。進路云々を抜きにしてもデートだろう。これは間違いなく。高校三年生としても一介の女の子としても大事なものだ。取り敢えず、この演奏会に合わせたドレスコードを考えないと。家に帰ったらお母さんに相談しようと決めて、冷たい現実から少し目をそらした。
朝の教室に、フルートの音が響いている。それを奏でているのが誰なのか、私はよく分かっていた。私が見ないといけないのはみぞれだけじゃない。と言うより、究極的な話をすれば、みぞれは別の楽器だ。つまり、競う相手では無いとも言える。音楽的な優劣はあっても、楽器が違えばハッキリ言ってどっちが上かはしっかりとは分かりにくい。だから私が考えないといけないのはみぞれのこともそうだけど、それ以上にフルートパートについてだった。
この音を、私はよく知っている。聞く度に焦燥が私の中に生まれていく。黒い感情は出てこないけれど、それ以上に焦りの感情が心の奥から湧き上がって来る。この感情と、そしてみぞれへの想いが、今私が素直に笑えないことが多い理由なのかもしれない。
「おっはよー」
「おはようございます」
演奏を止め、礼儀正しく彼女は頭を下げた。その演奏は上手くなっている。中学生のときよりずっと。これまで何回も聞いてきて、そして何回だって思った。今年はソロパート、危ないかもしれないと。よく考えてみれば、北宇治の吹部で全国金を獲ったのは南中の人だけ。中学と高校で差があるのは事実だけれど、そうは言っても北宇治の目指している場所は、涼音ちゃんたちの既に通った場所。全国でソロを吹いて金を獲っている彼女は、私がそう簡単には倒せない相手だった。
でも私にだってプライドもあるし、意地もある。先輩として、こんな存在でも憧れられている身として、簡単にソロを譲ってあげるわけにはいかない。正々堂々やった後に負けてしまったなら、その時は素直に……ちょっとくらいは泣いてしまうかもしれないけど、それでも彼女の前では素直に譲れるはずだ。だから練習を頑張らないといけない。みぞれとのソロを勝ち取るために。
とは言え、好きな人の妹で、大好きな後輩がライバルと言うのも中々堪える展開だった。
「どう? 自由曲のソロは」
「中々掴みにくいところがあります。私一人で好き勝手にやっていれば良いのなら、もっと楽なのですが。今回は相手がいるので、難しいですね。会話をするように、台詞のように演奏するのはそこまで得意では無いので」
「逆に言えば、表現面以外は完璧ってことでしょ? 流石だね」
「それは希美先輩も同じじゃないですか。私はまだまだです」
謙遜に聞こえる台詞でも、彼女に関して言えば謙遜ではない。昔からずっと練習にはストイックだった。もっともっと上を。そういう上昇志向を、彼女は持っている。ある意味で、兄妹はそっくりかもしれない。演奏において一切妥協しないという姿勢は、凛音から受け継いだモノなのだろう。涼音ちゃん本人にそれを言うとあんまり素直に肯定してくれないので黙っているけれど。
「希美先輩」
「うん」
練習しようと楽器を準備している私に、涼音ちゃんは姿勢を正して向き直る。
「……私は小学校六年生のときに、南中の定期演奏会で先輩の演奏を耳にして、そこからフルートを始めました。今回のオーディションが私にこの楽器と出会うきっかけをくださった先輩に挑める最後の機会と思っています。先輩が今年が最後なのは、よく知っています。ですが、私も負けたくはありません。中学校の時は実力差が圧倒的でした。私は追いかけるだけ。でも今なら追いつけそうと思っています。ですから、戦わせてください」
その真っ直ぐな瞳は私を見据えてくる。彼女が手を抜くことを願ってなどいないと信じている顔。実際願ってなどいないので、彼女の考えてることは正しい。でも馬鹿正直と言えば馬鹿正直だ。こんな事、言わないで黙ってれば良いのに。もしかしたら私との関係が悪くなるかもしれないと分かって、それでも言いたかったのだろう。だから、涼音ちゃんの手は小さく震えている。
でもどうなっても戦いたい、ソロを勝ち取りたいという強い情熱が感じられる。そっくりだなぁ、とその顔を見て思った。負けたくない、絶対に自分が一番上手い。そう信じ抜こうとしている顔は、兄妹揃ってそっくりだった。彼女の挑戦を拒む理由なんてない。むしろ、望むところだった。
「いいよ。でも私だって、絶対にソロを吹きたい。この大会で、今回の二曲で、絶対に。涼音ちゃんには悪いけど、一切手加減は出来ないから」
「ありがとうございます。そう言ってくださる先輩で良かった」
綺麗な笑顔で涼音ちゃんは笑う。彼女は私を慕ってくれている。でも、彼女が真剣に追い付こうと思っていた私は、黒い感情に心を汚し、そしてみぞれのことや進路のことばかり考えている。情けない、と自分で思った。今集中するべきは、他のことじゃなくて迫っているオーディションのこと。それが、私を慕ってくれている彼女に出来る、せめてものお礼なのだろう。
みぞれとの関係も、凛音との行く末も、こんな風にスッキリ解決したらどんなにいいだろうか。そう思わずにはいられない。
「絶対全国行きましょう。今度こそ、絶対に」
「そうだね。行こう。皆で」
涼音ちゃんと私が一緒の部活にいる期間は短い。中学の時の一年と、そして今年一年だけ。その機会をお互いに逃したくはなかった。叶わなかった過去の夢。苦い記憶で終わった、遠い夏の日。消えない傷や痛みを背負いながら、私たちはこうして前に進んできた。だから今度だって進めるはず。
自由曲の楽譜を取り出す。遠き空へ飛んでいく第四楽章。凛音が選んだ、この曲のメッセージ。それはこういう事なのかもしれない。痛みを背負いながら、それでも前を向いて進んでいけ。そういう風に、この曲は言っていて、凛音はそれを読みとったのかもしれない。
私のフルートを小さく握る。小学校から付き合っている私の相棒。銀色の綺麗な武器。オーディションは涼音ちゃんや調みたいなライバルとの戦いであり、そして何より自分との戦い。自分に負けるのだけは、絶対に嫌だ。そんな理由で負けた時、納得出来やしないだろう。
「お二人さん、なに青春漫画みたいなこと言ってんのよ」
「おはようございます」
「はい、おはよう」
教室のドアを呆れたような顔で開けた調は、涼音ちゃんの挨拶に応えた後教室に入って来る。
「言っとくけど、私だって狙ってるんだから。私以外にも、フルートの子は全員。油断してると、アンタたちでも足元掬っちゃうわよ」
「それは怖いですね。一層練習しなくては」
「だね」
「はぁ、これだから冗談の通じない音楽星人共は……。ま、私もやるしかないけどね」
やれやれ、と小さい声で言いながら、よっこいしょと言いつつ調は腰を下ろす。最近腰が痛いとおばあちゃんみたいなことを言っていた。パートリーダーは凛音からの練習計画を実行して、報告しないといけない。その上で、各自パートの子の指導も行い、人間関係の調整もしないといけないのだ。非常に忙しいと思う。調もこき使われているようで、中間管理職の悲哀と嘆いていた。
時間を経るごとに、ドンドンとパートのメンバーが登校してくる。練習はまだまだ佳境。完成には程遠い。一つの課題を終わらせたら、次の課題が出てくる。でも、それは楽しいことだった。フルートを吹いている間は、他のことは全部遠く海の彼方にあるような気分になって来る。これが現実逃避だとしても、私は楽しいのだ。私はフルートを愛している。去年は自分を納得させるために久美子ちゃんに言ったこの言葉も今は自信を持って言えるのだ。
楽譜を捲る。第三楽章の終わり、別れを告げるシーン。青い鳥にとって、リズとの別れは痛みを伴うモノだったはずだ。それでも鳥は飛び立った。遥かな大空のその先に。その空はきっと、こんな風に蒼かったのだろうか。教室の窓の外。すっかり夏に近くなった蒼天を見ながらそう思った。