ぽたり、と天井から滴が落ちる。
秘密の部屋は、いつになく陰気な雰囲気で満ち溢れていた。
リドルに操られたジニー・ウィーズリーと一緒に部屋に来てから、どれだけの時間が経過しただろうか。
時計を見ると、既に3時間が経過しようとしていた。しかし、まだ誰もやって来ない。セレネは、次第に焦り出していた。セレネが寮にいないことを隠すよう、セオドール・ノットらに誤魔化すように命じてはあった。だが、それもそろそろ限界かもしれない。
冷たいナイフの柄を握りしめ、歯を食いしばった。
「来ないね、ハリー・ポッターは」
1人の青年が、ぽつりと呟いた。
ジニー・ウィーズリーの生命力を吸い取り、つい数分前に具現化した青年だった。セレネが手に入れた「切り札」――何かの皮で装丁された古びた本を興味深げに見ている。セレネは石像に腰を掛けたまま、リドルから視線を逸らした。
「来ますよ、彼は」
「果たして、本当に来るかな?」
セレネは立ち上がると、杖をローブの中に終い込んだ。
ハリー・ポッターなら、きっとやって来る。セレネは、焦りながらも、どこか確信を抱いていた。 しかし――いつまで待っても来る気配は無い。こうして、ぼんやりと時間を浪費するよりは、有効利用しよう。そう決めたセレネは、早速リドルに問いかけた。
「来ますよ。それに、来てもらわなければ――貴方も復讐出来ないんでしょう?」
リドルは、どことなく不機嫌な表情を浮かべていた。
彼の名前は、確かにトム・リドルだ。間違いなくメローピー・ゴーントの息子であり、サラザール・スリザリンの末裔だ。しかし、彼にはもう1つの名前がある。
そう――それが――
「未来の――闇の帝王」
彼の名前である「TOM・MARVOLO・RIDDLE(トム・マールヴォロ・リドル)」を並び替えれば、見えてくる文字――それは、「I AM LORD VOLDEMORT(私はヴォルデモート卿だ)」になる。
尤も、このことはセレネ自身の力では辿り着けなかった。
服従の呪文を解いたバジリスクから教えてもらい、なんとか導き出すことが出来た答えである。このことは、ある意味で「嬉しい誤算」だった。
「そうか、君は気づいたんだね。それで――どうするつもりかな?
僕がヴォルデモート卿だと知ってなお、僕に従うのかい?」
「もちろん。私の意志は変わりませんよ。
それよりも、1つ尋ねたいことがあるんです。
昨年度、未来の貴方が『賢者の石』を手に入れようとしていました。賢者の石を使い、自らの肉体を取り戻した後――どうするつもりだったのでしょうか?」
あの塵芥のような姿から、復活するために使うことは目に見えている。しかし、その後――賢者の石をどうするつもりなのか、セレネは気になっていた。
もちろん、過去のリドルが未来のヴォルデモートと同じ考えをするとは限らない。しかし、同一人物である以上、似たような思考回路を持っているはずだ。セレネは、黙ってリドルの反応を待つ。
リドルは、退屈そうに天井を見上げた。
そして――
「そうだね……砕く、かな」
「砕く?」
セレネは、眉間に皺を寄せた。
賢者の石には、永遠の命を約束する力がある。しかも、それは伝説ではない。事実、フラメル夫妻を何百年と生き続けさせている程の絶大な効力を誇っている。
なのになぜ、砕くという勿体無い行為に奔るのだろうか。
「驚いているみたいだね」
リドルは驚くセレネの表情を見ると、面白そうに鼻を鳴らした。
「『賢者の石』は、確かに永遠の命を約束する。それは魅力的だろう。
だけど、石自体は有限だ」
リドルは静かに言う。
その説明だけで十分だった。
賢者の石を使い切ってしまったら、もしくは落として壊したり、盗まれてしまったら――命の水を蓄えている間は死なないが、直に緩やかな死が訪れる。実際に、賢者の石が砕かれた今現在、フラメル夫妻は刻一刻と迫る死の準備をしていると聞く。
あの石の力は素晴らしいが、石自体が永遠ではないのだ。
「まぁ、あの石が無くても関係ないけどね」
「関係ない、ですか?」
それはどうして――とセレネが問う前に、リドルは話題を切り替えた。
まるで、深く探られることを防ぐかのように、まったく別の話題に逸らされてしまう。
「ところでセレネ。
君が手に入れたコレだけど、本当にバジリスクに匹敵する効力があるのかい?」
リドルは、先程から弄んでいた一冊の本を掲げた。
セレネは、何でもないように微笑んでみせる。
「もちろん。
その本を手に入れるのに、苦労したんですよ。知り合いに頼み、『夜の闇横丁』で購入したんです。
恐ろしい魔力が籠っているんですから――『ルルイエ異本』には」
くすり、とセレネは笑ってみせる。
だが、どうにもリドルの腑に落ちないらしい。ぺらぺらとページをめくり、びっしりと書き記された複雑な漢文を眼で追っている。
「君は凄い、恐ろしいと連呼するけどね、僕にはちっとも恐ろしく感じないんだ。
その神話も知らないし」
「クトゥルフ神話ですよ。
旧支配者と呼ばれる神々と眷属の織りなす神話です」
「どこの神話? 中国の神話なのかな?」
「アメリカ大陸です。 もっとも、目撃談や伝説は世界中にありますが。
御存じありませんか? ニャルラトホテプやハスターは有名ですよ」
セレネは、ハッキリと言い放つ。
リドルは、自分の知らない神話の存在に懐疑的だった。だけれども、神話を作り話だと断定しなかった。
魔法界には、神話上の生物だと思われていたケルベロス、ユニコーン、バジリスクやケンタウロスなどが存在する。だから一概に、神話を作り話だと断定できないのだ。
「そこに書かれている呪文を唱えれば、クトゥルフを呼び寄せることが出来ます」
「のこのことポッターが来たら、まず僕がポッターから杖を取り上げ、バジリスクに襲わせる」
「バジリスクが逃げた先で私が待ち構え、至近距離でクトゥルフを召喚するということですよね」
古書を受け取ったセレネは、静かに言葉をつづける。そして、腕時計に視線を走らせた。
どんなに遅くても、ハリー・ポッターが来る頃だ。そろそろ配置についた方が良いだろう。パイプに隠れようとリドルに背を向けたセレネだったが、ふと――思い出したかのように一言、尋ねるのだった。
「そういえば、貴方は何故――不死を望むのですか?」
ダンブルドアは、「不死を求めた者の末路」として亡霊に成り果てたヴォルデモートを例示した。
そして、ついさっき「賢者の石が無くても関係ない」と、別の方法で不死を求めることを示唆していた。
リドルは、セレネの問いに目を細めた。そして、まだ侵入者の気配がないことを確認すると
「そうだね、完璧な存在になるためだよ」
淡々と、何でもないことのように答えた。
だからセレネは、追及する。セレネが聞きたかった答えは、そんな「ありきたり」の解答ではなかったのだ。
「完璧とは、つまりどんな存在ですか?」
「だから、死という欠点を補った存在さ」
リドルは、さも当然と言うように言葉を続ける。
「死は、欠点。なるほど……では、欠点を補った完璧な状態で、貴方は何を望むのです?」
「決まっているだろう。
マグルや穢れた血を排除し、純血の魔法族で世界を統べるため――」
と、ここまで言ったとき、リドルは口を閉ざした。
そして、セレネの魂胆を見透かそうとするように睨みつけてきた。
「何故、そのようなことを聞く?」
「いえ、少し興味を抱いただけですよ。それでは、後はお任せしますね――未来の帝王様」
セレネは、優等生らしい笑みを浮かべパイプの中に去って行った。
そして、秘密の部屋の状態が分かるか分からないかの境界で足を止める。セレネは、外の様子に耳をすませた。
「ジニー! 死んじゃダメだ!目を覚まして!!」
ハリーの声が、響き渡る。
ついに、待ち望んだハリー・ポッターのお出ましだ。
セレネの準備は万全だった。杖を再び取出し、ハリー・ポッターを静かに待ち構える。
「トム・リドル――君は、ヴォルデモートだったのか」
「俗なマグルの父親の名前を、この僕がいつまでも名乗るとでも?
偉大なるサラザール・スリザリンの血を引いた、この僕が。
だから、僕は自分に新しい名前を付けた。いつか――魔法界の誰もが恐怖し平伏す最強の存在になった時、口にするのを恐れる名前を!」
リドルが、自分の真の名前を言い放つ。
これは、ハリーから杖を奪い取ったという合図だ。セレネは、にやっと笑うと杖を自分の左足に突き付けた。
「『ディフェンド-裂けよ』」
躊躇うことなく、自らを傷つける。
左足が、生々しく裂けた。傷口からは、血が溢れだしてくる。
切り傷が生じた鋭い痛みに、セレネは顔をしかめてしまったが、まだ我慢できる程度だった。流れ出す血を指ですくい、頬や腕に塗りつける。
(遠目から視たら、傷だらけの満身創痍に視えるだろうな)
セレネは、左腕も同様の行為を行う。
時間が経過すればするほど、血が流れ出ていく。セレネは、だんだんと身体が冷えてきたような気がしてきた。制服に血や周囲の泥をこすりつけ、ホッと一息ついたとき――
「さぁ、バジリスクよ!
忌々しいハリー・ポッターを殺せ!!」
トム・リドルの叫び声と、誰かが逃げる足音が聞こえてきた。
激しい足音は、パイプの中に入った瞬間、大きく木霊する。だんだんと近づいてくる足音に、セレネは体勢を整えた。
(早く――早く来い、ハリー・ポッター)
徐々に、しかし、確実に足音は近づいてきていた。
セレネは、今か、今かと待ち望む。そして、ついに――
「――えっ、セレネ?」
ようやく――ハリー・ポッターが目の前に転がり込んできた。
汗と泥にまみれ、眼鏡はひび割れている。握りしめるのは、杖ではなく古びた帽子で頼りないことこの上ない有様だが、不思議と絶望していないようだ。
(知り合いの私と会ったから? いや違う、もっと別の何かだ)
セレネは、ハリー・ポッターが絶望していない理由を考えようとした。だけれども、今はそれどころではない。後でじっくり考えるとしよう。そう思い直すと、セレネは苦々しい笑みを浮かべた。
「セレネ!? どうしてここに!?」
「それは、こっちの台詞です」
傷つけた左腕を庇いながら、セレネはハリーに近づいた。
「私は、トム・リドルから自分の所有物を取り返そうと来たんですが――貴方は、一体どうして?」
「僕は、ジニーを助けるためだよ。
そうだ、早くジニーを運び出さないといけないんだ。だけど、僕はバジリスクに追われてるんだ。やっとの思いで振り切れたんだけど、今にも出てくるかもしれない。
それに、聞いて! トム・リドルの正体はヴォルデモートで――」
「落ち着いて、ハリー」
セレネは、興奮状態で話しだすハリーを制する。
「貴方が言わんとしていることは、分かっています。
だから――1つ提案があります」
セレネは、傍らに抱えていた古本を―――ゆっくり捲った。