青い空には燦々と光を地上へ降り注ぐ太陽と真っ白な雲が幾つか浮かんでいる。ターコイズブルーの水面が揺らめく。絵に描いたような夏。塩素の香りと、青春の香りと、ほんの少しの寂しさを含んだ匂いが鼻をくすぐる。ターコイズブルーなんて洒落た名前を教えてくれた人は自分の隣で暑さにやられている。
目を細めながら「日本暑すぎ……。北海が恋しい」とぼやいているのを横目に見ながら、水着の紐をいじる。青いシャツに茶色のズボンの彼は泳ぐスタイルでは無かったが、一応空気を読んだのかシャツの下に下着はない。ボタンを適当に止めているせいでチラチラと肌が覗く。細い体躯ではあるがしっかり引き締まっており、お腹とかは特にしっかり筋肉が見える。
そこまで考えて危ない扉を開きそうになっているのに気づいた。慌てて目線を逸らす。こんなことならもう少し絞ってから来ればよかった。お腹が出てないかとか腕や脚がぷくぷくしていないかを確認してしまう。
北宇治吹奏楽部のメンバーの数人で今日は、プールに来ていた。
元々、みぞれを誘ったのがきっかけだった。去年一昨年と行けなかったのだから今年くらいはと思ったから。凛音を誘うには私の勇気が足りなかった。強引に水着を披露する自信が無いからという事にして自分を慰めていた。
ともかく、みぞれを誘うと意外なことに他の人を誘いたいと言う。断る理由もなく、了承すればあれよあれよと人数は増えていった。自分、みぞれ、優子、夏紀、久美子ちゃん、高坂さん、加藤さん、川島さん、久石さん、剣崎さん、涼音ちゃんとメンバーが増えた。おお、めっちゃいるなぁと思っていたら、何を思ったのか荷物係とボディーガードだと涼音ちゃんが言って話をしていた近くで掃除をしていた凛音が巻き込まれた。
女子しかいない空間に行きたくないと抵抗していた彼であったが、涼音ちゃんから何かを囁かれて陥落した。何を話したのか知らないけれどちょっと怖い。そしてしまった、と思ったけれど後の祭り。水着の買い替えと最後の抵抗として数日の食事制限と運動が決定した瞬間だった。
彼は、「私は日陰で荷物見てるから、遊んでおいで」と半分無理矢理連れてこられた上に涼音ちゃんに出店にてたかられているのに聖人のような言動をして、暑いなぁと言いながら日陰でのんびりとこちらを見ながら過ごしている。ボーっとする時間が少なく、ここのところ忙しそうだったから良い休暇だとは涼音ちゃんの談だ。
一年生なのに自分よりいい発育をしている後輩に血の涙を噛み締めながら後輩たちの様子を確認する。最近の若い子は発育が良くて羨ましいと悲しい感想を抱きながら、ペタペタとプールサイドを歩いた。頑張って買ってみた水着は、最初に更衣室から出て合流した後に褒められた段階で今日の役割を終了させている。
後輩たちに声をかけて、浮き輪を膨らます競争をしている夏紀と優子、それに付き合っているみぞれをチラリと横目で流し見てプールへ誘う。小さく胸の中で疼いたものを無視する。きっとセミの声がうるさいせいだろうと強引に解釈した。
膨らませたボールを使って学年ごちゃまぜのビーチ―バレーのようなものが行われている。後輩に頼まれた分のかき氷を持ちながらそれを眺める。溶けてはいけないからあわてて運んだ。
「ありがとうございます」
久美子ちゃんのお礼に片手をあげて答える。休憩タイムの彼女は日陰の芝生の上で休んでいる。優子の持ってきたシートの上で体育座りだった。近くでは別のシートの上で荷物と一緒に凛音が寝ている。どこからか持って来た麦わら帽子を顔の上にのっけて寝息を立てていた。
「好きなんですか? それ」
指をさされたのは自分のイチゴ味のかき氷。なんでこれを買ったのか自分でも良く分からなかった。
「いや、食べたことなかったから選んだだけ」
宇治金時なんて言う結構贅沢なものを売っている、そこそこ大きな露店だった。久美子ちゃんの希望はそれ。彼女の手の中で氷と緑の液体と白い白玉が上下する。自分のヤツの上に乗っている季節外れのサクランボをつまむ。シロップの味がした。
「どう? これ」
「わぁ、凄いですね」
ヘタを口の中で結べるのは小さな特技だった。これが上手い人はキスが上手いとか言う謎の俗説を聞いた時は赤面したのを思い出す。
「あれ、ホントにバレーなの?」
「バレーと言うか、もはやルールは何でもアリみたいな感じみたいですけどね」
高坂さんのアタックを華麗に涼音ちゃんが防いでいる。高身長な彼女はバスケもバレーも得意なようだった。他の一年生二人もいい運動神経をしていて、動くたびに何とは言わないが揺れている。
「一年生、運動神経いいねぇ」
「三人ともオールマイティーなタイプですからね。桜地さんに関してはお兄さん譲りと言うか……よく似てますね」
「だね……。特に久石さんとか剣崎さんは生き方が器用そう」
「そんなの分かるんですか」
さぁ? と肩をすくめる。それを断言できるほど私は二人と親しくなく、人生経験も豊富じゃなかった。空の雲はゆったりと流れる。プールサイドの放つ熱気は水に触れて中和されている。日差しは木漏れ日になってここには優しく降り注ぐ。
「去年もさぁ、こうやって二人で喋ったね。覚えてる?」
「それは勿論」
あの時話して良かったと私は今でも思っている。後から聞いた話だけど、彼女は凛音へ説得のようなことをしてくれたらしい。そのおかげで、少し態度が変わるきっかけになったのだとすれば、こんなに嬉しい事は無い。昔を想うと自分の心の中でチクチクと刺さるものがある。奥歯に張り付くような甘さのシロップのかき氷を咀嚼する。
「あの時もだけど、いままで色々迷惑かけちゃってごめんね」
「いえ、全然。こっちも無駄に首突っ込んじゃったといか……」
「突っ込んでくれてよかったよ。私もきっと、誰かに話したかったんだと思うし。なかなか当事者に話せない事ってあるじゃん? 今のところ結果オーライだし」
過去の想起は自分の現状を思い起こすには十分すぎる材料だった。停滞した自分。何者にもなれず、行き詰った自分。どうしたら良いのか。どうすれば良いのか。そんな事も、もう分からなかった。自分が今下手くそな作り笑いをしているのだけはよく分かる。そしてこの後輩にそれが見抜かれていることも。
「久美子ちゃんはみぞれとも仲良いんだよね」
「みぞれ先輩がそう思ってくれればいいんですけど」
「謙遜は良いって。みぞれと話してるとこ見ればわかるよ。あの子、昔からあんまり人に心開かないからさ。だから、こうやって……」
目の焦点をここじゃないどこかに合わせる。そしてすぐにプールのみぞれに目を向ける。優子に手を引かれていた。剣崎さんが浮き輪を差し出している。バレーはもう終わったのだろうか。こんなこと言うべきではないと分かりつつ、言葉は勝手に口から零れる。
「こうやってみぞれがワイワイしてるのを見ると、変な感じがする」
シャリと、自分のスプーンとかき氷がこすれて音が鳴る。セミの声が一層激しく聞こえた。雲が影を落とす。そうですか、と相槌が来る。
昔は三人だった。そこに夏紀と優子が入って五人になった。けど今は……。そこまで考えてぼんやりと思う。自分はみぞれに違和感を感じてるのではなくて、変わりたくない、今のままで居たいと言う感情がみぞれの変化に拒否反応を示しているのかもしれない、と。昔に比べて大分自己分析だけは上手くなった。けれど、肝心なところでそれは仕事をしない。この自己分析の原因はまだ寝息を立てている。帽子をはぎ取って口にスプーンをツッコミたい感情に囚われた。
「ソロも上手く行かないし、私とみぞれって本当は相性悪いんじゃないかって最近は思ってて……」
「それはないと思いますけど!」
声を荒らげた久美子ちゃんが真っすぐにこちらを見てくる。その目は私を断罪するようだった。冷静になったのかアタフタとし始めた彼女に緊張がほどける。
「あ、いや、ほら、あのー……みぞれ先輩に限ってそんなことないですって。今日だってプールに誘われて喜んでたみたいですし。それに先輩たち、同じ志望校なんですよね? 嫌な人とか波長の合わない人と同じ志望校に行きたいって思う人はいないと思うんですけど」
「志望校、かぁ」
吐き出したため息が熱気に呑まれて消える。ポニーテールの毛先を手で払う。濡れていた髪はいつの間にか乾いていた。何かを誤魔化すようにかき氷をかき込む。こめかみが痛む。また雲がどこかへ行って、太陽の灼熱の光線が降り注ぎ始めた。嚥下した氷でむせた。
「先輩はみぞれ先輩と同じ音大に行くんですよね?」
後輩のその問いに何も答えられなかった。もう一度すくった氷を口に入れる。ジワンジワンとどこかで蝉が一層強くなく。時間はいつの間にか大分過ぎていた。また雲が陽光を隠す。
「希美先輩?」
再度呼びかけられた問いに無理くり口角を上げる。
「自分でも良く分からなくなっちゃってさ。凛音の話を聞いて、楽団の演奏を聴いて。より一層分からなくなった。元々はもっと浅い悩みだったからさ。色んな事を聞いて、知って、大分進展したんだけど。それこそ昔の方がどうするべきか、どうしたいのかわかってた気がする。後は何になりたいのかとか」
「何になりたいのか……」
「そっ。小さい頃は将来の夢なんて簡単に言えた。ケーキ屋さんになりたい子もいたし花屋さんもいたなぁ。私は確か、ライオンと結婚するとか言うよくわからない事を言ってた。将来ってもっとずっと遠いものだったし、なんなら自分はずっとこうなんじゃないかと思ってた。現実感が全くなくてさ」
「それは、私も分かります」
幼い頃の一日は長かった。一年先は遥か彼方で、将来は輪郭の無い虚像だった。どんな仕事をしたい、どこへ行きたい。誰と結婚したい。未来は無限大で、自分は何でもできたしなんにでもなれた。けれど、大人に近付くにつれその夢は少しずつ現実に浸食されていく。将来はすぐそばまで来ている。そして、自分の隣にいた人は自分の意思で一歩を踏み出した。その結果がベルリンに行くという決断だろう。追いつきたい、隣に居たい人ほど背中を見せながらどんどん先へ行ってしまう。青い鳥のように。追いつこうにも、私には羽が無かった。
小さい頃は神様がいて、不思議に夢を叶えてくれる。そんな歌詞の一節を不意に思い出した。
「高三になって、卒業が身近なものになって、そこで初めて大人になってどうしようって真面目に考えるようになった。プロになりたい、自分の好きなことをしたいっていう気持ちは嘘じゃない。でも、そんなの皆持ってる。好きを貫けるのは一部の人だけ。そんなものじゃ食べていけないのも頭じゃ分かってる。現実的に考えれば頑張っても……もし音楽に携わるなら先生とかが可能なラインだって理解してる」
目を伏せればさっきよりも強く塩素の匂いが鼻を刺激した。吹き抜ける風は木を揺らし芝生を駆け抜ける。キャハハハと無邪気に駆け回る子供たちにいつかの自分を重ねた。世界は自分の悩みとは裏腹に恐ろしいほど平和だった。
「フルートは大好き。それだけは本当。でも、本当に音大に行けるほど実力があるのか。もし行けたとして自分は何になりたいのか。プロ? 教師? その他の何か? それを選べるだけの力は自分にあるのか。吹奏楽みたいなみんなで頑張る空間が、行為が好きなだけじゃないのか。楽器自体は大人になっても続けられる。前にいた社会人楽団とかはみんな仕事をしながら趣味で楽器を続けていた。それじゃダメなのか。私の欲求は実は全然ベクトルの違う何かがごちゃまぜなんじゃないか」
怒涛の勢いで口から飛び出た言葉たちはとどめなく流れ、水の中に消える事もなく自分の周りに鎖のようにとぐろを巻く。何故ならこれは自分自身への問いだから。メビウスの輪のような自問自答が続いている。多分、ずっと。
言葉に縛られ、縫い付けられた不安とは刺繍だ。凛音はそう言った。表は綺麗に取り繕われて、裏は糸がぐちゃぐちゃなんだと。私は表側だけでもせめて綺麗だろうか。口を開く機会を失っていた久美子ちゃんに気付き我に返る。自分の世界に閉じこもっていた。
「こう、思考があっち行ったりこっち行ったりしてて、ずっと考え中って感じ。進路調査も結局白紙だったし。それはみぞれも同じだったんだけど……」
「みぞれ先輩は希美先輩が志望校で、進路で悩んでるのを知ってるんですか?」
どこか責めるような声に唾を飲み込む。その問いに込められた真意は直に分かった。そしてそれに即答できるほど、私の面の皮は厚くなかった。だから誤魔化す。
「そんなの、わざわざ言うものじゃないでしょう?」
「そうですか?」
「そうそう」
ベチャリと溶け始めた氷がスプーンから落ちる。あーあ、と言おうとして言えなかった。私の答えは最低だ。そんなの分かってる。かき氷はいつしか水になりつつあった。薄いシロップには前みたいな味はしなかった。
「ま、何をどうするにしても、まずは勉強かな。普通の大学にしても音大にしても筆記試験はあるし。あ、みぞれから聞いた? 受けようとしてるの、滝先生の出身校なんだよね」
驚きを顔に浮かべる後輩に、やっぱりと呟く。
「みぞれ、そういうこと興味なさそうだしなぁ。あの大学さ、私立で、しかも倍率も高いし、奏者コースだと本当はもっと早くから対策しとかないと受からないみたいなんだよね。それこそ一年の頃から。そういう子がほとんどみたいだし」
「希美先輩はどうしてそこに行きたいと思ったんですか? こう言ったら何ですけど音大なら他にもあるじゃないですか」
「それは」
自分の頬が強張るのが分かった。目が泳ぐ。自分の身体から急に温度が抜ける。雲はさっきから太陽を覆ったままだ。すっかり中身の溶けたかき氷のカップを握り、唾を飲み込む。足先を丸めるとカサカサとシートが音を立てた。
喉を言葉が通りそうで通らない。さっきはあんなに饒舌だったのに。丸めた背を無理矢理に伸ばす。太ももを水滴が流れる。どうやっても取り繕ろうのは無理そうだった。直視したくない自分の醜い部分から目を逸らし、雲で覆われた太陽のように隠す。笑うしかできなかった。誤魔化しへの笑いでもあり、醜さから目を逸らす自分への嘲笑でもあり、逃げる自分への軽蔑でもあった。
一瞬だけ全ての音が消える。匂いも消える。
「まぁ、なんとなく」
絞り出した言葉はこんな偽りに満ちたものだった。けれど、運命は私の逃亡を許さなかった。
「ダウト」
くぐもった声がする。今一番聞きたくなかった声で、寝ていたから聞こえていないだろうと思って油断していた人の声。久美子ちゃんにべらべら話したことが全て聞かれていたら。聡い彼だ。直に私の醜さに、優柔不断さに、中途半端さに気付く。幻滅されたくなくて、腕を押さえた。自分を守るみたいに。
よっと、と言いながら彼は上半身を起こす。恐る恐る見た目は怒っているようでも軽蔑しているようでもなかった。混乱する私をよそに彼は久美子ちゃんに食べ終わったら遊んでくるように促す。ゴミは捨てておくよ、と言う彼に小さく会釈して久美子ちゃんは他の子たちに混ざりに行った。
木陰に、私たちだけが取り残された。水の香りがまた鼻を騒がせる。否応なしに現実を見る時がやって来た。
綺麗なプールの水の色。反射して揺らめく熱気が陽炎のようになって立ち上る。膝を抱えて視線をさ迷わせると、足先の水色が見える。チラリチラリと横を窺うけれど、その表情は読めない。久美子ちゃんが渡したゴミを横に置いて彼は足を伸ばす。
「いつから起きてたの」
「割と最初から。そもそも光がまぶしかったから帽子を乗っけてただけで寝たかったわけじゃないからね」
「そう、なんだ」
彼の言う事は私と久美子ちゃんの話を最初から全部聞かれていたことを示す。そうならそうと言って欲しかったが、よく考えれば勝手に来て勝手に話し始めたのは私たちだった。そう思って口を閉ざす。
「嘘は止めた方が良い。特に自分を騙す嘘は。いつか本物になってしまうから」
「……嘘って、なに」
彼ははぁっとため息をついてグイっとこちらに顔を近づける。思わず膝を抱えていた腕をほどき、後ろに座ったまま後ずさる。
「痛っ」
額にデコピンされる。思わず額を押さえる。結構痛かったので潤む目で軽い抵抗を示す。するとムギュっと頬を両手で潰される。
「ムームムー!」
声にならない声をあげて抗議すると彼は大きく笑った。
「ちょっとだけ気が晴れたかな」
「えっ」
「強引な手段だったけど、あんな陰鬱とした顔じゃ、どんな話しをしたってネガティブな方向にもってきそうだからさ」
「そう、かもね……」
少しだけ楽になった自分がいる。この気が紛れたのだって一時的な現実逃避に過ぎないのかもしれない。でも、こういうのが陰鬱とした顔から生まれるネガティブなものなのかもしれない。
「何となくな訳ないでしょ、あんなに真剣に色々悩んでて」
「真剣って……私はただ……何も決められないだけで」
「悩まないで能天気に生きてる人よりかはよっぽどマシだと思うけど。考えてるってことは、流されるままに将来を決めてる人よりはずっと、自分の人生に向き合ってるって言う事だと私は思う」
それで、と彼は区切って言う。
「どうしてあんな嘘を?」
「……言いたくない」
「軽蔑されそうだから?」
「……そう」
「なら大丈夫。そんなので軽蔑したり、嫌いになったりするほど浅い関係じゃないし。それとも私は信用できない?」
そんな事ないという言葉はあまりにも自然に口から飛び出た。いままでの言葉よりも自然に、なんの障壁もなく。勢いのある私の言葉に彼は少し目を見開きながらゆっくりとほほ笑んだ。
「どうして音大に行こうって言い出したのさ、そもそも」
「それは……」
「正直に言ってみて」
これは先延ばしにして、誰かの気持ちを無視してきた自分への罰なのかもしれない。或いは私はこのどす黒い何かを誰かに裁いて欲しくて無関係な久美子ちゃんに話をしたのかもしれなかった。自分は間違っているって、ハッキリと言って欲しかったから。
「進路希望用紙を出した時、私は白紙だった。みぞれもそれは一緒。なのに、新山先生がパンフレット渡したのはみぞれだけだった。そこで思っちゃったんだと思う。負けたくないって。おかしいよね。音大に進学することは勝ち負けじゃないし、そもそも勝ち負けなんて無いのに」
彼は口を挟まない。よどみを出し切るように、ダムの堰を切ったように漏れ出る私の独白を聴いていた。どす黒い何かが泥水のように口から飛び出していった。綺麗なプールの水面とは真反対の薄汚れた存在が、零れ落ちていく。
「本当はずっと前からわかってた。みぞれの、あの練習量に裏付けられた上手さ。でも目を逸らしてた。『みぞれより自分のほうが絶対に音楽が好き』とか言う訳わかんない自信で。けど気付かされちゃった。プロが勧めるんだもんね。本当に上手い世界に住む人から見た実力差なんてそれだけでわかる。だからその羨望、焦り、嫉妬、その他のどす黒い何かなんだと思う。それが、私に音大を受けるって言わせたもの。そのせいで私は中途半端。久美子ちゃんにも嘘ついちゃったし」
練習はしてきた。ソロコンの時に実力差があるって分かってたから、それで頑張って練習して。やっと追いつけるようになったかもしれないと思った矢先に、みぞれだけが音大のパンフレットを渡された。自分のやってきた努力は全部無駄で、まだまだ追い付けない場所にみぞれはいるんだと、ハッキリそう言われたみたいに感じたのを、昨日のことのように覚えてる。
「私は本当はもっと軽蔑されるべきだと思う。こんな色んなもので汚れてる」
そこまで言って、何も言えなくなる。これが私の全部。今持っている全ての根幹だった。ジージーっと蝉は音を奏で続ける。キャッキャとはしゃぐ声の中、此処だけが静かだった。
「そっか」
彼は呟くように言う。彼は、私と同じ側の人間じゃない。どっちかと言えばみぞれに近い人間だった。才能と努力が組み合わさっている。
「別に良いと思うけど」
「え?」
「羨望なんて幾度したか分からないし、嫉妬なんて今でもたまにしてる。でもそれは当たり前の事だと思うけど。友達相手だろうと、指導者相手だろうと。先輩、後輩、見知らぬ誰か、遠い世界にいる誰か。誰かを羨んだり妬んだりするのは当然の事じゃない? 負けたくないと思うのも、そう思って行動するのも」
「そうかもしれないけど」
「そうなんだよ。少なくともこの面に関しては私の方が一歩も二歩も先を行くと思ってる。まぁ音大進学の選択云々に関して、他の人は多分君を責めるだろうね。どうしてみぞれを振り回すのか、と」
「……だろうね」
「だけど、私から言わせれば希美も良くはないかもしれないけど、みぞれも普通に良くない。本来進路は自分で決めるものでしょ。誰かに影響されることもあるだろうし、そう言うのも大いにアリではある。でも、特定の誰かがこの道に進むからってのは違う。そんな風に選ばれた道がまともな訳ない。最近の様子を見る限り自分の意思で彼女は前を向こうとしてるから、大丈夫かもしれないけど。それを彼女が意識しているかは分からないけれどね」
「そう、なんだ」
「そして希美は恵まれてる」
「どうして? 追いつけないってわかってるのに。そんな才能が前にいるのに」
「追いつけない? それは当たり前だね。走り出してない人はどこにも行けないし、誰にも追いつけない」
思わず息を呑む。この言葉だけは、彼の口調は鋭かった。走り出してない。そうだ。みぞれは前を向いて進もうとしてる。同じ場所をさ迷っているのは、私だけだ。青い鳥に会いに行くために旅に出たリズのように、みぞれは新しい世界を目指している。私だけがどこにも行けないままだった。
「目指せるライバルが目の前にいる。嫉妬できる対象が近くにいる。それはどんなに素晴らしいことかと思うよ。生きているなら追いつける可能性がある。私はそれが羨ましい」
その言葉からは哀切な感情が感じられた。ふと思い出す記憶。彼の部屋の写真。去年の思い出がまじまじと蘇った。
「それって、あの写真の……」
「そう。……ああ、そう言えば来たことがあったっけ」
遠い雲の果てを眺めるように彼は言う。懐かしそうに、悲しそうに、それでもどこかに過去の自分を慈しむように。
「随分悩んだし、悔しかった。嫉妬も羨望も焦りもそれこそすさまじいくらいした。けれど、走り出さなきゃ意味ないって気付いた。だから追いつくために必死になった。そしてその決着がつく前に……」
唇を噛んだ彼は絞り出すように声を発した。
「事故で帰らぬ人となった」
予想してたとは言え、ショックではあった。
「結局私は一度もちゃんと勝てないまま。この苛立ちと悲しみとでぐちゃぐちゃになった私は卒業して逃げるように日本に帰った。その後にもっと凄まじい悲しみが待っているとは思いもしなかったけど……。そこから先は知っての通り。無職無所属はマズいと思い中学に編入して、希美に出会った」
どう言って良いのか、私には分からなかった。一つ確かだったのは、彼のような優れた奏者でも嫉妬して、悩んで、迷ったことがあったと言う事。そんなものとは無縁そうに見えたけれど、それはきっと私の色眼鏡。私の思う以上に彼は等身大で、自分たちに近かったのかもしれない。
「何が言いたいかと言うとだね。誰だって嫉妬するし、羨む。けれど、私と彼女の関係は良好だった。それこそ親友と言っていいほどに。そして対等だった。歩み続ける限り、彼女と私は同じ頂きを目指していた。そこに根本的な優劣は無かった。それに、音楽だけが互いを表す象徴じゃないだろう。あるのは技量の差のみ。その壁だって、絶対じゃない。大事なのは対等であるか。どんな状況でも」
「対等でいるのなんて、無理だよ。少なくとも、私とみぞれは音楽で繋がってる。音楽の力で繋がった。その関係に、音楽なしなんて……」
「本当に今でも音楽
「……」
「確かに二人の出会いに音楽は介在していたのかもしれない。けれどそれはいつまでたっても絶対なものじゃなくて、二人の関係を表し繋ぐものの一つになっているはずだと私は思う。音楽だけが二人を繋ぐものじゃない。二人を表すものがそれだけのはずがない。そして、好意100%だけの関係が存在するわけもない。恋人だって家族だって親友だって、ムカつく部分はあるはずだし」
張っていた虚勢が崩れていく音がした。自分の間違いを、愚かさを突き付けられても不思議と嫌な気持ちにはならない。むしろ、どこか晴れ晴れとした気分にさえなっていた。空にぽつぽつあった雲はすっかり無くなり晴れ渡った視界に灼熱の光線が降り注ぐ。
みぞれと私を繋ぐもの。それは音楽だけな筈がなかった。そうだったら私たちの関係はもっと淡白だ。去年の関西大会前にみぞれがあんなになる事もない。私が今こうして感情をぐちゃぐちゃにすることもない。そうじゃないのは互いに互いが特別だったから。
私は虚飾に満ちていても良好な関係でありたかった。みぞれは多分、どうあっても私といたかったんじゃないかと思う。けれどそれはダメなのだろう。嫉妬も羨望も焦りも、何もかも呑み込んで、それでも一緒にいられるのが正しい関係なんじゃないだろうか。
「人と人との関係に正解はない。あるのは、互いがこの関係がどういうものであって欲しいか、ただそれだけ」
だとしたのなら、私は……。私は、どんな関係を望んでいるのだろうか。流れるプールに流されているみぞれ。それを追いかけている優子と夏紀。後輩たちは水鉄砲で遊んでいる。涼音ちゃんが久石さんに思いっきり顔面にぶっかけられた。すぐに反撃して顔にかけ返している。
「私は、やっぱり友達は、みぞれとは対等でいたい」
「それは、音楽面で?」
ここまで色々言ってもらってその考えを崩さないほど流石に私も頑固者じゃない。ゆっくりと首を横に振る。
「私はみぞれに嫉妬してる。そんな自分が好きになれないのも、汚いなぁって思うのも事実。でも、そこから目を逸らすのは終わりにしたい。だから、全部全部ひっくるめて私は、そうなりたい」
「そうか。うん、それは……」
いいことだね、と彼は口角を上げながら言う。自分の中にいた何かが蒸発した気がした。
まだまだ悩みは残ってる。具体的な進路の事。それはみぞれを抜きにしても結構な問題だ。結局、音大に行くのか諦めるのか。夢か現実か。現実を取れと心の90%が言う。諦めたくないと執拗に残りの10%が抵抗する。そして差し当たっての演奏の問題。これもどうにかしなくてはいけない。
「私に出来るのは取り敢えずここまで。結局音大に行くのか行かないのかとかの進路のもっと具体的な話に関してはより専門家に聞いた方が良い」
「専門家?」
彼は私のその問いには答えずに、何かを思案している。
「今晩、ご飯はどうする予定だった?」
「えっと、お母さんに適当に友達と食べてくるって言って出てきた」
「そうか、それは重畳」
「?」
「今晩、暇だったらさ。うちに食べに来てよ。ご飯。そこできっと、いい話が聞けるはずだから」
「え、あ、うん。分かった……けど良いの?」
「全然問題ない。まだ作ってないからね。一人分増えた所でどうと言う事は無い。涼音も喜ぶし。あの締め切り前の画家を引っ張り出さないといけないけど……」
また何かを考えた後に、彼はスマホで何かを送信する。
「という事でウェルカムカモンだ」
「お、お邪魔します」
「それじゃ、少しゴミ捨てに行ってくるよ。そっちのカップも頂戴」
「あ、ありがとう」
随分前に食べ終わったかき氷のカップを渡す。
「じゃ、ちょっと行ってくる。ああ、それと」
何かを言い忘れたと言う顔で歩き出そうとした彼は振り返る。
「自分を軽蔑されるべき汚れた人間だと言ったけど、私はそうは思わない。軽蔑されるべきでない理由はさっき言ったように、人はだれでも嫉妬せずにはいられない人間だから。その上での行動が人としての価値を定める。そして汚れていない理由はこれに付随しているとは言え、完全に主観的なんだけど」
肩をすくめた後に彼は軽くウインクしながら言う。
「希美は綺麗だよ。初めて出会った時から、これまでも、そして今も、ずっとね」
そう言って彼は行ってしまう。数拍おいて私が絶叫しなかったのを、誰か褒めて欲しかった。
「そんなの……ズルいじゃん」
小さく呟く。私はこの時おそらく人生で初めて蝉に感謝することになった。プールの水は綺麗に輝いている。さっきまでその上に張り付いていたヘドロのような何かは、もうそこには無かった。