音を愛す君へ   作:tanuu

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第八十七音 京都府大会

 一日一日と時間は進んでいく。後戻りできない日々の進行は、前に進んでいくことへの高揚感もありつつ、不透明な未来への不安もありつつ、相反する感情を抱えながらだった。

 

「第四楽章は含みを持たせてください。第三楽章はあくまでも回想として描きます。船出の前に第三楽章の内容を反芻していた。それが、冒頭のチャイムで現実に引き戻される。そういうイメージです。その寂寥感、そして未来への希望と不安。高校生だからこそ、その演奏は実感の籠ったモノにできるはずです」

「「「はい!」」」

 

 ホールを借りての練習は、去年と同じように行われている。一番良い響きを出せる並びは既に確認して、今は通しに入っている。間もなく本番。京都府大会まであと数日だった。

 

 自由曲は編曲者である私が指示を出すことが多くなっていた。先生と打ち合わせは念入りにしているけれど、それでもどう解釈するかは私の方が良く分かっているつもりだった。イメージの共有、描きたい音楽の共有。大変な作業ではあるけれど、指揮者と奏者が同じイメージを描くことで、一体化した音楽になっていくはずだと考えている。

 

 メインに据えた第四楽章「遠き空へ」は未来への希望と不安をメインテーマにしている。未来と言うものは明るいばかりではない。暗いことや、不安なことも沢山存在している。それでも、後ろの道を戻るよりは前に進んでいく。そういうメッセージだと私は捉えていた。

 

 だからこそ、そのメッセージはまさしく未来への希望と不安を現在進行形で抱いている高校生にこそ、自分のモノとして演奏できるはずだとも考えていた。将来への淡い希望と確かな不安。それでも時間に押し流されるように、或いはもっと別の何か、それこそ大会への熱などに浮かされるように進んでいく。そういう人生の黄金期にだけしか出せない演奏があるはずなのだ。

 

 それを突き詰めていくことが、上の大会に行くカギなのではないかと考えている。ただ、もちろん他の楽章があっての第四楽章だ。他の部分を疎かには出来ない。特に第三楽章を受けての第四楽章であるため、第三楽章の方も大事なのだ。大事なのだが……まだ今一つ完成には遠いように思えた。

 

 

 

 

 

 

「君たち1st組は音を完璧にそろえよう。一人で吹いているみたいに。そのためには息を合わせないといけない。そして、吉沢さんは高音を更に安定して吹けるように。その練習をしようと思う」

「「はい」」

 

 夜のレッスンも本格的なスタートを切っている。求めてる水準は高く、トライアンドエラーはそれこそ普通の練習の数倍の量行われている。目指す頂は最上級の奏者。全国大会でも一番上手かったと言われることが精神的な目標になっている。

 

 とは言え、二人とも随分技術が向上している。競い合う存在がいるということは刺激になる。刺激があると、人は努力しやすい。目の前に追い付くべき存在、或いは追い抜いて来ようとする存在がいれば、いい比較になるのだ。上手さとは時に孤独を生む。だからこそ、競い合う存在の重要性をしっかり認識して欲しいと思っている。

 

「吉沢さん、そこ二回目」

「はい」

「じゃあもう一回」

 

 吉沢さんは流れ落ちてくる汗を腕で拭った。七月の学校は夜になっても暑い。冷房は入れているけれど、それ以上の集中力と熱意で練習を行っているからか、二人の顔は赤かった。水分補給を適宜しながらコレなので、余程集中していることがうかがえる。

 

「そう、今のイメージです。静かに、しかし確かに吹いている海風のように」

「「はい」」

「よろしい。では今日はここまでにしましょう。気をつけて帰るように」

「「ありがとうございました!」」

 

 二人は揃って頭を下げる。結局今年もレッスンはこの二人だけだった。他の子は様子を伺って逃げ出している。トランペットパート以外からももちろん募集しているのだが、今のところ申し込みは無かった。黄前さんは高坂さんに用事があったらしく、ちょっと覗いた際に逃げ出している。折角田中先輩の代わりに色々叩きこめそうだと思っていたので、少し残念だった。

 

「あぁ、先輩、ちょっと良いですか?」

「どうした?」

「あの……後輩のことなんですけど、あぁ別に特定の誰かって訳でもなくって」

 

 吉沢さんはそう断ってから話を始めた。高坂さんは片づけをしながら話を聞いている。

 

「最近、結構チラホラ聞くんですよね。府大会は余裕だろうって。基本一年生が多いんですけど、たまに二年生も……」

「なるほど」

「あんまりそういう考え方は良くないんじゃないかなって思ったので……一応伝えておきたくって」

「ありがとう。確かにあんまり褒められた考え方じゃないね、それは」

 

 府大会は余裕。関西は決まってる。そういう考え方が存在してしまうのはある種仕方のない部分もあった。今年は去年より上手くなってる。単純比較は難しいけれど、体感としてはそう感じていた。だからこそ、慢心しやすくなる。

 

 余裕な大会など無い。どんなダークホースがいるかも分からない。そして、自分がどんなミスをしてしまうかも。去年の府大会は結構切羽詰まった状態でやっていた。あんだけ努力して、香織先輩の夏をここで終わらせるわけにはいかないだろという暗黙の闘志が存在していた。十字架にかけられた私たちは、上に行く以外にその罪から逃れる方法は無かったのだ。だが今年は違う。いかに発破をかけても、中々人の意識は変わらない。

 

 龍聖学園。月永先生が入ったあの学校は恐らく府大会でも活躍するだろう。それに立華、洛秋、そして北宇治。この四校が一度に会する。どこか一つは確実に府大会で夏を終える。それが北宇治ではない保障なんて、どこにもなかった。楽観的と慢心は違う。小さくため息を吐いた。

 

「やっぱり、今年はどこか去年とは違いますね。悲壮感と言うか、何としてもというのが無いです」

「……」

 

 高坂さんの言葉は正しい。この前聞いた通りだった。今年は何かが足りていない。それは恐らく、焦り。焦っていることが良いとは思わないけれど、ライバル校を意識するというのが足りていない。だがその意識改革は難しい。清良との比較はさせたけれど、それはあくまでも一年生だけ。それもどこまで効果があったのか。

 

「分かった。ちょっと、対策を考える」

「まぁそう言いながらも、私も府大会は行けるんじゃないかとちょっと思ってるんですけどね」

「ダメじゃん」

「アハハ。でも、それ以上なら、もっとこう、違う意識が必要だと思いますから」

 

 吉沢さんは少し笑った後、真剣な顔で言う。高坂さんはその言葉に、小さく頷いていた。高坂さんが抱いていた危機感の正体は少しだけ掴めたのだろう。慢心に近い火種は確かに燻っていた。

 

 家路を歩いている時も、対策を考える。どんな上手い奏者でも失敗することはある。それを認識しないといけない。練習は悲観的に、本番は楽観的に。私が教える際のモットーだ。練習段階である今、楽観的になっていたら勝てる戦いも勝てはしない。悩みながら玄関を開けると、微かに楽器の音がする。

 

 手を洗い、防音室に向かった。扉を開けると、中ではフルートの音が響いている。私の姿に気付いた希美は、演奏を止めてこちらに顔を向けてくる。

 

「お帰り~」

「あぁ、うん」

「どうしたの?」

「いや、何と言うか、馴染んでるなぁと思って」

 

 最初はどこにしまってあるのかもよく分かってなかったのに、今では譜面台を自分で用意できるようになっていた。その譜面台の上には、指導が書かれた紙がある。希美が受けている指導は、自分の吹いた音源を送って、それに関するフィードバックを貰うというモノ。私の友人は新山先生とは違って日本在住では無いので、こうしてオンライン指導を受けている。時々時間が合えばビデオ通話でやっていることもあった。

 

 基本的に三日に一回のペースで送っている。毎回長文がドイツ語で返って来るので、その都度私が日本語訳していた。時々井上や私の妹も助言を貰っている。その度に翻訳しているこっちはかなり大変なのだが、これも仕事なので必死にやっていた。

 

「どう? そっちのレッスンは」

「死ぬほど厳しい」

「だろうね」

「でも、確実に上手くなってるって実感はあるよ。まだ曲を完全に掴めてるとは言えない気もするけど、取り敢えず表現の前に技術を何とかしないといけないし」

 

 音大を志望することにしたみぞれは、新山先生の紹介でオーボエのレッスンを受け始めたらしい。とは言え、こっちも負けてはいない。世界が誇る奏者と実質的なマンツーマンだ。しかもなんと無料。持つべきモノは友達だろう。

 

 彼女とその旦那兼私の友人が結婚する際に色々骨を折ったのがここで生きてくるとは思いもしなかった。当時は純粋な善意でやっていたので、情けは人の為ならずというのを実感している。

 

「進路はどう? 決まって来た?」

「うーん……」

「ご両親は何か言ってるんじゃないの?」

「早く決めろって、お父さんがね。でも音大とかそういう不安定そうなのは許してくれなそうだし……」

 

 彼女は小さくため息を吐いた。

 

「まぁ、親としては不安だと思うよ。当たり前だけど」

「でも、凛音は音大行ったじゃん? しかも留学で。そういうの行かせてくれるのは、ちょっと羨ましいかも」

「あぁ、でも普通に反対はされたけどね」

 

 その言葉に彼女はビックリしたような顔をする。

 

「そんな驚く? 普通は反対すると思うけど。むしろ反対しない方がヤバいじゃん。飛び級留学とか、非常識にもほどがあるし」

「確かにそれはそうだけど……凛音のお母さんはそう言うの大いに歓迎みたいな感じかと思ってた」

「否定はしないけど……とは言え、最初は反対された」

 

 あんな理詰めで来られるとは思ってなかった当時の私は、珍しくへこんで一回断念しようかとも思った。けれど、ここで諦めては終わりだと思い何度もトライしたのを覚えている。理論武装は雫さんが手伝ってくれた。流石元京大生。非常に助けになってくれた。

 

 最後の最後に折れたのは、父親が許可したからかもしれない。意外な事に、先に説得に応じたのはそっちだった。かつて自分が為せなかった夢の分も私に託してくれたのかもしれない。いずれにしても、何とか説得して私は欧州に旅立った。

 

「でもまぁ、そこで諦めたら負けだからね。世界と戦おうってのに、親すら説得できなくてどうするって話だし」

「……強いね、やっぱり」

「強くない強くない。雫さんに助けて貰ったりとか、そんなのばっかりだし。それに今思えばただの無鉄砲だったと思う。自分の子供がそんなこと言い出したら、了承できるかどうか不安しかない。多分、反対すると思う。でも……」

「でも?」

「ちょっと反対されて諦めるなら、その程度の夢だったってことになっちゃうから、結局」

「そう、かもね」

 

 希美は小さく目を泳がせて、そして絞るような声で言った。彼女がどういう想いで音大と言うのを口にしたのか、まだはっきりとは読めない。ただ、彼女の中で大きな迷いがあるのは分かっている。その助けになれるかは分からない。でも簡単に諦めて欲しくないという思いはある。きっと諦めるのは誰にでもできることだから。

 

 彼女には、誰にでも出来る道を選んでほしくはなかった。それが理想の押し付けなのかもしれないけれど、私にとって彼女は、確かに特別なのだから。

 

 

 

 

 

「本日の練習を始める前に、少し話があります。先生にもお時間を頂きましたので、こうして話させてもらいたいと思います」

 

 翌日、私は全員の前に立っていた。何の話だろうという幾つもの視線が刺さる。

 

「あと数日で府大会です。その最後の追い込み期間だからこそ話すべきだと思いました。私が常々言っている言葉である「練習は悲観的に、本番は楽観的に」というモノにも対応する話です。最近、府大会は余裕という趣旨の言葉を耳にします。或いは、終わってもいない府大会を飛ばして関西の話をしているのも。先の大会を意識するのは悪いことではありませんが、些か先走り過ぎです」

 

 その言葉に、何人かが居心地の悪そうな顔をした。きっと、私の言葉に心当たりがあったのだろう。

 

「本番は楽観的にと言っていますが、今は練習期間です。一番悲観的にならなくてはいけない時期です。自分の演奏に瑕疵はないのか。本当に完璧で余裕なのか。それを突き詰めてください」

 

 敢えて少し厳しい口調で言った後、少し私の出していた張り詰めた雰囲気を緩める。

 

「少し、昔話をしましょう。自分の話をするのは好きではないのですが、今の状況には相応しいと思うので。私がまだ大学一回生の頃の話です。他に敵などいない、私は世界で一番上手い奏者だ。そう思って留学し、実際に半年くらいはそう思っていました。しかしその勢いで出た、私の中で最初の世界大会で、私はあっさりと敗北しました。優勝を勝ち取ったのは、私の学友でした。確かに上手い奏者でしたが、普段は私の方が上だと思っていたので、歯牙にもかけずきっと勝てるだろう、ここで勝ってもっと上に。そういう風に思っていましたので、まさに出鼻を挫かれたような思いだったのを今でも覚えています」

 

 あの時の衝撃を、ショックを私は忘れていない。臥薪嘗胆ではないけれど、当時はそういう想いで過ごしていた。私の中の世界一は、未だにあの時の彼女だった。もう亡くなってしまった彼女のその演奏は、私の未だに超えられていない目標である。そしておそらく、もう二度と超えられないだろう。

 

 その後猛練習し、色々対策を打った翌年の大会では私が勝った。とは言え、彼女は連覇には興味が無く、そもそも出ていなかった。四回生の時に迎えた大会ではともに出ようという約束をしていたけれど、その約束が叶うことは無く、その前にあっさりと天の彼方へ旅立ってしまったのだ。

 

「あの時の敗因は何か。それは間違いなく慢心でしょう。楽観ではなく慢心し、自信ではなく油断が私の中に存在しました。だからこそ私は負けたのです。いとも容易く、あっさりと」

 

 高坂さんなどにとっては、この話は衝撃だったのかもしれない。それ以外の多くの部員にとっても、私が負けたという話はそれなりにインパクトがあったようだ。私は基本絶対的に上手く、超えられない経歴を持った奏者としてこの部で指導している。だからこそ、その私の敗北譚は予想以上の反響を持って受け止められていた。

 

 先生ですらちょっと驚いた顔をしている。こんな話をするとは思って無かったのかもしれない。

 

「私があっさり負けるんです。こんなところで終わるはずじゃないと思っていた場所で、負けるはずが無いと思っていた場所で。私が負けるのに、どうして皆さんが余裕などと言えるのでしょうか。本質的に余裕な大会など無く、余裕な団体などいないのです。去年の秀塔大附属も思っていたことでしょう。関西で終わるはずがない。でも結果はあっさり北宇治に負けた。その現実を噛みしめてください。運命の女神は、油断した者に敗北を与えます」

 

 関西三強が全国を逃したのは、三出制度の影響を除けば去年で十年ぶりだった。丁度北宇治が没落を始めるとともに、関西三強は生まれたのだから。十年の長い月日は、彼らに全国行きを当たり前にしたのだ。けれどそれは破られた。去年の秀塔大附属は、今の北宇治であるように思えてならない。だから今の内から慢心を消さないといけない。

 

「代金を受け取るまで油断するな。桜地家の家訓です。演奏が終わるその瞬間まで、楽観はしても油断はしないように。それを心に刻んで練習に励み、そして大会に挑んでください。よろしいですか」

「「「はい」」」

「声が小さいです」

「「「はい!」」」

 

 これで少しは何かが変わるだろうか。少しでも、意識を変えてくれるきっかけになるだろうか。誰か一人にでも届いていれば、それはこうして話した甲斐があるというもの。どうかそうであって欲しい。それが私の願いだった。

 

 

 

 

 

 

 府大会の日は、去年と同じようによく晴れていた。夏の日差しが煌々と私たちの頭上に降り注いでいる。その熱なのか、或いは大会が持つ熱なのか。そのどちらもが混ざっていそうな熱が会場には渦巻いている。首から下げたロザリオは、今日もシャツの下で揺れている。なんだかんだ手放せないこれは、最早大会の時のお守りのようになっていた。その由来を知るのは、と言うより持っているのを知っているのは先生だけ。妹にも希美にも言っていない、小さな秘密だった。

 

 最後の音出しが出来るリハーサル室は、会場の裏に繋がっている。最終調整を行って、本番に備える。やっていることは去年と全く同じ行程だった。今年の演奏は去年より良くなっている。それは自信を持って言える。去年この時期にやっていた課題を、今年はもっと前に終わらせていた。私の話が効いたのか、空気は再度引き締められてこの日を迎えている。緊張の表情を浮かべた部員たちを、先生は見渡した。

 

「ついにこの日がやってきましたね。私が北宇治高校吹奏楽部の顧問としてこの場に立つのは、これが二度目になります。課題曲・自由曲が決まって以降、皆さんは今日までずっと努力を重ねてきました。楽譜を配られた時と比べて、演奏の完成度もドンドンと高くなりました。ですが私は、皆さんとなら更にクオリティーの高い音楽を作り上げられると考えています。次の演奏の機会に繋げられるよう、全力を尽くしましょう」

「「「はい!」」」

 

 大きな返事に、先生は満足げに頷いた。視線は私に向けられる。小さく首肯して、一歩前に出た。

 

「これまで散々色々と言ってきましたが、最早言うことはありません。全身全霊で挑んで来て下さい。皆さんの心の中にある高鳴りに合わせて、音を奏でれば必ず良い演奏になるはずです。最後に、いつものを。練習は悲観的に」

「「「本番は楽観的に!」」」

「その通り。皆さんの演奏()を聞かせてください。期待しています。では、部長」

 

 私の言葉に、優子は一歩前に出る。普段よりおとなしめの色をしたリボンが大きく揺れた。鳴らした喉が上下する。そして一度静かに閉じられた瞼は、地面を蹴るような力強さで開かれた。その瞳の奥にある情熱の炎は、去年の春に見た高坂さんにも負けていない。

 

「今日、ちゃんとこうしてメンバーが揃っていることを嬉しく思います。怪我も病気も無く揃えたことは、当たり前に思えて凄く大事な事だと思います。なにせ、自分たちのベストな状態で挑めるって言うことなので。私は、このメンバーなら怖いモノなんてないって知ってる。いつも通りの力を出せば、絶対に次に進めると信じています。心配することなんて一つもない。十二分間の舞台、本気で楽しんでいきましょう!」

「「「はい!」」」

「では、いつものやります。みんな、準備はOK?」

 

 その言葉に部員たちはごそごそと動いて、楽器を移動させる。そして右腕を構えた。

 

「北宇治ファイト―!」

「「「オー!」」」

 

 突き出された多くの拳が天に伸びる。揃ったその声が反響した。昂る感情、燃え上がる熱意。それらが炎のように室内に満ちていく。ここから先は戦場だ。十二分間の戦場。たった一度しかない、栄光と誇りの世界。あのスポットライトが、彼らを待っている。

 

 舞台裏は仄暗い。その空間の中に、間もなく出番を待つ彼らがいた。

 

「どうだ、調子は」

「まぁ、ぼちぼち」

「なら良い」

 

 朝少し早起きだった妹は、その目線を暗闇の奥に送っている。あの幕の向こうに、彼らの立つべき舞台があった。

 

「去年より背負うモノは少ないけど、でもここで終わりたくはない。希美先輩と一緒に吹奏楽出来る、多分最後の年だし」

「そうか。まぁでも、余裕はありそうだな」

「それはね。優雅に華麗に。それが去年のモットーだったし。緊張を飼いならしてこそでしょ」

「頼もしいな」

 

 前の学校の演奏が終わる。そして間もなく北宇治の出番がやって来た。

 

「兄さん」

「なんだ」

「今だから、ちょっと思うところがあって」

「うん」

「まぁ自分で選んだ道だし、私がとやかく言うことじゃないのは分かってるんだけど。それでも……」

 

 露わになった舞台に降り注ぐ光を見ながら、妹は言った。

 

「一回くらい兄さんと一緒に大会出てみたかったかも」

 

 そう言うと、一つに結んだ髪をたなびかせて彼女は舞台に向かって歩いて行く。それは叶わなかった物語。もし私が部活を辞めていなければ。もし、希美が退部する結末では無ければ。私も妹と一緒に大会に出ていたのだろうか。そんな未来は無かったけれど、そうあったらそれはそれで楽しかったかもしれない。

 

「桜地先生」

「あぁ、高坂さん」

「私もいまーす」

「分かってるよ」

「「行ってきます」」

「練習の成果、見せてください」

 

 高坂さんと吉沢さんは声を揃えて言った。二人に頑張ってとは言わない。彼女たちの練習を一番見てきたのは私だから、頑張ってるのは知ってるし、頑張るのも知っている。だからこそ、結果を見せてくれとだけ言うのだ。

 

 部員たちは舞台へと進んでいく。その未来がどうなるのか、私には分からない。ただ、願うことがあるとするのならば、望む結末になって欲しいということだけ。それだけが、今この時の私の願いだった。優子はまっすぐ前を見据えて。みぞれはいつも通り淡々と。滝野は少し緊張しつつ、息を吐きながら。希美は私に小さくウインクして。各々の位置へと向かっていく。

 

「プログラム34番。北宇治高等学校吹奏楽部。課題曲Ⅳに続きまして、自由曲は卯田百合子作曲『リズと青い鳥』。指揮は滝昇です」

  

 扉の向こうから聞こえるアナウンス。そして、演奏が始まった。

 

 

 

 

 

 

 

 全ての学校の演奏が終わる。立華、洛秋は去年と同じように優秀な演奏だった。そしてそれと同じくらい、龍聖が伸びている。月永源一郎。明静を全国トップに押し上げた才人。その実力は伊達ではない。あの演奏で金を貰えないなら、それは審査員がおかしい。そう言っても過言ではない演奏を披露していた。男子校特有の肺活量の多さを活かして、パワフルに仕上げてくるかと思いきや、繊細で緻密な演奏もさせている。そのギャップや場面の切り替えは脱帽するしかない。

 

 隣の席の希美は、もう死にそうな顔で祈っている。彼女の物語が始まった、あの夏。府大会銀で終わった、遠い記憶。その思い出を、きっと彼女は思い出しているのだろう。希美の、優子の、みぞれの、涼音の、そして南中吹奏楽部の。その全てに呪いのように降りかかったあの夏の日。南中の呪いは既に去年解除した。涼音とそれに率いられた部員による渾身の演奏で。今度は、希美たちの呪いを解く番だった。

 

「大丈夫」

 

 私は彼女の落ち着かせるように言う。

 

「ここで終わりはしないから」

 

 蒼白な顔で、彼女は小さく頷いた。膝の上に置いた私の手に、彼女の震える手が重なる。血の気の引いた綺麗な白い手からは彼女の鼓動のようなものが伝わって来る。もしかしたら、私の鼓動も聞こえているのかもしれない。この発表を待つ緊張と、彼女の手がそこにある緊張の両方で速くなった、私の心臓の音が。

 

 これまでの練習の成果を求めて、この会場に集まった多くの視線が一点を見つめている。そしてその何百という目に映し出されながら、結果発表の紙を持った係員がやって来た。ざわめきは波紋のように広がり、悲鳴にも似た声があちこちから挙がる。まだ結果すら出ていないけれど、会場の熱で空気は大きく動かされていた。

 

「きた!」

 

 誰かの叫びと同時に、紙が垂らされる。会場全体に流れる一瞬の静寂。そして悲喜劇の混じった声が響き渡る。北宇治の番号を探した。そして、すぐに見つける。京都府立北宇治高等学校、ゴールド金賞。その文字列に大きく脱力した。まずは第一関門。しかしすぐに姿勢を戻す。まだここは前哨戦。次に待っているのは関西行きの切符を得られるかどうか。

 

「えー、この中より関西大会に出場する学校は……」

 

 壇上に立った司会者の間延びした声が響く。去年も間延びしていたので、同じ人かもしれない。変にスパスパやられるのもそれはそれでどうかと思うが、こんな風に緊張する時間が長いのも勘弁してほしい。

 

「プログラム24番、立華高校吹奏楽部」

 

 名前を呼ばれた立華から万歳の声が聞こえてくる。水色のブレザーが飛び跳ねていた。まずは一校目。この時点で七番目だった洛秋の関西行きは無くなる。ただ、どうなるのか分からないのが結果発表。自分の学校名が呼ばれるまで油断はできない。心臓の音がうるさい。府大会で終わって欲しくない。それは私も抱いている願いだった。

 

「プログラム34番、北宇治高等学校」

 

 歓声が上がる。去年見た景色と同じように。それでも、この景色なら何度見たって構わない。むしろ、何回だって見たい。優子が胸を撫でおろしていた。それを隣にいる夏紀が背中を叩いて励ましている。繋がった。取り敢えず、次に繋がった。関西大会に行けることに少しの間安堵する。希美もホッとしたように息をついていた。妹は静かに座っている。その度胸と言うか精神性は見習いたいものがあった。

 

 全国大会に連れていく。私は確かに去年、関西大会の会場で希美にそう約束した。その期限まであと一ヶ月。私はその約束を守りたい。このメンバーで、全国に行きたい。一番音楽を愛していた彼女だけれど、ここまで終ぞ行けなかった全国大会の舞台に、彼女を昇らせたい。それはもしかしたら、糾弾されるべき個人的感情なのかもしれない。でも、これくらいは思っても良いはずなのだ。私をどん底から救い上げてくれた、彼女に対してならば。

 

「最後に、プログラム38番、龍聖学園高等部」

 

 野太い歓声が響き渡る。ダークホースと睨んでいた龍聖は、その予想通り関西に駒を進めた。その姿は、去年の北宇治と重なる。きっと彼らは全国に行ける。月永源一郎はそういう指導者だ。そうなったとき、北宇治は同じように全国に行けるだろうか。今日の演奏は悪くなかった。技術的には去年よりずっと良い。だとしても、まだ不完全な部分がある。それは主に、自由曲に。

 

 どこまで仕上げられるか。この一ヶ月、それが勝負になる。歓声と喜色に満ちる北宇治部員の中で、私の焦燥だけが浮いていた。

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