2018年11月 大幅改定しました。
25話 ニコラス・フラメル
太陽が、裏庭の草木を照りつける。
額から、一筋の汗が流れ落ちた。セレネは作業の手を止め、腕で汗を拭う。そのまま空を仰げば、雲一つない晴天が広がっていた。
自分の瞳の色より薄くて、どこまでも静かな青空だった。眺めているだけで、何故か落ち着く。雑草を抜き終わったあと、この芝生の上で眠ることが出来たら、どれほど心地よいことだろう。
「……まぁ、無理な話だけど」
セレネは、大きくため息を吐く。
まだ、たまっている仕事が山のようにあるのだ。休んでいる暇など、セレネには無かった。腰をかがめ、再び雑草を抜く作業に専念する。裏庭の雑草をすべて抜くなんて、どんなに効率よく抜いたとしても、太陽が沈むまでかかってしまうだろう。
朝、太陽が上る前から抜いているにもかかわらず、荒れ放題だった庭は、たった4分の1しか片付いていない。体力が、汗と一緒に流れていくみたいだ。
セレネは、平均以上の体力はあると自負していた。ただの雑草ならば、造作もなく引き抜けていただろう。しかし、この庭の雑草は強情過ぎた。青々とした立派な茎をもった雑草は、どれもこれも堂々と地面に根差している。本気で抜きにかからなければ、びくともしないのだ。
(本当――何年、放置していたんだよ?)
文句を胸の内に秘めて、セレネは雑草を抜く。
幾ら抜いても、抜いた気がしない。真夏の太陽は、天井を通り過ぎる。汗を拭うことすら煩わしい。もう、セレネの体力が限界に差し掛かった頃――
「セレネちゃん、ごくろうさま」
優しそうな声に、セレネはハッと顔を上げた。
振り返ってみれば、裏庭の3分の2は平らになっている。雑草の束は、小高い丘のように積み上がっていた。その奥に、小さな老婆が佇んでいる。
「本当に、見違えるようだわ。ありがとう、ちょうど昼食が出来たところよ」
老婆は、上品な笑みを浮かべる。
セレネは疲れた表情を引っ込め、優等生らしい笑顔を浮かべた。
「ありがとうございます、フラメル夫人」
待ちに待った夏休み。
セレネ・ゴーントは、フラメル夫妻の家に滞在していた。
ダンブルドアと約束した通り、ニコラス・フラメルに教えを乞うためだ。ニコラス・フラメルが高齢であるということも考慮され、泊まり込みで1ヶ月と言う短い期間だったが、それでも稀代の錬金術師から学ぶことが出来る珍しい機会だ。
セレネはダンブルドアが用意してくれたポートキーという移動装置に乗って、パリに住まうニコラス・フラメルの家を訪れたのである。
しかし――
(もう今日で、3週間たつのに、何にも教えてもらっていない)
シリアルを食べながら、セレネは内心ため息をついた。
この3週間で行ったことといえば、掃除・洗濯・朝夕食の支度・買い出し・家のペンキの塗り替え・屋根の修理など、全て身の回りの家事手伝いばかりだった。肝心な錬金術について何も教えてもらっていない。炎天下の下での肉体労働ばかりなので、すっかり日に焼けてしまった。
(もしかして――私、お手伝いさんか何かと間違えられてる?)
この3週間、何度も考えた不吉な推測が浮かんでくる。
今までは、ずっと「何か理由があるはずだ」と自分に言い聞かせていたが、さすがのセレネも限界だった。あと、残された時間は1週間しかない。それが終われば、クイールの待つ家に戻らなければならないのだ。
家に帰ることは、嫌ではない。しかし、何も得ることが出来ずに終わるのだけは避けたかった。
「あの――私、いつ錬金術について教えて貰えるんでしょうか?」
その日の夕食時、とうとうセレネは口火を切った。
今言わなければ、いつ訴えればいいのだろうか。
セレネの唐突な訴えを受けた老人――大錬金術師ニコラス・フラメルは、最後の一口を静かに飲みこむ。そして、黙ってセレネを見つめた。
「ミス・ゴーント――。君は、今まで何を学んできた?」
「何を、ですか?」
突然の問いに、セレネは言葉に詰まってしまった。
この場合、どういう風に答えたら良いのだろうか。今まで独学で学んできたことを言えばいいのか、それとも――実はこの3週間の間、フラメルが何かを教えてくれていたのだろうか。
セレネが悩んでいると、フラメルは長く息を吐いた。
「いいかな、錬金術は科学だ」
フラメルは、静かに講義を始める。
セレネは何度か瞬きをし、思いついたまま疑問を口にする。
「だけれども、錬金術も魔法ですよね?
私が今まで調べた限りだと、どれもこれも化学的な物質法則を無視した結果を出しています」
時間の合間を縫って図書館に通い、かなり錬金術を勉強したつもりだ。
数種の魔法薬と魔法を組み合わせることで、元素を別の元素に変えてしまう。それこそ、銅に複雑な魔法薬と難しい呪文を重ねることで、金へと変化させてしまうのだ。物質の最小単位である元素を変化させることなど、現代の科学力を以ってしても考えられない。
もっとも、本物の金とは異なる。だから、溶かした瞬間に魔法が解けて元の銅に戻ってしまうらしい。試したことはないが、錬金術で作られているガリオン金貨を熱したら、価値が急降下しクヌート銅貨になってしまうのだろう。マグルの世界よりも金の価値が低いのは、こういった背景から来ていたりする。
「錬金術は、卑金属を他の物質に変身させる。
その時点で、マグルには不可能――つまり、錬金術は魔法に分類されるはずです」
「君は、勘違いしているようだ」
やれやれ、とニコラス・フラメルは首を横に振った。
セレネは、眉間に皺を寄せてしまう。間違ったことは、何一つ言っていないはずだ。一体、何処を勘違いしているのだろうか。
「勘違い、ですか?」
「化学は――そうだな、科学の一側面でしかない」
「それは、分かります」
「だけど、魔法は科学ではないのだよ」
フラメルは、年季を帯びた杖を取り出す。
杖を暖炉に向けて一振りすると、緑色の炎が燃え上がった。先程まで火の気が無かった暖炉は、轟々と薪を燃やしている。
「これが、魔法だ」
フラメルは、小さく呟くとまた杖を一振りする。
暖炉の火は、だんだんとおさまり、小さく、小さくなって最後には消えてしまった。
先程まで火が燃えていたとは思えない暖炉を見て、セレネは
「それは分かりますよ。物理法則を完全に無視しています」
と言い放った。
何の変哲もない杖に魔力を通して振るうだけで、炎が生れるわけがない。
クイールが定期的に送ってきてくれるマグルの教材のお蔭で、これでも一通りのマグルの知識は修めているつもりだ。セレネは、物理的に化学的にそれを行うことが無理だと知っている。でも、そんな不可能を可能にする現象が魔法なのだ。セレネは、そう理解していた。
「そうだな。
この世界は、様々な物理法則で縛られている。
魔法使いは、己の魔力を使うことで物理法則に干渉し、強引に結果を生み出す。
火の無いところに火を、水の無いところに水を、という感じだ」
しかし――、とフラメルは言葉をつづけた。
「錬金術は、少し違う。
魔力を使い、物理法則に干渉するところまでは同じだ。
だが、錬金術師は、魔力を使い一時的に法則を書き換える。
変身術が一番近いな――『石』という自然物に魔力で干渉し、法則を書き換える」
手近な石に杖を乗せて、軽く叩く。
石は、あっという間に小さなネズミへと変わった。そのネズミをフラメルは蛇――セレネのバジリスクに放り投げる。転寝をしていたのだろうか。半分眠そうなバジリスクは、ぱくりと一口で――先程まで石だったネズミを食べてしまった。そして、何事も無かったかのように、とぐろを巻いて眠ってしまう。
「魔法は、強引に干渉して結果を生み出す――
簡単に言えば、『奇跡』を起こす。
しかし、錬金術や変身術は干渉して、そこにある法則や情報を書き換えて、まったく別の物を創り出す」
だから、変身術には論理的な思考速度が必要とされる。
いかに素早く的確な思考を行うことが出来るか、が重要視されてくるのだ。
「魔法と錬金術は、魔力の使い方が違うのだ」
ニコラス・フラメルは、机に両肘をつけた。
軽く指を組み、じっとセレネを見据える。
「この3週間、ずっとテストをしていた。
今まで出してきた雑務を、いかに的確に素早く片づけることが出来るかを」
セレネは、ハッと息をのんだ。
今までの雑務には、意味があったのだ。驚くセレネをよそに、フラメルは話を続ける。
「錬金術は、非常に繊細かつ高度な思考力と、忍耐力がいる。
ワシらのような老人に色々言われても文句を言わず、課題をやり遂げる忍耐力。
そして、その課題を効率的に素早く片づける思考力と行動力を図っていたのだ」
セレネは、唖然とした。
今までの雑務の全てに意味があるのかもしれないと、考えたことはあった。しかし、考えつかなかった。その言葉のお蔭で、少しは今までの苦労が報われる気がした。
そうでなければ、今までのことは全て徒労に終わっていただろう。
忍耐力や思考力を図るためとはいえ、もう少し他の方法は無かったのだろうか、とも考えてしまうが――もっとも、定期的に買い出しで街に行くことで、セレネの得になったこともあった。だから、深く考えないことに決めた。
「……まぁ、ワシらが楽したいという理由もあったがな。
さて、明日から錬金術の勉強を始めよう」
「はい!」
セレネは、元気よく頷いた。
これで、ようやく錬金術が学べると思うと嬉しかった。
いきなり『賢者の石』について学ぶのは無理かもしれない。
だけれども、直接教えを乞うことでヒントが手に入る可能性が高い。
セレネは、この3週間を振り返る。ただの雑務に追われた3週間は、辛いばかりで良い思い出など1つも無かった。しかし――
(もしかしたら、無駄なことなんて無いのかもな)
これまでも、これからも、無駄なことなど1つも無い。
どんな些細なことでも、その積み重ねが何かに繋がるのだ。もし、少しでも手を抜いて作業をしていたら――きっと、錬金術を教えてもらう前に家へ帰されていたかもしれない。
これは、魔法で生み出された奇跡ではない。自分が、我慢してやり遂げた成果だ。
セレネの心は、いつになく晴れやかだった。