音を愛す君へ   作:tanuu

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第九十二音 並立

 高速道路を走っているバスの振動が、椅子の下から伝わって来る。今、合宿に向かうバスの車内に我々はいた。方々からは雑談に花を咲かせる部員の声が聞こえてくる。私は楽譜を広げながら片耳にイヤホンを突っ込んでいた。隣の席では滝野が大口を開けて寝ている。

 

「それ、何の曲?」

 

 通路を挟んだ反対の席に座っている希美が尋ねてきた。

 

「仕事の曲。作ったはいいけど、実際に自分で聞いてみないと何とも言えないし」

「へー、何用?」

「ゲーム。正確にはホラーゲーム」

「うげっ、ごめん聞かなかったことにするね」

 

 希美は顔をしかめてそっぽを向いた。彼女はホラーゲームが苦手、と言うかホラーが得意じゃない。得意な人の方が少ない気もするので、彼女が普通なのかもしれないが。それは文化祭のお化け屋敷から既に片鱗があったけれど、結構ちゃんと嫌いであると知ったのは割と最近だった。

 

「BGMだからね。しっかりしないと世界観ぶっ壊れるから」

「あぁ、音楽だって大事だもんね」

「ホラー映画の予告編にコナンのテーマとか流れてきたら嫌でしょ?」

「確かに。でも安心感はあるかも」

「どんな不可解な死も絶対人為的だからね、あの作品」

 

 昔からBGM変更ネタと言うのはよくある話だ。それくらい、作品に音楽は欠かせない。映像作品には特にBGMが大事だった。ドラクエやマリオなど、名だたるゲームのBGMは尊敬している。テーマに合った作曲というのは中々難しいモノだった。

 

「一応聞くけど、どんな作品なの?」

「お屋敷系」

「あーもう無理そう」

「古い財閥の所有してた呪われた屋敷を探索する系。モデルはウチ」

「それで良いの桜地家?」

「別に困りはしないかな。実際見た目はそれっぽいし。あくまでモデルで、間取りそのままなわけじゃないし」

 

 呪われた屋敷は本邸の方だろとちょっと思ったけれど、それは取材に来た開発陣には言わないでおいた。古い財閥とかまんまなのだが、個人的に好きな会社だったのでそのままOKしてしまっている。

 

「それエンドクレジットとかに名前載るんだよね?」

「そうだね。作曲と取材協力で」

「そういうの、どういう気持ちなの? あんまりよく分かんなくて」

「まぁ何と言うか、自分が死んだ後も残るモノがあるって言うのは大事だし、嬉しいと思う。死んだ後でも心の中に残るって言うし、実際そうだと思うんだけど、思い出って段々色褪せていくんだよね。その人が生きた証が少しずつ無くなっていくと言うか。でも、こう言うのが残ってれば、少なくとも私がいたことは世の中に残る。作品がある限り、千年だって、それ以上だって」

「そっか」

 

 自分が体験しているからこそ分かる。昔の友の声はどんどん思い出の中に消えていく。もうハッキリ思い出せない部分もある。数年の月日は多くを流してしまう。今過ごしている時間も、いつか細部は消え去ってしまうのだろう。大枠だけしか残らなかった記憶の連続に、私たちは生きてる。

 

「でもちょっと分かるかも。私も写真とか好きだけど、たまに言われるんだよね。今目の前にある景色を、生で見たままにしておきたいって。でも、忘れるじゃん? どんなに感動しても。だから写真で撮っておけば、あの時感じてたこととかも一気に思い出せるかなって」

「写真は魂を映すモノらしいからね、昔の考えによると」

 

 魂をあの紙に閉じ込める。そういう迷信があったのは有名な話だ。とは言え、あながち間違いとも言い切れないかもしれない。撮影した瞬間の魂は、あの紙の中に確かに封じ込められている気がした。そしていつの日か、色褪せてしまった思い出を蘇らせるときに、そのトリガーになるのだ。

 

 希美や他の皆と過ごしたこういう日々をいつの日か思い出せなくなったとしても。その時に残されているモノがあればきっと思い出すだろう。懐かしく思うだろうこの日々と、そしてこの時に奏でられていたメロディーたちを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 合宿所に着くと懐かしい気分になる。去年は色々抱えた状態だったせいで万全の精神状態ではなかったけれど、今年はそんなことも無く、しっかりとしたメンタルで挑めるだろう。ホールで最初に行われるのは、通し練習だった。まずはこれを行って、お盆休み明けのボケを直していくのだ。

 

 先生用の控室には、既に外部指導者の二人が来ている。この二人が今年も担当してくれるわけだ。私の友人たちは技術は確かでも多忙な上に外国人ということもあって呼びづらい。その点、先生の友人ならば割とすぐに呼ぶことが出来る。この人脈も北宇治の音楽に大きく欠かせないモノだった。

 

「今年もお願いします」

 

 私はまず頭を下げた。一番年齢が下だからである。

 

「今年の編曲聞いたよぉ。中々大胆に削るねぇ」

「普通と同じことをしていては、目立ちませんから。コンクールで評価される演奏がどんなものなのか、厳密には不明ですけど、少なくとも売れる演奏は評価されやすいですので。それに、あの曲は第四楽章こそ作者のメッセージが籠っている場所だと感じましたから」

 

 橋本先生は陽気に言う。どういう編曲を行ったのかは既に先生の方から伝えてもらっている。少なくとも否定的な感想が返って来ることは無かったので、まずはそれに一安心していた。

 

「解釈の方は滝先生から聞かせてもらったわ。ハッピーエンド、そういう結末に持って行くのは素晴らしいと思います。特に進路とかに悩みの多い高校生なら、多いに希望になるんじゃないかしら」

「ありがとうございます」

 

 希美の進路の悩みの原因はあなたですけどね、一割くらいは。と、こういう逆恨みじみた感想を抱いてみたりする。実際、新山先生がみぞれを贔屓とまではいかないまでも、白紙で進路指導の紙を出したという情報だけでわざわざ学校まで来て、そして音大のパンフレットを渡すという行動をした事が拗れる原因の一端になっているのだから、少しくらいは文句を言ってもいいだろう。もちろん悪気はないと信じたいが。

 

 ただし、私は相手を信じられるほど情報を持っていない。胸襟を開くほど、親しいわけでもない。新山先生が我々に協力してくれているのは理解している。彼女の能力がこの部活にとって頼もしいモノであるということも。友人を支えたいという感情は理解も出来た。とは言え、私は同業者として音楽家を信用できないでいる。大体音楽家はちょっと変な人が多い。普通では戦えないからかもしれないが。私だって人の事は言えないと思うけれど、それでも若干人の心が無い人が多いのだ。そして、才能を見つけるのが好きな人も多い。それを見つけた時、なりふり構わないこともある。

 

 そんな経験則のせいで、私は完全には心を許すことが出来ないでいた。橋本先生の方は分かりやすい。彼は意外と底の部分でガードが固い。それが理解できれば、後は楽だ。こんなんでも対人関係はそれなりに出来るつもりでいる。自分が実践できているかはともかく、理論的には。

 

 挨拶もそこそこに、我々はホールへ移動する。既に準備を終えてスタンバイした状態の部員たちが待っていた。

 

「いやぁ、めっちゃ久しぶり。皆元気にしてた?」

 

 ホールの中央で、橋本先生がガハハと大きく口を開けて陽気に笑った。エキセントリックなデザインのシャツに黒い短パン、そしてサンダルを履いた適当なスタイルは今年も相変わらずである。この変な格好が原因でいつまで経っても独身なんじゃなかろうか、と最近は密かに思うようになっていた。少なくとも、彼のスタイルが似合うのは京都ではなく沖縄である。

 

「ごめんなぁ、今年は来るのが遅くなって。ちょっと海外で仕事あってねぇ。やーっとこの前帰って来たばっかりで」

「はしもっちゃん、英語喋れるんですか?」

「アイルビーバーック」

「長話は止めてくださいね」

「う~ん、滝クンの意地悪ぅ」

 

 橋本先生のボケを滝先生は容赦なく切り捨てて行く。その気安さは同期にしか出せない空気感だろう。それにしたって、英語くらい私だって話せるんだけどと思わないでもない。一応こんなんでも独英は行けると謎の対抗心を燃やしてみた。

 

「新山です。今年も合宿頑張りましょう。よろしくお願いします」

 

 新山先生の上品な微笑みに、一年生はざわめく。また滝先生の彼女説が出てくるのだろう。何もかも大外れなのだが、まぁ仕方ない。高坂さんの機嫌が露骨に悪くなりそうなのを予想して、ちょっと苦笑いした。

 

「では、練習を始めましょう」

 

 先生の号令で練習が開始される。合宿の目的は普段より長い時間を練習に充てること。朝から晩までの文字通り、一日の多くを使って練習と向き合う。こんなに音楽と向き合っているのはプロを除けば日本の高校生くらいじゃないだろうか。ひたすら緻密にトライアンドエラーを繰り返していく。小さなミス、小さな違和感。それが巡り巡って大きな違和感に繋がっていく。それを防ぐための作業だった。

 

「もう一度」

 

 ホールに響く先生の声に、疲労を隠せない部員の返事が響く。

 

「ホルン、ユニゾンが汚いです。互いの音をキチンと聞いて」

「トランペットそこで臆病になってどうするんです。掠れた音だけは絶対に止めるように。みっともないので」

「チューバ、もっと、もっとです。そう、三人とも今の音量でお願いします。トロンボーンのポルタメントはもう少し後半から一気に上がる感じで」

 

 先生と私が交互に声を出していく。一つの問題点が消えていくとまた浮上してくる。金管担当がこんな感じなので、今年の曲で出番の多い木管組はより一層厳しい練習になっているのだろう。新山先生は穏やかに、しかし何度も妥協しないで繰り返していく形式になっているそうだ。どこまで仕上げれば、関西を突破できるのか。指標の無い中、私たちは進んでいくしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「今日は10時に消灯になります。出歩くのは自由ですけど、他の人に迷惑をかけないように」

 

 夕食前の会議では合宿担当係の希美が予定を伝えている。対象者は幹部だけではなく学年の統轄をする学年リーダーも含まれていた。人数が多いので学年ごとにまとめ役を作って、学年ごとの連絡や行動を指示させる制度である。二三年生は新幹部決めの際に、一年生は六月くらいに一年生だけで決定することになっている。今の学年リーダーは三年が私、二年が塚本君、一年は涼音がやっていた。

 

 その後は明日の午前に行われるパート練習に関するメニューの確認や木管組・パーカスの様子を確認する時間になっていた。各パートリーダーは私が現状を反映して作成した練習課題を受け取りつつ、パートの様子を報告する。私が管理しきれない部分の様子は、彼らに頼ることにしていた。

 

 今年は作業を事前にある程度調整していたので、揃って食事をすることが出来る。会議を終えて向かった食堂の机の上には、ワンプレートに置かれた夕食が鎮座している。油の匂いが充満する中、疲れ果てた部員の中には机に突っ伏している人もいる。死屍累々と言って相違なかった。

 

 先生の指導は苛烈を極めた。ほぼ全パートが何らかの指摘を受けたと言える。やはり技術的な面に関しての指導は流石の手腕だった。思ったことは全部言っていくそのスタイルは、一見情報量は多いものの二度三度言う手間を省いており、合理的だった。進化する演奏の中で私の仕事は、私の解釈した物語に沿っている演奏を作れるか否か。つまりは表現に関する話だった。しかし正直まだ足りないと思う。その段階へ至れている人も数人はいるが、まだ足りない。

 

「滝先生、凄まじいですね。相変わらず」

 

 吉沢さんはそう漏らす。滝先生信者がいるので滅多なことは言わない彼女だが、流石に堪えたようだ。去年も大分飛ばしているが、それでももう少し楽だった気がしないでもない。それくらい、今年の曲の難易度は高いのだ。

 

 一年生たちも死にそうな顔になっている。一年生の後輩のうち、A編成なのは小日向さんただ一人。残りは全員Bではあるが、そっちもそっちで楽なはずもなく。私が作りだした課題を松本先生監督の下必死に練習している。加部もそちらに回ってもらっていた。さながら葵先輩二世である。

 

「桜地先輩から見てどうですか? 指導者目線で」

 

 花火大会の一件などまるで無かったように、吉沢さんは私に接してくれている。それに応えない訳にもいかない。私もなるべく自然に彼女に接するようにしていた。優子や高坂さんは事情を知っているようだったけれど、前者は敢えて触れないようにしていたし、高坂さんも何も言わない。ただ、二年生二人の仲はあれ以前よりも少し深くなっているような気がする。

 

「まだまだ。正確性は上がってるけど、表現が足りないから」

「う~ん厳しいです」

「仕方ない。今年の曲こそ、人間が吹いてることに意味があるし。何故なら……」

「正確さだけなら機械で良い。人間が演奏するという事の意味を考えるんだ。機械に正確性で人類が勝てる日は永久に来ないが、表現力で人類が機械に負ける日もまた永久に来ない、ですよね」

「その通り。ま、もっともそれも教授の受け売りなんだけどね」

 

 あの爺さんは元気だろうか。昔伝説と言われただけのことはあり、その年老いた唇から出される音は凄まじく上手かった。死にそうにない性格の悪い老人だったけど、名言が多いのが腹立たしい。思い出したら軽くイラっとする。コロッケを美味しそうにほおばっている女子たちを見ながらこれカロリー凄そうだなぁと思ってしまった。

 

「ここのご飯結構美味しいですよね」

「確かに。私は黙っててもご飯が出てくるだけで嬉しいよ、ホントに……」

「お前修学旅行でも同じこと言ってたな。ウチの母さんと同じこと言ってるぜ」

 

 滝野が笑いながら言ってくる。その後に手伝わないからじゃん、と滝野さんにため息を吐かれていた。同じパートに兄妹でいるという滝野家の状態はちょっと羨ましいと思ってしまったのは、内緒だろう。

 

 

 

 

 

 夕食後、時間のある間に仕事と部活のメニューに関する諸々を済ませてしまう。ペンをくるくる回しながら、私は画面と向き合っていた。今年の課題曲の金管はトランペットが鍵になって来る。私が一番メインで担当しているパートであるからして、全くもって気を抜けなかった。トランペットが出来ないと、それはすなわち私のミスと言うことになる。それは避けたかった。

 

「お疲れ」

「あぁ、お疲れ様」

 

 一部電気の消えた食堂の向かいの席に座ったのは、夕食の時に妙に静かなままだった優子。その顔には色濃い疲労がある。私は画面から顔を上げて、彼女の顔を眺めた。

 

「なぁ、大丈夫か」

「何が?」

「体調」

「……」

「全部抱え込もうとするなよ。夏紀とか、他の部員に投げた方が良い。ちょっとオーバーワーク気味だし」

「分かってるわよ」

「分かってるなら、そんな顔にはならないだろ」

「でも、私はあんたやあすか先輩ほど仕事してない」

 

 彼女は目を伏せながら言った。その声は重苦しくて、同時に罪悪感を抱いているようにも見える。

 

「自分の出来る事をやればいいと思うけど」

「まだ足りないのよ、まだ……。演奏できないあんたが一番仕事してるのに、私が怠けるわけにもいかないでしょ」

「馬鹿野郎」

 

 私は静かな声で、しかししっかりと罵倒した。彼女は唖然とした顔で私を見ている。よもやそんな言葉が返って来るとは思いもしなかったのだろう。

 

「こっちは仕事。で、そっちは部長とは言え部員。部員の本分は仕事じゃない。練習だろ。そんな死にそうな顔で練習して、どうなるってんだ。面倒な仕事なんてな、やっておきなさいって投げとけばいいんだよ」

 

 部長としての職責は、きっと重いのだろう。彼女は元々責任感が強い。そんな存在は部長に確かに向いているけれど、逆に言えば自分で抱え込んでしまうところがある。優子が本気で隠そうとしたら分からない。そう言っていた田中先輩の言葉が思い起こされる。そしてそれは事実だった。

 

 そして抱いている高い理想は、現実との間にしばしば軋轢を生む。その摩擦熱が、今の彼女を熱しているのは間違いないのだろう。確かに上手く動いている。一部の人を摩耗させることによって。私ももしかしたら、優子の中ではその摩耗している歯車の一つなのかもしれない。

 

 彼女の苦悩を完全に理解できるのは、部長経験者しかいないだろう。この部活なら、希美と涼音。この二人くらいにしか、同じ立場故の共感は出来ないだろう。希美が何を理想としていたのかはあまり聞いたことが無い。ただ、人を大事にする運営を目指していたのだろうことは想像に難くない。涼音はそんな希美を理想にしていた。それは大分歪んではいたけれど、想いだけは本物だった。

 

「指導者ってのは、生徒のやりたいことやるためにいるんだ。こき使うくらいでちょうどいいんだよ」

「でも、あんただって部員でしょ。私たちの仲間じゃない」

「その言葉だけで十分だ。私はどこまで行っても、部員の中には入れない。一度辞めて、その上指導者と言う立場にいる、そんな存在はさ」

「……」

 

 私は部員にはなれない。その気持ちも完璧に理解はできないし、共感も出来ない。オーディションを受ける側と、審査する側。指導をする側とされる側。指示を出す側と出される側。私たちの間には、確かな隔たりが存在している。去年よりは少ないような気もするけれど、それでもガラスの壁は明確にあるのだ。

 

「キツイなら夏紀に頼れ。少なくとも、助けてくれるだろ」

「じゃあ、あんたは誰に頼るの」

「私の仕事は私にしか今のところ出来ないと思う。雑務はともかく、指導は。だから頼れはしないけど、愚痴くらいは言うから安心してくれ。私のことを気にする前に、まず自分のことを心配した方が良い。優子のことを心配してる人がもっといることを、しっかり自覚して」

「そっくりそのままお返しするわよ」

 

 少し呆れたような声で、彼女は言った。私の話よりも彼女の体調の方が大事だった。私の仕事が大変だとかそういう事は去年の段階でよくよく理解している。それに、今年は去年よりも随分と居心地がいい。針の筵だった去年の初期に比べれば、天国と地獄だろう。それは優子の理想を基に作られた今の環境だからこそ思えることのはずだ。

 

 彼女の理想が、そして運営が間違っているなどとは思いたくない。だからこそ結果を出したかった。理想の正しさは、成果でしか証明できないと思うから。そして、成果を出すことこそ彼女の願いなのだ。背負うモノばかりが増えていく。指導者とは、因果な仕事だった。それでも辞める気はない。私は誇りを持って、私の仕事をしているのだ。

 

 

 

 

 

 

「さて、そろそろ消灯。とっとと寝て明日に備えましょう」

 

 華麗なるババ抜きでの大勝利をおさめて勝ち逃げすべく男子部員たちに指示する。男子は人数が少ないので一つの部屋にまとめられていた。私が男子組の統括なので、こうしてまとめている。パチリと電気を消せば騒がしかった室内は一気に静かになった。十時なんかに寝ている生徒が普段どれだけいるのか分からないが、決して多数派では無いだろう。けれど、すっかりバタンキューのようだった。けれど、私はまだこれから一仕事ある。肩をコキコキ鳴らして部屋のドアをそっと閉めた。

 

 人気のない夜の廊下を歩く。電灯の光で独特の雰囲気を醸し出していた。修学旅行の夜のようにも感じる。人生最初で最後の修学旅行の思い出が蘇ってきた。もう随分時が過ぎたようだけれど、まだまだ数か月しか経っていなかったことに愕然とする。その体感時間の短さが密度を語っていた。

 

 待ち人はしっかりと時間通りに着いていた。今日の練習室の鍵を特別に借り受け、開放している。

 

「お待たせ」

「ううん、今来たとこだから」

 

 まるでデートの待ち合わせのようなやり取り。深夜の密会みたいなそんなロマンティックな逢瀬であればどれだけ良かったか。寝間着にしてはややしっかりした服を着て、彼女は椅子に座る。

 

「じゃ、始めようか。まずは通しで全部。その後に第三楽章。OK?」

「OK。準備も出来た」

 

 始まるのは深夜の地獄の練習教室。希美と私のマンツーマン。個人授業だ。奏でられるフルートの調べを聞いて行く。大体問題はない。技術的なミスはない。もっともあったらお話にならないので、助かるが。それ以上の段階に踏み込もうとしているのだから、初歩の初歩が出来てないなど悪い冗談でしかない。

 

 第四楽章に入るための第三楽章に入る。だがまだ足りない。それはきっと技術的なものではなく、心情的かつ感情的なもの。表現力だ。どう解釈するべきかは伝えている。ただ、彼女は今それを実感を持って捉えられていない。

 

「いい? 音大でもそうだけれど、いやあそこは特に顕著なんだけど、みんな出来るんだよ。つまり、ずぶの素人を1とした時に90以上の人たちが揃ってる。その中で抜きんでるためにはただ上手いだけじゃ足りない。90以上で満足してては終わりがない。反対に完璧を目指しても達成は無理だ。自分で完璧だと思った瞬間にその人の奏者生命は終わる。99.999を作る戦いなんだ」

 

 私の言葉に、彼女は頷く。

 

「第三楽章は何度も言われているように、フルートとオーボエがリズと青い鳥をそれぞれ受け持っている。じゃあ必然的に希美はリズか青い鳥かのどっちかになって吹かなくてはいけない。基本フルートは青い鳥なんだけど……今どっちで吹いてた?」

「多分、リズだと思う」

「どうして?」

「前までは逆だったのかもだけど……今は、私はリズの方だと思う。なんかズバッとこうだからとは言えないけど。みぞれが青い鳥なら、私はみぞれを解放しないといけないと思えるし、なんか、リズの方が感情移入できそうだから、かな」

「なるほど。まぁあんまり曲内のモチーフを現実の人間関係に持ち込まない方が良いんだけどね、ホントは。曲の理解で人間関係読み解こうとして、微妙な差異に気付かないままになることもあるし。今回は割と大丈夫だけど……」

 

 曲はあくまでも曲なのだ。理解に役立ちはするかもしれないけれど、実際の人間関係はそんなに単純じゃないだろう。少なくとも、物語のように分かりやすくない。矛盾したり、意外と適当だったり、そんな事ばかりだ。

 

「じゃあ仮に希美がリズだとして、どうして青い鳥、つまりはみぞれを解放するの?」

「閉じ込めてたら、きっとみぞれは私に合わせてくれる。でも、それじゃダメだから。私に合わせてくれるんじゃ、ダメなんだよ。みぞれは前に進まないといけない。だって、そうじゃないと、きっと二人ともダメになっちゃう」

「それが例え、彼女にとって望まない事だとしても?」

「そう。だからこれは多分私の自己満足。でも合わせてもらっているなんて嫌だから。もしみぞれの方が上なら、飛んでいってほしい。そう、願ってる」

「エゴだねぇ」

「人間って、そうでしょ」

 

 その皮肉めいた解答に口角が上がる。この感情は悪い事じゃない。ネガティブな感情ではなく、プラスの思考で彼女は鳥籠の鍵を開けようとしている。

 

「段々私に似てきた?」

「移ったのかも」

「じゃ、もう一つだけ。もし、みぞれが飛んでいったら、君はどうするの? 見送るだけ? きっと、原作のリズならそうするだろう。でもね、良いんだよ、解釈なんて好き勝手に変えて良いんだ。だって、演奏ってのは人によって全然違う形になるものだし。だから作曲者は物語に付け足した。青い鳥を探しに旅に出ると、そういう風に。私はそれこそ真のメッセージだと解釈してる。この曲は「リズと青い鳥」の童話じゃない。それを基にしつつ作られた、卯田百合子の作品だ」

 

 しばしの沈黙が場を満たす。時計の針が動く音だけが木霊する。そしてゆっくりと彼女は口を開いた。

 

「前までなら、昔の私ならそうしてた。ぼうっと立って、ああ、あの子は私じゃ届かない世界に行くんだなぁって諦めながら見ていたんだと思う。そして、ずっとあの世界にいる自分を想像し続けるんじゃないかなぁって」

「今なら?」

 

 何かを決意した目で彼女は答える。

 

「走って追いかける。もしかしたら届かないかもしれないし、対等にはなれないかもしれない。でも、もし可能性があるなら追いかけたい。同じ音楽の道に進んで、その背中を追いかけたい。そうしていたのなら、いつかは追いつけるかもしれないから」

 

 その顔に陰鬱な要素は欠片もない。心の底から、彼女はそう願っている。そう願えたのなら後はそれを演奏に落とし込むだけ。

 

「なら、そうすると良いと思う。どれだけ遠い道だろうとも、走って、走って追いかけよう。例え翼は無くても、人には立派な二本の脚がある。この世界に終わりがあるのなら、いつかは追いつけるはずだ。別れを惜しみ、別離を拒否して泣く少女に向かって泣きながら笑って言ってやればいいさ。先に行ってろ。必ず追いついて、抜かしてやるってね」

 

 私ならそう言う、と告げた。先にこの美しい世界の果てに飛んでいってくれ。果てがあるなら必ず追いつくから。その時、また会おう。そう言って別れを告げる。これは或いは、私から亡き友への別れの挨拶なのかもしれない。先に空の彼方で待っていろ、地上で私が天下を取った後、殴り込みにいくからと。もう追い付けないあの演奏を、いつか追い抜かしてやる。今の私なら、そう思えるのだ。

 

 愛とはエゴイズムの塊だ。だが、それが何だと言うのだろう。時に傷つけ、時に傷つけられて愛は育つ。こういう愛の形だって、きっとアリな筈だ。最後に幸せならば、それで良いのではないだろうか。人生とは結果論。去年聞いた、友人の言葉が思い出されて来た。

 

「支えるのではなく、共に並び立とう。その意識があれば、きっと演奏は格段に良くなる」

 

 答えを得た彼女は強い。元々道が定まっていればそれに邁進できる力が彼女にはある。私は、三年間の付き合いでそれをよく知っていた。真っすぐに、どこまでも真っすぐに。なら、道が用意されたときの彼女は強い。前に進めばいいのだから。何も迷わずに、一直線に。

 

「それ、最高だね」

「最高のシナリオだと思う。ということで、そういう意識で演奏してほしいのだけれど、あくまでも曲のモチーフは変えられない。希美は意識はリズだけど視点は青い鳥で演奏する感じで。本当は青い鳥の方がリズに縋っていた。そういうイメージで行ける?」

「やってみる」

「OK。ただ、そうなるためにまだまだやるべきことは多い。じゃ、今から問題点を指摘していくわけですけど……私より専門家に頼みましょう。ということで、オンライン指導です。最初は私がやろうと思ったんだけど、なんか時間に空きがあったらしいから」

 

 パソコンを開いて、テレビ電話を開く。私の友人は時間通りに対応してくれた。希美が演奏するたびに、画面の向こうから鋭い指摘が飛んでいく。希美は一つ課題をクリアしたらすかさず次の課題に挑んでいた。一音も聞き漏らさないように神経を集中させる。彼女も弱音の一つも吐かずにぶっ続けでやっている。

 

 思うに、希美とみぞれのどちらかが片方の役割しか持っていないという訳でもないのかもしれない。つまり、希美はリズであり青い鳥である。みぞれもしかり。二人はそれぞれの要素を少しずつ持ち合わせている。二人で一組ぐらいがちょうどいい。そういう存在なのかもしれないと、そう思った。

 

 リズ(みぞれであり希美)は希望を持って未来を進むために、一回青い鳥(希美でありみぞれ)に別れを告げた。だけれども、愛していることに変わりはないから、また会いに旅に出る。自分の故郷と過去に別れを告げて。それならば第四楽章の解釈とも、ハッピーエンドな結末とも一致している気がする。若干リズが身勝手だけれど、人間なんて大体身勝手だ。これくらいは良いだろう。それに、思春期なんて間違えてなんぼと言うところはある。

 

 いつしか時計の針は日付を超えた。だけれど、この疲労感に不快な要素は一つも無かった。

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