大相撲九月場所【十三日目】〇刃皇晃─金鎧山隼人● 作:へるしぃーぼでぃ
その日の両国国技館は異様な熱気に包まれていた。
衆人環視のなか土俵で向かい合うは、今場所が始まる前まで注目を集めることのなかった二人の力士が蹲踞していた。
今場所十勝一敗、東前頭二段目の大包平彰義。
同場所九勝二敗、西関脇、冴ノ山紀洋。
大包平は先日までの怒涛の連勝で脚光を集め、十一日目こそ鬼丸関に敗れたものの、横綱・刃皇と未だに星が並ぶ唯一の力士である。さらに刃皇とは同部屋であるので本割でぶつかることは無く、千秋楽にて優勝を懸けた同部屋対決ないしは優勝が期待されていた。
対するは柴木山部屋を支えるベテラン力士、冴ノ山。番付上位に在留して久しく、その相撲は堅実こそなれど、若い国宝世代と比べると些か華に欠ける印象の力士であった。
しかしそれも前場所までの話。彼こそ今場所を混沌の極みに変貌させた張本人であり、新入幕以来の注目を集めていた。
──歴代最強の横綱、刃皇に土を付ける。
それがどれほどの偉業か、今場所でその意味が分からない者は居ない。刃皇と国宝世代に次々と星を喰われるベテラン勢の中、一人淡々と星を積み上げる最中でのこの一勝。
彼を成らせるには十分すぎた──……
『さぁ九月場所も十二日目!土俵で向かい合いますは渦中の真っ只中のこの二人!冴ノ山関と大包平関です!』
『観客の熱気も凄まじいですね。かくいう私もこの取組には興味が尽きません。横綱を下した冴関に、横綱と星を並べる包平関。どちらが勝つにせよ、今場所の優勝争いに大きな影響が及ぶ一戦となります』
解説の二人と同じく、観客含め他力士たちもこの取組に注目していた。
今場所四大関撃破という異例の快進撃を見せる大包平と、最強と名高い横綱を倒した冴ノ山という構図だ。
星の動きは誰にも予想がつかない。ただ、信ずる者達だけが居た。
「勝つさ。冴さんは」
柴木山部屋所属、西前頭三段目鬼丸国綱を筆頭に、その一門が土俵を見上げていた。
それに応えるように、土俵上の冴ノ山は静かに掌を下ろす。その眼差し・所作には一切の迷いはなく、ただ静かに相手を見据えていた。
(……柴木山部屋、あの鬼丸の兄となる力士、冴ノ山関、か)
泰然と構える冴ノ山を前に、相対する大包平の心は大いに揺らいでいた。
歓声が遠くに聞こえ、ドクン、と脈打つ心臓の音がやけに大きく聞こえた。
昨日の取組で鬼丸から土に付けられ、その兄はあの横綱を土に付けている。
……どうしても悪いイメージしか沸かない。現に、先に構えられて萎縮してしまっている自分がいた。
「っは、はぁ……ッ」
呼吸が浅い。構えるも、まるで波に飲まれたかのような息苦しさから逃れられない。
昨日の敗北──鬼丸関との一戦は死にたがりであった自分を見つめ直すいい機会となったが、同時に冷静で謙虚な自分が再び顔を出してしまっていた。
(かつて二番手で満足していた俺が、今や大相撲で獅童を倒して優勝争い筆頭、か。……出来すぎた話だ。ここまで追い込まれても俺は、目の前の男や皆のように未だ相撲に真摯になれない)
自嘲の言葉が脳裏に溢れる。大包平はこの重圧に耐えきれず、酸素を求めるようにして思わず立ち上がってしまった。
『おっと!?包平関が仕切り直します。今場所速攻相撲が目立つ彼からすると意外な動きですね』
『昨日の鬼丸関に続いてその兄との取組だからでしょうか。横綱の敗北もあり、恐らく精神的余裕がないのでしょう』
解説の指摘は当たっていた。自信を深めた冴ノ山に比べ、今の大包平の心は揺れに揺れている。
鬼丸に敗れ、最強を誇る横綱も敗れ、弱った心に今更ながら獅童や他の力士に負わせたケガの事が頭をよぎる。
──俺は相撲を取る資格があるのか?
ドクン、と再びの鼓動。
鬼丸関との取組では確かに相撲が好きだと自覚したが、それで荒れた過去が精算されたワケではない。死にたがりでなくなった今だからこそ、答えの出ない自問自答にハマってしまっていた。
いつまでも仕切り直す大包平のその姿を、二人の男が画面越しに見つめていた。
「フン、呑まれおって」
横綱・刃皇が大包平の体たらくにため息をつく。刃皇の方がよほど荒れた相撲道を歩んでいるので、手塩にかけて育てている(と刃皇は思っている)大包平の器の小ささに呆れ返る思いだった。
しかしそんな手間が掛かるからこそ、愛い奴めと思うのもまた本当だった。
存分に悩み迷い歩いた先に、本人にしか切り開けぬ道がある。こればかりは第三者が介入できる問題ではなかった。
「何やっとんのや、アキ」
そしてもう一人、国技館から離れた病室にて取組を見守る人物がいた。
西の大関、童子切安綱。天王寺獅童その人である。
彼は大包平との取組で膝を負傷し後日休場届を提出、現在患部には痛々しいテーピングが巻かれていた。
だがその佇まいからは凄まじい覇気が発せられおり、声援を通り越して怒号が叫ばれた。
「シャキッとせんかい!この俺を押し退けてそこに立っとるんやろ、優勝してもらなあかんで!!」
『待ったなし!』
行司の声がテレビ越しに響く。いよいよ逃げる時間は終わりを告げた。
『さあ時間いっぱいです!あっと!?大包平、先に掌を下ろしました!!』
時間制限いっぱい、最後の最後で大包平は待ち構えた。
覚悟が決まらぬなら、いっそ決めてもらおう。せめて、勝負からは逃げない姿勢で……
「……」
目の前の冴ノ山に動じた様子はない。それどころか一層厚みが増したように見えた。
苦肉の策と言えばそれまで。現に刃皇は「何してんだアイツ」と眉根を顰めるが、大包平なりに肝は据わった形である。
(……ああ、こういう事か)
そして自分でも驚く。構えた瞬間、さっきまでの迷いがスッと沈んでいくのを感じたのだ。
もう後戻りは出来ない。この後に待つのは純粋なる勝敗、生か死の二択のみ。
何も難しく考える必要は無かったのだ。極限の緊張の中、大包平は顔を綻ばせた。
(そうだ、俺だって相撲が好きなんだ。誰になんと言われようと、この気持ちだけは……ッ)
その綻びも一瞬。直ぐに顔つきが冷徹な刀身を剥き出しにした。
(それを証明するために、戦え!彰平!!)
「はっきよい!!!」
行司の声が聞こえた瞬間、相撲に殉ずる覚悟を決めた。
(殺られる前に殺る!!)
「ぉおお!!」
修羅の相・無道で凶弾と化した大包平が一気に踏み込んだ、刹那……──
「ッッ!?」
ゴッ、と鈍い音が大包平を襲った。
暗転する世界。
定まらぬ視界の中、僅かに見えたのは冴ノ山のかち上げた腕だった。
──『水の如し』
力の強弱、全力と脱力を武器とした柴木山親方の教え。冴ノ山の相撲は正にそれを体現していた。
(水のように、弾け!!!)
水の表面に物質が勢いよくぶつかると弾かれるように、大包平の鋭いぶちかましを一蹴した冴ノ山がすかさず前に出る。
『こ、これはっ、刃皇を倒した寄りだー!!』
『まるで横綱戦の再現!冴ノ山、一気に勝負を仕掛けてきたー!!』
瞬く間に土俵際、大包平の足が徳俵を踏む。
「ッッ俺を、ナメるなァ!!」
吼える大包平。右手で廻しを切り強烈な左肘が打ち下ろされる。
(水のように、揺蕩え!!)
「!?」
ガクン、と姿勢が崩れたのは大包平。肘が当たる直前、冴ノ山は膝を沈めて衝撃を受け流したのだ。
「ぉぉおおお!!!」
「くっ!?」
沈めた膝をバネに、流れるような動作で右出し投げを放つ冴ノ山。大包平はこれを耐えるが、すかさず反転、掬い投げが大包平を宙に浮かせた。
時間にしてみれば五秒にも満たない取組。瞬く間に死に体となった大包平は、至近距離で目の当たりにした冴ノ山の瞳に宿る力強さに釘付けだった。
(ッ本当は分かってる……、この目は、冴ノ山関は俺をナメてなんかない)
全身全霊を持って相手を倒す。その気迫は俯瞰している大包平をも圧倒し呑み込むかと思われた、が──……
(ッだからこそ、俺はアンタに勝つ!!)
「ら゛ァあ!!」
冴ノ山の頭に腕を巻き付け固定、さらに両手をガチリと連結し強引に身体を捻る。
──『羅城閉門、首投げ・鎬狭間』
死に際の酷しい一撃。羅生門に棲まう鬼が、流れる水を塞き止めんと勢いよく城門を閉める──……
「やはり侮れないですね、君たちは」
「ッ!?」
──が、勢いに乗った水の流れは止められない。
冴ノ山が投げの途中で内掛け、体勢の悪い大包平を下敷きに土俵の外へと一気にもつれ込んだ。
背中を襲う衝撃。
大包平が国技館の天井を見上げる中、行司のよく通る声が聞こえた。
「勝負あり!西の勝ち!」
『軍杯は冴ノ山ー!優勝候補筆頭の大包平に足並みを揃えさせたー!』
ワッ!と国技館が沸く。最後の攻防は確かにもつれ込んだが、大包平が下敷きになって倒れたため物言い判定はつかなかった。解説も満足そうに試合を振り返る。
『いやー終わってみれば冴ノ山の圧勝でしたね。刃皇を倒したことが何よりの自信になったのでしょう。それに反して大包平は昨日の負けを引きづったか、立ち合いを制されたあとも一方的な展開でした』
『いやいや、大包平も踏み込みは良かったんですよ。けれどそれを冷静に弾き返した冴ノ山を褒めるべきです。その後大包平が土俵際で粘った時も、焦らず小さい投げで崩してからの掬い投げ!明鏡止水の如く鮮やかな相撲でした』
解説の興奮冷めやまぬ中、土俵上に戻った二人は静かに礼をしていた。
互いに喋ることはない。すでに二人は今日の取組の反省点を洗い出し、己が糧にせんと次を見据えていた。
──優勝への地続きに残るは一敗を残す刃皇のみ。
このまま行けば彼が優勝し角界を去る事になるが、灼熱渦巻く九月場所はこれよりさらに佳境を迎える事となる──……