それは、魔法薬学の授業のことだった。
薬を煮る音が、静かに響き渡る。
無駄な雑談は、聞こえてこない。誰もが黙々と、自分の鍋に向き合っている。
「よし、出来た」
私は、出来上がった魔法薬――「膨れ薬」を小瓶に詰める。
そっと周りを見渡してみれば、私が1番に完成したらしい。小瓶を提出すれば、スネイプは小さく笑みを浮かべ
「よく出来たな、ゴーント。
スリザリンに20点」
と、得点をくれた。
私は軽く頭を下げると、席に戻った。
入れ代わりに、ハーマイオニーが小瓶を提出しに行く。彼女から受け取った小瓶を一瞥し、ふんっと鼻を鳴らす。そして、スネイプは
「片づけをしたまえ」
とだけ言った。
スネイプは、寮の差別が激しい。ハーマイオニーがグリフィンドール生ではなく、スリザリン生――いや、レイブンクロー生辺りだったら、点数がもらえたかもしれない。
露骨な差別は、いかなるものなのか……
「あれ?」
その時だ。
片づけを始めた視界の端に、奇妙な光景が移った。
ハリーとロン・ウィーズリーが、何やらコソコソと話している。ハリーの手の中には、何か細長いものが握られていた。目を細めてみてみれば、それは「暴れ花火」だった。普通の花火より威力の高い魔法族の花火だと聞いたことがある。
なぜ、花火を――しかも、授業中に持っているのだろう?
考えを巡らせたその時だった。
ハリーは、花火をクラッブの鍋に放り込んだのだ。
クラッブは難しい顔をしながら、薬草を刻んでいる。鍋の異変に気がついていない。
「……まさか」
嫌な予感的中。
燃え盛る鍋に、勢いよく火花を飛び散らせる花火が投入され――そして、巨大な音が教室を震わせた。鍋は爆発し、煎じていた「膨れ薬」が空を舞う。
私は、慌てて杖を引き抜いた。
「『プロテゴ‐守れ』!」
杖の先から、防御の盾が展開される。
まさに、間一髪だった。降り注がれる薬品の雨から、我が身を護る。
魔力を込めればクラス全体に展開する傘の代わりになったのかもしれないが―――生憎、そこまでの余裕は無かった。
貫くような悲鳴が、クラス中に湧き上がる。前の席に座っていたマルフォイやパーキンソンは、顔いっぱいに薬を浴びて、整った鼻が風船のように膨れている。鍋が急に爆発したクラッブは最も悲惨な有様だ。大皿の様に大きく腫れぼったい目を、両手で覆いながら右往左往していた。
「静まれ!静まらんか!!」
スネイプは、怒鳴り声を上げる。
どうやら原因究明の前に、薬品を浴びた生徒の治療に乗り出すらしい。薬品を浴びた生徒を集め、「膨れ薬」の対称「縮み薬」をかけ始めた。授業どころの話ではない。右も左も大混乱だった。
「一体、どうして爆発しちゃったんだろう?セレネはどう思う?」
奇跡的に難を逃れたダフネ・グリーングラスは、不思議そうに首をかしげていた。
私は、その原因を知っていたが―――話す気にはなれなかった。
「問題は、どうして?ではありませんよ。何故、爆発させたのか?です」
「何故?」
困惑した様な表情を浮かべる彼女を尻目に、私は片付けの支度を再開する。
そして、逃げるように教室を去った3人組の後を追った。3人組は、辺りを確認しながら万年故障中の女子トイレに転がり込む。
「なるほど――人の寄り付かない場所は、こそこそ何か企むに丁度良いってことですね」
人が寄り付かない場所だからだろう。
私の呟きは、意外と響き渡ってしまった。トイレの中に入った3人組は、跳び上がる様に振り返る。1人の手には、毒ツルヘビの皮が握られていた。上級魔法薬でも滅多に使わないと噂される材料で、彼らは何を調合しようとしたのだろう。
3人のうちの1人……ハーマイオニーが、勇気を振り絞るように前に出た。
「セレネ。どうしたの、こんなトイレに?」
「どうしては、こちらの台詞です」
私もトイレに入り込むと、薬が煮え立つ鍋を一睨みする。
「材料を取るために、鍋に花火を入れて授業崩壊させるなんて――らしくありませんよ、ハーマイオニー・グレンジャー」
後ろに控えていたハリー・ポッターとロン・ウィーズリーの顔まで、青ざめていく。
3人とも、小刻みに震えている。
――ただ鍋を爆発させた現場を見られていたからでは、ここまで驚かない。つまり、彼らが隠れて調合中の薬品は、ホグワーツの校則に違反しているか校則どころか法律に違反しているもののどちらかである。
優等生、セレネ・ゴーントとしては咎めなければならない。
「その材料――毒ツルヘビの皮ですよね?
大切な授業を台無しにしてまで、何を調合しようとしていたのですか?」
「セレネ、分かってくれ。これには、訳があるんだ」
ハリーが、前に出てくる。まるで、煮え立つ鍋をかばうように。
挑戦するかのように、私に対峙している。顔に浮かんでいた怯えの色は薄まり、代わりに挑戦的な色が浮かんでいた。
「訳?」
「今は言えないんだ。でも、ここは見逃して欲しいんだよ」
「……」
優等生のセレネであれば、ここは見逃さずに先生に報告する。
しかし―――ハリーやハーマイオニーたちが規則を破ってする行動も気になる。しかも、この魔法薬。どこからどう見ても2年生程度の教科書に記されている魔法薬とは思えない。おそらくは、下級生閲覧禁止の棚にある類の本だ。
「セレネ、お願いだ」
「作っている薬は、合法的なモノですか?」
「それは――」
ハリーの勢い良かった言葉が萎んでいく。
私は、湯気を上げる鍋を再び確認した。鍋から上がる湯気の具合、独特な臭い、毒ツルヘビの皮、そして非合法的な薬と言えば、導き出される答えは、やはり1つしかない。
「『ポリジュース薬』は、『最も強力な薬』という本に記載されているはずです」
「なんで、そこまで分かるんだよ!?」
ロン・ウィーズリーが絶句する。
どうやら「当たり」だったらしい。
ポリジュース薬は、自分以外の誰かに変身出来る効能を秘めているらしい。スネイプが、数か月前に授業で話していた内容だ。しかし、その薬の効能は今の私には関係ない。
問題なのは、それが書かれた本が、禁書の棚にあるという一点のみだ。
「禁書の棚の本を、どうやって持ち出したのですか?
私の記憶では――下級生が「禁書」の棚の本を借りるためには、先生のサイン入り許可書が必要だったと思いますが」
3人は顔を見合わせて、何かを言い淀んでいる。
ここが、正念場だ。私は、セレネ・ゴーントの優等生らしい笑顔を作り上げる。気を許しても良さそうな、柔らかい笑顔を3人に向けた。
「私は、貴方たちを見逃します。しかし――禁書の棚から本を借りるためには、並大抵ではない苦労が必要です。いったい、どのような方法を取ったのか――少し気になりまして」
3人の顔から、緊張が解けた。
なんだ、その程度のことを話せば見逃してもらえるのか、と思ったらしい。
ハリーは、どこととなく緩んだ表情で教えてくれた。
「ロックハートにサインを貰ったんだ。何を借りるかも見ないで、サインを書いてくれたよ」
「なるほど」
……悔しい。それは盲点だった。
眼から鱗が落ちるとは、まさにこのことだろう。
目立ちたがり屋なギルデロイ・ロックハートは、とにかくサインをしたがる。その悪癖を利用した良い作戦だ。何故、思いつかなかったのか―――少し悔やまれる。
「分かりました。このことを、私は誰にも話しません。
無事に調合できるといいですね。それでは――」
3人に背を向けて、私は歩き出した。
視界の端に映ったハリーが、何か言おうとしていたが―――私には関係ない。大切な情報は、しっかりと手に入れた。
「おい、ゴーント。どこをほっつき歩いていたんだ」
階段を降りれば、ノットが廊下の端から駆けてきた。
ハロウィーンの時に協力関係を結んで以来、こうして2人で行動する回数が増えた。もっとも、私もノットも互いに用事がなければ話しかけることはない。
ノットが話しかけてきたということは、興味深い証拠をつかんだか、その証拠が空振りに終わったか。そのどちらかだった。
「少しトイレに用に行っていました。
それで――どうしたのです?」
「……父上の伝手を使って手に入れたメローピー・ゴーントの消息だ」
束になった羊皮紙を、乱暴に手渡してくる。
メローピー・ゴーントは、私の祖母かもしれない人物だ。私は、歩きながら目を通した。
「マグルと駆け落ちして、1年足らずで捨てられる。
スリザリンに伝わる家宝を売り払うまで困窮した生活の末、マグルの孤児院の前で死去。寂しい死に方ですね。――彼女に子供は?」
「いた。トム・リドルと言うらしい。こっちは、今調査中だ」
「トム・リドル」
ありふれた名前だ。
少なくとも、マールヴォロやモーフィン、メローピーよりも庶民的な名前に驚いてしまう。
駆け落ちしたマグルの名前だろうか、それとも、メローピーが庶民に憧れを抱いていたのだろうか。
「なんだか、機嫌が良さそうだな」
「そうですか?気のせいでしょう」
私は、どことなく弾む気分で「闇の魔術に対する防衛術」の教室へ向かった。
メローピーの出産記録により、スリザリンの末裔かもしれないという疑惑は高まってしまったが、それよりも「禁書」の棚に近づく方法が手に入ったことの方が嬉しかった。
ロックハートが自著を音読するという―――普段通り退屈な授業だったが、出来る限り熱心に講義に耳を傾ける。
「あの――ロックハート先生、よろしいでしょうか?」
そして、授業が終わった後、ゆっくりと先生に歩み寄った。
出来る限り平静な声を務めて、やや控えめに許可書を差し出した。
「図書館から借りたい本があります。
『狼男と大いなる山歩き』に出てくる、『石になった僧侶』を理解するのに役に立つと思うのですが――生憎と、禁書の棚にありまして、誰か先生のサインが必要なんです。
このようなことを頼めるのは、ロックハート先生しかいません。どうか、お願いします」
「『狼男と大いなる山歩き』ね!」
ロックハートは許可書を受け取り、私に白い歯を見せた。
「あれは実に大変な経験だったよ。――面白かったかい?」
「はい。とても楽しんで読みました。非常に興味深かったです」
「そうかい、そうかい」
上機嫌のロックハートは、孔雀の羽ペンで、許可書に似合わぬ派手なサインを書き上げる。ハリーの言う通り、ロックハートは私が何を借りるのか――全く確認しなかった。
「ありがとうございます、先生」
許可証を鞄の中に滑り込ませ、ロックハートに背を向ける。
最後の手段として、マクゴナガル先生に頼もうかと思っていたが――こちらを選んで正解だ。
正直、「石になった僧侶」など興味の欠片もない。
私が欲しいのは、賢者の石の情報だけ。
いまだ1割すら完成形を思い浮かべることが出来ない上に、図書館の錬金術関連の本は読みつくしてしまった。こうなったら、もう残された手がかりは禁書の棚だけだった。
ダンブルドアと約束した以上、ニコラス・フラメルには直接謁見できる。
それならば、今はもう1人の錬金術師――パラケルススについて調べることが先決だ。
「なに、学年の最優秀生徒を応援することに、誰も文句を言わないでしょう。
それよりも――ミス・ゴーントは『決闘クラブ』に、もちろん出席しますよね?」
ロックハートの気取った声が、背中にかかる。
正直、振り切って図書館に駈け出したいところだったが―――サインを書いてもらった以上、無碍にはできない。私は仕方なく、優等生らしい表情を浮かべて振り返った。
「決闘クラブ、ですか?」
「えぇ、実はダンブルドア校長先生から、私が決闘クラブを始めるお許しをいただきましてね。私自身が、数えきれない程の経験をしてきたように、自らを守る必要が生じた万一の場合に備えて、皆さんをしっかり鍛え上げる場を設けようと思いまして」
……。
正直、興味を無くしてしまった。
せっかくの機会だという事と、優等生であることをアピールするために参加しようと心に決めていたのだが、この男主催ということで行く気が失せてしまった。
教えるのがロックハートだということで、果たして本当に決闘を学べるのだろうかと不安だった。しかし、セレネ・ゴーントは優等生だ。ここで断ることの方が不自然である。
「はい、もちろんです、先生」
―――渋々、頷くしかなかった。
しかし、目的は達成出来た。それだけで、良しとしよう。
私は、ロックハートの研究室に背を向けると、そのまま図書館へ向かおうとした。
許可書の入った鞄を、大切に握りしめて。
※3月29日:誤字訂正