オーディション後の結果発表というモノは、何回やっても慣れはしない。いつまで経っても慣れはしないのだろう。選ばれる側の時は緊張なんてしたことも無いけれど、選ぶ側になると緊張してしまう。結果が報われた者、そうでなかった者。頑張っていたことは知っているからこそ、余計にこの瞬間は辛い。ただ、目を逸らすことはしてはいけないと自分に言い聞かせて、私はここにいる。
冷房は今日も唸っていた。もっと良いやつを導入できなかったのか、ちょっと疑問に思う。京都市は財政難らしい。扇風機も共に頑張っているが、大して効果は出ていなかった。
「揃ったな」
松本先生の眼光に、自然と部員たちの背筋は伸びていく。持っているバインダーの中に、A編成のメンバー名簿が入っている。私と先生と、松本先生しか現状知らない名簿だ。
「では、早速Aメンバーの発表を行う。今回呼ばれなかった面々は、私の指導のもとB部門に参加することになる。Bメンバーの部員は、次回の合奏練習から第二視聴覚室まで来るように」
「「「はい!」」」
「合格者は55人。今年はフルメンバーでの参加となる。呼ばれた者は、ハッキリとした声で返事をしろ」
「「「はい!」」」
「また、今回の選出に異を唱えることは許さない。名を呼ばれた者も、呼ばれなかった者も、それぞれの果たすべき役割というモノがある。例え自分にとって不本意な結果だったとしても、そこで腐らず、自分のやるべきことに精一杯打ち込め。分かったな」
「「「はい!」」」
松本先生の言葉に釣られて、部員の声量もドンドン大きくなる。淡々としている滝先生では勢いが無いし、私では威圧感が足りない。なので松本先生にここでの発表はお願いしていた。不本意な結果になっても、ここで松本先生相手に異を唱えられるメンタルを持った生徒は流石にいないだろう。
去年と同じような沈黙が教室を支配する。誰かの喉を鳴らす音、衣擦れの音がやけにうるさく響く。手を合わせて祈っている人の荒い吐息が耳に木霊していた。私は無表情のままその結果を眺めていた。思うところは沢山ある。しかし、選んだ側がそれを口にしてはいけないし、表情に出してもいけない。
「では、これより発表を行う。まずは金管、トランペットパートから。三年、滝野純一」
「はい!」
「吉川優子」
「はい!」
「二年、高坂麗奈」
「はい!」
「吉沢秋子」
「はい!」
「一年、小日向夢」
「は、はぃぃ!」
小日向さんの裏返った返事にも、誰も反応しない。彼女は一人で恥ずかしそうに下を向いていた。顔が真っ赤になっている。けれど、そんなことなどまるで無かったかのように、多くの表情は固くなっている。そうでない少数も、静かに佇んでいた。
「以上五名。次にホルンパート。三年、岸部海松」
「はい!」
次々に名前が呼ばれていく。呼ばれた者、そうでなかった者。その態度の差は大きい。呼ばれたとて浮かれることは出来ず、ただ事実を受け入れるのみだった。今回の編成ではオーディションに参加した三年生は全員受かっている。だが、来年もそう上手く行くとは限らない。なにせ、今の二年生は22人もいるのだ。今の一年が伸びること、来年の一年生にも上手い子がいるだろうことを勘案すれば、理想通りにいかないのは明白。
とはいえ、今の一年生の代に比べたらマシかもしれない。40人超えのこの面子が三年生になった時、全員大会に出れると言うのはまずありえないだろう。不可能とは言わないが、非現実的すぎる。妹もそれは認識しているようで、今から気が重いと言っていた。
「次にフルート。三年、井上調」
「はい!」
「傘木希美」
「はい!」
「二年、小田芽衣子」
「はい!」
「高橋沙里」
「はい!」
「中野蕾実」
「はい!」
「一年、桜地涼音」
「はい」
「以上六名。ソロパートは課題曲・自由曲共に傘木希美に担当してもらう。次にパーカッション。三年、大野美代子――」
妹は静かに返事をした。特段上擦った声でもなく、淡々と。受かる事は確信していたのだろう。確かな自信を感じさせていた。それは希美や井上も同じ。去年出場している井上がここで落ちるわけもなく、またその井上をして実力は上と言わしめている希美が落ちることも、またあり得ない事態だった。
それでもソロパートの結果は悔しかったのか、唇を噛みしめている。皆前を向いているので、その表情には気付かないのだろう。普段は綺麗な桜色の唇は、今や真っ赤に染まっていた。血が滲んでいるのが分かった。指も掌を食い破りそうなくらい握られている。憧れの先輩であっても、負けるのは悔しい。なんだかんだで勝気な部分が伺えた。
「以上、55名がAメンバーとなる」
松本先生はパタンとバインダーを閉じた。加部は音楽室の隅でメモをしている。その表情は特に無い。思うところは絶対存在しているのだが、私と同様に無表情を貫いているのが分かった。ここで顔色を見せてはいけないのだ。特に、全体をまとめる存在ならば。
室内は異様な空気に包まれている。喜怒哀楽。その全てが渦巻くこの狭い室内は、感情の坩堝とも言えるかもしれない。コンクールまでのカウントダウンは刻一刻と進んでいる。目標である全国大会金賞の文字はでかでかと掲げられ、大きな存在感を放っていた。
「京都府大会まであと一ヶ月。悔いの無いように過ごせ。良いな!」
「「「はい!」」」
ここ数日の雨が嘘のように、空は晴れ渡っている。その向こうにある雲は真夏の様相を呈していた。夏は遠くない。私たちの最後の夏がやって来るのだ。駆け抜けるように過ぎ去っていく、青春時代に別れを告げる夏が。
「アンタは人の気持ちを考えなさ過ぎなのよ!」
「先輩は甘すぎます。ここで妥協して、上に行けるんですか!」
怒声が教室の中から聞こえて来る。なんだかいつぞやもあったなぁ、こんな事。そういう感情を抱きながら、私はトランペットパートの練習教室のドアを開けた。中では優子と高坂さんが睨み合っている。真ん中にいる小日向さんは縮こまっていた。呆れたような顔の吉沢さんと、困り顔の滝野も目に入る。
「何ですか、これ」
「あぁ、良いところに来たぜ」
「香織先輩はもういないはずだけど」
「そうじゃないって。小日向の件で、ちょっとな。高坂は1stを吹かせるべきだって言ってる。小日向本人は3rdが良いって言ってて、吉川もそれに同意している。それで揉めてる」
「なるほど。大体把握した」
言い争いはヒートアップしている。この状態ではまともに議論も出来やしない。パン、と大きく手を叩いて、私は二人を制止した。
「一回お静かに」
「コイツが!」
「先輩が!」
「be quietって言ったの、聞こえた? shut upにしようか」
「「……」」
「二人ともヒートアップしすぎ。ここでこんな騒いでても、健全な議論にならないでしょ。取り敢えず今滝野から話を聞いた。高坂さんは1st派、本人は3rd派で優子が代弁者。そういう理解で正しい? 正しいなら取り敢えず一人一人聞いて行こうか。まずパートリーダー。どう思う。ここはお前のパートだ。最終決定はパートリーダーが下さないと。パート内でどこをやるかは基本生徒の裁量だし」
楽器には楽器内にもメロディーが違う箇所が沢山ある。そこでどれをやるかは先生が指定することもあるが、基本は練習の段階である程度分かるモノだ。なので、大体は生徒の裁量になっている。パート内で判断することが原則で、難しければ指導者の指示を仰ぐ。そういう形式だった。判断は基本パートリーダーが行う。それが出来るのも、リーダーに必要な能力だった。
「出来れば吹いて欲しいけど……俺は無理強いは出来ないと思ってる。楽器は頑張るもんだけど、無理するもんじゃないだろ」
「どちらかと言えば優子?」
「だな」
「なるほど。では吉沢さんは?」
「私はう~ん、本人次第かなぁって思います。滝野先輩の言うように、無理するのと頑張るって違うと思うんですよね。頑張ってもダメなことはあるし、むしろ頑張っちゃいけないこともあると思うんです。それで音楽が嫌いになったり、上手く演奏出来ないなら希望通りにするべきじゃないかなぁと思います。でも、もしちょっと頑張ってみれば出来るなら、そっちの方が成長に繋がるんじゃないですかね」
吉沢さんは折衷案を出して来る。これはどっちの意見にも配慮しながら自分は明確に旗幟を明らかにしないという、割と高等テクニックだった。とは言え、言っている内容は至極まとも。高坂さんが言っているのは正論だが、優子の言うように本人の意思を無視し過ぎている。優子は寄り添ってはいるが、成長できない原因になりかねない。どっちも一長一短ある。
その中で、折衷案や妥協案を出してくれるのは大変ありがたい。小日向さんもちょっと救われたような顔をしている。自分の意思を置き去りに話が進んでいくというのは中々の恐怖体験だろう。去年の香織先輩も同じような気持ちだったのが容易に想像がつく。
私が吉沢さんをパートリーダーにしたいのはこういう理由だった。高坂さんの厳しさや妥協しない姿勢は全体指導では大事だ。だがパート内でそれをやるとどこも安らぎの無い空間になりかねない。二年生の中で、高坂麗奈と言う存在は頭一つ飛びぬけた特別な存在になっている。だからある種の聖域になりつつある。
このままでは、パートが持っていたある種の独自性が壊れかねない。そうなると、パートリーダーが有効に機能しなくなってしまうかもしれない。それは避けるべき事態だと考えていた。故に、二年生でほぼ唯一高坂さんの持つ地位を奪い取りに行くぞという姿勢を見せている吉沢さんに対抗馬になって欲しいのだ。
報告を聞く限り、修学旅行の間は上手くまとめてくれていたようだ。とは言え、中々上手く行かない時に若干語気が強いという報告もある。演奏は生ものだ。そんないつも同じように演奏は出来ない。それを理解して、トライアンドエラーを無心で出来るようにならないと、指導する際にされる方もする方もストレスだろう。
「俺は最後は桜地が決めるべきだと思う。お前が一番上手いんだし、どうするべきかでは俺よりいい判断が出来るだろ」
「……取り敢えず小日向さん。少し話そうか。その間、そこの怒鳴り合いシスターズは頭でも冷やしてきなさい」
小日向さんは少し怯えたような顔をする。それを安心させるため、私は少し柔らかい声を出した。
「私は君の意見を聞きたいんだ。もし私と一対一が不安なら、マネージャーを呼んでも構わないから」
「は、はい……」
小さな声で彼女は頷く。取り敢えず加部に連絡を入れることが決定した。
「私は、君の演奏は上手だと思ってますよ」
「あ、ありがとうございます……」
肩を縮こませながら、彼女はおずおずと返事をする。加部は近くの席に座りながら耳だけ傾けていた。取り敢えずいてくれるだけで良いから、ということでいてもらっている。私の目の前には視線の合わない小日向さん。
「別に怒ろうと思って呼び出したわけでは無いので、安心してください。私としては、吉沢さんの意見に近いです。無理してまでやる必要はないですが、成長になるのも事実だと思っています。君の意見を聞かせてください」
「私、その、緊張しちゃうとダメダメで、本番も上手く吹けなくて、だから……」
「なるほど。ですが、3rdだって大事な役目です。そういう心持ちではいけませんね。どこでも失敗したらマズいのは同じですよ」
「それは、分かってます。ハーモニーには重要だし、クローバーグラウンドの方は2ndも3rdも違う動きをするので、どこでも大変なのは、分かってますけど……でもやっぱり不安で……」
「なるほど」
私は申し訳なさそうな顔をする彼女を見ながら考える。何故こんなにも極度に不安視するのか。大会に出ることが不安なのも事実だろう。だが、オーディションを拒みはしなかった。取り敢えずトランペットを吹く意思はあるのだと思って良いはず。
大会に不安がある。その中でも、1stに異様なほど拒否反応を示すのは、そこに何らかのトラウマが存在しているからなのではなかろうか。高坂さんと彼女は同じ中学出身で、年も一年しか離れていない。高坂さんが最初からこの状態だった小日向さんを1stに推薦するとは考えにくい。だとすれば、引っ込み思案なのは変わらないかもしれないが、昔はもっと普通に演奏できていたのかもしれない。
無理やりにでも彼女を演奏させることは出来るだろう。だがそれで上手く行く未来は見えない。結局彼女自身が自分でやる気を見せない限りは上手く行かないだろう。そして、その問題の根っこは見えてきそうになかった。自信を付けさせるというのは存外難しいものだ。それも、自己肯定感の無い子相手に行うというのは。
何が最善か。それを必死に考える。優子の理想は、小日向さんの望み通りにすること。高坂さんの言う正論は、彼女の高音が得意という特性を活かすこと。部活のために、演奏のために、パートのために、そして何より本人のためになるのはどれか。それを考えて、ひとまずの結論を導き出した。
「分かりました。良いでしょう。小日向さんには3rdを担当してもらいます」
私がその言葉を発した瞬間に、彼女は露骨にホッとした顔をした。
「ただし、どの場所であっても大事なことに変わりはありません。自分の役目を全うすることを願います。よろしいですね?」
「は、はい」
「ならば、それで構いません。高坂さんの説得はこちらで行っておきます。安心してください」
「ありがとうございました……」
小日向さんが教室から出て行ったあと、私は小さくため息を吐く。これで良かったのかは分からない。結果だけが、それを証明してくれるだろう。確かに高音の特異な彼女を1stにした方が良いのは事実。とは言え、他の人で代役が務まらないわけじゃない。他の奏者でも十分務まるはず。それで高坂さんが納得してくれるかは分からないが。
「ちょっとめんどくさい?」
「多少は。上手いのに自己評価が低すぎてちょっと困る」
「まぁ、気持ちは分かるけど」
加部は小さく笑う。
「てか、私いる意味あった?」
「あったと思うけど。私だけだと、多分彼女は委縮して何も話せなくなっちゃうから。そんなに怖いかなぁ」
「どうだろ。私たちとか二年生二人みたいに関係が長いわけでもないからなぁ」
「まぁ仕方ない、か」
嘆息する。長めのため息は、空気の中に消えていった。
「あの子、合奏練のときいつも眼鏡外してるじゃん」
「あぁ、そう言えば」
「怖いんだってさ。観客の顔見るのが。だから本番とか合奏の時はいつも外してるんだって」
「じゃあ、あんまり見えてない状態で出てるってこと?」
「そうなるんじゃない?」
「なんだそれ……」
そんな状態でよくもまぁ今までやってこれたものだと思ってしまう。とは言え、今ので少し分かった部分もある。
「怖い、か。なるほど」
「何か分かった?」
「多少は。彼女が怖いのは自分が失敗することじゃない。自分が失敗した結果、周りから下される評価を恐れてるんだ。彼女の敵は自分じゃなくて、観客や周囲の目線なんだろ、多分。音楽は自分との戦いなのに」
妥協しようとする自分との戦いでもある。そして昨日の自分、一時間前の自分、一分前の自分。一秒前の自分。そういった自分たちとの戦いでもある。究極的には、他の奏者も観客も関係ない。過去の自分よりほんの一ミリでも上手くなる。そのために努力する。それが奏者の本質にあるものだ。少なくとも、私はそう思ってる。
ただ、この話を私がしても意味はない。私や高坂さん、優子のように自己肯定感の高い人が話しても意味が無いどころか逆効果だろう。上手く誘導できる存在。それに頼ることで、きっとこの問題は解消するはずだ。そしてそれが出来るのは……。私の視線が加部に向かう。トランペットパートの中で一番小日向さんに寄り添えるのは、恐らく彼女だろう。
「取り敢えず、1stを二年生組、2ndを滝野と優子、3rdを彼女に任せよう」
「OK。じゃあ、そういう風に伝達してくる」
「頼んだ。それと、高坂さんを呼んできてくれ。ちょっと聞きたいことがある」
頼まれてくれた加部は、廊下に出ていく。高坂さんは同じ中学校出身。何か知っていることがあるかもしれない。少しでも情報を得るために、出来ることはしておきたかった。
編成はまずこれでどうにかなると思っている。高坂さんは一番上で安定だし、吉沢さんもそれに次いで出来るだろう。流石はソロコン代表で競っていただけのことはある。今や優子すらその地位を危うくするくらいには成長していた。私と高坂さんと一緒に三人四脚で去年やってきた成果は確実に出ていた。
「失礼します」
「あぁ、高坂さん。ごめんね、練習中に」
「いえ……。丁度頭冷やしたかったので、むしろありがたかったです」
「そうか……」
「私、優子先輩が小日向さんの肩を持つのも理解できるんです。小日向さんは目立つのが苦手だし、委縮するから1stだと自分の実力を発揮できない。優子先輩はみんなが無理しない形でベストの状態になろうとしている。だから今年はあんまりストレスもないし、喧嘩もしない。でも、もしも全国を目指す、全国に行くってなった時にやっぱりそれじゃあ足りないんじゃないかって。今の北宇治はみんなの妥協が少しずつ重なってるんじゃないかと感じてるんです。……それに、みぞれ先輩と希美先輩も。あの二人はきっと、もっと行けるはずなのに……」
彼女は吐き出すように言った。思っていることが分からない訳でもない。むしろ、その言い分は正しい部分もあるように思えた。特にみぞれと希美の話は。まだ真骨頂にたどり着いていない。あの二人は、もっと上に行ける。私もそう確信していた。
「私、実はずっと不安なんです。今のままの部活でいいのかって」
「……と言うと?」
「去年の北宇治は間違いなくコンクールにおいてベストメンバーでした。ソロオーディションでソロが私に決まった時から空気が明らかに変わったと言うか、全体が少しでも上の形になろうって皆努力するようになりましたよね。でも、今年は何か、違う気がして」
「そうかもしれない」
私の言葉に彼女は目を見開く。肯定されるとは思っていなかったのかもしれない。
人は単純な目標だけでは動かない。特に抽象的な未来像に関して努力するのを多くの人は苦手としている。何かに追い立てられるような気配が去年の部内には確かにあった。その正体が先生の発破なのか、弱小から上り詰めた結果のプライドと手が届きそうな玉座に必死に手を伸ばす人の真理なのかは分からない。しかし、この部は今年すでに強豪としてスタートした。一年生は腐っていた時代を知らない。
見返してやるという意志も、今年はあまり見られない。一年生はほぼメンバー入りを諦めている気配もあった。それは一応私の発破で払拭されたようには感じている。
ただし、オーディションが終わってしまえば席次は動かない。そうなってしまえば、B編成の子たちの中には向上心を持ち続けるのが難しい子も出てくるだろう。脅かされないと言うのは問題でもあった。とは言え、この辺をどうこうするのは一朝一夕では難しい事でもある。
「滝先生は生徒の自主性を重んじているからね……そう言うところには口出しをしてこない。今年の部長が部内のストレスフリーを目指す方針なら、それに敢えて苦言を呈すことはしないだろう。本心までは分からないけど。何か大きな問題が起こらない限り干渉はしないと思う。逆に何も問題が起きないことが問題なのかもしれないけど」
「そうなんです。その何も問題ないと言うのは良いことだとは分かっているんです。でも、ちょっと不安があって」
「この話は、誰かに?」
「久美子には、しました」
「そこでとどめておきなさい。言いふらしたりはしないから。優子には優子の理想がある。それに、我々三年生世代は人間関係のトラウマが多いし。そこもまた影響しているんだろうね。いなくなっても迷惑な案山子どもだよ、まったく」
思わず悪態をついてしまう。そんな私の表情に彼女はやや意外そうな目線を向けていた。そう言えば私があの人たちについて何か零したことは今までなかったような気がする。優子や夏紀はたまにポロっと言うが。
この話もいつかは風化するのだろう。それはともかく、優子は人望のある部長だ。一生懸命仕事をこなして大きな問題なく運営しているのをみんなが知っている。そこに苦言を呈すのは、大きな亀裂を生みかねない。
「取り敢えず、小日向さんの問題は加部に任せてみよう」
「加部先輩、ですか?」
「彼女はよく一年生の事を見ている。必ず力になってくれる。現状維持は緩やかな衰退だ。あのままにしておいて良い訳もない。とは言え、君や私ではあまり彼女に寄り添えないから」
「それは、どうしてですか?」
「我々は自己評価が高いからね」
この意見はどうやら納得を得たようで、彼女は幾度か頷いた。
「君の意見はよくわかった。その上で、今は様子を見るしかない。現状、部内は上手く回っている。演奏も、決して問題はない。それどころか、より良くなっていっているし」
「不安の正体はそこかもしれません。今の代はこれで上に行けるかもしれないですけど、私たちの代で同じことは多分出来ないですから……。今の環境は優子先輩と夏紀先輩の努力がまずあって、桜地先生の指導力と計画力があって、三年生の連携の深さがあって、その全部が合わさって存在してると思うんです。だからこそ、私たちの時にそれを受け継げるか分からなくて。先生たちを見てると、私たちだったらどうしたら良いんだろうって、ずっとそう考えてしまいます」
未来への不安。内容は違っていても、私も彼女も抱いている種類は大別して同じだった。
「まぁ、今を全力でやるしかないよ。未来は、その先にしかないんだから」
「はい」
「小日向さんの件は一旦加部に預けよう。滝野もいるし、上手くやってくれるだろう」
「滝野先輩、頑張ってますからね」
「あぁ。よく頑張ってるよ」
「もっと……その、失礼ですけど適当な人だと思ってました」
「ははは、普段はね。ただ、彼は彼なりに真面目だ。尊敬できるところも沢山ある。私は、尊敬できるところの一つもない人と、友達になんてなりたくないし」
追いかけているのは去年のパートリーダーだ。その道は遠く険しく果てしない。それでも進もうとしている彼の姿は、確かに尊敬に値するモノだった。それは高坂さんも同じだろう。彼女も成長している。周りの仲間を尊重し、しっかりと見ているくらいには。
「あぁ、そうだ、忘れてた。小日向さんの件なんだけど、中学時代はどうだったとか知らない? 同じパートだったし、何か知ってるかもと思って」
「あんまり大した情報は無いですけど……。でも、小日向さんもっと快活だったんですよね。明るくはきはき話してましたし」
「そうなの!?」
「はい」
ちょっと驚いた声を挙げてしまった。しかし、それは意外な情報だった。今の姿とは、全然違うのだろう。人のことをしっかり観察してないであろう中学時代の高坂さんにそう言う印象を持たれているということは、少なくとも表面上は明るく振る舞える存在だったはずだ。
「ちょっと引っ込み思案ではありましたけど……でも1st辞退したりするような子じゃなかったです」
「そうか……ありがとう」
「いえ、お役に立てたならば幸いです」
「じゃあ、また練習後に。今日もビシビシいくから、そのつもりで」
「よろしくお願いします」
高坂さんは頭を下げて去っていく。彼女はいつも私に対しては最敬礼だ。案外、一年生の間で先輩へ最敬礼という暗黙のルールが出来たのは彼女のこの行動によるところかもしれない。
高坂さんの情報は大きく役に立った。昔の人格を知れたのも大事だが、それ以上に何かあった期間を知ることが出来た。高坂さんと小日向さんが接していない空白の一年。つまりは、去年。そこで何かがあった。北中で、何かが。それも大会で。
去年の北中の結果は府大会止まり。府大会は見に行っていたけれど、北中と南中は時間が嚙み合ってなかったので私は見ていない。知識があるのは、妹の方だろう。彼女は他の中学校の演奏もなるべく聞くようにしていたはずだ。当日でなくても、後日発売の映像などでも。中学の部は膨大な数あるので、基本府大会は自分の学校のデータが入ってる物を買うのだが、彼女は全部買っていた。研究に使うのだという。
妹にメッセージを送ると、休憩中だったのかすぐに返信が返って来た。
『北中? 覚えてるよ。ペットのソロ、結構盛大に外してたし』
その内容で、合点がいく。彼女の気弱な態度、そして目立つことを恐れる姿。その原因は、恐らくこれ。中学最後の大会でソロを外したという、最悪のミス。これが彼女の大きなトラウマになってのしかかっているのだろう。
であれば、なおのこと高坂さんや私ではまずい。このトラウマの解除には時間がかかるだろう。生来の部分もあるだろうが、それでも快活だったという言葉を信じれば昔の彼女はもっと図太かったはずだ。それがここまでになるというのは、相当心に傷がついているのだろう。一朝一夕でどうにもならないのは、明白だった。
「難しいな……」
今回の措置はその場しのぎだったのではないか。しかし、無理に演奏をさせたら彼女の心には今度こそ大きな傷がついてしまう。それは優子の望むところではないだろうし、私だって望まない。一度この楽器を始めたからには、好きになって欲しいし好きでいて欲しい。そういう想いがある。
吹奏楽部のためになるのは何か。昔ならもっとスッパリと答えを出せたかもしれない。にも拘らず、今の私は迷ったままだった。窓の外では蝉の声が聞こえ始めている。もう夏が始まるのだ。迷っている時間はあまりない。府大会まであと一ヶ月弱。私は間違いなく、弱くなっていた。