今僕がいるのはリトル・ヴェニス。
ロンドンにあるパディントン駅、そこから北に少し行ったところにある町。
名にヴェニスとあるようにこの町はグランド・ユニオン・カナル川が流れており、かつては遠くへ石炭を運ぶための船が通行していた町だった。
今では遊覧船がゆっくりと進む、穏やかな時を歩む街。
川沿いには春先ということもあり木々が青々と生い茂っている。
木漏れ日から差す陽射しは暖かい。まだ肌寒さが残るこの時期には嬉しい。
川は道路沿いに通っていて、船の方には入れないよう鉄柵が立っている。
子供でも乗り越えられてしまうくらいのものだけど、入らないようにとの意思表示には有効だろう。
僕は今そこに寄りかかりながら、彼女と並んで立っている。
「まったく、紅茶を切らして買いに来たと思ったら君と会うなんてね。厄日以外の何物でもないよ」
「そ、そんなに嫌わなくてもいいじゃんかよぅ……。束さんだって反省してるんだよ……?」
僕は今、篠ノ之束と会話している。
この世界の神秘を破壊しつくした元凶。
無慈悲に、無意識、無自覚に世界を変えてしまった存在。
そう思えば小言の一つや二つ出てくるというもの。
なんてことはない。
先刻この付近で買い物をしていたら人ごみの中から腕を掴まれて路地裏に引きずり込まれ、何事かと思ったら彼女だったというだけの話。
彼女、束とは以前ニューキャッスルで出会うより以前にも一度会っている。
欧州の魔法事情を調査中に彼女が見ている前で魔法を使ってしまったのが初めての接触だ。
かなりしつこく魔法について聞いてきて、当時は「この時代にも魔法に熱心な若者がいるのか!」と感動を覚えたのはまだ記憶に新しい。
それがまさか世界を混沌の坩堝に引きずり込んだ魔物、ISの開発者だとは思いもしなかった。
ロンドンに来る際には髪をブラウンにして、街中で浮かない程度にカジュアルな服装に纏めていた。
どうせ僕の顔を知る者はいないだろうと街を散策していた。
その結果が彼女の発見を許していたんだから困りものだ。
まさか全国指名手配犯が、人で賑わう都会のど真ん中にいるわけがないというのも油断を招いた原因だ。
しかしどうにも調子が異なる。彼女自身も顔を隠し、鬼気迫る声で彼女はこう言った。
「少しだけ! 話がしたいだけなんだよ! お願い!」
逃げ道は無く、仕方ないと腹を括り近場を歩きながらちょうどいい場所を探していた。
「うん、この辺りならいいだろう」
コツコツと杖で地面を叩く。周りに人がおらず、周囲の眼もない木陰の下。
樹々の手招き 朝霧の戸惑い
彷徨う者よ その瞳を曇らせ給う
サァ───と周囲を霧が囲う。
これでこの一帯での会話が誰かの耳に入ることはない。
「さて、じゃあ話を聞こうか」
結論から言うと束がここにいるのは完全に偶然だそうだ。
あの時僕が逃げて以来ずっと悩んでいたらしい。
自分自身の過去、現在、そして未来。
今までの行いを振り返り、自分が本当にしたいことは何か。
彼女はかつて「宇宙に行きたい」と願い、その夢を叶える装備「IS」を提案した。
しかしそれは多くの人間に否定され、カッとなった束が後先考えずに行動した結果が、有名な白騎士事件らしい。
その結果、ISは未探査地域の開発力としてではなく、軍事力としての価値を大きく高めてしまい今に至るそうな。
「話してもらって悪いけど、君の来歴にははっきり言って興味が無いよ」
「ウグッ、ストレートに言うね。でもほんとに興味ない? 今や世界一の美少女天才科学者の誰も知らないプロフィールだよ? ほんとに興味ない?」
「ないね。他者の価値観を否定することはしないけど、誰かにとって価値あるものも、他の誰かにとって価値が無い。姿形の美醜もまた同じ。それだけのことだよ」
「他人の価値観を時代遅れと切って捨てた身としては耳が痛いなー……」
「もう少し身に染みてほしいな。君がいると知っていればロンドンに来ることもなかったんだから」
「ねぇもう少しだけ優しくしてくれない? 本気で傷つくし悲しいんだけど。泣きそう」
ハァ……と互いにため息を吐く。それが出来れば苦労しないよ。
「君には見えないだろうけど、この地には魔力こそ多少あれど、妖精や精霊、君達の言うファンタジーな生き物は全くいない。鉄と人の匂いにあふれたこの地から妖精は消えてしまったんだ」
「……うん」
「形あるものはいずれ滅ぶ。神秘はその最たる例だ。僕達もいずれは滅んでいく。それも遠くないうちに」
「けれど、それは今でなくてはいけなかったのかな」
そう思わずにはいられない。
かつて中世で行われた魔女狩り。
それにより多くの魔法使いや魔女が世界から失われていった。
世界中で発生した産業革命。
これにより魔法の媒体となる宝石もただの価値ある石となり下がり、草花は人々の発展の為に失われていった。
海も、山も、空も、畏怖や畏敬そのものを失いただの環境となってしまった。
かつてそこには「畏れ」があった。そこには人の手には負えない「何か」があった。
僕達はそれを見ることが出来た。
今はどうか
そこには何もない
ただ
「……ごめんなさい。今更だけど、私はあまり多くの物を踏み壊してきたんだね」
「……今は亡き多くの魔法使いと魔術師、あちら側の存在を代表して、その謝罪を受け取ろう。許せはしないだろうけれど、君の想いは確かに受け取った」
年は知らないけど、彼女は齢15を過ぎた頃だろうか。
僕の三分の一ほどの歳ではまだまだ子供と言えるだろう。
彼女はきっと空に手を伸ばしただけだ。
ただその手段が僕達にとって致命的なまでに有害だったというだけの話。
「私はね、あの後色々なところを見て回ったんだよ? ISが世界でどう受け止められているのか。何を生んだのか。理解できない、訳の分からない焦燥が私を動かしたんだ」
「きっと心の中で私は思っていたんだね。ISは素晴らしいんだ! 凡人共だってそれくらいは分かるんだ! あの子達を崇め奉って平身低頭するくらいの知能はあるだろう! って」
「そしたら出るわ出るわ! 技術でもってISを使いこなすでもなく、人間をISに合わせるカスみたいな実験の数々! いやあるとは思ってたけど流石に数が多すぎじゃない!?」
「自分以外の命、とりわけ価値のない有象無象の命なんてどうでもよかった。いや、きっと今でもそう思ってる」
「そんな私でも、施設に踏み込んで、人の手によって工場のように作られるあの子達を見て、確信した」
「私がこの子達の存在を作り、殺したんだ」
「助けられたのは一人だけ。中途半端に育てられて、培養液の海から出されたあの子の目には、何も映っていない」
束は膝を抱えて蹲ってしまう。はきはきとした先ほどの様子とは打って変わり、その姿は余りにも弱々しい。
「ねぇ、私はどうしたらいいのかな。魔法使いさん」
「どうしたら私はあの子に、心をあげられるの?」
「何をしても、何をあげてもあの子は喜ばないんだよ」
「望んでくれるならなんだって、それこそ世界だってあげちゃうのに」
「どうしたらいいのか、全然分かんない……」
「……まったく、心をあげるだなんて、子供のくせに一丁前なことを言うもんだね」
「……は?」
「君のことだから、魔法って言ってもどうせ滅ぶんだから別にいいや、と。命? 自分以外なんてどうでもいい、くらい言うものだと思っていたからね。少し面食らってしまったよ」
「な……! 私は真面目にだねぇ!!」
「ならば君がやるべきことはただ一つ。その子に命の尊さを教え、君が導くんだ」
「……それだけ?」
「君はあまりに多くを壊してきた。文明、文化、価値観、自然、あらゆるものを。その壊してきたものの尊さを、何も知らない赤子のような人の子に君が自ら教えなくてはならない。そして何より、許されること自体が君の抱える罪科になる。これほどの罰があるかい?」
「……私に、できるのかな……?」
「それが君の為すべきことだよ。そして、同じような境遇の子がいたら助けてあげるんだ。それをもって君への罰としよう」
束は酷く悩んでいるようだった。
果たして正しくその子を導けるのか?
そのようなことで許されていいのか? と。
けれどそれこそが彼女の救いになるだろう。
その子に心を与える過程で束もまた、心を育むのだから。
「そろそろ迷いの霧も効果が切れる。話はここまでに……いや」
魔法を唱える為にも服を普段の物に変える。
エインズワース殿のように体を「組み替える」ことはできないが、服くらいなら僕にも出来る。
「折角だ。君に一つ、プレゼントをしよう」
僕が今からすることは束にとって残酷なことだろう。
彼女自身が、その身で滅ぼした「美しい世界」の幻を見せようというのだから。
「プレゼント?」
それでも僕は束に知ってほしい
「ああ、そうだよ。今から君にある光景を見せる。それは僕が知る限り、最高のプレゼントになるだろう」
この世界にはまだ、美しいものがあると───
「歌う者の名はリンデル。二つ名を「
「曲名はイルナ エテルロ」
その渓谷には白い髪、白いローブの男がいた
竜がいた
エルフがいた
妖精達がいた
赤毛の少女がいた
花々が咲き乱れていた
皆が歌い 踊る
それは雪解けの水の音に似て
低く 高く 朗々と風に乗って
「音に耳を澄ませ」
「歌に 風の音に 水の音に」
「人は覚えておる」
「遥か太古 言葉よりも先に生まれ 体に満ちた音を」
「魔法も同じよ 己の周りに耳を貸し 手を伸ばせ」
「お前はそれを覚えている───」
「ただいま、クーちゃん」
「はい、お帰りなさい。束様……?」
「……どうして私を抱きしめるのですか?」
「ごめんね、分かんないよね。……ごめん、もう少しだけこうさせて」
「分かりました。ご随意のままに」
「クーちゃん。ほんとうにごめんね」
「これから色んなことを教えてあげるからね」
「いっぱい美味しいものを食べよう」
「いっぱい綺麗なものを見に行こう」
「いっぱい楽しい歌を歌おう」
「いっぱいいっぱい、一緒に笑おうねっ……!」
「はい 束、様。あれ、どうして、声が」
二人の嗚咽交じりの声だけが、室内に響いた。
「罪を嘆き、罪人には嘆き悲しめ」
「罪を憎んで人を憎まず」