この学校には、体育の授業がない。
代わりに「飛行訓練」がある。
……けれど、それも1年生まで。
体育嫌いの子にはいいのかもしれないが、2年以後は身体を動かす授業がないのだ。 食事は三食好きな物だけ食べることができるので、肥満体型になりやすいのではないか? と思うが、この学校には丸々太った人が少ない。
その理由は、たぶん学校の作りが関係していると思う。
なにしろ、ホグワーツは城だ。あまりにも、広すぎる学校は移動するだけでも骨が折れる。
長くて急な階段をひたすら上り下りをしたり、東の塔の上の方で魔法史の授業があったと思えば、次は西の塔の傍の温室で薬草学の授業というように、とにかく動かなければならない。先日はグリフィンドール生のおかげで、いたるところに移動を短縮するための隠し通路があるということが判明したが、どこがどこに繋がるのか分からない。
……それ以前にまず隠し通路の位置が分からない。
なので、ひたすら短縮せずに歩き回ることになる。これがかなり疲れるのだ。
「それに、授業一つ一つでも結構疲れるんだよな」
私は誰に言うのでもなく、独り言を呟いた。
例えば変身術。
モノを変身させるということは、言葉で表せば簡単だが、実際には物凄く疲れる。
初回の授業の時に、マッチを針に変身させる練習をした。なんとか針に変えることが出来たが、とても疲れてしまい倒れ込みたかった。
物質の素材を理解し、理を作り替えるのだから、それは頭を使うし、神経を集中させなければならない。まさに、針に糸を通すような作業である。
また、ただ理の変換をイメージするだけでなく、そのイメージを実現化させるための魔力を練らなければならないので、疲労は更に積み重なるばかりだ。
とはいえ、嬉しかったこともある。
マッチ棒を針に変身させる事が出来たのは、学年で私とハーマイオニー・グレンジャーだけだったのだ。
いかにも厳格な雰囲気の変身術の教授、マクゴナガル先生が点数をくれ、少し褒めてくれた。
「今日のセレネさん、ちょっと機嫌が良いね」
そんな時、後ろから声をかけられた。
振り返ってみると、三つ編みのスリザリン生が微笑みながら立っていた。
「ダフネ・グリーングラスでしたっけ? 私、普段と変わらないと思うのですが」
「ううん、違うよ。人を寄せ付けるな、という雰囲気が少し和らいでいるように感じたんだ」
「……」
少しだけ心外そうに顔を歪めてしまった。そんなに、私は人を寄せ付けないオーラを出しているだろうか? 確かに、特定の仲が良い人物はいない。誰かと共に動きたい、仲良くしたいとも思わないが、そこまで拒絶する空気は醸し出していない、と思う。
「人を見る目が無いですね、ダフネ・グリーングラス」
とはいえ、この少女と話す気分ではない。
私はグリーングラスを引き離すように、足早に歩いた。
空はどこまでも青々と澄み渡っていて、飛んだら自分も空気と一体化しそうなくらい気持ちの良い日だった。少し風があったが、無風の日より少し風のある日の方が好きだ。芝生の上には20本の箒が並べられている。箒を見ただけで、少し気分が高揚した。
憧れの箒が――いま、私の目の前にある。箒の周囲だけが、光り輝いて見えた。
箒に乗って空を飛ぶ。
まるで、おとぎばなしの魔女みたいだ。
しかも、箒に乗って行うクリケットのようなスポーツがあるなんて。
なんて、素晴らしい……いや、興味深い話なのだろう。
「セレネさん、目が輝いているよ」
追いついてきたグリーングラスが、少しからかうような口調で話しかけてきた。
「箒に興味があるの?」
「グリーングラス、どういう意味ですか? 私、クィディッチになんて、興味の欠片もありません」
「私は、クィディッチなんて一言も言っていないよ?」
「箒といったら、クィディッチだと思っただけです」
「セレネさん、顔、赤くなってるよ」
私は、その発言を無視して箒に歩み寄った。
見た目は、ただの古ぼけた箒だ。魔力も何も感じない。本当に、これで飛べるのだろうか?私を支えられるのか?空の上で、折れたりしないのだろうか?
ちょっぴり、不安になった。
「みなさん、これから『飛行訓練』を始めます」
そんなことを考えていると、すぐに飛行魔法の先生であるフーチ先生が来た。彼女は白髪を短く切り、鷹のような黄色い目をしている。どこまでも箒で、すばやく飛んで行けそうな人だと思った。
「何をボヤボヤしてるんですか」
フーチ先生は、開口一番で怒鳴る。
「皆、箒の側に立って。さぁ、早く!」
完全に体育会系の人だ。
テキパキやらないと、ゲンコツが降ってくるかもしれない。 いや、ここは魔法使いの世界だから、降ってくるのは呪文だろうか。
「右手を箒の上に突き出して。そして、『上がれ!』という」
皆が一斉に『上がれ!』と叫んだ。
すると、古くて小枝が何本かとんでもない方向に飛び出している箒がスゥッと私の手の中におさまった。 だが、飛び上がった箒は少なかった。
私の見える範囲だと、ハーマイオニー・グレンジャーやダフネ・グリーングラスの箒は地面をコロリと転がっただけだったし、ネビル・ロングボトムの箒は1㎝たりとも動かなかった。1度で飛び上がったのは、私を含めほんの数人しかいない。
もし、魔法使いの使う箒に意志というモノがあるのだとすれば、馬の様に乗り手の気持ちが分かるのかも――とか考えてみる。中々飛び上がらないハーマイオニー達の顔は、強張っていて緊張している。馬が乗り手を舐めるように、箒も乗り手を選ぶのだろうか――。
「次に、箒の乗り方を指導します。はい、そこ!違ってる!!」
フーチ先生は1人1人箒の握り方を直していく。
私の握り方も直されてしまった。ただ普通に箒をつかめば良いという問題ではないらしい。
空を飛んでも落ちないように、私は必死になって掴み方を頭に叩き込んだ。
「さあ、私が笛を吹いたら、地面を強くけってください。3つ数えたら吹きますよ。
1,2……」
ところが3つ数え終える前に、おそらく緊張してしまったのだろう。
ネビル・ロングボトムが『遅れたくない』というような顔をして地面を蹴ってしまったのだ。 しかも、思いっきり強く。
「こら、戻ってきなさい!!」
ネビルは先生の声が聞こえているのだと思うが、制御できないのだろう。
シャンパンのコルクの栓が抜けたように勢いよく飛んでいくネビル。真っ青な顔をしたネビルはどんどんと空へと上がっていく。 怖くて悲鳴も上げられないようだ。ネビルは、真っ逆さまに落ちた。そして――
「ひぃぃ!!」
ネビルの悲鳴が、校庭に木霊した。
そして、壁や木々にぶつかりながら、情けなく墜落した。フーチ先生は、誰よりも早く真っ先に駆け寄った。フーチ先生が、ネビルの様子を確認する。ネビルの軽く呻いている様子が、人混みの間から見て取れた。どうやら、息はあるらしい。
「あーあ、手首が折れている」
もちろん、無傷というわけではさすがにいかなかったみたいだ。
しかし――
「手首骨折ですむ?」
あの高さ――軽く6メートル以上あったのに、手首の骨折だけですんでしまうとは。
下手したら、命を落とす危険性のある高さだ。もしかしたら――ネビルは、知らない間に魔法を使ったのかもしれない。いや、フーチ先生の魔法かもしれない。
「全員、ここで待っていなさい。ただし箒には触れない事。もし、箒に指一本でもふれた場合は、クィディッチの『ク』の字を言う前に、この学校から出て行ってもらいます」
フーチ先生は厳しい口調で言い放つと、ネビルを連れて医務室へといった。
それにしても、ネビルは災難続きだ。この間の魔法薬学の時も痛そうだったし、汽車では蛙をなくしていた。誰にでも、不幸の星はあると思うが、あれは異常だろう。
「アイツの顔を見たか?あの大まぬけの」
ネビルを少し憐れんでいると、マルフォイが大声で笑い出した。
マルフォイの失敗を笑うハリー達もハリー達だが、怪我をしたネビルを笑うマルフォイもマルフォイだ。そんなマルフォイだが、手に何か丸いキラキラとした球体を持っていた。
「ごらんよ!ロングボトムの婆さんが送ってきたバカ玉だ」
よく分からないが、ネビルの持ち物が箒から落ちた衝撃で落としてしまったらしい。ガラス製みたいなのによく割れなかったな、とか場違いなことを考えてしまう。
あれだけの高さから落ちたにもかかわらず、命も持ち物は無事だった。そう考えれば、ネビルは『不幸』ではなく『幸運』ということになる。『落ちこぼれだ』と公言していても、実際には『薬草学』という得意科目があるらしいし……
「あっ」
だが、その瞬間、来週『薬草学』の試験があることを思い出した。ネビルの玉の行方がどうなるのか気になるが、今の私はそれどころではない。私はローブの中から教科書を取り出すと、復習を再開することにした。少しでも時間を有効活用しなければ……
「ちょっと、セレネも何か言ってやって!!」
ハーマイオニーが私の肩を叩く。セレネは教科書から顔を上げた。
「どうしたのですか、グレンジャー……何故二人は空にいるのです?」
透き通った青い空に、2人の姿が浮かんでいた。
ハリーとマルフォイが、箒に乗って空を飛んでいる。私は、少し目を見開いてしまった。
「規則やぶりなのに、みんな応援しているのよ!酷いでしょ!?」
「ん、あ、あぁ、そうですね」
まさか口が裂けても言えない。
本当に、箒で空を飛ぶことができる。
その事実に、驚いてしまっていたなんて。
私は、こほんと咳払いをした。
箒に対する憧れを一旦脇に置き、冷静な視線を上に向けた。そして、少し息をのむ。幼い頃から箒に乗りなれているマルフォイと、初めて箒に乗るハリーに技術の差がほとんど見られないのは、確かに驚きだ。
しかし、今は、先生がいないとはいえ授業中。キャーキャーと言う女子たちや、感心する赤毛の子はもう少し自粛するべきだと思うのも事実。私は、静かにため息をついた。
「少し静かにしたらどうでしょう?騒いでいたら他の先生に気づかれますよ。
言いつけを破るのを止めなかった同罪で、叱られるのでは?」
少し咎めるように言うと、本当に一瞬だけ、水を打ったかのようにピタリと声が止まった。
「いや、でもハリーは凄いって。だって初めてなのにあんなに飛べるんだ。マルフォイの奴なんて、飛ぶのが怖くて顔がこわばってるじゃないか」
赤毛の子が笑った。いや、アレは高くて強張ってるのではなくて、ハリーが初心者なのに頭角を現したから、だと思う。赤毛の子に続くように、それぞれの子たちが自分たちの意見を主張し、空の二人を見上げ盛り上がっている。
「取れるものなら取るがいい、ほら!」
マルフォイがそう叫ぶ声が聞こえてきた。その言葉と共に、彼はネビルのガラス球を空中高く放り投げる。透明な玉は稲妻の様に地面に急降下する。ハリーは、箒の使い方を熟知しているかのように、まっすぐガラス球に向かって飛んでいった。地面すれすれのところで球をつかみ、間一髪でハリーは箒を引き揚げ水平に建て直し、草の上に転がるように軟着陸した。
その手に、傷一つないガラス球を握りしめて。
「ハリー・ポッター!」
マクゴナガル先生が駆け寄ってきた。ハリーの表情が誇らしげに輝いていたが、彼女の登場で一気に青ざめる。マクゴナガル先生は授業が入っていなかったのだろう。
それで、私達の声を聴いて駆け付けたところ、さっきの様子を目撃したという感じだと思う。
ハリーは小刻みに震えている。
「まさか……こんなことはホグワーツで一度も」
先生の眼鏡が激しく光っている。
その時、私は小さな疑問が芽生えた。あの光は確かに激しいモノだが、怒りの色ではない気がした。
上手くは言い表せないが、例えるなら勝利への情熱というのだろうか?
それに、注意をするのであれば、ハリーだけではなくマルフォイにもしないとおかしい。
マクゴナガル先生は、うなだれるままのハリーを連れてどこかへ去る。 なんとなく奇妙な予感が胸をよぎった。
「これでポッターは、退学だな」
マルフォイは、取り巻きのスリザリン生と一緒に高笑いをしていた。
「可哀そうだね、ハリー・ポッター。もう退学なんて……セレネさんはどう?」
グリーングラスが箒をつかみながら、静かに問いかけてきた。
私は静かに首を横に振る。
「私には……分かりません」
その後、フーチ先生が帰還し、残った生徒で訓練を再開することになった。
15メートル程までしか飛行を許してもらえなかったが、周りの人と比べて1番優れているかとか、「セレネ」らしく振舞えているとか、そんなことはすっかり頭から消え去った15分間だった。
鳥になった気分とは、まさにこのことだろう。
身体が浮きあがり、髪が膨れ上がる。空を自由に飛ぶのは風と一体になったみたいで快感だが、頼りになるモノは古びて折れそうな箒だけ。地面に足はつかず、きゅんっと腹の奥が縮み上がりそうになる。
理想と現実のギャップとは、まさにこのこと。
自由に飛ぶのはいいが、クィディッチみたいに競技で飛ぶのは御免である。
3月7日:誤字訂正