オーディションの前に行われる修学旅行。三年生の、受験のことをそこまで意識しないで済む最後のビックイベント。その真っ只中に今私たちはいた。朝早く荷物を持って京都駅に集合して、その後新幹線に乗って東京に移動する。修学旅行の目的は国会議事堂に行くこと。と言うのが建前で、実際に大真面目にそれを意識している人は多分いない。
現に、メインイベントのはずの国会議事堂は半日も経たずに終了して、一番時間が割かれているのは今日、三日目に存在している東京ディズニーランドだった。クラスごとにランドかシーかに別れていくこのイベントこそが修学旅行最大の見せ場になっている。関西にはユニバもあるけれど、ディズニーはあんまり行ったことが無い人も多い。何なら私も初めてだった。
「ねぇ、何か面白い話してよ」
「そんな唐突な」
パンフレットと荷物を持ってくれている凛音は、夏紀の言葉にちょっと困ったような顔をした。いつもの面子の内、優子だけクラスがシー行きになったため別行動になっている。夏紀とみぞれの7組は私たちの同じランド組なので、一緒に行動している。パス取りに行ってくれたり、長い買い物を待っててくれたり、割とこき使ってしまってる気がする。本人は別に全然構わないという感じなので、ついつい甘えてしまっていた。
「列に並び始めた場所にあったでっかいトラクターが本物とか? 後はビッグサンダーマウンテンは同名のアトラクションが世界にもあるけど、一番長くてスピード出るのがパリにあるとか」
「それ面白い話っていうか豆知識じゃない?」
「それはそう」
ディズニーランド名物の長い行列も、普段よりはマシみたいだ。六月の平日ならこんなものかもしれない。それでもかなり並んでいるので、流石日本一人気の遊園地だと思う。あちらこちらで流れてくる音楽は、吹奏楽部ならお馴染みのモノだ。
ホーンテッドマンションでビックリして隣に座っていた彼の腕にしがみついてしまったり、みぞれがスペースマウンテンもう一回と言うので二回乗って疲れたり、夏紀の頭にカチューシャを乗っけてみたり、スプラッシュマウンテンで濡れたりと結構満喫している。混んではいるけれど、上手くすれば意外とめぼしいものは乗れるんだということを知った。
行列は長いけれど、それでも話していると意外に時間は過ぎ去ってしまう。もう大分暗くなり始めていた。
「あぁ、これウチの協賛か……」
「何が?」
「ほら、あれ。桜地重工って書いてあるでしょ。ディズニーは大企業のスポンサーがいるんだけど、それだね。ウチの系列。全然知らなかったけど、スポンサーしてたんだ」
「へぇー」
自分の家のことだけど、あんまり興味無さそうに彼は言っている。彼も、妹の涼音ちゃんもあんまり自分の家のことが好きじゃないのはよく知っていた。それでも時々教えてくれることもある。それはどうしてなのか、私にはまだよく分からない。でも、そういう事を話してくれるくらいには信頼されているのかもしれない。そうだったらいいなぁと、ぼんやり考えていた。
「ほら、もうすぐ始まるよ」
彼が指で示した先から、綺麗な光が見えてくる。もうすっかり夜になった園内は、それでも多くの人であふれている。私たちがご飯を買いに行っている間、彼は長い間場所取りをしていてくれた。おかげで、パレードはいい位置で見れる。
夏紀はカチューシャを何だかんだしたままだ。優子に写真を送ったら爆笑していたけれど、その優子も大分満喫してるようで、友達から送られて来た写真では満面の笑みで写っている。みぞれはカチューシャに加えてポップコーンの入れ物を首から下げて、凛音がふざけて買ってきたミッキー型のサングラスをご丁寧にかけているせいで凄い面白い人みたいになっていた。多分、見た目だけだと大道芸人に見える。
軽快な音楽に合わせて、光の行進が行われている。目の前にある景色は、確かに夢のようで、これを目当てに来る人がいると言うのも納得できる。もしかしたら、ここで一番綺麗かもしれない。みぞれはキラキラした目でパレードを見つめている。夏紀も目を細めて、見ていた。彼はちょっと疲れた顔だけれど、でも久々に息抜きが出来てホッとしているように見える。彼の隣に立ってみた。人が多いので、私たちの間の距離も狭くなってしまう。
不意に、手が触れてしまった。ドクンと心臓の撥ねる音がする。一瞬音も輝きも遠くなって、心臓は爆発しそうデ。私はそっと彼を見上げる。どうしたの? と小さい声で問われてしまって、何でも無いと返して視線を戻す。鳴り響く鼓動が、パレードの曲にも負けないくらい私の耳には響いていた。好きだよ、と声には出さず、小さく口を動かす。こんな風にしか出来ない自分が、ちょっと悔しかった。
「はぁぁ……」
疲れたなぁと思いながらベッドに倒れ込む。お風呂は済ませて、髪も乾かした。今日一日中歩きまわって疲れたからすぐに寝たかったけど、髪は乾かさないと明日に響く。なるべく綺麗な姿でいたいのが本音。妥協するわけにはいかない。近いところのホテルに泊まっているので、夜遅くの閉園ギリギリまでいられるのは先生たちのおかげだった。
ベッドに座り直して、携帯で写真を眺める。四人で撮ったモノ、二人で撮ったモノ、一人を写したモノ、途中で会った別の人と撮ったモノ。沢山ある。引率に来ていた滝先生をとっ捕まえて撮った写真もある。変な格好させた先生を撮った凛音は、高坂さんにそれを送り付けていた。その中でも一番よさげなのは、一番最後に撮ったライトアップされてるシンデレラ城前の写真。私と、彼のツーショット自撮り。笑顔でピースしている二人の後ろに、大きな白亜の城が輝いている。夢の国の象徴は、私にとっては間違いなく今日と言う夢みたいな日の象徴でもあった。
「それ、桜地君?」
「うわぁぁ!」
いきなり後ろから声を掛けられて悲鳴を挙げてしまった。同じ部屋の子が面白そうな目で私の携帯を見つめている。
「へぁ、あの、これはその……」
「なんだぁ、恋バナしようと思ってたのにぃ。希美ちゃんは桜地君だもんねぇ。分かってたけどつまんないなぁ」
「ご、ごめんね?」
よく分からない勢いで謝ってしまったけど、よくよく考えたら何で謝ってるんだろう。と言うより、聞き捨てならない言葉が混じっていた。
「分かってたって、どういう……?」
「え、だって希美ちゃんは桜地君のこと好きでしょ?」
「……??」
「バレて無いと思ってたの!?」
割と大きめな声で驚かせてしまう。お風呂から出てきたもう一人いる同じ部屋の子が迷惑そうな顔で出てきた。
「小百合うるさぁい」
「いや、茉奈聞いてよ。希美ちゃん桜地君の事好きなのバレてないって思ってたらしいんだけど」
「えぇ? 冗談でしょ、ねぇ?」
「……」
「うっそマジで? 女子は半分くらいバレてるよ。男子は知らないと思うけど」
頑張って隠していたつもりだったのに、全部無駄だったみたいでちょっとガックリきてしまった。
「いやぁ、バレてないは無理あるでしょ。明らかに距離感近いもん。部活の話してる時とか、楽譜見ながらほとんどゼロ距離じゃん。あれで気付かないなら女子止めないと」
「そんなに?」
「て言うか、元々かなり仲良かったじゃん。相性良いって言うか。だから桜地君人気なのに誰からも告られてないんだよ? 希美がもし好きじゃなくて、マジでただの友達だっていう風な話が広まってたら、今頃メッチャ告られてたと思う。特に去年の初めとか危なかったし」
「そ、そうなんだ……やっぱり……」
二人に詰められて、私は縮こまるしかない。自分の恋愛スキルの無さにへこんでしまう。でも落ち込んでいる場合じゃない。二人の言っていることがマジ情報なら、あんまり余裕はないのかもしれない。どこかで甘えていた部分があるのは多分事実だ。なんだかんだ暫く時間はあって、彼がどこかへ行ってしまうのは遠い先だと思っていた。
もっと言うなら、もしかしたら自分の側にいてくれるんじゃないかとか、そんな甘い期待をしてたんだと思う。だから、今のままの、もどかしいけれどそれはそれで幸せな時間を保とうとしていた。そんなものは、すぐに流れ去ってしまうって分かってたのに。
「なんで告らないの?」
「オーディションがあるからかなぁ。まぁ私の勇気が無いだけかもしれないけど……」
「あ~、そういう感じかぁ。じゃあ全部終わるまで無理かもね」
「でもそれだと受験に入っちゃわない?」
「確かに、希美ちゃん」
私はガシっと肩を掴まれる。
「時にはね、禁じられた愛も大事なんだよ」
「えぇ……?」
「バレなきゃ良いじゃないの精神で行くのよ!」
「バレたら終わりなんじゃ……」
「そう言うことは考えない! 恋する乙女でしょ!」
「は、はい」
応援されてるんだかされてないんだかよく分からない言葉に、私はただコクコクと頷くことしか出来なかった。
鏡に映る自分を見つめる。黒い髪が目に入った。普段なら絶対着ないタイプの服に身を包み、少し背伸びした顔がそこにはある。
「よしっ!」
唇には赤い口紅。その色の発色を確かめて、私は部屋を出た。今日は6月最後日曜日。チケットを貰った演奏会の日。
「あらぁ良い感じねぇ。私の若いころそっくりよ」
ニコニコと恵比須顔のお母さんが話しかけてくる。自分の両親の若い頃の写真はあまり見ない。それでも同じなのだろうかと心の中で首をかしげる。自分の母親ながら決して素晴らしい美人という訳ではないけど、整った見た目をしている。それでもまとう雰囲気は中年の専業主婦のものだった。自分もいつかそうなるのだろうか。まぁそれはそれで悪くないと、そう思った。
「それじゃあ、楽しんでらっしゃい」
「はーい」
手を振るお母さんに手を振り返し、少しお洒落な靴を履く。ヒールはあまりよろしくないとネットに書いていたので、キチンとハイヒールでない物を選んでいる。腕時計が待ち合わせの時刻まであと少しであることを告げていた。そうは言っても別に焦るほどではない。けれど、足取りは焦りとは別の意味で素早かった。
駅に行けば、そこそこの人がいる。日曜日の午後であるからか、親子連れやカップルが多い。待ち合わせと決めたポストの前には目当ての人のシルエットがあった。宇治駅のポストは変わった形をしているため待ち合わせ場所としては非常に有用で、色んな人が使っている。その中でも割と高身長でかつカチッとした服を着ているのだから分かりやすい。
少し小走りで向かう。遅れてはいないけど、向こうの方が先に来ていたのだし、待っていただろうから。
「お待たせ!」
「ああうん。今来たところだから」
そういう割には手に持った文庫本のページは真ん中を越えている。いつかやってみたい会話ランキングの上位に位置しているだろうやり取り。まるで恋人同士のデートのようだった。これは果たしてデートなのか。いや、どうなんだろう。そんなとりとめのない感情が頭をグルグルする。
修学旅行もオーディションも終わり、府大会に向けての練習が本格化した。本来は日曜日もあるのだが、今日は学校側の都合でお休みである。なんでも点検が入るんだとかなんだとか。詳しくは分からないが、ともかくお休みだった。
自主練のために学校に来るのも控えて欲しいと言われたので、今日は完全に部活はない。フルートは持ち帰れるので、自宅でやろうと思えば出来るし公園でも練習は出来る。まぁでも今日は耳を鍛えると言うか、そう言うのだからさと自分に言い訳する。後で今日の分も頑張らないといけない。
「いつもと雰囲気違くてちょっとビックリしてる。その服も似合ってるよ」
「そっちも良い感じだね。これは逆ナンされちゃうんじゃない?」
「いやいや。希美を無視して声かけれるのは相当な自信家だと思うぞ。それか現実見れてないか」
「そ、そうかもね」
どういう意味なのかと詳しく問う勇気の無い自分が恨めしかった。ガタゴトと揺れる電車に乗る。席が空いておらず、私を座らせてくれたので立つことになった彼と話しながら京都市内を目指す。時はあっという間に過ぎ去り、宇治市と比べると月とすっぽんな大都会京都に到着した。ここは去年駅ビルコンサートに呼ばれて演奏している。それももう、大分前の懐かしい記憶だった。
ホールまではタクシーでサーっと行ってしまう。午後三時からの開演だけれど、その三十分くらい前には着くように計算して出発してきた。結構な数の人がいる。それもそのはずだ。この演奏を聴きにくるにあたってちょっとネットで調べたけど、チケットもいいお値段するような存在なのだから当然だと思う。しかも一番いい席と来れば高校生だったら普通は手が出ない。正確には買えない事も無いけど、バイトしてないで月五千円で頑張っている高校生女子のお小遣い数ヶ月分が吹っ飛んでいく値段。こんな貴重な機会を逃すという選択肢はなかった。
「お、アイツソロあるのかよ。やるなぁ」
呟きながら曲のリストを眺めているのを横目に会場を見渡す。やっぱり大人が多かった。若い人もチラホラいるけれど。こんな経験は初めてでちょっと落ち着かないけれど、隣がめちゃくちゃ堂々としているのでそれに倣う事にした。
時間が来るとジーっと音が鳴る。開演の合図だろう。映画館みたいだと思った。袖から指揮者が出てきて一礼。拍手が鳴り響き演奏が始まった。
そこからの二時間弱は圧倒されっぱなしだった。プロの演奏を聞いたことはそれこそ何度もある。CDも持っているし、YouTubeでだってある。それでも生で聞くのは全てが違った。耳が引っぱたかれて脳の中で何かが鳴り響いているような感覚がした。あれが本職。あれが音大と言う選ばれた人の中からさらに厳選された超エリートのプロフェッショナル。音楽に生きて、楽器と共に生涯を過ごす遠い世界の住人。凛音の演奏を始めて聞いたときも、こんな気分になったのを思い出す。そうだ。彼もまた、この集団に負けない腕を持っている。
頭が殴られたようだった。こんな世界に生きる人が通うのが音大かと思うと、自分の言ったことが恐ろしくなる。私の戦慄など何も知らないまま、朗々とフルートのソロが響き渡る。同じ楽器をやっているからこそ分かる圧倒的な技量の差がそこにはあった。私は井の中の蛙。上手い方だとは言ってもそれは所詮北宇治の中でだけ。全国に出れば私くらいの人間なんてごまんといる。じゃあみぞれは? どうなんだろう。
勿論この公演にもオーボエ奏者はいる。流石にこれには届いてないし、それは当然だろう。そんなこと言ったら北宇治の奏者で今のところ一番と言える高坂さんのトランペットですら、この奏者たちには届いていない。それはそうなのだ。じゃあ、私とみぞれ。どちらがこの領域に到達できる可能性が高いだろうか。私だ。と無邪気に言えるほど私は馬鹿にはなれず、また現実を見れないほど子供じゃなかった。
この演奏の中で虚勢を張って、予防線を作って自分を守れるほど強くなかった。もっと言うならこの圧倒的な音楽は、私の心の要塞を簡単に粉微塵にした。そして、その要塞の壁で守って見ないようにしていた真実を晴天の元に晒してしまった。
ああ、私は、私では無理だ。プロになんて。音大なんて。夢のまた夢。演奏の素晴らしさとは違う、苦い塩気の涙が一筋流れた。
演奏プログラムが全て終了して、大きな拍手が鳴り響く。私もその拍手の渦の中で手を叩く。素晴らしい演奏への憧憬と感嘆と喝采と、そしてほんの少しの恨みを込めて。
「さて、じゃあそろそろ行こうか」
そう言って差し伸べられた手を取った。立ち上がった所で、黒いスーツの男性がやって来る。明らかに彼に用事がある風だった。その男性は「ミスター桜地とその連れか?」と聞いてきた。流石に今年受験生の身。それくらいの英語は聞き取れる。なんでも彼の友人が呼んでいるらしい。積もる話もあるだろうし私は先に帰るなり、外で待っているなりしようかと、少し嫌な顔になりながら聞いた。けれど顔に出ていたのだろうか、良かったら付いてきてくれと言われた。
どうしようかと思ったけれど、断る理由を探せるほど今の私は冷静ではなく、承諾した。通路を進み、関係者の控室みたいなところに案内される。どうも、伝言をしていた男性はスタッフの一人らしかった。そして、いくつかある控室の中でもある一室の前に連れてこられた。彼が扉を叩けば、返事がする。
「やっほー」
凄まじく軽い調子で入っていく彼を目を見開いて思わず凝視してしまった。慌てて「失礼します」と小さく言いながら後に続く。色々動転して思わず日本語になってしまった。室内にはまだ若い、それこそ二十代くらいの男女。その男性の方の顔は先ほどサックスの奏者の席にいた。女性は確か……フルート。勝手な引け目から少し目線を下にやれば二人の左手の薬指には同じデザインのリング。それが指し示すことは一瞬で分かった。
気安く侵入した彼を迎えるのは再会を喜ぶ中の二人だった。私ではさっぱりわからないけれど、おそらくドイツ語だろう言葉で会話している。その顔は学校や部活では見せたことの無い笑顔だった。年相応の笑顔。普段の大人っぽさはさっぱり消え去って、青年の顔だった。私の知らない表情に、少しだけ嫉妬を覚える。彼が私を指し示し、何事か話す。すると彼の友人二人はこちらに歩み寄ってくる。
「こんにちは」
女性の方がキレイな発音の日本語で挨拶してくれる。思わずビックリして固まってしまった。後ろで笑っている想い人にちょっと厳しめの目線を送りつつ、何とか挨拶を返す。
「あ、えーっとこんにちは。あの、桜地凛音の友人の傘木希美と言います」
「ノゾミさんね。私はエリーゼ・シュミット。そこで爆笑してるへっぽこの妻で、リンネの同期です。沢山お話は聞いてます」
「日本語、お上手ですね」
「昔ちょっと教えてもらいましたし、卒業した後もいつか行きたいと思って練習してきました」
「なるほど……」
綺麗な人だなぁと思って眺める。普段身近に接しない外国人という事もあってやや緊張していた。それに加えてあの演奏をした人なのだから、緊張も倍増である。丁寧な挨拶をしている彼女に、凛音は小さい声で「猫かぶり」と言ってる。そんな事言って怒られないのか心配だったけれど、軽く足を踏まれる程度で済んでいた。
「ほら、いつまでも笑ってないの! 早く挨拶しなさい!」
「おお、そうだな! 俺はディートヘルム・シュミット。ここのサックス奏者だ。そしてこいつの親友でもある」
彼の首に手をまわしながらちょっと片言だけどそれでも十分上手な日本語で自己紹介をされる。離せよ、とは言っているものの、そこに嫌がっているような気配はなかった。
「お嬢、ちょっと希美の事見ててくれ。私は、こっちと話だ」
「分かったわ」
表情を真面目なものにして、彼は友達を連れて部屋を出て行く。おそらくは、本題のスカウトの話。小さく拳を握りしめた。そんな私の些細な変化に気付いたのか、エリーゼさんは私の手を取った。
「ごめんなさいね。貴女の恋人を取っちゃうような事をして」
思わず吹き出してしまう。そう言う風に勘違いされていたのを初めて知った。
「いや、あの! 私たちまだ恋人とかそういうんじゃなくて……」
「あら、それはそれは。てっきりこういう場に連れてくるのだし恋人なのかと思ったわ……。私たちの時は積極的に行けと言ったくせに、自分になるとへなちょこね……」
「え?」
「いいえ、こちらの話。それで、どうだったかしら。私の演奏」
「凄かったです! あの、私も吹奏楽でフルートをやっていて、それで、凄いお手本になりました」
「そう。それは良かったわ」
ちょっと勝気そうな釣り目をやや柔らかくして、彼女は私に微笑む。
「貴女は、将来音楽の道に進むの?」
その質問に即答することは出来なかった。
「一応音大に行きたいなぁ……とぼんやり思ってたんですけど、ちょっと自信なくて……。ってすみません。こんな事初対面の人にするような話じゃないですね」
「構わないわ。私も貴女くらいの時は沢山悩んだもの」
「そうなんですか?」
意外だった。あんな凄い演奏が出来る人なんだからきっと幼い頃から将来を期待されてて、迷いなく音楽に打ちこんできたのかと思っていた。
「私だって悩んだわ。どうしても伸びなくて、辞めたいと思ったり周りと比べて嫌になったり。でも結局辞められなかった」
「どうしてですか?」
「好きだったからかしらね。音楽が、フルートが好きだったの。思えば、ただそれだけ。それだけで頑張れた」
それはきっと私には無理だ。音楽は好きだ。フルートも好きだ。でも、それだけで才能と戦えるほど、私は強くない。頑張れない。
「ねぇノゾミさん。貴女は、音楽大学で何をしたいの? 何になりたいのかしら。演奏家になる事だけが道じゃないの。作曲家も、教師を目指す人もいるわ。こういう道だってあるのよ」
「それは、知ってはいますけど……」
「私はね、音楽の先生って大事だと思う。だって、彼らがいなかったらいい音楽を奏でる人がいなくなってしまう。才能を見つけ、伸ばせる。そんな存在は必要なの。作曲家だっていなかったらそもそも音楽を演奏できないわ。演奏だけが音楽じゃないのよ」
「演奏だけが音楽じゃない……」
「一番ダメなのは、自分の可能性を自分で勝手に閉ざしてしまう事」
彼女は言葉を区切って、自分の楽器のケースを撫でた。きっと彼女は言葉通りに愛しているのだろう。自分のフルートを、自分の奏でる音楽を。
「あなたに会えてよかったわ。顔も知らない相手に教えるのは嫌だもの」
「えっと、じゃあ……?」
「私があなたに指導するのよ」
「よ、よろしくお願いします!」
あんな凄い演奏をする人に教えてもらえるなら、少しくらいは上達速度も上がるだろう。そうすれば、みぞれとの間にある差だって埋まるかもしれない。少しだけ、希望が見えてきた気がした。
「フルートパートの指導を頼まれちゃったら断れないわ。彼には色々借りがあるの」
「借り、ですか」
「リンネは昔から多くを引っ張っていたし、色んなことの中心にいた。でも、彼の孤独は理解されにくい。あなたが彼を明るくしたのね。抜け殻に、魂を戻した」
「私はそんな大それたことしてないです」
「気付いていないだけ。あなたはきっと、リンネに必要な人よ」
そう言いながらウインクする彼女に、私は曖昧な表情で返すしかなかった。私が彼に必要な人。彼女は確かにそう言った。でも、平凡な私が、特別な存在である彼に、一体何が出来るのだろうか。その答えを、彼女は教えてくれなかった。
帰りの電車は行きよりも空いていた。無言で座っている。
「スカウト、受けることにしたよ」
それは聞きたくなかった報告。でも、その選択を拒むことは私には出来ない。だって私たちは家族でも恋人でもない、ただの友人なんだから。私に出来るのは頑張ってと送り出すことだけ。
「いつなの? オーディション」
「年明けかな。受かったら来年の春から加入になる」
「そうなんだ。じゃあ、一緒に卒業は出来るね!」
「ん、ああそうだね、それは大事だ」
それも出来なかったら、きっと私はもっと辛かっただろう。取り敢えず、最悪だけは回避された。
「そうだ。何か悩みは解決した?」
「え?」
「あのお嬢は、そういうのには敏感なんだよ。何か思い詰めてたから任せたんだけど。普段は傍若無人と言うか自分中心なくせに、こういう時だけ優しさみせてくる。まったく、面倒なヤツだ」
「うーん、まぁ解決したと言うか、してないと言うか……」
「そっか……。まぁ、困ったらいつでも言って。出来る限り相談には乗るから」
「うん」
悩みはより深まったような気がするけれど、浅いところでグルグルしていた今までよりもずっとマシに思えた。早く結論を出さなくてはいけない。けれど、もう少しこの停滞の中にいたい自分がいる。微睡にも似たこの時間の中なら、彼はずっとここにいて、みんなもずっと進まないままで。ああ、これは遅効性の毒だ。自分を蝕んで、嫌なことから逃げさせてしまう。その先に何もないのに。
暗い車窓からは人家の明かりが見える。あの中にはどんな人がいて、どんな暮らしをして、何に悩んで苦しんで喜んで生きているんだろう。遠くに見える灯りにそんな風にぼんやり頭を働かせた。きっと、現実への小さな抵抗だった。
駅を出て、自分たちの家に向かって歩き出す。空の星はまばらで、少しずつ雲の多い夏の夜空になっていた。いつしか空気はカラッとしたものから梅雨の重苦しいものに変化している。
帰路の途中の坂を上っていると、不意に足に痛みが走った。多分靴擦れだろう。慣れない靴を履いていたからだと思う。痛みに顔をしかめる。
「大丈夫?」
「え、ああ大丈夫だよ大丈夫」
「靴ズレしちゃった?」
「うん、まぁ、多分」
「もうすぐ着くけどこのままってのもなぁ。歩き辛いだろうし、何より悪化したら困るし。そうだ」
そう言って彼は私の目の前にしゃがむ。
「え? どうしたの?」
「おぶってく。そうしたら痛くないでしょ? 嫌なら次点で抱える、迎えを呼ぶとかがあるけど」
「嫌じゃ、ないです」
「そう? じゃあ、はい」
おずおずと彼の背に乗っかる。見た目よりもしっかりしている背中に、彼も男の子なんだと当たり前の事を思う。誰かに背負われるなんてずっと長い間体験してない経験だった。体重を預けて、歩く揺れに身を任せる。体温の温かさが伝わって来た。きっといつか、全ては変わってしまうとしても。もう少しだけ、このままでいたかった。