ホグワーツ特急に揺られながら、窓の外を眺める。
賢者の石の研究資料を読み解く気力もなく、移りゆく景色をぼんやり眺めていた。
手に入れた研究資料だが、どうやら暗号化されているらしい。一見すると、研究資料ではなく何かの観察日記のようだ。しかし、ニコラス・フラメルは錬金術師だ。錬金術師は、研究資料を暗号化する習慣があると聞く。実際に、よく読めば「酸」を表わす緑色のライオンが描かれていたり、黄金を表わす太陽が大きく描かれていたりするなど、錬金術に関連した暗号が散りばめられている。
ここ数週間、睡眠時間を削って読み解こうとしてみたのだが、なかなかはかどらない。外国語の翻訳に辞書が必要であるように、解読するための資料が手元になさ過ぎた。ホグワーツの図書館を利用しなければ、暗号を読み解けそうにない。
「――はぁ、暇ですね」
セレネは、ぼんやりと目を落とした。
膝の上のバジリスクも、とぐろをまいて心地よく眠りを貪っている。どこまでも静かで、汽車が走る音だけが響いていた。
「私も――寝ますか」
大きな欠伸を噛みしめて、そっと目を閉じようとする。
その時だ。がらり、とノックも無しに扉が開く。突然のことだったので、セレネは反射的に杖を向けた。
「おい、なに臨戦態勢を取ってんだよ?」
そこに立っていたのは、背の高い少年だった。
その後ろには、控えめな少女の姿も見える。セレネは、肩を落とした。ゆっくり杖をしまいながら、
「ノットとダフネですか。失礼しました」
と謝る。ダフネは曖昧に微笑んだが、ノットは気を悪くしたらしい。
「あまり謝ってるように、聞こえないぞ?」
そういうと、前の座席に荒っぽく腰を下ろした。
「……私は、同席する許可を出した記憶はありませんが」
「ごめんね、セレネ。他に空いている席が無くて」
ダフネが隣に座りながら、すまなそうに笑った。
セレネは小さくため息をついた。他に席が無いと言うなら、仕方ない。それに、セレネ・ゴーントは優等生で通っている。ここで追い出したところで、イメージが下がってしまうだけだ。
(まぁ――この2人の前では関係ないかもしれないけど)
スリザリン生の前では、既に一般的な優等生の仮面が外れかかってしまっている。
セレネは、2人を気にせず寝ようと――再び瞼を閉じようとした。しかし、眠ることが出来なかった。眠りに落ちかけた時、ダフネ・グリーングラスが
「せ、セレネ!? どうしたの、その蛇!?」
と、大きな声を挙げたからだ。
爬虫類を好ましく思う女は少ないことくらい、セレネも知っていた。驚かれた時の対処法も既に考えてある。セレネは、バジリスクを撫でながら静かに答えた。
「私の飼い蛇です」
「飼い――蛇?
大丈夫? ミリセントの猫が食べたりしない?」
そう言われて、ようやく――ミリセント・ブルストロードが猫を飼っていたことを思い出す。非常に大人しい猫で、談話室の隅で一日中眠っているような猫だ。バジリスクに襲い掛かるとは思えない。それに、ホグワーツに戻り次第――セレネはバジリスクを元の大きさに戻して、秘密の部屋に放し飼いするつもりだった。セレネは、バジリスクの鱗を撫でながら
「ご安心を。何も問題ありませんから」
と、言い放った。ダフネは、怖々――バジリスクを覗き込む。
バジリスクは面倒くさそうに薄く目を開けた。そして、鬱陶しそうにダフネから頭を背ける。
「へぇ――蛇か――セレネらしいと言えば、セレネらしいのかな?
それで、名前は?」
「名前、ですか?」
ダフネに指摘されて、初めて――今までバジリスクと呼んでいた事実に気がついた。
セレネの様子を見て、気がついたのだろう。ダフネとノットは顔を見合わせると、苦笑いを浮かべた。
「セレネって、意外と抜けてるよね」
「たまたま忘れていただけです。今から付けますよ」
セレネは、バジリスクを見下ろした。
犬を犬と、人間を人間と呼ぶように、バジリスクをバジリスクと呼んでいたのだと思うと、セレネの心の中に嫌な感情が広がっていく。
『今まで気がつかなくて、すみません。バジリスク、貴方に名前はありますか?』
『――そうですね――私も、考えたこともありませんでした』
バジリスクは、考えるそぶりを見せる。
トム・リドルも、バジリスクのことはバジリスクと呼んでいた。きっと、今まで名前を付けてもらったことが無かったのだろう。セレネは、顎に軽く指を当てる。
「そうですね――どのような名前が良いでしょうか?」
「俺達に聞くな」
そう言いながらも、ノットは考え込むように腕を組む。
「そうだな――ペットの名前なんて適当で良いだろ。
それこそ、ジョンとかマックスとか」
「犬みたいだよ、それだと。
そうね――えっと、そういえば、セレネは、フクロウの名前はどうやって付けたの?」
ダフネが、座席の隅を指さした。
そこには、セレネのフクロウ――バーナードが居眠りをしていた。セレネはバーナードを一瞥すると、名付けた当初の記憶を掘り起こす。
「セント・バーナード犬からですね」
「セント・バーナード?」
「山岳救助犬として重宝されている犬種ですよ。
雨の日も、雪の日も、迷うことなく手紙を運ぶフクロウになるように、と」
実際、名前の通り――バーナードはしっかり活躍してくれている。
仕事には何処までも忠実で、例え荒れ狂う嵐の日であったとしても、無事に手紙を届けてくれたこともあった。
「なるほど――うーん、難しいね、蛇の名づけって」
ダフネも、腕を組んで考え込む。
いくつか名前を口にしながら、違う違うと首を横に振り、そしてようやく――ダフネは、ぽんっと手を叩いた。
「私は、お菓子の銘柄とか植物とかをペットの名前を付けているけど――
そうだ! セレネって、錬金術好きでしょ――よく、錬金術の勉強をしているし」
「まぁ、好きではありませんが――勉強はしていますね」
「でしょ? だから、錬金術が好きなセレネの蛇ってことで、『アルケミー』はどう?」
「アルケミー?」
「そう、アルケミー!」
ダフネは、名案だと言わんばかりに嬉しそうな顔をしている。ノットも、「まぁ、悪くは無いな」という表情を浮かべていた。
セレネは錬金術に興味があるだけで、特別好きと言うわけではなかった。だけれども、いちいち否定するだけ面倒だ。それに、何より――響きが良い。
『貴方の名前は、アルケミーで良いですか?』
バジリスクは、一瞬息を止めたように固まった。
そして、ゆっくりと頭を持ち上げる。黒々とした丸い目が、セレネを見据えた。
『嬉しいです。アルケミー……良い名前を頂戴いたしました。ありがとうございます、継承者――』
『その代わり、継承者様と呼ぶのは止めてください。
私は確かにスリザリンの継承者ですが、あまり呼ばれて嬉しく無いのです』
『分かりました。それでは、我が主と』
ぺろん、と長い舌を伸ばすと、セレネの顔を軽く舐めた。
そして、再び眠ってしまった。どことなく、その横顔が先程までよりも嬉しそうに見える気がする。セレネは、思わず顔を綻ばせた。
「アルケミーで良いみたいです。
良い名前、ありがとうございます――ダフネ」
「お礼なんて、水臭いよ」
ダフネは笑いながら、百味ビーンズを開けた。
見た目こそ似たようなゼリービーンズだが、百味と言うだけあって食べるまで味が分からない。チョコ味やマーマレード味と言った様な普通の味もあるのだが、中には臓物味や鼻くそ味といった商品化して良いのだろうか、と疑問を覚える味まで入っている。
「セレネも食べる?」
「私は――遠慮しておきます」
下手に食べて、噂の耳くそ味にあたってしまった日には目も当てられない。興味こそあるが、今までセレネは手を出したことが無かった。
「なんだ、ゴーントは怖いのか?」
ノットは、からかうように笑った。そして、適当に1粒口の中に放り込む。しかし、次の瞬間、ノットの顔から色が拭い取られた。何が起こったのか察したセレネは、かぼちゃジュースの瓶をノット目がけて放り投げる。未開封だったジュースを、ノットは一気に飲み干した。その様子を見て、セレネとダフネは顔を見合わせた。
「一応聞いておきます。何味だったんですか、ノット」
「……腐った卵味」
蒼い顔をしたノットは、荒い息を繰り返す。
味を聞いた瞬間、ダフネは嫌そうに百味ビーンズを見下ろした。
「セオドール……酷い味にあたったんだね。
私もあたったことあるよ……腐臭を凝縮したような――ちょっと思い出したくもないかも」
「危険なものに手を出さないことが、1番なのでは?
本当に、魔法界のお菓子は奇妙なものばかりですね」
セレネは、今まで出会った魔法界のお菓子を思い浮かべた。百味ビーンズも需要の意味が分からない菓子の筆頭だったが、セレネは蛙チョコレートも好きにはなれなかった。本物の蛙のように飛び回るチョコレートが、食べにくかっただけではない。蛙チョコレートは、飛び跳ねて床やテーブルに降りる。埃の付着したチョコレートを食べる気には、どうしてもなれなかった。他にも、一度にたくさん食べると舌まで溶けるペロペロ酸飴や、食べると口から煙が出る胡椒キャンディーみたいに変な菓子が多すぎる。
純粋に美味しい菓子は、無いのだろうか。
「それは、偏見だよ!」
ダフネは、珍しく憤慨したような表情を浮かべた。
「セレネは、美味しい魔法界のお菓子を食べたことが無いからそう言うんだよ。
大鍋スポンジケーキは、ほっぺたが落ちそうになるくらい美味しいし、砂糖羽ペンも甘くて蕩けそうになるの。
そうだ!ホグズミードに行ったら、ハニーデュークスの店へ一緒に行かない?
たくさんお菓子を取り扱っている店だって、上級生から聞いたことがあるんだ」
ダフネは、目を輝かせながら言った。
ホグズミードとは、3年生以上が行くことを許されるホグワーツの麓にある村だ。
イギリスだけではなく、世界で唯一のマグルの存在しない村だといわれている。上級生のほとんどが行くことを楽しみにしており、どうやら息抜きの場所になっているらしい。
「もしかして――セレネ、ホグズミードには行かない?」
「行きますよ。魔法使いだけの村には興味がありますし。ちゃんと許可証も貰っています」
セレネは、ホグズミードに興味があった。
魔法史にもたびたび登場する村には、ホグワーツの生徒や教師、学校に用事のある保護者や役人が訪れる。そのためか、辺鄙な場所にある村にもかかわらず、店が揃っているだけではなく、それぞれの品ぞろえもダイアゴン横丁に引けを取らないらしい。
ダフネの言う菓子屋には対して興味が無かったが、セレネは本屋に行って掘り出し物の本を探そうと考えていた。
「早く行きたいですね、ホグズミード」
「行きたいな、ホグズミード」
どこまでも平穏な時間が、過ぎていく。
しかし、その平穏な時間の終焉を現わすかのように――窓の外の天気は刻一刻と悪化していく。昼過ぎの時点では、車窓から見える丘陵風景が霞むほど雨が降り出していたが止むことはなく、学校に到着する2,30分ほど前になると、外は雷雨で墨色に染まってしまっていた。外の様子は、まったく見えない。雨は激しく窓を打ち、風は唸りをあげていた。
「嫌だな……このまま、降りないといけないのかな?」
ダフネが、小さく呟いた。
傘をさしたところで、横から吹き付けてきそうな雨だ。せっかくクリーニングに出した制服をいきなり汚してしまうと思うと、セレネも気が滅入ってしまう。
「ゴーントは、防水魔法を使えないのか?」
ノットが、真っ暗になっている窓の外を見ながら尋ねてきた。
セレネは曖昧な表情を浮かべると、ゆっくり首を横に振った。
「残念ながら、練習中です。
眼鏡程度の面積でしたら問題ありませんが、全身となると――」
やってみないと分からない。
セレネは最後まで言おうとして、ふと口を閉ざした。汽車が、いきなり速度を落とし始めたのだ。時計を確認してみるが、まだ到着するには早すぎる。
セレネ達は、互いに顔を見合わせた。
「どうしたんだろう?」
「故障、でしょうか?」
「故障? ホグワーツ特急が?」
汽車は、ますます速度を落としていく。
そして、ついに止まってしまった。あまりに急に止まったせいだろう。荷物棚からトランクが落ちる大きな音が、聞こえてきた。そして、何も前触れもなく灯りが一斉に消え、辺りが闇に包まれた。セレネは、杖を取り出すと呪文を唱えた。
「『ルーモス-光を』」
ぼぅっと杖先に光が灯る。
不安そうなダフネの顔と、怪訝そうなノットの顔が浮かび上がった。2人も杖を取り出し、呪文を唱えるところだったらしい。3人とも杖灯りを用意すると、慎重にコンパートメントを見渡した。コンパートメントの中には、特に変化が見当たらない。ノットが窓に杖を突きつけて、外を確認しようとする。しかし、外が暗すぎるせいだろう。一寸先までしか見えず、あまり意味が無かった。
『アルケミー……何が起きたのか、分かる?』
セレネは、足に巻き付いてきたバジリスクのアルケミーに問いかける。
『分かりません。ただ――何かが、乗り込んでくることは分かります』
『誰? 人?』
『さぁ――分かりません』
「セレネ、お願いだから――今は蛇語を止めてくれないかな? ちょっと怖い」
ダフネが、そっと身を寄せてくる。ダフネの身体は、小刻みに震えていた。
「分かりました。
ただ、アルケミーが言うには――誰かが乗り込んで来たらしいです」
「乗り込んできた? 誰か乗り遅れた生徒でも――いや、違うな。この距離なら、直接ホグワーツに出向いた方が早い」
ノットが冷静に分析する。
ホグワーツまで、残り30分ほどの距離だ。わざわざ汽車を止めて乗る必要性が無い。それこそ、去年のハリー・ポッターみたいに――方法はどうであれ、直接ホグワーツへ行った方が効率的だ。汽車を止めて、全員に迷惑をかけることはないだろう。
「だいたい、どうして停電になったんだ?」
「ちょっと見てきます」
セレネは、扉にそっと近づいた。
汽車が止まったからだろう。窓を打つ雨風の音が、一段と激しく響いていた。
外を確認する様に、ゆっくり扉を開く。前には何もいない。しかし――
「なに――あれ?」
隣のコンパートメントの前に、何かがいた。
マントですっぽり体を覆った天井まで届きそうなくらい大きな黒い影だった。だが、単に背の高い人というわけではない。その手は灰白色に冷たく光り、触れることを躊躇うようなかさぶたに覆われ、まるで水中で腐敗した死骸のような何かが、隣のコンパートメントを開けようとしている。
途端に、セレネは寒気を感じた。しかも、ただの寒気ではない。息が詰まるみたいに苦しかった。寒気が皮膚を通り越して、身体の内側まで深く潜り込んでいく。胸の中、そして心臓へと――
「エクスペクト・パトローナム―守護霊よ、来たれ!」
膝から力が抜けた瞬間、隣のコンパートメントから銀色の光る何かが飛び出し黒い影を吹き飛ばした。黒い影は、弾き飛ばされるように逃げていく。黒い影がいなくなると、途端に息を吹き返したかのように周囲が温かくなった。汽車に明かりが灯り、再び動き始める。
身体に温かさが戻るのは少し先になりそうだが、押しつぶされそうだと感じるほどの重圧はなくなった。セレネは立ち上がろうとしたが、手足に力が入らない。
「だ、大丈夫――何があったの、セレネ?」
ダフネが、怖々と近づいて来た。
ダフネも、その後ろのノットも、血の気が失せたような表情だった。
「何かいたのか、ゴーント?」
「分かりません――ただ、そこに――黒い影が――」
セレネの声は、聞き取りにくいほど掠れてしまっていた。
震える指で、先程まで黒い影がいた場所を指す。
すると先程――黒い影が入ろうとしていたコンパートメントから、継ぎ接ぎだらけのローブを纏った男性が出てきた。どことなく厳しい表情の男性だったが、セレネに気がついたのだろう。優しそうに微笑むと、セレネ達に近づいてきた。
「君たちは大丈夫かい?」
男性は、セレネに手を貸してくれた。
セレネは、壁に背を預けるように立つ。ダフネが、おずおずと男性を見上げた。
「あの――何かいたんですか?
セレネが扉を開けて外を確かめた瞬間、冷気が入ってきて――セレネが座り込んじゃって、その、えっと――」
「吸魂鬼――通称、ディメンター。 魔法使いの監獄――アズカバンの看守だよ」
男性は、チョコレートを割りながら答えてくれた。
吸魂鬼――セレネは、魔法生物に関する本で読んだ記憶を思い出した。あまりしっかりと読んでなかったが、幸福を食料とする存在と書かれていた気がする。
「吸魂鬼――ですか?
で、でも、アズカバンから出てこないって」
ダフネの震えがひどくなる。
男性は、ダフネを落ち着かせるように軽く肩を叩くと、3人にそれぞれチョコレートを渡した。
「指名手配犯、シリウス・ブラックの捜索だよ。
さぁ、チョコレートを食べなさい。気分が良くなるはずだ。僕はこの後、車掌と話があるから――これで」
男性は、ローブを翻して去って行った。
セレネは何も食べる気がしなかったが、申し訳程度に一口齧る。すると、足の先まで一気に暖かさが広がった気がした。
(魔法界のチョコ?いや――違う。マグルの世界のパッケージだ。
そういえば、雪山で遭難した時はチョコを食べて体を温めるって聞いたことがあるような)
セレネは、チョコレートを食べながら考える。
しばらくの間、誰も何も話さなかった。黙ってチョコレートを食べ続け、汽車に揺られる。汽車から降りて、黴臭い馬車に乗ってようやく――ダフネが口を開いた。
「怖いな――一生幸福な気持ちになれないんじゃないかって思った」
ようやく心の整理が出来てきたのか、ダフネの表情に少しゆとりの色が見えた。
「アズカバンに送られる真似だけは、したくねぇな……」
ノットも、ぼそりと呟いた。
セレネも頷き返す。あのような生き物と24時間を共にするなんて、とてもではないが耐えられなかった。
「でも、不思議だよね――シリウス・ブラックは、どうしてアズカバンから脱走できたんだろう?
あの吸魂鬼と13年間ずっと一緒にいたのに。」
「そこだよな……。別の感情に支配されていたとか、か?」
「えっ? シリウス・ブラックはアズカバンから脱走したんですか?」
セレネは、少し驚いてしまった。
だが、セレネ以上にダフネとノットは驚いたらしい。信じられない者でも見る視線を、セレネに投げかける。
「知らなかったの、セレネ?」
「マグルのニュースで見ましたけど――確か、殺人犯だと聞いていましたが、魔法使いだったんですね」
「ただの魔法使いじゃないよ!
例のあの人の手下で、大量のマグルを殺したんだよ? 本当にもう凶悪殺人犯なんだよ」
ダフネは、いかにシリウス・ブラックが恐ろしいかを説明する。
その間にも、馬車はホグワーツを目指す。壮大な鋳鉄の門を、ゆっくりと走り抜けた。門の両脇に石柱があり、その頂点に羽を生やしたイノシシの像が立っている。何故ここでイノシシの像なのだろうかと疑問に思う前に、セレネの視界に見たくないモノが飛び込んできた。
また、吸魂鬼がいたのだ。
イノシシの像の上の方に2体、頭巾をかぶったそびえ立つような吸魂鬼が漂っていた。ノットやダフネの顔から、再び血の気が引いていくのが見えた。セレネは、またしても寒気に襲われる。気分を落ち着けるため、座り心地の悪い座席のクッションに深々と寄りかかった。
だが、これだけでは終わらなかった。門の傍を通過する直前、吸魂鬼が2体ともセレネの方を見たのだ。頭巾で顔が分からないが、確実にセレネの方を見た。滑るようにしてセレネの方に急降下してくる。
(これは――何か危ない)
セレネは、咄嗟に杖を引き抜いた。
「プロテゴ―護れ!」
力いっぱい、渾身の魔力を込め防御魔法を放つ。
杖先から噴出された透明の盾が、吸魂鬼の進行を阻もうとした。だが、奴らはそんな盾を気にしない。盾を軽々と払いのけると、一気に距離を詰めてくる。セレネには、もう呪文を唱える気力も、眼鏡を外してナイフを使う気力も残っていなかった。
氷のように冷たい感覚が身体の芯を貫き、目の前が霧のように霞み始める。あの2年間、『』を観測していた時の感覚が一気に押し寄せてきた。それと同時に、頭が今にも割れそうな痛みが襲い掛かってくる。遠くで、誰かの叫び声が聞こえた。それと同時に、遠くから響いてくる恐ろしげな声。
でも、それが誰の声なのか――知っている誰かなのか、それとも違うのか。もう、判別することが出来ない。
視界の端に何やら銀色の生き物が映ったのを最後に、セレネは意識を手放してしまった。
一部訂正:8月3日