世界が、気持ち悪い。
気分転換に散歩に出かけてみたが、頭痛はひどくなる一方だった。私は痛くなる頭を押さえ、公園のベンチに腰を掛ける。
空を見上げる。
空だけは自分の知る青空で、眺めているとホッとした。
目が覚めるような青い空を雲が悠々と流れ、視界から消えていく。あの世界には不気味な「死の線」は映っていない。
空を見ているうちに、頭痛と吐き気が少しずつ波をひいていくのを感じる。
「なんとか慣れてきたけど、それでもキツイ」
退院して1か月。
視界に浮かぶ『死の線』は、相変わらず消えない。
気を抜かないようにすることで、なんとか視えなくなる。だけど、ふと気を緩めた瞬間、たとえばTVをボンヤリと眺めている時や目が覚めた瞬間などに、いきなり飛び込んでくる。
完全に不意打ちの一撃は、たまったものではない。
だから、疲れはたまっていく一方だ。
「勉強もしないといけないし、はぁ……」
私は嘆息した。
眠っていた2年分の溝は、予想以上に大きかった。
学校に復学したが勉強についていけず、補習や特別的な支援を受け、家ではクイールに手伝ってもらいながら勉強をする日々を送っていた。それでも、2年の溝を埋めることは難しい。
勉強漬けで疲れ果てれば、また気が抜けて、線が視界一面に広がってしまう。
しかし、セレネ・ゴーントが――記憶で見る限り、優等生だった彼女が、疲労困憊で落ちこぼれる姿なんて、露見させてはいけないのだ。そう思い、私は記憶にあった『セレネ・ゴーント』らしく頑張れば頑張るほど、頭が加熱されたように痛む。
そう―――今みたいに。
私は歯を食いしばって、身体を丸めた。
空を見ているのも辛くなり、瞼を閉じて、ただただ疲れが取れるのを待つ。
「――っ」
遠くから、子どもが遊ぶ声が聞こえてくる。
幸せ絶好調と言った声は、私の心を逆なでする。みんなこの線が視えないから、普通に笑っていられる。だけど、私は……一生、この眼から離れられない。潰してもどうにもならない以上、永遠に恐ろしいまでに継ぎ接ぎだらけの世界に生きていかなければならないのだ。
そのことを考えるだけで、再び吐き気が込み上げてくる。脳の痛みは頂点を越し、額からは汗が絶え間なく流れ落ち始めた。
「ねぇ」
そんな時だった。
ふと、可憐な声が降ってきた。
誰かが自分を見下している。身体を起こし、注視してみると、そこには女性が立っていた。
赤くて長い髪が特徴的な女性は、どこか遠くに行くのだろうか。大きなトランクを抱えていた。
「あなた、辛いでしょ?」
彼女はまるでこちらの心を見透かしたように、透き通った青い目で覗き込んでくる。
「あなたは……?」
私の顔色は、見知らぬ女性に心配されるほど悪かっただろうか。私が「大丈夫」とやせ我慢の返答をする前に、彼女は私の手をつかんできた。そして、硬くて冷たいなにかを握らされる。
「これ、あげるわ」
冷たいそれは、何の変哲もない眼鏡。
女性はいたずらに成功したときのように微笑むと、私の鼻を軽くつついてきた。
「いいかしら。この眼鏡は線を消すことができるの。そのことだけは覚えておいて。
私、この世界にあまり干渉したらいけないって言われてるから、出会った記憶は消させてもらうけど、眼鏡のことだけは覚えているように調整するから」
赤い髪が美しくたなびかせながら、女性は寂しげに微笑んだ。
彼女の言っていることの意味が分からず、痛む頭を押さえながら質問しようとしたが、その前に彼女は手をすっと私の頭にかぶせてきた。
途端、焼き切れそうだった脳が甘く蕩ける。目を閉じてはいけない、と第六感が叫んでいた。だが、私は唐突に訪れた眠気に耐えられない。意識がブラックアウトする瞬間、女性の口元が動くのが見えた。
「じゃあね、縁があったらまた会いましょう。
でも、次にそんなところに寝転がっていたら、蹴り飛ばしちゃうから」
これが、赤い魔女と私の最初の出会い。
しかし――この出会いを思い出すことはない。
私が魔女と再会するのは、当分先の話――。
「大丈夫?」
肩をゆすられ、ゆっくりと眼を開ける。
額に傷のある少年が、覗き込んできていた。どうやら、頭が痛すぎて意識を失ってしまっていたらしい。
「……はい、問題ありません」
額に手を当てようとし、軽く握った眼鏡の存在に気がつく。
そうだ、眼鏡をかけなくては―――。私は、握っていた眼鏡をかけた。
すると、いままで世界に漂っていた『線』が綺麗に拭い取られていく。ようやく、ホッと息を吹き返せたように思えた。これで、常に気を張り詰めさせる必要がなくなる。それだけで、ずっと気が楽になった。
「あっ、君も眼鏡をかけているんだ」
私は顔を上げて、少年の顔を見た。額に稲妻型の傷がある少年も眼鏡をかけていた。
壊れかけの眼鏡だ。家が貧乏なのだろうか。見れば服もだぶだぶでサイズが合っていない。
「ええ、まぁ」
「あれ? ねぇ、ひょっとして、君―――セレネ?」
「そうですが、貴方は?」
正直、見覚えがない。
私が尋ねると、少年の顔に少し笑顔が広がった。
「僕だよ、ハリー・ポッター!覚えていない?」
「ハリー・ポッター?」
記憶に検索をかける。
しかし、該当する名前が見当たらない。私は申し訳なさそうに首を横に振った。すると、ハリーと名乗る少年は、しょんぼりとうな垂れる。その姿を見て、若干申し訳ないような気持ちになった。
このハリー・ポッターと名乗った男の子は、私の名前を知っている。いったい、彼はどこで知ったのだろうか?
「実は4年くらい前―――セレネのお父さんが、担任の先生だった時期があるんだ。
その時に一緒に遊んだんだよ?覚えていない?」
「4年前?」
今度は、4年前の記憶を入念に検索してみる。
すると、ひょろっとした眼鏡の少年が浮かび上がってきた。
確かに4年前―――クイールの忘れ物を届けに行ったとき、一緒に遊んだ男の子がいた。校舎に寄りかかり、寂しそうにしていた男の子に声をかけたのを覚えている。
だが、一緒に遊んだ時間は極めて短かった。遊び始めた直後、大柄な少年達がハリーをイジメてきたのだ。ハリーと一緒に、その少年達から逃げ、気がつくと――どういうわけか、ハリーは校舎の屋根の上に座っていた。
「屋根に上った子、でしたっけ?」
「そうだよ! 僕だよ!」
不思議な出会いもあるものだ。
まさか、ここで再会するとは思わなかった。
私は、重たい腰を上げる。ハリーは、再び少し寂しそうな顔に変わった。
「えっ、もう行っちゃうの?」
「はい、そろそろ夕飯の支度をしないといけませんから」
「そうなんだ、それなら仕方ないね……また、会おう!」
私は、ハリーと握手をして別れた。
私は東に、ハリーは西に。それぞれの帰路へ向かう。
夕焼けの中に、2つの影が長く伸びている。
この時の私は、まだ自分の運命を知らなかった。
そして、たぶん――ハリー・ポッターも。
※3月1日:誤字訂正
※2018年11月:大幅改定