白い世界は、赤く染まっていた。
燃え盛る世界に、逃げ道が何処にあるか分かっている。セレネは、後ろに逃げればいい。
ここで引き返して、走りだせばいい。そうすれば、自分は助かることが出来る。
だけど――
「私は――まだ、帰れない」
口元をハンカチで覆う。
そして、精一杯走った。後ろに背を向けたまま、目的地を目指して。
「っく」
煙で目が痛い。
涙が出てくる。
だけれども、セレネは走り続けていた。
セレネ一人なら逃げることが出来る。だけれども、この先にいる大事な人は――火事のことを知らない。逃げないといけない事実を知らずに、そのまま焼け死んでしまう。
悪い予感に突き動かされるように、セレネは赤い空間を駆け抜けた。
「っ――■■!」
汗が出る。
炎を飛び越え、嫌になるほど見慣れた白い扉の前に立った。
白い扉は、まだ無事だった。セレネは突き破る勢いで、扉の中に足を踏み入れた。
どこまでも白い部屋の真ん中には、やはり彼女が横たわっていた。
以前の部屋にいた時と同じ――どことなく憂鬱そうな表情を浮かべて、リコリスを眺めている。彼女は、セレネに気がついていないのか、それとも無視しているのか、リコリスに視線を向けたまま動いていなかった。
「■■、逃げよう! 火がね、そこまで来てるの」
セレネは、必死に呼びかける。
しかし、彼女は全く動こうとしない。セレネは、拳を握りしめて彼女の腕を掴んだ。
「ねぇ、逃げようよ!! ■■! 死んじゃうよ、このままだと」
その瞬間だった。
彼女は、初めて頭を動かした。ゆっくりと動かし、虚ろな視線を向けてくる。
いや、虚ろな視線ではない。
「■――■?」
「死んじゃう?」
彼女は、薄く微笑んだ。
ここではない――もっと遠くのどこかを観る様な狂気を帯びた視線に、セレネは震えあがってしまった。咄嗟に、彼女から手を放そうとするが、逆につかまれてしまう。
「じゃあ、一緒に死にましょう――可愛い御嬢さん」
「――っ!!」
セレネは、声にならない悲鳴を上げる。
腕を離そうとするが、予想以上に強い力でつかまれていた。むしろ、つかむ力は益々強くなっていった。恐怖に比例する様に、身体が熱くなっていく。
熱くて、熱くて、死んでしまいそうだ。
セレネは身をよじりながら、■■に懇願した。
誰よりも大事で、誰よりも大切で、誰よりも―――自分を見て欲しい人に。
「やめてよ――まだ、まだ、死にたくないよ。
一緒に生きようよ――――
ママ!!」
「――っ」
ゆっくりと瞼を開ける。
目覚めたばかりの頭で、ぼんやりと辺りを見渡した。
赤い色は、どこにも見当たらない。
そこは、途方もなく白い部屋だった。清潔そうなベッドが並び、薬品の香りが漂っているだけの白い部屋。落ち着いたカーテンの隙間から、月灯りが差し込んでいる。ここがホグワーツの医務室だと気がつくまで、そう時間はかからなかった。
「夢――?」
どことなく熱い額に、手を当てる。
あれは、間違いなく悪夢だった。ただ、悪夢にしてはハッキリと鮮明に覚えていることが気がかりだが――それでも、悪夢に違いない。
セレネは、そっと胸を撫で下ろした。
脇の机に置いてあった眼鏡をかけ、立ち上がろうとする。身体が、どことなく熱い。あんな夢を見たせいか、セレネは酷く汗をかいていた。いや、それとも熱のせいで――あんな夢を見てしまったのだろうか。
(顔――洗ってすっきりしよう)
セレネは、小さくため息をつく。
いつの間にか着替えていたパジャマは、汗を吸って気持ち悪い。それに、途方もなく手足が怠かった。額も熱くて堪らない。セレネは、立ち上がろうと手に力を込めてみる。しかし、不思議と上手く力が入らなかった。
風邪をひいてしまったのかもしれない。
そういえば、昨夜は酷い雨だった。
セレネは、靄のかかった頭で昨日のことを思い返す。汽車から馬車に移るとき、一応傘をさしたが全く役に立たなかった。タオルで身体を拭いた記憶が無いので、それが原因で風邪をひいてしまったのだろう。その上、あの恐ろしい吸魂鬼がやってきて――
「――っ!」
セレネは口を押さえた。
吸魂鬼に襲われた時、あの激しい悪寒と全ての感情が奪われていく感覚が一基に襲い掛かってくる。まるで『』に再び足を踏み入れる様な感覚は、二度と味わいたくない。あの後の記憶を思い返そうと努力してみるが、どうしてもセレネは思い出すことが出来なかった。
「……気絶、したのかな?
だから、風邪を引いて――あんな夢を見たのかも」
確認するように、セレネは呟いた。
酷いことは続くものだ。
セレネは、無理やり自分を納得させた。
自分はいったいどれほどの時間、気絶していたのか。それだけでも確認しなければならない。セレネは、なんとか立ち上がろうとした時――
「ミス・ゴーント、無理して動いてはいけません」
どこから現れたのか、校医のマダム・ポンフリーが自分を寝かしつける。
再び横の体勢になったセレネは、ぼんやりと天井を見上げながら――
「――今は何時ですか?」
掠れる声で尋ねる。
マダム・ポンフリーは、見たことも無いような大きなチョコレートの塊を小さいハンマーで細かく砕き始めていた。
「ちょうど11時ですよ。
いいですか、貴方は私が良いというまで入院です。さぁ、これを食べたら水と薬を飲んで寝なさい」
「……」
11時。
あれから、5、6時間は経過している。
セレネは、額に腕を置いた。どこまでも、熱かった。
「まったく――吸魂鬼を学校の周りに放つなんて。
シリウス・ブラック対策とはいえ、魔法省は何を考えているんだか」
マダム・ポンフリーは、文句を言いながらチョコレートを砕く。セレネは、その様子を眺めていた。
「他の――馬車に乗っていた人たちは、どうなりましたか?」
「みなさん命に別状はありません。夕食の宴に参加し、今は寮にいますよ――さぁ、食べなさい」
次の質問をする前に、チョコレートの塊を口の中に押し込まれてしまった。
セレネは、咽かえりそうになりながらも何とか食べる。しばらく黙って食べていると、廊下から何人かが歩いてくる音が聞こえてきた。
「いいかね、ポピー」
「ああ、ダンブルドア先生!スネイプ先生も。どうぞ――ただし、目を覚ましたばかりですので、あまり長時間は――」
「ほんの数分じゃよ」
チョコレートの効果か、少しだけ楽になった身体を起こしあげる。
入口からダンブルドアと、寮監であり名付け親のスネイプが入ってくるところだった。
「大丈夫か?」
スネイプは、真っ先に口を開いた。
セレネは、少し驚いてしまう。スネイプの顔が、心配そうに歪んでいる表情を今まで見たことが無かった。余程、彼に心配をかけてしまったのだろう。セレネは頭を下げた。
「大丈夫です。心配しないでください」
「大丈夫ではありません!38度も熱が出ているんですよ? 絶対安静です!」
しかし、マダム・ポンフリーがキッパリと言い放ってしまった。
やはり熱が出ていたのか、とぼんやり思いながら、セレネは3人の顔を眺めた。
「本当に、あの場にルーピン先生が居合わせていなかったら――どうなっていたことか。
キスの執行がされていたかもしれないんですよ?」
「キス?」
「吸魂鬼が刑を執行する手段じゃよ、セレネ」
ダンブルドアが、優しく微笑みかけてきた。
しかし、どうしても――全てを見透かしてしまいそうな青い眼を覗き込むことだけでできなかった。セレネは、少しだけ俯いて目が合わないようにした。
「手段?」
「そう、手段じゃ。吸魂鬼が刑を執行することを『吸魂鬼のキス』と呼ぶのじゃよ。
執行されたが最後、死よりも恐ろしいことになる」
死。
その言葉が、セレネの心に深く突き刺さった。
死より恐ろしい、とは一体何なのだろうか?セレネの頭が、混乱する。だけれども、それと同時に――何故だか理由が分かった気がした。
吸魂鬼は、幸福と言う幸福を全て吸い尽くす。その延長線上で、人間が生活するうえで大切な何かまで吸い取ってしまうのかもしれない。
出会っただけで、人を気絶させ――時によっては死より恐ろしい場所へ誘う。セレネは、何故かクトゥルフ神話を思い浮べてしまった。
「いいか、ゴーント」
スネイプが、話し始めた。
セレネは意識を戻し、少しだけ顔を上げる。
「絶望を味わったことがある者であればあるほど――吸魂鬼に襲われやすい」
「絶望、ですか」
セレネは、頷いた。
『』という存在に触れていた期間を――絶望、という表現では生ぬるい。あの期間を思い出すだけで、吐き気がした。
セレネは、吐き気を抑えるように唇を噛みしめた。
「つまり――私は、これからも吸魂鬼に襲われる可能性が高いという事ですね?」
「そうだな」
スネイプは、どことなく辛そうな顔をしていた。
なんとなく、嫌な予感が胸を横切る。セレネは、胸の上に重たい石が圧し掛かったような気がした。
「今年からシリウス・ブラック対策として、吸魂鬼が学校への入り口という入口を固めている。もちろん、ホグズミード村へ向かう道もだ。だから、吸魂鬼がいる間は――たとえ、許可証があったとしても、ホグズミード村行きを許可することが出来ない」
「これも、君の命のためなのじゃ、分かってくれないかのぅ?」
ホグズミード村へ、行くことが出来ない。
吸魂鬼は、ホグワーツ周囲の至る所を警備している。そばを通過しただけで、セレネは襲われたのだ。ホグワーツから出ようとしたら――再び襲われる運命は目に見えていた。
「対抗策は――吸魂鬼を一時的にでも追い払う呪文は無いのですか?
汽車の中で――男の方が、吸魂鬼を追い払っていました」
対策手段がない生物は、存在するわけがないのだ。
吸魂鬼を制御する術がないのであれば、どうやってアズカバンに看守として制御しているのか分からない。
しん、とその場が静まり返る。
それは、たった数秒だったかもしれない。だけれども、セレネには途方もなく長い時間が過ぎ去ったように思えた。
もし、断られたら独学で探すのみだ――そうセレネが決心した時、ダンブルドアがようやく口を開いた。
「……そうじゃな、今後のためにも習得した方が良いかもしれん」
「しかし、校長――あの呪文は非常に高度な魔法です。
13歳の魔法使いが習得できるとは――」
「セブルス」
スネイプの話を制す。
そして、ダンブルドアは静かに言葉を紡いだ。
「セレネなら、あの魔法を習得できるはずじゃよ。
だが、焦らずとも良い。今はゆっくりお休み――セレネ」
それだけ言うと、ダンブルドアは去って行った。
スネイプは、何か言いたそうな表情を浮かべ、ダンブルドアが去っていった方向を見つめていた。しかし、首を横に振るとセレネに向き直る。
「今夜は、ゆっくり休め。
お前にもしものことがあった時には、クイールに示しがつかない」
スネイプは、静かに囁いた。
セレネの肩を軽く叩き、口元を僅かに緩める。いつもは不機嫌そうなスネイプだが、この時は優しい表情を浮かべていた。
「何か質問はあるか、ゴーント?」
「あ――はい、あります」
一瞬迷ったセレネだったが、結局質問は出来る時にした方が良いに決まっている。セレネは慎重に言葉を選びながら話した。
「先生は、私の名付け親で――私の両親を御存じなのですよね?
ずっと前から気になっていたんです。私の両親は、どのような人だったのでしょうか?」
あんな夢を見たせいかもしれない。
セレネは、両親のことが気になった。両親は生まれて間もなく死んだと聞いているし、断片的な記憶を遡ってみても両親の姿はどこにも無い。先程の夢で、最後に自分が「ママ」と呼んでいた人物が出てきた。もちろん、それは現実にあったことではないと断定できる。
しかし――それでも、セレネは両親が――特に、夢に出てきたマグルの母親のことが気になってしまっていた。もちろん、クイールに聞けば、詳しく教えてくれる可能性が高い。
だけれども、今はスネイプに聞きたかった。
「お前の父親は知らない。母親は――」
一瞬、スネイプの顔に奇妙な色が浮かぶ。だが、その色は直ぐに懐かしむ色に変わってしまった。
「メアリー・スタイン。クイール――お前の義父が好いていた幼馴染の女性だ。
マグルだったが、不思議な雰囲気の女だったな」
「不思議な――雰囲気ですか?」
「あぁ――」
スネイプは静かに目を閉じる。
まるで、何かを考え込むかのように――。
「科学者だったらしい。
寝食を忘れて研究し続けていたと、クイールが嘆いてた。
あぁ、あとよく東洋へ旅行していたな――土産を貰ったこともある」
「土産?」
セレネは、顎に指を当て考え込む。
よく思い返してみれば、家のリビングには東洋系の置物が多い。
あれは、母が買ってきた置物だったのかもしれない。東洋に関わる研究をしていたのだろうか。母親は、どういう研究をしていたのだろうか。疑問がいくつも思い浮かんでくる。
しかし、セレネが問おうとした瞬間、
「今日は、もう遅い。
早く寝て、体調を整えることだ」
スネイプは話を切り上げ、去ってしまった。
まるで、それ以上――話すことを拒むかのように。
「さぁ、この水を飲んだら早く寝なさい」
マダム・ポンフリーは、コップを手渡してくる。セレネがコップの水を飲み干し、身体を倒したことを確認すると、安心した様に去って行った。
セレネは中々寝付けなかった。寝返りを打ち、ぼんやりと外を眺める。
いつの間にか――また雨が降り始めていた。
雨粒が窓ガラスに当たって弾け、細かい水滴となり流れ落ちていく。ランプの灯りで照らされた室内からは、漆黒の闇に覆われた外の様子は見えない。見えるのはガラスに映し出された、自分の青白い顔だけだった。
8月14日:誤字訂正