塔の円周が大きいせいで、壁に沿った螺旋階段による道のりは無駄に長い。それでも仕方がないので黙々と登っていくと、ある時階段と直結した一枚の鉄製ドアが眼前に現れた。
ドアには横長の石版がはめ込まれており、そこにまた一行文字が書いてある。
「この先、真名が必要だ」
……だろうなと思いつつ、いかにも怪しいそのドアノブを捻ってみると、あっさりとそれは開き先へ続く道が現れた。
あの象(マンモス)の性質から考えて、この塔に初見殺し的な罠が仕掛けられている可能性はないと思われる。ここにあるのはただ真名当てのゲームのみであり、そのゲームを始める前にこちらをリタイアに追い込む無粋な真似をするくらいなら、あの象をもっと攻撃的な番人として置いてあったはずだ。
そう理屈を付けて考えれば、高々ドア一つを開くたびに警戒するような必要もないわけだが……。
「なんだこれは……」
ドアの向こうには、鮮やかな緑の芝生が生い茂っていた。……が、それは驚きのほんの一部でしかない。ドアを抜けた先の空間には、広大で果てしなく青い空、そこに浮かぶ白い雲、彼方まで続く終わりの見えない大地、心地よく吹いてくる爽やかな風……と、およそ塔の中にあるとは考えられない「世界」が詰め込まれていた。
架空のアイテム……どこでもドアを真っ先に連想する。この塔の入口にはあらゆる侵入を阻む力を持った象がいたのだから、ここ塔の二階にだって、俺をどこぞの草原へとワープさせる力を持つ者がいたとして何もおかしくはないが……。
一応振り返って確認してみれば、さっき開いた鉄のドアがそのまま草原に突っ立っている。もちろんそこから続くのは暗くじめじめとした塔を下る階段だ。今引き返せば問題なく塔の出口まで戻ることは出来るだろう。……が、俺は塔の最上階へ向かわなければならない。何階まであるのかも分からない塔を、婚約者であるニコを探して登って行かなければならない。下りしかない階段には用がないのだ。
今この塔の一部となっている目の前の草原(あるいは異空間)は、おそらく俺への挑戦……つまり真名当てゲームの舞台であると考えていいだろう。舞台でありなおかつ、ゲームを動かすための装置でもある。何せこの果てしなく広大な空間は「ただ広すぎる」というだけで、象とはやり方が違いながらも「俺の行く手を阻む」という意味では、まったく同じ効果を発揮しているのだから。
よってきっとこの空間のどこかに、俺を誘い込んだ輩がいる。そいつの真名を言い当てることにより、俺はこの草原を抜け出すことが出来るに違いない。そうでなければ挑戦とやらは成立しない。ならば今さらこんな空間に放り出された程度で日和るものか、俺はここを抜けてさらに上へ行かなければならないのだ。
ひとまず俺は、芝生の上を真っ直ぐ歩いて行ってみることにする。念の為下り階段へ続くドアは開きっぱなしにしておいた。戻る気がないとはいえ唯一の外部との連絡経路だ、万が一閉じた瞬間に消えられるよりはマシだろう。
歩いて行ったところ道中では、腰掛けるのにちょうど良さそうな大きさの岩が転がっていたり、種類は分からないが何かしらの大きな木が二本生えていたりしているのが見て取れた。それらと下り階段行きのドアを基準にして動けば、とりあえず方向感覚を失ってしまうことだけは防ぐことが出来る。
そうしてある程度の距離を進んで行くと、ある時俺の視界に不自然な物が映り込んだ。その場で後ろを振り返ってみると、俺はちょうど開きっぱなしのドアが見えなくなってしまう距離にまで来ていたらしい。
草原を探索した末に見つけたそれは、まるで何者かの手によってあらかじめ俺の向かう先へ用意されていたかのような、ただ一枚の鉄製ドアだった。
穏やかな草原の中では馴染まない無骨な人工物として立つそのドアは、少しの隙間もなくきっちりと閉じられたまま置かれている。涼しげなそよ風程度の力で、開きっぱなしにしていた鉄製のドアを閉められるとは思えないので、これは俺が通り抜けて来た「帰り道としてのドア」とは別の、言わば第二のドアだろう。
そんな物がこのだだっ広い草原の中、ピンポイントに自分の歩みの先へ置いてあるのだから、それがこの空間を脱出する手がかりであると見て然るべきだ。……俺は第二のドアに手をかける。するとそれも、第一のドアと同じようにあっさりと開くことが出来た。
「……なるほど」
ドアを抜けた先に見えた物は、再び何ら変わり映えのしない草原だけ。直感的にこの空間のルールを理解した気がして振り返ってみれば、自分の背後には下りの螺旋階段が暗闇の中を伸びていた。
つまり俺は第二のドアを抜けたはずが、第一のドアを抜けたことになっている。この空間のルール……それは無限ループだ。
確認のため、今度は一度目とはまったく別の方向へ走り出す。するとある程度進んだ先にまた閉じた鉄のドアが置いてあり、それを開いて通り抜けるとやはり、第一のドアを抜けた地点へと戻ってきてしまう。
さらに次はまたしても別な方向へ行き、その先に立っているドアを無視してさらに進む。……すると今度は、目の前に開いたままのドアが現れた。そのドアの先にある物は案の定下り階段だ。第二のドアをスルーして進んでみた結果、俺はいつの間にか第一のドアに向かって引き返す形で進んでいたことになる。
やはり間違いなく、この空間は無限ループしている。ということは第一のドアに埋め込まれた石板にも書いてあったように、真名を解かない限りこのループから抜け出すことは出来ないのだろう。……しかし問題は、どの方向へ行けどもどれだけの距離を行けども、ドアを開けようと開けなかろうと何をどうしようとも、あの象のような明確な「敵」の姿が見当たらないことだった。
真名を言い当てようにも、そもそも何の真名を言い当てれば良いのかが分からない。どうやら真名当てゲームはラウンド2にて早くも、思っていたよりもずっと厄介な存在として立ちはだかってくるらしい……。無限ループという性質と合わせて「向かうべき目標が見えない」という状態を徹底してくるような悪趣味な相手を、俺は打ち負かさなければならないわけだ。
この空間を抜け出すための謎を解くため、何か、まだ試していないことはないか。そう暫し考えた末に、俺は「来た道を戻る」ことを思いついた。と言ってもこの無限ループ空間内のことではなく、第一のドアを引き返して階段を下りていく……という案だ。
ヒントは無限ループの中にこそあるはず……という思考が、盲点になってしまうのではないかと考えての案だった。そして実際にその案を実行してみると、それは半分だけ当たっていた。第一のドアをくぐり抜け、下り階段を数歩降りた瞬間、
「行ってらっしゃい」
と、子どものような声が聞こえてきたのだ。背後からかけられたその声に振り返ると、開け放たれた扉の先には……やはり薄暗い塔から繋がっているとは信じ難いような、清々しい草原が延々と広がっているだけで、声の主らしき姿はまったく見当たらない。しかし今のは間違いなく、象の毛と同じような「ヒント」だろう。
そうして手ごたえを感じて、階段を延々と降りてみるものの、足元にも壁面にも、何かの手がかりになりそうな物は見つけられない。やがて一階にまで戻ってきてしまったが、暗く殺風景な一階の広間にも、やはり手がかりらしき物は何一つ見当たらなかった。
部下たちがまだこの塔を監視しているかもしれないことを考えると、外にまで出ていけばまた説明が面倒なことになってしまう。そもそも「行ってらっしゃい」の声以降は、ここまで降りて来て手応えの一つもないのだから、ヒントはあの声が唯一だったと考えてしまっていいのではないだろうか。塔の外にまでヒントが及ぶのだとすれば、俺はいったい世界のどこからどこまでを「塔に関わる範囲」として見ればいいのか分からなくなってしまう。
ヒント探しを諦めて長い長い階段を登り、二階の無限ループ草原まで戻ってくる。「行ってらっしゃい」の声があったわりに、舞い戻って来た時に聞こえる「ただいま」のような声は一切聞こえてこなかった。
……そしてそれが、完全な手詰まりの始まりだったのだ。
……あれから体感で数時間が経過して、一つだけ新たに判明したことがある。それはこのループ空間は、時間さえもループしているということだ。
太陽の角度が変わっていないことに気付くまで、俺はずいぶんな時間を要したように思う。変わり映えのしない景色の中いつまでも日が照っているので、ヒント探しにほとんど希望を失っていたこともあり、俺は時間感覚を半ば失いかけていた。だからこのループ空間に夜はないと気が付いたのは、いったい何時間さまよった末のことだったのか改めて振り返ってみても分からない。
しかし、俺がどれだけさまよい続けていたのだとしても、外の時間はほとんど……あるいは全く進んでいないようだった。ループ空間では既存の「時間」という概念が適用されていないことに気付き、再び「行ってらっしゃい」の声を背中に受けながら慌てて階段を下り一階へと戻ったところ、塔の外の様子が何も変化していないことを確認したのだ。多めに見積もってもループ空間内の数時間は、塔の外では数秒といったところだろう。
時間が進まないのなら焦ることはない。思えば結構な距離を歩き回っているはずなのに、腹も減らなければ喉の渇きも感じないのだ。この無限ループを攻略することは至難の業と言うしかない一方で、逆にここでくたばってしまうような危険も存在していない。ニコを待たせる時間が増してしまうこともないのだとすれば最高だ。
入口の象が向こうから攻撃を仕掛けてくることがなかったことと合わせて考えれば、この塔は本当に「先に進ませない」こと以上の危害を加えてくるつもりが一切ないらしい。そういった点を信用するなら、やはりループを抜け出すための真名だって、すでに見てきたうちのどこかには存在するはずだ……。
「はぁ……」
芝生の上に寝転がって、晴れ渡った空を見上げながら考える。俺はいったい、何の真名を言い当てればいいのか……。
……と、一周回って落ち着き切った脳みそで考えてみれば、そもそも「名前」というキーワードがヒントであるような……という、そんな発想が湧いてきた。そうだ、つまりは大前提として、「名前が付けられる物」だけが、真名当てゲームの候補になっているのだ。俺はそのことにようやく気が付く。
名前のない物は真名当てゲームの対象から外れる。言葉にしてみると当然のことのように聞こえるけれど、その当然が意外と重要なのかもしれない。無知な俺には分からないことだけれど、例えば今寝転がっている芝生……つまり「草」にだって、種類を分別するための名前があるのだろうし、木にだって名前があり、石にも、雲にも、風にも名前があるに違いない。ループを構成するドアだってそうだ。万物には名前がある、それがまだ誰も見たことがない新種でない限り。
そんな名前を持つ物のうちのどれかが、当てるべき真名を持つ存在となっているのだ。……が、そこで重要になってくるのは、初めて示された方のヒントだ。象を突破するに至ったあのヒントを、改めて今一度思い出す。
「真実とは往々にして、想像するよりくだらない物である……か」
真名はくだらない物であること。それがあの象だけではなく、塔全体に共通する
俺が先へ進むには真名を解く必要があることと、塔の番人は行く手を阻む以上の危害を加えてこないこと。象とループ空間にはそれら二つの共通した特徴がある。そしてそれらが共通している理由はおそらく、象もループ空間もどちらも「塔に属する存在」だからだ。ならば「真実はくだらない」という部分だって「塔に属する存在」の中で同じように共通しているはず。
きっとこのループ空間を抜け出すための答えだって、一度分かってしまえば他人に伝えることも躊躇ってしまうような、心底くだらない物であるはずだ。これはここ二階だけでなく、三階以降に立ちはだかる存在すべてに対して同じことが言えるに違いない。
「……待てよ?」
共通点について考えた瞬間、俺の中で一つの閃きが起こり、思わず飛び上がるように体を起こす。そして急くような気持ちのままに走り出す。このループ空間内にある物の全てを確認しに行く。
方向感覚の維持を補助するように存在している、二本の木と大きな岩。行く手に現れる鉄のドア。足元の芝生、空の雲、時々吹いてくる風、動かない太陽……。
それらのうち、二本の木の前に立って、俺はある日ニコと交わした雑談を思い出す。
「……なあ、桜と梅を見分けられるか?」
「え? あぁ、まぁ、はい。……花を見ることが出来れば、分かると思います」
「実は、俺はよく分からないんだ。見比べれば分かるのに、一方だけを見せられると、いつも咄嗟に答えられない。……これは恥ずかしいことなんだろうか」
「いえいえ、そんな。誰しも得手不得手はありますから。…………ただ」
「ただ……?」
「あまり花に興味がない人なのかな、とは思ってしまいますね。……あっ、いえ、私も詳しいわけではないのですが……」
……ニコが、岩の名前を知らない俺に対して、「岩に興味がない人なのかな」と言うところは、これっぽっちも想像できない。学者やその卵でもあるまいし、きっと彼女も俺と同じく、岩にそれほどの興味や知識は持っていないだろう。ほとんどの人がそうだ。桜と梅を見分けることのように、岩の見分けについて「それは出来て当然の区別だ」と思っている人は、もはや「いない」と言ってしまってもいいはず。
単なる芝生としての草、風や雲など気象現象の類、ドアの種類についても同じだ。それを正しく区別出来ると自負している人の方が珍しい。そして大多数の人が正しく区別するべきだと本気で信じているような人はほとんどいない。……だが、木ならどうだ?
桜も梅も木の一種だ。果物だって木に実をつける。このループ空間にある物の中で、一般人に一番身近な「名前のある物」は、木なのではないか? いわし雲や入道雲のようなポピュラーかつ目立つ雲が浮かんでいるわけでもないのだから。世の中にはここにある岩の名前が分かる人より、芝生の名前が分かる人より、木の名前が分かる人の方が圧倒的に多いだろう。
くだらない物はきっと、専門知識から遠いところにある。象やマンモスと同じくらい、無知な人間でもなんとなく知っているものにこそ、くだらなさが付与される。少なくともこの塔ではそうなっているはずだ。でなければ「共通点」にならない。この塔の「挑戦」は几帳面なほどフェアだ、だからあらゆることに共通点を持たせてあるはずだと、もうこの際信用してしまうしかない。
探索の甲斐あって、俺はこの空間に立つ二本の木が、別の種類の物であることに勘づいていた。葉の見た目が素人目に見ても明らかに違うのだ。だがその気は花を咲かせているわけでもなければ、実をつけているわけでもない。葉の特徴だけでは、無知な俺には「二つは違う木である」ということ以上の情報を読み取ることが出来なかった。
けれど、必ずこの木に真名があるはずだと的を絞って考えてみると、一つ仮説が浮かんだ。それはマンモスの時よりもさらに投げやりな当てずっぽうの答えだけれど、しかし一度それが思い浮かぶと、もはや正解はそれ以外に無いように思えてきてしまう。もちろん根拠だってある。
……どうしてこの空間は、「行ってらっしゃい」は言う一方で、「おかえり」は言わないのだろう? それはきっとその声が、俺にとある発想を与えるためのヒントだったからだ。一方で二本の木がどちらも実をつけていないことは、それは単なる偶然ではなく、その「実」自体が真名に関する「答え」であるからなんじゃないか。安易に答えを悟られぬように、「挑戦」が意図的に実を隠したのだ。
全ては適度な難易度のため、フェアな挑戦のための物だったに違いない。
「このループ空間に俺を閉じ込めているのは、この二本の木だ。この木の真名は……」
……それとも、俺が「おかえり」を言ってもらえなかったのは、俺自身が言うべき言葉を放棄し続けていたせいなのだろうか。
「真名は、おかえリンゴの木と、ただいマンゴーの木」
それを口にした瞬間、まるで突然白昼夢から覚めたかのように、俺は薄暗い石造りの空間でポツンと立ち尽くしていた。
首を右へ左へ巡らせ見渡せば、わずかな明かりの設置された壁面のみが見える物の全てだ。しかし真正面にはドアがあった。あからさまに重要そうな雰囲気を放つ鉄製のドアが、正面の壁に取り付けられている。背後を振り返ってみても、螺旋階段から続いていたはずの「第一のドア」は見当たらなかった。ただ壁沿いに下る階段があるのみである。
いざ正面のドアを開いたところ、その先には壁沿いに、上りの螺旋階段が伸びていた。……塔の壁に取り付けられたドアを開いたはずなのに、「壁沿いの螺旋階段」である。壁の中に、また壁だ。
塔の壁が二階から上だけ二重構造になっているのだろうか? それも無いとは言えないことだけれど、俺にはなんとなく、空間の繋がりがおかしくなっているように思えた。しかし今目の前にあるその「壁の中の壁」は、ループ空間とはまた別な空間だろう。何せ元々この塔を外から見上げた時には、暗雲が立ち込めていて上層の方がほとんど見えなかったのだから、人智を超えた現象ばかりが起こるこの塔の中、二階以降の空間がどんな奇怪な造りになっていたとしても不思議はない。
三階へと続くはずの階段を登っている途中、他にすることがないからか、ニコとの会話の続きが頭の中で自動再生されていった。
「心外だな、花への興味くらいある。そうだな、……ニコはフィギュアスケートは好きか?」
「え? はい、好きですよ」
「思うんだが、スケートが好きな人は皆あのジャンプを見て、審査員みたいに種類を見分けられる物なのか?」
「あー……」
「見分けがつかなくても、好きな物は好き。それでいいんじゃないかな」
「なるほど……。……シフさんは、やっぱり賢いですね」
はた迷惑なゲームを仕掛けてきた輩から、俺は必ずニコを取り戻す。こんなくだらない人間を慕ってくれる女性の存在など、彼女以外には考えられないから。
ー 国語算数利己的な社会 ー
……塔二階、草原の幻が失われた足元に刻まれた文字より。