階段に導かれるまま塔をひたすら登っていくと、行く手にまたしても鉄のドアが現れた。が、今回のドアは今までと明らかにデザインが異なっている。またここまで来ればドアを見ただけでループを警戒する必要もなく、単純に階層の仕切りとしてドアが用いられているらしいことを察することが出来た。
ゲーム的な言い方をすれば、それらのドアは「この先に
番人に対しては「二階を上回る厄介さ」という嫌な予感を抱くばかりだけれども、それはともかく三階へと続くドアには、目線の高さに大きく丸いガラス窓が取り付けられていた。その窓は俺の顔よりもずっと大きく、これといった特別な加工をされているわけでもないので、当然そこから難なく三階の中を覗くことが出来る。
そして実際に覗いてみたところ、これから足を踏み入れるべき三階は……異様に白かった。
ドアを抜けた先には、現代の建築物を思わせる白いタイル床が敷き詰められており、薄暗い塔の階段とは真逆に、いつになくふんだんに降り注がれた照明の色も相まって、その空間には病院内のような潔癖の印象を受ける。そしてそんな「三階」の中には、大きなガラスが一枚そびえ立つように備え付けられていた。……そのガラスの中に入っているのは大量の水だ。
つまりは水槽。水族館にあるようなとてつもなく巨大な水槽の存在が、三階に用意された最大の特徴であるらしい。白で形成された空間に巨大な水槽と来れば、病院というよりはもっと、研究所的な印象を受けるが……。「石造りの塔の中とは思えない」という印象を否応なしに与えてくるそれらには、経験上とてつもなく不吉な予感を覚えてしまう。
さて、しかし見ているだけでは仕方がない。俺はドアを開いていよいよ戦地へ踏み込む。……するとさっそく、その場所の致命的な異常性を察することが出来た。
「なるほど……」
塔の三階は、ただただ広かった。途方もなく、異様に、物理的にありえないほどに広い。水槽の端が、三階の終わりが、まったくどこにも見えてこない。塔の中にいるはずなのに、ここ三階にある物の全ては、「地平線の彼方よりさらに先まで続いている」としか言いようがないほど、実質的無限に広がっていた。
……もうループを警戒しなくていいという認識は、間違いだったのかもしれない。三階へ到着早々、そんな軽度の絶望に見舞われかけたところ、俺は水槽の前にわずかな「希望」を発見した。それはいかにも三階における「ヒント」として設置されたであろう、支柱一本で支えられた小さなデジタル画面だった。
近付いてその画面を覗き込むと、角張った書体の活字でこう表示されていた。
「ここに真名は無い。その代替として、問いに答えよ」
真名当てゲームが
そしてある時、何の気なしに正面を見上げると…………俺が画面ばかりに集中している間に、水槽の中の様子が一変していた。
さっきまで水以外には何もなかった水槽の中を、ものすごい速度で無数の魚が泳いでいる。縦横無尽に四方八方へ、ある一群は散開するように、ある一群は集合するように、ある一群はただただ俺の目の前を横切って。目にも止まらぬ速さでおびただしい数の魚が、視界の中を行き交い通過して行く。……こいつらはいったい、この一瞬でどこから湧いて出た?
目を凝らせば、その魚が何であるのかくらいは俺でもなんとか把握することが出来た。泳いでいる魚は二種類いる。素人目に見てもそれはおそらく、イルカとシャチだった。
しかし野生の物を見たことがないとはいえ、それでも断言してしまえるほどに、目の前の水槽で泳ぐ魚たちは明らかに動きが速すぎる。いくらなんでもそんな速度は出ないだろうという、魚類の移動スピードとしてはかつて見たことのない勢いでもって、それなりに大きな魚が大群を成し、一切止まることなく無限に広大な水槽を泳ぎ回っている。一匹残らずレーシングカーのような勢いで、目まぐるしくあちこち動き回り続けている。
そんな高速で移動する魚たちのことを「イルカとシャチだ」と判断出来たのは、速さのあまりそれらの輪郭さえブレて見えたとしても、なんとなくの形や色、模様だけはかろうじて認識することが出来たからだった。しかし俺の動体視力がもう少し低ければ、その判別さえ出来たかどうか疑わしい。それくらい圧倒的な速さで奴らは泳いでいる。
仮にあれらが「イルカやシャチっぽい別種の魚」だったとしても、それを間違えた俺を責めることが出来る者はいるまい。……というかそもそも二階でのことを鑑みれば、きっとこの塔の中には、そんなニッチな種類の生き物は配置されていないだろう。
……しかし順調なのはそこまでだった。魚の種類をなんとか把握したこと、そこまでは良かった。が、その後はまた「二階」を彷彿とさせる「非常に厄介な事態」が、染み入るようにじわりじわりと明らかになっていく。
待てども待てども、この三階に変化は起こらなかった。魚が現れたことが変化の打ち止めで、……つまり嫌な予感が見事に的中してしまったのだ。ループ空間で植え付けられたトラウマ的予感が当たっている。……画面に浮かんだ一行が言うところの「問い」とやらは、クイズ番組のように分かりやすく出題してはもらえないらしい。
またしても「何をすればいいのか」が分からない。まずそれを突き止めることを目標に設定されている。ならば前方は巨大水槽に塞がれるこの空間を、どうせ無限に伸びる横方向へ探索して行ったところで、また空間がループしてここへ戻ってくるだけだろう。どれだけ進もうとも水槽に向かって後ろを向けば、丸いガラス窓付きの開けっ放しにしたドアが見える……といった具合に。それを試すだけ無駄であるとしか思えない。
……が、一応試した。はたしてこの塔が騙し討ちや引っかけクイズのような手法を取るのだろうかと、その段階から疑わしかったけれど、他に出来ることもないので一応歩いてみた。結果判明したことは、やはりここ三階も、空間がループしているということだけだった。
「勘弁してくれ……」
二階を突破出来たこと自体まぐれのようなものだ。結果を振り返る段階にまでたどり着いてみれば、元々そこかしこにヒントはあったのだとある種感心することだって出来たものの、では今この三階にあるヒントは何なのかと考えれば、そんなものすぐに分かるはずもない。それが分かれば苦労はない。
「しかし、まぁ、水槽だろうな」
誰がどう見ても、この三階最大の特徴は水槽とその中身だ。強いて言えばデジタル画面や空間のループも特徴ではあるけれども……それらは一階入口にあった立て看板や二階のギミックその物と同種であるから、ここ三階の本題であるようには思えない。
謎解きの問題文や空間に施されたループ機能は、この塔の「挑戦」を形作るアクセントに過ぎない。一階で直接答えに関連していた物は象であり、二階ではそれが木だった。その流れで考えれば今回は魚か、少なくとも水槽にまつわる物が関わっている可能性が高いが……。
とりあえず、「くだらない」というキーワードで真っ先に思いついたフレーズがあるので、ダメ元でデジタル画面に向かって叫んでみる。
「イルカはいるか!?」
………………………………恐ろしいほどの静寂。天井まで満たされた水槽の中では水の跳ねる音さえせず、無音の空間でひたすら魚たちが全速力で泳ぎ続けている。
「イルカはオルカ!!」
シャチの存在も付け加えなければいけないのかと、若干改変した台詞を叫んでみたものの、返されたのは不正解を表す静寂と無変化のみだった。
まあ、そうだろう。そもそも今回のお題は真名ではなく、問いに対する答えなのだ。「いるか?」「おるか?」では疑問文に疑問文を返していることになり、むしろ不正解であって然るべきとさえ言える。……いや、そもそも「問い」とはいったい何なのだろう……? 俺はこの状況で、いったい何を問われているというのだろうか。
その謎がここを攻略する鍵なのだろう。何の真名を解くべきなのか考えさせられた二階に続き、今度は「そもそも何を問われているのか」を考えさせられる。この空間ですでに成立しているであろう、無言の問いにまずは気付かなければならない。そしてそれに気付くことさえ出来れば、きっと答え自体は小学生でも分かる簡単な物となっていることだろう。
「イルカ……シャチ……イルカ……オルカ……海豚……海のギャング……」
とりあえず関連する語句を上げていけば、偶然と奇跡によるアイデアが湧いて出ないだろうかと期待して、何かの呪詛のように同じ単語を繰り返す。イルカ……オルカ……イルカ……オルカ……。
……そしてある時ふと、これでは一生正解にたどり着けないことを直感した。二階にて「草原……木が二本……大きな岩……」という風に呟いていたところで、一向に正解に近付くことは出来なかっただろうということを思い出してきたからだ。
すると今回も、不確定なことだらけの中で、いくらか理屈が通っているように思える仮説を見出していくことが、ここを突破するために必要なことなのだろうか。だとすれば考える上で重要なキーワードはやはり「共通点」だろうとは思う。今までの答えと共通した物……つまりは専門知識が無くてもたどり着ける答えで、なおかつ非常にくだらない物とはなんだろう……?
あれこれと考えることに脳の容量を使うせいで、視界には水槽が映っているものの、今の自分はそれを「見ている」とは言えない状態にある。……そのことを自覚した時、漠然と、「これではいけない」と感じた。なぜそう感じたのだろう……と自分の中に理屈を求めてみれば、それは俺がまだ「得なければならないヒント」にたどり着いていない可能性があるからだった。
葉を見て「これはリンゴ。これはマンゴー」と判断出来ないままで、俺はあの二階を突破することが出来た。それはなぜかといえば、あの空間から引き返して外へ出た時、「行ってらっしゃい」という声が聞こえてきたからだ。そしてあの空間へ舞い戻る時に「おかえり」の声が聞こえてこなかったからだ。
なぜ「おかえり」は無いのだろう……まさか「ただいま」を言っていないからか!? そう考えた時に初めて、あのくだらない二つのフレーズが頭をよぎり、それが二本の木の存在と結びついたのだ。逆に言えば俺はあの時、一度あの空間から出ることをするまでは、一生真名という答えにたどり着けなかったことになる。
そういった「絶対に必要なヒント」が、今回もどこかに隠されている可能性は高い。なぜなら二階での経験上、この塔の攻略を試みる鍵となったのが「共通点」だったからだ。俺の行く手を阻む塔の「挑戦」には、あらゆる部分に共通点があると見るべきだろう。だからきっと今回も「絶対に必要なヒント」はある。そしてそれは座り込んでひたすら思考をこねくり回しているだけでは、永遠に手に入れられないところにあるのだと思う。二階と同じようにだ、そうに違いない。それが共通点になっているはず。
「よし」
とりあえず俺は馬鹿の一つ覚えのように、来た道を戻る形で開けっ放しのドアを通り抜けた。そしてそのまま階段を下りていく。……が、さすがにまた声が聞こえてくるとか、その他ヒントが与えられる現象は起こらなかった。いくらなんでもそこまで簡単なら「挑戦」にならないということなのだろう。
二階で起こった「行ってらっしゃい」の声は、ドアを抜ける際に背中から聞こえた以上、厳密にはループ空間の中で起こったヒントだと言える。その「出題エリア」とも呼べる空間から完全に外れた場所で起こるヒントはきっと存在しないのだ。そう考えて、階段を下りることは途中でやめて、俺は水槽のある部屋に戻ってくる。
……何度見ても水槽の中の魚たちは、目にも止まらぬ速さで泳ぎ続けている。普通に考えればそこには何か必ず意味があるのだろう。しかし泳ぎの速すぎるイルカやシャチの存在が、何かなぞなぞ的な問いを表す物となるのだろうか? 残念ながら俺には、その線ではまったく閃く物がなかった。
「…………」
ヒントは必ずここにある。そう信じて、視界を横切っていく魚の激流を、イルカかシャチか判別出来る程度には注視し続けてみる。
水槽を睨みつけ「イルカ、イルカ、イルカ、シャチ、イルカ、シャチ、シャチ……」と、何かのミニゲームに勤しむかのように魚を区別しながら、俺は、もしかすると「泳ぎが速いこと」自体は問いに関わっていないのかもしれない……と考え始めるようになった。
泳ぎが速いことに意味がある説と、泳ぎが速いことが「問い」になっている説は、必ずしもイコールではない。そう例えばリンゴとマンゴーの木だって、実がついていないことに意味はあったが、それ自体が答えになっていたわけじゃない。実がついていてもいなくても、あれはおかえリンゴの木とただいマンゴーの木だった……。
……ならば魚たちの常識離れした速さは、ひょっとして何かを隠すための物なのか? 答えに直接繋がる何かを隠すために、イルカとシャチは目にも止まらぬ速さで、
「……あっ!?」
俺はその時、疑いを持って物を見るということの重要性を改めて思い知った。目の前に見つけたのだ、ずっとそこにあった、重大なヒントを。
よく見ると、イルカは全て「右から左へ」しか泳いでいなかった。シャチは全て「左から右へ」しか泳いでいなかった。言い換えれば……イルカもシャチも、俺の目からは左右どちらか、片側だけしか体が見えていない。
「まさか、じゃあ答えは……」
俺はイルカとシャチの「見えない反対側」がどうなっているかを確認することが出来ない。水槽の端はループ空間的に存在せず、回り込んで見ることなど到底不可能だから。さらに試しにダメ元で、水槽に向かって銃撃をぶちかましてみたけれど、放たれた銃弾は案の定着弾さえしてくれない。そしてここのイルカとシャチが体をひるがえす瞬間は、おそらくどれだけ待ったところで訪れないのだろう。あるいはあまりの速さに、俺がそれを見逃し続けているだけなのだろうか? ……どちらでも同じことだ。事実として俺は、右を向いたイルカと、左を向いたシャチの存在を、三階で一度も観測していない。
そしてこの状況が、何かの問いになっているのだとすれば、それはきっと一つしかない。俺が浮かべるべき疑問は、「そもそも水槽にいる魚は二種類なのか?」だったのだ。
「この空間の問いは「イルカは
きっとイルカの見えない片側は、シャチの模様になっていて、シャチの見えない片側は、イルカの模様になっている。俺は今までの人生、イルカとシャチを真剣に見比べようとしたことなどなかったけれど、そもそもこの場にいる魚は動き回る速度が速すぎて、もはやそんな、細かな輪郭の類を観測すること自体不可能であった。けれどだからこそ、「水槽の中には二種類の魚がいる」という確証は、少なくとも魚たちの見えない片側が観測出来るようになるまで、ここに存在しないのである。
だからイルカの片側がシャチ模様になっているのか、シャチの片側がイルカ模様になっているのか、どちらなのかは知らないけれど。どちらにせよそんな特殊な特徴を持つ魚類は、我々が知るところの「イルカ」ではない。ここにイルカはいない。
「あっ」
突然、一時停止ボタンを押されたかのように、全ての魚たちがピタリと動きを止めた。すると今まで残光のようにブレていた輪郭がはっきりと見えるようになる。
見ると、全ての魚の背びれが、先端で渦を巻いていた。山菜にあるゼンマイのように、先が明らかにぐるりと巻かれているのだ。当然そんな魚は見たことがない。水槽の中にいるのは、実際のところイルカでもシャチでもなかったのだ。水槽の中にいたのは、それらによく似た模様と形の、別の何かだった。
まるで俺がそのことを理解するまで待っていたかのように、背びれの渦巻きを観測した次の瞬間には、魚たちはパッと一瞬で消え去ってしまっていた。魚たちを映し出していた機械の電源が落とされたかのように、あるいは魚など元々そこにいなかったかのように、未知の魚類たちは突然、忽然とその姿を消したのである。
その次はザーと音を立てて、みるみるうちに水槽から水が抜かれていく。排水溝の類はどこにも見当たらないが、確実にどこかへと流れ出していく水は瞬く間にその量を減らし、やがて水槽の中は空っぽとなる。……最終的には水槽のガラスまでもが床に溶けるように吸い込まれて、このだだっ広い部屋の中には、何一つ置かれている物が無くなった。
しかし驚いたことに、気付くと俺の目の前には壁があった。水槽があった時には、その向こう側に壁があることなど微塵も感じさせなかったはずなのに、全てが消え失せてみれば、自分の正面にある物は間違いなく壁。ただ真っ白い壁だけがある。
そしてその壁には、誘い込むような縦長長方形の穴が開いており、覗き込んでみると、その中には一直線に上っていく階段があった。相変わらず慎ましすぎる照明が、その階段の両脇に飾り付けられている。
俺はその階段を上って行った。
ー 鬼さんこちら ー
ー メタモルフォーゼ ー
……塔三階、イルカとシャチの見えない片側にそれぞれ刻まれた文字より。