四
帰れば、昨日汚した畳は綺麗になっていた。ゾロアークが雑巾か何かを絞る音も聞こえた。
臭いは多少残るが、そう気になる程でもない。自分の臭いだからかもしれないが。
自分の肉欲を受け入れられなかった雌も居ない事は無かった。ただ、そういう従者はそう長く自分と共にはしないから、どの位居たのかももう、ほぼほぼ覚えていない。あるのは、短い間だけ居たという記憶だけ。
ゾロアークと言う種族を従者にするのは初めてだったが、行為はかなり気持ちが良い。マフォクシーは雄だから無理だが、その内その種族とも行為をしてみたいとは思う。
この体が衰えない内ならば。
マフォクシーが持って来た木の実や人間の食べ物を腹が満たされるまでぼちぼちと食べていると、次第に湿気が増えてきて、涼しい風が窓から吹いて来た。適当にぶらぶらしようかとも思っていたけれど、雨が降るのでは余り行く気にはならない。
風が強くなって、雲が増えて来たと思うと、そのすぐ後に、ぽつ、ぽつぽつ、ざあああああっと雨が降って来た。
一気に大雨になった。
出店も閉まり、そこから出て来る煙や湯気と共に運ばれて来る良い匂いも消えてしまう。
窓を開けていると多少雨も入って来るが、そのままにしておく。
雨自体は、こうして屋根のある場所で見る分には嫌いじゃない。屋根の無い住処で全く、ではなく出来るだけしか防げない雨水を身に受けるのは最悪だが。
ただ、そうだからと言って、自分の力で雨を晴らす事はしない事に決めていた。そうして、悲惨な事になった時があった。
一つの住処に長く住んでいた時。雨を凌げる場所ではない場所を住処としていて、雨が降る度に自分の力でさっさと晴らしていた時。気付けば、乾燥に弱いポケモンが多く死んでいた。食いもしないのに。
他の様々なポケモンや人間も弱っていた。
その時既に、自分はとても力の強い存在になっていたから討伐もされずに、また雨降らしの特性を持つポケモンを別に呼んでも自分の力を上書き出来ずにいた。
弱ければ害獣として駆除されていただろう。強かったから駆除されずにいたが、過ちに気付いてから自分に出来る事は何も無く、嫌な思いをされながらそこを去る事しか出来なかった。
嫌な思い出は、何故か強く覚えているままだ。
大きく息を吸って、吐いた。
思い出した時は、そうするしか出来ない。
償いなんて、あの時どうすれば良いか聞けたとしても、死ねと言われるだけだろう。
そんなポケモンが今、人々を舞で魅了させている。
……キュウコンというポケモンは、千年も生きると言うからか、色々な事を人間達に噂される。
尻尾を触ったら末代まで呪われるだとか、人を洗脳させて好きなように操るだとか。人の胆を好んで食うだとか。馬鹿らしいところでは美女に変身するという事も噂されているようだった。
自分はそんな高尚なものでも、好き好んで人の不吉を招くようなものでもない。
長い寿命を持て余して、たらたら生きているだけのポケモンだ。取り返しのつかない馬鹿な事をして、それを隠しながらこうして高尚そうに生きている様なんてそこらの人間ともそう変わらない。
旨みを握っている人間が、こんな過ちを犯して生きているポケモンだと知ったらどうするだろうか。きっと知らなかった振りをして祀り上げたままだろう。
人間もポケモンも、そう大して変わらない。
そう言えば、元々人間とポケモンは同じだったとかいう話もあった。
似ているのも当たり前か、と思っていると、耳が変な音を捉えた。
雨の音に混じって、硬い音が少しずつ混じり始めている。
不思議に思っている内に、その硬い音が増え始めて、その正体が分かった。
雨が、冬でもないのに霰に変わりつつあった。
これは疑いようも無く、ポケモンの仕業だった。
五
誰かがポケモンバトルでもやっているのかもしれない、と思ったが、それにしては長く降り続いていた。
霰は大粒ではなく、戦いで使うような攻撃的なものでもなかった。当たっても痛くはない程度のものらしく、人々は単純に珍しがっていた。
雨は自然に来たもので、それを誰かが霰に変えたのだろう。
ただ、この辺りでこんな広範囲に霰を降らせられるポケモンは見た事が無い。
そういう力を持つポケモンでも、度合いが違うのだ。
自分も、長く生きている内に日照りの力を持つようになったが、最初は周りがちょっと温かくなる程度のものだった。
それが、雨を避けるようになり、雲を消し去るようになり、今では夜でも疑似的に昼のように照らす事が出来る。
悪く使えば、人もポケモンも皆平等に干からびさせる事の出来る力だ。今のこの、文明とやらが発達したこの時代じゃ、そうする前に捕えられるだろうけれど。
雨なら、全てを腐らせる事も、洪水を起こす事だろうと出来るだろう。
砂嵐なら、この町を土に埋もれさせる事さえも出来るかもしれない。
そして、この雪や霰なら。
人の話で聞いた事がある。森の主を怒らせた、ある小さな集落が夏なのに全員凍死していたとか。
自分がそれ程怒る事は、何かあるだろうか?
……あるな。
二匹の従者を見て、そう思った。
何度も代わって来て、何度も別れて、そしてもうこの一つ前の従者でさえ思い出し辛くとも、大切なのには変わりない。
霰は、穏やかにぱらぱらと降り続いている。
これは、怒りではない。
霰が好きかと言われればそうでもない。
数百年の間生きて来たとは言え、年に一度見るか見ないか程度の珍しいものだ。ただ、だからと言って外に出て泥濘のある地面に足をつける気にまではならない。
雨と同じく眺めているだけで、目と耳で感じているだけで丁度良い。
砕けた氷が地面に敷き詰められて行く。溶けるよりも先に、積もって行く方が速い。
雨とは違う煩さが耳に鳴り響く。硬質なそれは、雨よりはやや耳障りだった。
でも、偶には良い。
目を閉じて耳を澄ませば、砕けずに屋根を転がる氷の粒が聞こえる。砕けて、そのまま屋根にしがみつく氷があるのも分かる。
耳障りだが、雨に比べて色々と音も多様だった。
耳障りだが、目を閉じれば眠くなってくる。まだ老いていないのに、いや、老いているのかもしれないが。
舞の後に交わりもして、意外と体はまだ疲れているのかもしれなかった。
目を開いても、自然と瞼が閉じていくのを感じて、体を丸めた。
悪くはない。少なくとも、雷雨よりはましな音だったし、こういう音を聞きながら眠るのも、覚えている限りじゃ記憶にもない。
外に行く気にならなかったのも、気分と言うよりかは疲れているのもあったのかもしれない。
いや、やっぱり泥濘に足をつけるのも嫌だ。
尻尾で顔を隠すと、どちらかの欠伸が聞こえた。
ごーん、ごーん、と音が鳴って目が覚めた。
昼の鐘だ。
目を覚ますと、煙ったい臭いと相変わらずの霰の音が未だに鳴っていた。
体を起こすと、木の枝に火を付けて煙草のように咥えているマフォクシーが見えた。
窓縁に肘を着いて、ぼうっと外を眺めている。
ゾロアークは、いつの間にか子を連れて来ていた。外を眺めれば、外でも数匹じゃれ合っているのが見えた。
全部、自分の子でもあるけれど、こう見ても余り実感が湧かない。
酷い親なのだろうか。人里と自然をぶらぶら行き来しながら生きて来たからか、もう、自分はどちらにも染まる事もない。
気分次第でぶらぶら変わる。
自分が起きたことに気付くと、子供の一匹がこっちにやってきた。
気分を窺っているような目をされて、頭をわしゃわしゃとしてやった。毛繕いもしてやっている間、自分が少し傷付いているのに気付いた。
あんな目をされる親、か。
父親という自覚を持った事が、この今まで生きて来てあっただろうか。
……あった気がする。
気がするだけだった。確信は全く出来なかった。
この子の毛繕いをしていても、自分の子を見る目や感情に、大して特別なものは無かった。慈しみを持っていない自分が自覚出来ていた。
子も、それを察しているのだろう。毛繕いが終わると、そそくさと母親のゾロアークの元へ戻って行った。
霰は、段々と弱くなり始めていた。
弱くなり始めた頃には、音に対しては耳障りと言うよりかは、もう慣れて、大して気にならなくはなったと言う方が近かった。
月が曇り空の隙間から姿を現し始めて来ていた。
ざらざら、と言うよりかは、ぱらぱらと荒い粒の音がする。止むまでにそう時間は掛からないだろう。
これまで降って来た一つ一つを一秒としたら、降った数は自分の寿命に匹敵するだろうか。
人間の知識を借りれば分かるだろうが、流石に文字まではそう大して読めない。平仮名と片仮名と、後、漢字を少し。
その位。それに、文字をひたすら追って頭を熱くしてまで知りたいほどの事でもない。
建物の中、舞台を見れば、氷の粒で塗れていた。冷気も充満し始めているようで、湿った毛皮からも冷えが感じられた。
今日も、舞おうか、と思った。
自分の為に整えられている舞台も砕けた氷だらけで舞うのにも苦労しそうだが、それでも、雨でも無く、雪でもなく、こういう珍しい時に舞うのは楽しそうだとも思う。
二日連続でやる事はこれまで数回あったかどうか。
毎日舞う事が無いのは、それでも食っていけるし、それ以上に面倒だから、という理由の方が強かった。見せる為よりかは、食っていく為という方が強い。食っていく為にも、こんな事を態々する必要もないが。
ただ、ここまで心地良い生活の為に、偶に舞うだけで良いというのはとても割りが良い。
今日一日寝て食ってたらたらと過ごしていた体を、背伸びをし、尻尾をゆらゆらと動かして、起こし始める。
尾のそれぞれから、ぽつ、ぽつ、と鬼火を出した。
感覚は変わらない。窓から外へ出て、氷の欠片で満たされた地面に降り立った。
人は、来るのか。食う為にやっているとは言え、来なかったらやはり寂しい。
そう思いながら、入り口の方を見た。
…………驚いた。
六
部屋の中からでは見えなかった、その門の場所に青白い体をしたキュウコンらしき何かが居た。
色違い、じゃない。色違いのキュウコンにも会った事は無いけれど、それだけははっきり分かる。
性質がどう見ても炎じゃない。
この距離でもその身から漏れ出ていると分かる冷気は、氷タイプを想起させた。霰を降らせていたのも、このキュウコンだ。
毛も自分のふさふさなものとは違い、さらさらとした、まるで絹のような軽さを持っていた。
瞳は、青色。
多分、雌。
昨日、ここで自分の舞を見ていたのだろうか? 気付かなかったが。
目が合って、そのキュウコンが近付いて来た。
宿場で感じた妙な目線も、このキュウコンだった。どういう理由でそんな視線を飛ばしていた?
自分の目の前まで歩いて来ると、じっと目を合わせて来た。
漏れ出ている冷気が、自分の湿っている毛皮に触れて凍り付く。それ程に強い冷気だった。
敵意は無い。ただ、見定められているようなそんな視線が多少不快だった。
お前は、キュウコンなのか?
どれ程生きているんだ?
疑問は聞けないまま、目の前のキュウコンは額を合わせて来た。ひんやりした体は、意外と硬くはなかった。
それから、入り口の方へ振り返って去ってしまった。
……何だったんだろうか。そのキュウコンが視界から消えると、霰は終わりを迎え始めた。
霰が降り止み、雲も失せ、空に月が光り始める。
降り積もった氷の欠片に月の光が乱れながら反射していた。きらきらと光る様は、何百年と生きて来たこの身でも中々美しいものだと感じた。
舞台の中央に座り、少しだけ積もっていた氷を払った。
自分が今日も舞うつもりだと気付いた人間達が、慌てて入場の準備を始めた。外の音はここには入り辛いが、宣伝もしているだろう。
どの位の金を取っているのか、ここに入って来た人間が呟いていたのを小耳に挟んだ限りじゃ、一回舞っただけでも全部自分のものになったら一月は軽く過ごせる位だった。
まあ、こんな大層な建物を建てるのにはそれ以上の金が掛かっているのだろうが。
いつ出て行くか分からないような自分に良くもまあ、こんな金を掛けたもんだとも思う。
人がすぐに入り始める。
いつもはどういう人やポケモンが来るのか大して気にしないが、今日は注意深く観察した。
老若男女、様々な地域のポケモン。ロコンも居た。自分の子のゾロアも居た。
窓の一つからは、ゾロアークとマフォクシーが眺めている。自分の舞を何度も見ても飽きないものなのかとはちょっと思う。
別の窓からは、所謂ヴィップとか言うらしき高貴な人間も見えた。連れているポケモンも、それらしい風貌をしていた。
どこで見るのが一番自分の舞を堪能できるのか、大して考えた事は無いが、それは窓より一番前の方なんじゃないか。
あんな場所から見るより目の前に来ればいいのに。
今は席も濡れているけど。
人が入り始めて暫くしても、その氷タイプらしきキュウコンはやって来なかった。
宿に泊まっていたという事は人と一緒に居ると思ってはいたが、モンスターボールに収まっているんだろうか。
まあ、もうそんな事を思う時間も無くなってきた。
軽く呼吸を整えて、尻尾をゆら、ゆらりと動かし始める。ざわついていた人達が収まって行く。
こんな場所を用意されようとも、やる事は一緒だ。ただ、意識を奥深くに沈めて、自分の身体の記憶を巡るだけ。
何百年と生きて来たこの自分の軌跡は、今考えている自分という自我よりも、身体そのものの方が良く分かっている。
一つ、二つ、意識を沈めながら尾の先から鬼火を出して行く。
目を閉じ、暗闇の中で自分という自我を身体に預ける。
意識があるようでないような、そんなあやふやな感覚。
三つ、四つ。炎に身を包むように。
五つ、六つ。身体と世界が直接繋がるような感覚。何もかもが自分となり、何もかもが世界となる。
七つ、八つ。生きているのか、死んでいるのかさえあやふやな、そんな目で自分を見る。
九つ。目を開けた。