音を愛す君へ   作:tanuu

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第九十一音 道程 Viewpoint from 希美

 帰る方向は同じだからと電車に乗って街まで戻ってきた。みぞれは気を利かせてくれたのか下りる駅は同じだけれど、「ご飯の時間が近いから」と割と苦しい言い訳をしてくれる。私はこれに感謝しない訳にはいかないだろう。

 

 何をどう耳打ちしたのか、涼音ちゃんは最初怪訝そうな目で彼の話を聞いていたけれどピコン! と反応するように目を輝かせ、こちらをチラ見した後物凄い勢いで頷いた。ちょっと不安ではあるけれど、悪意は無いだろうし心配はそんなにしてはいない。

 

 夜になろうとも涼しさの欠片もない道を三人で歩きながら、他愛もない話をする。涼音ちゃんは私たち二人が長い事何かを話していたことが知っているけれど、決してそれに触れては来なかった。その優しさが今はありがたい。

 

「キミ、意外と久石さんと仲良いね」

「そんな事無いんですけど! 兄さんどこに目付いてるの!」

 

 キレ気味の涼音ちゃんだが軽くあしらわれている。ああ、これは夏紀と優子のパターンかなと思いながら眺める。180センチ超えの彼、166センチの涼音ちゃんと並ぶと159センチの私はチビだなぁと一瞬思うけれどよく考えれば二人が大きいだけだ、と思い直す。胸のサイズでも後輩に負けているのは情けなかったけど。

 

 もう何度目になるか分からない門を潜り、広い庭を横目に自分の家の次くらいには見慣れた桜地邸の玄関に立つ。練習のために部屋を借りているので何回も来ているけれど、それでもあんまり慣れない。普通の友達の家ならここまで緊張はしないけれど、場所が場所だけに緊張を隠せなかった。

 

 涼音ちゃんはお風呂を沸かすと言って先に行ってしまう。凛音はご飯温めないとと言いながら台所へ向かって行った。荷物を持ちながらこれをどうしたもんかと思っていると、板張りの廊下に声が響く。

 

「あら、いらっしゃい」

 

 涼音ちゃんでも凛音でもない涼やかな女声の声がする。長い黒髪に柔和な目をした二十代くらいの女の人。そしてその髪の毛には所々カラフルな絵具らしきものが付着していて、着ている服も汚れている。桜地雫さん。凛音と涼音ちゃんの従姉の人だった。家に来る回数が多ければ、顔を合わせる回数も自然と多くなる。もう何回目かも分からない顔合わせだった。

 

 最初に会ったのは文化祭の後。この家に泊まった時だった。あの時に貰った絵は今でも部屋に飾ってある。彼女が凛音に大きな影響を与えているのはよく知っていた。ある意味で、私の目指すべき存在なのかもしれない。自分の人生を、自分のやりたいように。そういう意思を貫いて今を生きている人が彼女だった。

 

「お荷物は水着ですか?」

「あ、はいそうです」

「すぐ乾きますので、一緒に洗濯してしまいましょうか」

「え、でも悪いです」

「遠慮なさらず。私の担当ですし、好きでやっている事ですから」

「それなら、お願いします」

「はい。承りました」

 

 丁寧な口調で対応されるとこそば痒い。これは生来の気質なのだろう。私から受け取った荷物を持つと彼女はおそらく洗濯機のある洗面所へ向かって行く。この広い家の間取りもやっと少し分かって来たような気がする。まだ入ったことの無い部屋も沢山あるけれど。ボーっと廊下に立っていても意味がないので、何か手伝えることはあるかもしれないとダイニングへ向かった。

 

 

 

 

 

 

 結論から言うと、大して出来る事は無かった。机を拭いて、食器を出して……とか、子供のお手伝いみたいなことしかできない。料理は作り置きしていたようだ。流石と言うべきか準備に抜かりは無い。私が来たことで一人分多くなるのではと心配したけど、明日の朝に回すように少し多めに作ってあるので丁度いいらしい。料理だけが女子力では無いけど、分かりやすい指標になってるのは事実。その点で、私はまだまだ叶わない。

 

 自分との家事能力の差にちょっと凹む。彼も、この食卓で子供の頃にお手伝いをしたことがあったのだろうか。その時の様子を見たくもあり、笑ってしまいそうで見れないかもしれないと思った。美味しい夕飯に舌鼓を打ちながら、もし彼と結婚することになった人はこの料理を超えないといけないのか、大変だなぁとぼんやり考える。ふと、この家のキッチンで料理本片手に悪戦苦闘する自分の姿が浮かんで慌てて振り払った。心ここにあらずだったせいか、熱い味噌汁をそのまま飲んでしまい口の中がわりと惨事になってしまう。アチチ、となりながら入り混じる幸福な幻想に浸っていた。

 

 ご飯の後、何か探し物があると言う話をして彼は奥へ引っ込んでしまった。涼音ちゃんはもうすぐある合宿の準備をするとかでこちらも奥へ引っ込んでしまう。残された二人で皿洗いをすることになったのは言うまでもないことだった。

 

「私が洗いますから、拭いて下さると助かります」とそう言われて布巾を片手にお皿を拭いていく。たまに高そうなのも混じっていて、あんまり気が抜けない。割ったらどうなるんだろう。ウチの家吹っ飛んじゃうんじゃないかなとか、ちょっと怖い想像をしてみた。

 

「ところで」

 

 手を止めずに雫さんは言う。

 

「詳しくは存じ上げませんが、何やら進路相談? があるとお聞きしました。こんな私が何かの役に立てるかは分かりませんがお話を聞くくらいはします」

 

 専門家に聞いた方が良い、と彼は言った。必然的に彼女がそうなんだろう。けれど、何がどう専門家なのか、私には分からなかった。締め切り前とは言え、まぁそのくらいの余裕はありますので私の事はご心配なさらずに、と彼女は続ける。躊躇する気持ちがないわけでは無いけれど、黙っていても何も進まない。私は、今までの経緯と私自身の悩みをゆっくりとポツポツ話し始めた。

 

 結局、音大に行くのか諦めるのか。夢か現実か。現実を取れと心の90%が言う。諦めたくないと執拗に残りの10%が抵抗しているこの現状をどうすれば良いのか。軽く口にしてしまったことのしっぺ返しがこの悩みなのだとしたら、私はその罰を甘んじて受けなくてはいけない。昔彼は「言霊」と言うものがあると言った。口に出した言葉はそれだけで大きな意味を持つと。その通りに私は今自分の言動によって自分の将来を、感情を、そして人とのつながりをかき乱されていた。

 

 私の話を黙って聞いていた雫さんは、話し終えた時になるほど……と小さく呟いて少し悩む素振りを見せた。言ってしまえば赤の他人。そんな人間の悩みを聞いて考えてくれるだけで、十分その優しさが伝わった。

 

「まず最初に申し上げるべきなのは、その葛藤、つまり音大へ行くか否かと言うお悩みですが、それはご両親もご存じですか?」

「……あ」

「だと思いました。現実的な話になって申し訳ないですが、この件はやはり将来を決める大事。当然ご両親の庇護のもとにあるのですから、学費等の現実的な面に向き合わねばなりません。『夢を追い求めるべきだ!』みたいな言葉の方が嬉しいかもしれませんが、人一人の人生に対しそれではあまりに無責任。夢を追うリスクを見せるのも大人の役目と考えておりますので。夢を示すのは凛音君がやってくれるでしょうし」

 

 目元は柔らかいが、その口調は決して優しさだけでは無かった。けれど、それが却って真剣なんだと思わせてくれた。無責任にはなりたくない。それは真剣だからこそ出てくる言葉だと思う。夢を追うべきだという励ましよりも、真剣に考えてくれる方が嬉しい。笑われそうな夢や悩みも、大事な事として捉ええてくれているということだから。

 

「相談、しないといけないですよね……」

「それはまぁ、はい。当然ですね。奨学金やその他の方法でご両親の援助なく大学四年間を全うすると仰るなら話は別ですが……」

 

 それは無理だとわかっている。私に奨学金を獲れるほどの能力は無い。貸与型もあるけれど、あれは借金と同じで返済に苦しむ人が多いとニュースで耳にする。

 

「ですが、それを理由に諦めてはいけません。まずは話してみる事。これが肝要です。ダメならそこで諦める……と言うのもナンセンスです。認めてくれないのならその理由と対策を徹底的に考えなくては。そしてどうして自分がその大学へ行きたいのか、学費は実際どれくらいかかるのか、就職に関してはどうなのか、世間的にそれは問題ないのか、その全てを話して熱意を伝えなくてはいけません。ご両親が根負けするくらいに」

「そう、ですね」

「まぁ私はそれが失敗したので家から飛び出ましたが……それはともかく。でも、それ以前の段階で迷ってらっしゃる」

「……はい」

「そうですね。現実的なお話はしましたし、夢を追うか否かの話をしてもいいでしょう。時に希美さんは奏者になりたいのですか? 実力云々は抜きにして」

「いえ、それは……どうでしょう、音楽は好きですけど、奏者になりたいかと言われると……」

「では、音楽に少しでも係わる仕事がしたいですか? これも実力だのは無視していただいて」

「それは……はい」

 

 そうだ。結局私は音楽から離れるのが嫌なのかもしれない。無条件にそれが出来る部活はともかく大学はそうはいかない。勿論サークルなどもあるけれど、それよりももっと深く、私はこの世界とかかわっていたかった。天才が跋扈していると彼は言った。太陽に憧れたイカロスの話を思い出す。あんな風に失墜して海に落ちてしまうかもしれない。けれど、それでも、一瞬でも良いから飛びたかった。太陽に近づきたかった。

 

「具体的に音大のどの学科に行くとどうなるのかについて私は存じ上げません。私の大学にも音楽科はありましたが、中身までは詳しくないので。そのあたりはそちらの専門家にお聞きください。ですが、もし心の中で少しでもそういった気持ちがあって、その業界で、その世界で生きる事を願うなら。その道を求める人が集まる場所に身を置くのは最善手の一つだと思います。自分の感情から逃げてはいけません。燻る火種を無視してはいけません。それはいつか、燃え広がって貴女の心を焼き尽くします」

 

 少し悲しそうに彼女は言う。その哀切な感情が誰に向けられたものか、何を原因にしているのか。それをうかがい知る事は出来なかった。

 

「夢を追うのに遅いという事はあまりありません。特に芸術は。けれど……早いに越したことがないのもまた事実です。でないと後で後悔することになるでしょう。私のように」

「雫さんは、何を後悔したんですか……?」

 

 恐る恐る尋ねる。彼女の傷を抉るかもしれないと考えるとそうせざるを得なかった。私の方をチラリとみて、そしてどこか遠いところを見ながら語ってくれた。

 

「私は今までの人生で二回、希美さんと同じような状態になりました。そして二回とも己の感情から目を逸らし、傷を負いました。一回目は中学生の時です。私の小学生時代の夢は漫画家でした」

「漫画家さん」

「はい。イラストレーターとは似て非なる職です。私の子供の頃はイラストレーターと言う職種は一般的ではありませんでしたから。ですが、私はこれを諦めます。自分にストーリーを生み出す力が無かったからです。原作を誰かに委ねるということも出来はするのですが、私は自分で作ってみたかったんですね。当時はそういう存在も知りませんでしたし。私は自分で言うのもなんですが、敏い子供でした。ですから気付いたのです。私に物語を生み出す才能は無い、と。そして二回目は丁度希美さんと同じ、高校三年生の時です」

 

 朗々と語られる話は、一人の女性の挫折の物語だった。

 

「私は漫画家の夢を諦めたものの、美術に関係することがしたかった。前にお話ししましたが、祖父が骨董系の仕事をしていましたので、その影響もありました。とは言え何が出来るわけでもなく、モヤモヤしたまま美術部に入っていました。私の高校は福岡の吹奏楽強豪の……名前はご存じではないですか? 清良高校と言うのですが。それはともかく、その部活動の一環で作品を展覧会へ出品しました。結果は最優秀賞。その時の望外の喜びの中、私の思いは一層増しました。望めるならば絵を描きたかった。ですが両親は反対します。そんな不確定すぎるものをやらせられない、と。そして当時の私は必至に自分を抑え、この願いを封印しました。そして親の望むままに受験をし、京大の経済学部に合格しこの京都で一人暮らしを始めたのです」

 

 普通に高学歴だった。サラッと語っているが、この人はそんな人生勝ち組がほぼ確定のコースから外れることを選んでいる。その決断はどれほどの覚悟を必要としていたのだろう。

 

「きっかけは一回生の秋頃でした。ふと訪れた芸大の文化祭で衝撃的な作品に出合いました。私の中で眠ったと思い込むことで無視していた感情があふれ出てきました。そして居ても立っても居られなくなり、私は両親に泣きながら土下座してもう一度受験させてほしい、大学を辞めたいと申し出たのです。しかしまぁ、結果は当然とも言うべきか拒否。次言ったら勘当とまで言われました」

 

 勘当。そんな言葉を身の回りで聞くことになるとは思わなかった。きっと、彼女の両親も真剣に反対していたのだろう。桜地家を縛っているモノは、私が思ってるよりきっとずっと大きい。この家でやりたいことをやるのは、想像よりもずっと難しいのだろう。それを突き破って今の立場を手にしている雫さんや凛音の裏には凄まじい努力が隠されているはずだ。

 

「悩んでいた時に凛音君にその話をしてしまったんです。当時彼はまだ小学生。別に有効な解決策なんか出るわけが無いのですが、何となく話を聞いて欲しくて。全部聞いた後、叔父さんが言うから諦めるの? と聞かれました。最初はちょっとムッとしましたが、そこでハッと自らの甘さに気が付きました。両親を材料にして逃げてるだけじゃないかと。その後私にとっての伯父夫婦、つまりこの家の元々の主にしてあの二人の両親のもとへ行き土下座をして頼み込み、この家の一角に住まわせてもらいました。実家は追い出されましたし、学費は結局びた一文たりとも払ってはくれませんでしたが。生活費も、何もかも。それどころか家は勝手に解約されましたし」

 

 壮絶な人生だった。何かの物語を聞いているように思えて仕方がない。

 

「私はもっと早く、この世界に飛び込むべきでした。けれど、その勇気も覚悟もなく、賢らに全部わかったふりをして自分を騙して、両親を騙してきました。今になって思えばとても愚かな行いです。失った時間は大きかった。たかが一年。されど一年です。あの時迷わなければ。両親に屈さずにいられれば。そう思わない日はありません。そして、もっと昔、あの時、サッサと最初の夢を放棄しなければ。これも時々思い返します」

 

 後悔の気持ちも、悩んだ時の苦しみも痛いほどわかった。自分の未来の姿を見ているようで、けれど、私にこの人みたいな勇気はない。親に逆らって、家を追い出されてもしがみつく度胸は私に果たしてあるのだろうか。答えは否定の一択だった。

 

「どちらを選んでも、この先必ず後悔することはあるでしょう。選ばなかった未来を夢見る事も。ですから、どうか悔いの少ない方を選んでください。私のようにいたずらに時を浪費し、貴重な財産をすり減らした愚か者のようにはならないでいただきたいのです。今の希美さんはかつての私にそっくりです。夢を抱き、けれどそれと現実の狭間に苦しみ、自縄自縛したのちにグルグル同じところをメビウスの輪の如く悩み続け、結果諦める理由を探している……。そうではありませんか?」

 

 その問いに答える事は出来なかった。的外れだからではない。その逆だから。彼女の言葉はガラスのように心に突き刺さった。

 

「長々と失礼いたしました。ですが、よくお考え下さい。そして、自分の意志でご決断をなされることを望みます」

 

 そう言い残して一礼すると彼女は洗濯物を取りに行った。自分の中で答えが見つかり始めていた。今の話で、見えたものがあった。自分は確かに音楽の世界で生きたい。例えそれが奏者でなくても。それが分かった。そして、やるべきことも、どうしてはいけないのかも、全て教えてくれた。

 

 専門家と言った彼の言葉に誤りは無かった。間違いなく彼女は今の私にとって必要だった人だ。本音を言えば怖い。この先未知数な世界に進むのは、怖い。けれど、立ち止まっても逃げてもきっと後悔するだけだ。だったら、せめてあがきたい。どうしようもなくみっともなくても。

 

 

 

 

 

 

「何か、得るものはあった?」

 

 手に紙の束といくつかの冊子を抱えた凛音がひょっこりと現れる。探し物は見つかったのだろうか。

 

「あのね……」

「うん。どうした」

 

 私の返事を待っている。その目は穏やかに催促する。私の決断を聞かせろと。フッと息を吐きだした。

 

「私決めた。私は……!」

 

 その言葉を聞いて彼は目を見開き、そして

 

「それは良かった。私の探し物も役に立つ」

 

 そう言って微笑みかけた。バサッと言う音がして、彼は幾つかの紙束を机の上に広げる。

 

「これ、なに……?」

「パンフレットとかの資料。いるかなと思って、持ってたのを見繕ってきた」

 

 多種多様な大学のパンフレットがある。大体の情報はここに書いてあるみたいだ。

 

「これ、あげるからどこを受けるのかは自分でよく考えた方が良い。みぞれと同じにこだわる必要はないよ。結局、大学がどこかよりもそこで何を学んだかの方が大事な世界だし。まぁ偏差値は高いにこした事は無いけれど……」

 

 そう言いながら見せてくる紙を一枚ずつ読んでいく。情報量が多くて眩暈がしてきたけれど、なんとなくわかった。

 

「そして一番大事なことが一つ」

 

 ピンと張られた彼の人差し指。そして私の返答を待たずにその指はスッと一枚の資料のある表に向けられる。

 

「どこの学科を目指すかという事」

 

 実はそれが一番大切な事だった。例えば器楽専攻。これは一番みんながイメージするいわゆるプロ奏者になるためのコースだ。そしてみぞれの目指すコースでもある。ここでは個別レッスンがあったりと今よりもずっとずっと専門的なことを学ぶ。そして彼の専攻もこのコースだった。

 

「一口に音大と言っても色々ある。芸大の中の音楽系学科。それと音楽大学校。私は後者の出身だけど、実は演劇コースもあった。コースもホントに色々だね。声楽、器楽、教職用過程、作曲とかもある。そんな中で何を選ぶかによって大分変わる。受験科目もね」

 

 話を聞きながら紙面上で目をスライドさせる。そしてある一つの項目に目が止まった。 

 

「この、吹奏楽指導って言うのは……?」

「ああそれ? 最近出来始めてるコースらしい。日本での吹奏楽人口の増加に伴って教員でなくても吹奏楽の指導を出来るようになるためのコースという話。私大が多いかなぁ。その辺の融通はやっぱり私立の方が良いのかもしれない」

 

 かなり目を引かれた。今まで、と言ってもまだこの先の人生まで含めればほんの少しかもしれないけれど、吹奏楽に携わってきた時間と言うのは結構長い。一度辞めたとはいえ、音楽自体を辞めた訳じゃない。そう考えれば六年という時間は今年十八になろうとしている自分の人生の三分の一を占めている。

 

 音楽に携わるのになにも奏者である必要はない。彼の友人は言った。音楽を作る上で指導者の存在も欠かせないと。事実、北宇治も指導者が変わってから激変した。私にあそこまでの手腕があるとも思えないし、カリスマ性も、ワンマン性もない。とは言え、一つの成功例を知っている。いや、今隣で資料を見て「最近はこんなのもあるのか……」と言っている彼も、また一つのいい例かもしれない。

 

 そして悪い例………そこまで考えて止めた。あんまり前の顧問を悪く言うのは止めよう。彼女にはきっと彼女なりの信念があったんだろう。当時の私にはそれは受け入れられなかったけれど。今ならもう少しうまくやれるんじゃないかと思う。心が、少しだけ前向きになっているのを感じた。

 

「就職に使えるのはこのアートマネジメントコースとかか……? 就活なんてしたことないからなぁ」

「これ! 私、これ受けたいかも」

「どれどれ……ああ、吹奏楽指導か……なるほど。良いんじゃない? 私大多めだけど、いくつかの学校で設置している。経験はあるし、実績は今年作ればいい。全国大会出場校のフルートソロともなれば、そこそこ。後は学力次第かな。私は良い選択肢だと思う。親御さんにしっかり話して納得してもらいな」

 

 その言葉にコクコクと頷く。両親に話す。それはさっきも言われた事だ。そこが最大の関門かもしれない。果たして、部活の範疇を超え、将来の職業選択にも密接に関連するこの道を選ぶことを、両親は許してくれるのだろうか。けれど、ここからは誰にも頼れない。この道を選ぶまでに多くの人の手助けを借りたし、多くの人に迷惑をかけた。だから、こっからは私一人で頑張らないと。

 

「試験科目はなんだ……国語と英語に楽典と楽器の演奏、面接もあるのか。筆記試験は大体のところがセンター利用が可能で、英語は外部試験導入、か。英検二級以上で試験免除ねぇ。英検何級持ってる?」

「じ、準二級……」

「取ったのは? 去年の秋か」

「そうだね、確か」

「じゃ、ギリギリ間に合うか…? 学校の先生と相談だな、その辺は。悪いけど私はこの国の大学受験のシステムにそこまで詳しくないんだ。先生と相談するなり何なりしてくれ。担任は……夏だからいないな。仕方ない。滝先生を頼れ」

「え、ええ!?」

「滝先生だって教員免許持ってるんだし、職員会議も出てる。知らないって事は無いはずでしょ。てか母校なんだから、分かるはずじゃないか。この際頼ろう。話くらいは聞いてくれるはずだし」

「……分かった。合宿の時、時間を見つけてみる」

「ここから先は自分で調べてね。最低限の手助けはしたつもりけど、本来調べるのは自分でどうにかしなくちゃいけない。特に大学受験なら」

 

 先生と私は格段親しい訳でもない。向こうが私の事をどう思っているのかもよくわからない。けれど、信用できない訳じゃない。助言には素直に従おうと思った。どうやって話しかけるのかが鬼門な気もするけれど……それは自分で何とかするべきことだろう。何より、本気ならこんなところで躊躇はしていられないはずだ。

 

 一度決めてしまえば、心は揺らがない。目指すべき道が見えているのなら、そこへ向かって邁進するだけだ。そう、それは練習と同じ。ミスしたところが、足りないところが見えているなら治せばいい。見えないなら指摘してもらいに行く。目標に向かって練習するのと何が違うと言うのだろう。ずっと、自分がやって来たことじゃないか。

 

「何から何までありがとう。本当に……ずっと、助けてくれて」

「気にしないで。困ったときはお互い様でしょ。今度は私もなにか助けてもらうから覚悟してて」

「ええーそこは無償で一つお願いしますよ~」

「調子に乗らない」

 

 ペシッとデコピンされる。終始穏やかな表情を崩さない彼に、私はそういう風な目で見てもらえる存在になったんだと嬉しい気分になってくる。それはそうとおでこはちょっとひりつくけれど。

 

「でも、大丈夫かな、今からで……」

 

 私のその小さな不安に、彼ははぁとため息を吐く。

 

「君は誰の目の前で言ってるのかな?」

「え?」

「この私がいるんだよ? 音楽系の事で出来ないことがあると思う? 面接指導とか勉強なら雫さんもいる。彼女、一応就活はしてたし、京大時代のバイト先は家庭教師だったんだから。新山先生がみぞれのサポートするなら、私が希美のサポートをすればいい。友達は多いんだ、人海戦術でどうにかしよう。だから安心して。絶対合格させてみせる」

 

 その力強い言葉からは確かな自信を感じさせる。絶対見捨てたりしない。そういう想いが伝わって来た。私は多分、幸せ者だと思う。何回も振り回して、一昨年あんなことになったのに、それでもこんな風に助けてくれる人が側にいる。こんな幸運は、滅多にあって良いモノじゃないだろう。

 

「ありがとう、ホントに……」

 

 思わず彼の手を握る。潤んだ目からは涙が出てきそうだった。けれどすんでのところで聞こえた声によって涙が引っ込んだ。

 

「なに見せられてるんでしょうか……」

「さぁ、青春のアレそれですかね。私には無縁の物ですね。告白すら碌にされた事無いですから」

「女の子からならあったらしいじゃないですか」

「私の恋愛対象は異性です」

 

 そんな会話が聞こえる。扉の隙間からシャイニングじゃないけれど、目が覗いてる。私たちに見られているのに気付いたのか、何事もなかったかのように扉が開けられる。

 

「……何してたんだ」

「あ、あははは」

 

 乾いた笑いを浮かべる涼音ちゃん。素知らぬ顔の雫さん。

 

「はい。こちら、お預かりしていた洗濯物が乾きましたので」

 

 何事もなかったかのような表情で私に渡してきた。彼の眼光は絶対零度だが、まったく気にも止めていない様子。この家で生きていくにはそういう図太さも必要なのかもしれない。

 

「コホン。兄さん。そろそろ先輩を送らないと、遅くなっちゃう」

「ああ、それもそうか」

 

 チラリと時計を見れば、そこそこ良い時間。お暇しなくてはいけない。慌てて荷物をまとめて玄関へ行く。

 

「ありがとうございました」

 

 お礼を言えば、何でもないと言うような表情で雫さんは一礼した。

 

「またのお越しをお待ちしております」

 

 それはつまり、言葉通りに捉えるならばまた来ても良いという事だろう。是非ともそうさせて頂きたいと思いながらも、そんなことは言えない。

 

「それじゃあ先輩、また合宿でお会いしましょう」

「うん、お世話になりました」

 

 ペコペコしながら靴を履く。玄関では既に彼が待機している。どうせ断っても送って行くと言ってくれるのだろう。そんなに時間はかからないけれど、その気遣いがありがたかった。

 

 

 

 

 

 

 

 桜地邸を後にすれば、夏のムッとした夜の匂いが漂う。夜の空気は濃密で重い。そう言えば有名な結婚行進曲は「夏の夜の夢」という作品が舞台化した時の劇中歌だと言う。この日本の湿気と濃い空気の匂いが満ちる空間にあの音楽は似合わなそうだとぼんやり思った。

 

 道中の会話は至極どうでも良いものだった。明日以降の部活合宿の話とか。私はこの合宿には初参加になる。どういうものなのかまったくわからないけれど、楽しみじゃないのかと言われれば嘘になる。演奏も、少しどうにか出来そうな気がしてきた。心の状態が演奏に密接に絡むというのは奏者ならば大体知っている話。そして私の心理状態も今ならどうにかいい演奏が出来るのではないか、みぞれと合わせることが出来るのではないかと考えていた。

 

 そうしているとものの数分で家に着いてしまう。暑さも気にならない……と言うほど涼しいわけでは無いけれど、あまり意識しなかった。或いは元々私がのぼせているから、周囲の温度は気にならないのか。

 

「まずはご両親を説得してね。それからだから」

「うん」

「よろしい。なら頑張っていきましょう」

 

 どこか楽し気に彼は言う。そんな価値が私にあるのだろうか。彼の時間をそこまで割かせて、彼に頼り切って。本当はもっと早くに自分が決めて、もっと早くにしかるべき人に頼むべきことだったのに。

 

 いや。そう思って心の中で首を横に振る。今は思いっきり頼ろう。これからの人生は長い……はずだ。人生百年時代になったとテレビで言っていた。なら、残り八十二年もある。その時間の中で、もらったものを返せるぐらいのことは、私にだって出来るはずだ。必ずきっと、恩は返す。だから、今は頼ろう。多分、私がしっかり頑張って夢を掴んでいくことが、彼の望みのはずだから。家の前に着く。この幸福な時間は、これで終わり。

 

「今日は、ありがとうね」

「いえいえ、お気になさらず。それじゃ、頑張って」

「うん。結果がわかったら連絡するね」

「OK。待ってる。じゃ、おやすみ」

「おやすみなさい」

 

 右手を軽く上げて、彼は元来た道を引き返す。曲がり角で曲がってその背中が見えなくなるまで、私は手を振っていた。

 

 

 

 

 

 

 玄関を開けて、手を洗い、二階に荷物を置いて一階へ戻る。二人とも幸いなことに夕飯の後だったみたいでお父さんは新聞を読んでいたし、お母さんは洗い物を終わらせようとしていた。私たちが夏休み真っ最中でも仕事は普通にある。ダイニングの椅子には仕事カバンがそのまま置いてあった。頭の下がる思いだけど、そんな二人に私は今からあまり喜ばしくは無いであろう話をしなくてはいけない。

 

「帰ったのか。遊ぶのも大概にして、しっかり勉強しておけよ」

 

 お父さんの普段は煩いなぁとちょっと思う小言も、今は流す。正直、その通りでしかないからだ。

 

「あの、ちょっと話、いいかな」

 

 お父さんが新聞から顔を上げる。

 

「どうした。小遣いなら上げられないぞ」

「そうじゃなくて……進路の事で話があるんだけ……あります」

「そうか」

 

 そう言うとお父さんは新聞を畳んで横に置く。座りなさい、と言われ、体面に座る。面談みたいで、ちょっと固くなった。お母さんは明日の朝の準備をしながら耳だけこちらに傾けている。ごくりと小さく喉を鳴らした。

 

「それで、改まってどうした」

「これ、なんだけど……」

 

 机に置いたのは貰った資料たち。

 

「これは……音楽大学校?」

「お願いします! 私を、音大に行かせて下さい!」

 

 先手必勝、という訳ではないけれど、土下座する勢いで頼み込む。私は、交渉が上手い訳でも口が回る訳でもない。去年のあすか先輩や、凛音ならばスマートに上手く交渉して勝ち取って来るのかもしれないけれど、私にはこんな原始的ともいえる方法しかなかった。あすか先輩のお母さん相手に一歩も引かないで、妥協点を引きずり出してきた彼のようなことは、私にはできないのだ。

 

「希美、頭を上げなさい」

 

 恐る恐る顔をあげれば、どういう感情なのか分からない表情のお父さんがいた。

 

「演奏家になりたいのか?」

「ううん、そうじゃなくて……ちょっと貸して」

 

 渡された資料の中で、さっきの表の書いた紙を探し、その表を見せる。

 

「このコースが、私の希望する進路」

「吹奏楽指導……教師みたいなものか……?」 

「教員免許も取れるみたいだし、そういう捉え方で間違ってはいないと思う」

 

 そこからは自分でもあまり鮮明に思い出せないほど、必死に滔々と語った。自分が何故その進路を選んだのか、どれくらいの費用が掛かって、どういう進路に卒業生が進んでいてと言うのを、まるで就活生のように全力で喋った。何も問われていないけれど、言葉が壊れた蛇口みたいに漏れ出して止まらない。話疲れて息が荒くなって、少し休憩しようと思った時にお父さんは口を開いた。

 

「希美の思いは分かった。真剣に考えているのもな。一つ聞かせてくれ。何故この時期なんだ。もっと早くに言えなかったのか」

「ずっと、迷ってた。自分がどうしたいのか。自分に何が出来るのか。何を目指せるのか。何を目指したらいいのか。だから、こんなに結論が出るのが遅くなっちゃった。ごめんなさい」

「もう、迷わないのか。進路を決めて、仮に受かって入ってやっぱり止めます、は通用しないからな」

「分かってる。もう、私は迷わない。しっかり決めた。自分がどうしたいのか、しっかりした答えを出せたから」

 

 お父さんは腕を組んで唸っている。ダメかもしれない。そう思った私の援護射撃をしてくれたのは、今まで話を黙って聞いていたお母さんだった。

 

「良いじゃないの。しっかりしてて。ねぇ」

「いや、そうは言ってもな……」

「学費なら何とかなるでしょ。もし無理そうなら、おじいちゃんたちにも助けて貰えば良いじゃない。前そういう話してたじゃない。あの時はまだまだ先の話だったけど、少しなら甘えても良いんじゃないの」

 

 お母さんの言葉にお父さんはしばらく黙っていた。そして少しだけ上を向いた後、私の顔を見る。

 

「……良いだろう。真剣なのは痛いほど伝わってきた」

「ホント!?」

「落ち着きなさい。なぁ希美。常日頃、勉強しておけと言ってるのは、何でだと思う」

 

 何でだろうか。突然の質問に答えられないでいると、お父さんは私の答えを待たずに続けた。

 

「勉強しておけば、いざ自分のやりたいことが出来た時に選べる道が広がるからだ。当然、こういう大学たちの中にも偏差値の差はあるんだろう?」

「うん」

「なるべく頭のいいところに行った方が良いに決まっている。なぜならそこにいるのは学力面でも努力できた人たちなんだからな。この中で一番偏差値的にも、音楽の世界的な実績でもトップクラスなのはどこだ」

「ここ、かな」

 

 その学校はある私立の音大。そして、最初にみぞれが見せてきたパンフレットの学校。そして滝先生や新山先生の出身校。

 

「じゃあ、そこだ。才能も必要な世界だ。下を見ても仕方ない。上澄みの集まるここを狙え。ここ以外は認められない。受からなければ普通の大学を選びなさい。その勉強も欠かすな。それが認める条件だ。お金の事はどうにかする。お母さんの言うようにおじいちゃんたちもいるし、うちの子供は希美しかいない。何とかなる。だから余計な事は気にせずに勉強しなさい。いいな」

 

 私のお父さんは決して音楽を否定している訳じゃない。ただ、不安定とも世間一般で言われている進路に進ませるのが不安なんだろうと、十八年の付き合いで何となくわかった。

 

「ありがとう、ございます」

 

 狭き門。けれど、こんな時期まで進路の話を引っ張って。しかも金銭的な負担の大きい私立校への進路を許可してくれたのは感謝の気持ち以外なかった。逆に言えば受かってしまえばいいんだから。言うのは簡単なのは知っている。けれど、諦められる訳もない。逆に燃えてきた。絶対受かってやる、と。

 

「話は終わりなのか」

「え、あ、うん」

「そうか。じゃあ、早く風呂に入って寝なさい。明日も早いんだろう。あの合宿とやらで」

「……うん」

 

 私の部活になんて興味ないと思っていたけれど、しっかり見てくれていた。この家に産まれてよかった。ちょっと泣きそうだった。お父さんはもう新聞を開きなおして読み始めている。

 

「良かったわね。頑張りなさい」

 

 お母さんもそう言って背中を押してくれた。部屋に戻って冷房のスイッチを入れる。誰もいなかったら叫び出しているかもしれない。

 

 『許可出た! 条件付きだけど』と短く連絡を送る。『条件?』と返信はすぐ来た。『みぞれと同じ大学が一番偏差値と進路実績がいいから、ここになら進学してもいいって』と返す。それに、「お疲れ」と「頑張ろう」のスタンプが送られてくる。

 

 私の未来への扉は開かれた。止まっていた時間が動き出すような感覚を覚えた。夢に形が与えられ、目指すべき場所への道しるべも見つかった。翼を得た鳥のようで、これからどんなに勉強や練習が苦しくても、きっと頑張れるはずだ。そう、直感している。

 

 私は才能ではばたく青い鳥にはなれないのかもしれない。けれど、きっと大地を走る事は出来るはず。目指す地が同じなら、時間はかかってもいつかは追いつけるはずだ。私は私の道を行く。取り敢えずお風呂に入って、さっさと寝よう。明日からはきっと大変な日々が待っている。

 

 それに嫌気など全く感じず、私は胸を弾ませながらお風呂へ向かう。写真立ての中にいる彼が微笑みかけてくれたような気がした。

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