あがた祭りが終わった後の部内ミーティングでは大勢の部員が一堂に会している。毎回思うが、この時期に全員集合すると音楽室の湿度も気温も上昇して少し暑い。シャツをパタパタとして空気を送りながら、汗を拭った。エアコンはゴーゴーとフル稼働しているけれど、効果が出そうな兆しはない。
「色々と予定があると思うので、まだ仮状態ですが夏休み期間の大まかなスケジュールを配っておきます。特に合宿日は他の予定を入れないように気を付けてください。三年生は模試やオープンキャンパスなどがあると思うので、休まないといけない時はとにかく早めにパートリーダーに報告するように」
随分と早い予定の公開だったけれど、これくらい早くしないと計画が組めないというのも事実。今年は何もかも早め早めに動き出していた。去年存在していた余計な時間が一切ないため、その分練習に時間を使うことが出来る。
「あと、今後の部活に関わる大事な話があります」
優子の手招きに従って、加部はスッと席から立ち上がり前へ向かう。周囲の部員に戸惑いの表情が浮かぶ。私はこれから行われる宣言の内容を全て知っている。彼女の決断は既に受け取った。それでも、気付けなかった自分への悔しさは持っているし、申し訳ないという感情も消えやしない。しっかりと彼女の方を直視することが出来ず、私は小さく目を逸らそうとした。
けれど、目を逸らしてはいけないと思い直して、前を見る。ここで目を逸らすことは、彼女の決断への冒涜だ。それだけはしてはいけない。
「私、加部友恵は吹奏楽部の奏者を辞めることになりました! オーディションにも参加しません」
音楽室の中がざわめきに満ちる。一年生の中には悲観した表情を見せる人も多い。それは主に、熱心な指導を受けていた初心者の子たちだった。同じような宣言は去年、斎藤先輩がしている。しかし、アレはオーディションが終わった後、発表の前に行われたため、直後の高坂さんと香織先輩の一件もあってそこまで大きな動揺にはならなかった。
「あー、ストップストップ。そんな大騒ぎしないで」
その気の抜けた表情は、場の重苦しい空気とは不釣り合いだった。それが虚勢に近いモノであることも、同時に本心に近いモノであることも、私はよく知っている。矛盾しているようで、どちらも彼女だ。どちらも、本当の心だった。
「今後、私は部活を辞めるわけでは無く、マネージャーとして皆と行動することになりました。楽器は吹かないけど、その他の所で皆をサポートしていこうと思っています。なので、これから困ることがあったら私に何でも言ってください。部活のこと、練習のこと、人間関係、恋愛相談は……別料金で」
そのちょっととぼけた言葉に、笑いは出ない。
「とにかく、これは前向きな決定なので。それでは、マネージャー加部友恵をよろしくお願いします!」
勢いよく頭を下げた彼女に、真っ先に拍手を送ったのは優子だった。続くように私も手を叩く。新しい彼女の門出。それが本人には不本意であったとしても、そうすると決めたのは彼女だ。その背中を押すことが、不肖の師匠として出来る事なのだろう。一番弟子がこれから部活のために力を尽くしてくれることは、嬉しくもあり悲しくもあった。
それからの連絡事項を、一年生の何人かは心ここにあらずと言う具合で聞いていた。そしてそれは、仲間として共にここまで職務を行ってきた黄前さんも。加部は彼女にすら言っていなかったようだ。それはきっと、気遣いであり遠慮であり、申し訳なさだったのかもしれない。
トランペットパートの教室はお通夜のような空気だった。シン、と静まり返った教室の中で、誰も言葉を発しない。発せるような状態じゃなかった。
「なぁ、お前は知ってたのか、加部のこと」
「聞いたのは、ついこの前だ。顎関節症、と言う話を聞いた」
「そうか……」
滝野は腕を組みながら、天井を見上げる。共に三年間を駆け抜けた仲間のこの結末に、彼も深く思うところがあるのは明白だった。吉沢さんはずっと下を向いたままだし、高坂さんも目を伏せている。一年生四人も沈痛な面持ちで、特に滝野さんは泣きそうになっていた。彼らにとっては優しい先輩であり、明るく楽しく見守ってくれる存在だった。だからこそ、余計に重苦しくなるのだろう。優子はまだいない。仕事が終わってないのだ。忙しくすることで、敢えて彼女も抱いているであろうこの苦しい感情から逃れようとしているようにも思えた。
「よっし」
滝野は小さく呟く。
「悲しむ時間は終わりにしようぜ」
「何言って……そんな事、出来るわけ無いよ!」
自分の兄の突然の言葉に、滝野さんは大きな声で反論する。その目には光るものが浮かんでいた。
「バカ野郎。俺だって悲しいし、悔しい。パートリーダーなのに、アイツの不調一つ気付けなかった。きっと香織先輩ならって思ってる。アイツと三年間やって来たのは、俺や吉川の方なんだぞ。悔しくないわけないだろ。でも、アイツが自分で決めたんだ。自分でそうするって決めたんだろ。なら、俺たちがしてやるのはめそめそしてることじゃなくて、応援してやる事じゃないのか」
諭すように、自分に言い聞かせるように、彼は言う。気付けなかったという部分では、全員が等しく背負っている十字架だろう。例え彼女が隠していたとしても、それに気付くべきだった。理想論かもしれないけれど、仲間ならそうするべきだった。
「何より、一番悔しいのはアイツだろ。な?」
「うぅ……」
滝野さんは座ったまま涙を流している。
「俺たちはアイツを全国に連れていく。それが俺たちに出来る最大限の行動だと思う」
「そうですね」
滝野の言葉に、高坂さんは小さい声で同意した。
「私たちに出来るのは、結局そう言うことだと思います」
「だろ? ほら、あのおっかない高坂もそう言ってるんだ。お前らも気張って練習するぞ。トランペットパートの誇りを見せてやらないとな」
そう言いながら、努めて明るい笑顔で彼は言う。それに触発されて、少しずつ教室内の空気は改善されて来た。各々が楽譜を取り出し、楽器を構えて、与えられた課題をやり始める。私はその景色を、目を細めながら見ていた。彼らからは、今までよりも熱い熱を感じる。自分たちの仲間を上に連れていく。そういう確かな気概が感じられた。
香織先輩、と心の中で呼びかける。あなたの後輩は、しっかりパートリーダーやってますよ。あなたに負けないくらい、しっかりと。この言葉に、あの人はどう答えるだろうか。きっと笑ってくれるに違いない。受け継がれているモノは、確かにあった。彼の心に、そして、この場所に。
雨が降っている。シトシトとしているが、それでも雨量は結構なものだ。進路に惑う我々三年生の事など素知らぬように時間は平等に流れ、オーディションはやって来る。今日に至るまでにも色々あったものだ。新入生が入って、加部が引退し、修学旅行に行って。目まぐるしく日々は過ぎ去って、あっという間に今になってしまった。きっと、卒業するときも振り返ればあっという間だったと思うことだろう。
雨の音をかき消すように奏でられる演奏を聴きながらシャーペンを回す。まずは木管から。大方の予想通りの演奏技術と言って良かった。幸いなことに妹も無事Aメンバー入り出来るくらいの演奏をしている。それも、他の人から納得してもらえるくらいの。
「桜地さんは、いつからフルートをやっていましたか」
「小学校六年生からですので、今年で五年目になります」
「なるほど。南中では簡易的な指導のようなこともしていたようですが」
「先生のご指導を賜る前に、ある程度仕上げておいた方がより効率的な練習が行えましたので、不肖の身ではありますが指揮を行っていました」
嘘吐けお前と思ったが、黙っておく。出来ないと顧問がキレて来て面倒だから仕方なくやってたの間違いだろうと内心で呆れたが、まるっきり嘘でもないのだろう。とは言え、本心かと言うとそうでもないはずだ。取り繕うのが上手いのは、ウチの家系なのかもしれない。嫌な系譜だった。
そしてそんな一幕を挟みつつ木管のオーディションが終われば次は金管だ。まずはトランペット。次にサックス、ホルン、トロンボーン、チューバ、そしてユーフォニアムの順だ。今年は多分、55人のフルメンバーで出ることになるんじゃないだろうか。そう思わせるくらいには、レベルが高い。特に上級生は。私の所属しているトランペットでは、恐らく去年とメンバーは変わらない。そこに小日向さんが入るくらいだろうか。存在しているソロは高坂さんと吉沢さんで競っていた。ここは後で先生と話すことになるだろう。
おおよそ上級生は全員合格できる勢いでオーディションは進んでいく。パーカッションの前にやって来たのは金管楽器最後のパートにして、一番の問題点。ユーフォニアムだった。学年順に入って来るので当然三年生の夏紀から。
オーディションの課題として指定したのは三ヵ所。それ以外にも、指導員が必要と判断すればランダムで場所を指定する。既に通し練習は何回も何回も行っているため、吹けない箇所など無いはずだ。全体的なレベルは間違いなく向上している。冬に予定を詰め込んだ成果が間違いなく出ていた。その分合格点は厳しくなっている。
夏紀の演奏はまずまずだった。特に苦戦していた印象を持っていたパートはやや走り気味であったものの、これと言った破綻はない。明らかに去年よりも上達していた。
「中川さん、次、ここをお願いします」
課題箇所が終わった後に滝先生が指定したのは自由曲の裏メロ。高低差の激しい箇所だ。ここをクリアできるかで、恐らく彼女の合否は分かれるだろう。我々が無言のまま、演奏は行われる。外した、と言うには少し弱いかもしれないが、一瞬不安定になった箇所がある。先生がメモを取る。同時に私も手を動かした。
「ありがとうございました」
そう言って夏紀が退出すると、その後は二年生の黄前さんである。彼女は現在のユーフォニアム奏者――と言っても去年に引き続き三人しかいないが――では一番上手い。これはもうどう取り繕っても変わらない真実だった。演奏面で特筆すべきことは何もなく、安定した技量であったが、一つ言うならば。
「随分と落ち着いていますね」
言わんとしたことを代わりに滝先生が言ってくれた。去年は先輩に対する悩みから迷いのある態度と音色だったが、今年は幾分か真っすぐな音になっている。顔にも緊張の色は薄くしか見られない。松本先生も続く。
「本番に強くなったようだな」
「そ、そうですかね」
「黄前さんは一年生の指導係でしたね。どうでした? 基礎合奏で前に立つのは」
「あ、最初はみんなの前に立って緊張したんですけど、ようやく少し慣れてきました」
「指揮台と言うのは面白いでしょう。誰が何をしているのか、すぐに分かりますし。あれだけ他人から注目を集める場所と言うのは他にあまりないような気がします」
「部員も大分増えましたしね」
私の相槌に先生は軽く頷く。一挙手一投足を見逃すまいと穴が開くような目線を向けてくる感覚は新鮮だろう。一度経験すれば大きな財産になるはずだ。
「案外黄前さんには向いているのかもしれませんね」
「ですねぇ。教職とか目指してみませんか? 多分結構適正あると思いますけど」
「考えてみます……」
ちょっと将来の話をするには速いかもしれないが、目指す道は定まってる方が楽だ。努力もしやすいし、目標も、足りないものも容易にわかる。自分とはまるで逆に。彼女の演奏はそれから何事もなく進んだ。途中先生の指示でオーディションの範囲に指定してないところの演奏をしてもらったがしっかり対策はしてきたようで、特にミスも無い。田中先輩の領域にはまだ至っていないが、研鑽を積めばいずれ同程度の演奏は出来るようになるだろう。
彼女と私の接点はそんなに多くはない。広義では先輩後輩にあたるが、役職の都合で関りの多い黄前さんや個人的交友関係にある夏紀とは異なりそう関係性の深い相手では無かった。交友関係が広く、影響力の高い人物として幹部からは捉えられている。
妙に青白い顔が目についた。体調でも悪いのかと思ったが、それを問う前にオーディションは始まる。妙にキレの悪い音がする。練習時とは打って変わってやけに慎重で、まるで何かを窺っているような雰囲気がする。この違和感がぬぐえなかった。そして一応調和していた音が外れる。ミスだ。しかし、ここでミスするのはおかしい。少なくとも私の見ている練習中はしっかり出来ていた。引き合いに出して悪いが、ここは夏紀ですら間違えないだろう。ではなぜ。高速で頭は回る。続いてもう一音外れた。
「先生、一度中断を」
先生にそう断り、一度演奏を停止させる。怪訝そうな、と言うよりまるで悪さを見つかった子供のような顔を見ながら回答を探り……そして導いた。おそらく原因は夏紀。そしてその悩みは去年の黄前さんと似ている。一つ決定的に違うのは黄前さんはそれでも手を抜かずやり通したが、おそらく彼女はわざと。何とも詰めの甘い行為だ。爆弾は爆発した。それも、割と早く。
「久石さん」
「……はい」
「あまりこういう事は言いたくないのですが」
私は大きく息を吐き出して、言った。このまま進めることもできる。だがきっとそれは彼女のためにならないだろう。来年、ユーフォニアム奏者が入って来るかも分からない今、彼女は大事な戦力だ。それがこんな状態では上にはいけない。上手く誘導すれば、黄前さんが何とかしてくれるだろう。その状況に至るまでのお膳立てはしたい。出来れば、夏紀が彼女に恩を売る形で。そのために悪役にすべきなのは、私だった。
「君は、私たちを馬鹿にしてるのですか?」
「……」
「今の箇所、わざと失敗しましたね」
「……」
「初心者でも吹けそうな箇所ですよ」
「その、緊張」
「緊張してて、などと言う陳腐な言い訳を使わないでくださいね。そんなので騙されるほど、私は愚かではありません。君の演奏を何回も聞いています。低音パートでも何回も指導しました。そこは毎回出来ていましたね。外すにしてもわざとらしすぎます。どういう理由かは分かりませんが、わざと手を抜いて、それに我々が気付かないとでも思いましたか? 特に部員一人一人の演奏に関して把握している私が。だとしたら舐められたものです。こんなにコケにされたのは、久しぶりですよ」
淡々と言葉を進める。先生も松本先生も、彼女の異常には気付いていた。しかし止めなかったのは、それが彼女の選択だと思ったからだろう。だが生憎と、私はそんな状態で放置するわけにもいかない。それに、私が頭に来ているのは結構事実だった。つまり私は、彼女がわざと手を抜いたことすら見抜けないポンコツだと思われていたということになる。こんな侮辱を受けたのは久しぶりだ。去年ですらこんなにムカついたことは無い。
「私はプロとして、信念を持ってここにいます。気付けないようなら、とっくに廃業してますよ。君にどんな事情があるのかは知りませんが、そのような態度は他の奏者に失礼です。皆全身全霊で挑んでいるのに……。そのような態度の人に、オーディションを受ける資格は無いと私は考えます。君の態度は、オーディションと言う場と、そしてそれに真剣に挑んでいる多くを馬鹿にする行いです」
彼女の顔は真っ青で、血の気などどこか遠くへ去ってしまったような顔になっている。先生は敢えて口を挟まない。思うところがあるのは事実なのだろう。それに、この場において私は指導者として存在している。生徒じゃない。部員を注意する権利だって持っているはずなのだ。
「そのような態度なら結構です。今すぐ退出してください」
その時ガラガラと音楽室のドアが開く。夏紀は怒れる足をしながら、ずかずかと中に入って来た。後ろにいる黄前さんはちょっとオロオロしている。
「久石さんは体調が悪いみたいなのでオーディションは後にしてもらってもいいですか」
「何勝手なこと言ってるんですか。私、体調なんて悪くないです」
「彼女は体調不良ではなく、この場でわざと……」
「体調不良です。朝からちょっと顔色が悪くって。無理しないで帰った方が良いと言ったんですが、どうしてもという風に言われてしまいました。ですが、やはり無理にでも帰らせるべきだったと思ってます」
「……なるほど」
夏紀は建前として無理にでも体調不良で押し通すつもりのようだ。上手く話を運んでくれている。
「私は副部長として久石さんのオーディションを
先生は無言を保っている。そしてチラリと腕時計を見た後、口を開いた。
「私としてはそれでも構わないと思います。二人はどうでしょうか」
「私は先生の判断に従います」
松本先生は、滝先生の路線に同意した。
「桜地君は、どうでしょう」
「パートで少し話し合って来て、その後の態度で考えたいです。副部長の意見は一理ありますが、私はどうもそれが建前に思えてならないので。現状、私は彼女に手を抜いていることも見抜けないポンコツ指導者だと思われていると、そういう理解をしています」
「では、そう言うことで。久石さんの続きを行うか否かはパーカッションの後に決定します。それまでには戻って来るように」
「ありがとうございます。何かあれば私が責任を持ちます」
「夏紀先輩に何の責任が取れるって言うんですか!」
夏紀は深く頭を下げる。黄前さんも続けて頭を下げた。嫌がる久石さんの手首を掴んで、夏紀は強引に外に連れて行こうとする。
「久石さん。君がどういう思いでこういう行動に出たのか。それを私は知らない。教えてもらってないので。ただし、もし本当に嫌ならそれはそれで構わない。オーディションは義務ではなく権利だ。心の底から受けたくない、大会に出たくないなら変な小細工は結構。ただちに辞退しなさい。以上」
「失礼しました」
「しました……」
夏紀と黄前さんに連行されていく久石さんを見送ることなく、私はぴしゃりとドアを閉めた。そしてため息を吐きながら席に戻る。
「あー、嫌われました」
「些か、露悪的な物言いでしたね」
「分かってますよ」
「あなたがあのように怒りを見せるのは珍しかったモノで、私も少し驚いてしまいました」
「あぁ、あれは半分演技ですよ。半分はホントに怒ってますけど。彼女が同じ大学にいたら、側にある湖に叩き落としてるくらいには」
きっと、彼女にも抱えているモノがあって、それが故にこんな行動をしたのだろう。だとしても、彼女の過去は彼女の無礼を相殺する理由にはならない。私や先生を馬鹿にしているのならば別に構わない。夏紀に失礼でも、それは百歩譲って良いとしよう。けれど彼女のやった行いは、多くの部員が真剣に、魂かけて挑んでいるこのオーディションを貶めるような行いだ。出たくても出れなかった人もいる。彼女の行為は他の部員にも、そして去年涙を呑んだ人たちにも失礼な行いである。それだけは断じて許すわけにはいかなかった。誰にだって許容範囲がある。今回の件は、私のそれを超えていた。
期待していたからこそ裏切られたという思いも無いわけでは無い。とは言え、それは私個人の問題。それは今回の論点では無かった。
「先生方、ここは私に預からせてもらっても良いですか。この件はしっかり顛末を誘導しないと、禍根を残すと思うので」
人望ある副部長に無礼を働き、先生や私にも無礼を働きというこの行いがもし外に漏れたら、彼女が不利になる。もし仮にもう一回オーディションを行うとしても、それは特別扱いに他ならない。同じく外に漏れたら危険だ。だからこそ、しっかり〆ないといけないと思っている。先生方にも私の言いたいことは伝わったようで、頷いてくれた。
そこから三十分くらい経った後にパーカッションのオーディションが終わり、久石さんが戻って来た。濡れネズミになっていたので、きっと外で揉めに揉めたのだろう。黄前さんや夏紀まで同じような状態になっていた。何はともあれ、戻ってきたという事は説得には成功したと見ていいはずだ。だいぶマシな顔になっている。
喜ばしいことだけれど、まだ足りない。ヒールは最後までヒール役を貫かないといけないだろう。
「それで、戻ってきたわけですが、どういうつもりですか。受けたくないなら結構ですよ、受けなくても。先生方に頼んでも無駄ですからね。この件は私が引き取っています」
敢えて冷たい声で言い放つ私に、夏紀は深く頭を下げる。使っている言葉が敬語なのも、今は友人としてではなく指導する側とされる側と言う関係性であることを強調しているようだった。
「お願いします、奏のオーディションをもう一回やってください!」
「それは特別扱いしろと言うことですか? 他の人は一回限りのチャンスでやっています。体調不良だとしても事前に申し出れば別日を設けました。彼女だけ特別扱いしろというわけにはいきませんね。それは平等の原則に反します」
「どうしても、お願いします。もししてくださらないのなら、私はオーディションを辞退します」
「私からもお願いします」
夏紀に続いて黄前さんも頭を下げる。
「ユーフォニアムがいなくても大会には出れますけど、先輩の抱いていた理想の音とは遠くなってしまいませんか?」
「黄前さん、君は私を脅そうと?」
「いいえ、取引です」
顔を上げた黄前さんは、真っ直ぐ私を見据えてくる。彼女の随分と言うようになった。しかし、そういう態度は好ましいと思う。
「先輩は吹奏楽部のためになることをする。そうですよね? 私と夏紀先輩がどっちもオーディションを辞退することは部のためにならないと思います。皆もきっと混乱しますよ」
「言うようになりましたね」
「ありがとうございます」
「褒めてませんよ。それで……久石さん。君はどうしたいですか。君の言葉を聞いていません」
「お願い、します」
彼女はびしょびしょの頭を深く下げた。
「もう一回だけ、チャンスをください」
「……良いでしょう。分かりました。この件の責任は私が持ちます。私は、責任を負う者の一人としてここに座っていますから」
先生はその言葉に小さく目を伏せた。私に責任を負わせていることを認識するたびに、彼は申し訳なさそうな顔をする。そんな顔をする必要は無いと思っているのだが、彼はそう思ってはいないのだろう。そんな風になるなら、最初から頼まなければ良かったのに、とたまに思ってしまう。
「では、オーディションを始めます。先生方も、それでよろしいでしょうか」
「良いでしょう」
「あぁ、構わない」
「それでは久石さんと他二人。まずは身体を拭いてきなさい。希美と優子に頼んでタオルを借りておくように。今連絡しました。体育が中止になったので、恐らく余っているでしょう。それが終わってからオーディションです」
それからしばらくして、戻ってきた久石さんは静かに音楽室に入って来る。
「はい、これをまず飲みなさい」
「ありがとう、ございます」
投げ渡したのは校内の自販機でギリギリ売っていた温かい飲み物。身体を拭けても中が冷えてると風邪を引いてしまうかもしれない。それが他人に移ってしまっては大変だ。これでそれが防げるなら安いものだと思う。
静かに飲み終わった後、彼女は遠慮がちに席に着いた。演奏もしっかりとミスなく出来ている。やはりさっきのは意図的なミスだった。これが本来の彼女の実力だろう。私の把握しているモノと近しい。内心で小さく鼻を鳴らすけれど、それは表には出さない。指導も審査も、あくまでも公平に。それを欠いてしまってはいけない。今回のは黄前さんと夏紀との交渉の末に私が折れたことにすればいい。そうすれば少なくとも建前上はつじつまが合う。
こうすれば少なくとも、部員を悪者にしない結末が出来上がる。万が一問題になった場合は夏紀の建前通り本当に体調不良だったことにして、私が邪推の末に彼女を追い出したことにすれば問題ない。守らないといけないのは部員。そして、久石さんも部員だ。私が内心どう思っていたとしても、その関係性が変わらない以上、こちらは身を切ってでも彼女を保護しないといけない。それが私の職責だと思っている。
演奏が終わった後、彼女は頭を下げた。その姿に、もう大丈夫だろうと安堵を覚える。取り敢えずどういう経路をたどったにしろ、この一件が蒸し返されることは無いはずだ。後で夏紀には部長に報告するように言っておけば万事解決だろう。
「久石さん」
「はい」
「体調は良くなりましたか」
「はい、大丈夫です」
「そうですか。私は吹奏楽部のためになる事をします。それは去年から変わっていません。故に、君が部員である限り、あらゆる理不尽から遠ざけるために努力します。それが吹奏楽部のためになることであると、私は考えています。努力は報われなくてはいけません。結果を伴っているのなら、なおのこと。ねぇ、先生」
「えぇ。私たちは、そのために存在しています」
「……ありがとうございます。それと、申し訳ありませんでした」
「それは君の先輩に言うこと。私は、君が自分と戦える奏者であると信じていますよ」
久石さんは音楽室を去っていく。これで全員分のオーディションは終了した。後は誰をメンバーとするかを決定するだけ。先生は静かにメモを終え、名簿に〇をつけ始める。そうやって先生の提示したメンバーを見て、何か問題があれば私や松本先生が指摘する。そういうオーディション形式が去年と変わらず行われていた。最終的に指揮をするのは先生なので、そのイメージに合った編成を考えるのは先生がやった方が効率がいい。
「出来ました。今年の一覧は今のところこれです」
クラリネットは島りえ、植田日和子、高野久恵、高久ちえり、松崎洋子、井村たく、芦田聖子、北山タイル、坂崎彩子、端田麻椰、平沼詩織の11名。
フルートは井上調、傘木希美、小田芽衣子(ピッコロ担当)、高橋沙里、中野蕾実、桜地涼音の6名。
サックスは平尾澄子、森田しのぶ、瀧川ちかお、牧誓、鮎川京子、遠藤正、鈴木靖也、松本きりの8名。
トランペットは吉川優子、滝野純一、高坂麗奈、吉沢秋子、小日向夢の5名。
ホルンは岸部海松、瞳ララ、森本美千代、屋敷さなえの4名。
トロンボーンは岩田慧菜、赤松麻紀、塚本秀一、福井さやかの4名。
ダブルリードは鎧塚みぞれ、兜谷える、籠手山駿河の3名。
低音は中川夏紀、黄前久美子、久石奏、後藤卓也、長瀬梨子、鈴木美玲、川島緑輝、月永求の8名。
最後にパーカッションは大野美代子、堺万紗子、井上順菜、東浦心子、前田蒼太、前田颯介の6名。この計55名が今回選出されたメンバーだった。
三年生をフル動員して、二年生もほぼ全員出ている。一年生が多いのはクラリネットやサックスのように上級生の少ないパートが多かった。低音もどちらかと言えばこれに該当するだろう。南中出身者はそれなりの数が合格を勝ち取っているので、精鋭引き連れていくから席を空けておけと言った妹の言葉は間違ってなかったことになる。文字通りの精鋭を引っ張ってくれたようだ。
「問題はありますか?」
「私はありません」
「こちらも、これでよろしいと思います」
松本先生も私も異論はない。どちらの曲も木管が重要になって来るので、重点的に構築されている。逆にホルンやトロンボーンは少数精鋭という感じだった。なんだかんだウチのホルンは去年から腕がいい。
「では、次にソロパートから決めていきましょう。オーボエは一人なので確定として、残りの楽器ですが……」
先生は自分のメモに視線を移す。肝心なフルートのソロパートを誰にするのか。それが問題だった。
「今年の自由曲の要はフルートとオーボエです。その片翼を担うわけですから、非常に重要なのですが……難しいですね。傘木さんも桜地さんも、技術的には非常に素晴らしい。どちらでもいい演奏になるでしょう。故に、後は曲の理解度、つまりはどちらがより目指している音を出せるか。それを考えるべきだと私は思っています」
先生はそう言って区切った後、少しの間逡巡する。そこには小さな迷いのようなモノが見受けられた。
「別れの痛みを乗り越えて、最終的にハッピーエンドに向かう。そのコンセプトを考えた時、私は傘木さんにするべきだと考えました。どうでしょうか」
「桜地の演奏でも、良いとは思いましたが」
松本先生がそう返す。恐らく本心からそう思っているのだろう。ここで余計な気遣いをするような先生ではない。
「私は滝先生に同意します。松本先生の仰るように、確かにアレでも良い演奏にはなると思いますが……物語がテーマの曲を、彼女は少々不得手としていますので」
それは去年のキリストの受難から既に分かっていた。圧倒的技量で誤魔化していたけれど、あの子は元々物語系の曲がそこまで得意ではない。感情を乗せるのがイマイチなのだ。それでも他の比べれば上手いので、聞いている分にはそこまで違和感はない。ただ、みぞれの感情に満ち溢れた演奏と比較すると固すぎる。その点、希美の方が感情を乗せられる。それに、同じソロコン金賞同士であるからして、希美の技量も問題ない。贔屓目抜きに見ても、僅かに希美の方が上であるように思う。これは経験のなせる技かもしれない。
「なるほど。そういう事ならば、傘木で構わないでしょう」
松本先生は納得したように頷く。家族だろうと一切妥協はしない。ここで妥協する選択肢など、私には存在しない。背負っているモノは、いつの間にか大きくなってしまった。多くの想いを受けて、私たちはメンバーを選んでいる。この重荷には、いつまで経っても慣れることが出来そうになかった。
お気に入り登録700人ありがとうございます。