スリザリンの継承者―魔眼の担い手―   作:寺町朱穂

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60話 ガマガエルと深夜の密会

 

 初の集会から一夜明け、セレネはミリセントやダフネと一緒に朝食をとっていた。

 彼女たちも集会に参加していたので、自分の出生や思想についても知っている。だが、それに一言も触れることなく、いつも通り接してくれるのが何よりも嬉しく思えた。

 

「うー、この時間割。嫌だな」

 

 ダフネは時間割を眺めながら、大きく肩を落とした。

 

「朝一番から『闇の魔術に対する防衛術』。その後は『魔法薬学』で『変身術』。最後が『数占い』だもの。全然気が抜けないよ……」

「あら、最初はお手並み拝見ってところじゃないの?」

 

 ミリセントがオートミールを食べながら、彼女の時間割を覗き込む。

 

「あの新任教師がどんな授業するか、ちょっと気にならない? ねぇ、セレネもそうでしょ?」

「まあ……ロックハート以下にはならないと思いますけど」

 

 セレネはベーグルを齧りながら苦笑いを浮かべた。

 昨年度の偽ムーディ、一昨年のルーピンが良かっただけに、今年の授業は期待薄だということがなんとなく読めてしまう。まず、ヴォルデモートの復活を認めない魔法省から出向して来たという時点で、どんな授業をするか随分怪しい。

 そのうえ、教科書が「防衛術の理論」である。

 夏休み中に読んでみたが、控えめに言って最低である。この本には防衛術を使用することについて何も書かれていない。防衛術について100ページ以上に渡り説明をしているだけである。

 当然、この本を下地に実践訓練があるに違いない。まさか、この本を読むだけなんて授業はありえないし、成り立つわけがない。ましては、今年は大事なOWL試験がある年なのだから。

 だから、ロックハートの自著を読み解く授業よりかは良いだろう。

 

「なにしろ、今年はOWL試験ですから。その対策をしっかりと教えてくれるといいですよね」

「……でも、セレネは対策しなくても合格できそうだよね。あーもう、頭が痛い。試験なんて嫌だよ」

 

 ダフネはそう言いながら机に伏した。

 

 5年生になると、普通魔法レベル試験、通称「OWL試験」が実施される。7年生のめちゃめちゃ疲れる魔法テスト『NEWT試験』より難易度は低いが、イギリスのマグルにおける義務教育修了試験に該当する。もっとも、義務教育修了試験は16歳になったら受ける試験だ。今年度受けるOWL試験と時期が被っていない。セレネはそれに少しだけ安堵していた。一応、マグルの世界でも生きていけるように、この試験だけは受けようと勉強を重ねてきた。ヴォルデモート対策をする傍ら、この二大試験が同時にやって来たら、さすがの自分でも辛くて根を上げそうだ。

 

 実技は完ぺきにこなせる自信はあるが、筆記は少し苦手である。

 1年生の時から、実技教科は常に学年1位の座を誰にも譲っていないが、筆記試験――たとえば、魔法史や天文学の星座図などは、ハーマイオニーに後れを取っているのだ。それでも、2位の座から陥落したことはないが、悔しいことには変わりがない。

 

「でもさ、アンブリッジって魔法省の高官だった人でしょ?」

 

 ミリセントが声を潜めて言ってきた。

 

「だからさ、OWL試験の試験製作者とも親しかったりして、合格に有利な情報をくれたりするんじゃない?」

「ミリセント、それは不正ですよ。発覚したが最後、どこにも就職できなくなります」

 

 セレネが呆れた声を出すと、ミリセントは少し拗ねたようにぷいっと横を向いた。

 

「分かってるってば。冗談よ、冗談。でも、もしもってこと。だったらいいなーっていう期待願望ってやつ」

 

 それから三人はOWL試験の話をしながら、闇の魔術に対する防衛術の授業に向かう。

 教室に入ると、もうアンブリッジは教壇の奥に座っていた。

 昨夜のふわふわしたピンクのカーディガンを着て、頭のてっぺんに黒いビロードのリボンを結んでいる。昨夜も思ったが、まるで体型も顔もガマガエルだ。可愛すぎるピンクの服をまとった醜悪なガマガエル。

 セレネたちを見ると、彼女はにまっと笑った。にかっとではない。にまっとした口を横に広げるような笑い方である。

 

「さて、みなさん。杖をしまって羽ペンと教科書。それから、羊皮紙を出してくださいね」

 

 アンブリッジはスリザリン生が全員揃い、席に着いたところで話し始めた。 

 まるで、幼児に対するように甘く優しい口調だ。聞いているだけで胸糞が悪くなってくるが――嫌な予感が現実になりそうだ。

 杖をしまっているのに、どうやって防衛術をするのか。

 それとも、今日はガイダンスだけで終わりにするつもりなのだろうか。

 

「いいですか、この学科の授業は先生が毎年変わってバラバラでしたね? しかも、悲しいことに魔法省指導要領に従っていなかったようです。なので、貴方たちの実力はOWLをはるかに下回ってます。

 ですが、ご安心を。これからは慎重に魔法省が構築した理論中心の指導要領通りに学んでいきます。基礎の基礎からしっかりとね。さあ、これを書き写した子から、教科書の5ページ。第一章を読みましょうね」

 

 アンブリッジは嬉しそうに言うと、黒板を叩いた。

 すると、白いチョークで書いたような文字が浮かび上がってくる。

 

『1.防衛術の基礎となる原理を理解すること。

 2.防衛術が合法的に行使される状況を認識すること

 3.防衛術の行使を、実践的な枠組みに当てはめること』

 

 セレネは目が点になった。

 最初の2つは良い。一応は――それも、最低限であるが、この教科書から学ぶことができる。

 しかし、最後の一行。これだけは理解できなかった。

 

 この教科書、防衛術を行使することについて一言も書いていないのに、どうやって実践的な枠組みに当てはめるのだろうか。

 

 そのことについての説明があると思ったが、5分経っても何も言わない。

 ただ、椅子に座り、教科書を眠たそうに読む生徒たちを満足そうに見渡している。

 

 なので、セレネは手を挙げた。

 すると、アンブリッジは少し眉を吊り上がらせる。だが、すぐに元の不気味な笑顔に戻った。

 

「この章について、分からないことがあったの?」

「この章というよりも、授業の目的について質問があります」

 

 アンブリッジとスリザリン生たちの視線が一斉に集まるのを感じながら、セレネははっきりと質問した。

 

「貴方のお名前は?」

「セレネ・ゴーントです、アンブリッジ先生」

「そう、セレネ・ゴーントね。あなたが、セレネ・ゴーント」

 

 アンブリッジはにっこりと微笑みながら何度も頷いた。そして、わざとらしい甘ったるい声で言ってくる。

 

「でもね、ミス・ゴーント。ちゃーんと全部読めば、授業の目的は分かると思いますよ。ほら、読まないと時間がなくなっちゃいますよ」

「1つ目と2つ目は理解できます。

 ですが、問題は3つ目です。この教科書には防衛術を行使することについて、一切書かれていません。

 つまり、今後は教科書を読む座学と実践を繰り返しながら学んでいくということでしょうか?」

 

 瞬間、沈黙が訪れる。セレネはアンブリッジの目を見つめ続けた。彼女の目の奥に面倒くさそうな色が見え隠れしている。

 

「防衛術を行使する? ミス・ゴーント、貴方はこの教室で襲われるとでも思っているのですか? この教室で防衛術を使う場面が来ると? 

 いいですか、ミス・ゴーント。貴方はね、臆病になってしまっているのです」

「はぃ?」

 

 セレネは思わず素で驚いてしまった。

 アンブリッジは5歳児に語り掛けるように、甘く優しく語りかけてくる。

 

「前任者は狂っていましたよね?そして、その前は狼人間。あなたはね、びくびくと怯えているのです。いつ襲われるのではないかという恐怖に。可哀そうに、とっても怖かったでしょうねぇ。でも、安心してくださいね。私が来たからには、防衛術を使うような怖いことは、一切ありませんから」

「……先生、しかし、それでは3つ目の目的が達成できません。それに、試験では実技が――」

「質問には挙手を、ですよ」

 

 アンブリッジの醜悪な笑みを見たとき、もう何を言っても駄目だと悟る。

 今年一年、防衛術の実践を学ぶことはない。

 

 セレネは質問せずに、大人しく教科書を読み耽っているふりをした。

 

 頭の上で、アンブリッジが「理論さえわかってれば、試験で呪文は使えるから大丈夫だ」と言っていたが、嘘八百だ。そんなこと、無理に決まっている。事実、隣に座るダフネなんて、絶望的な顔をしていた。彼女は実技が上手くないのだ。練習なしに臨んだ緊張する試験で初めて魔法を使うなんて、彼女にとって地獄だろう。

 

 だが、それならこの状況を十分に利用させていただくとしよう。 

 

 長く退屈過ぎる授業が終わった時、セレネは荷物をまとめるとアンブリッジに近づいていった。

 

「アンブリッジ先生。先程は……その、やや的外れな質問をしてしまい申し訳ありませんでした」

 

 セレネは申し訳なさそうに肩をすくめる。

 すると、アンブリッジは満足したらしい。彼女は偉そうに胸を張りながら、ぞっとするような甘ったるい声を出した。

 

「構わないのよ。間違いは誰にだってあるのだから」

「すみませんでした。この機会に魔法省が提示する新しい教育課程を知りたいと思います。でも、どうすれば魔法省が発行した新しい学習指導要領が手に入るのか分からなくて……」

 

 最後の方を尻すぼみ気味に言えば、アンブリッジの笑みが更に深くなった。

 

「あら、それなら私の予備を渡しますわ。しっかりと読んで、新しい教育課程に沿った学習を積み重ねてくださいね」

 

 アンブリッジが杖を振ると、奥から分厚い冊子が飛んできた。

 セレネは嬉しそうに微笑むと、指導要領を大切そうに抱え込んだ。

 

「ありがとうございます、アンブリッジ先生!! 私、しっかり勉強します!」

 

 にこやかに微笑むと醜悪なガマガエルに背を向け、教室の出口で待っている二人の元へ走った。

 

「ちょっと! どうしたのよ、セレネ?」

 

 教室を出た瞬間、ミリセントが信じられなそうな声を出してきた。

 

「あんたらしくないわよ、今のアレ! なによ、その本!」

「いいでしょ、ミリセント」

 

 セレネは怪しく微笑んでみせる。そして、通路を曲がり、アンブリッジが絶対に聞こえないところで杖を取り出した。

 

「『レベリオ―現れよ』」

 

 杖で軽く指導要領を叩いた。

 しかし、特に変化は起きない。つまり、特別な魔術――たとえば、持ち主の動きを監視するとか盗聴するとか――はかかっていない、ただの冊子だということが分かった。セレネは、丁重に扱っていた冊子を乱雑に鞄の中へ放り込む。

 

「なんにでも抜け道はありますよね。きっと、この本を隅から隅まで読めば、まともなOWL試験対策ができる突破口があるはずです」

 

 セレネが言うと、ダフネの顔から不安の色がぬぐい取られた。

 

「良かったー。あんな授業を1年間もされたら、それこそ時間の無駄だよ」

「まあ、否定はしないわ」

 

 ミリセントも腕を組みながら頷いた。

 

「正直、あたしも試験が不安になったもの。っていうか、OWLの年にありえないんだけど。それとも、あんな授業でも受かるほど簡単ってこと?」

「ミリセント、それはありえませんよ」

 

 セレネはそう言いながら、ふと――一抹の不安を覚える。

 セレネが自分の名前を言ったとき、アンブリッジの表情が歪んだ。まさかとは思うが、自分も魔法省に敵認定されているのだろうか。たしかに、セレネも三校対抗試合でハリーと一緒に墓地から生還した者だ。ヴォルデモートが復活したなんて、魔法省にとっての法螺話を触れ回ってもおかしくない。

 

 

 その後の魔法薬学の授業では、いつも通りの授業だった。

 

 スネイプがOWL試験で最も優秀な成績を取った者しか、6年生で受講することができないと宣言した後、試験に出る可能性がある薬「安らぎの水薬」を調合することになった。

 先生はあまり説明してくれない。ただ黒板に調合方法が書いてあるだけである。セレネが必要な材料などを薬棚からとり、だいたいの調合が終わった頃のことだ。スネイプはハリーの水薬だけねちねちと叱り、0点の評価を下した。

 

 つまり、いつも通りである。

 

 クラッブなんて水薬がコンクリートの塊に成り果てていたのに、こちらはお咎めなしだった。

 スネイプお得意のハリーいじめだ。セレネは完璧に調合できた水薬を提出すると、ハリーの横を通って外に出ようとする。一人提出できないハリーは悔しそうに拳を握りしめていたが、セレネが近づいてくることに気づくと少しだけ明るい表情になった。

 

「セレネ、あれの話だけど――」

「あとにしてくれませんか。私、次の変身術に行かないといけないので」

 

 セレネは素っ気なく言いながら、ハリーにわざと肩をぶつけた。その隙に、ハリーのポケットへ用紙を滑り込ませる。彼は夏休みにした約束を守り、新たに手に入れた情報を共有しようとしてくれているのだろう。だが、こんな場所で大っぴらに話していたのでは怪しまれる。

 特に、スネイプは元・死喰い人だ。無論、ダンブルドアが雇っているのでヴォルデモートとは縁を切っているのだろうし、なにより自分の名付け親だ。ただ、それを抜きにしても、近くにはまだドラコ・マルフォイたちがいる。あまり油断はできない。

 

 だから、セレネはこっそり時間と場所を指定した。

 

  

 生徒はもちろん、先生にも絶対にバレない場所だ。 

 もっとも、すべてお見通しのダンブルドアは別かもしれないが。

 

 

 魔法薬学同様、次の変身術でも試験対策に向けた授業だった。

 全員が席に着くなり、マクゴナガルは厳めしい顔で口を開いた。

 

「OWLに落ちたくなければ刻苦勉励、学び練習に励むことです。きちんと勉強すれば、このクラス全員がOWL合格点が取れないわけではありません。

 それでは、今日は消失呪文を始めましょう。これは、OWLで出題される呪文の中では、一番難しい魔法の一つです」

 

 マクゴナガルの言う通り、苦戦している生徒が多かった。

 ダフネは完全にカタツムリを消し去ることができず、ミリセントは輪郭がぼやけているとごまかしていた。

 セレネでさえ、カタツムリを完全に消失させるまでに二回もかかってしまった。必要な魔力量の調節と理論の構築が複雑で難しい。

 

「見事です。スリザリンに10点さしあげましょう。

 この消失呪文は明日も行います。消失できなかった皆さんは、夜のうちに練習しておくように」

 

 マクゴナガルのその言葉でお開きになった。

 セレネはミリセントたちに先に数占いへ行って構わないと伝えると、マクゴナガルの前まで進んだ。

 

「先生、一つ質問があります」

 

 先ほどのアンブリッジに向けた偽りの姿ではなく、そこそこ真剣な態度でマクゴナガルに向き合った。

 

「いかがしました、ミス・ゴーント」

「いえ、消失呪文をしたときに気付いたことなのですが、先生が『動物もどき』で猫に変身する際、杖や衣類も消えていることに思い出しまして……あれは、いったいどこへ消えてしまっているのでしょう?」

 

 セレネは、慎重に言葉を選びながら質問する。

 「動物もどき」に関する質問は、リータ・スキーターに聞いても答えてくれるかもしれない。だが、確実なメカニズムを知るためには、教師であるマクゴナガルに聞くのが一番だと考えたのである。

 

「杖や服もすべて変身の理論に組み込まれているのでしょうか? それとも、消失呪文のように消えて、出現呪文で一から元に戻しているのか気になりまして」

 

 マクゴナガルは考えるように、じっとセレネを見つめた。

 

「ゴーント、検知不可能拡大呪文はご存知ですか?」

「はい。空間を拡大する魔法ですよね」

「ええ。有名なところで言うと、ニュート・スキャマンダーのトランクでしょう。外見は旅行トランクですが、検知不可能拡大呪文の効果で内部は魔法生物の研究施設になっていると聞きます。

 動物もどきの変身は、それと少し似ています」

 

 そう言いながら、マクゴナガルは目の前で変身してみせた。

 魔法も前触れもなく、マクゴナガルはアメリカンショートヘアー種の猫へと姿を変え、ぴょんと教卓に飛び乗って見せた。セレネが拍手をすると、音もたてずに床へ飛び下り、元の姿へと戻る。

 

「ご覧の通り、いまの変身では装飾品の類は消えていましたね?」

「ええ、身体に溶けていくように消えていきました」

「ですが、これは変身の理論に組み込まれていません。検知不可能拡大呪文のように空間に作用し、一時的に保管しているのです」

 

 だから、マクゴナガルが猫に変身しても、そこに服だけが残されるという事態にはならない。

 

「完全に消失しているわけではないのですね?」

 

 セレネは質問を重ねた。

 

「たとえば、先生がニュート・スキャマンダーのトランクを持って変身しても、トランクの内部にいる魔法生物は生きているということですか?」

「理論上ではそうなりますね」

 

 マクゴナガルはそう言いながら、少し探るような目で見てきた。

 なぜ、セレネがこんな質問をしてきたのか考えているのかもしれない。セレネはマクゴナガルに心から微笑みを返した。

 

「ありがとうございます。マクゴナガル先生はいつも丁寧に解説してくださり、ものすごく嬉しいです。

 今後もご指導、よろしくお願いします」

 

 セレネは彼女に背を向けると、変身術の教室を出ようとした。

 

「お待ちなさい、ゴーント」

 

 しかし、その前にマクゴナガルから呼び止められてしまう。

 セレネはどきっとした。まさか、マクゴナガルが質問の真意に辿りついてしまったのだろうかと不安になる。

 

「どうしましたか、先生?」

「ゴーント、あなたはドローレス・アンブリッジの授業を受けましたか?」

 

 マクゴナガルは普段よりわずかに声を潜めて聞いてきた。

 

「はい。1時間目に」

 

 セレネはそう答えながら、少しだけ安堵する。それと同時に、どうして彼女がそんなことを聞くのか意図が分からず、必死に頭を働かせた。

 

「あなたは、いつも通り受講しましたか?」

「そうですね、1点疑問がありましたが……納得のいく回答が貰えませんでした」

 

 セレネが正直に答えると、マクゴナガルは更に声を潜めて、低く心配そうな人間味のある声を出した。

 

「いいですか。貴方のことですから分かっていると思います。ドローレス・アンブリッジの授業では余計な質問や詮索はせず、大人しく受けるのですよ。下手に策を講じることも避けた方がいいでしょう。さもないと、罰則だけではすみません。貴方の今後の立場が悪くなる恐れがあります」

「……意外です。まさか、先生が心配してくれるとは思いませんでした」

 

 セレネは少しだけ目を見開いた。

 

「当たり前です。あなたは大事な教え子ですから」

 

 たとえ、セレネがグリフィンドールと敵対するスリザリンの生徒であっても、マクゴナガルにとっては大事な教え子なのだろう。

 

 それでこそ、教師なのだ。

 

 役人上がりのガマガエルとは違う。

 

「ありがとうございます。用心して授業を受けます」

 

 そうして教室を出かかった後、セレネは思い出したように立ち止まり、振り返った。

 

「私、何でも丁寧で真剣に教えてくれるマクゴナガル先生が大好きです。教師のかがみですよね」

「お世辞を言っても何も出ませんよ。ゴーント、早く次の授業へ向かいなさい」

 

 マクゴナガルは素っ気なく言いながらも、嬉しそうに微笑んでいた。セレネも微笑み返すと、ようやく変身術の教室を出る。

 

 その足取りは、防衛術の教室を出たときよりも遥かに軽かった。

 新たな情報を手に入れたときも嬉しいが、疑問を解決できた時の方が嬉しいに決まっている。

 

 だから、ちょっぴり胸が痛んだのは、きっと気のせいなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……と、まあ、私はだいたいそんな感じですね」

 

 セレネは一部の情報を隠しながら、かいつまんで説明した。

 普通のカップに紅茶を注ぎながら、あつあつのカップを目の前の少年に差し出す。

 

「貴方の一週間はどうでしたか、ハリー?」

「ひどい一週間だったよ」

 

 ハリーは左手でカップを手に取った。

 彼は右利きだったはずだと、セレネが右手に視線を奔らせれば「僕は嘘をついてはいけない」と刻まれていた。

 

「その手は?」

「……気にしないで」

 

 ハリーはすぐに右手を隠した。そして、話題を変えるように部屋を見渡す。

 

「それにしても、セレネはよくこんな部屋を知っていたね」

「噂話はガリオン金貨より高しです」

 

 セレネは微かに口角を上げると、紅茶を一口飲んだ。

 

 

 そろそろ日付が変わって土曜日になる頃だろうか。

 こんな時間から茶会など不健康極まりないが、他に時間が取れないのだから仕方あるまい。

 ハリーとセレネの密会は、あまり知られたくなかった。本来なら蛇語を使う者しか入れない場所「秘密の部屋」あたりを待ち合わせ場所に指定すればよかったのかもしれないが、あれはセレネにとっての憩いの場所だ。知られたくないもので溢れている。特に今調合している薬の存在が、ハリーに露見したら目も当てられない。

 まだ、セレネは記憶を操作する魔法が使えなかった。

 

 

 そこで、代替案として、ここ「必要の部屋」が選ばれたのだ。

 

 

 八階の大きな壁かけタペストリーの向かい側にある石壁の前で「いま、必要なこと」を強く願いながら三回行ったり来たりすると、出現する謎の部屋だ。

 

 今回は「自分とハリーにしか見つからず、2人だけの茶会ができる部屋」になっている。

 その結果か分からないが、部屋には古今東西の茶器で溢れていた。ティーポットだけでも数十種類が棚に並び、日本の抹茶を立てる道具まで一式がそろっている。

 ここはここで、居心地がいい空間だ。蓄音機があれば最高だ、と思えば部屋の端に年代物の蓄音機が現れる。セレネはそれを見て「次は絶対にレコードを持って来よう」と心に決めた。

 

 

 なお、この部屋の情報提供者は、学生時代から人のゴシップや学校の秘密を探るのに熱を燃やしていたコガネムシ女なので、ハリーに真実を伝えることができない。

 だから、セレネは少し言葉を濁すことにした。

 

「噂を辿ったら、この部屋に辿りついたというわけです。必要なものに応じて姿を変える、不思議な部屋に」

「……もし、本当にトイレが必要な時は、この部屋がおまるでいっぱいになるってことかな」

「たぶん、そうですね。

 それよりも、貴方の手です。自分で刻んだのでしょうか?」

「まさか!」

 

 ハリーは首を横に振った。そして、少し迷いながら

 

「実は、アンブリッジの罰則なんだ」

 

 と、渋々教えてくれた。

 

「あいつ特製の羽ペンは自分の血を使って文字を書くんだよ」

「それ、思いっきり体罰ですよね」

 

 文字通り、自分の身に沁み込むように書き取りをしていくなんて最低な行いだ。初日からハリーがアンブリッジに向かって怒鳴り、彼が罰則を喰らったという噂は耳にしていたが、まさかここまで酷い罰則を受けていたとは想定外だった。

 セレネが彼に右手を見つめると、まだ血が赤く光っている。

 

「……もしかして、今日も?」

「……実はそうなんだ。今夜も罰則で。でも、今日でおしまいだから」

「マクゴナガル先生には言ったほうがいいのでは? きっと、すぐに対処してくれると思いますよ」

「それは嫌だ」

 

 ハリーは即座に言った。

 

「僕を降参させたなんて、あの女が満足するのはまっぴらだ」

「あー……そういうことですか」

 

 セレネは少し目を閉じる。

 彼はプライドが邪魔をして、教師に頼ることができないのだ。そのプライドをへし折ってマクゴナガルの元へ行かせるのは簡単だが、別に急いでする必要もない。セレネはメモ帳を取り出すと、羽ペンで走り書きをした。

 

「マートラップの触手を裏ごししたエキスには、癒しの力があります。グランブリー・プランク先生に頼めば、きっと深い事情は聴かずに用意してくれるはずです。その傷に効くはずですよ」

 

 セレネはメモ用紙を千切ると、ハリーに手渡した。彼はカップを置くと、左手で受け取った。

 

「ありがとう。少し試してみるよ」

 

 だが、ハリーが試すとは思えなかった。

 彼は意外と意地を張るところがある。最後の最後、我慢の限界が来るまで試さないに違いない。もっとも、その前にハーマイオニーあたりが用意してくれるような気もした。

 

「……それで、セレネに相談があるんだ」

 

 ハリーは誰にも聞かれないというのに声を潜める。

 

「実は、今日の夜、アンブリッジが僕の腕に触った時、傷跡が痛んだんだ」

「それだけ切り刻まれていたら、普通は痛みますよね」

「違うよ。この傷じゃなくて、こっちの傷」

 

 ハリーはそう言いながら、額に刻まれた稲妻型の傷を指さした。

 

「この傷が痛むときは、ヴォルデモートが近くにいるときだったんだ」

「ガマガエルの後頭部にヴォルデモートがいると?」

 

 セレネは冗談っぽく言ったが、目だけは真剣にハリーの額を睨み付けていた。

 

「……すみません。あいつは実体を得ている。憑りつくのは不可能ですよね。ちなみにですけど、他にもヴォルデモートが近くにいないのに痛んだことはありますか?」

「うん。その場合は、ヴォルデモートがその時に強く感じていることに関係しているらしいんだ。先学期、ダンブルドアが言ってた。でも、アンブリッジは邪悪な奴だ。きっと、ヴォルデモートと繋がりがあるんだよ」

「アンブリッジはヴォルデモートと無関係です」

 

 セレネが断言すると、ハリーは少し怒ったような顔になった。

 

「どうして言い切れるんだ? あんなに根性が曲がっているのに!」

「従兄妹が死喰い人の友だちに、教えてもらったので」

 

 あっさりと言えば、ハリーは呆けたように口を開けた。

 

「え?」

「『アンブリッジはサイコパスの手先?』と聞いたら、すぐに『違う』と答えてくれました。

 アンブリッジは、大臣の腹心らしいです。つまり、ホグワーツを、ダンブルドアを潰すために送り込まれた尖兵ですね。

 ……死喰い人たちは魔法省がダンブルドアを潰して欲しいみたいですよ。だから、あいつらは魔法省側にこっそりテコ入れしているとも教えてくれました」

「その友だち、本当に大丈夫なの?」

 

 ハリーが先ほどまでとは打って変わり、心配そうな顔になった。

 セレネは紅茶の香りを楽しみながら、にっこりと微笑み返す。

 

「大丈夫です。死喰い人の方が馬鹿みたいで、どんどん情報を話していたみたいなので」

 

 夏の間中、カロー姉妹は死喰い人の従兄妹からヴォルデモートの素晴らしさや魔法省のアホさ加減、この世界の住み心地を良くするためには老いぼれダンブルドアを殺すこと――など教え込まれていたらしい。そして、こうも言われたそうだ。「セレネ・ゴーントなんて半人間は裏切って、死喰い人の味方に付いた方が得策だ」と。

 

 だが、彼女たちは自分の配下に戻って来た。 

 おかげで、夏の間中に聞いていた情報が一気に手に入り、セレネとしてはかなり満足である。

 

「まあ、彼女たちから貰った情報は、私がロンドンで話したときの予想と大差ありませんでした。ハリー、貴方の話を聞かせてください。貴方は、新しく手に入れた情報がありますか?」

「あー、うん。シリウスから聞いたんだけど、セレネの予想とほとんど同じだったよ。ただ一つだけ、ヴォルデモートはあるモノを探しているみたいなんだ」

「あるモノ?」

 

 それは初耳である。セレネは紅茶カップを置いた。

 

「それは何ですか?」

「そこまでは教えてくれなかったんだ。だけど、極秘にしか手に入らないもので、14年前はなくて、いまはあるモノらしい。その――武器みたいな」

「武器、ですか?」

 

 セレネは腕を組んで考え込む。

 マグル世界の武器は、14年も経てば銃や戦闘機が進化している。だが、魔法族は総じて思考が停滞しがちだ。14年前と比べて、魔法はそこまで進化していない。比較的平和だったので、進化する必要がなかったともいえる。ましては、武器と呼ばれるような攻撃性の物は新たに生まれていなかったはずだ。

 

「……なにかの比喩かもしれませんね」

 

 セレネは呟いた。

 

「ヴォルデモートを滅ぼす決定打。それが武器の正体でしょう」

「つまり、銃みたいな武器ではないってこと? スクリュートみたいに狂暴な魔法生物でもなくて?」

「まあ、そんなところです」

 

 しかし、推理するには情報が足りな過ぎる。

 ぱっと考えつくのは、ハリー・ポッターが武器という説だ。ヴォルデモートを唯一退けた存在は、強力な武器と呼んでも不思議ではない。しかし、これを本人に伝えるには早すぎる。単純に根拠が薄いということもある。それに、彼は今でさえ、アンブリッジに対して敵意を燃やし、反抗心剥き出しだ。ここに、自分がヴォルデモートを倒せる特別な武器であるなんて吹き込もうものなら、セレネの予想を上回る突拍子もない行動に出かねない。

 

 たとえば、最悪の場合、アンブリッジに決闘を挑みに行ったりとか、一人で学校を抜け出し、ヴォルデモートと対決しようとしたりとか。

 

「逆に、ヴォルデモートを無敵にするための武器ということも考えられます」

 

 とにかく武器の件は、グリンデルバルドに聞いてみることにしよう。自分だけでは、答えを導き出すのが難しそうだ。

 

「それから、傷跡の件です。ちなみに、傷跡はどのように痛んだのですか? もちろん、言いたくなければ構いませんが」

「うーん……実は、少しだけ。少しだけだよ、喜んでいたような……」

「喜んでいた?」

 

 セレネが聞き返すと、ハリーは頷いた。

 

「遠くにいるあいつが、嬉しがっている。傷が痛いのに、幸福な感じがするって、ちょっと変な話だけど。

 それに、傷跡が痛んだのは他にもあって、僕がホグワーツに戻る前の晩にもあったんだ。その時は、やつが怒り狂っているのが伝わって来たんだ」

「ホグワーツに戻る前の晩に、怒り狂う?」

 

 セレネは口元に指を持ってきた。

 これは武器以上に情報が足りな過ぎる。単純にヴォルデモートが喜んだり怒ったりしていると考えればいいが、なぜそのような行動に出ているのかが問題なのだ。

 新品のゲームを買ってもらって喜び、3面のボスがクリアできずに怒り狂っているのとは話が違う。

 

「ごめんなさい、今の私には分かりません」 

「別に構わないよ。だって、セレネだけは僕にいろいろと教えてくれたし」

 

 ハリーは少しもごもごと言った。

 

「本当は傷跡のことを含めて、シリウスに相談しようと思っていたんだ。でも、手紙がその――奪われたら困るし」

「賢明な判断ですね」

「セレネが教えてくれたんだよ。手紙が奪われるかもしれないってこと」

「きっと、私が言わなくても、他の誰かが教えてくれましたよ」

 

 セレネはそう言いながら紅茶を飲み干した。

 

「ハリー、それでは今日はこれで失礼しますね。次の茶会は一か月後でいいでしょうか?」

「うん。それでいいよ」

 

 セレネは立ち上がりかけ、ふと――思い出したように、ハリーの顔を見た。

 

「ハリー、アンブリッジに逆らうことは――」

「駄目だって話だろ?」

 

 ハリーの顔に一気に不満の色が広がっていく。彼はうんざりしたように言った。

 

「もう何度も聞かされたよ。アンブリッジに逆らうな、授業は真面目に受けろって。君も言うんだね」

「ちょっと違いますね。

 逆らうことは得策ではありませんが、信念は常に持つべきです」

 

 セレネはグリフィンドール寮の特徴、そして、ハリーの性格を考えながら慎重に言葉を選んだ。

 

「アンブリッジの罰則、授業に反抗したくなる気持ちは分かります。大人しくしていないと、さらに状況が悪化することも分かります。

 ですが、真実を唱え続けることも大切です」

 

 セレネが言うと、ハリーは思いっきり目を見開いた。

 反対されると思っていたのに、肯定されたので驚いたのだろう。

 

「辛い道でしょう。苦しいこともあるでしょう。でも、ハリー……貴方が諦めるところを想像できません。ずっと立ち向かい続けるその姿勢は、きっと誰かの胸を打つ日が来ると思いますよ。 

 もっとも、やり過ぎには気をつけてくださいね」

 

 セレネがそう言ったとき、ハリーの顔には不満の色など残っていなかった。暗い表情は完全に拭い去られ、パンドラが禁断の箱から希望を見つけたときのように輝いている。

 

 だが、ハリーは何も答えない。 

 セレネは一人、「必要の部屋」を出た。

 

『アルケミー』

『はい、ここに』

 

 すぐ近くのトイレから、するすると大蛇が姿を現した。セレネは大蛇に誘導されるまま、パイプの中へ足を踏み入れる。歩くたびに、ぴしゃぴしゃと音がした。

 

「それで、どう感じましたか?」

 

 誰もいない空間に向けて、セレネは蛇語ではなく、いつもの言語で語りかけた。

 

「あれが、ハリー・ポッターです。あなたの思い描いた通りの少年でしたか?」

『ああ、ダンブルドアが好きそうな少年だ』

 

 セレネの問いに対し、ポケットの中から声が響いた。セレネがポケットに手を入れ、小さな鏡を取り出す。その鏡を覗き込むと、映し出されているのは己の顔ではなく、骸骨のように衰えた老人の顔だった。

 

『アルバス・ダンブルドアにはない性質を持っている。ああ、繊細な少年だ。実に操りやすい』

 

 

 老人――グリンデルバルドは、鏡の向こうで笑った。

 

 

 

 

 

 


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