第八十八音 疾走
「浮かない顔ですね」
府大会帰りのバスの中、隣の席の先生はそう尋ねてきた。バスの車内は部員の話し声で満ちている。今回の大会の感想、それ以外の他愛ない話。何にせよ、一つの関門を突破した今、部員たちの心の中には少しの間の平穏が訪れているのだろう。それを享受していられるのは、この短い期間のみだった。明日からまた厳しい練習が始まる。そう考えれば、今の空気も悪くはない。
ただしそれは部員の話。指導陣はそんな浮かれ気分でいるわけにもいかないのが現状だった。
「思ったより、よくなかった。それが私の印象です。確かに技術的には非常に優れていた。ただし、それが技術の面だけの話。音楽と言うカテゴリー全体で見た時に、龍聖に勝っているかどうかは……難しいモノがあります」
「龍聖学園、見事な演奏でした」
「褒めてる場合じゃないですよ。まぁ、そう仰りたくなる気持ちも分かりますが……」
実際、彼らの演奏は上手かった。「白磁の月の輝宮夜」はその名の通り、竹取物語にインスピレーションを受けた話だ。かぐや姫のストーリーをなぞりながら、月の雄大さや繊細さ、幽玄な世界観と壮大なスペクタクル。世界最古のSFとも言われる古典名作を見事吹奏楽に昇華している曲が特徴だった。その演奏は非常に難しい。グレードで言えば5。最上級の難しさを誇る。その難曲を龍聖は吹きこなしていた。
同じ自由曲を選択していたら、或いは北宇治の夏はここで終わりだったかもしれない。そんな風にすら思ってしまう。私にはあの演奏でハッキリと見えた。藍色の空に浮かぶ、朧気な月の姿。まさしく白磁に相応しき、滑らかかつ高貴な白い光。音楽が聴覚に訴えかける形で己の世界を表現する芸術なのだと定義するならば、まさしく彼らの演奏は音楽であっただろう。芸術と言う意味での。
それに対して北宇治はどうか。下手ではない。当たり前だ。ただ、芸術的な音楽かと言われれば微妙と言わざるを得ない。上手いのだ。それは間違いないのだ。けれど、どこかにまだ足りない部分がある。少なくとも、リズと青い鳥という曲と物語が持っている魅力を完全に出し切れていない。その原因は、ある程度推察出来ている。
「私も第三楽章には物足りなさを感じています。アンサンブルコンテストの際、島さんを加えた傘木さんと鎧塚さんの演奏は非常に息が合っているように思えたのです。そういう経緯もあって今回の自由曲を選んだのですが……。まだ噛み合ってない。そんな印象を受けてしまいました。特に今日、実際に大会で演奏してみると、なおのこと」
「……ですね」
「第四楽章は第三楽章の内容を受けての話です。故に、第三楽章が固まらないと第四楽章の演奏が上手く行きません。このままでは土台の欠けた建物のようになってしまうでしょう」
いつか、崩れてしまう。先生はそう言いたいのだろう。第三楽章が噛み合わないのは希美とみぞれが上手く曲を掴み切れていないからだろう。私のコンセプトは既に発表した。それに至るための物語の解釈も。ただし、それはあくまでも理性面の話。感情で真にその登場人物の行動に寄り添えなければ、この曲は上手く行かないと思う。
無論、プロになれば好きじゃない話の音楽でも感情を込めて完璧に吹かないといけない。ただ、高校生に求められているのはそういう演奏じゃない。いつでも同じような均質に感動できる演奏ではないのだ。求められているのは、この時期しか出せない一瞬の輝き。刹那でありながらも、確かに存在している煌めき。ちょっと感情的すぎるくらいがちょうどいい。そういう生々しい演奏こそ、求められているのだと私は判断していた。
上手いだけの演奏なら機械で良い。人間が演奏している意味は、そこにあるのだ。
「一ヶ月、厳しくなりますね」
「えぇ、覚悟の上です」
先生はシャツで眼鏡を拭きながら言う。そのレンズの先に、どんな景色が見えているのだろう。
「橋本先生と新山先生にも本格参加して頂きますので、もっと質の高い練習が出来るでしょう」
「ですね」
「あとは全体のバランスですね。我々はどちらも奏者教育は受けていますが、指揮者の教育は受けていないですから」
先生の言うことは尤もだった。先生はトロンボーン、私はトランペット。大学ではどちらも器楽科の各楽器の専攻をしている。指揮者コースを進んだわけでは無い。今までは経験と知識と体感でどうにかしているが、実際に指揮者として活動している人に比べては劣ってしまうだろう。
「指揮者、指揮者ですか……」
「心当たりがありますか?」
「まぁ、一応は。現在指揮者として活動中の友人が一人」
「しかし、忙しいのではないでしょうか。あなたの友人はいずれも第一線で活躍中と思いますが」
「そうですね。ただ彼は私が呼べば来ますよ」
「その心は?」
「高い日本酒出せば釣られてきますよ。そういう人間なので」
この前希美と行った演奏会の際に、ディートヘルム経由で借金をやっと返してきた。あの酒とギャンブルを止めない限り永遠に貯金は出来ないと思う。付き合ってる分には悪い人ではないのだが、如何せん少々教育には悪いかもしれない。
「それに、こちらの演奏を送れば何らかの返信は来ると思います。わざわざ呼びつけるよりは、そっちの方が良いでしょう。意見を聞くくらいがちょうどいいと思いますので」
「分かりました。お願いできますか?」
「無論です。取り敢えず、府大会の演奏を送ってみますね。反応があればお伝えしますので」
「分かりました」
ひとまずやるべきことは決まった。まだまだ前途は多難。やらないといけないことは多い。それでも取り敢えず、今は目の前にある課題を一つ一つ潰していくしかないだろう。そうやって踏み固めていった道の先にしか、未来は無いのだから。
夏の香りは一層濃くなり、もう本格的な暑さが肌を焼くようになった。北宇治吹奏楽部は見事、京都府大会を突破して関西大会へコマを進めた。サラッと言っているが、一昨年までと比べればこれがどれだけの快挙なのか。あの日の私たちに北宇治が関西へ「予定通り」進出したと言ったら誰が信じるだろうか。
朝っぱらからうだるような暑さになりつつある中。歩く歩調は重い。単純な暑さと、そして悩み事によって足におもりがつけられているようだった。迷走しているように見える人間関係。それと同時に比例してのしかかる演奏面の問題。正直、今のままでは関西を無事に通過できるか怪しかった。
当然このままの練度で関西へ進出という訳が無いので、より実力をつけるのは間違いないだろう。去年までの明静工科の特別顧問が龍聖へ移ったと言うのだからこの結果もおかしくは無い。この下馬評を覆しての上位大会進出はいつか自分たちの見た光景を思わせた。
ともかく、このままではいけない。特に自由曲の「リズと青い鳥」。これをどうにかしない事には始まらない。何度もそう思っているのだが、中々良い解決策は思いつかなかった。中でも第三楽章のフルートとオーボエの掛け合い。ここが一番の不安要素だ。そしてその両楽器の奏者である希美とみぞれの進路。これも悩みの種になっている。自分の進路だから自分で決めてもらわなくては困るし、他人の進路なんて気にするものでは無いのは分かっているが、それでも無視できるはずもなかった。
希美は迷っている。おそらくみぞれの進路は半ば決まった。音大へ行く意思はありそうだ。しかしながら、それはそれとして今の彼女の演奏が本当に実力通りかと言われれば、疑問を投げかけざるを得ない。スポーツも学問もそうだが、音楽も奏者のメンタルで大分変ってくる。体調、精神状態などで本来の実力を出せないこともざらにある。
希美の考えはまだ読めない。一応暫定的に二人は同じ進路を選ぶことになっているようだが、希美がそれを選んだ理由が何なのかはまだ分からないままだった。元々音大に興味を示している訳でもなかった。最近ではどうも諦める理由を探しているような気がする。その予感が正しいのかも謎のままではあるが、今日もオープンキャンパスに行っておりいないのが、私のこの推論の真実味を勝手に増していく。
「はぁ……」
すっかり板についてきてしまったため息を吐きだし、無理矢理歩を進める。考えても仕方なかったのだから。願わくば、己の行きたい道を見つけそこを歩めることを願うばかりである。そう出来ない者もこの世界には多くいるのだから。私の、父のように。或いは、かつての妹のように。
その妹は、暑い朝の街を平然とした顔で歩いている。その薄い色の肌には、汗が出てない。まるで雪の国から来たのかと思われるような白い肌と涼し気な顔は、涼音と言う名に相応しい。名は体を表すというけれど、そう言う感じだった。私は凛としているのだろうか。自分で考えても、よく分からない。凛、と言うのは悩んでばかりのような気がする。
「兄さん、辛気臭い顔だね」
「仕方ないだろ。そっちだって分かってるんじゃないの、第三楽章が悩みの種だって。第四に行きたいのに、第三で止まってるんじゃどうしようもない」
「希美先輩とみぞれ先輩、か。リズがオーボエで、鳥がフルートなんでしょ、楽譜だと」
「基本は。大人っぽいリズはしっとりと深みのあるオーボエで、フルートが鳥なのはよくある表現だな」
「まぁそうなんだけど……」
「何か、引っかかる事でも?」
「う~ん、そこまでじゃないけど。ホントにそれで良いのかなって。と言うか、楽譜上はそうでもそれを実際の人間関係に当てはめると良くない気がする。あくまでも物語は物語、音楽は音楽なんだし。実際の人間がそうとは限らないでしょ。希美先輩が青い鳥で、みぞれ先輩がリズ。それは間違って無いと思うけど、正しくもない気がする」
「なるほど」
彼女の中でもまだ答えは出せてないのだろう。だからか、いつになく歯切れが悪い。それでも何かしら掴みかけているモノがあるのだろう。彼女の声は、そういう声だった。まだ人気の少ない朝の学校に着く。夏なので既に太陽は煌々と私たちを照らしているけれど、冬ならまだ暗いだろう時間帯。そんな時間に学校にいる生徒は、吹奏楽部くらいなものだろう。祝・関西大会出場の垂れ幕が熱風にはためいていた。
漫然とした意識の中で人通りのない廊下を歩く。廊下に流れる空気は湿気と高温を含んでいるものの、普段のせわしない学校生活の空気とは異なりどこかのんびりとしていた。もしくは停滞していたとも言うのかもしれない。ぼんやりとした気配の中でポロンポロンと言う旋律が聞こえてくる。音は音楽室のグランドピアノのものであるとすぐに分かった。BGMのように流れるメロディーは光景に色を与えていた。
辿り着いた音楽室の中からは話し声が聞こえてくる。声色的におそらく四人。熱心なことだ。とても素晴らしい。がらりと扉を開ければすかさず挨拶が飛んでくる。それに返答しながら扉を閉めた。窓を開けてはいるものの暑い音楽室にウッとなったのですかさず冷房のスイッチを勢いよく押した。
「おはよう」
「おはようございます。冷房付けて良いんですか?」
「いいよ。私が良いって言った」
「それ何の解決にもならないんじゃ……」
困ったような声で言う黄前さん。彼女と他には高坂さんがいる。また、一年生のユーフォニアム担当久石さん。いつぞやの思い出が蘇る。そしてオーボエ担当剣崎さん。あのみぞれの後輩である。最近はキチンとコミュニケーションが取れているようで、ちょっと安心していた。そして最後にピアノの椅子に座った先ほどの演奏の奏者、みぞれ。合わせて五人である。
「おはようございます」
優雅に頭を下げながら、私の後ろから妹が入って来た。私にとっては後輩の高坂さん達も、彼女にとっては立派な先輩だ。
「希美先輩はいらしてないんですね」
私たち二人しかいないことに疑問を覚えたのか、高坂さんは言う。その問いにみぞれは僅かに顎を引いた。
「今日はお休み。オープンキャンパスに行った」
「あれ、みぞれ先輩は行かないんですか」
「……私は志望校一つだけだから。希美は色んな学校見に行ってるけど」
おい、お前も行けよと思ったが呑み込む。自分も同じようなことを異国の地で考えていたのを思い出した。今思えば傲慢な事だが、落ちる可能性を微塵も考えていなかったのだ。とは言えこのままどこも行かないのはよろしくない。オープンキャンパスに行くようにと夏季休暇の課題として出されているはずだ。適当にどこかを見に行けば? とアドバイスしようとしたところで剣崎さんの誇らしげな声が入る。
「みぞれ先輩、試験に向けてピアノもやらなきゃいけないんですって。あと、音楽理論の勉強もあるらしいです。音大入試って本当に大変なんですね」
結果的に話を遮られたので仕方ない、後ででも良いかと思い彼女たちを横目に机を引っ張り出して楽譜を広げる。部活の物ではない、自分のオーディション用だった。オーディションは年明けの一月。丁度皆がセンター試験を受ける最中、私は異国へ飛び立つことになりそうだ。半年先だが、練習は早いに越した事は無い。ペンを入れる私をよそに会話は続いていた。
「高坂先輩も音大志望だって以前に聞いたことがあるんですが本当ですか?」
愛嬌たっぷりと言う様子で言う久石さんの問いに、高坂さんは何でもないかのようにまぁねと言って鞄を椅子においた。
「でもでも、三年生から音大受けよーって決めるのって結構珍しいですよね。高坂先輩みたいに結構早くから決めてる人が多いイメージがあります」
「三年生になってから決める人も珍しくはないけど、有名な高倍率校とか海外とかだとかなり早い段階で決めてる子が多いと思う。特にバイオリンとかは小さい頃から取り組んでる子が多いかな。あと、学校によっては国語とか英語みたいな筆記があるし」
「えっ、勉強しなきゃダメなの?」
黄前さんの驚きの声。まぁでも結構いるのだ。音大受験=センター試験や受験勉強などいらないと思ってる人は。志望校じゃない学校の入試科目なんて調べないし、特に音大みたいな専門系の学校なら尚更だから仕方ないのだろう。私だって日本の大学制度のことはあまり詳しくない。涼音が受験生になるまでには勉強しないとダメだろう。
「基本的に技能の方が重要視されるけど、そりゃあ筆記の結果が悪すぎたら合否に影響出るよ。受ける学校によって内容は違うだろうけど、専攻する楽器の技能、副科のピアノ、あとは聴音とか楽典とかそう言うのが入ってくる」
「やること一杯あるんだね」
「だから早めに決めるの。対策する時間、足りなくなるし」
なるほど、と頷く一年生二人の後ろでみぞれが頷いているのを見ると不安しかない。
「まぁその辺は桜地先生に聞いた方が良い。私より生の体験談が聞けるはず」
こちらに飛んできたので顔を上げる。
「私の話した方が良いの?」
「是非お願いします」
直属の後輩からの熱心な眼差しに断る理由もなく、取り敢えず話し始めた。
「まぁ我が母校の入試はドイツ語と英語の筆記、楽典、譜面書き取り、専攻の課題曲と分散和音、新曲視唱、聴音、ピアノ、小論文だったかな」
「凄い多いですね……」
「名門校だからね。あんなんでも」
げんなりした声の黄前さんに応える。
「当然言語は全部ドイツ語。書くのも喋るのも読むのも。母親に教えてもらいはしたけど、滅茶苦茶大変だった。海外に行くなら英語圏をお勧めするね。英語ならまぁ、何とかなるから。間違ってもフランスとかイタリアとかドイツを選ばない方が良い。英語圏は良いんだけどね。一年生からやってるならともかく、三年から第二外国語は普通に死ぬと思う」
高坂さんはメモ帳を取り出してメモってる。明らかにペンの動きが続きを催促しているので話を続ける。
「アメリカとイギリスと……後はさっきの理由であんまりお勧めはしないけど、ドイツなら幾つか紹介できる大学もある。まぁ海外留学なら個別相談受付中。実力が確かなら紹介状も書ける。最後の砦くらいにはなるはず。ピアノはソナタ系が多くて、専攻楽器の課題曲はトランペットだとJ.B。アーバンとかが多いイメージ。日本だと英検とか持ってると筆記の英語が免除になるパターンがあるかな。ちなみに、私の代のオーボエの課題曲はフェルリンクの『48のエチュード』だった」
ほへぇ……と気の抜けた声を漏らす一同を見て肩をすくめながら思い返す。
「実力主義社会だからね、一応は。出来ないと容赦なく色々言われたりもする。かく言う私も、向こうの教授から散々言われてきたからな。ひどいときはとっとと帰ったらどうだ東洋人とかも言われたさ。ま、実力を示せれば認めてくれるんだけど」
「大変なんですね……」
「まぁ楽しい事もあるんだけどね。大変な人は大変だろうねぇ」
「ありがとうございました。参考になります」
「うん、受験になったら相談してくれればまたいつでも話は聞くから」
「その時はよろしくお願いします」
「任せて」
高坂さんがメモ帳をしまう。彼女の進路決定は来年だ。音大に行くのはそうなのだろうけれど、どこの大学に行くのかはまだ決まってないらしい。父親の地盤があるアメリカが最有力だろうけれど、私のホームグラウンドのヨーロッパも視野に入れているらしい。
「ピアノ、昔から習ってたんですか」
黄前さんが何となしにみぞれへ問いかける。
「うん。お稽古で、音楽教室へ通ってたから」
吹奏楽と直接の関連があるかと言われれば微妙ではあるが、吹部の部員の特に女子にはピアノ教室出身者が多い。音階や音符などの基礎知識や感覚を身につけられるからだろう。指さえあれば出来るので楽器の中では簡単な部類だと個人的には思っている。
「私も昔教室に通ってたんですけど、家にピアノ無かったんでキーボードで練習してたんですよー。先輩のお家にはピアノあるんですか?」
「うん、これと同じやつ」
指を差されたのは眼前のピアノ。グランドがあるとはまた豪勢な話だった。剣崎さんでは無いが、案外ピアノを習っているけど家に無いと言う人は多い。金銭的な問題や、集合住宅だとスペースや近所関係も考えなくてはいけないからだ。
「これって、もしかしてグランドピアノですか?」
「そう」
「えーっ! 家にグランドピアノですかー……。よく考えたら先輩のオーボエってマイ楽器なんですよね? オーボエを個人で買えるなんて、もしかしてみぞれ先輩ってお嬢様なんじゃないですか?」
「全然普通」
「でも、オーボエって高いじゃないですか。私の家だったら絶対買えませんもん」
オーボエやファゴットは高い。彼女のモデルだと90万前後だろうか。持っていない団体もあるほどだ。構造の複雑さなどからかなりのお値段になっている。経験者でも持っている人はごく少数だった。楽器は早ければ早いほど一般的には大成する可能性が高い。そして早くから楽器を与えられる家は総じて裕福な傾向にある。スタートから平等では無いのだ。私とて、生まれた家のおかげで色々好き勝手出来たし、楽器も持っている。
「音大自体かなり学費高めですもんね。そうやって考えると、先輩のお嬢様説の信ぴょう性が増してきますね。いいなー、一回みぞれ先輩のおうちに行ってみたーい」
「別に、いいけど」
「えっ、ホントですか。やったー、うれしー」
間延びした声に対し、随分思い切ったお願いをするもんだと苦笑する。
「そんな大した家じゃないけど、来たいなら」
「あれ、鎧塚家ってあそこでしょ、ほら、三丁目の角の白い三階建ての。庭に薔薇のアーチかなんかある」
「そう、そこ」
「ああ、あのでっかい家か」
「……鏡いる? そっちの家にもあるでしょ、グランドピアノ」
「いりません。確かにあるけど、うちはただ外側がデカいだけだから。お洒落度が足りないよ、あんな幽霊屋敷」
「お二人とも良いですね。私なんてマンションで……。部屋は狭いし、壁は薄いし……」
黄前さんはため息を吐く。お姉さんがいると言っていたし、壁が薄いのは嫌なのかもしれない。隣の芝生は青く見えるというけれど、そういうモノなのかもしれない。狭い家の方が掃除も楽そうだと思ってしまう。
「え、ウチの家幽霊出るの?」
「さぁ。一応見たこと無いけど」
「ちょっと止めてよ、住んでるこっちは死活問題なんだから。ホラー映画で笑ってる兄さんとは違うの」
妹は語気を強めに言う。それを見た久石さんがぷぷぷと口を抑えながら笑いをこらえていた。
「桜地さんは幽霊が怖いんですねぇ」
「……そうですが、悪いですか?」
「いいえ? でも、少々子供っぽいところもあるのだなぁと。あぁそう言えば、クラスの子が話していましたが、調理実習で大きなミスをしそうになったとか」
「奏ちゃん、ちょっと……」
煽り口調の久石さんに、黄前さんがストップをかける。露骨に喧嘩を売られている妹は、顔に薄っすら青筋が走っていた。あんな分かりやすくイラっとしているのは久しぶりに見た気がする。外では感情を抑えがちで努めて冷静にしているので、それが崩れるのは珍しいことだった。
「料理なんてレシピ本を見れば余裕じゃないですか」
「人には得意不得意があるのです」
「それなら出来る人にでも聞けば良いんじゃないですか? 親とか」
「……」
音楽室の空気が二度くらい下がる。冷房が真価を発揮したわけでもなく、空気が重くなった。高坂さんと黄前さんはいたたまれない顔をして、みぞれは黙って視線をずらす。剣崎さんと久石さんだけが急な沈黙に戸惑っていた。凄まじく悪気があって言ったわけでもないだろう。お互いにジャブを放っていた時に、不意に深いパンチを出してしまった感じなのだ。仕方ないので少し助け舟を出すことにした。
「まぁ、そう出来たらいいんだけどね。私も頑張って教えてるんだけどさ、逃げ回ってて。良かったら、久石さんと剣崎さんもちょっと教えてあげてくれると嬉しい。ウチ、親いないからさ」
久石さんはしまった、という顔になった。その後バツの悪そうな顔になる。ここですぐに反省できるのだから、根は悪い子ではないのだろう。
「それは……ごめんなさい」
「別に、しょうがないことですから。気にしないでください」
涼音は静かにそう言う。久石さんは剣崎さんに頭を引っぱたかれた後、黄前さんにも怒られていた。重い空気を変えるために、少し話題を転換する。
「ピアノと言えば、今年もソロコンやるの? ちょっと気が早いけど」
「私は出来るなら、やりたいです。もう一回チャレンジしたいので」
高坂さんは意気込みを語る。出来れば彼女は殿堂入りしてくれた方がチャンスの幅が広がるのだけれど……とは言え、そういう理由で出れないのは納得できないだろう。私が奏者だったらそう思うので、これは言わないことにした。
「ソロコンですか?」
「去年やったんです。垂れ幕があったでしょう? 剣崎さん達が入学した時に」
「あぁ、ありましたねぇ」
「あの伴奏は私が担当なんです」
今年の二年生と一年生は合わせて66人。そこから5人を選ぶのだ。希望制にしたとしても去年より倍率は相当高くなる。高坂さんとて油断はできない厳しい戦いを強いられるだろう。
「高坂さんと、みぞれと、希美と、川島さんと、パーカスの井上さんで京都予選に出て、前三人が関西。高坂さんだけ全国。五人分伴奏覚えないといけないので結構大変で……」
「桜地先輩ピアノもお上手なんですねぇ、多才です」
「まぁ昔習ってましたから。トランペットに出会わなかった場合、もしかしたらピアニストになってたかもしれませんし」
トランペットに出会ったのは本当に偶然。母親も別にわざわざ勧めてはこなかった。だからもしかしたら、出会わなかった世界線もあるのかもしれない。今思えば、あの時に出会ってそして始めようと思ったことが私の人生の、最初の分岐点だったようにも思う。
「人生、分からないモノですから。どんなことをするとか、どんな進路を選ぶかとかも」
「進路かぁ……」
「黄前さんは、進路は未定ですか?」
「はい、まだ全然。目の前のことやるのに精いっぱいで。ダメだなぁって思ってるんですけど……」
「ダメではないですよ。自分なんて探したって見つかりません。進路も同じです。今を一生懸命やってない人に、何が見つかるというのでしょう。悩んだ末に出した答えは、どうあっても違う選択肢の可能性を考えてしまいます。それでも走り切ろうと思うことが大事なんですよ。悩んでください。その悩みは、絶対に無駄ではないはずです」
これから、どういう道を選ぶのかは分からない。それでも、色々悩んだことは絶対に次に繋がるはずだ。彼女のように、目の前のことを精一杯、全力で取り組んでいるのなら、必ず。
「社会に出たら間違いは許されません。でも、学校は間違えられる場所ですし、悩める場所です。悩んで、そして時には間違いながらも進めばいい。私はそう考えています。大事なのは、間違いに気付いたときに正せるかどうか。悩んだ末に、それでも答えを出せるかどうか。だから、今を全力で駆け抜ければ良いのです。結果は後から付いてきますよ、必ず」
黄前さんは小さく頷く。彼女の未来にも、希望があって欲しいと私は願っている。きっと彼女は大事なピースになるだろう。来年の部活を作る上での。高坂さんは良くも悪くも中心にいないといけない人だ。その彼女を孤独にしないということが出来るのは、黄前さんと吉沢さんしかいないと考えている。それに、彼女は今までも多くを悩んできた。それでも行動しようとしていたし、自分で考えてきた。それを私は好ましく思っている。
「今を、駆け抜ける……」
少し安堵したような顔の黄前さんとは対照的に、私の後ろでみぞれが呟く。彼女の瞳が見ているのは、果たしてどこなのだろうか。チラリと視線を送れば、彼女の瞳はピアノの譜面と今は空席なフルートの一角との間を彷徨っていた。過去と、現在を行き来するように。