マリエの不在は、私が想像していた以上に家を暗く、空っぽなものへと変貌させた。まるで本体がどこかへ飛び立った後のセミの抜け殻のように、ここには何もない。
家だけじゃなくて私も同じだ。憐れな抜け殻となった私は毛布にグルグル巻きになってベッドに横たわっていた。もし毛布の色が茶色だったら、なおさらそう見えただろう。
なにもやる気がしない。だから一日のほとんどをベッドで過ごす。それが今の私だ。
大学はあの日から一度も行っていない。スマホには友達から心配するメッセージが届いていたがマリエからのものは一つもなかった。何度新着を確認しても一つも。確認するたびにそのことが悲しくて私は泣いた。
マリエに褒められるのが嬉しくて一生懸命頑張ってた料理も今は一切やらず、一番近いコンビニで買い溜めしてひたすらそれを食べる。そんな日々を送っていた。
他には………ああ、サキが来ていたっけ。サキは毎日のように訪れては食料を片手にチャイムを鳴らした。
あなたのせいでこうなったのに。鬱陶しい。帰って。
そう思って最初のうちは無視していたが途中からはインターホン越しに少しだけ会話するようになった。サキによればマリエも大学に来てないそうだ。実家から通うと言っていたのに。
そしてある日、どうしてもと言うので玄関の鍵を開けてあげた。にこやかに中へと入ってきたサキは私の様子を見て絶句し荷物をドサッと床に落とした。
私がそれらを拾いながら、一言「マリエに会いたい」と告げると、サキは逃げるように家を飛び出し、それから一度も来ていない。貴重な会話相手だったので少しだけ残念だった。
それがほんの数日前のことだったのか、あるいは一週間前のことだったのか。
分からない。まぁ、どっちでもいいか。今はとにかく食料を買いに行かないと。
空っぽになった冷蔵庫を見つめ私はため息をついた。億劫だけど仕方ないとパーカーを羽織ったその時だ。
ピリリリリッと電子音が鳴った。スマホではなく固定電話の方だ。こっちの電話番号を知っている人はそんなに多くない。
そっか、お母さんかな。大学を休んでいるのが伝わって心配したのかも。親にくらいは電話しとけばよかった。でも事情を話すのは嫌だな、とボーっとディスプレイを眺める。
「あれ? これって…」
たしかに実家の番号だった。ただし私のではなくマリエの…。
「マリエ。 マリエなのッ!?」
すぐに受話器を取って呼びかける。大きな声を出したのは久しぶりだったせいか、少しむせてしまった。
<うん、そうだよ。キミコ…久しぶり>
ああ、マリエの声だ。あの時と変わらないマリエの声だ。
ずっと聞きたかった声が聞けた途端私の涙腺は決壊し洪水となって頬を流れ落ちた。
「なんで大学行ってないの? ダメだよ、マリエは優秀なんだから。教授にだって気に入られてるのに」
自分のことは棚に上げ、私はマリエを心配した。
<それを言うならキミコだって休んでるだろ?>
「………………。知ってたんだ」
気になって誰かに聞いたりしたのかな? もしそうなら罰当たりかもしれないけど、嬉しい。
<サキさんから聞いた>
「えっ?」
<ちょっと前に電話かかってきてキミコの様子とか色々教えてくれた>
「そう…なんだ。他には何か話した?」
もしかしたらあの夜のことも聞かされたのかもしれない。私がどんな痴態を晒していたかとか、そういうことまで。
でもそんな心配はマリエの言葉で跡形もなく消え去った。
<キミコのこと頼まれたよ。自分じゃキミコのこと助けられない。このままだとキミコが死んじゃうかもしれないって。泣きながら、ずっとキミコの心配してた。サキさん、キミコのこと本当に好きだったんだね>
「サキ…」
根は優しい子なんだ。今回はやり方を間違えちゃっただけで。そうじゃなかったら私のマリエに会いたいという願いを手助けしてくれたりはしなかっただろう。
「電話」
<えっ?>
「電話してくれたのはサキに言われたから? マリエはもう私のこと嫌いになっちゃった? 顔も見たくない?」
<キミコ…>
「私はマリエに会いたい! マリエにどう思われていようともう一度マリエに会いたい」
返事はすぐには返ってこなかった。永遠に思えるくらいに長い沈黙に胸が張り裂けそうになる。
そしてマリエの吐いた息がノイズとなって聞こえてきた。
<私も…キミコに会いたい。ずっと我慢してたんだ。でもやらなきゃいけないことがあるからって自分に言い聞かせてた。連絡が遅くなったのはそのせい。サキさんに頼まれなくても電話するつもりだったよ。だいたい私がキミコのことを嫌いになるわけないだろ。バカだなぁ>
バカだなぁってセリフがこの上なく優しい言葉に聞こえた。こんなに優しく言ってもらえるなら、私はバカだって構わない。
「だって、だって…」
<明日そっちに行く。行くっていうか、またそっちで暮らす。お昼には着くから良い子で待ってて。とっておきのお土産もあるからさ>
「分かった。待ってる。待ってるから必ず来てね。私待ってるから」
<ねえキミコ>
「うん、なあに?」
<愛してる>
それだけ言い残してマリエは電話を切った。
「私も…愛してるよマリエ」
床にへたり込みながら部屋を見渡す。そのあまりにもひどい惨状に自分でも驚いた。ゴミは捨てていたけど、衣服が散乱しベッドもぐちゃぐちゃ。鏡を見ると髪はボサボサで色気の欠片も感じられないしょぼくれた女が映っていた。こんな顔じゃマリエに会えない。けど、みすぼらしい外見の中で目だけは爛々と輝いていた。
帰ってくる。マリエが帰ってくる。
その喜びを胸に、今まで死んだように過ごしていたのがウソみたいに私はテキパキと働いた。
窓を開けて換気し、掃除機を掛ける。洗濯物を近所のコインランドリーに放り込む傍ら食材を買いに行き下拵えを済ませた。ベッドメイキングも行い室内があらかた綺麗になると、最後に自分の手入れを行う。髪のセットは明日に回し、出来る限りのスキンケアをしておいた。
そして翌日。
久しぶりの手料理を用意しながらマリエが来るのを待つ。あんなに会いたかったはずなのに、いざ会うとなると怖くて時計の針ばかりを気にしていた。
マリエは愛してるって言ってくれた。ここに住むって言ってくれた。それは私を許してくれたということだ。私はまだマリエにちゃんとした謝罪を出来ていないというのに。
謝らなくちゃいけない。あの日のこと全部。私の一夜の過ちを。
ガチャリという音と共に玄関が開くと光の中にマリエが立っていた。
「ただいまキミコ」
「おかえり。おかえりマリエっ!!」
謝るまでは泣かないって決めていたのに、その姿を見たら我慢なんて出来なかった。成人したはずの大人がみっともないくらい声を上げて泣いた。
「よしよし。ごめんね遅くなって」
「ごめんマリエ。ごめんなさい。私、私…」
マリエは泣きじゃくる私を優しく抱き寄せ、謝罪している間ずっと頭を撫でてくれてた。
「少し落ち着いた?」
「うん」
「じゃあキミコにお土産あげる」
私が落ち着いたのを見計らいリビングに連れていったマリエは、カバンから小さな箱とクリアファイルを取り出し笑った。
「もうキミコが誰かに奪われたりしないように私のものにするって決めたんだ。だけど両親を説得するのに手間取ってさ。知ってるだろう? うちの両親、昔気質の人だから」
「ねぇマリエ…それって」
「こっちもデザインに凝り過ぎたせいか完成までに時間かかっちゃって」
そう言うと箱を開け、お揃いのペアリングの1つを手に取り私の前に跪いた。
「私と一緒になってくれ、キミコ。君と生涯を添い遂げたい」
マリエは私の王子様だった。いつだって私を暗闇から救ってくれた。女同士での交際が親にバレた時も、知らない子たちから嫌がらせを受けた時も。
今日だって…。
「また泣いてるの? 嫌だった? それとも…うれし泣きかな?」
「分かってるくせに」
「ごめん」
「カッコつけちゃって。私がサキさんになびいてたらどうするつもりだったの? マリエはいっつもそう。自分が正しいと思った事を一人でどんどん進めちゃって。時々、私のこと置いてきぼりにしていっちゃう」
「それが私の性分だから。でもこれからは振り返ることにするよ。その代わり、必ず付いてきて」
「うん、分かった」
私の手にそっと指輪がはめられた。それは私とマリエ、二人のイニシャルが刻まれた…世界にただ一つの特別な宝物。
明日更新予定のエピローグにて完結となります。どうぞよろしくお願いします。